Se connecterメガネ女子の図書館司書・桃瀬 穂乃(ももせ ほの)は、夫の浮気を目撃し、たまらず家を飛び出した。 着の身着のままに愛犬を抱えて家を出た穂乃に声をかけたのは、職場の無口な同僚の教師・梅本 一臣(うめもと かずおみ)だった。 仮住まいとして彼の住まいに転がり込むことになり、ふたりと一匹の静かな同居生活が始まった。 不器用でコワモテな一臣。遠慮がちな穂乃。 〝仮〟の関係ながらも、朝食を囲み、犬の散歩に出かけ、少しずつ心が近づいていく。 だがそこへ、教育委員会からやってきた一臣の元カノや、穂乃を裏切った元夫が現れて――!? 再出発を描く、じれキュン×同居ラブストーリー。 「仮」だったふたりの関係の行方は――。
Voir plus風呂場の扉を開けると、まだ湯気の名残が頬に触れた。 洗面台の上に置いていた眼鏡を手に取り、そっとかけ直す。 かけた瞬間、レンズがほんのりと曇った。「あ……」 短くつぶやくなり手にしていたタオルで軽く拭って、視界をクリアにする。 ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡越しに自分の顔を見ると、さっきよりも少しだけ顔色もよくなって、落ち着いている気がした。 いい香りのする温かいお湯は、心もほんの少しほぐしてくれたみたい。(……大丈夫) 小さく息を吐いてから、脱衣所の扉を開ける。 リビングに戻ると、うなちゃんがすぐに気づいて駆け寄ってきた。「ワン!」「わ、ちょっと……」 こんなことはしょっちゅうのはずなのに、勢いよく飛びつかれて思わずよろける。 そのまま膝に前足をかけて、くんくんと匂いを嗅がれた。「もう、さっきまで一緒にいたでしょ」 苦笑しながら頭を撫でると、満足そうにしっぽを振る。「……風邪、ぶり返してねぇか」 うなちゃんに意識が集中しすぎていたみたい。背後から声が落ちてきて、びくりと肩が跳ねる。 心臓をバクバクいわせながら振り向くと、梅本先生がすぐそばに立っていた。「大丈夫です。身体がポカポカになって、すごく気持ちよかったです」「なら良かった」 短い返事。 それだけなのに、さっきよりも少しだけ|心《・》|の《・》距離が近い気がする。 どうしよう。 距離感のせいかな? なんだかドキドキしてしまう。 うなちゃんが、私と梅本先生の間を行き来するようにくるくる回るのを見て、少しずつ気持ちが落ち着いてきた……はずだったのに! ふたりでうなちゃんを目で追っていたら、自然と視線が交差した。「……あの」「ん?」「今日は、本当に……ありがとうございました」 言葉にすると、改めて実感が押し寄せてきた。 離婚して、帰る場所を失って途方にくれていたのに、ちゃんと帰る場所が用意されていて……当たり前みたいに快適な場所が与えられている。 これって物凄く幸せなことだって思った。 その全てを与えてくださったのは他でもない。目の前にいる梅本先生だ。 私の心からの謝辞に、梅本先生が少しだけ眉を動かした。「そんな……改まって礼、言われるほどのことじゃねぇよ」「でも……」「言っただろ」 言葉を遮るように、低く続けられる。「遠慮すんなっ
うなちゃんの視線から逃げるようにして、私はようやく浴室へ向かう。 脱衣所に入ると、かすかに柚子の香りが鼻腔をくすぐった。 眼鏡を外して洗面台に置く。 服を脱ぎながら、胸の鼓動がなかなか落ち着かないことに気づく。 (……どうして?) 離婚したばかりなのに、梅本先生とあんなふうに指先が触れただけで、こんなに心がざわついちゃうんだろう――? 最後の一枚を脱いでから、浴室の扉を開ける。 風呂蓋を開けてみると、途端、ふわりと湯気が立ちのぼる。 湯船は鮮やかな黄色に色づいていた。 きっと柚子の入浴剤が入れてあるんだろう。 ふと鏡を見る。 薄らぼんやりしか見えないから少しだけ鏡に近付くと、眼鏡を外した自分の顔はほんのり赤くなっていた。 「……落ち着け、私」 小さく呟いてから、私は手桶に湯を汲んだ。 