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砂原雑音
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Novels by 砂原雑音

優しさを君の、傍に置く

優しさを君の、傍に置く

【BLではありません】 石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。 夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。 今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。 暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと…… その店には、男も女も骨抜きにする美人の「バーテンダー」がいる。 「僕が泣いても、やめないで」
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Chapter: 優しさを君の、傍に置く《2》
―――――――――――――――――――――――――――――いつもと違う朝だった。このところになく、妙に頭も身体もすっきりしていて、それでいて疲労感は残ってるしまだ眠い。なんだろう、と思うけどまだ寝てたいし目を開けずにいたら、なんか薬品の匂いもしてきた。腕にひりひりするような痛みも感じて、眉を顰めた時。ぐすぐすと、鼻をすするような声が聞こえ、何事かと目を開けて驚いた。目の前で、真琴さんが半泣きの顔で俺の腕に絆創膏を貼ろうと悪戦苦闘しているところだった。「真琴さん?」「あ……」絆創膏を手に、真琴さんが顔を上げる。目が合ったのはちょっとだけで、すぐにばつが悪そうに目を逸らしてしまったが、その拍子にぽろっと涙が一粒落ちた。「な、なに泣いてんすかっ」「別に、泣いてな……ちょっ! 起きるな! バカ!」慌てて起き上がったら素っ裸を晒してしまい、彼女が真っ赤な顔でぎゅっと目をつぶる。「布団! 布団被って!」「あ、すんませっ!」あたふたと布団の中に逆戻りしたけど。よく見れば、真琴さんもまだ毛布一枚に包まったままだった。「……あの、真琴さん?」「腕、出して」布団に収まったのを確認したからか、顔の赤味は収まってきたけれど、今度は拗ねたような凹んでいるようなそんな顔だ。言われるままに、腕を差し出したが。「別に、たいして痛くもないっすよ」「そんなわけない。消毒もせずに寝たでしょう、化膿したらどうするんですか」どうやら、薬品の匂いは傷口を消毒してくれたらしい。普段救急箱なんか開けることないから、消毒液なんてものが入っていたことも覚えてなかった。真琴さんは相変わらず、絆創膏を貼ろうと色々向きや大きさを考えているみたいだが、どう貼っても傷が粘着テープのところに当たる。唇を噛みながら、ああでもないこうでもないとしている姿は可愛いけれど、さっきの涙が気になって。「貼らない方が、渇いてすぐ治りますって」「でも」「それよりもうちょっと、だらだら寝ませんか」手を取って、ベッドの中に誘った。「え……や、あの」「もうちょっと、うつらうつらするだけ」また、みるみるうちに赤くなる。真琴さんはこういう時、言葉より表情とか顔色のがすごく正直だ。毛布に包まったままおずおずとにじり寄ってくる。ころん、と転がったところを掛布団の中に引っ張り込んだ。
Last Updated: 2025-08-18
Chapter: 優しさを君の、傍に置く《1》
