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鷹槻れん
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Novels by 鷹槻れん

そろそろ喰ってもいい頃だよな?〜出会ったばかりの人に嫁ぐとか有り得ません! 謹んでお断り申し上げます!〜

そろそろ喰ってもいい頃だよな?〜出会ったばかりの人に嫁ぐとか有り得ません! 謹んでお断り申し上げます!〜

「大学を辞めたくないなら、俺の手の中に落ちてこい」  幼い頃から私を見知っていたと言う9歳年上の男が、ある日突然そんな言葉と共に私の生活を一変させた。 ――  母の入院費用捻出のため、せっかく入った大学を中退するしかない、と思っていた村陰 花々里(むらかげ かがり)のもとへ、母のことをよく知っているという御神本 頼綱(みきもと よりつな)が現れて言った。 「大学を辞めたくないなら、俺の手の中に落ちてこい。助けてやる」  なんでも彼は、母が昔勤めていた産婦人科の跡取り息子だという。  学費の援助などの代わりに、彼が出してきた条件は――。 クスッと笑えるラブコメ目指します!(全32章) (改稿版 2020/08/14〜2021/08/19)
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Chapter: 32.Epilogue(完)
熱々の鰻をアルミホイルごとそっとまな板に移して包みを解くと、火傷しないよう気を付けながら1.5センチ幅に切って、添付されていたタレをたっぷり掛ける。 ――んー、美味しそうっ! 手についたタレを舐めたら、すっごく愛しい味がして、生唾がじわりと口の中にあふれた。 あ、やばいっ。 また《《きた》》! 振り返りざま、椅子の背もたれをギュッと握って手指に力を込めながら、 「よ、りつ、なっ、そ……このラッ、プ、切っ、てくれる?」 私たちの迫力に押されて呆然と立ち尽くす頼綱《よりつな》に、痛みでフルフル震える指でラップの細長い箱を指し示したら、頼綱が慌てて動いて。 そうしてラップの箱を手に、「どっ、どのくらい?」とか。 ――頼綱さん、まさかそれ、切る長さを聞いていらっしゃいます? 一口サイズの手毬《てまり》おむすびを作りたいので、「20セ、ンチくら、いっ」と声を絞り出すように言ったら、頼綱ってば、私の様子にオロオロしてか、今度はなかなかラップの端が掴めなくて《《まごまご》》するの。 「お貸しくださいまし」 とうとう見かねたらしい八千代さんに、ラップを箱ごと奪われてしまった。 結局、一口サイズの鰻乗せ手毬おむすびは、痛みの合間を縫うようにして頑張った私と、始終テキパキと動く八千代さん2人《《だけ》》の共同作業で完成してしまいました。 「頼綱《よりつな》坊っちゃま、これからは父親になられるんですから、お家でも花々里《かがり》さんを支えられるよう、もう少し家事も覚えてくださいましね?」 ――わたくしも、いつまで坊っちゃまのお世話を焼けるか分からないのでございますから。 ぽつんと付け加えるように落とされた言葉に、私は胸がキューッと切なくなった。 と、同時。 「イタタタ……」 またしてもお腹が痛くなって、机に手を付いて立ち止まる。 あ、やばい。 陣痛の間隔、10分切ってるかも? 八千代さんに指示されて、お弁当箱につめた手毬《てまり》おむすびを、風呂敷で包んでいる頼綱を横目に……。 「よ、り、綱っ……お願っ、そろそろ、病《びょぉ》……い、んっ」 ギュッと手に力を入れながら、涙目で彼を振り仰いだ。 頼綱はそんな私をサッとお姫様抱っこの要領で抱き上げると、今包んだばかりのおむすびを手に、「行って
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 32.Epilogue⑨
「ただいま。――おや? やけにいい香りがしてるけど2人で何をしてるのかね?」 八千代さんが買ってきてくださった鰻《うなぎ》の蒲焼《かばや》きを、フッ素加工されたトースタープレートにアルミホイルを敷いて載せると、お酒を少量振ってふわっと包み込む。 それをオーブントースターに入れてスイッチを3分程回したところで、頼綱《よりつな》がキッチンに顔を出した。 久々の鰻にテンション駄々上がりで、頼綱の帰宅に気付けなかった私は、その気まずさを誤魔化すように「今ね、戦飯《いくさめし》を用意してるのよ♥」と、私の手元を覗き込んでくる頼綱に微笑んだ。 「いくさめし……?」 キョトンとする頼綱に、「ほら、頼綱にも手伝ってもらうんだから。手、洗ってきて?」と視線で彼を洗面所へ促《うなが》す。 八千代さんはそんな私達の横、大葉を細かく千切りにして、適量の白胡麻とともにボールに取り分けた炊き立てのご飯に混ぜ込んでいらして。 私、鰻の蒲焼きしか頼まなかったのに、さすがです、八千代さん! 大葉と胡麻の香りがふんわり鼻腔《びこう》をくすぐって、私は「美味しそう!」ってニンマリする。 「手、洗ってきたよ」 頼綱《よりつな》がキッチンに戻ってきたところで、丁度トースターがチン!と鳴って、私はワクワクしながら扉を開けた。 「イタタタ……」 そこでお腹がキューッと痛くなって、思わずテーブルに手を付いて動きを止める。 テーブルについた指の先が白くなっちゃうくらい手指に力が入った。 ……痛いっ。 でも鰻《うなぎ》、早くトースターから出さないと余熱で焦げちゃうっ。 「よ、りつなっ、お願、いっ。私……の代わりに、ほかほかのウナ、ギをっ」 息を吐きながら痛みを逃《のが》すようにして言ったら、頼綱が「花々里《かがり》、陣痛の間隔は?」と聞いてくる。 「んー、20分……切っ、たくらい、かなっ」 言ったら「それ、こんな悠長に飯を作ってる場合じゃないよね?」って……そんなの分かってるっ! ――だから急いで頑張ってるのよぅ! 「でもっ! これ、絶対いる、の! 頼綱がウ、ナギ禁止令出、した時っ、陣痛の……合間にっ、鰻入りの手毬《てまり》お、むすびっ、ムシャムシャす、るって……私、決め、てたんだ、もん!」 痛みを吐息で散らしながら言ったら、頼
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 32.Epilogue⑧
自分の提案にイエスともノーとも答えない私に、頼綱《よりつな》がキョトンとして、 「花々里《かがり》、それは――」 どう取ればいい?と言いたげな頼綱に、 「ほらっ。遅刻しちゃうよ? その時が来たらちゃんといの一番に頼綱に連絡するから。スパッと気持ちを切り替えて行ってらっしゃい!」 土間に降りて、頼綱の背中をグイグイ押して外に押し出すと、尚も不満そうに私を振り返ってくる彼の頬にチュッとキスを落として、もう1度トドメのように「行ってらっしゃい」と告げる。 そうして、このお話はこれでおしまい、とばかりに手を振って、半ば強引に彼を仕事場へ送り出した。 *** 時折お腹が張って、微かにキューッと生理痛のような痛みを感じるようになった頃、私は八千代さんにお願いしてお買い物を頼んだ。 八千代さんが出掛けている間に、早炊き設定で炊飯器のスイッチを入れてキッチンの椅子に腰掛ける。 「よいしょ」 お腹が大きいあまり、このところ無意識に出るようになってしまった掛け声《ことば》に思わず苦笑して。 ちょっと動いたら暑くなって、羽織っていた透かし編みのカーディガンを椅子に掛けて、ほぉっと一息ついた。 炊き立てほかほかのご飯が出来たら、これでおにぎりを作るぞー!と思ったら自然頬がほころんで。 おにぎりを彩る具も、ちゃんと決めてあるの。 ふふっ。楽しみっ! 「イタタタ……っ」 そこでキューッとお腹が張る痛みに背中をさすって。だけどまだ我慢出来ないほどじゃない。 絶対とは言えないけれど、私、初産だし、きっとあと数時間は猶予《ゆうよ》があると思うの。 学校で学んだ知識が、案外いま冷静に自分の状況を見つめられる指針になって助かるなぁとか思いつつ。 痛みが和らぐとすぐ、気持ちが炊飯器と、八千代さんにお願いしたお買い物にさらわれる。 おにぎりの具材の定番はシャケや梅干しやおかか。 だけど今回私が八千代さんにお願いしたのはそれらじゃないの。 *** 「花々里《かがり》さん、ただいま戻りました」 玄関が開く音がして、八千代さんの声が聞こえてきた。 私は椅子から《《ノシッと》》立ち上がると、台所から顔を覗かせる。 「八千代さん、お帰りなさい。すみません、暑い中、わがまま言ってしまって」 眉根を寄せたら、
