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砂原雑音
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Novels by 砂原雑音

優しさを君の、傍に置く

優しさを君の、傍に置く

【BLではありません】 石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。 夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。 今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。 暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと…… その店には、男も女も骨抜きにする美人の「バーテンダー」がいる。 「僕が泣いても、やめないで」
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Chapter: 大人の男は安全牌を装うのが上手いらしい《2》
佑さんの声は淡々としていて、だから余計に、脳内にこびりつく。話している間も、至近距離で真っ黒い二つの目が僕を射抜いていた。逸らしたいような、逸らしてはいけないような。頭の中が静かに混乱させられたまま、佑さんの言葉が続く。「元、だしな。過去のしがらみ越えんのも、やぶさかではねえよ。そう思うくらいには、お前はいい女だ」「ゆう……さ、」絞り出した声は、緊張して擦れていた。漸く重たい足が動いて、一歩後ろへ下がったけれど、距離が変わらない。同じだけ、佑さんが詰め寄るから。「後は、お前だ。お前は誰と、この距離で居たい?」その声が、急に艶めいた気がした。吐息が頬にかかる。”誰と”と聞かれているのに、答えは二択で迫られているような、そんな気がする。その問題自体が、間違ってないか?何で今、そこから選択しなければいけない。すんなり口が動いていたらそう切り返していたかもしれないが、言葉が出ないうちにこの状況ではそうもいかないのだと気づく。二択の選択肢の一人が、今は僕じゃない人と一緒に居て、もう一人が今僕の目の前で距離を詰めようとしているからだ。「まあ、もしかしたら陽介は今頃あの子と、こんな雰囲気でいるかもしれないしな。だったら俺にしとくか?」陽介さんとあの子が。今の僕と佑さんのように。その映像は脳裏で容易く映像化され、実際に今傍に居て感じてしまう体温と連動した、途端だった。あれほど抵抗力を失っていた身体に、ぐっと力が入る。胸の奥から沸いた焼け付くような嫌悪感が、陽介さんとあの子に向けられたものなのか佑さんに向けられたものなのかはわからないが。矛先は、目の前にいる佑さんに向けられた。次の瞬間、「げふっ」とまるで何かを嘔吐するような声を上げて佑さんが前屈みに腰を折る。僕は顔を背けて避け、目に付いた休憩用の丸椅子に手を伸ばした。「げほっ……お前、俺は答えを出せって言ったんであって、拳を出せとは…」「……悪い。距離が近すぎて上手く鳩尾に入らなかった」「ちょっ、待て待て! 揶揄って悪かった、そんなもん振り上げるなお願い降ろして」「……っ! やっぱり揶揄ってたのか!」丸椅子を振り上げたのはさすがにただの脅しのつもりだったが、本気でそのまま振り下ろしてやりたくなった。尻もちをついて鳩尾を擦りながら僕を見上げる佑さんは、悪ふざけが過ぎたこと
Last Updated: 2025-04-26
Chapter: 大人の男は安全牌を装うのが上手いらしい《1》
