Todos los capítulos de 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!: Capítulo 21 - Capítulo 30

30 Capítulos

第21話

ただ報酬の不足分を埋め合わせるだけだという、事務的な口調だった。それでも奏一は眉を上げ、自分の耳を疑った。長年の付き合いだが、これほど冷淡な男が、誰かのために口を利いたことなどあっただろうか。まして、病院の採用に関わるなんて、初めてのことだ。「会長直々の頼みじゃ、断れないな。採用するよ」奏一は笑って請け合い、顎をなでながら面白そうに怜司を見た。「ずいぶん気に入ってるんだな。うちで働くようになったら、お前と過ごす時間が減るぞ。いいのか?」怜司は机の上の履歴書に目をやり、素っ気なく言った。「1日中まとわりつかれるのは、好きじゃない」突き放すような、冷たい口ぶりだった。奏一は、相変わらず素直じゃないと思った。本当に遠ざけたいだけなら放っておけばいいのに、報酬の埋め合わせだなどと口実を作って、わざわざ仕事の世話までしてやるとは怜司らしくない。奏一は意味ありげな目を向けた。「ああ、わかったよ」……夏帆はスーツケースを傍らに置き、バス停のベンチに座っていた。目の前を行き交う車をぼんやり眺めながら、どこへ行けばいいのかわからなかった。アパートは引き払った。リバーテラスへは戻れない。母にも心配をかけたくなかった。うつむいていると、ポケットのスマートフォンが震えた。上の空で画面を見ると、メッセージが届いていた。【橘夏帆様。聖ルミナス国際病院です。選考の結果、東洋医学センターの診療補助研修生として採用が決まりました。本日午後2時までに、必要書類をお持ちのうえ、同センターへお越しください】夏帆は画面を見つめた。3度読み返し、ようやく見間違いではないとわかった。診療補助の研修生。応募したのは、施術を補助する仕事だった。それが、患者と接しながら、経験豊富な医師の診察を間近で見て学べるのだ。資格のない自分に、こんな機会が巡ってくるなんて。目頭が熱くなった。行くあてもなく途方に暮れていたのに、ようやく希望が見えた。すぐにスーツケースを引き、足早に病院へ向かった。総合受付で荷物を預かってもらい、3階の東洋医学センターへ急ぐ。エレベーターを出て角を曲がったところで、白衣を着た美咲と鉢合わせた。夏帆の姿を見るなり、美咲は顔をしかめた。「夏帆?また来たの?いい加減にしなさいよ」美咲がうんざりした顔で行く手を塞
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第22話

自分は医科大学の大学院で学び、この病院でもずっと頑張ってきた。それでもまだ診療の補助しか任されないのに、資格もない夏帆が、どうして初日からセンター長について学べるのか。激しい嫉妬で胸が焼きつくようだった。美咲は歯を食いしばって部屋へ戻り、扉に内鍵を掛けてからバルコニーへ出た。明に電話をかけると、3回の呼び出し音のあとにつながる。「美咲、どうした?」優しい声に、かすかな疲れがにじんでいた。美咲は話し始めるなり涙をこぼし、明を気遣うように言った。「明さん……私に買ってくれたあのマンション、やっぱり夏帆さんにあげたら?」一瞬、返事がなかった。「何言ってるんだ。あの部屋はお前にやったんだぞ。余計な心配せず、そのまま住んでればいい」美咲は鼻をすすり、言葉に詰まった。「でも、夏帆さん、本当に大変そうで。やっとこの病院で働けるようになったのに、あの家からだと往復3時間以上もかかるでしょう?毎日通うのはつらいと思うの」「聖ルミナスで働くのか?資格もないのに、どうやって入ったんだ?」美咲はその言葉を待っていた。心配そうに声を落として続けた。「私にもわからないの。でも、さっきセンター長が夏帆さんにすごく親切にしてて、自分の部屋に連れていったのよ。扉まで閉めて、なかなか出てこなくて……私への当てつけに……ううん、私と同じ病院で働きたくて、何かよくないことをしたんじゃないかって心配なの。ここ、なかなか採用してもらえないでしょう?資格もないのに入れるなんて、誰かと特別な関係でもないと無理だもの」電話の向こうで、明が黙り込んだ。スマートフォンを握る手に力を込め、目つきを険しくする。夏帆は、プライドの高い女のはずだった。聖ルミナスで働くために、ほかの男にすがったとでもいうのか。その男の前では、おとなしく言うことを聞いているのかもしれない。そう思うと、無性に腹が立った。明の声がぐっと冷たくなった。「わかった。俺が何とかする。お前の仕事の邪魔はさせない」電話を切ると、美咲の顔から悲しげな表情が消えた。遠くで光る湖面を見ながら、得意げに口元をゆがめる。「私のものは、何ひとつ奪わせないわ」……一方、滞りなく入職手続きを終えた夏帆は、鶴彦の部屋で緊張しながら仕事の注意事項を聞いていた。「鍼の腕も、生薬を見分ける
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第23話

