Chapter: 第94話 過去の痛み、東屋で交わす謝罪の言葉 突然声をかけられて、イルゼは慌てて顔を上げようとしたが、すぐに躊躇った。 予想だにしない人物からの声だからだ。 忘れもしない。この癪に障る甘ったるい喋り口調は義姉リンダのものに違いない。 恐らく自分だと認識していないだろう。 しかし──「ちょっと、ねぇ大丈夫……誰か呼んだ方が良いかしら?」と肩を揺すられてしまい、観念してイルゼが顔を上げると、お仕着せのドレスを纏ったリンダが目を丸く開いて口を開けて突っ立っていた。 扇情的で毒々しい印象しかなかった義姉だが、どうにも化粧も薄くなったせいか、幾分か幼く見える。それに、お仕着せが妙に似合っている。「大丈夫ありがとう。どこも悪くない」 とりあえず短く答えると、彼女は非常に気まずそうに俯いた。「ねぇ……貴女、今ちょっと良いかしら?」 都合は悪くないか、具合が悪くないか。と、今一度、真面目な口調で聞かれて、妙に緊張が走った。 あの事件の後、手紙を寄越されたが、イルゼは返事を書いていなかった。 それどころか、使用人たちの計らいで鉢合わせを避けるため、リンダとは会わぬようになっていた。「……大丈夫」 緊張しつつ答えれば、彼女は小さく頷いた。「……その。兄の指示とはいえ、髪の毛を切り落としたこと。あれだけはずっと謝りたかったわ。肉切り包丁を振り回したっておかしくないとは思う」 そう言うなり、リンダは頭を下げる。 「私は、母親を貴女の父親に殺された行き場の無い怒りを、あなたにぶつけ、腹いせに利用し続けたわ。貴女と父親は違うって分かっていたのに……本当に、ごめんなさい」 その謝罪に、イルゼは困却した。 手紙でも聞いていたが、あまりにも今更な言葉だ。 それに髪を切られた件においても、一年が経過したので、すっかり後ろ髪も肩を越すほどに伸びている。だからもう、これ以上語る言葉なんて無いというのに。「髪は…
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: 第93話 白銀の瞳が受け入れられて ……そう、ツヴァルクの領主は変わったのだ。 前領主、ミヒャエル・ツヴァルクが死去したことにより、彼の異母兄弟であるルードヴィヒ・ツヴァルクが領主となったのである。 あの後、彼は身代わりであったことを王宮に明かした。 下手をすれば詐欺罪や不敬罪などに問われる恐れもあったが、彼は瞳の色も変えずありのままの自分で侍従たちを連れ、王宮に向かい、国王にこれまでをすべて話した。 だが存外、国王は寛容だったらしい。 そのもっともな理由は、彼の父に当たる前領主よりも、彼の方が領地を上手に切り盛りしていることや、領地の財政が安定していて素晴らしいとの評判が高かったからだ。 そうして、彼は正式に爵位を継ぐ形となった。 それから領地に戻って数日後── ルードヴィヒは初めて領民たちの前に立ち、ミヒャエルの死を伝え、今まで彼の名を借りて領地を治めていたことを発表した。 王宮では承認されても、領民には反発されることも覚悟していたそうだが……気にしていないのは領民も同様で、反発する者は誰一人としていなかった。 また白銀の瞳も、誰も触れることもなかった。 そう、案の定──野蛮で残忍な騎馬民族シュロイエというのは遠い過去の話。覚えているものなどそう残っていなかったのだ。 むしろ、彼は領民から感謝されていた。 奇人変人の猟奇領主と散々に噂になっていたものの──所得の多い者に税を増やし、少ない者には軽くする。そして、領地整備などの意見もすぐに取り入れるなど、彼のやり方や税金の使い道を誰もが納得していたのだ。 むしろ皆、群衆の前で姿なんて出しもしない領主がようやく顔を出しただけでも嬉しいと活気づいていた。「猟奇領主だなんて、あんな噂は嘘だったじゃないか。有能な領主様だ」「なんであんな噂が広がったのやら。確かに俗っぽさや癖があるが、賢い青年だったよ」 そんな評価ばかり広がったのである。そもそも、病弱と言われたミヒャエル様がこうまでして領地を取り仕切ることは難しいと考えていたそうで、「本物か」と噂になっていたら
