LOGIN振り返ると、そこには篠原社長が立っていた。陰で「鬼社長」と呼ばれる彼にしては珍しく、その口元はわずかにやわらいでいた。彼は古株の社員に視線を向け、穏やかな声で言った。「前に、僕が妻に甘えているように見えたことはあったか?自分ではそんなつもりはなかったんだが……そのとき、彼女はどんな顔をしてた?」古株の社員は、虚を突かれたように目を見開いた。それでも言葉を選びながら、慎重に答える。「遠くからでしたので、はっきりとは……でも、奥様はやさしく笑っていらしたと思います」その言葉に、隼人は目を細めた。目の奥がじわりと熱くなった。そして、小さく笑った。「そうか。あのころの僕は、そんなに幸せだったんだな」なのに、その幸せを壊したのは、ほかの誰でもない自分だった。仕事を終え、琴音と暮らしていた家へ戻る。案の定、エントランスには晴香が立っていた。隼人の姿を見つけるなり、泣きながらすがりついてくる。「隼人さん、お願い……晃(あきら)が熱を出して……ずっと、パパって泣いてるんです。来てあげてください……」隼人はその手を冷たく振りほどいた。ポケットからハンカチを取り出し、触れられた腕を無造作に拭う。「晃のそばには母さんもいる。世話をする人も、家政婦もいる。君もいる。僕がいなくても、困らないはずだ」晴香の顔がみるみるうちにこわばっていく。「今の暮らしを失いたくないなら、もう二度と僕の前に来ないでくれ」それだけ言い捨てて、隼人は立ち去ろうとした。琴音が去ったあの年、隼人はマンションの防犯カメラの映像を見返し、あの日に何があったのかをあらためて突きつけられた。晴香が琴音に誤解を与え、自分の心はもう離れてしまったのだと思い込ませたことも。琴音を欺き、裏切ったのは、ほかの誰でもない自分だった。それでも晴香を見るたび、やり場のない怒りが胸の底で燻った。生活に不自由はさせなかった。それだけが、せめてもの責任だった。それ以上かかわるつもりはなかった。背中に向かって、晴香が声を張り上げる。「晃はあなたの子ですよ!ここまで冷たくできるんですか?あのとき、あなたにだってその気があったくせに、拒みもしなかったくせに!今さら被害者みたいな顔をして、何のつもりなんですか!」隼人は握っていた鍵に一瞬だけ力を込め、すぐ
見慣れた景色を目にすれば、きっと胸が痛むのだろうと思っていた。だが、不思議なことに――再びリュブリャナの街角に立ったとき、琴音の胸にあったのは、自由と静けさだけだ。あのころの自分は、何かをはき違えていたのだろう。誰かに一生愛されることこそ、何より大切なのだと思い込んでいた。けれど今の琴音が欲しかったのは、ただ自由だ。心の向くままに歩き、行きたい場所へ行き、見たいものを見る。そんな当たり前のことに、こんなにも心が満たされるのだと、ようやく知った。旅を続けること自体が、もう彼女には喜びだった。だからこのまま、ヨーロッパを巡ってみようと決めた。その点ばかりは、隼人に感謝しなければならないのかもしれない。ここ数年、生活費のほとんどを彼が負担してくれていたおかげで、琴音は自分で稼いだ金にほとんど手をつけずに済んだ。それに隼人は、毎月まとまった額を欠かさず琴音の口座に振り込んでいた。おかげで今の琴音には、気の向くまま旅を続けていけるだけの蓄えがあった。自分のために金を使うことに、もうためらいはない。スロベニアには2ヶ月滞在した。その間、隼人のことを思い出すことはほとんどなかった。ただ一度だけ、不意に過去へ引き戻されたことがあった。何気なくインスタを開いたとき、かつての義母の投稿が目に入ったのだ。【孫が無事に生後1ヶ月を迎えました!】喜びに満ちた言葉が、写真に添えられている。琴音は写真を開き、何度も見返した。けれど、その子のどこが隼人に似ているのか、少しも分からない。そしてふと、お腹の中にいたあの子のことを思い出す。男の子だったのか、女の子だったのか。自分に似ていたのか、それとも隼人に似ていたのか。そこまで考えてしまってから、琴音ははっとした。悲しみが胸の奥まで広がる前に、彼女はかつての義父母と、隼人を通じてつながっていた友人たちのフォローを外した。そうして間を置かず、次の目的地へ向かった。琴音がヨーロッパの各地を渡り歩いていたころ、隼人もまた同じ大陸をさまよっていた。もちろん、琴音の知るところではない。琴音を探すと決めたとき、隼人は彼女がきっとヨーロッパへ向かうはずだと確信していた。なぜなら琴音は、何度も彼に言っていたからだ。いつかあなたと一緒に、ヨーロッパを1周した