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 32.Epilogue⑦
予定日を5日ほど過ぎた、快晴予報の朝。 その頃にはさすがに仕事も産休に入っていて、家でのんびり過ごさせてもらっていたのだけれど、私ってば夏の暑さにもお腹の圧迫にも負けず、食い意地が元気に健在で。 食べ悪阻《つわり》こそ妊娠中期の半ば頃には落ち着いたけれど、食欲は衰えなかったから我ながら凄いって思った。 結果、太り過ぎないよう毎日のウォーキングが日課になって。 最近では夏の射るような日差しを避けて、早朝にお散歩するようにしていたの。 薄暗い日の出前とは言え、歩けばそれなりに汗をかいて。 それを流したくてシャワーを浴びるために服を脱いだら下着を薄らと汚す〝おしるし〟に気が付いた。 「わわわ、ついに!?」って思いながらも、冷静にシャワーを浴びて。 髪をタオルドライしながら頼綱《よりつな》に、「おしるしが来たからそろそろかも知れない」って話したの。 私がそう言った途端、ソワソワしながら「何かあったらすぐに連絡するんだよっ? いいね!? 分かったね!?」って、目に見えて狼狽《うろた》える頼綱に、いつも仕事で赤ちゃんを取り上げていても、いざ我が子のこととなるとただの心配性のお父さんになっちゃうんだなぁって可笑しくなった。 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ?」 ってクスクス笑いながら言ったら、 「俺が心配してるのは……子供のことももちろんだけど、1番は出産を控えた花々里《かがり》のことだからね?」 って眉根を寄せられた。 こんな時まで私をドキドキさせてくれるとかっ。 うちの旦那様は溺愛が過ぎて困ります! そう思いつつも照れながら「ありがとう」って言おうとしたら、頼綱《よりつな》が「今夜の当直は杉本先生だけど、もし日付がズレたらその限りではないと言うのが気になって仕方がないんだよ」とつぶやいて。 「えっ!? ちょっと待って、そっちなの!?」 1番に心配しているって言ってくれたから、私の身体のことかと思いきや、「それは言うまでもないことだろう?」らしい。 頼綱としては、私が臨月に入った辺りから、お産は院長先生や浅田先生には任せたくないという思いが強くなっていたみたいで。 「杉本先生が当直じゃない日にキミが産気づいたら……その時は誰がなんと言おうと《《僕》》が取り上げる。それだけは了承しておいておくれね
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 32.Epilogue⑥
「あとは――野菜スティックとかモグモグするのもありかも?」 何の気無しに言ったら、頼綱《よりつな》が瞳を見開いて。 「それはまた、肉食の花々里《かがり》にしては珍しくウサギみたいなことを言うね」 って笑うの。 に、肉食って! 確かにお肉もお魚も大好きだけど、私、お野菜も好きなのにっ。 「ウサギでも何でも構わないのよぅ。なるべく太りにくい食べ物をムシャムシャしたいのっ」 力説して眉根を寄せる私に、「〝Auberge《オーベルジュ》 Vie de lapin《ヴィ・ドゥ・ラパン》〟に連れて行った時、キミが兎《ウサギ》より鰻《ウナギ》がいいって《《ゴネた》》のを思い出すよ」って頼綱が肩を震わせて。 |羽の生えたうさぎ《ル・ラパン・エレ》というホテルでデートした時の話だ。 「べっ、別にゴネたりなんかしてないよ?」 唇をとんがらせて言ったら、「そうだっけね?」と意味深に視線を流される。 あの日、ホテル内にあったお洒落なお店の前で、「Vie de lapin《ヴィ・ドゥ・ラパン》は、フランス語でウサギ生活という意味だよ」と教えてくれた頼綱《よりつな》に、ウサギからウナギを連想した私が、「鰻《うなぎ》は何て言うの?」って聞いたら「anguille《アンギーユ》」だと教えてくれて。 うん、私、その時、「ウナギ生活《ヴィ・ドゥ・アンギーユ》!」って言ったんだよね。 因みにAuberge《オーベルジュ》はレストランっていう意味だと解説された私は、ウサギのイメージが強過ぎて「野菜料理ばかりは嫌だよ?」って《《心の中で》》思ったの。 けど、今の口ぶりからすると、頼綱は全部お見通しだったのかも? くぅ〜。 記憶力良すぎも、察しの良すぎも、やっぱり何だか腹立たしいですっ! *** 妊婦健診は、最初に妊娠を確認して頂いたとき同様、うちの病院の紅一点、杉本先生にお願いしています。 やっぱり頼綱《よりつな》にっていうのはいくら夫とはいえ――いや、夫であるがゆえに?――恥ずかしかったし、ましてやお義父《とう》さまや、同僚の男性医師に、なんていうのは論外でっ。 お腹の上から経腹《けいふく》エコーが掛けられるようになってからならまだしも、初期の経膣《けいちつ》エコーの時はさすがにちょっと、と思ってしまったの。 「――それでい
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 32.Epilogue⑤
お腹の中、食い意地の虫とちっちゃなちっちゃな赤ちゃんが、ミルクを酌み交わしながらおしゃぶり片手にどんちゃん騒ぎをしているのを想像してブルっと身震いしたら、頼綱《よりつな》が「何を想像したの?」って聞いてきて。 涙目で「私のお腹の中で腹ペコ虫と胎児がミルクで《《酒盛り》》してるのっ」って訴えたら、変な顔をされてしまった。 「花々里《かがり》が飲まなきゃ中の住人も酒盛りは出来ないと思うよ? ――っていうか、それ。そもそもミルクなの、酒なの? ねぇ花々里。まさかと思うけど、《《僕》》に内緒で飲酒とかしてないよね?」 突然私が支離滅裂なことを言ったりしたから、もしかして酔ってる?って疑われてしまったのかも? 「飲んでなんっ、……んん!」 飲んでなんかいないよ?って言おうとしたら、言葉半ばで頼綱に深く口付けられて。 まるでお酒をたしなんだりしていないことを確認するみたいに口の中を探られた上、「……甘い」とつぶやかれて「よしよし」と頭を撫でられた。 よ、頼綱の馬鹿っ。イメージの話だったのに、なに真に受けちゃってんのよ! びっくりしたじゃないっ。 照れ臭さにそわつく私をよそに、頼綱はケロリとした顔をして、「《《僕》》としてはご馳走出来る食いしん坊さんが増えるの、今から楽しみで堪らないんだけどね」って心底嬉しそうに私のお腹に触れてくるの。 頼綱めっ。 この子が育ち盛りになった時、エンゲル係数が跳ね上がってピィーピィー泣く羽目になっても知らないんだからね!? 村陰家《むらかげけ》直伝《じきでん》の食いしん坊遺伝子、舐めんなよーっ!? *** 「食事は八千代さんにも協力してもらって、なるべく少量を小分けに摂るようにしてるだろう?」 頼綱《よりつな》の言葉にうんうん、とうなずく。 途端込み上げてきた何となくしょっぱい生唾に、口元を押さえて立ち止まる。 うー、まずい。 なんかまた気持ち悪くなってきた……。 「頼綱……。飴玉……」 言ったら、スーツのポケットから取り出した飴を、「ゆっくりお食べ」って包みをほどいてそっと口に入れてくれる。 飴。自分で持っていたら、つい高速でコロコロコロコロ転がして次々に食べてしまうから、一緒にいる時は頼綱に管理してもらっているんだけど。 「あ、この味。懐かしいっ」 出会っ
Last Updated: 2025-08-26
私のおさげをほどかないで!