Last Updated: 2026-02-12
Chapter: 第92話 一年の月日がくれた幸せ ──それから、一年の月日が巡った。しかし、この一年の間で本当に様々なことが起きたものだと、薔薇園の迷宮の果てにある東屋で休憩するイルゼは頬杖をついて|反芻《はんすう》する。 陽光が柔らかく差し込み、薔薇の甘い香りが風に乗って漂う。外は随分と賑やかだった。老若男女の話し声が多数響き、子どもたちの笑い声や驚きの歓声が混じり、それだけでなく鶏の元気な鳴き声までするのだ。庭園が一般開放された今日、訪れた人々が花々を眺めたり、鶏に餌をやったりと、活気に満ちている。 イルゼはこの一年、変わらず城に留まり続け、ルードヴィヒの隣部屋で暮らしていた。 穏やかな朝の光が差し込む部屋で、彼の寝顔を覗き見るのが日課になったり、夜には一緒に夕食を囲むのが当たり前になったり──そんな小さな幸せが積み重なった一年だった。あの事件の後、イルゼは使用人たちの協力のもと、すぐに養鶏業を畳んだ。 日常が切り離されたことはどこか寂しかったが、皆が優しく手伝ってくれた。 当然、家に戻って暮らすことも考えたが、「こんな寂れた場所で女の子が一人暮らしなんて危ないし、ここに住んでていいから」とルードヴィヒに言われてしまったのである。 彼の声はいつものように気怠げだったが、瞳の奥に本気の心配が宿っていた。それに逆らえず、イルゼは頷いてしまった。 とはいえ、何もせずにただで住むのは申し訳ない。 手持ち無沙汰に、メラニーに「仕事がしたい」と頼んだが、彼女は首を横に振るばかり。「イルゼは他にやることがこれからあるわ」と、優しく諭されるだけだった。 そして……数日後にイルゼのために呼ばれたのは、精神科医ではなく、今度は淑女教育の講師だった。 お茶のマナーに刺繍、歌の稽古、ダンスの稽古など。優雅なティーカップの持ち方、針を運ぶ繊細な手つき、伸びやかな歌声、優美なステップ──まるで貴族の娘のような教育に、ますます意味が分からない。 困惑したイルゼは、自室で仕事をするルードヴィヒに問い詰めたのである。
Last Updated: 2026-02-11
Chapter: 第91話 歌に繋がれた私たちの運命の輪 イルゼは静かに、母との、彼との思い出の夜想曲を歌い始める。 そうして一節を歌い上げようとするときだった。 |叩扉《こうひ》が響き、イルゼは歌を止めて返事をすれば、間もなくドアが開く。そこにいたのはバルバラだった。彼女は杖をつき、ゆったりと近づいてくるので、イルゼは慌てて椅子を用意する。 だが、バルバラはすぐに首を振り「気遣わず大丈夫ですよ」とイルゼに優しい微笑みを浮かべて言う。「でも……」「一日に一度は旦那様のお顔を見たくてですね。空いた時間にこうして訪れているのですよ」 ――本当に今にも起きそうで、綺麗な顔で眠っていらっしゃる。 そう呟く、バルバラは穏やかな瞳でルードヴィヒを見つめていた。それはまるで母が子を思うような。そこには確かな愛情が込められていた。 そう感じてしまうのは、憂いの色が強いからだろう。 彼女はルードヴィヒに近づくと、幼子にそうするように、彼の頬を優しく撫でる。 しかし、彼の手に握らせたペンダントに気づいたのだろう。「これは……」 彼女は一瞬だけ目を丸くして、イルゼの方を向く。「そういえば、イルゼさん。随分とお懐かしゅう歌を歌っていましたね」 聞かれていたのか。バルバラに微笑まれて、イルゼはほんのりと赤くなる。「その……この歌、母に教わったのです。彼も気に入ってくれていたみたいで、私にこの歌をよくリクエストしてくれたのです。私は川底にいた母に救われました。馬鹿げてるかもしれませんが、母が力を貸してくれないかなって……」 そう伝えると、バルバラは慈愛の込もった優しい瞳をイルゼに向け深く頷いた。 そして──彼女は薄い唇を開き、静かに伸びやかに、夜想曲を歌い始める。 だが、イルゼはバルバラの歌の上手さに驚いてしまった。 それはまるで歌うことに慣れているかのよう。声がよく通っているのだ。「彼女は喋らない」そんな風に言われていた気難しそうな寡黙さが嘘のよう。透き通った
