Todos los capítulos de 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!: Capítulo 11 - Capítulo 20

30 Capítulos

第11話

明はこめかみを揉み、苛立ちを抑えた。「好きなものを先に頼んでてくれ。すぐ行く」電話を切ると立ち上がり、大股で公園を出た。……リバーテラスへ戻ったときも、夏帆の目尻にはまだ赤みが残っていた。自分の頬を軽くたたき、深く息を吸う。あの2人のことも、嫌な出来事も、頭から追い出さなければ。まだ試用期間中なのだ。明とのごたごたを、この家に持ち込むわけにはいかない。夏帆は気持ちを切り替えてキッチンに立ち、手際よく夕食を作ってテーブルに並べた。席に着いた怜司は、夏帆をひと目見ると眉を寄せた。「泣いたのか」夏帆は一瞬動きを止めたが、すぐに首を振った。「いいえ。さっき玉ねぎを切っていたので」怜司はその言い訳には触れず、「そうか」とだけ答えた。やがて食事を終えて箸を置くと、怜司はポケットからカードを取り出し、テーブル越しに夏帆の前へ滑らせた。「明日は祖父の家で親戚と食事をする。一緒に来てもらうから、服とアクセサリーをそろえておけ。これからこの家でかかる費用も、そのカードから出せばいい。暗証番号は玄関のロックと同じだ」夏帆は差し出されたカードを見て一瞬戸惑い、慌てて受け取った。「わかりました。食べ終わったら、買いに行ってきます」自分の食事も手早く済ませると、キッチンを片づけ、カードを持って出かけた。……街で一番にぎわう百貨店の高級婦人服フロアで、夏帆は立ち尽くしていた。見渡す限り、普段なら店をのぞく勇気もないブランドばかりだ。買い物をするだけで、こんなにも気後れするとは思わなかった。この数年間、ずっと節約して暮らしてきた。普段着ている服も、通販のセールで買った1,000円前後のものばかりで、洗いすぎて色褪せても買い替えられなかった。明日は試用期間の最終日だ。怜司に恥をかかせるわけにはいかない。ひととおりフロアを回ってみたものの、値札を見れば見るほど不安になる。ワンピース1着で、自分の数か月分の収入が飛んでしまう。迷った末、夏帆はフロアの隅へ行き、楓に電話をかけた。「佐伯さん、お忙しいところすみません。明日の食事会は、どんな集まりなんでしょうか。いくらくらいの服を買えばいいのかわからなくて」楓はいつものきちんとした口調で答えた。「黒瀬家では毎月、ご親族が集まって食事会を開いています。会長が
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第12話

夏帆は目をこすり、画面を指で追いながら桁を3度数え直した。「一、十、百、千、万……」1億円もある。ごくりと唾をのむと、心臓が大きく跳ねた。生活費にと渡されたカードの口座に、そんな大金が入っているのだ。自分はつい先日、16万円の薬代すら用意できずに追い詰められていたというのに、何度も桁を確かめずにはいられないほどのお金を、平然と渡してくる人がいる。ATMからカードを引き抜き、大切にバッグへしまった。怜司が何者なのか、まだはっきりとはわからない。ただ、想像していた以上に、とてつもない人物なのだろう。……翌朝、5時ちょうど。夏帆は主寝室の前に立ち、約束どおりノックした。「入れ」低く、少しかすれた声がした。扉を開けると、黒と白とグレーで統一された簡素な空間が広がっていた。広々としているのにどこか冷たく、息が詰まりそうな部屋だ。怜司はヘッドボードにもたれ、分厚い洋書を読んでいた。濃いグレーのシルクのパジャマは襟元が少し開き、白い肌がのぞいている。細い銀縁の眼鏡の奥にある黒い瞳からは、何の感情も読み取れなかった。黙っていれば、本当に息をのむほど美しい人なのに。夏帆は気後れしながら近づき、声をかけた。「横になっていただけますか。そのほうが、ほぐしやすいので」怜司は本を閉じ、何も言わずに体を横たえた。ベッドの枕元に椅子を寄せて座り、夏帆は温かな指先を彼のこめかみに当てた。ほどよい力加減で、こわばりを少しずつほぐしていく。1時間余り経つと、怜司の呼吸はゆっくりと規則正しくなった。ぐっすり眠っているのを確かめて布団を掛け直し、明かりを消して静かに部屋を出た。扉を閉めて振り返ったところで、ちょうどやってきた楓と鉢合わせた。その後ろには、大きなケースをいくつも運ぶスタイリストが続いている。楓は、夏帆が主寝室から出てきたのを見て足を止めた。長時間マッサージを続けたせいで、夏帆はだるくなった手首を回していた。楓の視線が、閉じた寝室の扉からその手首へと移る。大抵のことには動じない楓が、一瞬、呆気に取られたように目を見張った。夏帆はきょとんとしたが、楓が何を想像したのかに気づくと、一気に顔を赤くした。「佐伯さん、違います!頼まれてマッサージしてただけです。頭ですよ、頭!」夏帆が慌てて手を横に振る
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第13話