【高見陽介】大事に大事に、したかった。恋は盲目、っていう言葉は本当だったんだろうなと、今更ながら納得する。俺が思うのと実際の意味とは、ちょっと違うかもしれないが。絶対俺が守るんだと、心に決めてた。もう何の不安もないように、大事に大事にして、寂しい思いをさせないように。俺の世界はすっかり真琴さんを中心に回っていて、それを苦しいとも面倒とも思ったことはなかったし、傍にいられればそれでよかった。真琴さんの『初めて』だって、絶対俺がもらうと決めてたよ、当然。だけどそれは、もっとずっと、先の話で良かったんだ。だって、トラウマなんてそんな簡単なものじゃないだろう?真琴さんは言葉少なだけど、ちゃんと俺のこと好きだと思ってくれてることは知ってるよ。だからって、好きな男に抱かれて治るとか、そんなもんじゃないだろう。無理して頑張って、受け入れて、余計に怖くなったらどうしよう?不快感しか残らなかったら?痛みしか残らなかったら?そんな簡単に、踏み出せることじゃないだろう。もっとゆっくり、時間をかけて不安が消えて、怖いこともゆっくり忘れて俺の心配なんてしなくていいからその時が来たら、ちょっと二人で贅沢なデートしてベタでいいから、普通に女の子が喜びそうなシチュエーションを用意して真琴さんがそんな俺にいつも通りの呆れた顔をして、それでもちょっと嬉しそうに照れ笑いでも見せてくれたら俺も嬉しい。幸せだと思える夜を、ちゃんと、俺が。「じゃあ、いつになったら震えなくなるのか教えてくれ」泣かせたくない、苦しませたくない。そう思って来た彼女が、苦しそうにそう
Last Updated: 2025-08-17
Chapter: 夜と、傷と《8》
とろん、と蜜みたいに蕩けた意識で甘い言葉を聞く。膝裏を持ち上げられあられもない格好をさせられたのに戸惑ったけど、そのままぴったりと肌を重ねられ、その体温の心地よさに浸る。「好きです」「ん……」僕も、と応えたかったのに、彼の口の中に消えた。彼の両腕に頭を囲われ、優しく髪を撫でられながらキスを受け止める。その空間は、今まで知らなかった幸せな空気に満ちていた。熱く疼き続けるその場所に、それ以上の熱が宛がわれた時、すぐにその意味を悟り身体がおびえたのは一瞬で。目の前にいるのが陽介さんだと、目が勝手に確認して安心する。陽介さんが僕に教えてくれた。何度も何度も、僕が怯えるたびに、怖がる度に彼が、声で、キスで、僕を呼んで、自分の姿を確認させたから。「好きです、真琴さん」「ん……」「も……苦しい、欲しい」その声がまるでうわ言のようで、改めて陽介さんの表情を見上げて驚いた。ずっと、自分のことに精一杯でまるで気付いていなかった。短く熱い息を吐きながら額にじっとりと汗を滲ませ、苦しげに眉を寄せ。「……欲しい。真琴さ……」虚ろな目で、今すぐ繋がりたい衝動を抑えながら、僕の赦しを待っている。ずっとその衝動に抗いながら僕の身体を愛撫して、僕の準備が出来るのを待っていたんだ。そう気付いた時にまた、正体不明の疼きに襲われる。今までよりも一層強く、まるで彼の声に応えるように、下腹部が鳴いた。「……いいよ」「真琴さん……」
Last Updated: 2025-08-16
Chapter: 夜と、傷と《7》
「真琴さん」その度、彼が僕の名前を呼び返す。 響きは同じなのに、女の僕を呼ばれているような気がして、お腹の奥がきゅうっと切なく鳴いた。 この感覚の正体が、よくわからない。 でも余計に涙が出て、せつなくて苦しい。 陽介さんが、胸元に顔を埋めた。 胸にぬるりと舌の感触が触れた時、僕の手は咄嗟に抵抗するように、彼の頬を引っ掻いた。「ごめ……っ」陽介さんの頬に一筋、赤いひっかき傷が走っていた。 無意識の、反射的な行動に自分でもショックで、またボロボロと涙が零れる。 だけど陽介さんはまったく動じることなく、僕の手を捕まえて宥めるように指先を舐めた。「陽介さ……」何度も舐めて、慰めて、そしてまた、胸を舐めては肌を吸い快感を誘う。 丁寧に何度も何度も、舌が、唇が同じ場所を刺激する。 じわ、と下腹部が熱くなり、怖いくらいだったはずの愛撫がいつしかもどかしく、気付くと膝をすり合わせていた。身体の奥に燈った熱が、じわ、じわ、と寄せては引く波のように そうして少しずつ、広がっていく。 僕が何度、叩いても引っ掻いても、陽介さんは力づくで抑えるようなことはしなくて、だけど絶対離したり手を止めたりもしなかった。 ひ、ひ、と小さく漏れる悲鳴が、自分でもわかるくらいに甘さを含んでいて恥ずかしい。 胸を吸い、甘噛みしていた唇が鎖骨から首筋を辿り、腰を撫でていた手が太ももを撫で膝を割る。 濡れていると、自分でもわかる敏感なその場所に指先が触れた途端だった。「いやっ!」ばちばちっ、と目の前で火花が散った。 ただの残像だったはずの記憶が、乱暴に指でかき回された記憶が肌に蘇る。&n