Last Updated: 2026-02-10
Chapter: 第90話 不器用でいびつな私たち 義姉からまさかそんなことを言われるなんて思いもしなかった。 だが、どう返事したら良いか分からない。今更という部分もあるし、こちらだって理解が追いつかない。当然のように、イルゼは返信を書くことなんてできなかった。 しかし、この事態にイルゼは余計に形見の狭さを感じ始めていた。 先行きだって不安でしかない。 義兄と営んできた養鶏業も廃業だ。これから、いよいよ一人でどう生きていけば良いか考えると、焦燥が募るものだった。 もし、働くにしても領地を出て行くべきだろう。 この領地で義兄に監禁され、|厭《いや》らしいことをされてきた殺人犯の娘という最悪な印象を持たれてしまうのはどことなく想像できたのだから……。 だが、これに対してヘルゲは「生きやすいに越したことはないでしょう」なんてやんわりと微笑んだ。「うちの旦那様もそうだしイルゼさんもね、〝不器用〟なんすよ。似た者同士だなって思います。たとえ本人は腑に落ちないとしても、周囲の評価だ待遇だの、そのまま受け入れたって悪くないと思いますよ?」 ──自分に厳しすぎなんすよ。 なんて、ザシャにも言われて、イルゼは目から鱗が落ちるようだった。 確かに、他人とそこまで関わってこなかったからこそ、分からなかったことだ。 厚意を受け入れること、甘えること。これまでの自分はなかったものだ。 この城に来て、人と触れ合い、学んだことは多すぎる。 それに、こんな風に言ってくれるのは心からありがたい。イルゼは、使用人たちに深く礼を言った。 そしてヘルゲは「今だからもう言えますが」……と、更なる暴露をイルゼにした。 何やらヘルゲはリンダと既に形式上で婚姻関係を結んでいるらしい。 娼婦の義姉を買う──つまりは、結婚していたということらしい。 だがその実態は……〝ヘルゲとザシャ双方の妻〟という扱いだそう。「法的に認められてませんが、兄弟共有の妻ということになりました。僕ら性格似てないですが、好みは似ていて。もう二夫一妻で良いのでは? ってことになりまして」 借金を肩代わりした他、買われた
Last Updated: 2026-02-09
Chapter: 第89話 目覚めぬ彼、静かに奇跡を祈る夜 あの日の出来事は、イルゼにとってもう朧気だった。 信頼していた義兄があんな執着を抱き、睡眠薬を使って卑猥なことをしてきたなんて、悪夢のように思える。 思えば、月の障りの周期以外はほとんど眠くて仕方なかった。それが始まったのは初潮が来て数年──十三、四歳の頃。胸が膨らみ始めた頃で……。 つまり、その頃から自分は義兄に〝そういうこと〟をされてきたのだと気づくと、震えが止まらなかった。 メラニーは、そんな部分を心配してくれたのだろう。 定期的に面談を行ってくれた精神科医を呼び寄せてくれたが、そこには彼の妻の姿もあった。「女同士の方がきっと話しやすいでしょうからね」 彼の妻は産婆だそうで、「何でも気兼ねなく話してほしい」と、イルゼの身を心から案じてくれた。 そんな話を精神科医の妻から聞かされたのか、頼まれたのか。以降、バルバラはよくイルゼに話しかけてくれるようになった。 また「気の紛らわしになれば」と、夕飯の支度の手伝いに誘ったり、焼き菓子作りを誘ったりと、気を回してくれた。 気難しそうな顔で無愛想な印象だったが、改めて知った彼女は、本当に心根の優しい人だった。 そして、彼女はイルゼに謝罪した。「わたくしの発言もあって、恐らく旦那様はイルゼさんと食い違ったのでしょう。そして、イルゼさんに恐ろしい思いをさせてしまったのでしょう」 だが、彼女に罪はひとつもない。 