LOGIN夫に離婚届を叩きつけられ、家も居場所もなくした学校図書館司書の桃瀬穂乃(ももせほの)。 行き場のない夜、無愛想な小学校教師・梅本一臣(うめもと かずおみ)が差し伸べたのは、冷たくて優しい“仮”の同居生活だった。 こじらせ教師と傷心司書。 心の距離が縮まるたび、秘密と過去が彼らを試す—— これは、「恋人未満の彼」との、逃げ場みたいな恋のはじまり。
View More「あっ。うなちゃん、ダメだよっ」
近所の大きな運動公園をお散歩中、私たちを小走りに追い越して行った男性が、黒いものを落とした。 それを愛犬〝うなぎ〟がすかさずパクッと咥えるから、私は慌てて彼女をたしなめる。 うなぎはビーグルみたいな毛色をした、体重一〇キロちょっとの中型犬ミックスです。耳は柴犬みたいにピンと天を突いた立派な立ち耳で、目の色は虹彩が色素薄めのアンバー。 だからかな? なんとなく目つきが鋭い強面さんに見えてしまうから、しょっちゅう男の子に間違われてしまうの。 だけど残念! うちのうなぎは正真正銘の、可愛い可愛い女の子です! うなぎは、目の上にチョンチョンと乗っかった四つ目とも呼ばれる白毛の麻呂眉があって、私はそれを彼女のチャームポイントだと思っているの。 本当、いつ見てもうちのうなちゃんは、カッコよくて、めちゃくちゃキュートです! そんなうなぎが嬉しそうに口に入れているのは、ずんずん遠ざかっていくスウェット姿の男性が落とした黒い手袋(片一方だけ)。 このところうなぎのお散歩コースに時々落ちているんだけど、もしかしてあの人……都市伝説で読んだことがある、『片手袋を落とすバイト』の人なのかしら? 私は小さい頃から都市伝説が大好きで、道路に落ちている片手袋は、そういう怪しいバイトの人の仕業だと読んだことがあるの。 何でも地上げ屋さんが、タンポポやミントみたいに繁殖力旺盛で駆除がしづらい植物の種を仕込んだ片手袋を、狙っている場所に落とすことでその土地や畑の価値を下げて、安く立ち退かさせるための手段にしているとかなんとか。 ん? 胡散臭い? 私ももちろんそう思ってる。 きっと、実際は作業車が荷台なんかに乗せていた軍手が落ちただけ、とか……ポケットや鞄に入れたつもりの手袋が、何かの拍子に落っこちただけ……とかそういうのが大半だろうな。 でも、都市伝説マニアとしては『手袋落としのバイト説』も捨てがたいのです! うなぎから手袋を取り上げると、私は落とし主の男性を追いかけた。 「あのぉ、もしもしそこの人ぉー! 手袋を落としましたよぉー!?」 軽く駆け足で長身男性を追いかける私の横を、うなぎが嬉しそうにじゃれつきながら並走する。 [穂乃(ほの)しゃ、それ、いつ投げてくれましゅか?] まるでそんなことを言っているみたいにワクワクした目つきで私が握る手袋を見上げているのを感じるけれど、この手袋はもう、絶対うなちゃんにはあげないんだからね!? 運動といえば、朝晩欠かさず一時間ずつ歩く、この子のお散歩ぐらい。 それだってしょっちゅううなちゃんが【ワンコ通信】のために立ち止まってはにおいを嗅いだりなんかするのに付き合いながら……だから、そんなに運動にはなっていないと思うの。 走ったりするのが苦手な私は、ほんのちょっと頑張っただけで、情けなくも息切れしてしまった。 「あ、あのっ、そこの、かたっ! お願い……だから、止まっ……て、くださ……っ!」 はぁはぁ言いながら懸命に呼びかけたら、うなぎが情けない飼い主を励ますみたいに「ワン!」と吠えてくれた。 そうして――。 「ああ! うなちゃ……、ダメぇ!」 つるりと私の手をすり抜けて、うなぎに繋がったリードの持ち手がポトリと地面に落ちてしまった。 慌てて手を伸ばしたけれど、後の祭り。リードの持ち手は、まるで私を嘲笑うみたいにうなちゃんに引きずられて、ザザァーッと地面を擦りながら逃げて行く。 私は眼鏡がズレてぼやけた視界で、それを呆然と見送った。 