Semua Bab 壊された手は、誰より自由に羽ばたいた: Bab 1 - Bab 10

20 Bab

第1話

蒼一郎の煙草を持つ手が、ふと止まった。「なんだお前、いつからそんな駆け引きを覚えたんだ?」彼は鼻で笑うと、再び煙草を唇へ運び、目を細めて私を見た。「以前は、俺が他の女に少し目を向けただけで、泣きわめいて大騒ぎしていたよな。今は俺が外で子供を作ったというのに、全部言う通りにするだと?」彼は立ち上がり、私の前まで歩み寄ってきた。煙草の匂いにブルガリアンローズの香水が混じって鼻を突く。鮎美お気に入りの香りだ。3か月前の私なら、この匂いを嗅いだだけで、悔しくて一晩中眠れなかっただろう。だが、今は——嫉妬する気力さえ、もう残っていない。「さっきの言葉で足りなかったなら、もう一度言うわ」私は彼を見つめ返した。「離婚届にはいつでもサインする。あなたが用意してくれたボディーガードも、ありがたく受け取るわ。鮎美さんが安心して出産を迎えられるなら、私に異存はないから」蒼一郎の表情が、さっと険しくなった。彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがて冷たく笑い飛ばした。「……ああ、上等じゃないか」彼は視線を部屋の隅へと流した。「羽藤、こっちへ来い」ふと、3年前のことが脳裏をよぎった。場所は、同じこのオフィスだった。私の手首のギプスが外れたばかりのあの頃、彼は私の手を取り、自分の胸元へ押し当てて、まだ恐怖の色が残る瞳で言った。「歌音、もう二度と危険な目には遭わせない。お前のすべては、この俺が守る」それなのに今、彼は自らの手で、別の男を無理やり私の生活に入り込ませようとしている。羽藤優磨(はとう ゆうま)が静かに歩み出た。蒼一郎は優磨を私のそばへ乱暴に押しやった。私は思わずよろめいた。優磨はとっさに私の腕を支え、すぐに手を離した。「今日からこいつがお前専属のボディーガードだ。24時間、片時もそばを離れさせないし、夜寝る時も、こいつを部屋の前に立たせておく」蒼一郎の視線が、優磨が離した手に落ちた。「お前はずいぶん物分かりがいいじゃないか?その物分かりのいい女のふりが、いつまで続くか見ものだな」傍らの仲間のひとりが、見かねて口を挟んだ。「いや蒼一郎、さすがにやりすぎじゃないか。奥さんだって、その……」「黙れ!」蒼一郎は冷たく遮った。「妻本人が気にしてないんだ、お前
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第2話

翌朝、玄関のスマートロックが解除される電子音が響いた。私はちょうどダイニングで味噌汁を飲んでいたところだった。蒼一郎が鮎美の腰を抱きながら入ってきた。鮎美はマタニティウェアにぺたんこ靴という姿で、彼の胸に寄りかかっていた。「歌音さん、怒ってないよね?私、これから一緒に住むことになる家を、ちょっと見ておきたかっただけなの。赤ちゃんが生まれたら、今より広いところのほうがいいでしょ?」蒼一郎は彼女の背中を軽く叩いた。「あいつに文句を言う資格などない。この家は俺の名義なんだから」彼は私を見ると、視線が背後の優磨へと流れた。「ずいぶん順応が早いじゃないか。もうボディーガードを連れ込んでいるとはな」私は箸を置き、紙ナプキンで口元を拭った。「社長が手配してくれた人だもの。ありがたく使わせていただかないと」その「社長」という呼び方に、蒼一郎は苛立ったように眉をひそめた。それ以上は取り合わず、鮎美の手を引いて2階へ上がっていった。2階の廊下の突き当たりには、私のアトリエがある。右手が不自由になった後、蒼一郎が私のために作ってくれた部屋だ。中には絵の具と画材が所狭しと並んでいる。もう絵が描けなくなっても、毎日絵の具の香りだけは楽しんでほしい。そう彼は言っていた。鮎美がアトリエの扉を開けた。「この部屋、すごく日当たりがいいね。赤ちゃんのお部屋、ここにしない?」「ああ、お前の好きにすればいい」彼は振り返り、秘書に指示を出した。「作業員を呼んで、中のガラクタを全部片付けろ。内装も壊して、一からリフォームするんだ」秘書は一瞬戸惑い、思わず私の方を見た。「社長、あちらは奥様の……」蒼一郎は口の端を歪めた。「奥様?もうすぐ奥様じゃなくなるんだからな」作業員たちが道具を手に2階へ上がっていった。イーゼルが壊される。絵の具がゴミ袋へと放り込まれていく。私は階段の踊り場に立って、それを眺めていた。優磨が声を落として尋ねた。「止めましょうか」「いいの」壊してもらえて、むしろせいせいする。残しておいたところで、気分が悪いだけだ。それでも指先が無意識に強ばった。このアトリエができたばかりの頃、蒼一郎は後ろから私を抱きしめ、顎を肩に乗せてこう言ったのだ。「これからはここで安
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第3話