そう、この問題はすべての登場人物が口下手で不器用だっただけ……。それ故に、ここまで拗れてしまったのだと、イルゼはなんとなく理解していた。 そう、ルードヴィヒだって、心から自分を守ろうとしてくれたのだ。 あそこまで恐ろしい形相になったのは「許せなかった」からだと、心が少しずつ落ち着くと、汲み取ることができた。 だが、あの日。〝不思議な出来事が起きた〟とメラニーは語る。 イルゼがローレライの断崖絶壁から落ちてすぐ──水面が青々と光り、まるで時間を止めたように濁流が止まったそうだ。 まるで凪いだ鏡の
Last Updated: 2026-02-09
Chapter: エピローグ2 指輪に宿る未来、これからの時代 足音が近づき、レックスがネクターの作業部屋の前を通りかかった。母はその瞬間、すかさず彼を呼び止める。「お、何だ。ネクターの母ちゃん?」 そう言って、レックスは気軽に答えるが、その声は二年前より低く、容姿も見違える程に変わった。 かつてはネクターとほとんど変わらない背丈だったのに、今では頭一つ分も高く、スコットとそう変わらない。 工房での力仕事に加え、スコットの紹介でヒューズ社の部品工場でも時々顔を出して働くようになった。そのおかげもあって、華奢だった少年の体には筋肉がつき、随分と逞しくなっていた。 その顔立ちも、少年らしいあどけなさが消え、精悍な青年のそれに変わっていた。少し悪い顔をすれば、余計に悪人顔になったようには思うが……。 そう、あの手術以降……レックスは正しい時を取り戻し、成長を始めた。 あれから二年。彼は十八歳になった。 「……で、何か用か? ネクターも仕事が忙しそうだし、用件は早めに言ってやれな?」 軽く肩を竦めて言ったその一言に、ネクターは心の中でガッツポーズをした。 そうだ、よく言った。もっと言ってやれ。 一方の母は、そんな青年をじっと見上げ、少女のように口元を緩める。 「ねぇ、そういえばレックス君。貴方、ネクターと交際してるのよね? もう二年だっけ?」 「ああ、うん。そうだけど」 今更それが何か……とでも言いたげに、彼は小首を傾げた。 「率直に聞くけど、レックス君はネクターを完全に自分の傍に置いておきたいとか、そろそろネクターの赤ちゃんが欲しいって思わない?」 母のあまりにも直球な言葉に、レックスはこれでもかという程に目を丸くし、ネクターは顔を真っ赤にした。「ちょっ……お、お母様!? 昼間から何を言うの!」 慌てふためくネクターの声が部屋に響く。だがレックスは、不意を突かれた動揺をすぐに飲み込み、頬をかきながら穏やかに答えた。「一応、軍の精密検査の結
Last Updated: 2025-10-25
Chapter: エピローグ1 二度目の夏がやって来る あの日々から、二度目の夏が訪れていた。 ネクターは十九歳になり、少女から大人の女性へと歩みを進めつつあった。とはいえ、〝異端の女職人〟は変わらずだった。 結局、レックスの手術が終わった翌年の春に、二人は叔母の工房へと戻ってきたのである。 理由は単純だった。叔母ひとりで工房を切り盛りするには、やはり限界があったのだ。「作業の手が早いネクターと、雑務を何でもこなすレックスがいないと店が回らないのよ!」 ──だから返せ。そう言って、叔母は母に向かってどやしつけたらしい。 戻ってきてからの日常は、驚くほど以前と変わらなかった。 毎日修理に追われ、毎日納品に走る。最近は個人客だけでなく、企業からの依頼も増えており、ますます忙しくなっていた。 だが持ち込まれる品の多くは、雑に扱われて壊れたものばかりだった。 ここ数年で、生活に便利な家電も増えてきた。一般家庭にもそれらは少しずつ普及し始めているが、どうやら「機器の不具合は叩けば直る」という迷信がどこからか広まってしまったらしい。 結果、余計に状態を悪化させた機械が持ち込まれることが後を絶たなかった。「──ッ! そんなわけないじゃない! もっと機械を大事に扱えないのかしら!」 