「あの、そういえば私、梅本先生からお預かりした手袋をお返ししたくて。あれからも毎日同じ時間にうなちゃんと散歩してたんですけど、あれっきりお会い出来なくなっちゃいましたよね? あれって……もしかして」
――私と出会いたくなくて避けていらっしゃいましたか? なんでかな? その言葉は肯定されるのが怖くて続けられなかった。 だって、それまではずっと変わらずその時間帯に梅本先生(と思しきランナー)と毎日のように出会っていたの。なのに、あの一件以降、ぱったりと会えなくなってしまったんだもん。 私がそう思っても、不思議じゃない……よね?でも――。
「ああ、実はあのあと俺、足、捻挫しちまって走るの自体、休んでたんだよ。そうこうしてたら新学期の準備でバタバタしちまって……。ランニングする時間がズレちまった」
「そう、だったんですね。……良かったぁぁぁ!」 思わず気が抜けたようにつぶやいたら、きょとんとされてしまう。 「あのさ、もしかして、桃瀬先生のこと避けてたとか思って、結構気にしてたり……?」 「……はい。だって私、梅本先生に変なこと言っちゃいましたし……」 しゅんとして思いを吐露したら、ブハッと笑われてしまった。 「へぇー。変なこと言ったって自覚はあったんだ。ちょっとホッとした」 「えー。なんですか、その言い方! 酷いですよぅ!」 「いや、だってそうだろ? 初対面の男捕まえていきなり〝片手袋を落とす闇バイトの方ですか?〟だぞ? 『何だそれ?』ってなるだろ、普通」う……。言われてみれば確かに――。でも、でも!
「そういう都市伝説があるんですよぅ!」 ムキになって抗議する私に、なんでだろう? 梅本先生がふっと真顔になった。 「なぁ、もしかして桃瀬先生って……そういうの、好きな人?」 「えっ? あ、……はい。……多分」 「ってことは……ホラーとかも結構いける口?」 都市伝説とホラーは必ずしもイコールではないけれど、まぁ、中にはオカルトめいたものが多いのも確か。「に、苦手……ではないと、思います」
しどろもどろになりながら頷いたら、「それはいいこと聞いたな♪」とやけに嬉しそうにニヤリとされて、私は混乱してしまう。だってだって。怖いお顔の人のしたり顔、凶悪過ぎるんですもの!
「あ、あの、梅本……先生?」
それで恐る恐る呼び掛けたら、梅本先生が目をキラキラさせた。 「俺さ、結構ホラー映画とかホラー漫画とか好きなんだよね。けど、周りにそういうの大丈夫な人間がいなくてさ。趣味の話をできる相手がいなかったんだよね」 確かに私も、都市伝説の話で盛り上がれるのはネットの掲示板上の顔も知らないお仲間さんだけ……。何となく梅本先生の気持ちが分かる気がした。 「えっと……お気持ち、分かります」 それでしみじみと同意したら、「そっか。やっぱ俺たち同士だよな!?」って……どういう意味ですか!? 梅本先生の前のめりな様子に、その強面な雰囲気も相まって目を白黒させたら、「今度、俺のおすすめの漫画とか持ってくるから、感想聞かせて?」って本気ですか? 代わりに、桃瀬先生の都市伝説談義を今みたいに子供らを帰した後、聞きにくるからウィンウィンだとニヤリとされて、私は「えぇぇぇ!?」と叫んだ。 途端、梅本先生から揶揄うみたいに「桃瀬先生、図書室ではお静かに」と笑われて、用は済んだとばかりにヒラヒラと手を振って去られてしまう。 残された私は冷静になってポツリとつぶやいた。 「手袋をお返しする話、しそびれちゃったじゃん!」 きっと誰か第三者がこの場で二人の会話を聞いていたならば、『いや、そこかよ!?』とツッコミを入れていたことだろう。三和土《たたき》の上に、見覚えのないハイヒールが、揃えて置かれていた。 艶のあるローズベージュのエナメルパンプス。 細く高いピンヒールに、華奢なつま先。その柔らかく上品な色合いは、若い女性の足元を可憐に飾るためにあるようなデザインだった。 わざわざこの色を選ぶのは、きっと自分の見せ方をよく知っている女の子だ。甘さと清潔感のちょうどいいバランス。 いつも動きやすさ終始でスニーカーを好んで履いている私とは、まるで違う。 そのすぐ隣には、黒い革のストレートチップシューズが置かれていた。 