金曜日の夜、緑川家の本家で一族の夕食会が開かれた。蒼一郎は前もって人を遣わし、深緑のオートクチュールドレスを届けさせていた。一緒に届いたメッセージには、こう書かれていた。【今夜はお前のボディーガードも連れて出席しろ。俺に恥をかかせるなよ】私はドレスに着替え、優磨に車を出してもらって本家へと向かった。車が本邸の車寄せに停まると、優磨が降りて車のドアを開けた。夜風の冷たさに、思わず身震いする。優磨はすかさず上着を脱ぎ、私の肩にふわりとかけた。「夜は冷えますから」私は断らずに、「ありがとう」とだけ返した。ふたり並んで大広間に入ると、それまで賑やかだった室内が一瞬にして静まり返った。蒼一郎は中央に立っていた。傍らには、白いワンピース姿の鮎美がいる。首元の真珠のネックレスがひときわ目を引いた。蒼一郎がこちらを見た。その目はひどく冷たかった。ずかずかと歩み寄ると、私の肩にかかった上着を乱暴にむしり取り、床へと投げ捨てた。「歌音、恥知らずめ!ボディーガードと寄り添って、一族の笑い者にでもなりたいのか!」私は床に落ちた上着を見下ろした。「ただ、寒かっただけよ」「ふん、寒い?」蒼一郎は鼻で笑った。「よほど男に飢えているみたいだな」彼は周囲の年長の親族たちへ向き直った。「皆さん、今日は一族の皆さんが集まったこの場を借りて、ひとつお伝えしたいことがあります。歌音は体調が優れないので、今後、緑川家の女主人としての役目は鮎美に任せます。鮎美のお腹にはすでに私の子がいる。緑川家の跡継ぎを身ごもっているんですから、当然のことです」人々の間に、ざわめきが広がった。「それって事実上、妻の座から追い出すってことじゃないか」「歌音も自業自得だろう。あの男を見ろよ、あんな怪しい男を連れて、みっともないったらない」上座に座っていた会長の緑川一夫(みどりかわ かずお)は、怒りで顔を震わせていた。「蒼一郎、何を馬鹿なことを。歌音はお前が正式に結婚した妻だぞ!」蒼一郎は一夫の前まで歩み寄ったが、強気な態度を崩さなかった。「お祖父様、歌音自身が気にしていないのに、どうしてあなたが庇い立てするんですか。今だって、専属のボディーガードを一族の集まりにまで連れてきている。それこそみっともない
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第4話