そうこうしている間にも、うなぎは重石=私がいなくなって軽くなった身体を持て余したみたいに、前方の男性めがけて物凄いスピードで駆け寄って行ってしまう。 (あーん、これ! 犬が苦手な人だったら大惨事だよぅ!) うなぎは強面だけど、心根はとっても優しいレディです。 だからね、相手に噛み付いたり飛びついたり……そういうことはしないと思うけれど、それでも突然犬が近付いてきたら、びっくりして転んじゃうかもしれないよ。 私の心配をよそに、うなぎは嬉しそうにスウェット姿の男性の周りを何周もグルグルと走り回る。 「えっ、あ、……ちょ、なっ。……犬っ!?」 うなぎのグルグル攻撃に二の足を踏んで立ち往生する男性の姿に申し訳なさいっぱい。ふたりに近付いた私は、罪悪感に身体を縮こまらせながらやっとのこと、うなぎのリードを握った。 彼、どうやら耳にワイヤレスイヤホンを付けて何かを聴きながら走っていたみたい。 通りで背後から呼びかけても気付いてくれなかったわけだ……。 耳からイヤホンを抜き取る彼の手元をぼんやりと眺めてそんなことを思った後、私はハッとしてぺこりと頭を下げた。 「ひゃぁぁぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、ホントにごめんなさい! うちのうなぎが突然飛び出してきて……きっとびっくりさせちゃいましたよね!?」 下向くと同時、眼鏡がまたしてもズルリとズレて、視界が歪む。 地面を見つめながら眼鏡のつるを戻した私に、頭上から「うちの……うなぎ?」という声が降ってくる。 「あ、うなぎはこの子の名前です。背中が黒くてツヤツヤしてるから……」 私の気持ちなんて知らぬげにヘラリと笑顔を浮かべるみたいに大きく口を開けたうなぎが、私たちを見上げて「ワン!」と吠えた。 まるで自己紹介しているみたいね。 「これはまた……面白い名前を付けられたもんだ」 どこか無愛想に聞こえるけれど、低くて優しい声音に恐る恐る顔を上げたら、男性とバッチリ目が合った。 (ヒッ) それと同時に思わず心の中で悲鳴を上げてしまったのは、目の前の彼がうなぎの強面顔(こわもてがお)に、勝るとも劣らないヤクザさんっぽい……それはそれは怖そうなお顔立ちをなさっていたからだ。 (こっ、声だけ聞いてたら優しそうだったのに!) 心の中で勝手に『詐欺だよぅ!』と付け加えながら、私は不意にうなぎのリードを持つ手とは逆の手に握りしめたままだった手袋のことを思い出した。 「あ、あのっ。違ってたらすみません!もしかして、貴方......片手袋を落とすバイトとかしてる〝闇バイトの方〟です、か?」 まるで裏社会の人みたいな見た目の男性に、私ってば夕闇迫る晩冬に、一体何を言っているんでしょうね!? だけどそう思ったのは、目の前の彼――極道さん?――も同様だったらしい。梅本先生は私の手を引いて、公園横の小さな駐車場へ向かった。 梅本先生は迷わず一台の黒いSUV車に近付くと、ロックを解除する。車内はまだほんのりと温かくて、エンジンを切ってそれほど経っていないことがうかがえた。 (……きっとホテルからこっちへ直行してくださったんだ) 普段梅本先生がこの車に乗っておられるのを見たことはない。でも、昨日アパートの駐車場にこれと同じ車が停まっているのを見かけたのを覚えている。きっと昨日ホテルまで行くのに乗って行かれていたんだと思う。 私が『今からマンションに戻って、夫と話し合いをしてきます』と送った短いメッセージを見て、心配してすぐに駆けつけてくださったんだと分かって、胸の奥がじんと熱くなった。 「乗って? このままホームセンターへ行こう」 相変わらず飾り気のない、用件のみを伝えるような物言い。向けられる表情も強面さんだからなんだか怖い。でも、その実、彼がとっても優しいことを私は知っているから……素直に「はい」とうなずくことができた。 後部のスライドドアを開けるなり、うなぎが何のためらいもなく車内へ乗り込んだ。 