「奥様が認めてくださったと聞いて、安心しました」夫の隣から、女が花束を差し出した。私は、その花を受け取らなかった。白いクロスに3人分のグラス。窓には街の灯が映り、向かいの席で夫の須藤叡司(すどう えいじ)がワインを注いでいる。今夜は、これからの暮らしについて相談したいと聞いて来た。「私が、何を認めたんですか?」花束を持つ嶋津汐奈(しまづ しおな)の笑顔が止まった。夫の会社で商品企画を任されている女性だ。ここにいる理由も、まだ聞いていない。「彼女とのことだよ」叡司はボトルを傾けたまま答えた。「妻はお前のままでいい。暮らしも変えない。汐奈とは、家の外で付き合う。それなら、お前にも困ることはないだろ」赤いワインがグラスの底で揺れた。私は夫を見た。いつもの声だった。週末に車を使うかどうか、尋ねられる時と変わらない。「付き合うって……いま何言ってるの?」「だから、今日はちゃんと話そうと思って」注ぎ終えたボトルが卓に置かれた。その小さな音を聞いてから、ようやく膝のバッグを握っていることに気づいた。汐奈が花束を少し下げた。薄い包装紙が袖に擦れる。受け取ってもらうのを待っている手が、まだ卓の端にあった。「私がいいと言ったって、話したの?」「分かってくれるとは言った」「あり得ない」叡司はグラスへ伸ばしかけた手を止めた。「そんなふうに受け取るなよ」汐奈が夫を見た。ふたりの間で視線が交わり、彼女は花束を自分の側の卓へ置いた。端からはみ出したリボンを整えてから、椅子に座る。私はその間、何も言えなかった。夫の隣には彼女の椅子があり、自分は向かいにいる。店員に案内された時は、仕事の相談も兼ねているのだろうと思った。急に呼ばれた部下を気まずくさせないよう、私の方から先に微笑んだ。それが、ほんの少し前のことだった。「あのう……奥様の生活を変えていただくつもりはありません」汐奈は背筋を伸ばした。「家に押しかけたりもしませんし、ご家庭のことに口を出す気もないです」「あなた、正気なの?」そう言って夫の顔を確かめると、眉間に浅いしわが寄っていた。「まず話を最後まで聞いてくれ」「最後まで?最初から間違ってる」叡司は椅子の背に体を預けた。汐奈は口を閉じ、卓の上で両手を重ねた。私は、このあと夫が何を言うのかを待った。昔は
Last Updated : 2026-10-08 Read more