汗をかいた怜司がトレーニングルームから出てきたときには、11時を回っていた。リビングでは、すっかり身支度を整えた夏帆がソファに座って待っていた。怜司は足を止め、わずかに驚いた様子で夏帆を見た。落ち着いたブルーグレーのサテンのロングドレス。黒髪は後ろでゆるく結い上げられ、後れ毛が白く長い首筋にかかっている。薄化粧が柔らかな丸顔と大きな瞳をいっそう引き立て、その姿はクチナシの花のように清らかで優しげだった。怜司は海外で、華やかな美女を数えきれないほど見てきた。だが、ただ静かに座っているだけで目を離せなくなるような女性はいなかった。人を圧倒するような派手さはなく、澄んだ泉のように、見ているだけで心が落ち着いた。怜司はすぐに表情を戻し、視線を外した。「入れ」少しかすれた声でスタイリストを呼び、主寝室へ入った。30分後、再び扉が開いた。振り向いた夏帆は、息をのんだ。怜司は仕立てのいい白いスーツに着替えていた。余計な装飾はなく、190センチの長身と冷ややかな気品が際立っている。深い黒の瞳には落ち着きがあり、目が合うだけで、なぜか胸が高鳴った。見とれていた夏帆に、怜司が声をかける。「行くぞ」夏帆ははっと我に返り、耳をほのかに赤らめた。やがて車は、山を背にして水辺に面した、広大な屋敷の敷地へと入った。週末の今日は、黒瀬家の親族の多くがすでに顔をそろえていた。古風な洋館の前で車が止まると、手入れされた芝生には、華やかに着飾った男女が大勢集まっていた。怜司が先に降り、振り返って車内の夏帆に手を差し出した。夏帆は外の人だかりに緊張し、手のひらに汗をかいていた。深く息を吸い、差し出された手に自分の手を重ねる。温かく大きな手に包まれ、軽く引かれて車を降りた。「緊張するな。俺についてくればいい」耳元に、低く落ち着いた声が届いた。夏帆は少し迷ってから手を離し、彼と腕を組んだ。「昨夜、こういうパーティーの動画をいくつも見たんです。腕を組んだほうがいいみたいで」声を落として説明すると、怜司は腕に添えられた小さな手を見下ろした。何も言わず、そのまま皆のいるほうへ歩いていく。2人が現れると、芝生にいた全員の視線が集まり、ひそひそとささやき合う声が広がった。「あの人が怜司さんの奥さん?どこのお嬢さんかしら?」「
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第14話