私のおさげをほどかないで!

コンビニでバイトをしながら小学校の先生を目指す女子大生の向井凜子(むかい りんこ)は、何かといえばすぐにからかってくる常連客の男――鳥飼奏芽(とりかい かなめ)が大嫌い。 彼の軽薄そうなところが、真面目な自分の考え方とは真逆で馴染めそうにないから極力関わらないようにしたいのに、何故か相手はそうではないようで。 小児科医のマイペースワガママ男 奏芽(33)と、真面目な女子大生 凜子(19)。 水と油のようなふたりの、ドタバタ年の差恋愛譚。
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Chapter: 17.隣、いい?①
 四季《しき》ちゃんと別れての授業。 いつもなら何て事のない一人での受講が、何だか今日は少し不安で。 せめても……と思って、いつもは真ん中より少し後方あたりの席を選ぶところを、今日は教授に近い場所に、と教壇に近い席――前から2列目を陣取ってみた。 ここは劇場《シアター》のように教壇に対して放射線状に席が配置されている大型の教室で、後方に行くに従って階段を上がって行くように席の位置が高くなっていっている。 どこに座っても、ちゃんと講義内容が分かるように大型モニターに教授の姿やホワイトボードなどが映し出されるし、教授の声もマイクを通して教室のあちこちに配されたスピーカーから聞こえてくるの。 だからかな。 比較的後ろの席に人気があって、いつも後方から埋まるように席がまばらに埋まっている印象。もちろん今日も。 私みたいに前の方に詰めて座る生徒は逆に目立つのだけれど。 あれ? 珍しいな。 私と同じ列、ほんの数席離れたところに今日は見慣れない男の人が座ってきた。*** 教室内はちゃんと冷暖房完備で、この部屋も割と温かくしてある。それでも何となく足元が寒い気がした私は、鞄からいつも持ち歩いている膝掛けを取り出して足に載せた。 そんなに音を立てて動いたつもりはなかったけれど、衣擦れの音が耳障りだったのかな? 先刻の男性が私の方をジッと見てきて――。 その視線と目があって、思わず条件反射で小声でごめんなさいと謝って会釈したら、意外にもニコッと微笑み返された。 良かった、気分を害されてはいないみたい? そう思ってホッとしていたら、その人がおもむろに立ち上がった。 「なんだろう?」と思っていたら「隣、いい?」って聞かれたの。 あまりに想定外のことに、良いとも悪いとも答えられずにいるうちに、さっさとすぐ横に腰を下ろされてしまった。 こんなに沢山席が余っているのに、わざわざすぐ隣とか……ものすごく落ち着かない。
Last Updated: 2025-09-05
Chapter: 16.転ばぬ先の杖?④
 奏芽《かなめ》さんとの通話を終えて、画面をハンカチで綺麗に拭ってから、四季《しき》ちゃんにスマホを返すと、「いい彼氏さんじゃない」ってにっこりされた。 うん、そんなことは私が1番分かってる。 見た目こそ派手で軟派《ナンパ》男みたいに見えちゃう奏芽さんだけど、実際の彼は周りにしっかり配慮が出来てしまえるお兄さん気質の優しい人だ。 その彼に、すごくすごく心配をかけてしまっている。 そう考えると、思わず溜め息がこぼれた。「凜子《りんこ》ちゃん、彼氏さんに頼まれるまでもなくそうするつもりだったけど……今日は放課後も、お迎えがあるまでずっと一緒にいようね」 言われて、私は思わず四季ちゃんを見やる。「でも四季《しき》ちゃん、いつもご飯の後は」 他のお友達と一緒に講義に出るのが常だったはず。 そもそも私と四季ちゃん、次の講義、被ってない。「あー、講義の間は少し離れちゃうけど、でも……凜子ちゃんが教室に入るの見届けてから行くから。あと、講義終わったあとは真っ直ぐに学生ホール《ここ》目指して? なるべく人が多いところにいるようにすること! いい? 次の次は一緒の講義だから合流して一緒に教室行こう!」 何でそこまでしてくれるの? 学校内だし、昼間だし、大丈夫なはずなのに。 そう思ってソワソワしたら、「忘れたの? うちの大学、外部の人が学食とかで普通にご飯食べたり出来ちゃうこと!」って言われた。「そういうことが出来るってことは、その変な人だって簡単に構内に入り込めるってことだよ? 鳥飼《とりかい》さんはそれ、すごく心配してた。凜子《りんこ》ちゃんには言わなかった?」 とか。 そういえば奏芽《かなめ》さんと2人、中庭で彼が学食で買ったというハンバーガーを頬張ったことがある。 あの時、奏芽さん、部外者でも構内に入れるって《そんなこと》言ってた。 奏芽さん、私を不安がらせないために電話ではそれ、言わずにいてくれたのかな。 でも――。
Last Updated: 2025-09-04
Chapter: 16.転ばぬ先の杖?③
 そんな私に、『俺が怒ってる理由、凜子《りんこ》、絶対はき違えてんだろ』って奏芽《かなめ》さんが言うの。「え?」 キョトンとして言ったら、『何でこんな大事なこと、もっと早く言わなかった? 何かあってからじゃ遅いだろーが!』って叱られてしまう。 そのあとつぶやくように『けど、1番ムカつくのは凜子が悩んでるの、気付けなかった俺自身に、だ。ごめんな』とか。 えっと……もしかして……奏芽さん、お仕事の邪魔をしたのを怒ってるわけじゃ、ない? ここにきてやっと、そう思い至った私は、あまつさえ奏芽さんに謝られてしまったことに戸惑って、「あ、あの……っ」って恐る恐る声を掛ける。奏芽《かなめ》さんはまるでそれを断ち切るみたいに『で、今日は大学終わるの何時?』って話題を変えてくるの。 確か今日は4時限までだったから……16時過ぎには終わる……はず。 そう思って「16時過ぎです」って答えたら、しばしの沈黙ののち、『この電話、凜子の番号じゃねぇけど、片山さんの?』って聞かれて、私は奏芽さんの病院の電話、ナンバーディスプレイがついてるんだ……ってどうでもいいことに感心してしまう。 それでやや反応が遅れて、慌てて「は、はいっ」って言ったら、『じゃあちょっと片山さんにかわってもらえる?』とか。 奏芽さん、四季《しき》ちゃんに何の用だろう。 ソワソワとそんなことを思いながら、四季《しき》ちゃんに「奏芽《かなめ》さんが四季ちゃんと話したいって……」とスマホを差し出したら、四季ちゃんが目をパチクリさせた。「え? 私っ?」 うん、私が四季ちゃ
Last Updated: 2025-09-04
Chapter: 16.転ばぬ先の杖?②
