LOGIN叡司の手が、メニューの上で止まった。
「お前が出ていって、どう暮らすんだ」
「それは、私が決めます」
どう暮らすか。今はまだ、家賃の相場すら知らない。
それでも、その不安を理由に、この食卓へ座り続けることはできなかった。
「汐奈は離婚してほしいなんて言っていない」
「私が望んでる」
椅子を少し後ろへ引くと、厚い絨毯が脚の音を吸った。
「先に帰ります」
「料理も頼んでいないぞ」
「ふたりで食べて」
バッグを腕に掛けた。卓の端には花束がある。
汐奈が花束へ指を添えかけた。私の手元を見て、その手を止めた。
「持って帰らないんですか?」
「受け取ってないわ」
それ以上は言わず、椅子の脇を通った。
背後で叡司が名前を呼んだ。一度だけ足が遅くなったが、振り向かなかった。
何を言われるか確かめたくなる気持ちは、今はそのままにしておいた。
扉を閉めると、廊下は静かだった。
壁に沿った小さな明かりが、石の床に等間隔で落ちている。少し先のスタッフが顔を上げた。
「お帰りでございますか」
私はうなずいた。何も説明しなくてよいことに、初めて息をつけた。
ロビーを抜け、車寄せでタクシーを頼んだ。
待つ間に携帯が震えたが、今は開かなかった。
ガラスに映る自分の襟元が、出かける前と同じように整っていた。
こんな夜になるなら着なかった、とは思いたくなかった。
後部座席で家の住所を告げた時だけ、声がかすれた。
行く場所としてすぐに口にできるのは、まだあの家だった。
帰宅しても、いつもの夕飯を作る気にはなれなかった。
湯を沸かして、ひとり分のスープを飲んだ。
隣に座ってほしかったのは、叡司だった。花もお金も、代わりにはならない。
翌日、涼子から電話が来た。
話は聞いたから家へ来るように、と言われ、私は離婚の意思を自分で伝えに行った。
……
「叡司には、汐奈さんみたいな人が合っていると思うの」
須藤涼子(すどう りょうこ)は、私をいつもの席へ招いた。
庭の見える居間に、客用の菓子が並んでいる。
「会社も大きくなったでしょう。隣に立つ人とは、仕事の話もできた方がいいわ」
私はバッグを膝に載せたまま、座った。
「お義母さんは、ご存じだったんですか」
「この前、叡司が連れてきたの。あなたとも話がついたと聞いていたから」
いつだったのか、尋ねるのが怖かった。私がこの家で夕飯を作った日より、前かもしれない。
「私が昨日、初めて聞いたことも、ご存じですか」
涼子は茶器へ伸ばした手を止めた。
「叡司も、話す順番を間違えたのね」
私は顔を上げた。続く言葉を待った。
少なくとも、何も知らされなかったことは分かってもらえる。そう思いたかった。
「でも、次の人が慣れるまでは、あなたが今までどおりしてくれたら助かるわ」
「次の人……」
私は湯呑みに触れたまま、涼子を見た。
「家のことは、あなたがよくしてくれたもの。汐奈さんは会社で忙しいし、急に同じようにはできないでしょう」
よくしてくれた。その言葉を、昨日までなら嬉しく聞けたはずだった。
私がいなくなることより、夕食の支度をする人がいなくなることを、この人は困っている。
私の指が湯呑みから離れた。
「今までのようには、来られません」
私は一度、庭を見た。塀の内側の植木が、風に揺れている。
いつもの午後だった。庭先で話したことも、この部屋で夫を待ったこともある。
もう少し違う話ができると思っていた。
別れると決めても、7年の間に交わしたことまで消えるわけではない。
だから、直接会って伝えようと思ったのだ。
湯呑みを置き、膝のバッグへ手を戻した。
何を買えばこの家の食事が済むか、いつもの癖で考えかけていた。
それを言えば、また帰りに台所へ寄ってしまう。
廊下で音がして、須藤実千佳(すどう みちか)が入ってきた。
「あ、来てた。これ、見てくれる?」
差し出された携帯電話には、白い棚に青い器を並べた店のイメージが映っていた。
実千佳は、兄の会社が扱う器や布小物を集めた店を開きたがっていた。
