Masuk記憶を失い、身寄りもお金もなかった恋人を、5年間支え続けた橘夏帆(たちばな かほ)。ところが彼は、名家・鷹宮家の跡取り、鷹宮明(たかみや あきら)だった。 とっくに記憶を取り戻していたにもかかわらず、彼は貧しいふりをして夏帆を欺き続け、別の女性を命の恩人だと言ってかばい、そのうえ、名家の令嬢との結婚話まで進んでいた。 居場所を失い追い詰められた夏帆は、育ての母の薬代を工面するため、ある契約結婚を引き受ける。 相手は黒瀬怜司(くろせ れいじ)。目が不自由で、気難しいうえに口も悪く、どれほど尽くしても心を開いてくれそうにない冷徹な男だった。 互いに必要なものを得るだけの取引。そのはずだったのに。 やがて怜司の目を治した夏帆は、いつしか彼の腕の中から抜け出せなくなっていた。 薄暗い玄関で腰を抱き寄せられ、逃げ道を塞ぐように扉へと追い詰められる。熱い口づけを交わしたあと、怜司が低くかすれた声で、耳元にささやいた。 「俺の目を治して、こんなに惚れさせておいて……今さら離れるなんて、許さないからな」 ようやく明は気づいた。自分を救ってくれたのは夏帆だったのに、別の女性ばかりかばい、彼女をほかの男のもとへ追いやってしまったのだ。 「夏帆、俺が悪かった。頼む、戻ってきてくれ」 目を潤ませて復縁を懇願する明の前で、怜司は夏帆を抱き寄せる腕に力を込め、冷ややかに笑った。 「夏帆はもう俺の妻だ。これからは夏帆さんと呼べ」
Lihat lebih banyak夏帆は自嘲するように口元をゆがめ、ベンチに手をついて立ち上がった。そのまま立ち去ろうとすると、明に強く手首をつかまれた。「夏帆」振りほどこうとしてもびくともせず、夏帆は冷たい目で彼を見返した。「放して」明は眉を寄せた。普段は穏やかな目の奥に、苛立ちがにじんでいる。「今日、聖ルミナスへ行ったのか。もう美咲のところへ行くな」低い声で釘を刺され、夏帆は耳を疑った。抑え込んできた怒りが、一気に噴き上がる。乾いた音が、公園の静けさを破った。思いきり彼の頬を張ると、自分の手のひらまでじんとしびれた。「最低……!」彼を睨みつけると、こらえていた涙がとうとうあふれ出した。明は打たれた勢いで顔を横に向けた。白い肌に、5本の指の跡がくっきりと浮かび上がる。痛む頬を内側から舌で押し、怒るどころか薄く笑ったが、その目は少しも笑っていなかった。「お前なら俺のことをわかってくれると思っていたのに。こんな騒ぎを起こして、どうなるかわかってるのか?」夏帆は信じられないものを見るように彼を見つめた。胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。「鷹宮様って呼べばいい?それとも、アキラ?5年も私を騙しておいて、それでもあなたの事情を察して、何もかも許せっていうの?」明は苛立たしげにネクタイを緩めた。「素性を隠してたくらいで、そこまで怒るのか」「素性を隠してたくらい?」夏帆は力なく笑ったが、涙は止まらず、頬を伝い続けた。正体を隠して騙し続けたことも、5年間の献身を踏みにじったことも、彼に言わせれば「そのくらい」のことなのだ。「嫌な思いをしたのはわかってる。ホテルでのことは、俺も説明しなきゃいけないと思ってる」明は眉間にしわを寄せたまま、いっそう声を低くした。「だからって、美咲に当たるな。あいつは何も知らないんだ。お前に責められたら、耐えられない」夏帆は呆然と彼を見た。あまりにも理不尽だった。美咲が耐えられないなら、自分はどうなるのだろう。人前で謝罪を迫られ、警備員にホテルからつまみ出されたとき、彼は自分のつらさを少しでも考えてくれただろうか。1日で3つの仕事を失い、母の薬代すら払えなくなったときも、どんな思いをするか想像してくれたことはあっただろうか。夏帆は、つかまれた手首をゆっくりと引き抜いた。「じゃあ