宴の後半、蒼一郎は人を介して、私を本邸の裏庭に呼び出した。一夫が私に、個人的に聞きたいことがあるという話だった。私は優磨に庭の入り口で待ってもらい、ひとりで中へ入った。錦鯉の池のそばに立っていたのは、一夫ではなかった。鮎美だった。彼女は餌を手に、何気ない様子で池に撒いていた。私が来たのを見ると、得意げな笑みを浮かべた。「歌音さん、皆の前で追い出される気分はどう?」私は取り合わず、踵を返そうとした。「待って!」鮎美が数歩前に出て、行く手を塞いだ。「あのね、いつまでお高くとまってるつもり?蒼一郎さんがボディーガードをつけたのは、本当にあなたを守るためだと思ってるの?ただ、あなたを追い出す口実が欲しかっただけよ。あなたとそのボディーガードのスキャンダルさえ流れれば、彼はあなたと離婚して、財産分与もせずに追い出せるんだから」私は彼女の歪んだ顔を見つめた。「そこまで分かっているなら、わざわざ私に言いに来る必要もないでしょう。私が無一文で追い出された後は、あなたがそのまま邸宅に移り住んで、緑川家の奥様になればいいだけじゃない」私の平静さに、鮎美は苛立ちを隠せなくなったようだった。顔色を変え、歯を食いしばると、手を伸ばして私の手首を掴んだ。ちょうど古傷のある場所を。痛みに息が詰まり、私はその手を振り払った。「触らないでッ!」手を振り払った拍子に、鮎美が短い悲鳴を上げた。彼女はそのまま後ろに倒れ込み、大きな水音を立てて池に落ちた。「助けて!蒼一郎さん助けて!お腹が……っ」鮎美は水の中でもがきながら叫んだ。遠くから、せわしない足音が近づいてくる。蒼一郎が庭に姿を現すなり、スーツのまま水へ飛び込んだ。彼は鮎美を抱え上げて岸に這い上がった。鮎美はお腹を押さえ、顔を真っ青にして全身を震わせていた。「い、痛いよ……歌音さんが私を突き飛ばしたの。赤ちゃんを殺そうとしたのよ……」蒼一郎は顔を上げ、鮎美をそっと下ろすと、ずかずかと私の前に歩み寄った。パァン!乾いた音とともに、強烈な平手打ちが私の頬を打った。顔が弾き飛ばされるほどの衝撃に足元が滑り、私は砂利道に倒れ込んだ。右の手首を石に強くぶつけた。「お前、そこまでやるのかよ。鮎美は妊娠してるんだぞ。俺
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第5話

離れの物置には、暖房がなかった。晩秋の夜風が、割れた窓から吹き込んでくる。私は熱を出していた。高熱で目の前が真っ暗になり、右の手首は腫れ上がって動かすたびに痛んだ。優磨は蒼一郎の部下に外で足止めされていた。私はカビ臭い壁にもたれかかった。雪の中で跪いてのプロポーズ、病床での重い誓い。そんな記憶が、次々と脳裏をよぎっていく。真夜中、物置の扉が外から押し開けられた。蒼一郎が入ってきて、私の前に立った。「……少しは考え直したか」彼は打ち身用の塗り薬を私の足元に投げた。「お前が大人しく折れるなら、これを使ってもいい」私はそれを拾いもせず、目だけを上げて彼を見た。「鮎美さんのお腹の子は、助かったの?」蒼一郎は冷たく鼻を鳴らした。「お前のせいで不正出血を起こした。だが医者は、ちゃんと安静にしていれば問題ないと言っている。歌音、俺の我慢にも限度がある」彼は2通の書類を取り出し、テーブルに投げた。「ひとつは離婚届、もうひとつは株式譲渡契約書だ。祖父からお前に譲られた15%の株式を、鮎美のお腹の子への償いとして譲れ。そうすれば、お前とボディーガードの間には雇用関係しかなかったと、外に対して説明してやる。離婚届は俺が預かっておく。お前は引き続き緑川の妻の肩書を保ったまま、邸宅に住み続けていい。これが、お前に残してやれる最後の体面だ」私はテーブルの上の書類を見つめた。なるほど、これが彼の本当の狙いだったのか。私の評判を貶め、罪を認めるよう追い詰めたのも、全部この15%の株式のためだった。彼の隠し子が将来困らないよう、今から道を整えるために……熱のせいで視界がぼやけていた。朦朧とする意識の中で、雪の夜に跪いてプロポーズしてきた、あの男の姿がまた見えた気がした。あの時彼は言った。「歌音、俺と結婚してくれ。俺の世界のすべてを、お前に捧げる」今、彼は私に株式譲渡契約書への署名を迫り、自らの手で私に残された最後のものまで奪い取り、別の女と築く未来のために使おうとしている。私は笑い出した。蒼一郎が眉をひそめた。「何がおかしい」「社長も、ずいぶんご苦労なさったものね。おかしくて笑えてきたわ」私は息を切らしながら、かすれた声で続けた。「たった15%の株式のために
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第6話