来週末は、ホテルの小さな宴会室でその品々を見せる内覧説明会だ。
涼子の知人には後日の予約販売を案内し、叡司の取引先には商品を見てもらう。
「この青、白い棚に合うね」
実千佳の顔が明るくなった。店を持ちたい気持ちまで否定したいわけではなかった。
客が入ったところを想像しかけた私へ、次の画面が向けられた。
搬入、受付、商品案内、片付け。担当表の私の欄だけが、朝から夕方まで埋まっていた。
「見に行くとは言いました。でも、働く約束はしていません」
「見に来るついでにお願い。汐奈さんは仕事の説明があるから」
「汐奈さんのこと、知っていたの?」
「お兄ちゃんから聞いたよ。でも、お店の話は別でしょう」
結婚してから何度も、こうして手帳の余白が埋まった。
書いていない日は、渡していい日なのだと思っていた。
私は膝からバッグを持ち上げた。
「もう配ったんだけど」
実千佳が開いた送信画面には、ホテルと業者の宛先が並んでいた。
私の連絡先まで載っている。
この部屋で返事をする前に、外の人にはもう決まったことになっていた。
内覧説明会の朝、私はホテルの宴会階へ上がった。開いた扉の向こうに、白い布を掛けた展示台が並んでいた。青や白の器、その横に畳まれたテーブルクロス。窓辺には店で使う予定の棚が置かれ、小さな食卓の形に品が組まれている。携帯の画面で見た実千佳の店が、部屋の一角だけ現れたようだった。正面の扉では、まだ箱の搬入が続いていた。来場者用の受付は、廊下を曲がった窓側の入口へ寄せてある。私は台車を通してから、バッグの担当表を取り出した。実千佳へ訂正を頼んでから数日が過ぎても、差し替えたという返事は来なかった。ホテルへ直接問い合わせると、主催側と一緒に開場前の確認をしてほしいと言われた。約束していた会場責任者に声を掛けると、叡司が専務を伴って来た。会社を一緒に始めた共同経営者で、私も会食で何度か会っている。「専務、こちらの接遇は妻に任せてあります」担当表を受け取った専務が、顔を上げた。「朝から夕方まで、奥様おひとりですか」「慣れていますから」叡司は私を見ずに答えた。私は実千佳へ送った辞退の連絡を、責任者と専務に見せた。「では、開始前に主催者を交えて確認しましょう」会場責任者が実千佳を呼びに行く。叡司は客に声を掛けられると、話を切り上げるように背を向けた。私は搬入の邪魔にならない壁際へ退いた。実千佳が花瓶の位置を直している。あの台に布を掛ければ早いのにと考え、動きかけた足を止めた。手を出せば、その先も自分がいるものとして進んでしまう。廊下へ来たふたり連れの男性が、正面の扉の前で足を止めた。「商品を見に来た人も、ここから入るんでしょうか」背の高い方が、同行者へ韓国語で尋ねていた。扉の内側には展示台が見えるが、その手前を箱が塞いでいる。「受付は、あの角を曲がった窓側です。こちらは、まだ荷物を運んでいるので」大学で学び、ホテルで働いていた頃に使った言葉が出てきた。私は急いで通り過ぎる台車を待ち、相手が角の先を見られる位置から受付を示した。「ありがとうございます。中へ入って待つところでした」低い声が返ってきた。同行者が先に受付へ向かい、背の高い男性は私の前に残った。濃い色の上着の袖から、細長い指が見える。「このホテルの方ですか」「いいえ。以前、別のホテルで働いていました」仕事を尋ねられて、答えられた。それだけなのに、さっきま