Last Updated: 2025-08-15
Chapter: 夜と、傷と《6》
ベッドのサイドテーブル近くで陽介さんがリモコンを操作すると、ぱっと急に飛び込んだ光に目が眩む。まだよく見えないうちに、バサッと上着を脱ぎ捨てた音がした。片手でネクタイを緩めながら、真正面から彼が近付き膝でベッドに上がる。見上げた表情は欲に支配されていて、僕を見下ろす目は熱くて虚ろだった。未知の事柄か、陽介さんの知らない一面か、どちらにかわからない。畏怖を抱いて、身体が無意識に後退りをするけれど、すぐに腕を取られて抱き寄せられた。指が背中のファスナーを辿り、一息に下ろされる。ふっと息が軽くなったような感覚に目を瞬く。気付くと背中の素肌に彼の手が触れていた。「あっ」両手で素肌に触れながら、布地を剥がすように肩まで撫でる。ぞわ、と腰がざわめいた。肩が露わにされ、もはや腕だけで引っかかっているワンピースが全部落ちてしまいそうで、咄嗟に胸元を押さえてしまう。そこから、なぜか彼の反応が無くなってそろそろと目線を上げた。「……陽介さん?」飢えた獣みたいな、熱を孕んだ目で短く息を繰り返す。彼は僕の手を、じっと見つめていた。「くそ、なんで」ぐしゃぐしゃと、片手で髪をかきむしりながら、ぎゅっと目を瞑り苦しげな声を吐き出す。「怖くて仕方ないくせに、あんな挑発すんなよ!」俯くと、胸元を押さえる手が震えてた。手だけじゃない、がちがちに身体は固まって思うように動かない。「あっ……」手の感覚を確かめようとしたら、ワンピースの布を取り落として腰まで落ちてしまい慌てて腕だけで胸を隠した。
Last Updated: 2025-08-14
Chapter: 夜と、傷と《5》
「えっ……ちょっ?!」ちょうど、赤信号で止まったところだった。シートベルトを外して、ドアを開けると直ぐ様外に飛び出そうとして、ぐんっと右腕を強く引っ張られた。「ちょっ、慎さん、待って!」「嫌だ離せ!」慌てて僕を引き留める彼の手を、全力で振り払おうとするが、ほどけない。強く捕んでくる指を一本一本引き剥がそうとするけど、それでも離れてくれない。「こっの、馬鹿力! 早く離せ!」「危ない! 危ないからドア閉めて!」パパッ、と後ろから急かすようにクラクションが鳴らされる。信号が青に変わったらしい。シートベルトを外した陽介さんが、運転席から僕の方へ体を乗り出すと僕が開け放ったドアを閉めた。「危ないじゃないすか!」「ちゃんと後ろは見て降りようとした! 貴方が引き留めるからです!」もう嫌だ。どんだけ、恥ずかしい気持ちを抑えて、勇気を出して言ったと思ってるんだ。車が発進してもまだ腕を振り払おうと暴れていると、腕を掴む陽介さんの手がぎゅっと痛いくらいに食い込んでくる。痛みに少し眉を顰めて陽介さんの横顔を見ると、少し怖い顔をして運転を続けていた。怒らせた?でも、僕も怒ってる。だから降ろしてくれたらいいのに。少し進んだ、人通りも車通りも少なそうなところで、車が路肩に寄って停車する。降ろしてくれるのか、と思ったけれど、腕を掴む手は緩まなかった。「慎さんが、言いたいことはわかります」「もういい。喋りたくない、帰る」言いたいことが伝わった上での、その反応だから怒ってるんだろう。だからもういいというのに、両肩をがっしり掴まれて逃げるどころか、上半身を陽介さんと向き合うように姿勢を変えさせられた。その腕をどんだけ引きはがそうとしても拳で殴っても、びくともしない。とても真正面から顔を見られなくて、俯いて背けた。情けないし恥ずかしいし、惨めだ。「そんな、焦ることじゃないんです。こないだだって震えてたじゃないすか、無理して頑張って進めることじゃ」「じゃあ、いつになったら震えなくなるのか教えてくれ」離れてくれないから、逆にネクタイを掴んで引き寄せた。僕のトラウマが消えるのは、いつだ?そんな、先の見えないうんちくはいらない。「それとも、こんな僕では、押し倒す気にもならないですか」「そんなわけ」「やっぱりだめ? 男っぽい? 背が高すぎる