文句をこぼしながらも、ネクターは結局手を動かすしかない。 その様子を見て、レックスは「ドリスに似てきたな」などとからかって笑うのだった。 愛すべき仕事であることに変わりはない。精密機械に没頭できる日々は、ネクターにとっては何より幸せだった。困ることなど──仕事に関しては、何ひとつなかった。 ただし、困りごとは別のところにあった。「ねぇ~ネクター? 貴女、もう来年には二十歳よね? そろそろうちを継ぐ気はなぁい?」 間近から響く母の甘ったるい声に、ネクターは顔を引き攣らせて鼻を鳴らした。「ないわ。というか、ブラックバーン社の社長様が毎週こんな所で油を売っていて良いのかしら? 私、仕事が忙しいの」 いいから帰った帰った。そう言って半眼を向ければ、母は頬をぷうっと膨らませ、「
Last Updated: 2025-10-25
Chapter: 63話 振り返らぬ背に残された愛 反射的に振り向きそうになった。 だが、その瞬間、鋭く低い声が背後から響く。「……絶対に振り返るな」 重みを帯びた言葉は鋭く心臓を突き刺し、レックスは息を呑んだ。 聞き覚えのある声だった。否、五百年という途方もない時を経た今も、決して聞き間違えるはずがない。 ──アプフェル。ミッテ。 どうして彼女たちの声がここに響くのか。 ファオルは言っていた。同じ魂を持っていても、かつての記憶は残らないはずだと。ならば、いま耳にした声は幻聴か、それとも最後の奇跡なのか。 考えるより早く、視界はじわりと霞み、眦が焼けつくように熱を帯びる。 涙を堪えることなど、もうできなかった。「……フェリクス。ありがとう」 震えを含んだアプフェルの声が告げるのは、ただの感謝。 わざわざ、それを伝えるためだけに来たのか。あまりに酷い。会いたくて仕方がなかったのに、振り向くことは許されないのだから。 それでも──。 あのときの自分は、ただ仕える者として当然のことをしただけだ。 返す言葉も見つからず、レックスは黙って小さく頷いた。「聖者……いいえ、生者として生きなさい。必ず、必ず……幸せになると約束しなさい」 それは主人からの、最後の命令。 アプフェルがそう言い添えた直後、背中越しに暖かな気配が二つ重なった。 振り向いてはならない。 それでも、視界の端に映った影は、確かに茜色と黄金。アプフェルとミッテの面影が、涙に霞んで揺れていた。 頬を伝う雫の熱が煩わしくて、レックスは慌てて腕で拭った。 それでも涙は止まらない。「生きるに決まってんだろ! ……ミッテ、ボクに言ったじゃないか。生への執着を忘れるなって。たとえ一片でも希望になるからって……! 一度は投げ出そうとしたけど……でも、ボクはあの約束を守れただろ!」 嗚咽に押されるように声が迸った瞬間、荒々しくも優しい手が頭に触れた。 乱雑に髪を撫でる感触。大きく、温かな手。 ──あの頃もそうだった
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 62話 花の蜜にて不死の霊薬、その甘やかな名は その少女を思い出せない。 それが酷く悔しく、なんだか悲しくさえ思えて、フェリクス──いや、レックスは奥歯を強く噛みしめた。 胸の奥にぽっかりと穴が開いたようで、そこから大切な何かが抜け落ちていく感覚。喉の奥にせり上がる焦燥を必死に押しとどめようとしたその時、肩にとまる小さな影が小さくため息をついた。「……しょうがないなぁ、ヒントあげるよ」 羽ばたきとともに響いたファオルの声は、いつも通り飄々としていながらも、どこ か温かさを含んでいた。「〝歯車の魔女〟だ」 その言葉が告げられた瞬間、頭の中で何かが弾けた。 忘却の靄が一気に吹き飛ばされ、押し流すように記憶が雪崩れ込んでくる。 ────五百年前。 冷たい手術台に上げられ、目を覚ましたときに告げられた忌まわしい呼び名。〝生物兵器アビス〟。 使い物にならないと封印され、五百年の眠りについたこと。 