「うちは私立病院だから、何かと目をつけられやすくてね。騒ぎが大きくなれば、君が訴えられるかもしれない。病院も無関係では済まなくなる」夏帆は全身から血の気が引いた。鶴彦を見ながら、自分が情けなくなった。まただ。少しでも希望が見えると、あの人たちが追ってきて、何もかも台無しにしてしまう。「わかりました。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」夏帆は力なく立ち上がり、部屋を出ようとした。「待ちなさい」このまま帰してしまうには惜しい。鶴彦は夏帆を呼び止めた。「まだここで働く気があるなら、受付をやってみないか?」受付。夏帆はやりきれない気持ちになった。医療の知識がなくてもできる仕事だ。診察について学ぶことも、難しい症例に関わることもできなくなる。鶴彦は夏帆を見て、言葉を続けた。「受付なら資格は要らないから、問題なく働ける。まずはここに残って、処方を見て勉強することもできるだろう」夏帆は深く息を吸い、落ち込む気持ちを抑えてうなずいた。「お願いします。ここで働けるなら、受付でも構いません。ありがとうございます」鶴彦は感心した。思っていた以上に、芯の強い娘だ。「ただ、男女関係でもめているなら、まずはそちらを解決したほうがいい。相手が君を見張っているうちは、診察についてもらうのも難しいからね」声を落とした鶴彦の言葉に、夏帆は目を見張った。「男女関係ですか……?通報したのは、東洋医学協会の人じゃないんですか?」鶴彦は不思議そうな顔をした。「どうして協会の話が出てくるんだい?」夏帆は答えず、うつむいた。その目に冷たいものが宿る。祖父の死も、父の死も、母の体に残る毒も、何年も資格を取る邪魔をされてきたことも。すべて、今の協会会長であるあの男が関わっている。今回もあの男の仕業だと思っていたが、違ったらしい。なら、考えられる相手は1人しかいない。夏帆は苦笑した。「わかりました。私のほうで何とかします」ほどなく配属変更の手続きを済ませ、受付の制服に着替えると、東洋医学センターのロビーでカウンターの内側に立った。……怜司がリバーテラスへ戻ると、室内は静まり返っていた。テーブルには料理が並び、冷めないようにそれぞれ蓋がしてあった。そのそばに、自分が渡したカードと1枚のメモが置かれている。
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第24話