怜司は足を止め、雅彦を冷たく見た。「ずいぶんお暇なようだな、おじさん」声は淡々としていたが、言葉には鋭い棘があった。「何だと?」「人の結婚にまで口を出す余裕があるんだからな」「お前……!」雅彦は顔を真っ赤にして怜司を指さしたが、怒りで言葉が出てこなかった。「やめんか。向こうまで大声が聞こえていたぞ」威厳のある声に夏帆が振り向くと、杖をついた老人が歩いてきた。怜司の母方の祖父、黒瀬宗一郎(くろせ そういちろう)だった。宗一郎は目を潤ませて怜司を見つめ、深く息をついた。それから夏帆にもちらりと目を向け、怜司に声をかけた。「怜司、少し書斎へ来なさい」続いて、そばにいた愛らしい若い女性を手招きした。「琴音、夏帆さんを庭へ案内してやりなさい」「はい、おじい様!」黒瀬琴音(くろせ ことね)は明るく返事をし、笑顔で駆け寄ると、初対面とは思えない親しさで夏帆の腕を取った。「あっちへ行きましょう。嫌味な人たちなんか、放っておけばいいんです」夏帆は怜司を見た。彼がわずかにうなずいたのを確かめ、琴音と庭へ向かった。……重厚な木の扉が閉まると、外の騒がしさが聞こえなくなった。怜司は何も言わず、スーツの内ポケットから書類を取り出し、机に置いた。宗一郎はそれを手に取り、内容を確かめた。2人は正式に結婚している。冗談でも、その場しのぎの口実でもなかった。宗一郎は顔を曇らせた。「鷹宮家が決めた縁談を断るために、適当な相手と籍を入れたのか。結婚は遊びじゃないんだぞ。藤堂家の娘さんが嫌だからといって、意地になってこんな真似をすることはないだろう」怜司は1人掛けのソファに腰を下ろし、脚を組んだ。自嘲するように口元を上げる。「もともと明が嫌がった縁談だろう。あいつに無理をさせたくないからって、俺に押しつけてきたんだ。俺を何だと思ってるんだ」宗一郎は言葉に詰まり、やがて深いため息をついた。「納得できないのはわかる。だがな、藤堂家は代々、医療や薬学に携わってきた家だ。娘さんも名門大学を出ているし、一緒になれば、お前の目を治す助けにもなるだろう」怜司の表情は動かなかった。「俺がこれまでいくつの国を回って、何人の医者に診てもらってきたと思ってる」「怜司」「おじいさん」怜司は静かに遮ったが、譲
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第15話

背筋を伸ばして立つ怜司の隣に、ほっそりとした若い女がいた。親しげに彼と腕を組んでいる。続いて、音声メッセージが届いた。「明さん、お兄さんの結婚の話、本当でしたよ。黒瀬家の食事会に奥さんまで連れてきてます。藤堂家のお嬢さんとは、よっぽど結婚したくなかったんですね」明の目つきが鋭くなった。鷹宮家と藤堂家は、ずっと前に縁談を取り決めていた。しかし、自分にはすでに想う相手がいる。藤堂家の令嬢と結婚する気など、あるはずがない。だからこそ、帰国したばかりの怜司にこの話を押しつけたのだ。病気を抱え、長年鷹宮家から遠ざけられていた兄なら、医薬の分野で有力な藤堂家との縁談に飛びつくと思っていた。それが、縁談を断ったうえに、あっという間に別の女と結婚した。写真を睨みつける明の眉間に、深いしわが寄る。ブルーグレーのドレスを着た女は、横顔しか写っていない。それなのに、白い首筋とすっきりした顎の線に夏帆の面影が重なり、胸がざわついた。明はとっさに返信を打った。【2人を正面から撮れ】そう送ったあとも、じっと写真を見つめていた。やがて、自嘲するように笑う。最近、夏帆に振り回されて、どうかしているのだろう。写真の女は仕立てのよいドレスを着ていて、首元の宝石も日の光を受けて眩しく輝いている。身につけたものだけで、少なくとも2,000万円はするはずだ。2,000円の服を買うのにも散々迷っていた夏帆が、こんな姿で怜司の隣に立っているはずがない。間もなくして、相手から音声メッセージが届いた。「無理ですよ。今日は写真を外に出すな、怜司さんの結婚も言いふらすなって、大旦那様からきつく言われてるんです。見つかったら、3年は黒瀬家の食事会に呼んでもらえなくなるんですよ。さっきのだって花壇の陰に隠れて撮ったんですから。もう怖くて撮れません」明はスマートフォンの縁を指でたたき、結局、短く返した。【もういい。2人の様子を見ておいてくれ】スマートフォンを机に放り出しても、苛立ちは収まらなかった。窓際に立ち、箱から煙草を抜いて火をつける。白い煙が広がり、明の不機嫌な顔をかすませた。怜司が結婚した以上、縁談の話はまた自分のところへ戻ってくる。何としても、藤堂家との縁談を白紙に戻さなければならない。……一方、黒瀬家の庭では、琴音に連れら
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第16話

