LOGIN浮気を隠すため、緑川蒼一郎(みどりかわ そういちろう)は高い報酬を払って、私、緑川歌音(みどりかわ かのん)に男性のボディーガードをつけた。 「最近は鮎美の妊娠に向けた準備につきっきりで、お前を構ってやる暇がない。あいつが側にいれば俺も安心だ」 そして本当に安井鮎美(やすの あゆみ)の妊娠が判明すると、彼は離婚届を私の前に叩きつけた。 「鮎美は身体が弱い。愛人というレッテルには耐えられないんだ。俺たちの結婚は最初からなかったことにしてくれ。 その間、ボディーガードがお前の側でしっかり守る。お前がそいつとどうなろうと、俺は構わない」 煙草の煙が立ち込める店の個室で、彼の取り巻きたちがどっと笑い声を上げた。 「蒼一郎、奥さんが本当にボディーガードと寝ちまっても平気なのか?」 蒼一郎は煙の輪を吐き出し、自信たっぷりに目を細めた。 「あいつにそんな真似ができるわけないだろ。 俺のためなら命すら差し出せる女だ。たかがボディーガードひとり、あいつの眼中に入るわけがない。 あえて男をあてがって、あいつに不倫の疑いがかかるよう仕向けてるんだ。祖父が調べを入れてきても、歌音の方が先に不倫していたことに仕立て上げればいい。 そうすれば、鮎美のお腹の子も、堂々と緑川家の跡継ぎを名乗れる」 私はドアを押し開け、彼の視線を真っ直ぐに受け止めた。 「もちろん、お腹の子が無事に生まれることが一番大切よね。あなたの言う通りにするわ」
View More3日後、個展は幕を閉じた。その日の午前、優磨がスマホを手に休憩室に入ってきて、あるニュースを私の前に差し出した。地方裁判所が昨日、判決を言い渡した。蒼一郎は業務上横領罪と不正な資産移転に関する罪に問われ、拘禁刑5年6か月の実刑判決を受けた。緑川グループの破産清算はすでに終わり、あの高台の邸宅も、彼名義の財産とともに、すべて競売にかけられ、債務の返済に充てられていた。ニュースの画像には、地味な服装で法廷から連れ出される彼の姿があった。報道映像に映った傍聴席には、誰の姿もなかった。鮎美もいない、蒼一郎の母もいない、彼を見送る人は誰一人いなかった。私は見終えて、スマホを優磨に返した。「分かったわ」快感もなく、心の波立ちもなかった。まるで自分とは何の関係もない社会面のニュースを見ているようだった。優磨が私を見つめた。「邸宅の競売の日、彼が人を通して言葉を伝えたそうだ。最後に一度、あなたに会いたいと。俺が代わりに断ったが」「それでいいわ」私はうなずいた。午後、スタッフが撤収作業を始めた。私は「夜明け」の前まで歩き、自分の手でそれを展示壁から取り外した。多くのコレクターが高値を提示してきたが、私は誰にも売らなかった。私はこの絵を、振り返って優磨に差し出した。「あなたにあげるわ」優磨は額を受け取った。銃を握るときですら震えなかったその手が、この時だけ一瞬、こわばった。「いや……歌音、これは君がもう一度筆を取って描いた、最初の1枚だろ。あまりにも大切な作品じゃないか」「だからこそ、あなたに渡すのよ」私は彼を見つめた。「あの雨の中で私に傘を差してくれたのはあなた、リハビリが一番痛かった夜にドアの外で見守ってくれたのもあなた、選ぶ権利を私自身の手に返してくれたのも、あなただった」この絵の名前は『夜明け』。つまり——あなたは、あの長い夜が明けた後の、私にとっての最初の光なの」優磨の喉が、小さく動いた。彼は甘い言葉を何も言わず、ただスーツの内ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。開けると、中には飾りのないシンプルな指輪が2本入っていた。ペアリングだった。「俺にはあいつみたいな5カラットのダイヤの指輪はない」彼は言った。「『もし誓いを破ったら、ろくな
9月、私の個展は予定どおり、西京の国立美術館で幕を開けた。オープニングセレモニーが正式に始まる前、入り口で大きなどよめきが起きた。祖父が来たのだ。彼は車椅子を使わず、杖をつき、優磨に支えられながら、一歩一歩、会場中央の壇上まで歩いた。来場していた政財界の名士たちや芸術界の重鎮たちが、一斉に静まり返った。相馬家の当主が公の場に姿を見せるのは、10年ぶりだった。祖父はマイクを受け取り、会場全体を見渡し、最後に私に視線を止めた。「この3年間、世間から姿を消していたわしの孫娘、相馬歌音です。今日、わしは相馬家の当主として、ここにいる皆さんにお伝えします。彼女は、相馬家で唯一の第一順位の相続人です」会場が騒然となった。フラッシュが一斉にたかれた。私は壇上に立つその頑固な老人を見つめ、目頭が熱くなった。3年前、私は蒼一郎のために彼と決別し、彼は「もうあの孫娘はいない」と言い放った。けれどこの間、彼は私の手を治すために最高の専門家を呼び、最も信頼する護衛を派遣し、そして今日、西京の名士たちが集まる場で、私を再び自分の孫娘として認めてくれた。割れんばかりの拍手が沸き起こった。その人波に逆らうように、ひとりの女性がかき分けて進んできた。蒼一郎の母だった。記憶の中よりもずいぶん老け込み、化粧も慌てたようで、目は血走っていた。彼女は私の手首を乱暴に掴んだ。ちょうど、あの傷のある場所を。「歌音、お願い!」彼女の声は震えていた。「蒼一郎はあさって判決が言い渡されるの!弁護士は、資産隠しの罪だけでも拘禁刑5年は免れないと言っているのよ!相馬家から頼んで、あの告訴を取り下げてもらえないかしら?彼だって、あなたの夫だったのよ」「緑川さん」私は手首を引き抜き、一歩下がった。「まず、裁判所の離婚判決が確定した時点で、私と蒼一郎はもう他人になりました。それに、資産隠しの件で動いたのは相馬家じゃありません。未払い金の被害を受けた十数社の取引先と、法廷で証言した鮎美さんです」私は彼女をまっすぐ見た。「私が緑川家であの女に大勢の前で辱められ、あなたの息子に物置へ閉じ込められたとき、あなたは何もしてくれなかったですよね。それなのに今さら、私に蒼一郎を助けてほしいって言うんですか?」私は微笑
