Se connecter結婚7年目、夫の不倫相手から「交際を認めてくれたお礼です」と花束を差し出された。夫は、妻も不倫に賛成していると嘘をついていた。もう、このクズ夫のために我慢はしない。離婚した柚帆は、海外留学を決心する。新しい土地で通訳の仕事に挑む彼女が出会ったのは……
Voir plus「奥様が認めてくださったと聞いて、安心しました」
夫の隣から、女が花束を差し出した。
私は、その花を受け取らなかった。
白いクロスに3人分のグラス。
窓には街の灯が映り、向かいの席で夫の須藤叡司(すどう えいじ)がワインを注いでいる。
今夜は、これからの暮らしについて相談したいと聞いて来た。
「私が、何を認めたんですか?」
花束を持つ嶋津汐奈(しまづ しおな)の笑顔が止まった。夫の会社で商品企画を任されている女性だ。
ここにいる理由も、まだ聞いていない。
「彼女とのことだよ」
叡司はボトルを傾けたまま答えた。
「妻はお前のままでいい。暮らしも変えない。汐奈とは、家の外で付き合う。それなら、お前にも困ることはないだろ」
赤いワインがグラスの底で揺れた。
私は夫を見た。
いつもの声だった。
週末に車を使うかどうか、尋ねられる時と変わらない。
「付き合うって……いま何言ってるの?」
「だから、今日はちゃんと話そうと思って」
注ぎ終えたボトルが卓に置かれた。
その小さな音を聞いてから、ようやく膝のバッグを握っていることに気づいた。
汐奈が花束を少し下げた。薄い包装紙が袖に擦れる。
受け取ってもらうのを待っている手が、まだ卓の端にあった。
「私がいいと言ったって、話したの?」
「分かってくれるとは言った」
「あり得ない」
叡司はグラスへ伸ばしかけた手を止めた。
「そんなふうに受け取るなよ」
汐奈が夫を見た。
ふたりの間で視線が交わり、彼女は花束を自分の側の卓へ置いた。
端からはみ出したリボンを整えてから、椅子に座る。
私はその間、何も言えなかった。
夫の隣には彼女の椅子があり、自分は向かいにいる。
店員に案内された時は、仕事の相談も兼ねているのだろうと思った。
急に呼ばれた部下を気まずくさせないよう、私の方から先に微笑んだ。
それが、ほんの少し前のことだった。
「あのう……奥様の生活を変えていただくつもりはありません」
汐奈は背筋を伸ばした。
「家に押しかけたりもしませんし、ご家庭のことに口を出す気もないです」
「あなた、正気なの?」
そう言って夫の顔を確かめると、眉間に浅いしわが寄っていた。
「まず話を最後まで聞いてくれ」
「最後まで?最初から間違ってる」
叡司は椅子の背に体を預けた。
汐奈は口を閉じ、卓の上で両手を重ねた。
私は、このあと夫が何を言うのかを待った。
昔は、私が迷っていると、答えが出るまで待ってくれた。
何を食べたいか、どこへ行きたいか。今、汐奈の隣に座っているのは、その人だった。
謝ってほしい。
今からでも、自分を見て話してほしい。
「足りないなら、生活費を増やす。だから落ち着いてくれ」
夫の口から出たのは、謝罪ではなかった。
私は膝の上の手をゆるめた。バッグの革に指の跡が残っている。
出かける前、鏡の前で髪を直した。
久しぶりに夫とゆっくり話せるならと思い、襟元のきれいなワンピースを選んだ。
夕飯を作らなくてよいことより、夫の方から食事に誘ってくれたことが嬉しかった。
夫と肌を重ねなくなって、しばらく経っていた。
今夜なら、また近づけるかもしれないと思っていた。
「一緒に暮らすことは、続けたいの?」
「もちろんだ。そこを変えるつもりはない」
夫はやっと話が通じたように、少し身を乗り出した。
「お前がいると家も落ち着く。母さんや実千佳とのこともあるし。汐奈には会社の方で助けてもらっている。それぞれ、無理をしないでやっていければいい」
汐奈が小さくうなずいた。
私の前には、まだ開いていないメニューがあった。
その表紙を見つめたまま、夫の言葉が終わるのを待つ。
結婚して7年。
子どもはいない。
ふたりで暮らす部屋は十分に広く、夕食を向かい合って食べる席もある。
いつからか夫が食卓で見るものは携帯になり、私は話の途中で黙ることを覚えた。