画面に〟|鳥飼《とりかい》小児科医院〟と表示されているのを見て、「あ、うん」と思わずうなずいたら、|四季《しき》ちゃんのスマホからピッ!という電子音が響いた。 「……四季ちゃん?」 その音に驚いて彼女の方を見たら、スマホを耳に当てていた。 「もしもし。……ええ。もちろん、午前の診察受付が終わってるのは知ってます! それとは別件で、《《個人的に》》鳥飼先生に緊急の用件なんです! え? 先生の携帯ですか? そっち、繋がらないしメールじゃ遅いからこっちにかけてるんですよ! お願いします。大事な用件なんですっ! 変わってください!」 とか。 ちょ、ちょっと待って、四季ちゃん、その電話先っ! 「え!? 2人? あの、30代ぐらいの男性のほう! そう! ――え? 若先生? 条件に当てはまるのがその若先生とやらなら、そっちの先生だと! ……私ですか? 片山……じゃなくて|向井《むかい》|凜子《りんこ》です!」 矢継ぎ早にまくし立てる四季ちゃんに、私はオロオロとなす術がない。 しかも今、私の名前……名乗っ――!? 気持ちは焦るのに、電話中に横から声をかけて割り込んだりしたら、電話先の相手にも失礼になるかもしれないって思ったら、身動きが取れなかった。 こういうところでも自分の真面目さが、迅速な行動を阻害しちゃうとか……本当情けない。 四季ちゃんのスマホから保留音が微かに聴こえてきて、その音にハッとして「四季ちゃんっ!」って声を出した時には、|奏芽《かなめ》さんが電話口に出てきた後だった。 あーん、奏芽さん、ごめんなさいっ。 お仕事中に大した用じゃないのに電話しちゃうとか! あまりに非常識なことをしてしまった気がして、泣きそうになりながら四季ちゃんを見詰めたら、「凜子ちゃん、自分の口でちゃんと話して!」っていきなり
Last Updated: 2025-09-03
Chapter: 16.転ばぬ先の杖?①
「ってことがあって……」 お昼休み。 |四季《しき》ちゃんと並んで学生ホールで昼食を食べながら、私は|奏芽《かなめ》さんに言えず仕舞いになっている、バイト先やその行きしなの違和感を四季ちゃんに訴えた。 10月に入ったあたりから、寒さに耐えられなくなってきて、私は中庭でお弁当を食べるのを断念したの。情けないけど暖房がある屋内に引きこもり気味な……そんな毎日です。 晩秋から今に至るまでの数ヶ月間、私は中庭が見渡せる|学生ホール《ここ》や、少し離れた棟にある学食のテーブルで、四季ちゃんと一緒に昼食を摂っている。 四季ちゃん、人見知りの私を気遣ってか、昼食時だけは2人きりになれるように他の友達から離れる配慮をしてくれているみたいで。 一度「いいの?」って聞いたら、「私も他の子たちにはあまり年上の彼氏の話できないから、お昼くらいは|凜子《りんこ》ちゃんと2人きりがいいの」って笑ってくれた。 誰とでも仲良くなれる四季ちゃんも、相手によって話を選んでいるというのは何だか新鮮で、そこだけは2人の秘密みたいに思えて嬉しかったの。 私も四季ちゃんがいてくれるから、中庭よりはるかに人がたくさんいる|屋内《ここ》でお弁当を広げられている気がする。 もし今も一人ぼっちだったら、人気のなさそうな空き教室を探して、お昼のたびにさまよっていたかも知れない。 それにしても。 屋内にいても足元が冷える気がするのは、私が生粋の寒がりだから、かな。 今日の四季ちゃんはセーターの下にミニスカート。それにタイツを合わせて、くるぶしなんてむき出しのブーティーという結構寒そうな格好で。なのに平気そうなのがすごいなって思った。 逆に私はというと、タートルネックにもこもこセーターを重ねて、くるぶしまでのロングスカートにムートンのハイカットスニーカーという出で立ち。それなのに寒くて堪らないとか、ちょっぴり情けない。 ポケットに忍ばせた携帯カイロをモミモミしながら四季ちゃんを見つめたら、 「何それ、かなり気持ち悪いんだけど!」 話し終えるなり、四季ちゃんが物凄く怖い顔をして私を見つめてきた。 「えっ」 その剣幕に|気圧《けお》されて、ポケットの中のカイロをギュッと握りしめたら、「もちろん、彼氏には話してるんだよね?」と畳み掛けられる。 「あ、えっ
Last Updated: 2025-09-03
Chapter: 15.気のせい?⑥
「えっ」 その声に思わず谷本くんを見つめたら、「顔、にやけてたよ」って自分の口元をちょんちょん、と指し示しながら言われた。 思わず両手で口元を隠したら「彼氏できてからの向井さん、すごくいい顔するようになった! 元々美人だなって思ってたけど……最近は角も取れて話しかけやすくなったし」ってにっこり微笑まれた。 話しかけやすくも何も、結構谷本くんは奏芽《かなめ》さんとお付き合いする前から話しかけてくれてた気がするんだけどな? そう思って見つめ返したら「だからっ。その目で俺を見るのやめてってば。マジしんどいっ」って慌てて顔を背けられてしまった。 何のことか分からなくてキョトンとしてから、“艶めいた目”というキーワードが頭に浮かんでハッとする。 そのつもりなんて全くないのに……どう気をつければいいの? 思っていたら「その様子だと今日はちゃんとお迎えありだよね?」って確認されて、「あ、はいっ」 慌てて答えたら「じゃ、安心だ。お疲れ様。また明日ね」ってひらひらと手を振られた。「お、お疲れ様ですつ」 慌てて頭を下げて谷本くんを見送ってから、「私も早く帰ろう」って思う。 奏芽さんと会えると思うと、それだけで気持ちがふわりと浮ついた。*** 店外に出たところで、ふと視線を感じた気がして、私は思わず立ち止まる。「――?」 キョロキョロと辺りを見回してみたけれど誰もいない。 気のせい、かな? そう思っていたら、奏芽《かなめ》さんが車から降りて私の方に歩いていらした。「凜子《りんこ》、どうかしたのか?」 コンビニから出て、辺りを気にして落ち着かない様子だった私を見て、心配してくださったみたい。「あ、いえ何でも……」 言って、奏芽さんを見たら、彼、とても薄着で。「さ、寒くないんですかっ」 モコモコに着込ん
Last Updated: 2025-09-02
恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます

恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます

夫に離婚届を叩きつけられ、家も居場所もなくした学校図書館司書の桃瀬穂乃(ももせほの)。 行き場のない夜、無愛想な小学校教師・梅本一臣(うめもと かずおみ)が差し伸べたのは、冷たくて優しい“仮”の同居生活だった。 こじらせ教師と傷心司書。 心の距離が縮まるたび、秘密と過去が彼らを試す—— これは、「恋人未満の彼」との、逃げ場みたいな恋のはじまり。
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Chapter: 5.段ボールに囲まれた二人と一匹②