叡司の手が、メニューの上で止まった。「お前が出ていって、どう暮らすんだ」「それは、私が決めます」どう暮らすか。今はまだ、家賃の相場すら知らない。それでも、その不安を理由に、この食卓へ座り続けることはできなかった。「汐奈は離婚してほしいなんて言っていない」「私が望んでる」椅子を少し後ろへ引くと、厚い絨毯が脚の音を吸った。「先に帰ります」「料理も頼んでいないぞ」「ふたりで食べて」バッグを腕に掛けた。卓の端には花束がある。汐奈が花束へ指を添えかけた。私の手元を見て、その手を止めた。「持って帰らないんですか?」「受け取ってないわ」それ以上は言わず、椅子の脇を通った。背後で叡司が名前を呼んだ。一度だけ足が遅くなったが、振り向かなかった。何を言われるか確かめたくなる気持ちは、今はそのままにしておいた。扉を閉めると、廊下は静かだった。壁に沿った小さな明かりが、石の床に等間隔で落ちている。少し先のスタッフが顔を上げた。「お帰りでございますか」私はうなずいた。何も説明しなくてよいことに、初めて息をつけた。ロビーを抜け、車寄せでタクシーを頼んだ。待つ間に携帯が震えたが、今は開かなかった。ガラスに映る自分の襟元が、出かける前と同じように整っていた。こんな夜になるなら着なかった、とは思いたくなかった。後部座席で家の住所を告げた時だけ、声がかすれた。行く場所としてすぐに口にできるのは、まだあの家だった。帰宅しても、いつもの夕飯を作る気にはなれなかった。湯を沸かして、ひとり分のスープを飲んだ。隣に座ってほしかったのは、叡司だった。花もお金も、代わりにはならない。翌日、涼子から電話が来た。話は聞いたから家へ来るように、と言われ、私は離婚の意思を自分で伝えに行った。……「叡司には、汐奈さんみたいな人が合っていると思うの」須藤涼子(すどう りょうこ)は、私をいつもの席へ招いた。庭の見える居間に、客用の菓子が並んでいる。「会社も大きくなったでしょう。隣に立つ人とは、仕事の話もできた方がいいわ」私はバッグを膝に載せたまま、座った。「お義母さんは、ご存じだったんですか」「この前、叡司が連れてきたの。あなたとも話がついたと聞いていたから」いつだったのか、尋ねるのが怖かった。私がこの家で夕飯を作った日より、前かもしれない。「
「奥様が認めてくださったと聞いて、安心しました」夫の隣から、女が花束を差し出した。私は、その花を受け取らなかった。白いクロスに3人分のグラス。窓には街の灯が映り、向かいの席で夫の須藤叡司(すどう えいじ)がワインを注いでいる。今夜は、これからの暮らしについて相談したいと聞いて来た。「私が、何を認めたんですか?」花束を持つ嶋津汐奈(しまづ しおな)の笑顔が止まった。夫の会社で商品企画を任されている女性だ。ここにいる理由も、まだ聞いていない。「彼女とのことだよ」叡司はボトルを傾けたまま答えた。「妻はお前のままでいい。暮らしも変えない。汐奈とは、家の外で付き合う。それなら、お前にも困ることはないだろ」赤いワインがグラスの底で揺れた。私は夫を見た。いつもの声だった。週末に車を使うかどうか、尋ねられる時と変わらない。「付き合うって……いま何言ってるの?」「だから、今日はちゃんと話そうと思って」注ぎ終えたボトルが卓に置かれた。その小さな音を聞いてから、ようやく膝のバッグを握っていることに気づいた。汐奈が花束を少し下げた。薄い包装紙が袖に擦れる。受け取ってもらうのを待っている手が、まだ卓の端にあった。「私がいいと言ったって、話したの?」「分かってくれるとは言った」「あり得ない」叡司はグラスへ伸ばしかけた手を止めた。「そんなふうに受け取るなよ」汐奈が夫を見た。ふたりの間で視線が交わり、彼女は花束を自分の側の卓へ置いた。端からはみ出したリボンを整えてから、椅子に座る。私はその間、何も言えなかった。夫の隣には彼女の椅子があり、自分は向かいにいる。店員に案内された時は、仕事の相談も兼ねているのだろうと思った。急に呼ばれた部下を気まずくさせないよう、私の方から先に微笑んだ。それが、ほんの少し前のことだった。「あのう……奥様の生活を変えていただくつもりはありません」汐奈は背筋を伸ばした。「家に押しかけたりもしませんし、ご家庭のことに口を出す気もないです」「あなた、正気なの?」そう言って夫の顔を確かめると、眉間に浅いしわが寄っていた。「まず話を最後まで聞いてくれ」「最後まで?最初から間違ってる」叡司は椅子の背に体を預けた。汐奈は口を閉じ、卓の上で両手を重ねた。私は、このあと夫が何を言うのかを待った。昔は