1分もたたないうちに、楓が慌ただしく入ってきた。怜司がひどく不機嫌なのは、ひと目でわかった。楓は慎重にテーブルへ近づき、メモとカードに目を留める。「奥様が……出ていかれたのですか」楓も眉をひそめた。これはまずい。「すぐに連絡して、戻っていただきます!」怜司は何も言わず、楓を見ることもなく背を向けた。険しい顔で書斎へ入り、扉を強く閉める。楓は額の冷や汗を拭い、閉じた扉を見た。この人の機嫌は、ますます読めなくなっている。……夏帆が受付に立ってから1時間以上が経った頃、楓から電話がかかってきた。画面に楓の名前が表示され、気が重くなる。とうとう、そのときが来たのだ。電話に出て、自分から口を開いた。「佐伯さん、すみません。勝手なことをしてしまって……離婚の手続きは、明日になりますか?」楓は一瞬、言葉に詰まった。「奥様、私たちが戻るまで待っていただきたかったです」困り果てた声に、夏帆は目を伏せた。待っていても、結果は同じだったはずだ。冷たい顔で追い出されるなんて惨めすぎる。それなら、自分から出ていくほうがまだましだった。夏帆が何か言おうとすると、楓が先に続けた。「3年の契約は、まだ始まったばかりです。契約書にサインをして報酬も受け取られた以上、約束は守っていただかないと。どうしても一方的に契約をやめるとおっしゃるなら、お支払いした額の10倍を違約金としていただくことになります」10倍。つまり、5,000万円。夏帆は頭が真っ白になった。そんな大金、払えるわけがない。「違います、私から出ていきたかったわけじゃ……」必死に言いかけて、はっとした。「じゃあ、私……追い出されるわけじゃないんですか?」信じられずに聞き返した夏帆の目に、光が戻った。「ええ、そうです」楓が電話の向こうでため息をついた。「早く戻ってください。会長はまだ食事をなさっていません」「はい、すぐ帰ります!」何度もうなずいて答えるうちに、胸のつかえがようやく取れた。電話を切ると、ちょうど退勤時間だった。更衣室へ向かおうとした夏帆を、鋭い声が呼び止めた。「ちょっと、そこの受付。エレベーターの前に届いてる薬を倉庫に運んでおいて」少し離れたところに、美咲が腕を組んで立っていた。顎を上げ、見下すような目をこ
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第25話

夏帆はそう言いながら、足早に進んだ。美咲のそばを通るとき、箱に隠れるようにして、思いきり体をぶつけた。「きゃっ!」不意を突かれた美咲は、勢いよく床に倒れ込んだ。夏帆は気づかないふりで足を踏み出し、美咲の足の甲を強く踏みつけた。「いったあ!足が……!」あまりの痛みに、美咲の目から一気に涙があふれた。夏帆はようやく箱を横にずらし、目をぱちくりさせて床の美咲を見下ろした。「あら、相沢先生。どうしてこんなところに倒れてるんですか?箱で前が見えなかったんですよ。すぐそばにいたなんて気づきませんでした。荷物を運んでるんですから、少しは気をつけてくださいよ」とぼけた口調に、嫌味がにじんでいた。「あんた……わざとでしょ!」美咲は痛みで顔を真っ白にし、夏帆を指さして怒鳴った。「勝手なことを言わないでください」夏帆は目を細め、にっこり笑った。「私に言いがかりをつけてる暇があるなら、頭でも診てもらったらどうですか?」箱を抱え直し、振り返らずに倉庫へ向かう。美咲は床に座り込んだまま痛みに顔をゆがめ、遠ざかる夏帆を指さして叫んだ。「夏帆!ちょっと待ちなさい!」周囲で荷物を運んでいた看護師や職員も、あきれて口を開いた。「相沢先生、そこを空けてもらえますか?まだ運ばなきゃいけない荷物がたくさんあるんです」「手伝わないなら、せめて邪魔しないでくださいよ」そう話している間に、大きな箱を抱えた若い職員が足早に近づき、美咲のもう片方の足を踏みそうになった。美咲はぎょっとして、痛みをこらえながら慌てて立ち上がった。そのまま足を引きずり、診察室へ逃げ戻る。室内のガラス窓から、重い箱を抱えて廊下を何度も行き来する夏帆を睨みつけた。爪が手のひらに食い込むほど、拳を握りしめている。「やっぱり、そういう雑用がお似合いなのよ」歯を食いしばり、低く吐き捨てた。「あんたなんか、一生そうやって荷物を運んでればいいのよ」夏帆が汗を流して働く姿を見て、美咲は少しだけ気が晴れた。それでも、憎らしい気持ちは増すばかりだった。……夏帆がスーツケースを引いてリバーテラスへ戻ったときには、もう暗くなっていた。病院で生薬の箱を運んだせいで、服は埃だらけで髪も乱れ、すっかりくたびれた格好になっていた。扉を開けると、リビ
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第26話