「……まだ片付けてないんですね」 思わず口にすると、梅本先生は「まあ、いろいろあって」と苦笑した。「とりあえず湯張りしてくる」 梅本先生は濡れそぼった私を一瞥すると、キッチンにある給湯スイッチの操作パネルをポンと押した。 お風呂場にも同様の操作パネルがあるのかな? お風呂場とキッチンの両方から『お湯張りをします。お風呂の栓はしましたか?』というアナウンスが響く。 梅本先生はキッチン奥に隣接した部屋から薄手の長袖トレーナーを手に持って戻ってくると、「これ、とりあえず上だけでも着替えて? 濡れたままじゃ風邪、悪化しちまう」 差し出された服とタオルを受け取った私は、梅本先生に脱衣所を指さされてそちらへ引っ込んだ。「――っ!」 濡れた服を脱ぐ前、ふと洗面所の鏡を見た私は思わず息を呑む。 曇った眼鏡の奥に、下着を透かしたみっともない自分が映っていたから。 今までこんなみっともない姿で梅本先生と対峙《たいじ》していたんだと思うと、ぶわりと頬が熱くなってしまう。慌てて眼鏡を外して拭ってみても、赤く火照った頬は誤魔化せそうにない。 乾いた服に着替えたところで下着は依然として湿ったままだけど、ブラが透けなくなっただけでも大分違うし、なにより温かくてホッとした。 期せずしてリードを握りっぱなしだったうなぎが、私と一緒に脱衣所にいて……私の様子をじっと見上げてくる。 私はうなちゃんの頭をそっと撫でて、「どうしよう、私……梅本先生の家に来ちゃった」 
Last Updated: 2025-08-24
Chapter: 5.段ボールに囲まれた二人と一匹①
雨は止む気配を見せなかった。 愛犬うなぎを連れて公園のベンチでうずくまっていた私に、梅本先生は何も言わず、ただ傘を差し掛けてくれた。 それだけでもありがたいのに「もし家に帰れねぇってんなら、とりあえず俺ん家《ち》来いよ」とか。 お顔だけ見たらすっごく怖そうなのに、なんて優しい人なんだろう。 呆然自失の私の手を引いて立ち上がらせると、梅本先生はそっと背中を抱くようにしてリードしてくれる。 私はぼんやりした意識をなんとか鼓舞するように、うなぎのリードを強く握りしめてそんな彼のなすがまま、ふらりふらりと歩き始めた。 雨粒が眼鏡にびっしりと貼りついて、視界がにじんでまともに前が見えない。鼻眼鏡になりかけたフレームを押し上げるたび、現実に引き戻されるようで苦しかった。 それだけでもしんどいのに、びしょ濡れの服が肌にまとわりついてきて動きづらい。濡れた衣服は、容赦なく私の体温を奪っていく。まるで、さっきまでいた自宅の玄関先の冷たさを思い出させられるみたいで、私はもう二度とあの家の扉を叩くことはできないんだと胸の奥でぼんやりと考えていた。 私がいなくなっても、きっと孝夫さんは困らない。 そんな風に思った。 *** 梅本先生が住んでおられるアパートは、公園から徒歩五分程度の距離にあった。 方向こそ違えど、案外私が住んでいたマンションとも近くて、なんだか不思議な気持ちがしてしまう。 梅本先生のアパート一階に入っているコンビニは、私も何度か利用したことがある店舗だった。 こんなに近くに住んでいたのに、公園でしか顔を合わせなかったなんて……。妙な巡り合わせだなと思ってしまう。 「このままうちに来たら色々困りそうだな」 ふと何かに気付いたようにポツリとつぶやいた梅本先生が、だけど私のすぐそばでキョトンとこちらを見上げているうなぎに視線をやって「あー、けどなぁ」と吐息を落とした。 彼はひとりであれこれと想いを巡らせて、なんだか自分で結論を出してしまったみたい。 「一旦、上、上がろうか」 言うなり、店舗横に伸びる階段へと足を向けた。 「しんどいトコ、ごめん。うちのアパート、三階建てなんでエレベーターがねぇんだ。歩けそう?」 畳んだ傘からポタポタト雫を滴らせながら、気遣うように私をじっと見下ろして問い掛けてくる梅本先生に
Last Updated: 2025-08-21
Chapter: 4.さよならの雨と、拾われた夜⑪
 三和土《たたき》の上に、見覚えのないハイヒールが、揃えて置かれていた。  艶のあるローズベージュのエナメルパンプス。  細く高いピンヒールに、華奢なつま先。その柔らかく上品な色合いは、若い女性の足元を可憐に飾るためにあるようなデザインだった。  わざわざこの色を選ぶのは、きっと自分の見せ方をよく知っている女の子だ。甘さと清潔感のちょうどいいバランス。 いつも動きやすさ終始でスニーカーを好んで履いている私とは、まるで違う。 そのすぐ隣には、黒い革のストレートチップシューズが置かれていた。  一見すると、手入れの行き届いた高級靴。いつも孝夫さんが帰宅するたびに私が綺麗に磨いている見慣れた靴だ。  けれど、いま玄関先に脱がれたそれは、つま先に薄っすらと擦れた跡があり、かかとには乾いた泥のような汚れがわずかにこびりついていた。 艶やかなローズベージュのヒールが、まるで〝特別な日〟を象徴するみたいに無垢に光っているのに対して、その黒い革靴は、〝嘘を重ねた日常〟をそのまま引きずって帰ってきたように、鈍く沈んで見える。 その二足の靴が、同じ玄関の床タイルの上に、まるで寄り添う恋人同士みたいに並んでいるのが何より恐ろしかった。(え? これ……なに?)  っていうか、〝誰〟の? 愛らしいハイヒールからして、持ち主は若い女性に違いない。そう思い至った途端、喉の奥がひゅっと音を立てた。  目の前のヒールは、まるで「貴女の場所を侵食していますよ?」とでも言うように、静かに主張している。(もしかして……誰か、家に上がってる……?) 心臓がドクンと強く鳴る。  全身の血がいっせいに逆流するような錯覚に、足元がぐらついた。 ただの来客? 仕事の打ち合わせ? それとも……。 そんな問いを否応なく否定するように、奥の方から小さく笑うような女性の声が聞こえた。 視界が揺れて、息が詰まりそうなのは、体調不良のせい? それとも――?  靴を脱ぐのも忘れて土足のまま上がったリビングの奥、半開きの寝室の向こうで、何かが動いている。「や、ぁ……んっ。タカちゃん……、気持ち、いっ。もっと……」 イヤになるくらい薫ってくる甘ったるい香水の香りに負けないくらい甘えた声をあげて、白い女性の手が、裸の夫の腕に伸ばされる――。 紛れもない不貞の様子に、私の世界が静かに壊れた。
Last Updated: 2025-08-08
Chapter: 4.さよならの雨と、拾われた夜⑩
