一瞬の沈黙のあと、彼がぽつりと続けた。
「……双子の姉妹とか、いる?」 思いもよらない質問に、私はぽかんと口を開けて目を瞬いた。 「……へ?」 「いや、こないだ公園で……。あー、いや、いい。なんでもない」 言いよどむ彼に、私は彼が例の片手袋紛失事件のことを言おうとしているんだと悟って、ブワリと頬が熱を持つのを感じた。それを誤魔化すみたいに、私は慌てて口を開いたの。 「そ、その節は、本当にごめんなさいっ! あのときはあんな形で怖いお顔の男性が落っことした手袋を拾ってしまったりしたから……その……〝既存の知識〟と合わせて、私……てっきり……」 慌てる余り、眼前の教師こそがその〝怖い顔〟の主だったというのを失念して馬鹿正直に話す私に、梅本先生は意外にもククッと笑って「てっきりヤクザだと思った?」と問いかけてきた。 「はい。……あ、いえっ!」 (キャー、私ってばなんてことを!) 慌てても、一度放った言葉は取り消せない。 「あ、あのっ、私ったら……ホント、失礼なやつですみません! 梅本先生、ヤクザさんじゃないのに……〝見た目だけで〟勝手に……。あー! またっ」 ヤダ、私! 口を開けば開くほどドツボにハマる気がする! 「いや、そんな慌てなくても構わねえよ。顔が怖いってのは言われ慣れてる」 失礼極まりない私の言動の数々に、意外にも寛大な反応をしてくださる梅本先生に、私はホッと肩の力を抜いた。 そんな私を見て、梅本先生の口元もほんの少しだけ緩んだ。 「えーっと……杉岡、だっけ? あのときの名前」 ん? 突然話の流れが変わったことに一瞬戸惑ってから、私はあの晩、彼に旧姓ではなくちゃんとした名前――杉岡穂乃の方で名乗っていたことを思い出した。 「……あ、はい……あれは、あの、旧姓……じゃなくて、あの、今の名前で。ええと……つまりは……」 しどろもどろになる私を見かねたのかな? 梅本先生が片手を上げて私のグダグダな説明を中断なさると、言葉を被せてきた。 「……いや、俺が勝手にたまたま出会った女性と顔とかそっくりで……下の名前だって同じなのに、なんで苗字が違うんだろ? って気になっちまっただけだから。そんな気にしなくていい。聞いといて説得力ねぇけどさ、正直杉岡でも桃瀬でも、俺はどっちでもいいと思ってる。ほら、人には色々事情ってもんがあんだろ? 話しにくいこと、無理に話す必要はねぇから」 結婚しているくせに旧姓で通しているのは、単に名前を覚え直してもらうのが面倒だっただけで、深い意味はない。 けれど、この感じ。 もしかして梅本先生、複雑な事情があるのかも? とか思って気遣って下さってる? そう思って、即座に彼の間違いを訂正しようとして……私は何となく口ごもってしまった。 (私が杉岡姓を名乗りたくない理由、本当に呼び慣れている名前に愛着があるから……だけ?) 今朝の孝夫さんとのやりとりをふと思い出して、私は不覚にも言葉に詰まってしまった。 離婚したいわけじゃない。そういうわけじゃないけど……私は夫から家政婦みたいなものだと思われている。 それって……孝夫さんにはもう、私に対する夫婦としての情愛がないってことだよね? 利用価値がなくなったら、簡単に捨てられるってこと、だよ、ね? (だから、だったのかな……?) 杉岡姓になって二年。無理に桃瀬で通す必要もないくらい、外で……それこそ一見さん相手に名乗る時には私、スルリと杉岡穂乃って名乗れてるのに、ずっと関係が続く人には無意識に桃瀬穂乃って言っちゃってることに気が付いてしまった。 孝夫さんと私。結婚してすぐの頃から夫と妻というよりも、ご主人様と奴隷……みたいな雰囲気が端々にあったから。私、そういうのを気付かないままに感じ取って動いてしまっていたのかも? 気付いてはいけないことに気付いた気がして頭が真っ白になる。 「けどさぁ、いきなり闇バイトとか何とか……。なんだ、この女って思ったけど、桃瀬先生、犬には好かれてたよな?」 目の前に梅本先生がいるのも忘れて、ひとり神妙な方向へ思考が傾き始めていた矢先、クスクス笑われながら落とされた梅本先生の言葉に、私は彼に意識を戻さずにはいられなかった。 「そういや、俺の手袋咥えてたあのワンコ、……確かうなぎだっけ? ――元気にしてる?」 孝夫さんには疎まれているうなちゃんのことを気遣ってくれる梅本先生の言葉が嬉しくて、私は自覚のないままに声を弾ませる。 「あ、はいっ。とっても!」 そこまで言ってから、ついでだしこのまま聞いちゃえって思ってしまった。