夏帆は唇を結び、申し訳なさそうにうつむいた。楓はかばんから分厚い書類の束を取り出し、夏帆に差し出した。「それから、こちらが会長の診療記録です。お渡ししておきます」夏帆は目を丸くして、差し出された記録を見つめた。「これ、私にですか?」これまでは怜司の体のことを知ろうとしても、楓は警戒してひと言も教えてくれなかった。それなのに、他人に知られたくないはずの詳しい記録まで見せてくれるというのか。「会長が奥様に残ってもらうことにしたんですから、薬膳が効いたんでしょう。これからもこの記録を見て、体調を整えてあげてください」楓はため息をついた。「ただ、妙なことは考えないでくださいね。会長を本気で怒らせたら、ただじゃ済みませんよ」そう言い残すと、楓は帰っていった。夏帆は診療記録を抱えてテーブルへ向かった。料理は手つかずのまま、すっかり冷めている。カードもメモも置いたままだった。恥ずかしくなり、急いでメモを丸めて捨てた。カードをしまい、深く息を吸ってから記録を開いた。ざっと目を通しただけで、夏帆は息をのんだ。そこには、怜司が受けてきた治療や病状の変化が詳しく記されていた。怜司は8歳のとき、ある事故で両目の視力を失った。12歳のときにリスクの高い手術を受け、どうにか視力を取り戻している。だが、事故で受けた心の傷は深く、ひどいトラウマを抱えるようになった。視力が戻ってからも、時折、目が見えなくなるという。今は30歳。この十数年で35か国を回り、何度も手術を受け、最先端の治療も試してきた。それでも、完治には至っていなかった。夏帆の眉間にしわが寄る。目が見えなくなるだけではない。想像もつかないほど、心も苦しめられてきたのだ。あれほど気難しく、人を警戒するのも無理はなかった。テーブルの上の冷めた料理に目をやると、なんとも言えず胸が締めつけられた。記録をしまい、料理をキッチンへ運んで温め直した。それから書斎の扉を軽くノックする。「黒瀬さん、お食事ができました」中からは何の音もしない。少し待ってから、今度は寝室の扉をノックした。「黒瀬さん?」やはり返事がない。だんだん不安になってきた。また急に目が見えなくなったのか、それとも部屋で何かあったのか。迷った末に寝室のドアノブに手をかけ、回そうとしたそのと
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第27話

食事を終えた夏帆は、キッチンに残った食材を見て、もう一度鍋を火にかけることにした。何も食べていない怜司のために、体を温める薬膳うどんを作る。あっさりしていて香りもいいから、食欲がないときでも食べやすいはずだ。器をトレーに載せて再び書斎へ向かい、深く息を吸ってからノックした。今度はすぐに扉が開き、苛立ちを隠さない怜司が夏帆を見下ろす。「まだ何か用か」夏帆は唾をのみ込み、勇気を出してトレーを差し出した。「あの、少しだけでも召し上がってください。何も食べないと、お体に障りますから」怜司がトレーに目を落とした。うどんには、こんがり焼いた目玉焼きと青菜が載っていた。薬膳の香りが漂ってくる。先ほどから胃がしくしく痛んでいた怜司は、その匂いに食欲をそそられた。怜司はしばらく夏帆を見つめてから、何も言わずに書斎を出て、扉を閉めた。夏帆は顔をほころばせ、トレーを持って足早にあとを追った。ダイニングの席に着くと、怜司は無言で箸を取って食べ始めた。室内は静まり返り、ときどき箸が器に触れる音だけが響く。夏帆はそばに立ち、緊張しながら服の裾を握りしめた。「申し訳ありませんでした」声を落として謝っても、怜司は顔も上げず、食べ続けた。「これからは、出ていけと言われない限り、勝手に出ていったりしません」ようやく怜司の箸が止まった。顔を上げた彼に見つめられ、夏帆は落ち着かなくなった。何を考えているのか、まるでわからない。「東洋医学は、誰に教わった」「祖父です。もう亡くなりましたが」夏帆が正直に答えると、怜司はわずかに眉を寄せた。「何年くらい学んできた」夏帆は少し考え、寂しそうに答えた。「20年くらいでしょうか。物心ついた頃には、毎日祖父と薬草を見分けたり、生薬の名前や効能を唱えて覚えたりしていました。祖父は亡くなる前にも、学ぶことはまだまだあるから、怠けるなって。それを守って、今も毎日勉強を続けているんです」ただ、話さなかったこともある。必死に学ぶのは、祖父の技術を継ぐためだけではない。祖父も父も母も、あんな目に遭わされたままで終わらせたくなかった。東洋医学協会で善人面をしている連中には、必ず報いを受けさせたい。だが、今の自分にはまだ力が足りない。もっと実力をつけて、きちんとした医療機関で働け
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第28話

