LOGIN受験の失敗で自分に自信が持てず、閉じこもりがちだった綾。 そんな綾が再び外の世界に目を向けたのは、通りすがりに一目ぼれした花屋カフェがきっかけだった。 臆病だけど本来は明るい性格の綾が人と触れ合い、関わって成長していく。 再び歩きはじめるために 必要なものは何でしょう アルバイト店員 三森 綾 19歳 元は大手商社のエリートだったらしい オーナー兼マスター 一瀬 陵 30歳 無表情で一見冷ややかなその人 時折見せる優しさに 綾は少しずつひかれていく パティシエ 片山信也25歳 チャラい外見と言葉遣いで不真面目に見られがちだが 実は案外気遣い屋 失恋したばかりの綾に わかりやすい程真っ直ぐな愛情表現を示してくれる
View More前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。
ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。 高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。 大学までは、バスがある。 けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。「あ、明日がオープンかぁ」
扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。
ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。 不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。 そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。
出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。
花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。 よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。 きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。 右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。 あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。 ―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。
その時の私は、考えていた。***
「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」「へえ。それはなんで?」
「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」
店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。
相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」
「……フリーターですよう。そこは聞かないでくださいよ」
あんまり古傷を抉らないで欲しい。
試験に落っこちた時の衝撃を思い出して、私はつい唇を尖らせてしまった。 バイトを始めたきっかけを尋ねられると、どうしてもその時のことを話すことになる。「おお、悪い。しかし気にするな、俺も落ちた」
「えっ、そうなんですか。けど片山さんはすごいじゃないですか」
けらけら笑って言う片山さんは、近くの商店街のケーキ屋さんの息子さんだ。
このカフェではその店からケーキを卸してもらっていて、片山さんが朝出勤してくる時に一緒にケーキを運んで来てくれる。「パティシエの修行中なんでしょう?」
「んー……まあ。家庭環境から、そんな流れにね」
そう言った片山さんは少し複雑な表情をしていた。
「そうなんですか」と首を傾げて曖昧に返事をしたけど、なんとなくその複雑な感情には私も覚えがあり、ちくりと胸を刺した。 周囲の環境に、なんとなく流される。 私の大学の志望動機が、それそのものだった。 だけど。「でも、やっぱり片山さんはすごいと思います」
私は入試に失敗したあとも、何をするでもなくただ時間を消費しただけだったから。
このカフェに、再び訪れることになるまでは。会話が途切れてなんとなく黙り込んだまま、私は再び手の中のトングに集中した。
番重から、ひとつひとつケーキを移す。 それほど難しくない単純作業だけど、ケーキを壊さないようにと思うとつい手がぷるぷると震えてしまう。「貸して」