【神崎慎】「ほんと、何か変っすよ」陽介さんが、心配そうに僕に向かって手を伸ばす。その手に過剰反応して、思わずびくんと身体が跳ねた。「すみません、つい」驚いて手を引っ込めた陽介さんは、それでも尚、僕の心配をしてくれているのはひしひしと伝わってくる。確かに、僕は今、おかしい。原因の大半は、陽介さんが店に戻ってくるまでの間、佑さんと二人の時に起きた出来事にある。陽介さんたちが店を出てから、暫くして他のお客も居なくなり、普段より早めに店じまいをすることになった。有線で流れていた音楽を止めると、佑さんが何かにやにやと唇を歪ませながら僕を見た。「お前さ、なんか間違ってねえ?」「は? なにが」「気になって仕方ないからって、何女の方を悩殺しようとしてんだよ」くつくつと可笑しそうに肩を揺らす。佑さんに指摘されたことは十分に身に覚えがあって、僕はいっそわかりやすいくらいに狼狽えた。「そ……そんなことない。いつも通りだ」「まあ、お前にしかできない妨害かもしんないけどさー、妨害にしちゃ消極的だ。どうせやるなら結婚詐欺くらいの勢いで落としにかかんねえと」「別にそんなんじゃないってしつこいな!」確かにいつもより若干、女の子が喜びそうな接客をしたかもしれないが。それは、アカリちゃんが僕から見ても可愛らしかったからで。僕は、元々可愛い女の子を見るのは好きだし、ほら、言わばマリちゃんに対して見せるのと同じような。と、脳内で勝手に慌てて誰に対してかわからない言い訳を並べ立てていた。だけど本当は自覚している。合コンという名目で、浩平さんが陽介さんにあてがおうとしているアカリちゃんを見た時、僕は軽くないショックを受けた。陽介さんの隣に並んで店に入って来たのは、小柄で華奢で、清楚な長い黒髪をハーフアップにした、可愛らしい女の子だった。僕とは全く、正反対の。男というのは、一般的にああいう子が好みだろうなと見ていて思った。だけど陽介さんは、僕を好きだと言う。信じてくれと、真摯な言葉で訴えてくれたことを忘れたわけじゃない。その言葉に、僕はまだ一度も応えていないというのに、ショックを受けた自分も嫌だ。独占欲ばかり一人前に成長して、僕は一体何がしたいんだろう。テーブル席とカウンターテーブルをダスターで綺麗に拭いて、カウンターに戻ってくると、流し台に汚れた
Last Updated: 2025-04-19
Chapter: 触れてはならない、禁断の果実《9》
緊張で固くなった唇は、何度も重ねて舐めるたびに柔らかく熱を持った。抵抗しないのをいいことに、唇を貪ることに夢中になって、苦しそうな彼女の息遣いも扇情的なものにしか感じられなかった。「……ん、も……やめっ……」「もう少し……すんません」最初は片手で支えていただけだったのに、いつのまにか両手でがっちり彼女の首筋を捕まえていて、よくもまあ、あの慎さんが大人しくしていてくれたものだと、気付くのは後になってからだが。「……くるしっ……」「もう、ちょい」止まんないんだよ、仕方ない。声を遮るように角度を変えて深く口づけると、咄嗟に閉じようとした歯の間に舌をねじ込んで絡みつく。唾液にまみれて滑りのよくなった唇がこすれ合って、心地よさに恍惚とする。柔かくてあたたかくて、気持ちよい。舌を絡めることに慣れてない様子に、益々身体が熱くなった。無理だ。止めろって言われても、無理。ほんとに嫌なら、噛みつくなりなんなりしてくださ……。「いっ!!」突如、口の中でガリッという音がして同時に鉄のような味が広がり、陶酔しきっていた意識が現実に引き戻される。舌先に走った激痛に、慌てて彼女の唇と首筋を解放した。いってぇえええええ!噛まれた!おもっきし噛まれた!口を片手で押さえて前屈みになる。声も出せないくらいの痛みを地団駄を踏んで逃がしていると、息も絶え絶えといった様子の慎さんの声が聞こえた。「くっ、苦しいって、言ってるだろう、いいかげんにしろ!」見上げると、涙目で顔も真っ赤な慎さんが般若のような表情を浮かべて肩で息をしていた。やべえ。調子に乗りすぎた。「す、すんませ……気持ちよくてつい」「き、きもちよいって……」かああ、と一層赤く染めながら、慎さんが一度言葉に詰まる。照れてるのか恥ずかしがってるのか、でも間違いなく怒ってもいる。やばい、嫌われてたらどうしよう、と、散々貪っておきながら今更不安になってきた。「いくらなんでも、苦しい! 息継ぎくらいさせろ!」「い、息継ぎ?」そんなん……どうやったっけ?無意識にやってるから、あんまり考えたことがない。キスの最中のことを思い出しながら、ふと、気が付いたことを言ってみた。「……鼻、息止めてました? 合間に口でするのもありますけど……苦しかったら多分、鼻?」「鼻……」恐らく今、慎さんの中で