今日は夕方から雨になるらしい。天気予報でそんなことを言っていたのを聞いた私は、念のために雨具をもって出勤した。 孝夫さんを送り出して、何とか身支度を整えて仕事に出たものの、学校――職場――へ着いた頃には、身体の熱っぽさは無視できないほどになっていた。 周囲に迷惑をかけないよう、マスクをして午前中の業務をどうにかこうにかこなしてから、図書室の授業予定表を見る。 幸い今日は午前中のみで、五時間目――お昼休み以降――の授業の予定は入っていなかった。 昼休憩、事務室のみんなと一緒に給食を食べたけれど、全然味がしなくて、全部食べ切れなかったことに物凄い罪悪感を覚えてしまう。 「すみません。食べられませんでした……」 申し訳なさにしゅんとしながら皿に残した鶏肉のソテーやサラダを食缶内に廃棄品として戻していたら、他の先生方に「桃瀬先生、顔色が悪いけど大丈夫?」と心配されて、皆さんの優しさに、泣きそうになってしまった。 こういうのは、夫からは得られないものばかりだ。 「ちょっと体調がイマイチなんですけど、なんとか昼休みの見守りだけして帰ろうと思います」 マスク越しに淡く微笑んだけれど、口元が隠されたマスクの下では無意味だったかも知れない。 昼休みの委員会活動の見守りまでは何とか気力で勤めたものの、ここからは頑張らなくてもいいと思ったら、気が抜けたのかな。 一気にしんどさが押し寄せてきて、立っているのも辛くなってしまった。 熱のせいか、ふわふわと地に足のつかないおぼつかない足取りで、「すみません、めまいがして……」と教頭先生に申し出て、早退を願い出て帰らせて頂くことにした。 頭の中、『夏風邪はバカがひくんだ』と孝夫さんに溜め息をつかれる幻想が見えて、勝手に自分で想像した癖に悲しくて瞳に涙が盛り上がってきてしまう。 (体調が悪いからかな? いつもより心が弱っているみたい) 何とか職員室を出るまでは涙をこぼさないよう頑張るつもりだったけど、梅本先生がちらりとこちらを見たときにポトンと一滴溢れて……それに気付かれた気がした。(きっと心配かけてしまったよね?)と申し訳なさに苛《さいな》まれたけれど弁解する気力もなくて、私はかろうじて一礼すると職員室をあとにした。 *** いつもなら16時くらいに帰るところを、今日は2時間以上早くマ
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 4.さよならの雨と、拾われた夜⑨
「大丈夫、大丈夫……」 誰に言うでもなく小さくつぶやいて、私は次に卵を二つ取り出した。 だし巻き卵は孝夫さんが好む甘めの味つけ。砂糖とだし汁を入れた卵液入りのボールは、握力のない今の手には少し重い。こぼさないよう少しずつフライパンへ流し込むと、じゅっと軽やかな音とともに卵が膨らみ、湯気がふわりと立ち上った。 火加減が少し強かったかな? と焦りながらも、なんとか焦がさず綺麗に巻いていく。 卵焼きは途中少々不格好になっても、後半うまくやれば、何とかそれなりの形に整えることが出来るから助かる。 そう自分に言い聞かせながら、巻きすで形を整えて、端を切り落として出来上がり。端っこは私のお皿に取り分けて、真ん中の綺麗な部分を孝夫さん用のお皿へ盛り付けた。(もう一品、何か……) 思考がぼんやりする中、冷蔵庫の野菜室を覗き込むとミニトマトが目に入った。 冷凍庫に茹でて小分けにしてあるブロッコリーがあるから、あれを軽く解凍して……彩りを考えたおかか和えにしよう。 半分にカットしたミニトマトと一口大にしたブロッコリーを小鉢に盛ると、削り節をのせて薄口醤油を数滴。 それだけなのに、ちゃんと一品になってくれるのが有難かった。……助かる。 味噌汁は、昨晩のうちにとっておいた出汁があるから、それに皮を剥いて一口大に切ったじゃがいもとニンジン、それから薄切りの玉ねぎを入れた根菜の味噌汁にしようと決めた。 鍋に入れて火にかけ、コトコト煮える音を聞きながら、私は一瞬、その場で目を閉じた。 ――寝てしまいそう。 顔を洗ってこようかとも思ったけれど、それをしている余裕はなかった。 味噌を溶かして、最後に刻んだ小口ねぎをふわっと散らしたら、美味しそうな香りが立ちのぼって、少しだけ息がしやすくなった。 最後に炊きあがったばかりのごはんをふんわりと握って、塩むすびにする。 焼き海苔は湿気を吸わないよう、直前に巻こうと思った。 手のひらに残るごはんの温もりが、じん
Last Updated: 2025-08-02
Chapter: 4.さよならの雨と、拾われた夜⑧
 梅本先生に励まされて帰宅した私は、夕飯を準備して孝夫さんが帰ってくるのを待った。 うなぎの散歩はすでに済ませてある。 ガチャリと玄関ロックの外れる音がして「ただいま」も言わずに孝夫さんが帰ってきた。 私はいそいそと孝夫さんを玄関先まで出迎えに出ると、彼が無言で差し出してくる荷物と上着を受け取る。いつも通りの日常だ。 だけど、やっぱり手渡された孝夫さんの上着からは嗅ぎ慣れない甘ったるいにおいがして……思わず上着を持つ手に力がこもる。「あ、あの……孝夫さん」 意を決して恐る恐る呼び掛けたら不機嫌そうに睨まれて、「あ? 帰ってきたばっかで疲れてるんだけど? 今じゃなきゃダメな話なのかよ」 吐息交じりに棘のある言葉が返ってきた。 私はたったそれだけのことで、アレコレ問い詰めると決めていた心がしゅぅーっと音を立ててしぼんでいくのを感じた。「あ、あの……今じゃなくても大丈夫です。あとにします」 しどろもどろで答える私に、チッと舌打ちして「だったら最初から声掛けてくんな、ブス」というつぶやき声が聞こえてきた。 自分の容姿が他人さまほど恵まれていないことは分かっている。 でも――。 かつては〝かわいいね〟と言ってくれたのと同じ口で〝ブス〟と言われるのはやっぱり辛かった。「(見た目が悪くて)ごめんなさい……」 いつの間にか卑屈な捉え方が身に付いた私は、孝夫さんの言葉に思わず謝ってしまう。 それがまた孝夫さんを苛立たせる……の悪循環。あからさまに吐息を落とされた上、その後も孝夫さんから始終〝話しかけてくるな〟というオーラを出されまくった私は、結局何も聞けないまま布団に入った。 孝夫さんとは寝室もベッドも一緒だ。夫婦だから当たり前なのだけれど、私と眠ることに孝夫さんは少なからず不満を抱いているみたい。 私が先に布団へ入っているとあからさまに溜め息をついたり舌打ちをしたりしながら乱暴に上掛けをまくって寝そべってくる。 逆に私があとから布団へ入っても、折悪しく孝夫さんがまだ寝ついていなかったり、物音で起こしてしまったりすると同様にされてしまう。だから私はこのところ、寝室でも一切気の休まる時がなかった。 ずっと身体が重怠いのは、寝不足なのかな……。 新婚当初から使っているキングサイズのベッドで二人一緒に眠るのは、そろそろ限界なのかも知れない。 
Last Updated: 2025-08-01
誰にも見せたくない〜僕だけの君でいて?〜

誰にも見せたくない〜僕だけの君でいて?〜

地味で目立たない、大学2年生の篠宮 沙良(しのみや さら)。 誰にも気づかれないその魅力に、八神 朔夜(やがみ さくや)だけは1年生の頃から気づいていた。 〝メガネを外したら可愛いのに〟 朔夜からの、ふとした言葉がきっかけで、沙良は少しずつ朔夜に心を開き始める。 逃げたかった相手の出現で、朔夜へ依存するようになっていく沙良。 それが、朔夜からの罠とも知らずに――。 「大丈夫。僕だけは、君の味方だから」 これは、執着と依存が織りなす、歪んだ〝愛〟の物語。 誰にも見せたくない――僕だけの君でいて? ※30,000字くらいで完結予定。 (2025/07/19〜執筆)
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Chapter: キミと僕だけの世界(完)