Last Updated: 2025-08-13
君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー

君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー

受験の失敗で自分に自信が持てず、閉じこもりがちだった綾。 そんな綾が再び外の世界に目を向けたのは、通りすがりに一目ぼれした花屋カフェがきっかけだった。 臆病だけど本来は明るい性格の綾が人と触れ合い、関わって成長していく。 再び歩きはじめるために 必要なものは何でしょう アルバイト店員 三森 綾 19歳 元は大手商社のエリートだったらしい オーナー兼マスター 一瀬 陵 30歳 無表情で一見冷ややかなその人 時折見せる優しさに 綾は少しずつひかれていく パティシエ 片山信也25歳 チャラい外見と言葉遣いで不真面目に見られがちだが 実は案外気遣い屋 失恋したばかりの綾に わかりやすい程真っ直ぐな愛情表現を示してくれる
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Chapter: afterstory 木香薔薇の純真《6》
……私は何か、間違ったんだろうか。何か余計なことを言ってしまったのだろうかと、清瀬さんとの僅かな会話を頭の中で繰り返し思い出す。やっぱり、出過ぎたことを言ってしまった?今度娘さんが来店されたら、なんて言えばいいんだろう。一日の終わり、厨房の後片付けをしている途中なのだが、ついつい思考回路が飛んで手が止まる。「おい!」「はいっ?!」いきなり鋭い声が飛んできて慌てて背筋を伸ばすと、すぐ目の前に小山さんがいた。驚いて目を瞬かせると、小山さんが呆れたため息を落とした。「お前、ぼんやりし過ぎ。余ったプリン、持って帰るかって聞いてんだけど」どうやら、いきなりではなく何度も声をかけてくれていたらしい。「あ、もらいます! 嬉しい、いいの?」「一個しかないから食って帰ってもいいけど……つか、お前時間大丈夫?」「え?」「いつもより遅くなってるけど」言われて壁の時計を見上げると、確かにいつもならとうに店を出ている時間だった。「わ、ほんとだ……」「大丈夫かよ」「大丈夫。電車はまだあるし、遅いついでにプリン食べて帰る」「じゃなくて……まあ、いいや。じゃあ、帰り」「綾さん」こんこん、とノックの音がして、小山さんの言葉を遮るタイミングで声がする。カウンターの方から、一瀬さんが顔を覗かせていた。「もう遅いので、後で車で送ります。後片付けが終わるまでもう暫く待っていただけますか」「え、あ、一瀬さんが、ですか?」「勿論、そうですが」「あ、ありがとうございます!急いで帰る用意を……」「いえ、まだ片付けが残ってるので、プリン食べて待っててください」そう言って、また頭を引っ込めて店舗の方へ戻って行った。一瀬さんが、車で送ってくれる。フラワーコーディネートの仕事の時には、荷物が大変だろうと送り迎えをしてくれるけど基本カフェからの帰りに送ってもらったことは今までなかった。彼はは片付けが終わった後も多分、売上の計算だとか記録だとかたくさんあるようで、住居スペースである二階にも戻らず、一階で最後まで仕事をしていることが常だからだ。デート……というか二人でお出かけする時は勿論、何度も乗せてもらったけど。「……一瀬さんが、送ってくれるって」「そうかよ。良かったな」「どうしよう……」「何が」苛ついた声が帰ってきたけど、私は既に緊張し始めて酷くそわ
Last Updated: 2025-08-18
Chapter: afterstory 木香薔薇の純真《5》
