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第1話

妊娠が分かったその日。私・篠原琴音(しのはら ことね)は、隼人が7年前に用意していた高級マンションへ向かった。まさかそこで、仕事で忙しいはずの夫が別の女と肩を並べて歩いている姿を見ることになるなんて、思ってもみなかった。しかも、隼人が身につけていたのは、私が選んだ服だった。女のお腹はもう隠しようもないほど大きく膨らんでいて、隼人はその丸みを優しく撫でながら、慈しむような眼差しを向けている。頭の中が真っ白になり、私はその場に立ち尽くした。隼人は私の姿を認めた瞬間、さっと顔色を変えた。女も不思議そうに顔を上げたが、私を見るなり、あからさまに動揺した。隼人は我に返ると、女に部屋へ戻るよう目配せをした。それからようやく、私のもとへ歩み寄り、手を取った。「薄着すぎる。こんなに手が冷えてるじゃないか」表情だけは平静を装っていたくせに、私の手を握る隼人の指は、かすかに震えていた。3年間の交際と7年間の結婚生活。彼がこういう反応を見せるとき、それが何を意味するのか、私は嫌というほど知っている。私は震える声で問いただした。「いつから?」彼は一瞬言葉を詰まらせ、苦しげに口を開いた。「去年の夏、君のおばあさんが亡くなって、君が葬儀で実家に帰ったとき……」頭を殴られたような衝撃に、息が止まった。しばらくして、私はようやく自分の声を取り戻した。「だからあのとき、おばあさんが亡くなったのに、あなたは出張だと言っていたのね。私が一番つらいときに、あなたはほかの女と関係を持っていたの……」そういうことだったのだ。1週間の出張だと言っていた彼が予定より早く戻り、葬儀に間に合ったことも、悲しみに沈む私を気遣ってくれたあの優しさも、結局は浮気をした後ろめたさからくる罪滅ぼしにすぎなかった。「違うんだ!」隼人は慌てて私の言葉を遮り、取り乱したように言い訳を始めた。「違う、君を騙したわけじゃない。出張は本当だったんだ。でも、おばあさんが君にとって大事な人だったことは分かってた。あんなに悲しんでる君のそばにいてやれなくて、つらかったんだ。それで、酒の席でつい飲みすぎてしまった。彼女は新しく採用した秘書なんだ。どうしてあんなことになったのか、自分でも分からない。あれは、あの一晩だけのことだったんだ。一度きりの過ちだった。
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第2話

目が覚めたとき、私は病院のベッドに横たわっていた。隼人が私の手を強く握りしめ、じっとこちらを見つめている。まるで、この世でいちばん大切なものを見つめるように。その顔を見た瞬間、かつて幸せだった日々が次々と脳裏によみがえり、締めつけられるような痛みに、涙が今にもこぼれそうになった。隼人は一つ年下の後輩だった。新入生歓迎会で私に一目惚れして以来、猛アプローチをかけてきた。けれど私は、年齢のことや家柄の差が気になって、ずっと彼を拒んでいた。それでも、彼は諦めなかった。大学3年の夏、天海市でインターンをしていたとき、体調を崩して入院したことがある。その知らせをどこで聞きつけたのか、隼人は海外旅行の予定まで直前でキャンセルして、天海市まで飛んできた。病室で目を覚ましたあの日、私の前にいたのも、今と同じように私の手を強く握りしめ、目を真っ赤にした隼人だった。まるで捨てられた子犬みたいに心細そうに眉を下げ、私が目を開けた途端、泣きそうな声で私の名を呼んだ。「琴音、もう僕をこんなに心配させないで。心臓が止まるかと思ったよ」当時の私は、大げさだと思った。まだ付き合ってもいないのに、どうしてそこまで必死になれるのかと。けれど、彼は私の手の甲に額を押しつけた。その直後、温かい雫が一粒、ぽたりと落ちた。熱いはずもないのに、火傷しそうなほど熱く感じた。あんなふうに無防備な涙を見せられて、心が動かないはずがなかった。退院後、私は彼と付き合うことにした。彼は大喜びで、街頭の大型ビジョンまで使って、私への愛を大々的にアピールした。そこに映し出されたのは、私たちの写真と、愛を誓う言葉。まるで、この恋におまじないでもかけるみたいだった。卒業後、彼は待ちきれないとでもいうように私と結婚した。「君みたいな人を放っておけるわけないだろ。早く結婚して安心したかったんだ」そう言って笑う彼を、私は少し呆れながら、それでも愛おしいと思っていた。結婚して7年経っても、私たちはまだ恋人同士みたいだった。私は育ってきた家庭の影響もあって、ずっと子どもを産むことが怖かった。それでも彼は一度も私を急かさず、両親から子どもはまだかとせっつかれても、いつも私をかばうように前に立ってくれていた。だからこそ私は、ようやくこ
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第3話