「あっ」 そのままシートへお座りするうなちゃんを見て慌てたら、「毛のことなら気にしなくていい。あとで掃除すりゃいいだけだ」って、優しすぎませんか? 孝夫さんは決して愛車にうなちゃんを乗せようとはしなかった。 うなちゃんが体調を崩して大変な時ですら、「どうしてもってんならタクシーで行け」と冷たくあしらわれたのを覚えている。 結局一〇キロ以上あるうなちゃんを抱いて、私は歩いて動物病院へ行ったのだ。 移動用ケージを買っていたならば、あるいはタクシーを拾うこともできたのかもしれない。 でも、孝夫さんから生活するのにギリギリのお金しか渡されていなかった私には、それを買うゆとりがなかった……。 (そういえば……お給料の振込先、変えてもらわなきゃ) 今のままでは孝夫さんが管理している〝私名義〟の通帳へお給料が振り込まれてしまう。 私に任せるのは不安だから、と結婚してからずっと……お金は全て孝夫さんに握られていた。 考えてみれば、それだっておかしな話だよね? どうして私、今まで何も思わず彼に従っていたんだろう? せめて自分が稼いだお金くらいは、自分で管理すべき
私は一瞬、耳を疑った。 「でも……」 「でも?」 「まだ離婚、できてないし……。私が行ったら、梅本先生を家から追い出してしまいます」 昨夜、そうだったように――。 眉根を寄せて言ったら、梅本先生が小さく笑った。 「離婚するって気持ちは、もう揺らがないんだろ?」 「……はい」 「相手の浮気の証拠も、たたきつけてやった」 「……はい」 答えながら、そんな話したっけ? と思ったら、梅本先生がニヤリとした。 「頑張ったんだな」 「……え?」 「辛かっただろ。そういうの、こっちは悪くねぇのに、すっげぇ削られる」 まるで自分も経験したことがあるような物言いだった。 私は思わず、梅本先生をじっと見上げてしまう。 「――だったら気にすんな。桃瀬先生は何も恥じることはねぇし、後ろめたく感じる必要もない。何なら相手の男のせいだとでも思ってやればいい」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが溶けるような感覚があった。 止まっていたはずの涙が、再び頬を伝う。 「俺もホテルには行かねぇから……。遠慮しなくていい」 冗談みたいな言い方なのに、その声の奥には決意があった。 梅本先生が、私の頬を伝う涙を親指の腹でそっと拭ってくれる。 武骨な手指の感触に、私は何も言えず、ただされるがままだった。 ――強面な梅本先生が差し出してくれたその言葉が、どれほど優しく……そして、どれほど危ういものか……。 私にだって分かっていた。 本当は離婚が成立する前に、一人暮らしの男性に頼るなんて、あってはいけないこと。 離婚の際、相手に付け入る隙を与えかねない。 それでも今は、何かにすがらなければ歩けなかった。 「……ごめんなさい」 掠れるような声でそう言うと、梅本先生に額をピシッと人差し指で優しく小突かれた。 「謝罪は受け付けない。俺が聞きたいのは、礼の言葉だけだ」 どこかムスッとした表情。 もしかしたら、それは照れ隠しなのかもしれない。 「……ありがとうございます。お世話になります」 私は頭を下げた。 その瞬間、梅本先生がふっと息を抜いたように微笑んだ。 「行こう。うなぎも腹減らしてるだろ」 途中で「うなぎの飼育用品、買っていこうな」と言いながら