すぐ近くで声がして、少し驚いた。
顔を上げると、さっきまでスツールに座っていたはずの片山さんが真後ろに立っていて、私の手元を覗き込んでいて。「びくびくしながらやるから、余計に危なっかしいんだよ。別に一個くらい落っことしたって誰も怒らないから」
そう言いながら、私の手からトングを抜き取ると、私の倍以上の速さであっという間にケーキを移し終えてしまった。
大体のことの成り行きを説明すると、なんとなくそれだけで少しほっとしてしまってつい深いため息が落ちた。一瀬さんに話したからって、どうにかなるわけではないのだけれど、ただ話すことで感情の折り合いをつけたかった。「次、娘さんが来られたらありのまま伝えるしかないですね」「……そう、ですよね」「貴女の責任ではないでしょう。家族の問題にまで深入りは出来ませんよ」「はい……」一瀬さんの言うことは、もっともだ。わかってるのに、ついつい、首を突っ込んでしまいそうになる理由はなんだろう。あの女性に対しても、親近感が湧くというか、つい応援したくなるというか。黙り込んだ私を心配してか、信号待ちで一瀬さんが少しハンドルに凭れ掛かり様子を窺うように私の顔を覗き込む。「咎めているわけではないですよ? 貴女が自分を責めることはないということです」少し、目尻が下がってる。心配してくれているのだと思うと、嬉しくて口元が緩んだ。「大丈夫です、わかってます」「なら、良いですが。私はいつも、言葉が足りない気がして」と、少し意外な言葉が付け加えられて、驚いて目を瞬く。そんなことを気にしているとは、思ったこともなかったから。「そんなことは、ないです」本当は、今の私達の関係の曖昧さに関して言えば、確かに、もっと言葉が欲しいと思う。だけど、言葉で欲しいと伝えて、無理に聞きたいわけでもない。それに、それ以外の事柄で言えば、一瀬さんの表情の変化は確かに乏しいけれど、私はわかる。出会ったばかりの頃は、確かにいつも不機嫌そうに見えて、あまり話してもくれないし怖かったけれど。あれからもう、四年近く経つのだろうか。そういえば、あの見るからに不機嫌そうな最初の印象といい、清瀬さんは一瀬さんと少し印象が似ている。思い出してクスクス笑っていると、むす、と今度は確かに不機嫌な声が返ってきた。「……そんなにおかしいですか」「あ、いえ。すみません、おかしい、というか、少し似てるんです」「似てる?」「清瀬さんと、一瀬さんが。初対面の時の雰囲気とか」私がそう言うと、なぜだか彼は少し複雑そうな、困惑気味の横顔を見せた。「そんなに似てますか」「いえ、私がちらっと思っただけですけど……結構、素敵な方ですよ?」何か失礼な言い方をしただろうかと、慌てて取り繕ったような言い訳をしてしまう。
……私は何か、間違ったんだろうか。何か余計なことを言ってしまったのだろうかと、清瀬さんとの僅かな会話を頭の中で繰り返し思い出す。やっぱり、出過ぎたことを言ってしまった?今度娘さんが来店されたら、なんて言えばいいんだろう。一日の終わり、厨房の後片付けをしている途中なのだが、ついつい思考回路が飛んで手が止まる。「おい!」「はいっ?!」いきなり鋭い声が飛んできて慌てて背筋を伸ばすと、すぐ目の前に小山さんがいた。驚いて目を瞬かせると、小山さんが呆れたため息を落とした。「お前、ぼんやりし過ぎ。余ったプリン、持って帰るかって聞いてんだけど」どうやら、いきなりではなく何度も声をかけてくれていたらしい。「あ、もらいます! 嬉しい、いいの?」「一個しかないから食って帰ってもいいけど……つか、お前時間大丈夫?」「え?」「いつもより遅くなってるけど」言われて壁の時計を見上げると、確かにいつもならとうに店を出ている時間だった。「わ、ほんとだ……」「大丈夫かよ」「大丈夫。電車はまだあるし、遅いついでにプリン食べて帰る」「じゃなくて……まあ、いいや。じゃあ、帰り」「綾さん」こんこん、とノックの音がして、小山さんの言葉を遮るタイミングで声がする。カウンターの方から、一瀬さんが顔を覗かせていた。「もう遅いので、後で車で送ります。後片付けが終わるまでもう暫く待っていただけますか」「え、あ、一瀬さんが、ですか?」「勿論、そうですが」「あ、ありがとうございます!急いで帰る用意を……」「いえ、まだ片付けが残ってるので、プリン食べて待っててください」そう言って、また頭を引っ込めて店舗の方へ戻って行った。一瀬さんが、車で送ってくれる。フラワーコーディネートの仕事の時には、荷物が大変だろうと送り迎えをしてくれるけど基本カフェからの帰りに送ってもらったことは今までなかった。彼はは片付けが終わった後も多分、売上の計算だとか記録だとかたくさんあるようで、住居スペースである二階にも戻らず、一階で最後まで仕事をしていることが常だからだ。デート……というか二人でお出かけする時は勿論、何度も乗せてもらったけど。「……一瀬さんが、送ってくれるって」「そうかよ。良かったな」「どうしよう……」「何が」苛ついた声が帰ってきたけど、私は既に緊張し始めて酷くそわ