美咲は一歩近づき、挑発するように言った。「あなたが何年かけても治せなかったのに、私が鍼を数本打っただけで、明さん、全部思い出したのよ。仕事も男も、私に勝てると思ってるの?そんなの無理に決まってるでしょ」夏帆は頭を殴られたような衝撃を受けた。数か月前、アキラと一緒に医療系の合同採用説明会へ行ったときのことがよみがえる。別のアルバイトへ急いでいた夏帆は、彼に履歴書を預け、各ブースに提出してもらうよう頼んだ。後日、聖ルミナス国際病院から面接の案内が届いた。採用枠はわずか1人だけだったが、夏帆は自分ならきっと受かると思っていた。けれどアキラは、夏帆の手を取って優しく言ったのだ。「夏帆、あの病院って街の反対側だろ?ここからだとバスで往復3時間もかかるんだよ。それなら近くで働いたほうが稼げるって。今回はやめておこうよ」毎日3時間も通勤に費やすのは、体力的にも厳しい。夏帆は彼の言葉に納得し、面接を辞退した。けれど、彼は夏帆の通勤を心配して引き止めたわけではなかった。たった1つの採用枠を、美咲に譲らせたかったのだ。夏帆なら苦労に耐えられても、美咲には無理だから。病院の近くは家賃が高く、夏帆には部屋を借りる余裕さえなかった。それなのに彼は、美咲が少しでも楽に通えるよう、ためらいもなく病院の隣に高級マンションを買い与えていた。鈍い刃で胸の奥を何度も切られるようで、息もできないほど苦しかった。それでも夏帆は、拳を固く握りしめて涙をこらえた。美咲を見据え、皮肉な笑みを浮かべる。「鍼を数本打っただけで記憶が戻るなんて、すごいわね」今度は夏帆が一歩踏み込んだ。「どんな名医も顔負けじゃない。いったい誰に教わったの?」美咲の顔色が変わった。頭のけがで失った記憶が、鍼を数本打っただけで戻るわけがない。東洋医学を学んだ美咲にも、それくらいはわかっているはずだ。夏帆が何年も毎日のように治療を続けたことで、明はすでに回復に向かっていた。美咲はたまたま記憶が戻るタイミングで鍼を打ち、その手柄を横取りしたにすぎない。「あなた……!」痛いところを突かれ、美咲が声を荒らげた。「資格も取れないくせに、よくそんな偉そうな口が利けるわね!」大きく息を吸うと、美咲は再び見下すような笑みを浮かべた。「あなたが何を言ったって、明さんに
その日の午後、夏帆は印刷した履歴書を持ち、聖ルミナス国際病院の東洋医学センターを訪れた。センター長の周防鶴彦(すおう つるひこ)はデスクに向かい、老眼鏡を掛けてその書類に目を通していた。目を引く学歴も、資格の記載もない。その代わり、これまでの治療記録や症例についての考察が、数ページにわたってびっしりとまとめられている。読み進めるにつれ、鶴彦は目を輝かせた。「ここにある不眠症や片頭痛は、どれも治りにくい症例だね。薬は君が処方したのかい?」「はい」夏帆は背筋を伸ばし、落ち着いて答えた。「こちらの重い顔面麻痺も、わずか半月の鍼治療で治したのかい?」鶴彦の声には、驚きが混じっていた。「はい。祖父に教わった、家に伝わる方法で鍼を打ちました」鶴彦は履歴書を閉じ、老眼鏡を外した。見事な内容だけに、資格がないことが惜しまれた。「これだけの患者さんを治してきたのに、どうしてまだ資格を取っていないんだい?」夏帆は目を伏せた。祖父が亡くなってから、かつて祖父と対立していた人物に何かにつけて邪魔されてきた。