Last Updated: 2025-04-18
Chapter: 触れてはならない、禁断の果実《8》
中途半端な位置で留まったままの拳と俺の顔とを、綺麗な榛色の瞳が行き来して、少し肩の力を抜いたのがわかった。スツールが極々小さな、「キィ」という音をさせる。慎さんが椅子ごと俺の方を向いたからだ。すぐ間近からまっすぐに見つめられて、ますます手と目のやり場に困ってしまう。見つめてくる目はやっぱりどこか不安げに揺れていて、そのくせ潤んで艶っぽく……思わず生唾を、飲みこんでしまった。やばい。もうちょい、いつもみたくガード固くしてくれないと、今の俺はホントにヤバイ。「ちょ……っと、」トイレ、と言ってその場を逃げ出そうとしたのに。「……なんで、止めたんですか」慎さんが俺の手を見ながら、呟いた。何を尋ねているのかは明白だった。「……すんません、その……ちょっと」「僕が、怖がったから?」「俺が悪いんす。ちょっとだけ、のつもりで……あ、頭! 頭、撫でようとしただけで!」いや、ほんとは。頬に手は向かってたけど、怒られそうな気がしてつい控えめに言ってしまった。「……」「……すんません」そんな、まっすぐ見つめられたら。些細な嘘だけど、なんかめっちゃ悪いことをした気になってしまうからほんとに止めて、ごめんなさい。これは、なんだ。拷問か、それとも試練か。俺の忍耐力の限界を誰かが測っているのだろうか。やっぱりトイレに逃げよう、と立ち上がろうとしたら。「……いいよ」と、慎さんの声がして、一瞬何がいいのかぴんと来なかった。「え……」「いいよ、触れば。……別に、陽介さんが怖かったわけじゃない」ぶっきら棒で、ちょっと早口なのは照れ隠しなのだとすぐにわかった。視線が斜め下に逃げて、眉間に皺を寄せてはいるものの頬は触れたら熱そうなくらいに赤い。触っていいよ、というよりも、触って欲しい、と表情はそう言ってるように見えるのは、俺が調子に乗ってるからか?「い、いいんすか、ほんとに」「嫌ならい」「触ります!」……触ります、って宣言はどうなんだ。と自分でも思いつつ、じゃあ……と右手をゆっくり髪に触れさせた。緩くウェーブのかかった髪は、思っていたより艶やかで、想像するよりずっと柔らかく指に絡む。……細。絹糸みたいな細い髪を、最初は手のひらで撫でる。慎さんは恥ずかしそうに目線は背けたままだけれど逃げる様子もなかったから……髪の中に指を差しいれ
Last Updated: 2025-04-17
Chapter: 触れてはならない、禁断の果実《7》
「……あの?」「何か?」余りない、距離間だった。いや、慎さんを空手道場に送る時だとか、食事に連れ出す時だとか、俺から近寄っていくことはあっても、慎さんの方からここまで近づくことは余りない。ましてや、店内で。「いや……そうだ。佑さんは?」「今夜はもう帰ってもらいました。後片付けもそれほど残ってなかったし」「あ、そう……っすか」しかも、二人きり。何がどうしてこうなった、と理解ができないままに自然と鼓動は早くなる。男としては、大変美味しいシチュエーションだ。だからといって、簡単に手が出せる相手ではないのだが。スツール同士はあまり離れていないから、すぐ隣だと肩が触れそうなくらいに近くなる。手を伸ばせば触れられるくらいに、抱き寄せられるくらいに、近い。かといって全力で近づいてくるわけでもなくて……なんだろう。この感覚、どこかで覚えがあるぞと思いめぐらすと、すぐに思い当たった。実家で飼ってる猫だ。