ずっとお見舞いを受け取り拒否していたのを、なぜ今回に限り受け取ってくれたのか。その謎は、すぐに解けた。「やあ、こんにちは」「あ……こんにちは」以前と同じ場所、同じベンチで、具合が悪いのかと私が勘違いしたあの男性が座っていた。あの日と同じように、ペットボトルの水を持って。「今日もお散歩ですか?」「ええ。今日は幾らか、暑さがマシですかね」確かに、幾分和らいで感じるのは風が少し流れているせいだろう。だからといって、陽射しは相変わらず真夏のものに変わりはない。「風があって心地は良いですけど、日焼けしませんか?」近づいて、また日傘を差しかけた。腕に引っ掛けた、花束を入れたショップバッグが揺れる。気付いた男性が、指で指し示しながら私を見上げた。「失礼ですが、花束の宅配ですか?」「え? あ、はい。そうなんです」どうして、誰かのお見舞いではなく花屋だとわかったんだろう。首を傾げた私に、質問が重ねられる。「”また”清瀬巧宛でしょうか」「えっ……、そうです内科に入院されてる清瀬巧さんという方に……」そこでようやく、気が付いた。「もしかして、清瀬さんですか?」「申し訳ない、暑い中届けていただいて。ここで受け取らせていただいてもよいですか?」清瀬さんが苦笑いをしながら、私に向かって小さく会釈をし、それから手を差し出した。「あ、はい! どうぞ、こちらです……えっと……どなたかから、とか」「娘でしょう。ご迷惑をおかけしてます」清瀬さんは苦笑いをしながら、ショップバッグを受け取って中を覗く。黄色い姫向日葵の花が、太陽の光の下で一層色鮮やかで、まぶしく見えた。「あの、ずっと受け取り拒否されてたのに、どうして?」「偶々ですよ、あの日お嬢さんが日傘を差しかけてくれた時、手にしていたショップバッグを覚えていまして」「あ……やっぱり」「ええ、暑い中届けてくださって、熱中症の心配までしてくださったのに、と思うと」初めて見た時は、少し気難しさを感じる人だと思ったけれど、本当は優しい人なのかもしれない。私が「ありがとうございます」と頭を下げると、「こちらこそ」と会釈してくれる、その表情は優しかった。なんだかちょっと、最初のころの一瀬さんの印象に似ている、と思ったら少し懐かしさと親しみも沸いてくる。そのせいか、結局私は一瀬さんに言われたにも拘
あの女性は、それからほんの数日後にまた店に現れた。もうじきランチタイムも終わろうかという二時少し前。店はまだ少し混雑気味で、紗菜ちゃんと私でホールを、厨房を小山さんと一瀬さんで回していた。「あ……いらっしゃいませ!」カラコロとカウベルを鳴らして入って来た女性に気が付いた時、私は空いたテーブルを片付けてランチの皿をカウンターまで片付けに行く途中だった。すぐに目が合って互いにぺこりと会釈をする。「すみません、少しお待ちくださいね」またブーケのご注文だろうか。だとしたら、先日の花束はちゃんと受け取ってもらえたのかもしれない。そう思うと嬉しくて、汚れた皿を流し台に置くとすぐにフロアに戻る。女性は紗菜ちゃんに案内されたのか、さっき片付けたばかりのテーブルに席を取っていた。「あのお客様、綾さんとお話ししたいって」「あ、うん。多分、こないだのブーケのことかな」「ランチのご注文はいただいたので、通しておきますね!」と、紗菜ちゃんが伝票をぴらっと見せてから入れ違いにカウンターに入って行き、私は女性の方へ近づいた。「先日はありがとうございました。受け取ってくれたんですよ、やっと!」女性は私に向かってぺこりと頭を下げ、弾んだ声でそう報告してくれた。もしかして、そのためにわざわざもう一度来店してくれたのだろうかと、私もつい嬉ししくなって声のトーンが上がる。「本当ですか?! 良かった、てっきりまた拒否されてお客様の方へ戻されたんじゃないかと心配していたんです」そう言うと、女性は若干気まずそうに眉尻を下げ、苦笑いをした。「すみません……看護師から聞いたんですよね」「あ……まあ。すみません、ご事情は少しだけ、お伺いしました」お客様から聞いた事情ではなかったのについぽろっとこぼしてしまい、私も小さく頭を下げる。女性は、「いいえ」と軽く顔を振ると、今度はちゃんと名乗ってくれた。「小児科医をしております、清瀬と申します。先日は名前も告げずにすみませんでした」「いえ、看護師さんにお話したらすぐにわかっていただけたし、それはいいんですが……」「私からって知ったらまた受け取ってもらえないかもって、つい咄嗟に。よく考えればすぐにバレるんですけど」「すみません、娘さんからみたいですって私言っちゃったので……でも受け取ってもらえたんですね」「そうなんです、