夏帆はきょとんとして、周りの高価なスマートフォンと自分のものを見比べた。別に恥ずかしくはなかった。夏帆は微笑んで答える。「使っているうちに愛着が湧いて、なかなか手放せないんです。仕事で薬を調合するので、土や薬草を触ることも多くて。高いスマホだと、落としたときが心配でしょう?これはもう3年使ってますけど、水に落としても壊れなかったんですよ」薬の調合や土という言葉に、周囲の目つきが変わった。鼻で笑う者までいる。「無理して怜司さんをかばわなくてもいいんですよ。ここは身内ばかりなんですから、事情くらいわかってます」上等なスーツを着た若い男が、そう言って近づいてきた。ため息をつき、同情するような口ぶりで続けた。「怜司さんが鷹宮の家に海外へ追いやられて、苦労してたのはみんな知ってますよ。おじい様の援助がなければ、学費だって払えなかったでしょう。今回も、あの縁談を受けておけば財産を少しはもらえたはずなのに、意地を張って断るなんてもったいない」男は首を横に振り、夏帆を気の毒そうに見た。「金に困ってるなら、遠慮なく言ってくださいよ。そんな立派なドレスを着てるのに、スマホを買い替える金もないなんて、周りに知られたら黒瀬家まで恥をかきますからね」夏帆は面食らった。海外へ追いやられて、放っておかれた?学費すら払えなかった?頭に浮かぶのは、何十億円もしそうなリバーテラスの広い部屋と、バッグに入っている残高1億円のカードだ。あれのどこが、お金に困っているというのだろう。どう答えようかと顔を上げると、洋館から背の高い人影が出てきた。片手をスラックスのポケットに入れた怜司が、冷ややかな顔でこちらを見ている。ほっとした夏帆は足早に近づき、怜司と腕を組んで見上げた。「怜司さん、おじい様とのお話、もう終わったの?」怜司は夏帆を見下ろした。夏帆は素直な笑みを浮かべていた。まるで、本当にずっと自分が戻るのを待っていたかのようだった。「ああ。食事の時間だ。行こう」「よかった。お腹空いちゃった」夏帆は明るく笑いかけ、腕を組んだまま広間へと向かった。広間には、5、6卓のテーブルが用意されていた。怜司は迷うことなく夏帆を連れ、中央のテーブルへ向かう。そこに座っているのは、黒瀬家の中でも中心となる親族たちだ。怜司が家柄も後ろ盾もな
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第17話

そのひと言で、何人かの顔色が変わった。怜司の伯母、黒瀬由紀子(くろせ ゆきこ)が箸を置き、嫌味な調子で口を挟んだ。「お父様、怜司さんは長く海外にいたんですから、自由に過ごすのに慣れているんじゃありません?決まりごとの多いこの家に泊まっても、くつろげないと思いますよ?それに、まだ新婚なんですから、2人きりで過ごしたいでしょう。私たちがいたら、気を遣わせてしまいますわ」由紀子の本音は、誰の目にも明らかだった。怜司が泊まって宗一郎に取り入り、黒瀬家の財産を分けてもらうのが嫌なのだ。食卓に気まずい空気が漂った。怜司は冷ややかな表情のまま、何も言わない。周囲にどう思われても、気にしていない様子だった。夏帆は怜司を見た。このまま誰も答えなければ、宗一郎の顔が立たないし、怜司の立場も悪くなる。由紀子に向き直り、穏やかに微笑んだ。「そうですね。怜司さんは仕事も忙しいですし、普段は静かに過ごすのが好きなんです」由紀子が得意げな表情を浮かべると、夏帆は話を続けた。「でも、おじい様もお年ですし、家族がそばにいたほうがいいと思うんです。怜司さん、海外にいた頃もよく言っていました。おじい様のそばにいてあげられないのが心残りだって」怜司は横目で夏帆を見たが、その話を否定しなかった。「せっかく帰ってこられたんですから、忙しくても、まずはおじい様と過ごさないと」夏帆は由紀子を見つめた。口元は笑っていても、目は笑っていない。「私たちのことまで気遣ってくださるおば様なら、おじい様にも喜んでほしいですよね?」由紀子は腹を立てたものの、言い返せなかった。ここで反対すれば、宗一郎の気持ちをないがしろにすることになる。「ははは、うれしいことを言ってくれるね」宗一郎は声を上げて笑い、きっぱりと言った。「今夜は泊まっていきなさい。それで決まりだ」……夕食が終わると、にぎやかだった屋敷も少しずつ静かになっていった。親族たちが順に帰り、リビングにはテレビの音だけが残った。夏帆はソファに座り、宗一郎とテレビを見ていた。障害を抱えながら懸命に生きる人々のドキュメンタリーが流れている。宗一郎は画面を見ながら、深いため息をついた。「夏帆さん」宗一郎が夏帆のほうを向いた。その目には、孫を不憫に思う気持ちがにじんでいた。「はい、お
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第18話