不愛想でこちらから構ってやろうとすれば、つんと澄まして見向きもしないくせに、たまにソファでテレビを見ているとそろっと近づいてきて隣に座る。それと、似ている。慎さんは例えるならシャム猫みたいで、実家の雑種猫とはずいぶんと雰囲気は違うけど。「あ。えっと、あの子なら、ちゃんと家まで送って来ましたから」「ああ、アカリちゃん。小さくて可愛らしい子ですね」「……送っただけで、何もないっすよ?」「そうですか」いつもと違う空気のわけを、思い当たる節から確かめようと敢えてアカリちゃんのことを口に出してみたが、手ごたえがない……ような、あるような。「……てっきり告白でもされたかと思いました」はは、と笑った顔が平静を装っているだけのようにも見えた。「……されました」「えっ」「俺は会うつもりないんすけど……ここに多分、ちょくちょく来ると思います」こんな雰囲気で、何か不安そうな慎さんに言いたくはなかったけれど、アカリちゃんが本当に来るなら話しておいた方がややこしくならない、気がした。俺が居ない間に来られてアカリちゃんの口から喋られるよりは、ずっといい。『だから―――また、会いたいな。あの店に行けば会えるよね?』最後に言われた言葉を思い出して、溜息を付く。アカリちゃんに毎度毎度来られたら、慎さんと話す機会が絶対に減る。ましてや、その度送れとか
Last Updated: 2025-04-16
Chapter: 触れてはならない、禁断の果実《6》
―――――――――――――――――――――――――急いで駅まで走ったものの、やっぱり終電には間に合わなくて慌ててタクシー乗り場を探す。ところが、俺と同じように終電を逃した連中か、とっくに営業を終えてるバスの利用者かで長蛇の列となっていた。しかも見ていると回転率が悪い。中々タクシーが戻ってこないのだ。「……くそ」どうしようか。携帯から連絡しようかと思ったけれど、タクシーに乗るくらいなら家に帰れと言われそうで、結局止めた。この駅から店までは、線路上で言えば三駅分。でも、直線距離で結べば三駅もない……はず。走るか。いや、それならタクシー待つ方が早いか。悩んでいても答えはでないと、結局じっとしていられないのが性格ってやつで。店の方角を確かめながら、適当な道を選んで車も人通りも少ない暗がりを行く。走る必要もないのに走るのは、一分一秒でも早く会いたいからで。案外ヤキモチ妬きのあのひとを、不安にさせたくないからで。あ、いや。不安に思ってくれるならちょっとは嬉しいけど、不安にさせたいわけじゃない。応えてくれない人を好きで居続けるという恋愛を、今までしたことがなかったから、俺にとっては複雑で初めての心境だった。「くっそ、あつ……」半分くらい走ったところで、一度足を止めて呼吸を整える。バスケ現役で走っていた頃なら、もうちょい走ることができたのに。再び走り出してすぐ、流しのタクシーを捕まえることができて、それからは店まではものの数分だった。タクシーを店の前で降りると、ぶるりと寒さが身体に堪えた。散々走ったおかげでシャツが汗で濡れていて、今度はそれが逆に身体を冷やしている。当然だ、来週には十二月だ。慎さんに出会ったのは、まだ秋のはじめの頃だった。ふと、風の温度に季節の移り変わりを感じて、あれからまだ二か月ほどしか経っていないのだと気が付いた。随分長い間、この店に通っているような気がしていたけれど……それほどの回数、ここに訪れているということだろう。「……はあ」階段を降り切った踊り場、店の扉にかけられたプレートの「close」の文字に溜息をつく。今夜は最後の客が早く帰ってしまったのかもしれない。場合によっては、週末は特に明け方近くまで開けていることが多いのに、今夜に限って早々に閉めてしまったようだった。素っ気ないけど律儀な
Last Updated: 2025-04-15
君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー

君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー

受験の失敗で自分に自信が持てず、閉じこもりがちだった綾。 そんな綾が再び外の世界に目を向けたのは、通りすがりに一目ぼれした花屋カフェがきっかけだった。 臆病だけど本来は明るい性格の綾が人と触れ合い、関わって成長していく。 再び歩きはじめるために 必要なものは何でしょう アルバイト店員 三森 綾 19歳 元は大手商社のエリートだったらしい オーナー兼マスター 一瀬 陵 30歳 無表情で一見冷ややかなその人 時折見せる優しさに 綾は少しずつひかれていく パティシエ 片山信也25歳 チャラい外見と言葉遣いで不真面目に見られがちだが 実は案外気遣い屋 失恋したばかりの綾に わかりやすい程真っ直ぐな愛情表現を示してくれる
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Chapter: 幕間ー思い草ー5
愛ちゃんと飲んだ日の帰り道彼女が歩きながら煙草に火をつけたので行儀が悪いと窘めたらバツの悪そうな顔をして道の端に寄った。『そんな嫌そうな顔しないでよ』『男で煙草吸わない人ってさ、まるで愛煙家を親の仇みたいな目で見るのよね』『それこそ偏見でしょ』別に、他人が吸う分には俺はなんとも思わない。だけど、煙草のイメージアップを計ったのか愛ちゃんが煙草にも花言葉があるのだと胡散臭いことを言い始めた。『ほんとだってば! 煙草って別名思い草って言ってね』『へえへえ』むっと唇を尖らせていた愛ちゃんが、ふと真面目な顔をした。『あなたが居れば寂しくない』『へえ……』と相槌を打ったものの、それ以上言葉もなく。視線を絡ませたまままるで時間を止められたような錯覚。消すつもりのないらしい煙草の先から白く細い煙が上り、風に揺れて散らばった。『後はねえ、秘密の恋、孤独な愛、とか。 結構色気のある花言葉だと思わない?』にっ、と再び笑った愛ちゃんはいつもの愛ちゃんだった。『確かに。愛ちゃんには似合わないよね』『何おぅ!』結構本気の平手が飛んできて危うく顔面に食らうとこだった。今思い出しても、愛ちゃんはもうちょい明るいイメージで、やっぱりその花言葉は似合わない。もっと儚げな女か影のありそうな男とか。例えばこの、目の前の眼鏡堅物とか。確か、オープンした頃はマスターが愛煙家であることを知らなかった。多分ひと月ほどした頃だ。婚約者が店を訪れることはなくなり、裏口で煙草を燻らす姿を見るようになった。『煙草って別名思い草って言ってね』そんな風に聞けば、尚更その姿が意味深に見えてくる。「……何か?」「別に」視線を感じたマスターに問いかけられて、咄嗟に俯いてごみ淹れの蓋を締め直す。車のタイヤが道路との僅かな段差を超える音がして、そちらを向くと乗用車が一台駐車場に入ってくるのが見えた。もう外観の灯りは消してあるから、閉店しているのはわかるはずだ。方向転換でもして道路に戻るだろうと思っていたら、俺の(正確には親父の店の)白いバンの横の駐車した。店の正面ではなく側道に面した僅か数台が停められる程度のその駐車場は、裏口からでも良く見える。「あれ……あの車」紺のワーゲン。見たことある、と思ったもののすぐには思い出せなかったが。運転席から降りた女の
Last Updated: 2025-04-26
Chapter: 幕間ー思い草ー4