彼が私を愛していることくらい、痛いほど分かっている。彼の目に宿る深い愛情に気づけないほど、私は愚かじゃない。その愛情は、日々のささやかな場面にまで滲んでいて、いちいち証明するまでもないほどだった。深夜、何度寝返りを打っても、彼は眠ったまま私を抱き寄せる。あれが偽りのはずがない。私の何気ないひと言まで覚えていて、気づけばそれを叶えてくれる。そんな細やかな気遣いも、偽りのはずがない。いつでもどこでも、私の姿を見つければ必ず目で追ってくる。その視線だって、偽りのはずがない……でも、だからこそ許せなかった。あれほど確かな愛情の中に、裏切りが入り込んでいたことが。私は彼を見つめたまま、いちばん残酷な事実を、一つずつ突きつけていった。「あの女に、少しの情もないって言い切れる?」「もちろん!」隼人は即答した。私は一度目を伏せると、顔を背けたまま、静かに言った。「じゃあ、なぜ彼女の履歴書だけ、わざわざ別に残しておいたの?私たち、こんなに長く一緒にいたのに。あなたが泥酔したことなんて、一度でもあった?あの出張から戻ってから、スマホをマナーモードにしなくなったのはどうして?毎月決まって入っていた出張、本当はどこへ行っていたの?」問いを重ねるたび、隼人の顔は目に見えて青ざめていった。私の胸もまた、少しずつ引き裂かれていくようだった。ふと思い出した。私はもう、あの女を目にしていたのだ。1年前、隼人の会社にお弁当を届けに行ったときのことだ。彼の机の上に、ほかの書類とは分けて置かれた一通の履歴書があった。写真の中の女性は、花がほころぶような明るい笑みを浮かべていた。目を引くほど綺麗だった。履歴書に記された名前は、雨宮晴香(あまみや はるか)。私たちの大学の後輩らしかった。けれど、専攻もこれまでの経歴も、秘書の仕事に向いているとは思えなかった。隼人は、私がその履歴書に目を留めていることに気づくと、何でもないふうに私の手からそれを受け取った。私は何気なく尋ねた。「この子、採るの?後輩だけど、ちょっと向いてなさそうね」彼は、人事から回ってきただけで、採るつもりはないと言った。彼がそう言うなら、それ以上は気にしなかった。けれど今になって思えば、彼が変わり始めたのは、あの日からだったのかも
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第4話

車がマンションに近づいても、隼人はまだ私を止めようとしていた。てっきり、私が晴香を傷つけるのを恐れているのだと思っていた。けれど部屋に入った瞬間、彼が本当に恐れていたものが何だったのか、ようやく分かった。ここはかつて、私たちが時間をかけて内装を整え、未来への希望を詰め込んだ場所だった。それなのに今は、部屋のあちこちに、彼が別の女とここで暮らしている痕跡が残っている。晴香は私を見るなり、すっと笑みを消した。怯えたように隼人を見る。隼人もまた、彼女を安心させるように目配せを返した。そのやり取りを、私はただ見せつけられた。胸の奥が、鈍く軋んだ。私は隼人に告げた。「先に出て行って。雨宮さんと二人で話したいの」隼人はためらった。私は思わず笑ってしまい、問い返した。「何?私があなたの大事な人を傷つけるとでも思ってるの?」隼人はそれ以上何も言えなくなった。ただ、出て行く前に、念を押すように言った。「僕の大事な人は、君だけだよ」隼人は渋々部屋を出て行ったが、扉は完全には閉まっていない。その言葉を聞いて、晴香は思わず私を一瞥した。その一瞬だけで、私の推測が間違っていなかったことが分かった。「あなたが入社したのは、隼人目当てだったんでしょう?」晴香は一瞬言葉に詰まったが、すぐに開き直った。「ええ、それが何か?先輩への気持ちなら、あなたになんて負けません」私は片眉を上げた。すると晴香は、どこか誇らしげに、隼人との出会いを語り始めた。3年前、隼人は優秀な卒業生として、母校で講演を行った。晴香はその案内役を任されていたが、うっかり水の入ったグラスを倒し、彼のオーダーメイドのスーツを台無しにしてしまった。それでも隼人は彼女を責めなかった。それがきっかけで、晴香は彼に一目惚れしたのだという。1年後、大学を卒業した晴香は、自分の専攻が会社の業務に合わないと分かっていながらも、隼人の会社に履歴書を送った。「知ってましたか?隼人先輩、私のことを覚えていてくれたんです。会った瞬間、ふっと笑って、『君だったんだね』って言ってくれて。周りの反対を押し切って私を採ってくれたのも先輩です。それからも、ずっと私にだけ優しくしてくれて。私が妊娠したって知ったとき、先輩がどれだけ喜んだか……想像できますか?
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第5話