この部屋のベッドは、2人で寝られる大きなものが1台だけだった。夏帆は落ち着かず、服の裾をつかんだ。「あの、黒瀬さん。私はソファで寝ますから」怜司は、あまり幅のないソファに目をやった。「ああ」とだけ答え、バスルームへ入っていく。扉が閉まると、夏帆はようやく息をついた。気のせいだろうか。宗一郎があの話をしてから、怜司の表情は暗いままだ。普段から無口で冷たい人だが、今夜はどこか様子が違った。間もなく怜司が出てきた。夏帆は彼をちらりと見ただけで、急いで寝間着を持ってバスルームへ入った。寝支度を終えて戻ると、怜司は大きな窓の前に立っていた。外は真っ暗で、星ひとつ見えない。背筋を伸ばしたまま動かないその後ろ姿が、どこか寂しげだった。夏帆はソファに横になったが、何度寝返りを打っても寝つけなかった。怜司がまだ窓辺に立っているのを見て、夏帆は声をかけた。「黒瀬さん、まだお休みにならないんですか?頭をほぐしましょうか。少しは眠れるかもしれませんよ」少し間を置いて、怜司がそっけなく答えた。「必要ない」怜司が振り返ってベッドへ向かったとき、夏帆は異変に気づいた。いつもは鋭いその目が、今は焦点が合わず、空ろだった。怜司はゆっくり歩いてベッドまで行くと、かがんで縁に触れ、確かめてから横になった。夏帆は息を止め、その様子を見ていた。楓に言われたことを思い出す。怜司の物は、決まった場所から動かしてはいけない。私物を触られたり、いつものやり方を変えられたりするのが嫌いなのだと。ただ気難しくて、あれこれ干渉されたくない人なのだと思っていた。でも、違うのかもしれない。物の置き場所が変わると、どこにあるのかわからなくなるのではないか。鼓動がだんだん速くなった。夏帆はゆっくりと体を起こし、足音を忍ばせてベッドへ近づいた。怜司の目の前で、手を軽く振ってみる。何の反応もない。まつげさえ動かなかった。夏帆は口を覆い、息をのんだ。人に言えない不調とは、男性としての悩みではなかった。目が見えないのだ。少なくとも、今は。……翌朝、まだ5時前だった。衣擦れの音で目を覚ますと、怜司が布団をめくり、ベッドから下りようとしていた。まだ目が見えないのだと思い、夏帆はとっさに体を起こした。「お手洗いですか?お連れしましょ
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第19話