知識も腕もあるのに、どうしても資格だけは取れなかったのだ。「少し事情がありまして」一拍置いて、夏帆は真剣に続けた。「応募したのは施術補助の仕事です。1人で患者さんを診ることはありませんし、病院の決まりも必ず守ります」これほどの腕と経験があるのに、補助だけさせるのはもったいない。鶴彦はそう思ったが、資格がない以上、規則を曲げるわけにはいかなかった。「わかった。結果は後日連絡するから、待っていてくれるかな」鶴彦が履歴書を引き出しにしまうと、夏帆は頭を下げた。「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」部屋を出て廊下を歩いていると、少し先の診察室から、聞き覚えのある甘い声が響いてきた。「今夜、彼が皆さんにディナーをごちそうしたいって言ってて。ぜひ来てくださいね」夏帆は足を止め、半開きの扉に目を向けた。白衣姿の美咲を、若い医師や看護師たちが囲んでいた。「相沢先生、ほんと幸せですね!」「彼氏、かっこよくてお金持ちで、しかも先生に一途なんでしょう?」「通勤が楽になるようにって、病院の隣にマンションを買ってくれたんですか?あそこ、1坪で何百万円もするところですよね?」美咲はうれしそうに笑い、甘
怜司は足を止めた。もう1週間、ろくに眠れていない。頭の中を無数の針で刺されるような片頭痛が続き、気が狂いそうだった。苛立ちも限界に達している。怜司は一度目を閉じ、結局、任せてみることにした。「やってみろ」引き返してリビングへ行き、カップをローテーブルに置くと、ゆったりとした革張りのソファに深く腰を下ろした。「はい、すぐ準備しますね」夏帆は顔をほころばせ、小走りで洗面所へ向かった。ぬるま湯で丁寧に手を洗い、両手をこすり合わせて十分に温めてから、ソファの後ろへ戻った。怜司は背もたれに頭を預けて目を閉じていたが、まだ全身に力が入っていた。夏帆は深く息を吸い、ゆっくりと両手を伸ばした。ほのかに薬草の香りがする温かい指先がこめかみに触れると、怜司の体がわずかにこわばった。夏帆は指の腹で優しく円を描くように、もみほぐしていった。「黒瀬さん、力を抜いてください。私に合わせて、息を吐いて……吸って……」落ち着かせるように穏やかに声をかけながら、こめかみから頭頂部へと指を移し、ツボを捉えてほどよい力で繰り返し押していく。指先の温もりがじんわりと伝わり、怜司の頭を刺すような痛みも少しずつ和らいでいった。夏帆は続いて、首の付け根や耳の後ろもほぐす。血の巡りをよくし、気持ちを落ち着かせて眠りを促す、家に代々伝わるやり方だ。怜司の肩から少しずつ力が抜け、呼吸もゆっくりと深くなっていく。それでも夏帆は手を止めず、ソファの後ろに立ったまま、根気よくほぐし続けた。1時間以上も続けるうちに、腕は持ち上げるのもつらいほど痛くなり、額にも汗がにじんでいた。そのとき、静かな寝息が聞こえてきた。怜司は頭を少し横に傾け、すっかり眠り込んでいる。いつもは冷酷にさえ見える顔が、今は無防備に和らいでいた。夏帆はほっと息をつき、起こさないように静かに手を離した。だるくなった手首をさすってからゲストルームへ薄手の毛布を取りに行き、怜司に優しく掛けた。時計を見ると、もう7時近い。食材を買いに行かなければ。夏帆はバッグを手に取り、静かに部屋を出た。リバーテラスは、街で最もにぎわうビジネス街の中心にある。周囲には高層オフィスビルが立ち並んでいるが、敷地内は高い石塀と豊かな緑に囲まれ、外の騒がしさが届かない静かな空間だった。まずは敷地内の高級スーパーへ