ずっとお見舞いを受け取り拒否していたのを、なぜ今回に限り受け取ってくれたのか。その謎は、すぐに解けた。「やあ、こんにちは」「あ……こんにちは」以前と同じ場所、同じベンチで、具合が悪いのかと私が勘違いしたあの男性が座っていた。あの日と同じように、ペットボトルの水を持って。「今日もお散歩ですか?」「ええ。今日は幾らか、暑さがマシですかね」確かに、幾分和らいで感じるのは風が少し流れているせいだろう。だからといって、陽射しは相変わらず真夏のものに変わりはない。「風があって心地は良いですけど、日焼けしませんか?」近づいて、また日傘を差しかけた。腕に引っ掛けた、花束を入れたショップバッグが揺れる。気付いた男性が、指で指し示しながら私を見上げた。「失礼ですが、花束の宅配ですか?」「え? あ、はい。そうなんです」どうして、誰かのお見舞いではなく花屋だとわかったんだろう。首を傾げた私に、質問が重ねられる。「”また”清瀬巧宛でしょうか」「えっ……、そうです内科に入院されてる清瀬巧さんという方に……」そこでようやく、気が付いた。「もしかして、清瀬さんですか?」「申し訳ない、暑い中届けていただいて。ここで受け取らせていただいてもよいですか?」清瀬さんが苦笑いをしながら、私に向かって小さく会釈をし、それから手を差し出した。「あ、はい! どうぞ、こちらです……えっと……どなたかから、とか」「娘でしょう。ご迷惑をおかけしてます」清瀬さんは苦笑いをしながら、ショップバッグを受け取って中を覗く。黄色い姫向日葵の花が、太陽の光の下で一層色鮮やかで、まぶしく見えた。「あの、ずっと受け取り拒否されてたのに、どうして?」「偶々ですよ、あの日お嬢さんが日傘を差しかけてくれた時、手にしていたショップバッグを覚えていまして」「あ……やっぱり」「ええ、暑い中届けてくださって、熱中症の心配までしてくださったのに、と思うと」初めて見た時は、少し気難しさを感じる人だと思ったけれど、本当は優しい人なのかもしれない。私が「ありがとうございます」と頭を下げると、「こちらこそ」と会釈してくれる、その表情は優しかった。なんだかちょっと、最初のころの一瀬さんの印象に似ている、と思ったら少し懐かしさと親しみも沸いてくる。そのせいか、結局私は一瀬さんに言われたにも拘
Last Updated: 2025-08-12
Chapter: afterstory 木香薔薇の純真《4》
あの女性は、それからほんの数日後にまた店に現れた。もうじきランチタイムも終わろうかという二時少し前。店はまだ少し混雑気味で、紗菜ちゃんと私でホールを、厨房を小山さんと一瀬さんで回していた。「あ……いらっしゃいませ!」カラコロとカウベルを鳴らして入って来た女性に気が付いた時、私は空いたテーブルを片付けてランチの皿をカウンターまで片付けに行く途中だった。すぐに目が合って互いにぺこりと会釈をする。「すみません、少しお待ちくださいね」またブーケのご注文だろうか。だとしたら、先日の花束はちゃんと受け取ってもらえたのかもしれない。そう思うと嬉しくて、汚れた皿を流し台に置くとすぐにフロアに戻る。女性は紗菜ちゃんに案内されたのか、さっき片付けたばかりのテーブルに席を取っていた。「あのお客様、綾さんとお話ししたいって」「あ、うん。多分、こないだのブーケのことかな」「ランチのご注文はいただいたので、通しておきますね!」と、紗菜ちゃんが伝票をぴらっと見せてから入れ違いにカウンターに入って行き、私は女性の方へ近づいた。「先日はありがとうございました。受け取ってくれたんですよ、やっと!」女性は私に向かってぺこりと頭を下げ、弾んだ声でそう報告してくれた。もしかして、そのためにわざわざもう一度来店してくれたのだろうかと、私もつい嬉ししくなって声のトーンが上がる。「本当ですか?! 良かった、てっきりまた拒否されてお客様の方へ戻されたんじゃないかと心配していたんです」そう言うと、女性は若干気まずそうに眉尻を下げ、苦笑いをした。「すみません……看護師から聞いたんですよね」「あ……まあ。すみません、ご事情は少しだけ、お伺いしました」お客様から聞いた事情ではなかったのについぽろっとこぼしてしまい、私も小さく頭を下げる。女性は、「いいえ」と軽く顔を振ると、今度はちゃんと名乗ってくれた。「小児科医をしております、清瀬と申します。先日は名前も告げずにすみませんでした」「いえ、看護師さんにお話したらすぐにわかっていただけたし、それはいいんですが……」「私からって知ったらまた受け取ってもらえないかもって、つい咄嗟に。よく考えればすぐにバレるんですけど」「すみません、娘さんからみたいですって私言っちゃったので……でも受け取ってもらえたんですね」「そうなんです、