空気は、息が詰まるほど張り詰めていた。蒼一郎は無精髭を生やし、目は落ちくぼみ、魂を抜かれた抜け殻のようだった。彼の前に座っているのは、相馬家の顧問弁護士団の代表と、未払い金の回収を求めて集まった十数社の取引先の代表者たちだった。弁護士が2通の書類を彼の前に差し出した。「緑川社長、こちらが最終的な清算案です。1通目は、緑川グループの破産手続に関する同意書です。署名すれば、会社の換価可能な財産はすべて処分され、債権者への返済に充てられます」「2通目は、あなた個人名義の財産を担保に入れるための同意書です」弁護士が細長い指でそれを示した。「あなた名義の銀行預金、有価証券、高級車、そして敷地約600坪のあの高台の邸宅などが対象となっています」「高台の邸宅」という言葉を聞いた瞬間、蒼一郎は勢いよく顔を上げ、血走った目に狂気がよぎった。「だめだ!あの家は手放せない!」彼は獲物を奪われまいとする獣のように、その同意書を死に物狂いで押さえつけた。「あそこは俺と歌音の家だ!中には彼女のアトリエも、彼女が買い揃えた家具もある!家までなくなったら、彼女が戻ってきたとき、どこに住めばいいんだ!」取引先の代表者たちから、容赦ない嘲笑が上がった。「緑川さん、頭がおかしくなったんじゃないですか?相馬家のお嬢様が、あなたのそのぼろ屋を欲しがるとでも?あなたは今、経済犯罪や資産隠しの疑いで捜査を受けているんです。個人財産を差し出して債務を清算しなければ、明日にも身柄を拘束されるかもしれませんよ!あの家を守って拘置所に入るか、全財産を失ってでも自由を守るか。ご自分で選んでください!」弁護士は冷ややかに彼を見つめ、それ以上何も言わなかった。蒼一郎の両手が、激しく震えていた。この瞬間、彼はふと、この光景がひどく見覚えのあるものに思えた。あの夜、暖房もない離れの物置の中で。彼自身が、離婚届と株式譲渡書を、歌音の前に叩きつけたのだ。彼自身が、彼女に愛情と尊厳のどちらかを選ばせようとし、存在すらしない子供のために、一文無しで追い出そうとしたのだ。今、弁護士が、破産清算と財産の担保提供に関する書類を、彼の前に突きつけている。今度は彼が、自由か全財産かの選択を迫られている。まったく同じ構図だ。ただ今度は、絶
緑川グループが倒産寸前に追い込まれると、一夫はいよいよ居ても立っても居られなくなった。彼は車椅子に乗り、執事に押されて相馬家の屋敷の門前まで来ると、炎天下で3時間も待ち続けた。蒼一郎を伴わず、ただあの日歌音にネックレスを贈ったときの古い写真だけを持ってきていた。最後に残された昔の情にすがって、相馬家の門を開かせようとしていた。屋敷の正門は固く閉ざされていた。一夫は痩せ細った手で、その写真をぎゅっと握りしめていた。そこに写っているのは、まだ緑川家に嫁いだばかりの頃の歌音だった。若々しい顔で、穏やかに微笑んでいる。彼は待ち続け、濁った目をずっとその門に向けていた。ようやく、正門が開いた。一夫がわずかな喜びの表情を浮かべかけたその時、出てきたのは優磨一人だけだった。優磨は1通の書類を手に、まっすぐ車椅子の前まで歩み寄った。「会長様、申し訳ありませんが、お嬢様は面会をお断りしています」一夫の顔がこわばり、焦って口を開いた。「優磨、ひとつ取り次いでくれ。せめて……」「会長様」優磨は冷ややかにその言葉を遮り、その書類を一夫の膝の上に置いた。それは、あの夜、あの物置で蒼一郎が歌音に署名を迫った、あの株式譲渡書の写しだった。「緑川家は、お嬢様を死ぬほど追い詰めたうえ、相馬家の財産まで奪おうとした。それが今、会社が立ち行かなくなった途端、今さら昔の情を持ち出して、助けを求めに来たんですか?」優磨は、顔面蒼白になった一夫を見下ろした。「お嬢様からの伝言です。『私はそこまでお人よしじゃないし、相馬家だって、そう簡単に折れる家じゃないわ』と。緑川グループに対しては、相馬家の法務部がすでに破産手続に向けた法的措置を進めています。緑川家も、すべてを失う覚悟をしておいてください」一夫は膝の上の、見るのもつらい書類の写しを握りしめ、肩を激しく上下させ、顔を土気色に染めた。激しい咳が止まらず、身体を二つに折るように咳き込んだ。執事が慌てて一夫を支えて車に乗せ、車椅子をトランクに積み込み、相馬家の屋敷から逃げるように走り去った。かつて歌音を傷つけた側が、最後にもう一度情に訴えようとしたものの、言い訳ひとつ最後まで口にできないまま、すべては終わった。……その日の午後、私は個展の目玉となる作品の