琴音がいない。家中をくまなく探したが、どこにも彼女の姿はなかった。目につくところにある彼女の荷物は、ほとんどそのまま残っているというのに、肝心の彼女だけがいない。いや、違う。隼人はクローゼットを開け、息をのんだ。彼が買い与えた高価な服はすべて残っている。なくなっていたのは、彼女自身が選び、いつも着ていた服ばかりだった。その瞬間、背筋がぞくりとした。それが何を意味するのか、分からないはずがなかった。彼女は、自分との暮らしをそっくりここに置いていったのだ。隼人はクローゼットの前で立ち尽くした。やがて、深い悲しみが胸の底からこみ上げてきた。力なくベッドに倒れ込むと、体の下で紙がかさりと音を立てた。離婚届と、1枚のメモ。そこには、琴音からの最後の言葉が綴られていた。【隼人、「君だけを生涯愛す」と言ったから、私はあなたと結婚したの。でも、今はもう違う。私たちの結婚に、もう意味はないから、サインして】ぽたり、ぽたりと涙が落ち、インクがじわりとにじんでいった。まるで、2人の報われなかった愛のように。それから長い間、隼人は世間から距離を置くように暮らした。もっとも、最初からそうだったわけではない。知り合いという知り合いに片っ端から連絡を取り、それでも琴音の行方を知る者が誰もいないと分かると、彼はしばらく何事もなかったふりをして、いつも通りの日々をやり過ごした。琴音はまだここにいる。ただ少し家を空けているだけだと、自分に言い聞かせながら。以前にも、琴音がしばらく家を空けることはあった。隼人は我が子にさえ会いに行かず、まるで誰ひとり裏切ってなどいないかのように振る舞った。そう思い込んでいる間は、それでどうにか日々をやり過ごせた。生活は、何も変わっていないように思えた。仕事から帰っても部屋に明かりはなく、夜、眠るときも隣に寄り添うぬくもりはない。ただ、それだけのことだった。部屋は、琴音がいた頃のまま、何ひとつ変わっていなかった。琴音が出ていく前に買った花束でさえ、彼は切り花用の延命スプレーを吹きかけ、少しでも長くもたせようとしていた。最初のうち、彼はそれを都合よく解釈していた。物がそのまま残されているかぎり、この部屋にはまだ琴音の気配があるように思えたからだ。だが、日が経つにつ
晴香は、隼人の一存で会社に残ることになった。彼女は確かに少ししたたかで、隼人が自分に向ける曖昧な甘さに気づくと、わざと小さなミスを繰り返すようになった。どれも大事には至らない。だが、確実に隼人の注意を引く類のものだった。隼人もまた、それが駆け引きだと分かりながら、目をつぶっていた。一度だけ、琴音がそのことに気づいたことがあった。それ以来、隼人は家では晴香からの電話に出なくなった。あの頃の彼は、ただ両親を黙らせたかっただけだった。事態が変わったのは、琴音の祖母が亡くなった時だ。琴音は祖母に育てられた。その死が彼女にどれほど深い痛手を与えるか、隼人にもよく分かっていた。本来なら、彼女に付き添って帰るべきだった。なのに彼は、重要な案件だと押し切られ、出張に向かわざるをえなかった。同行する秘書は、晴香だった。両親が自分に決断を迫っているのだと、彼は理解した。琴音は彼を信じていた。出張に行かなければならないと聞くと、電話の向こうで、涙声のままこう言ったのだ。「じゃあ、行ってらっしゃい。親戚もみんな来てるから、私は大丈夫よ」深い悲しみの中にいながら、それでも彼女は隼人を気遣っていた。なのに自分は、両親の思惑を知りながら、それに逆らおうとしなかった。一瞬だけ、すべてを捨てて彼女のもとへ飛んでいきたいと思った。だが、それはできなかった。両親に、「嫌なら琴音と離婚しろ」と言われていたからだ。行くだけ行こう。晴香に手を出さなければいい。そう思っていた。まさか、晴香に薬を盛られるとは思わなかった。一晩の過ちを犯したあと、彼はまだ現実を受け止めきれないまま、晴香の告白を聞かされた。何もいらない。ただ、あなたが好きだと。そのまっすぐな眼差しに、かつての自分を重ねた。自分もまた、あんなふうに琴音だけを見ていたはずだった。それなのに、裏切ったのは自分のほうだった。彼は、這うようにしてその場を逃げ出した。琴音のそばへ戻りたかった。彼女を抱きしめている時だけ、自分はようやく息がつける気がした。何も知らない琴音は、彼がわざわざ駆けつけてくれたのだと思って泣いた。彼女は、彼の強張った様子には気づかなかった。その後、晴香はしばらく会社に来なくなったが、隼人は気にも留めなかった。彼女が再び姿を