沙良が浅く寝息を立てている。頬には熱の名残《なごり》。 泣きながら何度も絶頂に達し、ようやく訪れた眠りだった。 その細い足首に、僕はそっと銀の輪を嵌める。 ぱちん、と乾いた音。もう外せない。誰にも、何があっても。 これは飾りじゃない。微弱な発信装置とアラーム付き。 僕だけが管理できる、特注の足枷《アンクレット》。 ねぇ沙良、知ってた? 眠ってる間に檻《おり》の鍵をかけられてたって。 でもまだ教えないよ。だって僕は優しいから。 キミが不安にならないように、甘く優しく包み込んであげる。 目覚めるたび、自然と〝僕のもの〟だと受け入れられるように。 逃げられない檻の中で、キミは僕だけを見ていればいい。 僕がキミを見つけたあの日から……キミはこうなる運命だったんだ。 「……ねぇ、沙良。キミはもう、僕のものだよ」 指先で銀の輪を撫でながら、僕は穏やかに微笑んだ。 窓の外、雨はまるで鉄格子のように歪んでいた。 *** (――どうして、こんなに静かなの?) 私はゆっくりとまぶたを開けた。知らない天井。住み慣れた|家《アパート》の部屋とは違う匂い。違う空気。 (ここ……どこ?) 起き上がろうとして、足首の〝違和感〟に動きを止める。 銀色の輪。見覚えのない金具。引っ張ってみたけれど、外せそうにない。 「……えっ?」 継ぎ目も鍵穴も見当たらないそれから、ピッと小さな電子音がした。 「なに、これ……」 確か私……昨夜、朔夜《さくや》さんが淹れてくれたカモミールティーを飲んで……。 (朔夜さんはどこ?) 見回してみたけれど、彼の気配はなかった。 代わりに、天井の角。――小さな黒い目が、私を見ているのに気が付いた。 (カメラ……) それに気付いた瞬間、背筋に凍るような悪寒が走った。 思わず「なに、これ」ともう一度つぶやいたとき、背後の扉が静かに開いた。 「おはよう、沙良。よく眠れた?」 笑顔の朔夜さん。手には朝食のトレイ。カップから立ち昇るのは、ベルガモットの仄かな柑橘の香り。優しくて懐かしいはずなのに、今は妙に重く、息苦しいほどに甘く感じた。 ふわりと漂う優しい香りと、朔夜さんの変わらない笑顔。 私は思わず、喉の奥がひくりと震えるのを感じた。 ――大好き
Last Updated: 2025-08-30
Chapter: キミと僕だけの世界⑥
「だったらもう一度聞くよ、沙良。沙良も僕も、どうやら両想いだ。好きな男から触れられて気持ちよくなることは良くないこと?」 「いえ……多分、いいんだと……思い、ます」 「そう、いいことなんだ」 「はい……」 「だからどうするんだっけ?」 そこでカリッと乳首の先を引っ掻いたら、沙良がピクンッと身体を跳ねさせた。 「沙良?」 「気持ち、いい……です」 「うん、いい子」 僕は沙良が〝僕に触れられて気持ちいい〟と認めてくれた瞬間、沙良をギュッと抱きしめて思い切り褒めちぎる。 そうしてそこからは何度も何度も……しつこいぐらいに時間をかけて丁寧に、「キミには《《僕に》》愛される価値がある」と教え込んだ。 「沙良、そろそろ下にも触れるね?」 胸だけで何度も甘イキをした沙良をそっと抱き締めると、僕は指先を沙良の下腹部へ向けて撫で下ろしていく。 「え? ……下?」 ぽやんと熱に浮かされた沙良が僕の言葉の意味が掴めないみたいにつぶやいた。 (そういう性に疎いところ、たまらないな) 僕は沙良が僕の言った言葉の真意に気付くより早く、彼女の下着へ指先を到達させる。布越しでも彼女がしっかり濡れているのが分かって、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。 「あ、……そこは、汚いので、っ」 カリッとレース越しに敏感な秘芽を引っ掻く僕の手を、沙良が懸命に止めようと抵抗を試みる。けれど、沙良の華奢な手指には全然力が入っていない。 下着のクロッチ部を横へずらして直に指を沙良の秘部へ這わせれば、温かく滑《ぬめ》った蜜が、僕の指を瞬く間に濡らした。 その|滑《ぬめ》りの力を借りて、僕は沙良の敏感な花芽へ、直にそっと触れる。 「あ、っ、やんっ、そこ、ダ、メっ……」 ビクビクと身体を跳ねさせる沙良が可愛くて、僕は執拗にそこをこねてつぶして優しく撫でて……ぷっくりと存在を主張させる。 そっと薄く敏感な突起を覆い隠した皮を押しのけて、直に指の腹で押しつぶすようにそこを可愛がったら、沙良が弓なりになって全身にキュウッと力を込めた。 「ひゃぁ、っん!」 未だに身体の震えが止められないでいる沙良の耳元に、吐息を吹き込むようにして「上手にいけたね」と囁《ささや》けば、沙良がぼんやりした目で僕を見つめてくる。 (ああ、可愛くてたまらな
Last Updated: 2025-08-30
Chapter: キミと僕だけの世界⑤
 指先をそっと沙良の襟元に添えると、布地が微かに擦れる音が静かな部屋の中に小さく響く。 ゆっくりと、丁寧に――まるで大切な贈り物を解くように、僕は彼女の服に手をかけた。 硬く閉じられていた沙良のまぶたが、そっと揺れて開き、僕の顔を見つめてくる。 お酒の力もあるだろうか。 全身がほんのり薄桃色に色付いた沙良《さら》の下着姿はとても魅力的で、全部見えないからこそ秘めたる部分にワクワクさせられてしまう。「あっ、……朔夜《さくや》、さっ……。ダ、メっ」 沙良の下着は彼女らしい、とても控え目なローズグレージュのレース付き。その柔らかな色合いの肩紐にそっと指をかけると、沙良の身体がわずかに震えた。 逃げるように伏せた目元が、どうしようもなく愛おしい。「大丈夫だよ、沙良。……怖くない」 そう囁きながら、僕は慎重に背中へまわした両手で丁寧にホックを外す。 プチッという頼りない音がした瞬間、彼女の肩から布がするりと滑り落ちて、その下に隠されていた柔らかなラインがシーリングライトの明かりに照らされた。 フワフワのふくらみを隠そうとするように、沙良が胸元を両腕で懸命にかばう。 僕はその腕に手を重ねて優しく撫でながら、もう一度沙良と目を合わせるんだ。「ちゃんと見せて? ……キミの全部が、欲しい」 僕は躊躇いがちにのけられた沙良の胸元へ、そっと手を添える。控え目で綺麗な形をした沙良の胸は、僕が触れる度に甘い芳香を放ちながら、手にしっとりと馴染んだ。 あえて触れないようにしている薄い色付きの先、愛らしい乳首が刺激してもいないのにツンと天を向いている様がたまらなく官能的で、見ているだけで腰にくる。「可愛い……」 散々焦らしておいて、先端の小さな果実をチュッと吸い上げた途端、沙良の身体がびくりと跳ねた。「気持ちいい?」 耳元でそっと問い掛けた僕に、沙良が恥ずかしそうに視線を逸らせる。「ねぇ、沙良。お願い? 言葉にしてくれなきゃ分からないよ?」 本当は聞かなくたって沙良が感じてくれていることは、蕩けたみたいな彼女の表情を見れば一目瞭然だった。 だけどごめんね? 僕は沙良の口からちゃんと聞きたいんだ。 だって……沙良が自分から僕を求めてくれないと意味がないんだから。「朔夜《さくや》さん。お願……、もぉ、許し……て?」 快感を得ることにこれほど拒絶反応