それでも、今夜は違うと思っていた。
「私が嫌だと言っても、汐奈さんとは続けるのね」
叡司はすぐには答えなかった。
汐奈の指が重ねた手の甲をなぞる。
「そのことも含めて、お前が納得できるようにしたい」
夫はメニューを開いた。
「とりあえず、何か頼もう。汐奈、魚と肉ならどっちがいい?」
「私は、お肉」
「じゃあ、そっちにしようか」
ふたりの声を聞きながら、私は自分のメニューから手を離した。
「柚帆も同じでいいな」
「私には、聞かないの?」
叡司はメニューから顔を上げた。
「肉、嫌いだったか」
「料理の話じゃない」
夫は口を閉じた。隣の汐奈へ目を向け、それから私を見た。
今夜、聞いてほしかったことは、まだひとつも聞かれていなかった。
ここでうなずけば、あの花束を持ち帰ることになる。夫の帰宅を待つ部屋に飾るのだ。
私は飲んでいないグラスを見た。窓の灯が赤いワインに滲んでいた。
これからどこで暮らすのかも、仕事をどうするのかも、まだ考えられていない。
7年いた家を離れることは怖い。今夜だって、夫とふたりで食事をしたかった。
嫌だとは、もう伝えた。それでも叡司は、汐奈との関係を終わらせるとは言わなかった。
これからは、夫の帰りが遅いだけで、汐奈と一緒なのかと考えてしまう。
帰ってきてほしい。けれど、何もなかったように迎えることはできない。
私は叡司の顔を見た。
「離婚しよう」
内覧説明会の朝、私はホテルの宴会階へ上がった。開いた扉の向こうに、白い布を掛けた展示台が並んでいた。青や白の器、その横に畳まれたテーブルクロス。窓辺には店で使う予定の棚が置かれ、小さな食卓の形に品が組まれている。携帯の画面で見た実千佳の店が、部屋の一角だけ現れたようだった。正面の扉では、まだ箱の搬入が続いていた。来場者用の受付は、廊下を曲がった窓側の入口へ寄せてある。私は台車を通してから、バッグの担当表を取り出した。実千佳へ訂正を頼んでから数日が過ぎても、差し替えたという返事は来なかった。ホテルへ直接問い合わせると、主催側と一緒に開場前の確認をしてほしいと言われた。約束していた会場責任者に声を掛けると、叡司が専務を伴って来た。会社を一緒に始めた共同経営者で、私も会食で何度か会っている。「専務、こちらの接遇は妻に任せてあります」担当表を受け取った専務が、顔を上げた。「朝から夕方まで、奥様おひとりですか」「慣れていますから」叡司は私を見ずに答えた。私は実千佳へ送った辞退の連絡を、責任者と専務に見せた。「では、開始前に主催者を交えて確認しましょう」会場責任者が実千佳を呼びに行く。叡司は客に声を掛けられると、話を切り上げるように背を向けた。私は搬入の邪魔にならない壁際へ退いた。実千佳が花瓶の位置を直している。あの台に布を掛ければ早いのにと考え、動きかけた足を止めた。手を出せば、その先も自分がいるものとして進んでしまう。廊下へ来たふたり連れの男性が、正面の扉の前で足を止めた。「商品を見に来た人も、ここから入るんでしょうか」背の高い方が、同行者へ韓国語で尋ねていた。扉の内側には展示台が見えるが、その手前を箱が塞いでいる。「受付は、あの角を曲がった窓側です。こちらは、まだ荷物を運んでいるので」大学で学び、ホテルで働いていた頃に使った言葉が出てきた。私は急いで通り過ぎる台車を待ち、相手が角の先を見られる位置から受付を示した。「ありがとうございます。中へ入って待つところでした」低い声が返ってきた。同行者が先に受付へ向かい、背の高い男性は私の前に残った。濃い色の上着の袖から、細長い指が見える。「このホテルの方ですか」「いいえ。以前、別のホテルで働いていました」仕事を尋ねられて、答えられた。それだけなのに、さっきま