手術の時間は長くなかった。けれど隼人にとっては、永遠にも思える地獄のような時間だった。ようやく手術室の扉が開く。琴音が下腹部を押さえながら、ゆっくりと出てきた。ひどく弱々しい姿だった。隼人は壁に手をついて立ち上がり、よろめくように彼女のもとへ歩み寄る。目を赤くしたまま、かすれた声で尋ねた。「……子どもは、もういないのか?」琴音は短くうなずく。「ええ」隼人は背を丸め、一気に老け込んだように見えた。「琴音……君は、どうして……」琴音は胸の奥に痛みを覚えながらも、表情ひとつ変えずに口を開いた。「今さら何を言っても同じよ。離婚しましょう」隼人の顔が苦痛に歪む。その冷たさが恨めしかった。だが、蒼白な彼女の顔を見ていると、胸が痛んだ。ただ、抱きしめたかった。だが、彼が手を伸ばしたそのときだった。「隼人!こんなところにいたの、ずっと探していたのよ!」美津江が血相を変えて廊下の向こうから駆けてくる。伸ばしかけた手は、むなしく宙を切った。「早く来て。晴香が破水したの。すぐに来なさい!」隼人ははっとしたように振り返ると、そのまま階下へ走り去った。琴音も咄嗟に手を伸ばしかけた。けれど、その手を隼人が握り返すことはなかった。自嘲するようにかすかに笑い、背を向けて病院を後にした。その日のうちにいったん家へ戻り、荷物をまとめた。そして離婚届をベッドの上に置き、空港へ向かう。隼人の子どもが生まれるそのとき、琴音を乗せた飛行機は、はるか上空へと飛び立っていた。晴香は男の子を産んだ。宗厳も美津江も大喜びで、その子を抱いて離そうとしない。だが、隼人は赤ん坊を前にしても、どうしても笑うことができなかった。生まれたばかりのその子は、驚くほど小さくて、柔らかくて、今にも壊れてしまいそうなほど頼りなかった。その姿を目にした瞬間、隼人の脳裏に、あの中絶手術の予約票がよみがえる。もしこれが、僕と琴音の子どもだったら――どんな顔で笑っただろう。この小さな命を腕に抱いたとき、僕はどんな気持ちになっていただろう。もしかしたら、もっと心から喜べたのかもしれない。だが次の瞬間、彼は思い知らされる。自分と琴音の最初の子どもは、もうこの世にいないのだと。あの予約票には、「妊娠10週」と書か
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第6話