マンションを出て、朝の冷たい空気に触れた瞬間、足の力が抜けた。 握りしめた鞄の持ち手が、汗で滑る。 喉が痛い。泣いたわけでも叫んだわけでもないのに、胸の奥が焼けつくようだった。 階段を下りきるころには、もう呼吸の仕方もわからなくなっていた。 風が頬を撫でても、それが冷たいのか温かいのかさえ分からない。 ただ、ここから遠ざかりたかった。 なにも考えたくなかった。 足元では、うなちゃんが心配そうにこちらを見上げている。 私はリードを握りしめ、トボトボと歩き出した。 「ごめんね……うなちゃん。ごはんとか……持って来られなかったね」 孝夫さんと決別する〝ついで〟に、それらを取りに行くつもりだったのに、そんな余裕はどこにもなかった。 それが、ますます情けなくて。 気づけば、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。 これは、別に孝夫さんとの別れを惜しんでの涙じゃない。 何だか分からないけど、とにかくすごく、悔しかった。 「私って……孝夫さんにとって、何だったんだろ……」 声にした途端、余計に虚しさが押し寄せてくる。 どれくらい歩いたのかも分からないまま、気が付けばいつもの公園前に立っていた。 無意識に、足が勝手にここへ向かっていたらしい。 習慣って怖いな……とぼんやり思う。 「うなちゃん、今日の夜、どうしよっか」 口に出した途端、現実がのしかかる。 この東屋で一晩明かすのは、体調を崩した今の自分には自殺行為に思えた。 かといって、まだ離婚できていない身の上では、梅本先生のアパートに戻るわけにもいかない。 そんなことをしたら、また梅本先生をご自宅から追い出してしまいかねない。 「ホテル……」 無意識につぶやいて、うなちゃんと顔を見合わせた、そのときだった。 「……桃瀬先生」 名前を呼ばれて、顔を上げる。 少し離れた場所に、梅本先生が立っていた。 陽射しが背中から射して、輪郭だけがぼんやりと光っている。 信じられない。というより――どうしてここに? 色々な感情が一気に押し寄せてきたのに、何ひとつ言葉にならなかった。 「行くとこ、ないだろ」 怖いお顔。 それとは裏腹に、穏やかな声。 けれど、その瞳の奥には確かな焦りがあった。 私は
言われた瞬間、私は(どの口がそんなこと言うの!?)と思った。 だって浮気してたのは孝夫さんの方で、私じゃない。 「いい加減にして!」 怒りがパワーになって、グッと押しつけられたソファから、私はようやくの思いで孝夫さんを押しのけて立ち上がることが出来た。 けれど、ソファ下へ足を下ろした瞬間――足裏に、ちくりと鋭い痛みが走る。 「……っ!」 反射的にうずくまって足元を見下ろすと、そこには見たことのないピアスが転がっていた。 淡いピンクのストーンが揺れる、小さなフープタイプ。 見覚えがない。私のものじゃない。 唇をきゅっと噛みしめ、ピアスを拾い上げた私は、立ち上がって孝夫さんを睨みつけた。 「これ、なに?」 手のひらに乗せたピアスを突きつけると、彼は一瞬だけ目を泳がせ、それから鼻で笑う。 「それか? お前が俺の夕飯も用意せず出て行っただろ。困ったって話したら部下が食い物持ってきてくれたんだよ! やたら世話焼きの、良く出来た女だからな! 持ってきた飯、わざわざ温めてくれて食わせてくれたんだよ! きっとそん時にでも落としたんだろ」 部下が|妻《・》|帯《・》|者《・》|の《・》上司のために、家までご飯を持って来る? 寝込んでるわけでもないのに? なんて苦しい言い訳。 でも、声は堂々としている。 ――私なら、これで納得するとでも思っているんだろうな。 そう思ったら、今まで押さえつけていた感情が一気に溢れて来そうになる。 私はそれを懸命にこらえながら、 「……そう」 短く呟いて、無言のまま寝室へ向かった。 ドアを開けた瞬間、鼻をついたのは、甘ったるい香水の残り香。 バカな|男《ひと》。 浮気をしたくせに、換気もしないのね。 (この調子ならきっと……) そう思って布団をめくってみたら、案の定というべきか。シーツの上に、見知らぬ長い髪の毛が数本。 ベッドサイドのゴミ箱を覗くと、中には使用済みのコンドームが押し込まれていた。 (やっぱり……掃除すらしてないのね) 普通の人なら妻にバレたくない一心でこういうの、証拠隠滅を図ろうとするものじゃないの? 私はそういうのがバレても大丈夫な|妻《あいて》だと……そう思われてるってこと? どれだけ私のこと、バカにすれば気がすむんだろ