地域ごとに伝わる話を追っていくと、
白沢の“正体”はまるで万華鏡のように変わって見える。中国大陸の古い記述では、白沢は知識の授け手として描かれることが多く、『山海経』などの古典や伝承の系譜の中で、黄帝に現れて怪異や妖怪の性質・対処法を教えた存在として語られる。そこから生まれた書物群はいわゆる『白澤経』に結実し、数多くの異形や病気、害獣についての情報が記されたとされる。大陸では“全知の書を託す賢獣”というイメージが強く、学問的・儀礼的な色合いが濃いのが特徴だと感じる。
日本へ伝播した過程で白沢は性格を変えていくのが面白い。日本語では一般に「白沢(はくたく)」と呼ばれ、平安期以降の陰陽師や寺社文化と結びついて、疫病や禍を避ける守り神的な側面が強調されるようになった。絵馬や版画、寺社の額に白沢像が描かれ、人々はその図像を家に置いたり、祈祷の一環として用いたりした記録が散見される。外見の描写も地域や時代で揺れ、牛に似たもの、獅子や龍の要素を混ぜたもの、多眼や角を持つ奇怪な姿まで多彩で、各地の画風や民間信仰によって「見た目」が大きく変わるのが魅力だ。僕は古い絵巻や錦絵を眺め比べるのが好きだが、同じ白沢でも江戸の浮世絵と奈良・京都の寺院画では表情がまるで違って見える。
さらに各地域の伝承が抱く役割も違う。中国では知恵と博識を象徴する“教えの生き物”として、妖怪名録や符術と結びつくことが多いのに対し、日本では疫病除けの神獣、あるいは土地の守りや占術の助け手として受け取られやすい。朝鮮半島や琉球を含む周辺地域でも、渡来文化や仏教的シンボルが混ざり合う過程で白沢像がローカライズされ、それぞれの社会的ニーズ(疫病対策、土地神信仰、権威の象徴など)に応じて変貌していった。こうした地域差を辿ると、単なる“同じ名の生き物”ではなく、文化の交換や民衆の不安、宗教的実践が反映された生きた物語になっているのがよく分かる。
個人的には、白沢を一律の図像で捉えるのではなく、地域ごとのバリエーションを集めて並べるのが一番ワクワクする。地方の古い画帖や神社の伝承を読み比べると、その土地の人々が何を恐れ、何を守りたかったのかが見えてくるからだ。そう考えると、白沢の変化は単なるデザインの違いを超えて、歴史と暮らしが交差する地図のように感じられて、とても魅力的だ。