張られたばかりの湯は、まだ表面が静かに揺れていて、触れるとちょうどいい湯加減だった。 身体を一通り清めてから肩までゆっくりと湯船へ浸かると、張りつめていた全身の力が、じわりと抜けていく。 「……あったかい」 思わず、ため息が漏れる。 外ではまだ雨が降っているんだろうか。 かすかに雨粒があちこちを叩く音が聞こえる。 でも、さっきまで聞いていた雨音とは違う。 ここにいると、どこか遠い音みたいだった。 (……ここに帰ってくるの、本当に遠慮しなくていい……の?) 帰るところを失くした私に優しくここが私の帰る場所だと言ってくれた梅本先生の声が、ふと頭に浮かぶ。 胸の奥が、また小さく揺れた。 私は、まだ整理がついていない。 離婚したことも。 戸籍が戻ったことも。 これからどうするのかも。 だけど。 さっき玄関で聞いた言葉は、確かに胸の奥へ落ちていた。 ――ここに帰ってくんの、遠慮しなくていい。 湯の中で、そっと目を閉じる。 (……梅本先生) あの人は、どういう気持ちであんなことを言ってくれたんだろう。 考え始めると、また胸が落ち着かなくなる。 私は小さく首を振った。 「……今は考えない」 まだ、今日が終わったばかりだ。 離婚届を出して。 名前が戻って。 それだけでも、十分大きな一日だった。 温かな湯に身体を深く沈めながら、ゆっくり
私は今日から、名実ともに〝桃瀬穂乃〟として歩き出す。 そう心の中で言い切ったはずなのに、玄関で靴を揃える指先が、わずかに震えていた。 私の帰宅を察知するなり走り出てきた愛犬うなぎが、足元にぴたりと寄り添う。動物特有のあたたかな体温が、じんわりと伝わってくる。 温度差のせいかな。 眼鏡のレンズが曇って、視界が白くかすんで見えた。「ワンっ」「ただいま」 声は、思っていたよりも穏やかだった。 奥から梅本先生が顔を出す。「お帰り。……雨、ひどかったな」「はい。少しだけ……濡れちゃいました」 髪先から雫が落ちるのを見て、梅本先生が短く息を吐く。「眼鏡、曇ってんじゃん」「外、結構寒かったので」「そうか。風呂、沸いてるから入って来いよ」「……え?」「雨だしな。濡れて帰るだろうと思って沸かしといた」 何気ない言い方。 特別なことみたいにしない。 それが余計に胸に響いた。「ぼんやりしてないで入って来い。熱、ぶり返したら困るだろ?」 ――梅本先生は覚えてくださっている。 私が風邪を引いていたことも。 体力がまだ戻りきっていないことも。「……ありがとうございます」 お礼を言う私に、梅本先生はそれ以上何も言わない。 バスタオルと……いつの間に用意してくれたんだろう? 女性ものの部屋着を手渡してくる梅本先生の手元を、私は茫然と見つめた。 ここは、仮の居場所のはずだった。 なのに――。 あまりの至れり尽くせりぶりに、差し出された布物を受け取れずにいたら、促すように声を掛けられる。「桃瀬先生」 呼ばれて、私はわずかに顔を上げて彼を見やった。 いつもと同じ呼び方。 なのに、どこか違って感じられてしまうのは何故だろう?「……はい」「遠慮すんな」「……え?」 突然の脈絡のない言葉に、タオルと着替えを受け取らないことを言われているのかと思ったら、続く言葉でどうやらそうではないと悟った。「ここに帰ってくんの、遠慮しなくていい」 胸の奥が、ひくりと揺れた。 言葉が追いつかない。 梅本先生が一歩、近づいてくる。 近い。 けれど決して身体は触れ合わない距離。「ほら」 差し出されたタオルを受け取ろうとして、指先が触れる。 ほんの一瞬。 けれど、確かに。 逃げようと思えば逃げられた。 でも、私
