葉月はスマホの電源を切った。一文字も返信しなかった。
結婚式の前日。
A市から戻った葉月は、親友の大野夏帆(おおの なつほ)に会いに行った。
「ごめんね、あんなに準備してくれたのに、結局、花嫁の付き添いもできなくなっちゃって。
私と晴樹は……」
説明しようとした瞬間、夏帆が彼女を強く抱きしめた。
「辛かったでしょ?」
葉月がどれだけ晴樹を愛していたか、夏帆には痛いほど分かっていた。もし少しでも余地があったのなら、葉月はきっとここまでの決断はしなかったはずだ。
目に涙を浮かべた葉月は、夏帆に手を引かれて部屋の中へ入った。
その間も、スマホには次々と祝福のメッセージが届いていた。
【晴樹さんって、奥さん大好きで有名だもんね。こんな旦那さんがいて、明日はきっと人生最高の日だね】
【末永くお幸せに】
【大学時代からずっと見守ってたよ、二人のおかげでまた恋を信じた。葉月は絶対に幸せになってね】
その中には、晴樹からのメッセージもあった。
【葉月、夜の八時に帰るから。待っててくれ】
けれど、八時を迎える前に、寧音からある住所が送られてきた。来いということだ。
正直、葉月は少しだけ気になっていた。
その住所を頼りに、葉月は指定された場所へ向かった。
個室のドアは少し開いていた。中では、寧音が酒瓶を取ろうとし、それを晴樹が止めていた。
「寧音、アルコールアレルギーだろ。ふざけるなって」
「どうせ今からあの人に会いに帰るんでしょ?私に構わないでよ」
「寧音」
涙をこぼした寧音に、晴樹の声はすぐに優しくなった。
「俺、今日はここにいるよ。帰らない」
葉月は目を伏せた。祝福のメッセージに紛れて、また新たなメッセージがいくつも届いていた。
【葉月、プロジェクトが大詰めで、今夜は会社に残ることになった】
【もう少しだけ頑張れば、何日か休み取って一緒にA市行ける】
【葉月、君のために14日間頑張ったんだ。最後の一日を乗り越えたら、ようやく君をお嫁さんにできる】
葉月は思わず笑ってしまった。
「君のために」という言葉が、やはり滑稽だ。
晴樹はスマホを机に置いた。あきれたように、しかし甘えを含んだ口調で言う。「これで満足した?」
けれど寧音は首を振る。「明日、結婚式に行かないで」
晴樹は黙った。
「彼女にはこれから先、何十年もの時間がある。でも私が欲しいのは、たった一日だけ……それも、ダメなの?」寧音の声は涙まじりだった。
しばらく沈黙が続き、やがて晴樹は口を開いた。「わかった」
寧音は涙をぬぐい、嬉しそうに彼の胸に飛び込んだ。
その瞬間、ドアの隙間から寧音の勝ち誇ったような視線が、葉月の目と交差した。
葉月の視線は、次第に冷たさを帯びていく。
明日の結婚式に彼が来なかったら、自分がどれだけ心配し、どれだけ不安になるか、彼は想像したことがあるだろうか?
自分が彼の家族や友人に、どう説明すればいいかなんて考えたことがあるのか?
いいや。晴樹なら分かっていたはずだ。
それでも、寧音のためなら構わなかった。
全ての恥を、葉月に押し付けてでも。
葉月は、本当は夏帆に謝ってから、式をやめるというメッセージをみんなに送るつもりだった。
五年間の付き合い。彼に、最後くらいメンツを残してあげようと思っていた。
でも、もうそんな必要はない。
葉月はその場を離れ、夏帆の車に乗り込んだ。
「夏帆、お願いがあるの」
翌朝10時。
涙ぐむ夏帆に見送られながら、葉月は空港へと向かった。
飛行機の離陸前、晴樹の家族グループチャットには通知が鳴り止まなかった。
【晴樹の携帯、電源切れてる!どういうこと?葉月、どこにいるの?】
【もう全員揃ってるんだよ!?あとはあんたたち二人だけなのに!】
【晴樹、式が始まるぞ。葉月に付き合って変なことするのはやめろよ!】
【葉月、一体何がしたいんだ!】
予想通りだった。晴樹の家族も友人も、もともと葉月のことを快く思っていなかった。だからこそ、今この瞬間、責められるのは葉月の方だった。
葉月は何も言わず、グループチャットから退出し、晴樹に関係するすべての人間を一括でブロックした。
スマホの電源を切ると、飛行機は滑走路を離れて空へ舞い上がった。
シートに身を沈めながら、葉月は心の中で静かに呟いた。
晴樹、さようなら。
もう二度と会わない。