翌朝早く、執事が物置の扉を開けた。私はテーブルの前に座ったまま、署名を済ませた2通の書類を彼の前へと押しやった。「蒼一郎に渡してちょうだい」執事は書類の署名を見て、痛ましそうに深くため息をついた。「奥様、そこまでなさらなくても……少しだけ折れてくだされば、この暮らしもまだ続けられますのに」私は壁に手をついて立ち上がると、その言葉には答えず、そのまま外へ歩き出した。優磨がSUVにもたれかかって待っていた。その目の下には、うっすらと隈ができている。彼が車のドアを開けた。「奥様、どちらへ向かわれますか」「あの家へ。荷物をまとめるわ」車は高台の邸宅へと滑り込んだ。私は2階へ上がり、主寝室に入った。荷物は、実のところほとんどなかった。クローゼットに掛かっているのは、どれも蒼一郎が鮎美の好みに合わせて買ってきたワンピースばかり。私はそれらに目もくれなかった。身分証明書と、普段着を数着。それから、画面の割れた古いスマホだけをスーツケースに入れた。ドレッサーの上には、蒼一郎がプロポーズのときに買ってくれたピンクダイヤの指輪が置かれていた。私はそれを手に取り、利用限度額のないブラックカードと一緒に、テーブルの中央へきちんと並べた。最後に、スマートロックのシステムから、自分の登録情報をすべて削除した。スーツケースを引いて階段を下りると、優磨がすぐさまそれを受け取り、トランクに積み込んだ。「奥様、社長からは、あなたをこの街から一歩も出すなと命じられていますが」私は彼を真っ直ぐに見つめた。「あなた、本当に蒼一郎が雇ったボディーガードなの?それとも、うちの祖父が差し向けた人?」優磨が一瞬だけ固まり、深く頭を下げた。「……いつからお気づきでしたか」「あなたが現れた初日からよ。手首の刺青で分かったわ」それは、母方の祖父に仕える護衛だけが持つ、特別な印だった。3年前、私は蒼一郎のために母方の実家と決別した。祖父は、もう孫娘ではないと冷たく私を突き放した。けれど、それでも結局は心配せずにいられなかったのだと、私には痛いほど分かった。蒼一郎が警備会社で人員を選んだとき、彼が選んだのは、まさに祖父の息のかかった者だったのだ。「お祖父様は、お変わりない?」「はい、ご壮健です。ただ
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第7話

蒼一郎が高台の邸宅に戻ったのは、歌音が去って3日目のことだった。彼は退院したばかりの鮎美を連れ、いつものようにスマートロックの指紋認証部分に指を当てた。【指紋が登録されていません。もう一度お試しください】眉をひそめ、もう一度試す。やはり拒否された。鮎美が彼の胸に寄りかかり、甘えた声で言う。「もしかして、システムが壊れちゃったのかな?」彼は答えず、予備の暗証番号を入力して扉を押し開けた。家の中は、人の気配がひとつもなく、不気味なほど静まり返っていた。いつもなら、この時間はローテーブルの上にお茶が一杯用意してあり、その脇に胃薬が一錠添えられていたはずだ。胃が弱い彼のために、この3年間、絶えたことは一度もなかった。今、ローテーブルはちりひとつなくきれいに拭き上げられ、カップの跡すら残っていない。彼は鮎美をリビングに座らせ、何かに引き寄せられるようにキッチンへ入った。電気ケトルはすっかり冷えていた。しばらくそれを見つめてから、ふとスイッチを押す。お湯が沸く音が響いた。だが、湯気の立つカップを手にした瞬間、ふと思い出した。いつもこっちのためにお茶を淹れてくれていた歌音は、すでにこの家から彼女自身の痕跡を跡形もなく消し去ってしまったのだと。彼は飲まなかった。カップはキッチンカウンターの上で、ゆっくりと冷めていった。玄関には、彼女のお気に入りだったスリッパも見当たらない。あちこち探し回った末、見つけたのは空のシューズボックスだけだった。嫌な予感に、心臓が大きく跳ねた。彼は足早に階段を上がり、主寝室の扉を勢いよく押し開けた。部屋は、まるでモデルルームのように片付いていた。クローゼットを開けた瞬間、雷に打たれたように立ち尽くす。歌音が使っていた側は、すっかり空になっていた。残っているのは、彼が鮎美の好みに合わせて無理やり買い与えた、ピンクレースのワンピースが隅に数着かかっているだけだった。彼は狂ったように引き出しを開け、ドレッサーの引き出しを探る。スキンケア用品も、身分証明書も、読みかけの本も、すべてが消えていた。ドレッサーの中央には、ぽつんとふたつだけ残されていた。5カラットのピンクダイヤの婚約指輪と、1枚のブラックカード。蒼一郎はその指輪を見つめた。手の
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第8話