「またとか冗談じゃねぇ! お前の顔なんて、二度と見たくねーわ!」 乱暴にテーブルへ紙を叩きつけ、ペンを掴む。 ぐしゃ、と紙を押しつけるようにして名前を書き殴る。 苛立ちがそのまま文字になったような、汚い字。 書き終えると、腹立たし気に捺印を済ませ、それを私へ突き返してきた。「勝手にしろ! お前なんかいなくても俺は平気だ!」 震えたのは、私じゃなかった。 私はその紙を静かに封筒へ戻す。「……ありがとうございます」 それだけ告げると、孝夫さんはさらに顔を歪めた。 もう、言葉は必要ない。 私は踵を返すと、一度も振り返ることなく玄関へ向かう。少しだけ足が震えているけれど、大丈夫。ちゃんと歩ける。 手にしたままだった合鍵を、そっと下駄箱の上へ置いた。 これでもう、二度とこの部屋へ入ることはない。そう思った――。*** マンションを出ると、本降りの雨音が一気に耳へ流れ込んできた。 傘を差し、住み慣れた建物を後にする。 未練がましく振り返ったりしない。 マンションの敷地を抜けるころには、膝の震えも止まっていた。 ――終わらせた。 その足で役所へ向かう。 雨のせいか、窓口はそれほど混んでいなかった。「離婚届の提出ですね」 淡々とした声。 必要事項の確認。「不備はありません。本日付で受理されました」 受付印が押される、乾いた音。 それだけ。 あっけないほど、静かに。「以上で手続きは完了です」 その一言で、私と孝夫さんとの関係は、戸籍から消えた。 私は小さく頭を下げ、役所を出る。 雨はまだ降っていた。 けれど、さっきまでとは違う音に聞こえる。 もう、あの部屋へ戻る理由はない。 傘
言われた瞬間、私は(どの口がそんなこと言うの!?)と思った。 だって浮気してたのは孝夫さんの方で、私じゃない。 「いい加減にして!」 怒りがパワーになって、グッと押しつけられたソファから、私はようやくの思いで孝夫さんを押しのけて立ち上がることが出来た。 けれど、ソファ下へ足を下ろした瞬間――足裏に、ちくりと鋭い痛みが走る。 「……っ!」 反射的にうずくまって足元を見下ろすと、そこには見たことのないピアスが転がっていた。 淡いピンクのストーンが揺れる、小さなフープタイプ。 見覚えがない。私のものじゃない。 唇をきゅっと噛みしめ、ピアスを拾い上げた私は、立ち上がっ
このところ、休日でも家にいることなんて滅多になかったのに。 私がいなかったからかな。玄関を開けると、 孝夫さんがいつも仕事履きにしている黒い革のストレートチップシューズが乱雑に脱ぎ捨てられていた。 昨日はこの横へ、まるで恋人みたいに寄り添って脱がれていた艶のあるローズベージュのエナメルパンプスは、今はもうない。 でも……嗅ぎ慣れない余ったるい香水の香りはまだ室内を満たしていて、私は思わず吐きそうになる。 咄嗟に鼻先を覆って気持ち悪さを逃す私のそばで、うなちゃんが心配そうにこちらを見上げている。 『ごめんね、うなちゃん、大丈夫だよ』 囁くようなか細い声音とともに、うなぎに微笑み掛ける
小さなメモを手に取る。 昨夜、梅本先生が「もしもの時に」と書き置いていってくれた電話番号。 しばらく考えたのち、私はその番号をスマートフォンに【梅本先生】として登録した。 そうしてショートメッセージの画面を開けて、梅本先生宛にメッセージを打ち込んでいく。 『色々と有難うございました。 ヨーグルトとお薬をいただきました。 今からマンションに戻って、夫と話し合いをしてきます。 桃瀬』 打ち終えた文面を見つめ、しばらく躊躇った。 けれど、通話ボタンに指を伸ばせない以上、メッセージくらいは送っておくべきだ。 声を聞いてしまえば――きっと、甘えてしまう。孝夫さんと向き
ほのかな光をまぶた越しに感じて、私はゆっくりと目を開けた。 熱のせいか頭はまだ重く、視界もかすんでいる。……というよりこの見えなさ具合は。 (め、がね……) 見慣れない天井を霞む視力のまま見上げて、細い糸を撚り合わせるように記憶を手繰り寄せる。 そうしてハッとした。 (あ、私、昨夜梅本先生の家にっ) 慌てて身体を起こして辺りをキョロキョロと見回してみたけれど、人の気配はない。 私が起き上がった音で目を覚ましたのか、ベッドサイドで丸くなっていた愛犬うなぎらしき黒い生き物が、私のそばまで来た。 (眼鏡……) 薄らぼんやりとそれがうなちゃんであることは理