晴香は、隼人の一存で会社に残ることになった。彼女は確かに少ししたたかで、隼人が自分に向ける曖昧な甘さに気づくと、わざと小さなミスを繰り返すようになった。どれも大事には至らない。だが、確実に隼人の注意を引く類のものだった。隼人もまた、それが駆け引きだと分かりながら、目をつぶっていた。一度だけ、琴音がそのことに気づいたことがあった。それ以来、隼人は家では晴香からの電話に出なくなった。あの頃の彼は、ただ両親を黙らせたかっただけだった。事態が変わったのは、琴音の祖母が亡くなった時だ。琴音は祖母に育てられた。その死が彼女にどれほど深い痛手を与えるか、隼人にもよく分かっていた。本来なら、彼女に付き添って帰るべきだった。なのに彼は、重要な案件だと押し切られ、出張に向かわざるをえなかった。同行する秘書は、晴香だった。両親が自分に決断を迫っているのだと、彼は理解した。琴音は彼を信じていた。出張に行かなければならないと聞くと、電話の向こうで、涙声のままこう言ったのだ。「じゃあ、行ってらっしゃい。親戚もみんな来てるから、私は大丈夫よ」深い悲しみの中にいながら、それでも彼女は隼人を気遣っていた。なのに自分は、両親の思惑を知りながら、それに逆らおうとしなかった。一瞬だけ、すべてを捨てて彼女のもとへ飛んでいきたいと思った。だが、それはできなかった。両親に、「嫌なら琴音と離婚しろ」と言われていたからだ。行くだけ行こう。晴香に手を出さなければいい。そう思っていた。まさか、晴香に薬を盛られるとは思わなかった。一晩の過ちを犯したあと、彼はまだ現実を受け止めきれないまま、晴香の告白を聞かされた。何もいらない。ただ、あなたが好きだと。そのまっすぐな眼差しに、かつての自分を重ねた。自分もまた、あんなふうに琴音だけを見ていたはずだった。それなのに、裏切ったのは自分のほうだった。彼は、這うようにしてその場を逃げ出した。琴音のそばへ戻りたかった。彼女を抱きしめている時だけ、自分はようやく息がつける気がした。何も知らない琴音は、彼がわざわざ駆けつけてくれたのだと思って泣いた。彼女は、彼の強張った様子には気づかなかった。その後、晴香はしばらく会社に来なくなったが、隼人は気にも留めなかった。彼女が再び姿を
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第7話

琴音がいない。家中をくまなく探したが、どこにも彼女の姿はなかった。目につくところにある彼女の荷物は、ほとんどそのまま残っているというのに、肝心の彼女だけがいない。いや、違う。隼人はクローゼットを開け、息をのんだ。彼が買い与えた高価な服はすべて残っている。なくなっていたのは、彼女自身が選び、いつも着ていた服ばかりだった。その瞬間、背筋がぞくりとした。それが何を意味するのか、分からないはずがなかった。彼女は、自分との暮らしをそっくりここに置いていったのだ。隼人はクローゼットの前で立ち尽くした。やがて、深い悲しみが胸の底からこみ上げてきた。力なくベッドに倒れ込むと、体の下で紙がかさりと音を立てた。離婚届と、1枚のメモ。そこには、琴音からの最後の言葉が綴られていた。【隼人、「君だけを生涯愛す」と言ったから、私はあなたと結婚したの。でも、今はもう違う。私たちの結婚に、もう意味はないから、サインして】ぽたり、ぽたりと涙が落ち、インクがじわりとにじんでいった。まるで、2人の報われなかった愛のように。それから長い間、隼人は世間から距離を置くように暮らした。もっとも、最初からそうだったわけではない。知り合いという知り合いに片っ端から連絡を取り、それでも琴音の行方を知る者が誰もいないと分かると、彼はしばらく何事もなかったふりをして、いつも通りの日々をやり過ごした。琴音はまだここにいる。ただ少し家を空けているだけだと、自分に言い聞かせながら。以前にも、琴音がしばらく家を空けることはあった。隼人は我が子にさえ会いに行かず、まるで誰ひとり裏切ってなどいないかのように振る舞った。そう思い込んでいる間は、それでどうにか日々をやり過ごせた。生活は、何も変わっていないように思えた。仕事から帰っても部屋に明かりはなく、夜、眠るときも隣に寄り添うぬくもりはない。ただ、それだけのことだった。部屋は、琴音がいた頃のまま、何ひとつ変わっていなかった。琴音が出ていく前に買った花束でさえ、彼は切り花用の延命スプレーを吹きかけ、少しでも長くもたせようとしていた。最初のうち、彼はそれを都合よく解釈していた。物がそのまま残されているかぎり、この部屋にはまだ琴音の気配があるように思えたからだ。だが、日が経つにつ
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第8話