手術の時間は長くなかった。けれど隼人にとっては、永遠にも思える地獄のような時間だった。ようやく手術室の扉が開く。琴音が下腹部を押さえながら、ゆっくりと出てきた。ひどく弱々しい姿だった。隼人は壁に手をついて立ち上がり、よろめくように彼女のもとへ歩み寄る。目を赤くしたまま、かすれた声で尋ねた。「……子どもは、もういないのか?」琴音は短くうなずく。「ええ」隼人は背を丸め、一気に老け込んだように見えた。「琴音……君は、どうして……」琴音は胸の奥に痛みを覚えながらも、表情ひとつ変えずに口を開いた。「今さら何を言っても同じよ。離婚しましょう」隼人の顔が苦痛に歪む。その冷たさが恨めしかった。だが、蒼白な彼女の顔を見ていると、胸が痛んだ。ただ、抱きしめたかった。だが、彼が手を伸ばしたそのときだった。「隼人!こんなところにいたの、ずっと探していたのよ!」美津江が血相を変えて廊下の向こうから駆けてくる。伸ばしかけた手は、むなしく宙を切った。「早く来て。晴香が破水したの。すぐに来なさい!」隼人ははっとしたように振り返ると、そのまま階下へ走り去った。琴音も咄嗟に手を伸ばしかけた。けれど、その手を隼人が握り返すことはなかった。自嘲するようにかすかに笑い、背を向けて病院を後にした。その日のうちにいったん家へ戻り、荷物をまとめた。そして離婚届をベッドの上に置き、空港へ向かう。隼人の子どもが生まれるそのとき、琴音を乗せた飛行機は、はるか上空へと飛び立っていた。晴香は男の子を産んだ。宗厳も美津江も大喜びで、その子を抱いて離そうとしない。だが、隼人は赤ん坊を前にしても、どうしても笑うことができなかった。生まれたばかりのその子は、驚くほど小さくて、柔らかくて、今にも壊れてしまいそうなほど頼りなかった。その姿を目にした瞬間、隼人の脳裏に、あの中絶手術の予約票がよみがえる。もしこれが、僕と琴音の子どもだったら――どんな顔で笑っただろう。この小さな命を腕に抱いたとき、僕はどんな気持ちになっていただろう。もしかしたら、もっと心から喜べたのかもしれない。だが次の瞬間、彼は思い知らされる。自分と琴音の最初の子どもは、もうこの世にいないのだと。あの予約票には、「妊娠10週」と書か
車がマンションに近づいても、隼人はまだ私を止めようとしていた。てっきり、私が晴香を傷つけるのを恐れているのだと思っていた。けれど部屋に入った瞬間、彼が本当に恐れていたものが何だったのか、ようやく分かった。ここはかつて、私たちが時間をかけて内装を整え、未来への希望を詰め込んだ場所だった。それなのに今は、部屋のあちこちに、彼が別の女とここで暮らしている痕跡が残っている。晴香は私を見るなり、すっと笑みを消した。怯えたように隼人を見る。隼人もまた、彼女を安心させるように目配せを返した。そのやり取りを、私はただ見せつけられた。胸の奥が、鈍く軋んだ。私は隼人に告げた。「先に出て行って。雨宮さんと二人で話したいの」隼人はためらった。私は思わず笑ってしまい、問い返した。「何?私があなたの大事な人を傷つけるとでも思ってるの?」隼人はそれ以上何も言えなくなった。ただ、出て行く前に、念を押すように言った。「僕の大事な人は、君だけだよ」隼人は渋々部屋を出て行ったが、扉は完全には閉まっていない。その言葉を聞いて、晴香は思わず私を一瞥した。その一瞬だけで、私の推測が間違っていなかったことが分かった。「あなたが入社したのは、隼人目当てだったんでしょう?」晴香は一瞬言葉に詰まったが、すぐに開き直った。「ええ、それが何か?先輩への気持ちなら、あなたになんて負けません」私は片眉を上げた。すると晴香は、どこか誇らしげに、隼人との出会いを語り始めた。3年前、隼人は優秀な卒業生として、母校で講演を行った。晴香はその案内役を任されていたが、うっかり水の入ったグラスを倒し、彼のオーダーメイドのスーツを台無しにしてしまった。それでも隼人は彼女を責めなかった。それがきっかけで、晴香は彼に一目惚れしたのだという。1年後、大学を卒業した晴香は、自分の専攻が会社の業務に合わないと分かっていながらも、隼人の会社に履歴書を送った。「知ってましたか?隼人先輩、私のことを覚えていてくれたんです。会った瞬間、ふっと笑って、『君だったんだね』って言ってくれて。周りの反対を押し切って私を採ってくれたのも先輩です。それからも、ずっと私にだけ優しくしてくれて。私が妊娠したって知ったとき、先輩がどれだけ喜んだか……想像できますか?