一見すると、手入れの行き届いた高級靴。いつも孝夫さんが帰宅するたびに私が綺麗に磨いている見慣れた靴だ。 けれど、いま玄関先に脱がれたそれは、つま先に薄っすらと擦れた跡があり、かかとには乾いた泥のような汚れがわずかにこびりついていた。 艶やかなローズベージュのヒールが、まるで〝特別な日〟を象徴するみたいに無垢に光っているのに対して、その黒い革靴は、〝嘘を重ねた日常〟をそのまま引きずって帰ってきたように、鈍く沈んで見える。 その二足の靴が、同じ玄関の床タイルの上に、まるで寄り添う恋人同士みたいに並んでいるのが何より恐ろしかった。(え? これ……なに?) っていうか、〝誰〟の? 愛らしいハイヒールからして、持ち主は若い女性に違いない。そう思い至った途端、喉の奥がひゅっと音を立てた。 目の前のヒールは、まるで「貴女の場所を侵食していますよ?」とでも言うように、静かに主張している。(もしかして……誰か、家に上がってる……?) 心臓がドクンと強く鳴る。 全身の血がいっせいに逆流するような錯覚に、足元がぐらついた。 ただの来客? 仕事の打ち合わせ? それとも……。 そんな問いを否応なく否定するように、奥の方から小さく笑うような女性の声が聞こえた。 視界が揺れて、息が詰まりそうなのは、体調不良のせい? それとも――? 靴を脱ぐのも忘れて土足のまま上がったリビングの奥、半開きの寝室の向こうで、何かが動いている。「や、ぁ……んっ。タカちゃん……、気持ち、いっ。もっと……」 イヤになるくらい薫ってくる甘ったるい香水の香りに負けないくらい甘えた声をあげて、白い女性の手が、裸の夫の腕に伸ばされる――。 紛れもない不貞の様子に、私の世界が静かに壊れた
今日は夕方から雨になるらしい。天気予報でそんなことを言っていたのを聞いた私は、念のために雨具をもって出勤した。 孝夫さんを送り出して、何とか身支度を整えて仕事に出たものの、学校――職場――へ着いた頃には、身体の熱っぽさは無視できないほどになっていた。 周囲に迷惑をかけないよう、マスクをして午前中の業務をどうにかこうにかこなしてから、図書室の授業予定表を見る。 幸い今日は午前中のみで、五時間目――お昼休み以降――の授業の予定は入っていなかった。 昼休憩、事務室のみんなと一緒に給食を食べたけれど、全然味がしなくて、全部食べ切れなかったことに物凄い罪悪感を覚えてしまう。「すみません。食られませんでした……」 申し訳なさにしゅんとしながら皿に残した鶏肉のソテーやサラダを食缶内に廃棄品として戻していたら、他の先生方に「桃瀬先生、顔色が悪いけど大丈夫?」と心配されて、皆さんの優しさに、泣きそうになってしまった。 こういうのは、夫からは得られないものばかりだ。「ちょっと体調がイマイチなんですけど、なんとか昼休みの見守りだけして帰ろうと思います」 マスク越しに淡く微笑んだけれど、口元が隠されたマスクの下では無意味だったかも知れない。 昼休みの委員会活動の見守りまでは何とか気力で勤めたものの、ここからは頑張らなくてもいいと思ったら、気が抜けたのかな。 一気にしんどさが押し寄せてきて、立っているのも辛くなってしまった。 熱のせいか、ふわふわと地に足のつかないおぼつかない足取りで、「すみません、めまいがして……」と教頭先生に申し出て、早退を願い出て帰らせて頂くことにした。 頭の中、『夏風邪はバカがひくんだ』と孝夫さんに溜め息をつかれる幻想が見えて、勝手に自分で想像した癖に悲しくて瞳に涙が盛り上がってきてしまう。(体調が悪いからかな? いつもより心が弱っているみたい) 何とか職員室を出るまでは涙をこぼさないよう頑張るつもりだったけど、梅本先生がちらりとこちらを見たときにポトンと一滴溢れて……それに気付かれた気がした。(きっと心配かけてしまったよね?)と申し訳なさに苛《さいな》まれたけれど弁解する気力もなくて、私はかろうじて一礼すると職員室をあとにした。*** いつもなら16時くらいに帰るところを、今日は2時間以上早くマンションへ戻ってきてしまった。