Last Updated: 2025-08-06
Chapter: afterstory 木香薔薇の純真《3》
いきなり知らない人間がお花を届けても戸惑わせてしまうだけだろうと、まずはナースセンターを訪ねてみた。「すみません。お花を託って来たのですが……」「お見舞いですか?」「いえ、実は花屋のものなんですが、こちらに入院されてる清瀬さんという方に届けて欲しいと言われて……勝手に病室を訪ねていいものか迷ってしまって」私が成り行きを説明すると、看護師さんは困ったように眉を八の字にした。「あー……」「すみません。送り主の方のお名前がちょっと……娘さんらしいということしか」「あ、それは大丈夫です、わかってますので……」「は?」どういう事情なのか、意味が分からなくて首を傾げているうちに、別の年配の看護師さんが近寄って来た。「女性ですよね? 髪は長くて三十代くらいの」「そうです、ご存じなんですね、良かった」どうやら、看護師の間ではちゃんと認知されてるらしいことに、ほっとした。ショップバッグに入れたまま花束を二人の看護師に見せ、どうしたものかと指示を仰ぐ。「こちらなんです。いきなり花屋が患者さんの様子もわからず病室に行くのもどうかと思いまして、もしよかったら看護師さんの方から渡していただければ……」「大丈夫ですよ、お預かりします」苦笑いをしながら、年配の看護師さんが私の手からショップバッグを受け取ってくれたのだが。「清瀬さんは、拒否されるんですけどね」困ったものです、とため息をついていた。「えっ……だったら、それご迷惑なんじゃあ」「ちゃんと清瀬さんには見せて、それから先生にお返ししときます。その女性、ここの医師なんです」―――――――――――――――――――――――――――――――――「ここに注文に来られた時も、もうずっと帰ってないって言ってたし……何かわけありみたいな感じですよね」無事にナースセンターに花束を預けることができて店に戻り、一部始終を一瀬さんに報告した。お客様もちょうどいなかったので、カウンターの中で休憩も兼ねさせてもらっている。手の中には、アイスティのグラス。浮かんだミントの葉が、涼し気に揺れた。「清瀬さん、受け取ってくれたらいいんですけど……今までも、娘さんからの差し入れ全部拒否されてたそうなんです」「そうですね。娘さんの気持ちが通じると良いですが」一瀬さんは、賄い様のアイスコーヒーを作りながら話を聞いてくれて
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: afterstory 木香薔薇の純真《2》
結局、今店にある花で花束のオーダーを承ることになり予算や色合いなどを女性と打ち合わせる。「では、すぐにお作りしますね」「あの、実は持ち帰りではなく、届けていただきたいんです」「配送、ということですか?」「そういう扱いになるんでしょうか、やっぱり。その……すぐそこの市民病院なんですけど」と言って、女性は窓の外を指差す。ここからは見えないけれど、確かにその病院は歩いて五分もかからない場所だ。「お見舞いに行かれる、というわけではないんですか?」「ええ……ちょっと、時間がなくて。あの、いつでもいいんです、お手隙の時に届けていただけたら、と」そういった申し出が今までなかったため少し迷ったが、もうすでに会計もいただいてしまっている。一瀬さんに聞いてからの方が良いだろうかと思ったけれど、ちょうどいま接客中だった。「わかりました。後で良ければ。