見慣れた景色を目にすれば、きっと胸が痛むのだろうと思っていた。だが、不思議なことに――再びリュブリャナの街角に立ったとき、琴音の胸にあったのは、自由と静けさだけだ。あのころの自分は、何かをはき違えていたのだろう。誰かに一生愛されることこそ、何より大切なのだと思い込んでいた。けれど今の琴音が欲しかったのは、ただ自由だ。心の向くままに歩き、行きたい場所へ行き、見たいものを見る。そんな当たり前のことに、こんなにも心が満たされるのだと、ようやく知った。旅を続けること自体が、もう彼女には喜びだった。だからこのまま、ヨーロッパを巡ってみようと決めた。その点ばかりは、隼人に感謝しなければならないのかもしれない。ここ数年、生活費のほとんどを彼が負担してくれていたおかげで、琴音は自分で稼いだ金にほとんど手をつけずに済んだ。それに隼人は、毎月まとまった額を欠かさず琴音の口座に振り込んでいた。おかげで今の琴音には、気の向くまま旅を続けていけるだけの蓄えがあった。自分のために金を使うことに、もうためらいはない。スロベニアには2ヶ月滞在した。その間、隼人のことを思い出すことはほとんどなかった。ただ一度だけ、不意に過去へ引き戻されたことがあった。何気なくインスタを開いたとき、かつての義母の投稿が目に入ったのだ。【孫が無事に生後1ヶ月を迎えました!】喜びに満ちた言葉が、写真に添えられている。琴音は写真を開き、何度も見返した。けれど、その子のどこが隼人に似ているのか、少しも分からない。そしてふと、お腹の中にいたあの子のことを思い出す。男の子だったのか、女の子だったのか。自分に似ていたのか、それとも隼人に似ていたのか。そこまで考えてしまってから、琴音ははっとした。悲しみが胸の奥まで広がる前に、彼女はかつての義父母と、隼人を通じてつながっていた友人たちのフォローを外した。そうして間を置かず、次の目的地へ向かった。琴音がヨーロッパの各地を渡り歩いていたころ、隼人もまた同じ大陸をさまよっていた。もちろん、琴音の知るところではない。琴音を探すと決めたとき、隼人は彼女がきっとヨーロッパへ向かうはずだと確信していた。なぜなら琴音は、何度も彼に言っていたからだ。いつかあなたと一緒に、ヨーロッパを1周した
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第9話

振り返ると、そこには篠原社長が立っていた。陰で「鬼社長」と呼ばれる彼にしては珍しく、その口元はわずかにやわらいでいた。彼は古株の社員に視線を向け、穏やかな声で言った。「前に、僕が妻に甘えているように見えたことはあったか?自分ではそんなつもりはなかったんだが……そのとき、彼女はどんな顔をしてた?」古株の社員は、虚を突かれたように目を見開いた。それでも言葉を選びながら、慎重に答える。「遠くからでしたので、はっきりとは……でも、奥様はやさしく笑っていらしたと思います」その言葉に、隼人は目を細めた。目の奥がじわりと熱くなった。そして、小さく笑った。「そうか。あのころの僕は、そんなに幸せだったんだな」なのに、その幸せを壊したのは、ほかの誰でもない自分だった。仕事を終え、琴音と暮らしていた家へ戻る。案の定、エントランスには晴香が立っていた。隼人の姿を見つけるなり、泣きながらすがりついてくる。「隼人さん、お願い……晃(あきら)が熱を出して……ずっと、パパって泣いてるんです。来てあげてください……」隼人はその手を冷たく振りほどいた。ポケットからハンカチを取り出し、触れられた腕を無造作に拭う。「晃のそばには母さんもいる。世話をする人も、家政婦もいる。君もいる。僕がいなくても、困らないはずだ」晴香の顔がみるみるうちにこわばっていく。「今の暮らしを失いたくないなら、もう二度と僕の前に来ないでくれ」それだけ言い捨てて、隼人は立ち去ろうとした。琴音が去ったあの年、隼人はマンションの防犯カメラの映像を見返し、あの日に何があったのかをあらためて突きつけられた。晴香が琴音に誤解を与え、自分の心はもう離れてしまったのだと思い込ませたことも。琴音を欺き、裏切ったのは、ほかの誰でもない自分だった。それでも晴香を見るたび、やり場のない怒りが胸の底で燻った。生活に不自由はさせなかった。それだけが、せめてもの責任だった。それ以上かかわるつもりはなかった。背中に向かって、晴香が声を張り上げる。「晃はあなたの子ですよ!ここまで冷たくできるんですか?あのとき、あなたにだってその気があったくせに、拒みもしなかったくせに!今さら被害者みたいな顔をして、何のつもりなんですか!」隼人は握っていた鍵に一瞬だけ力を込め、すぐ
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