「大丈夫、大丈夫……」 誰に言うでもなく小さくつぶやいて、私は次に卵を二つ取り出した。 だし巻き卵は孝夫さんが好む甘めの味つけ。砂糖とだし汁を入れた卵液入りのボールは、握力のない今の手には少し重い。こぼさないよう少しずつフライパンへ流し込むと、じゅっと軽やかな音とともに卵が膨らみ、湯気がふわりと立ち上った。 火加減が少し強かったかな? と焦りながらも、なんとか焦がさず綺麗に巻いていく。 卵焼きは途中少々不格好になっても、後半うまくやれば、何とかそれなりの形に整えることが出来るから助かる。 そう自分に言い聞かせながら、巻きすで形を整えて、端を切り落として出来上がり。端っこは私のお皿に取り分けて、真ん中の綺麗な部分を孝夫さん用のお皿へ盛り付けた。(もう一品、何か……) 思考がぼんやりする中、冷蔵庫の野菜室を覗き込むとミニトマトが目に入った。 冷凍庫に茹でて小分けにしてあるブロッコリーがあるから、あれを軽く解凍して……彩りを考えたおかか和えにしよう。 半分にカットしたミニトマトと一口大にしたブロッコリーを小鉢に盛ると、削り節をのせて薄口醤油を数滴。 それだけなのに、ちゃんと一品になってくれるのが有難かった。……助かる。 味噌汁は、昨晩のうちにとっておいた出汁があるから、それに皮を剥いて一口大に切ったじゃがいもとニンジン、それから薄切りの玉ねぎを入れた根菜の味噌汁にしようと決めた。 鍋に入れて火にかけ、コトコト煮える音を聞きながら、私は一瞬、その場で目を閉じた。 ――寝てしまいそう。 顔を洗ってこようかとも思ったけれど、それをしている余裕はなかった。 味噌を溶かして、最後に刻んだ小口ねぎをふわっと散らしたら、美味しそうな香りが立ちのぼって、少しだけ息がしやすくなった。 最後に炊きあがったばかりのごはんをふんわりと握って、塩むすびにする。 焼き海苔は湿気を吸わないよう、直前に巻こうと思った。 手のひらに残るごはんの温もりが、じん
梅本先生に励まされて帰宅した私は、夕飯を準備して孝夫さんが帰ってくるのを待った。 うなぎの散歩はすでに済ませてある。 ガチャリと玄関ロックの外れる音がして「ただいま」も言わずに孝夫さんが帰ってきた。 私はいそいそと孝夫さんを玄関先まで出迎えに出ると、彼が無言で差し出してくる荷物と上着を受け取る。いつも通りの日常だ。 だけど、やっぱり手渡された孝夫さんの上着からは嗅ぎ慣れない甘ったるいにおいがして……思わず上着を持つ手に力がこもる。「あ、あの……孝夫さん」 意を決して恐る恐る呼び掛けたら不機嫌そうに睨まれて、「あ? 帰ってきたばっかで疲れてるんだけど? 今じゃなきゃダメな話なのかよ」 吐息交じりに棘のある言葉が返ってきた。 私はたったそれだけのことで、アレコレ問い詰めると決めていた心がしゅぅーっと音を立ててしぼんでいくのを感じた。「あ、あの……今じゃなくても大丈夫です。あとにします」 しどろもどろで答える私に、チッと舌打ちして「だったら最初から声掛けてくんな、ブス」というつぶやき声が聞こえてきた。 自分の容姿が他人さまほど恵まれていないことは分かっている。 でも――。 かつては〝かわいいね〟と言ってくれたのと同じ口で〝ブス〟と言われるのはやっぱり辛かった。「(見た目が悪くて)ごめんなさい……」 いつの間にか卑屈な捉え方が身に付いた私は、孝夫さんの言葉に思わず謝ってしまう。 それがまた孝夫さんを苛立たせる……の悪循環。あからさまに吐息を落とされた上、その後も孝夫さんから始終〝話しかけてくるな〟というオーラを出されまくった私は、結局何も聞けないまま布団に入った。 孝夫さんとは寝室もベッドも一緒だ。夫婦だから当たり前なのだけれど、私と眠ることに孝夫さんは少なからず不満を抱いているみたい。 私が先に布団へ入っているとあからさまに溜め息をついたり舌打ちをしたりしながら乱暴に上掛けをまくって寝そべってくる。 逆に私があとから布団へ入っても、折悪しく孝夫さんがまだ寝ついていなかったり、物音で起こしてしまったりすると同様にされてしまう。だから私はこのところ、寝室でも一切気の休まる時がなかった。 ずっと身体が重怠いのは、寝不足なのかな……。 新婚当初から使っているキングサイズのベッドで二人一緒に眠るのは、そろそろ限界なのかも知れない。