食器を片づけると、夏帆は自分の部屋へ戻った。スーツケースの一番底から、古い医学書を数冊取り出した。紙は黄ばみ、ページの端も擦り切れているが、どれも祖父が遺してくれた宝物だった。ベッドの上に座り、柔らかな明かりの下で1ページずつめくっていく。余白には、祖父が書き込んだ注釈や覚え書きがびっしり残っていた。内容はすっかり覚えている。それでも、目の神経の損傷や、心の問題で目が見えなくなる症状について何か書かれていないか、もう一度確かめたかった。夜遅くまで読み返したが、どの本にも同じような症例は見つからなかった。夏帆は落胆して本を閉じ、痛むこめかみを揉んだ。そのとき、祖父が生前、特に大切にしていた数冊の古い医学書を思い出した。重くて傷みやすかったため、実家を出るときに置いてきたものだ。目の神経に関わる珍しい病気についても、あの本に書かれていた気がする。「時間を見つけて、実家に帰らないと」夏帆は暗い窓の外を見つめ、つぶやいた。……翌朝、夏帆は早起きして怜司の頭をマッサージすると、スーパーへ買い物に出かけた。買ってきた新鮮な食材を冷蔵庫にしまい、急いで聖ルミナス国際病院へ向かった。それだけ済ませてきても、センターには誰よりも早く着いた。生薬の香りが漂うフロアは、まだ静まり返っている。夏帆は受付に座り、センターに置かれていた医学書を夢中で読んでいた。30分ほど経つと、廊下から足音や話し声が聞こえ始めた。やがて、受付のカウンターがコツコツと2度たたかれる。患者が来たのだと思い、夏帆は笑顔で顔を上げた。「おはようございます。ご予約はございますか?どちらの先生の――」そこで言葉が止まった。目の前に立っていたのは、患者ではなく明だった。仕立てのいいダークスーツがよく似合っていたが、その目は冷たかった。片腕で、足を引きずる美咲を支えている。「夏帆」明は低い声で問い詰めた。「美咲にちょっかいを出すなと言っただろう。どうして聞かないんだ?」顔色の悪い美咲は、大きめの白衣に包まれ、いっそうか弱く見えた。明の袖を引き、か細い声で言う。「明さん、やめて。夏帆さんは悪くないの。私がうっかり足を痛めただけだから……」「かばうな。防犯カメラの映像を見たんだ」明は美咲を遮り、鋭い目で夏帆を睨みつけた。「昨日
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第29話