叡司の手が、メニューの上で止まった。「お前が出ていって、どう暮らすんだ」「それは、私が決めます」どう暮らすか。今はまだ、家賃の相場すら知らない。それでも、その不安を理由に、この食卓へ座り続けることはできなかった。「汐奈は離婚してほしいなんて言っていない」「私が望んでる」椅子を少し後ろへ引くと、厚い絨毯が脚の音を吸った。「先に帰ります」「料理も頼んでいないぞ」「ふたりで食べて」バッグを腕に掛けた。卓の端には花束がある。汐奈が花束へ指を添えかけた。私の手元を見て、その手を止めた。「持って帰らないんですか?」「受け取ってないわ」それ以上は言わず、椅子の脇を通った。背後で叡司が名前を呼んだ。一度だけ足が遅くなったが、振り向かなかった。何を言われるか確かめたくなる気持ちは、今はそのままにしておいた。扉を閉めると、廊下は静かだった。壁に沿った小さな明かりが、石の床に等間隔で落ちている。少し先のスタッフが顔を上げた。「お帰りでございますか」私はうなずいた。何も説明しなくてよいことに、初めて息をつけた。ロビーを抜け、車寄せでタクシーを頼んだ。待つ間に携帯が震えたが、今は開かなかった。ガラスに映る自分の襟元が、出かける前と同じように整っていた。こんな夜になるなら着なかった、とは思いたくなかった。後部座席で家の住所を告げた時だけ、声がかすれた。行く場所としてすぐに口にできるのは、まだあの家だった。帰宅しても、いつもの夕飯を作る気にはなれなかった。湯を沸かして、ひとり分のスープを飲んだ。隣に座ってほしかったのは、叡司だった。花もお金も、代わりにはならない。翌日、涼子から電話が来た。話は聞いたから家へ来るように、と言われ、私は離婚の意思を自分で伝えに行った。……「叡司には、汐奈さんみたいな人が合っていると思うの」須藤涼子(すどう りょうこ)は、私をいつもの席へ招いた。庭の見える居間に、客用の菓子が並んでいる。「会社も大きくなったでしょう。隣に立つ人とは、仕事の話もできた方がいいわ」私はバッグを膝に載せたまま、座った。「お義母さんは、ご存じだったんですか」「この前、叡司が連れてきたの。あなたとも話がついたと聞いていたから」いつだったのか、尋ねるのが怖かった。私がこの家で夕飯を作った日より、前かもしれない。「
「奥様が認めてくださったと聞いて、安心しました」夫の隣から、女が花束を差し出した。私は、その花を受け取らなかった。白いクロスに3人分のグラス。窓には街の灯が映り、向かいの席で夫の須藤叡司(すどう えいじ)がワインを注いでいる。今夜は、これからの暮らしについて相談したいと聞いて来た。「私が、何を認めたんですか?」花束を持つ嶋津汐奈(しまづ しおな)の笑顔が止まった。夫の会社で商品企画を任されている女性だ。ここにいる理由も、まだ聞いていない。「彼女とのことだよ」叡司はボトルを傾けたまま答えた。「妻はお前のままでいい。暮らしも変えない。汐奈とは、家の外で付き合う。それなら、お前にも困ることはないだろ」赤いワインがグラスの底で揺れた。私は夫を見た。いつもの声だった。週末に車を使うかどうか、尋ねられる時と変わらない。「付き合うって……いま何言ってるの?」「だから、今日はちゃんと話そうと思って」注ぎ終えたボトルが卓に置かれた。その小さな音を聞いてから、ようやく膝のバッグを握っていることに気づいた。汐奈が花束を少し下げた。薄い包装紙が袖に擦れる。受け取ってもらうのを待っている手が、まだ卓の端にあった。「私がいいと言ったって、話したの?」「分かってくれるとは言った」「あり得ない」叡司はグラスへ伸ばしかけた手を止めた。「そんなふうに受け取るなよ」汐奈が夫を見た。ふたりの間で視線が交わり、彼女は花束を自分の側の卓へ置いた。端からはみ出したリボンを整えてから、椅子に座る。私はその間、何も言えなかった。夫の隣には彼女の椅子があり、自分は向かいにいる。店員に案内された時は、仕事の相談も兼ねているのだろうと思った。急に呼ばれた部下を気まずくさせないよう、私の方から先に微笑んだ。それが、ほんの少し前のことだった。「あのう……奥様の生活を変えていただくつもりはありません」汐奈は背筋を伸ばした。「家に押しかけたりもしませんし、ご家庭のことに口を出す気もないです」「あなた、正気なの?」そう言って夫の顔を確かめると、眉間に浅いしわが寄っていた。「まず話を最後まで聞いてくれ」「最後まで?最初から間違ってる」叡司は椅子の背に体を預けた。汐奈は口を閉じ、卓の上で両手を重ねた。私は、このあと夫が何を言うのかを待った。昔は





