けれど、晴樹は約束を破った。
二時間後、葉月に電話がかかってきた。
「葉月、ごめん。会社から急にA市への出張が入ったんだ。五日間……付き添えなくてごめん」
葉月が結婚写真の撮影を予約していたのも、同じそのA市だった。
「どうしてもっていうなら、他の人に代わってもらえるよう会社に掛け合う。もし何かあっても、全部自分が責任を取るから」
晴樹の声には心配と罪悪感がにじんでいた。「葉月、君がずっとA市に行きたいって言ってたの、俺、知ってるんだ。だから、がっかりさせたくない」
葉月はしばらく沈黙した。
「仕事、大事にして。結婚写真なんて、また撮れるから」
「式が終わったらすぐ飛行機とって、A市に行こう。約束する」
電話を切ったあと、葉月は晴樹の同僚の番号を見つけて、メッセージを送った。
すぐに返事が来た。
タイミングが悪いことに、晴樹の出張は本当に急なものだった。
葉月はカレンダーを一枚めくり、その裏に貼ってあった紙を広げた。
二晩かけて書き上げた旅のプランが、びっしりと二枚。
半分は結婚写真を撮るための場所選び。
もう半分は、晴樹と一緒に訪れたい場所だった。
結婚写真はもういい。でも、彼女は海外へ行く前に、一度だけ、A市へ行っておきたかった。
葉月はカレンダーをスーツケースにしまい、部屋の隅々を見回して忘れ物がないかを確認した。もう、ここには自分のものは何もない。
そうしてスーツケースを引いて、後ろを振り返ることなく部屋を出た。
結婚式まで、あと三日。
葉月はガイド通りに、A市のあちこちを歩き回った。
その間にも、晴樹からのメッセージは何通も届いた。
【寧音には、友達のところに泊まってもらった。君が気まずくならないようにと思って】
【A市に着いたよ。君がずっと憧れてた街、ほんとに素敵だ。式が終わったら、一緒にゆっくり過ごそう】
……
【桜がきれいだよ。君と一緒に見られたら、どんなに良かったか】
いや、願わなくても、葉月は確かに見ていた。
晴樹から送られてきた桜の写真を閉じ、葉月は顔を上げた。
その場所も、ガイドに入れていたお気に入りの一つ。
そしてちょうどその時、その桜並木の中でスマホをポケットにしまった晴樹が両腕を広げていた。
次の瞬間、ウェディングドレスを着た寧音がその胸に飛び込む。
見つめ合う二人の目は熱を帯び、まるで運命で結ばれた恋人同士のように映っていた。
晴樹は笑いながら彼女を抱きしめた。
「これで満足?君が欲しがるものを、俺が断ったことなんてあった?
俺が愛してるのは君だよ。それは、君が一番わかってるだろ?」
葉月の足が、その場で止まった。冷たい風が吹き抜け、寒さが骨の奥まで染みこんでくる。
彼らの写真を撮っていたのは、葉月が何日もかけて探し抜いた、こだわりのカメラマンだった。
四時間以上、葉月は二人から程よく距離をとりながら、後を追った。
彼らが次々と移動していく場所はすべて、葉月のガイドに書かれた結婚写真スポットだった。
場所を変えるたびに、晴樹から葉月へメッセージが届く。
【葉月、君が恋しい。全部投げ出して、今すぐ君のところへ行きたくなる】
【結婚式まで、あと三日。こんなに時間が長く感じたのは初めてだ】
【縁結びの石には、カップルの名前がたくさんあったよ。今度は君と来て、俺たちの名前も刻もうね】
【葉月、俺たちはずっと一緒にいよう。絶対に、一生離れたりしない】
気づけば空はすっかり暗くなり、観光客の姿もまばらになっていた。
葉月はゆっくりと縁結びの石へと歩み寄った。
一番上の目立つ場所に、並んだ二つの名前を見つけた。
「晴樹」と「寧音」
彼が誓った一生って、なんだったんだろう。
葉月は思わず吹き出した。だけど笑ったはずなのに、涙が頬を伝って落ちていた。
そのとき、またスマホが鳴り始めた。
送信者は寧音だ。そこには、彼女と晴樹の結婚写真が何枚も添えられていた。
【私が欲しいものは、彼は全部叶えてくれるの】
【あなたのおかげで、本当に綺麗な写真が撮れた。ありがとう】