お名前をお伺いしてもよいですか?」届け先のお名前と病室は何も問題なくメモに書いて渡してくれたのだが。「あの、お客様のお名前もよろしくおねがいします」というと、彼女はあからさまに焦った顔をした。まさかそんな表情をされるとは思っておらず、私の方も戸惑ってしまい首を傾げてもう一度尋ねる。「あの、お届け先の方に、どなたからの贈り物かお伝えしないといけないので」「いえ。それは、いいの。知り合いからとでも適当に伝えておいて」「ええっ?」「会計は済ませてあるんだし、それで構わないでしょう? ごめんなさい、急いでいるので、後はよろしくお願いします」突然、かたくなな態度になって女性はバッグを肩にかけなおすと、くるりと背を向ける。「あ、あの! でも!」確かに、会計は済んでいるけれど。本当にこれでいいのだろうか?対応を考えているうちに女性はそそくさと店を出て行ってしまって、慌てて呼び止めた声はカウベルの音と空しく重なった。受けてしまった仕事なのだ、行かない選択肢はない。ランチタイムの後の暇な時間帯に、一度店を抜けさせてもらい市民病院へと花束を届けることになった。五分ほどの距離とはいえ、真夏の強い日差しにすぐに汗が噴き出してくる。日傘は差していてもアスファルトからの照返しで、肌がじりじりと熱かった。「あっつい……」と、思わず零れた独り言も、弱弱しい。早く建物の中に入ってしまおうと、急ぎ足で病院前にたどり着
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: afterstory 木香薔薇の純真《1》
** * * * ** * * * ** * * * **叶わぬ想いはいつか形を変えてそれは風化でしょうかそれとも成長でしょうか** * * * ** * * * ** * * * **夏も盛り、外を歩けば五月蠅いほどのセミの鳴き声とアスファルトからの照り返しで、あまりの体感気温に朦朧としてしまう。見上げれば真っ白な雲がもくもくと形を成して、背景の青を一層青く見せる。彼女が店を訪れたのは、そんな真夏の、昼下がりだった。「いらっしゃいませ」カラコロとカウベルの音が鳴り入り口に目を向けると、女性が一人ハンカチで汗を拭いながら立っていた。年は三十くらいだろうか。長い黒髪を横流して緩く結んだ、清楚で綺麗な人だ。彼女はカフェスペースには進まず、そのまま切り花を並べてある商品スペースの方へ目を向けていた。「何かお探しですか?」「実は……花を探してるんですが。名前を思い出せなくて」女性は、片頬を掌で抑えて眉尻を下げて首を傾げた。思い出そうとしているのか、視線を少し上向けて考えていたけれど、諦めたようにため息をつく。「実家に咲いてた花なんだけど……なんだったかな」「咲いてた時期とかわかりますか?」「それも、はっきり覚えていないんです。多分、春か夏頃?」申し訳なさそうに肩を竦める彼女に、「大丈夫ですよ」と声をかけて棚に並べてある本を手に取った。花の画像が季節ごとに分けられていて、後ろに花の名前で索引もついている。画像も全体像から花のアップまで掲載されていて、調べやすい。ぱらぱらと最初の方の春のページを捲り、彼女にも見やすいように本を傾けた。「ほかに何か覚えていることはないですか? 何科だった、とか。花の大きさとか背の高さとか、なんでも結構です」「えっと……」「はい?」「なんか、こう。枝が、わっさー、っと」そう言いながら、女性が両手を動かしてこんもりした山のようなものを表現する。「わっさー……ですか」どうも、女性の記憶はかなり曖昧らしい。大人らしからぬその表現方法についぽかん、と見つめてしまうと彼女は顔を赤くして俯いてしまった。「……すみません。言葉でどう表現すればわからなくて」「あっ! いえいえ。なんとなく、今のイメージからだと……雪柳とか、コデマリとかを思い出すんですけど」ページを捲って彼女に雪柳とコデマリの写
Last Updated: 2025-07-09
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