「俺のじゃないよ、それ」「えっ? そうなんですか?」「うん、俺吸わないし」ボールに入ったバターとマスタードをホイッパーでかき混ぜながら答えると、綾ちゃんは手を引っ込めて手のひらで転がしながらそれを見つめる。「じゃあ、通りすがりの人の落とし物かな? お店の裏口だからてっきり……」「いやいや。俺じゃないってだけで他に聞く人いるでしょ」「えっ?」こちらを見上げるきょとんとした表情が、ちょっとリスみたいで可愛い。くそ、何やっても可愛いけど。煙草イコール俺に繋がったくせに、なんであの人には繋がらないんだ。「綾ちゃんじゃないんなら」「私じゃないですよ!」「じゃあ、マスターしかいないでしょ」表情が、くるくる変わるのは本当に面白い。その視線の先に、なんで俺じゃなくてあの不愛想なマスターしかいないんだ。綾ちゃんが、「嘘っ」と驚いた声を上げ目を見開いた。「マスター、煙草吸うんですか? 全然イメージじゃなかった……すごく真面目そうだし」「へー……綾ちゃんの中では煙草=不真面目=俺なんだ」「えっ? あ、いえ。そういう意味じゃ……」しまった、と思いっきり顔に出して慌てて取り繕うけど、もう遅い。思いっきり拗ねたぞ、俺は。「マスター、吸うよ。綾ちゃんも帰った後、ラストに良く外で吸ってる」「そうなんですか。でも、想像すると似合いそうです。『大人の男の人』って感じで……」「大人だよ、様になってて男の俺から見てもカッコイイ」「へえ……」「隣に立つのは、やっぱカッコイイ大人の女が似合うよな」そうだよ、向こうはずーっとオトナなの。綾ちゃんからは、ちょっと遠いんじゃない?「そー、ですね」へらりといつもと同じ笑顔に見えても明らかに元気のない、風船から空気が抜けて萎んでいくような様子を視界の端に捕らえながら。「落ち着いた、大人の女の人が似合いそうですよね」「落ち着いた、っていうか。気の強そうなキャリアウーマンって感じだったな」俺の口は、止まらない。別に傷付けたい訳じゃないのに……ほんと、カッコ悪い。「キャリアウーマン?」「そう、元婚約者。オープン当初はよく店に来てたよ」「え」「この店、ほんとは彼女と二人でやるつもりだったらしいから」気付いたら、綾ちゃんは泣きそうなのを通り越して、呆然と口を半開きにしていた。「婚約、されてたんですか」
Last Updated: 2025-04-19
Chapter: 幕間ー思い草ー3
まあ、否定しない。今までそうだったし。「何ソレ。別にまだ付き合ってもいないんだし、スタイル変えることないじゃん。ばかばかし」「いや、そうかもしんないけどさ。禊っていうの?」なんとかどうにか綾ちゃんに近づきたいと思う。だけど、あの子見てると今までの自分が情けなくなる。綾ちゃんは、なんにでも一生懸命だ。大学受験に失敗して、引きこもってしまった、と恥ずかしそうに話していたけれど。同じように俺も失敗したけど、別にショックを受けるでもなく家庭環境も手伝って流されるように製菓の専門学校に入学した。自分の意思だったかというと、よくわからない。俺みたいにになんとなく生きていくよりも彼女みたいに逐一額面通りに受け取って、逐一ショックを受けて悩む方がずっとしんどいに決まってる。そんな綾ちゃんを見てると俺もちょっとは、心を入れ替えるべきかな、と思っちゃったんだよ。「だから、まずは色々と整理整頓しようかと思って」「……あんたそれ。人を小馬鹿にしてるって気付いてる?」さっきまではちょっと不機嫌な程度だった愛ちゃんが急に怖い顔で睨んでくる。別に馬鹿にしてるつもりはないんだけど。「なんで? なんも変わらないまま綾ちゃんに言い寄る方が馬鹿にしてる気がしねえ?」本気でわからなくてそう首を傾げると、愛ちゃんはますます怖い顔で溜息をついた。「……それが馬鹿にしてるっての。わかんないなら一生そのままでいれば」そう言って、ホテルに向かうことは諦めたのかバッグから煙草を取り出して火をつけた。女向けのメンソールの煙草を、細い指に挟んで唇の隙間から煙を吐き出す。しっくりくるその姿を見ながら、テーブルの端にある灰皿を差し出した。「驚かないんだ。私アンタの前で吸ったことなかったでしょ」「知ってたよ」「えっ、なんで?」「匂い」正直にそう言うと、「げ」と嫌そうに顔を顰め、肩に鼻を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せる。身体からっていうより、キスしたりするとやっぱりわかるんだよな。俺が吸わないから。でも。「俺が煙草苦手だから、気を使ってくれてたんでしょ。知ってるよ」愛ちゃんは少し目を見開くと、すぐにまた顔を顰めて目を逸らす。だけどその頬はちょっと赤い。「やっぱアンタ嫌い」「ひでー」「酷いのはどっちよ。まー……好きな女が出来たらそんなもんなのかもね」「だか