蒼一郎は邸宅にある物を手当たり次第に壊し、鮎美はゲストルームに逃げ込んだきり出てこようとしなかった。「調べろ!」彼は秘書に向かって怒鳴り散らした。「この街を発着するすべての航空便、新幹線、長距離バスを調べろ!彼女の名義で予約されたホテルの宿泊記録も全部洗え!手首を怪我して、高熱まで出していたんだぞ……」彼の声が、かすれた。「手がほとんど使えなくなった女が、一体どこへ逃げられるっていうんだ!」30分後、秘書が汗だくで戻ってきた。「社長……見つかりません。この街の空港や駅、バスターミナルをすべて調べましたが、奥様名義の乗車券の購入記録は一切ありません。銀行口座も、スマホ決済サービスも、この3日間一度も使われた形跡がないんです。奥様は……消えてしまいました」蒼一郎は秘書の襟元を掴み上げた。「ありえない!人間がそう簡単に忽然と姿を消せるわけがないだろ!」手を離すと、オフィスの中を焦燥に駆られて歩き回った。1本、また1本と煙草に火をつけ、灰皿はすぐに吸い殻の山になった。煙の中で、ふと3年前のあの豪雨の日を思い出した。歌音が彼の代わりにあの刃を受けた。腱を断ち切った傷から流れた血が、彼女の袖を赤く染めていった。彼はICUの扉の前で、3日3晩、まんじりともせず待ち続けた。あのとき、ほかの誰を裏切っても、歌音だけは絶対に裏切らないと心に誓った。それが、今はどうだ。今では彼女を鮎美の邪魔だと疎んじて、暖房もない物置に閉じ込めた。蒼一郎は勢いよく煙草の火をもみ消した。火傷したことにすら気づかなかった。「あのボディーガードは?羽藤優磨とかいう男を調べろ!」秘書が慌てて警備会社に連絡を取った。数分後、彼の顔は真っ青になった。「社長……警備会社の担当者によると……そもそも専属ボディーガードの依頼など受けていないそうです。誰かが事前に、緑川家が専属警備の増員をすると噂を流して、羽藤優磨とかいう男の偽の経歴書を、候補者の書類の一番上に紛れ込ませていたと」秘書の声は、どんどん小さくなっていった。「あの日、人選びをなさったのは……ご自身で選ばれたつもりでも、実際にはそう仕向けられていたんです……」蒼一郎はよろめき、デスクの縁に強くぶつかった。脳裏に、一族の夕食会の日の光景が蘇った。
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第9話