まさか、生薬が効いてしまって、朝から冷たいシャワーを浴びているのではないか。夏帆は自分の額をたたいた。なんてことをしてしまったのだろう。まずい。勝手に精のつく生薬を料理に入れていたと知られたら、すぐに追い出されるに違いない。30分後、シャワーの音が止まった。夏帆は慌てて目を閉じ、ぐっすり眠っているふりをした。かすかな衣擦れの音がしたあと、扉が静かに閉まった。怜司が出ていくと、夏帆はようやく目を開け、ほっと息を吐いた。そのあと半日、夏帆は宗一郎の話し相手をして過ごした。穏やかに話を合わせ、細やかに気を配る夏帆のおかげで、宗一郎はずっと上機嫌だった。午後になって、ようやく怜司と一緒にリバーテラスへ戻る車に乗った。怜司は背もたれに身を預けて目を閉じ、ひと言も話さない。車内の空気は重く、夏帆は落ち着かない気持ちで座っていた。3日間の試用期間は、今日で終わる。自分の働きぶりに満足してもらえたのか、まるでわからなかった。マンションが近づいた頃、楓のスマートフォンの通知音が鳴った。画面を確認した楓が、後部座席へ声をかける。「会長、林先生から連絡です。このあと病院で、全身の検査を受けてほしいそうです」夏帆はどきりとした。病院で全身の検査?もう駄目だ。医師が少し話を聞いて体の状態を診れば、精のつくものを食べていたと気づくはずだ。怜司に問い詰められたら、ここを辞めるだけでは済まないかもしれない。「わかった」怜司は目を開け、夏帆のほうを向いた。「先に戻っていろ」「……はい」夏帆はどうにか笑顔を作って車を降りた。黒い高級車が走り去っても、夏帆はその場に立ち尽くしていた。手足はすっかり冷たくなっていた。もう、ここにはいられないだろう。部屋に戻ってあたりを見回すと、たった数日しか暮らしていないのに、ここを離れたくないと思った。幼い頃は母と狭い借家で暮らし、そのあとはアキラと、十数平米の部屋に身を寄せ合って住んでいた。ベッドは寝返りを打てば壁にぶつかるほど狭く、冬には窓から隙間風が入った。夏には階下の飲食店が明け方まで騒がしかった。こんなによく眠れて、おいしいものを食べられたのは、生まれて初めてだったかもしれない。怜司の体を気遣って食事を作るおかげで、自分も一緒にお肉を食べられた。夏帆は肉が大好きで、特に
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第20話

聖ルミナス国際病院、最上階のVIP診察室。林奏一は、印刷されたばかりの検査結果を手のひらで軽くたたいた。この病院の院長で、怜司の主治医でもある。「目の症状は前と同じだ。視神経が圧迫されて、血流も安定しない。それで一時的に見えなくなるんだ。ただ、数値は前より少しよくなってる。目以外は、驚くほどいいぞ」奏一は椅子を引いて腰を下ろし、向かいの怜司を見た。「正直に言えよ。この2日、何か精のつくものを食べてないか?」怜司は背もたれに身を預け、膝の上に手を置いたまま眉を寄せた。「問題があるのか」「ない。むしろ、いいことだ」奏一はからかうように笑った。「ここ何年も生活が不規則で、体に無理をさせてきただろ。胃腸の働きも血の巡りもよくなかった。もっと早く食事を見直せばよかったんだ。普段はあっさりした食事で、量も控えてるだろ。急に精のつくものを食べたから、体がほてってるんだ。数日で慣れるよ」奏一は、そばに控えていた楓のほうを向いた。「それにしても、ずいぶん早く効いたな。生薬のことをよくわかってる人が作ったんだろう。どこで見つけた料理人だ?」楓は無表情な怜司の顔色をうかがい、少し言いにくそうに口を開いた。「奥様が作っていらっしゃいます。リバーテラスに来られてからは、料理人を呼んでいませんので」「奥さんって、この前籍を入れた相手か?薬にも詳しいのか?」「多少は」そう控えめに答えつつ、楓は心の中で付け加えた。多少どころではない。薬に詳しく、鍼もマッサージも得意だからこそ、100人以上の候補者の中から夏帆を選んだのだ。奏一は感心したように声を漏らし、脇の棚から書類を取って怜司へ渡した。「実は、東洋医学に詳しくて、お前の体調を整えたり、身の回りの世話をしたりできる人を紹介しようと思ってたんだ。もう必要ないかもしれないが、一応見てくれ。その子の履歴書だ」椅子に寄りかかり、話を続ける。「お前に合う人がいないか、うちの東洋医学センター長に探してもらっていたんだ。若いが、腕は確かだぞ。難しい症例もかなり診ている。ただ、事情があって資格を取れていなくてな。資格さえあれば、仕事探しで苦労することもないだろうに」怜司は書類を受け取り、右上の証明写真へ視線を落とした。髪を高くまとめた、丸顔で目の大きな娘が写っている。
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