夏帆は明を見据えた。「私を通報したの、あなたなの?」明の目に、一瞬動揺が浮かんだ。やはり、この男だった。だが、明は悪びれるどころか、かえって突き放すように言った。「資格を持ってれば、通報されたって問題ないだろ。自分はできるって言うくせに、資格も取れないのか。あのアパートでやってたような治療が、病院でも通用すると思ってるのか?」夏帆は青ざめた。どんな侮辱よりも胸に刺さる言葉だった。努力しなかったわけではない。資格を取ろうとするたびに妨害され、その道を閉ざされてきたのだ。なのに彼の目には、それさえも実力不足の証拠にしか見えないらしい。夏帆の顔色を見て、明は一瞬ためらったが、すぐに冷たい表情に戻った。「お前がここまで嫉妬深いとは知らなかった」聞き分けのない相手を叱るような言い方だった。「ホテルでのことを根に持ってるんだろう。なら、はっきり言っておく。俺の記憶を戻してくれたのは美咲だ。自分なら治せるって言ってたくせに、3年たっても俺の記憶は戻らなかっただろ。それが、美咲に鍼を2本打ってもらっただけで、全部思い出せたんだ。自分の力不足を認めればいいだろう。意地を張って陰で嫌がらせなんかするな。そんな真似をするから、余計にお前を見下したくなるんだ」胸を殴られたように痛み、悔しくて言葉が出なかった。明は、夏帆に治せるとは一度も思っていなかった。夏帆のことも、何もわかっていなかったのだ。5年も治療を受け、世話までしてもらっておきながら、治せなかったと責めるばかりだ。そのうえ、美咲が横取りした手柄を自慢げに語り、夏帆を馬鹿にしている。笑ってしまうほどばかばかしい。それなのに、笑えなかった。「2年前……」震える声を必死に抑え、夏帆は問いかけた。「じゃあ、2年前には、もう記憶が戻っていたの?」明は口をつぐみ、否定しなかった。夏帆は明を睨みつけた。「だったら、どうしてこの2年間、記憶がないふりをしてたの?私が馬鹿みたいに朝から晩まで3つも仕事を掛け持ちして、生活を切り詰めて、あなたの食費も服代も、会社の資金まで出してたのに。それを見て、よく黙っていられたわね!」涙をにじませた夏帆に見つめられ、明はなぜか苛立った。視線をそらし、冷たく答える。「自分の腕には自信があったんじゃなかったのか?俺
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第30話

涙をこらえて目を赤くした夏帆を見て、明はますます苛立った。何か言おうと口を開きかけたところで、美咲がその腕を引いた。「明さん、もう夏帆さんを責めないで」美咲は弱々しくため息をついた。「もう受付に回されたんだし、ここで働くくらい、いいじゃない。私は気にしてないわ」それから夏帆に向き直り、哀れむような目で見た。「明さんも言い方はきついけど、悪く思わないでね。あんな大きなグループを任されて、毎日会議や接待でくたくたなの。お金の催促ばかりしないで、少しは気遣ってあげたら?明さんがお金に困ってるわけないでしょう?あなたに払う分を惜しんだりしないわよ。そんなにしつこく言うと、私まで、夏帆さんがお金目当てだったんじゃないかって思っちゃうわ」美咲は微笑み、そのまま明の胸へ体を寄せた。「診察室まで連れていって。疲れが取れるマッサージを覚えたから、やってあげるね」明は夏帆から目をそらし、冷たく言った。「そこまでしてここにいたいなら、勝手にしろ。美咲みたいに仕事をこなして、俺のことも少しは理解できるようになったら、金は払ってやる」明が美咲を支えて歩き出すと、彼女はすぐに小さく声を上げてよろめいた。「痛っ……」「どうした?」明が眉をひそめる。「足が……急いで歩いたら、痛くなっちゃって」目を潤ませた美咲を見るなり、明は身をかがめて抱き上げた。「きゃっ!下ろして、みんな見てるわ……」美咲は恥ずかしげに明の胸へ顔を埋めた。「見てたって構わない」明はそっけなく答え、美咲を抱きかかえたまま廊下を歩いていった。その背を見つめる夏帆は、怒りに震えながら、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。「夏帆さん、どうかしたかい?まだ慣れないことも多いだろう?」背後から穏やかな声がして、鶴彦が優しい笑顔で近づいてきた。夏帆は深く息を吸い、気持ちを落ち着かせてから、笑顔で振り向いた。「いいえ、大丈夫です」「そうか。困ったことがあったら、いつでも相談しておくれ」「はい。ありがとうございます」夏帆はうなずき、落ち着きを取り戻すと、こんなことで負けてはいられないと思った。……診察室では、明が疲れた顔で施術用ベッドに横になり、目を閉じていた。美咲がこめかみを優しく押していたが、明はすぐ眉をひそめた。
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