蒼一郎は赤信号を3つも無視しながら、猛スピードで車を飛ばし、緑川家の本邸へと駆け戻った。リビングの空気は、恐ろしいほどに張り詰めていた。一夫は上座の椅子に深く身を預け、怒りで顔をこわばらせている。口元には、まだ拭いきれていない血の跡が残っていた。高級なオーダーメイドのスーツを着た見知らぬ男たちが数人、冷ややかな様子で中央に立っている。その先頭に立っていたのは、あの金縁の眼鏡をかけた弁護士だった。蒼一郎がリビングに飛び込んでくるのを見ると、弁護士は手にした分厚い書類の束を、彼の前のテーブルに叩きつけた。「緑川社長、初めまして。私は相馬家の顧問弁護士を務めております。これは、相馬家のご令嬢、相馬歌音様による離婚訴訟に関する書類です。こちらは、相馬家が持参金として信託していた15%の株式に関する信託終了通知書、そしてこちら――」弁護士の指先が最後の1枚を指し示した。「相馬家より、あなたに対する不法監禁および傷害についての告訴状の写しです」蒼一郎は書類に記された「相馬家」という文字を凝視した。頭の中で、何かが弾けるような鋭い音がした。「相馬家?なんの相馬家だ?そんな家、聞いたこともない!」喉が干からびたようで、声がかすれた。「歌音は、親もいない、身寄りのない娘のはずだ。それがどうして……」「この、恥知らずめ!」一夫が手元の湯呑みを勢いよく彼の足元に叩きつけた。「まだそんなことを言うか!」彼は怒りで全身をわななかせていた。「あの日、歌音はお前に嫁ぐために、実の祖父と縁を切ることも厭わず、身分を隠してこの緑川家に嫁いできたのだぞ!あの15%の株式は、そもそも緑川家の資産などではない。相馬家が、あの子が外で苦労するのではと案じて、密かにあの子名義の信託に移していたものだ!」蒼一郎は、その場で氷のように固まった。「身寄りのない娘が、大企業グループの株式を持参金として持ってくる……それが降って湧いたものだとでも思っていたのか!」一夫の声は怒りでかすれていた。「あれは、歌音自ら相馬家に頼んで手配させた、外向けに体裁を整えるための資金移動だ。ただの持参金ということにして、お前が安心して結婚できるように、緑川家があの子を軽んじないように。そのためだけにだ!歌音はな、お前のために逃げ道も、世間
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第10話

蒼一郎が西京に降り立ったのは、すでに深夜だった。荷物を受け取ることもなく、車をチャーターして、まっすぐ相馬家の屋敷へ向かった。屋敷の正門から数百メートル手前で、車はバリケードに行く手を阻まれ、強制的に停車させられた。十数名のボディーガードが、吹雪の中に立ちはだかっている。蒼一郎は車のドアを押し開け、よろめきながら雪の中へ飛び出した。「中に入れてくれ!歌音に会わせてくれ!俺は彼女の夫だぞ!お前たちに止める権利があるのか!」ボディーガードたちは、彼を強引に押し返した。蒼一郎は雪の中で転び、スーツが泥水にまみれた。それでも起き上がり、なおも中へ突っ込もうとする。3年前の雨の夜、彼女は自分の身も顧みず、彼を庇って刃を受けた。それなのに今、この吹雪の夜、彼は門をくぐることすら許されない。やがて正門がゆっくりと開き、黒いコートを着た優磨が黒い傘を差して中から現れた。彼は門前の石段の上で足を止め、下にいる蒼一郎を見下ろした。「緑川社長、ここは西京の相馬家です。あなたが好き勝手に振る舞える場所ではありません」蒼一郎がよろめきながら駆け寄る。「羽藤、頼む、彼女に会わせてくれ!全部誤解だったんだ。彼女に説明させてくれ。彼女が相馬家の人間だなんて、俺は知らなかったんだ!」優磨は氷のように冷たく彼の言葉を遮った。「相馬家の人間だと知らなければ、彼女の真心を好き放題に踏みにじってもよかったとでもお思いですか?社長は、頭さえ下げれば、お嬢様が前のように許してくれるとでも思っていらっしゃるんですか」蒼一郎は口を開きかけたが、一言も言葉が出てこなかった。以前なら、彼が一言優しい言葉をかければ、彼女は何もかも許してくれた。優磨は1通の書類を取り出し、彼の胸に叩きつけた。「お嬢様は現在、術後の感染を防ぐため、厳重に管理された病室にいらっしゃいます。手の神経を修復する手術を受けたばかりです。こちらは、警察が被害届を受理したことを示す書面です。あの物置に閉じ込めたことで、お嬢様が受けた二次的な傷害について、相馬家として正式に責任を追及します」蒼一郎はその書面を見つめたまま、さっと顔から血の気を失った。あの夜、あの暖房もない物置で、彼は離婚届と株式譲渡書を彼女の前に叩きつけ、電話に出るためにその場を離れた。
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