Last Updated: 2025-08-30
Chapter: キミと僕だけの世界④
ふぁ、と小さく沙良があくびをして、目が少し虚ろになってきた。 「沙良?」 そっと彼女に呼び掛けて、沙良が手にしたままのカップを優しく引き取ってテーブルの上に戻せば、「朔夜、さ……?」と小さくつぶやいて、懸命に眠気と戦っている。 「眠くなっちゃった?」 沙良の頬をそっと撫でて問い掛ければ、沙良が小さくうなずいた。やがて、ソファへもたれ掛かるようにして、瞼《まぶた》がゆるく落ちかけては開かれる、というのを繰り返す。 「……すごく、あったかくて……なんだか……ほわほわします……」 (――ふふ。効いてきたね) ほくそ笑む僕のすぐそばで、沙良が目を閉じたまま、ぽつりとつぶやいた。 「……私って、ほんとダメな子ですよね……」 不意にこぼれたその言葉に、僕は沙良の顔を見つめた。 「どうして?」 「昔、先生から怖いことを言われて……ちゃんと自分を守ろうと思って地味にして、人と関わらないようにして……。そういうことをする人の心理も知ろうとして……色々勉強もしました。でも結局、またこんな目に遭って……。周りから暗いとか冴えないとか言われても自衛のためだって頑張ってきたのに……全部無駄でした。なんだかもう、自分でも何がしたかったのか分からなくなっちゃいました……。こんな私が、誰かに愛されるなんて、有り得ない気がします」 沙良は俯いて、肩をすくめたまま震えていた。 ――でも、それは違う。 沙良が取る必要のない心理学系の授業をやたら取っていた理由は、ストーカーの気持ちを知って……対処法を模索していたからだったんだね。 そう知った僕は、沙良を外に出すべきじゃないという思いを強くした。 沙良がそんなバカなやつらのことを学ぶ必要なんてないんだよ? ――僕が守ってあげるんだから。 僕はそっと沙良の手を取って、指先を絡めた。 「有り得なくなんかないよ? 現に僕はキミが好きだって散々伝えたはずだけど?」 沙良がぽやんとした表情を僕に向けてくる。その瞳の奥に、僕の言葉の真意を推しはかろうとするかのような光が見え隠れする。 「沙良はちゃんと、愛されていい子なんだ。誰がなんと言おうと、僕はそう思ってるよ?」 「でも……」 「一年生の頃、僕は沙良とたまたま同じグループになったよね? あれ以来ずっと……僕はキミのことが気になって見続けてきたから
Last Updated: 2025-08-27
Chapter: キミと僕だけの世界③
「お願い、大好きなキミをおもてなしさせて?」 縋るような思いを眼差しに乗せれば、沙良が戸惑いながらも小さく頷いてそろそろとソファへ腰を落ち着けてくれた。 そんな沙良の様子を目の端に収めながら、僕はキッチンに立って、ティーポットを温める。 今日、用意するのはこの日のために研究を重ねた特別ブレンド――。僕が〝沙良のためだけに〟作った、最高にリラックスできて……うまくすればキミが眠ってしまうやつ。(眠らないとしても、意識がトロンとするはずだ) 乾燥させたカモミールの花に、削ったレモンの皮を少量。蜂蜜をティースプーンに一杯。 そして、香り付け程度に垂らすのは、熟成されたブランデー。このお酒の加減が一番苦労したポイント。 余りにたくさん入れ過ぎるといかにもアルコールです、って感じになって警戒されそうだし、少なすぎると効果が薄くなっちゃう。 沙良が酒に弱いことは織り込み済みだから……同じようにアルコール慣れしてない子で、僕はたくさん実験を重ねたんだ。 もちろん他の子には興味なんてないし、寝かせるだけで手なんて出してないけど……沙良は別。 キミにはこれを飲ませてしてみたいことがたくさんある。 僕の手元で沙良のためだけに開発したスペシャルブレンドが温かい蒸気とともに溶け合って、空気に甘く柔らかい香りが広がっていく。 淹れている僕自身が眠くなりそうなくらい、優しい香り。(……でも、眠るのは沙良だよ?) ホカホカと湯気のくゆるティーポットとカップをトレイに乗せてリビングへ戻ると、沙良は両手を膝の上で組んで、所在なさげに僕を見つめてきた。 ソファの端っこ。まるで、部屋全体に対して遠慮しているみたい。「
Last Updated: 2025-08-23
Chapter: キミと僕だけの世界②
 僕の部屋に着いた沙良は、玄関先でそっと靴を脱ぎながら、落ち着かない様子で周囲を見回す。 まさかと思うけど……ここが《《沙良を捕らえるために》》わざわざ用意した部屋だってバレたかな? 一人暮らしの大学生には不釣り合いなくらい広くて、無駄に眺めのいい角部屋。 アイランドキッチンに、タッチ式オートロック、床暖房付きのバスルームまである高級マンション。 まるで若手実業家か医者の住まいみたいなこの部屋を見て、沙良が少し目を見張ったのも無理はない。 だけどまあ、そこは想定済み。 この部屋を維持してる理由を聞かれたら、「親が心配性でセキュリティ面を重視した結果こうなったんだ」とでも言っておけばいい。 でも実際は、そうじゃない。 高校時代から独学で作ってきたスマートフォン用アプリと、データ解析に基づいた投資で得た収益。 人の心理を読むのは得意だから、株も仮想通貨も、読みさえ間違えなければ悪くない金になる。 それらを元手にした副業収入で、僕はもう、親のスネをかじらなくても生きていけるし、司法試験に合格すれば更に稼げるようになるはずだ。 キミを囲うのに、他力なんてイヤだからね。 僕がキミを迎える場所として、自力で稼いだ金でこの部屋を選んだ。それだけの話だ。 だけど僕の心配をよそに、沙良は違うことを思っていたらしい。「……ごめんなさい。急にお邪魔してしまって。もしかして……朔夜《さくや》さん、ご家族と一緒にお住まいなんじゃ?」 沙良にはここがファミリー向けの物件に見えたらしい。(なんて可愛くて純粋な発想だろう!) けど……うん。僕がキミと暮らすこと想定で用意したマンションだからね。ある意味間違ってないよ?「あぁ。そういうことか。ちゃんと話してなくてごめんね? ここ、すっごく広いけど僕一人で住んでる家だから安心して?」「えっ?」「僕の実家が、結構大きな弁護士事務所を開設してる弁護士一家だっていうのは沙良、知ってる?」「……いえ、初めて聞きました」「そっか。まあ、僕自身はまだただの学生だけどね。両親が心配性でさ。一人暮らしするって言ったら、絶対に〝セキュリティ重視で選びなさい〟ってうるさくて」 僕は照れたように笑ってみせた。「……それで、ちょっとオーバースペックな部屋になっちゃったんだ」 恥ずかしそうに言った僕に、沙良がふっと笑う。けれど
Last Updated: 2025-08-22
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