Last Updated: 2025-04-18
Chapter: 幕間ー思い草ー2
別に俺が泣かせた訳でもないのに、罪悪感のようなものがまとわりつく。大体、あんな卑怯な男だとわかっていたら応援したりしなかった。幼馴染みだから、告白だとは思わなかったとか?んなわけない。どうであろうと、バレンタインに女に誘われたならちゃんと二人で会ってやるべきだ。あんな遣り方で牽制した男に腸が煮えくり返って仕方なかった。わざと見せ付けるような二人の空気に黙って引き下がった綾ちゃんが、いじらしいやらもどかしいやら。あんな奴と上手くいかなくて良かったけどさ。一発くらい殴ってやれば良かったんだ。それからというもの彼女が泣いていないか気になって楽しそうにホールを動き回る姿を見るとほっとして客と仲良くなって感情的になる彼女が心配にもなり客の彼氏に誘われてる姿を見てはハラハラしてこんなに俺が心配して振り回されてるっていうのに「悠くんは、あの人みたいに浮気性じゃないですもん」かっちーん。って。初めて綾ちゃんに苛ついちゃった。浮気性かどうかは知らないけどさ本性見抜けてないよな。あんな想いさせられたのに未だに慕ってたりするわけ?「幼馴染ってずるいよな。小さい頃から一緒にいるってだけで妙な信頼関係がある」「だって、悠くんはほんとに」「違うって言える? 幼馴染としてしか接してないのに」「そっ……」言ってしまってから、はっと我に返る。目の前には、明らかに傷ついて表情を固めた綾ちゃんの顔。今にも泣きだしそうに見えて、激しい罪悪感が押し寄せた。何やってんだ、傷つけたあの「悠くん」とやらに腹を立ててたはずなのに、俺が傷つけてどうするんだ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」慌てて謝って頭を下げて、彼女は少し頬を引き攣らせたままだったけれど。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」じきにほんとに笑顔になって、柔らかく首を振る。今傷つけたのは俺なのになんだか。そんな表情を見ていたら、何故だかもうたまらなくなって「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」気付いたら、そんなことを口にしていた。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」思案顔で、俯いたままの彼女にそっと
Last Updated: 2025-04-17
Chapter: 4話 一途なひまわり《6》// 幕間・思い草《1》
びくんっ!と背筋が伸びて慌てて振り向いた。見られたくない、咄嗟にそう思ってしまったからきっと私はかなり慌てた顔をしていたと思う。それなのに、厨房とホールとの境目のカウンターで顔を覗かせる一瀬さんは至っていつも通りの無表情で、淡々と動じることなく片山さんを窘めた。「デートのお誘いは仕事の後にしてください」「へぇへぇ」慌ててるのは、私だけ。しかも、助けてもくれない……んですか。そのことが、自分でも驚くくらい、ショックだった。「……綾さん?」私と目が合ってはじめて一瀬さんの無表情が崩れる。代わりに浮かんだ困惑顔に、また一層、胸が痛んだ。私は一体、どんな顔で一瀬さんを見ているんだろう。ただただ、目頭が熱くて。困惑する一瀬さんの顔を見て、唇を噛んだ。一瞬の目線のやりとりを、片山さんに気づかれたのかはわからない。「……了解。デザートプレート二つね」溜息混じりの片山さんの声が酷く不機嫌だった。一瞬だけ握られた手の圧力が強くなる。