「けど、それ。どれもこれも別に決定打があったわけじゃないんでしょう? うなぎちゃんの散歩時に見かけたというご主人と若い女性の相合傘姿も、ご主人のスーツから漂ってきた香りと家へ入った時に感じた残り香が同じものに思えたのも……全部桃瀬先生の早とちりや思い過ごしかもしれません。一度、いま俺に言った気持ちを全部ご主人にぶちまけて……彼としっかり向き合ってみられたら如何でしょう?」 それは教師が生徒を諭す口調そのもので、私、この人は腐っても〝先生〟なんだな……とか失礼なことを思ってしまった。「でも……。もしも勘違いじゃなかったら……」 なのにまだ出てもいない結果に怯えるように、私はそう言わずにはいられなくて……。 不安に揺れる瞳で梅本先生を見つめたら、ニヤリと〝凶悪な極道スマイル〟を向けられてしまう。 違ったらよかった……なんて願ってる時点で、私はきっとすでに確信してるんだ。 ――夫は、もう私を見ていない。 それを認めるのが怖くて、私はただ目を逸らそうとしていただけ……。「そん時は……俺で良ければいくらでも貴女の助けになりますよ。【泥船】に乗ったつもりでドーンと構えていてください」 ニヤリと笑う梅本先生の表情はとっても怖い雰囲気なのに、私は何故だかすごくホッとさせられてしまった。「泥船じゃ、困ります」 眉根を寄せて淡く微笑んだら、「バレましたか」とか。梅本先生は、見た目は怖いけれどとっても優しい人だと思う。「ま、冗談はさておき、もしもの時は絶対俺が力になりますから……だからちゃんとご主人と話してくださいね? 察して欲しいとか、言わなくても分かってくれるよね? とか……自分が我慢すれば丸く収まるから我慢しようって思うとか。そういうのはダメな対処法ですから……絶対しないように
鬱々としたまま学校へ行った私は、職員室へ入る前に両頬をペチッと叩いて気持ちを切り替えた……つもりだった。 一日中、他の先生方にも図書室へ来た子供たちにも何も言われなかったから、完璧に誤魔化せていると思っていた。 このまま終業時間まで誰にも悟られないでいこう。 そう思っていたのに一人ぼっちになった途端、私は気が緩んでしまったみたい。 いつも通り。夕暮れ時の図書室はしんと静まり返っていて、書架の隙間から差し込む西日が床に淡く長い影を落としていた。 (何だろ……。凄く寂しい感じがする) 昨日までは同じ風景を見ても、そんなこと思いもしなかったはずなのに今日に限ってそう感じてしまうのは、感傷的になっちゃってる証拠かな? 授業が終わって子供たちがいない図書室には、児童らの残した温もりみたいなものがまだほんのりと残っていた。いつもなら微笑ましく思えるそれが、今日に限って私、いま一人ぼっちなんだと突き付けられるみたいで……何だかとっても切ないの。 窓の外では木々が風に揺れていて、ほんの少し開けた窓の隙間からかすかに葉擦れの音が聞こえてくる。それさえも静けさを際立たせて、寂寥感《せきりょうかん》を助長させた。 そんな感傷的な気分に負けて、ほぅっと小さく吐息を落としたと同時――。「桃瀬先生が溜め息なんて珍しいですね。何かありましたか?」 放課後、自分のクラスの児童らを帰していらしたんだろう。不意に図書室へ姿を現した梅本先生から開口一番そう問いかけられて、私はビクッと肩を跳ねさせた。 「え?」 それを誤魔化すみたいに、言われた言葉の意味が分からないという風を装ってキョトンとして見せたら、「無理して取り繕う必要はないですよ?」と眉根を寄せられてしまう。 「えっ。そんなこと……」 ――ないですよ? とヘラリと笑いながら紡ごうとしたら、言葉を発する前に、 「今日は一日何だかいつもの覇気がなかったの、気付いてないとでも?」 こちらを探るような視線とともに発せられた梅本先生の言葉に遮《さえぎ》られてしまった。 梅本先生の視線は微塵も揺らぎがなくて……それゆえにすべてをお見通しだと言わんばかりの力を持っていた。 ダメだなぁ。隠したつもりでも、全部バレてた! どれだけ笑顔を貼り付けてみても、やっぱり私、嘘が下手なんだ。 お顔が〝強面《こわもて》だ