アヴァからの電話を切って、来てくれるって言葉もやんわり断った。
けれど、昨夜の記憶が頭の中からどうしても消えてくれない。
強く抱きしめられたときの、あの腕のぬくもり。
興奮した彼の吐息が耳元にかかって、くすぐったくて熱かったこと。
囁かれる甘い言葉と、何度も軋むベッドの音――
あの夜のすべてが、いまも鮮明によみがえる。
首をぶんぶんと振って、記憶を振り払おうとした。
毛布にくるまって、身体を丸める。
思い出すのは、かつて優しかったイーサンと、今日の冷酷なイーサン。
その差が大きすぎて、心がついていかない。
夜が明ける頃、ようやく少しだけ眠りについた。
――その間、イーサンからの連絡は一通もなかった。
昔、一度だけ私が酔って連絡が取れなくなったとき、彼は半狂乱になって探してくれた。
それ以来、彼は毎晩「おやすみ」をくれるようになった。
それが習慣になっていた。
けど、習慣なんて……一晩で、いとも簡単に壊れてしまうんだ。
でも、それでいいのかもしれない。
どうせいつか、こんな日が来ると分かっていたから。
本当は、怒りをぶつけたいと思った。
名誉もなにも気にせず、あの男をボロボロにしてやりたいと思った。
……だけど、家の商売は、イーサンの父親に大きく関わっている。
感情のままに突っ走ることなんて、できない。
我慢して、少しずつ距離を取る。
それが、私たちの終わり方としては、一番穏やかなんだと思った。
――翌朝、ぼんやりとした意識の中で、誰かに抱きしめられているのを感じた。
その腕は、あたたかくて、しっかりしていて――
目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、見慣れた喉元のラインだった。
イーサンだった。
そうだ。彼はうちの家の玄関パスコードを知っている。
家に入ってくるとき、両親も、家政婦も誰ひとりとして彼を止めたりしない。
私が目を覚ましたのを見て、イーサンは小さく笑った。
その声が、すぐ耳元でくすぐるように響いた。
イーサンは、わざと私の耳にふっと息を吹きかけた。
くすぐったくて、思わず彼を押しのけ、ベッドの隅まで逃げた。
すぐに追いかけてきた彼が、背後から腕を回してくる。
「どうした?欲しくないのか?
昨日の気持ちよさ、もう一度味わいたくないのか?」
囁くような声が、耳元で甘く響く。
どう答えていいか分からなくて、私は唇を噛んだまま黙っていた。
すると、イーサンはふざけたように声を落とす。
「昨日、『おやすみ』のひとこともなかったよね。そんなの、俺が心配するに決まってるだろ。
今回は許してあげる。でも……罰は受けてもらわないと。たとえば、口でしてもらうとか」
一気に背筋が凍った。
必死に彼の腕を振りほどこうとする。
――どうして。
どうして、シルヴィアがいるのに、私に触れようとするの?
そんな気持ちがぐるぐると渦を巻く中で、イーサンの顔にも苛立ちが見え始めた。
「なに怒ってんだよ?昨日、パーティーで一緒に踊らなかったから?それで拗ねてんのか?」
私は何も答えなかった。
イーサンは、私が嫉妬していると勝手に勘違いしたらしい。
少し笑って、皮肉っぽく言う。
「どうせアヴァから聞いたんだろ?
そんなに怒る?シルヴィア、相手いなかったんだよ。だからちょっと手助けしただけ。それで嫉妬?」
そのひとつひとつの言葉が、胸に刺さるようだった。
でも、言い返したところでどうにもならない。
彼との関係を完全に壊せない今の状況が、もどかしかった。
私は無言でベッドを下り、そのまま階段を降りていった。
リビングには、家政婦だけがいた。
イーサンもすぐに追いかけてきたけれど、明らかに表情が険しくなっていた。
――こんなふうに彼に露骨な態度を取るのは、私にとっても珍しかった。
いつもなら、イーサンはもう冷戦モードに入っていただろう。
でも、今の彼はシルヴィアと順調で、機嫌がいいのかもしれない。
だからこそ、今日は珍しく根気強く私をなだめようとしてきた。
「……まあ、無理にとは言わないけどさ。とりあえず朝ごはん食べなよ。
うちのシェフのメープルパンケーキ、好きだったよな?」
そう言って、手に持っていたお皿を差し出してくる。
でも私はその皿を静かに押し戻し、テーブルの上にあった家政婦が用意したシリアルを手に取った。
イーサンの顔から笑みが消え、表情がこわばった。
次の瞬間、彼の口調は一変する。
「……お前、いったい何が気に食わないんだよ?」
私は静かにため息をついて、視線を合わせずに言った。
「何も……ただ、シルヴィアと一緒にいればいいじゃない」
イーサンは鼻で笑って、苛立ちを隠そうともしなかった。
「やっぱり、シルヴィアのことかよ。そんなに気に食わない?自分を何様だと思ってるわけ?たかが一晩寝ただけで、俺のこと縛れるとでも?」
声を荒らげたかと思うと、彼は手元のパンケーキの皿を勢いよく床に叩きつけた。
ガシャッという音が響いて、私はびくっと肩を震わせる。
思わず、涙がつーっと頬を伝って落ちた。
昨日の屈辱と今日の失望が、いっきに心の奥からあふれ出した。
イーサンは私が突然泣き出したことに驚いたようで、明らかに動揺していた。
「……ちょっと、泣くなよ。そんなに驚かせたか?」
私は震える肩を抱えて、身体をぎゅっと縮める。
何か言おうとしたのか、イーサンが少し身を乗り出したそのとき――
彼のスマホが振動音を立てて鳴った。
彼は画面をちらっと見ただけで、すぐに表情を引き締める。
一瞬で態度が切り替わり、まるで私の存在がどうでもいいかのように立ち上がった。
「今、すごく大事な用がある。お前も少し落ち着けよ。
いつまでも、自分が世界の中心みたいに思うな」