それでも目を離せない私に、一瀬さんが少し目を伏せて言った。「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」「は? そうなの?」「ええ。期間中でも少し後の方に行った方が良いでしょうね。咲いてない向日葵見ても仕方ないでしょう」見るからに動揺している私のせいで気まずく澱んでいた空気が、ようやく少し流れ始める。「そりゃそうか……じゃあ、八月入ってからのがいいかな」残念そうな声と一緒に片山さんが立ち上がる。漸く握られた手が解放されて、やっと肩の力が抜けた。「片山さん、ごちそうさまでした」作業台に向かう片山さんにそう言うと、背中を向けたままひらひらと片手を振った。カウンターに戻ってすぐ、一瀬さんがぽつりと私に言った。「見頃になるまでに、お返事したらいいでしょう。嫌なら嫌と言えばいい」私の方をちらりとも見ずにそう言って、カップとソーサーをセッティングする。「はい……すみません」助けてもらったのか、突き放されたのかわからない。だけど、一つだけわかってしまったことがある。向日葵畑がいつ咲くのかよりも一瀬さんにどう思われるかそのことばかり気になって、仕方ない私がいることに気が付いてしまった。【一途なひまわり・前編】END――――――――――――――――――――――――――――――――――
Last Updated: 2025-04-16
Chapter: 4話 一途なひまわり《5》
「マ、マスターとそんなんなるわけないでしょ。マスターからしたら私なんてお子様にしか……」「うん、それもあるし」自分で『お子様』って言ったのに、全く否定してくれないお姉ちゃんに結構ダメージは大きかった。どうせ私は子供っぽいですよ。……多分、世間一般の同年齢の子達よりも、私はこういったことに疎いのだと思う。もっとちゃんと、真剣にみんなの恋バナを聞いて置けばよかったと、今更ながら後悔した。「っていうか、論点ずれてる。片山さんかマスターか、じゃなくって。そんな簡単にデートしていいものなのかなって……」「いいじゃない、それでもしかしたらドキドキしたりして、恋が芽生えることだってあるよ? きっと」「……ドキドキしたら恋なの? そんな単純?」「わからないからって立ち止まってたらわからないままじゃない? あんまり怖がらないで、案ずるより産むがやすしっていうわよ?」つまりそれは。まずは、デートしてみろってこと、でしょうか。お姉ちゃんに相談しても、結局悩みはすっきりとはしないまま。お風呂を済ませて、お布団に入ってまた頭を悩ませる。一瀬さんから見ると私なんか子供だってそれはよくわかってるけど、片山さんだって私よりも五つ上だ。それに、かっこいい。あんな風に見つめられたり、指にキスされたりしたら……どきどきして当たり前だと思う。肌掛け布団を口許まで引き上げたら、指先が目に入ってまたどきどきがぶり返して、暫く眠れなかった。◇◆◇翌日、朝から片山さんと顔を合わせるのに、すごく緊張したけれど。「おはよ、綾ちゃん」「おはようございます」彼はいつも通り愛想のよい笑顔で、ケーキの番重をカウンターの上に置く。そして、いつものように、目の前に停めた車を駐車場の一番端に停め直しに行く。「……あれ?」間抜けな私は、その時に漸く気が付いた。彼は毎朝、車でケーキの番重を積んで出勤してくる。おうちのケーキ屋さんは歩けない距離じゃないけど、手で持って歩くには遠いし車の方が安定するから。当然、昨日も車だったはずだ。片山さんはあれから、一度店に戻ったのだろうか。「ああ、はい。一度戻って来られてから車で帰られましたよ」一瀬さんにそれとなく聞いてみたら、そう教えてくれた。だったらなんで車で送ってくれなかったんだろう。車なら駅まで三分くらいだし、昨日は降られはし
Last Updated: 2025-04-15
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