やがて目覚めた自分を呼び起こした、桃金の髪をした聡明な少女との出会い。 無理やり結んだ契約。彼女を守るために権能を使った。 ──彼女は、なんと呼んでくれただろうか。『貴方のこと、レックスと呼んでもいい?』 柔らかく澄んだ声。アプフェルによく似た愛らしさを持ちながらも、より落ち着き、凛とした響きがあった。 その瞬間、彼の胸を突き破るように確信が走る。「……ネクター!」 叫び声とともに我に返ると、肩の上で羽を震わせるファオルが「おかえり」と穏やかに呟く。 レックスは震える指先を見つめながら、きょろきょろと辺りを見回した。どうして自分はこんな場所にいるのか──。だが、すぐに思い当たる。 以前ファオルが言った言葉。 「聖痕を持つ者の魂は〝還る場所〟を持つ」と。 ならば、ここはそういうことなのだ。「ちょ、ちょっと待て! 全部……色々思い出したんだが!」 取り乱す声に、ファオルは心底うんざりしたように返す。「何さ」 「これってつまり……ボク、死んだのか?」
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 61話 大聖堂にて、失われた名を探す あの後、レックスはネクターの生家で過ごすこととなった。 北南部の都市スチールギムレットにあるブラックバーン邸。そこは、レックスが王族や大貴族の屋敷で見慣れた荘厳さに決して劣らぬほどの立派な邸宅だった。 前々からネクターやドリスの所作に育ちの良さが垣間見えていたものの、いざ屋敷を目の当たりにしてしまうと──あぁ、やはり彼女たちは特別なのだと、心底納得させられる。 高い天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされ、幾重にも飾られたタペストリーには長き家系の歴史が刻まれている。重厚な階段を昇り降りするだけで、己が異邦人であることを痛感させられる場所だった。 そうして二ヶ月、三ヶ月と時が過ぎた。 日没が早まり、街に粉雪が舞い始めた頃──イフェメラ軍からレックス宛に一通の手紙が届いた。 内容をネクターに読んでもらったところ、脊髄に植え込まれた装置を取り外す準備が整ったという知らせだった。もしも手術の後も生存できれば、イフェメラ軍の保護と保証を受け、正式な国籍までも与えられるという。 だが、五百年も時を止められていた身だ。 いくら現代技術が飛躍的に発展していようとも、生存の可能性などどれほどのものか。言葉を尽くされてもなお、簡単には信じられなかった。 しかも、あの一件があったばかりだ。 あの日のように、甘言に誘われては新たな改造を施されるのではないか──そんな不安が頭を離れなかった。 だが、ネクターの母は静かに微笑み、彼の懸念を宥めるように言った。 「その心配は要らないわ。……今の軍に、そんな余裕は無いもの」 理由を聞けば、あの日の騒動に遡る。 ゴードン大佐が一般民に武力を向けたことは瞬く間に広まり、国の有権者たちが大騒ぎしたそうだ。その結果、イフェメラ軍は徹底した立て直しを迫られている最中であり、旧態依然としたやり方は決して許されぬ、と。そんな状況下にあるらしい。 「だから大丈夫よ」と言われて、レックスはようやく胸の奥から安堵を覚えた。 だが──問題は別にある。 生き残れるか否か。それこそが最大の壁だった。 最悪の結果
Last Updated: 2025-10-23
Chapter: 60話 断絶を越えて見つけた親子の絆 連絡通路を渡り、ブラックバーン社の飛行船に身を移した瞬間だった。 扉が閉まるや否や、張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、母はその場でへなへなと腰を落とし、床にしゃがみ込んでしまった。「お、お母様!?」 慌ててネクターも身を屈め、母の顔を覗き込む。 だが返ってきたのは、力なく崩れるような仕草ではなく、次の瞬間に娘を強く抱き寄せる温もりだった。 目を丸くしたネクターの耳元で、母は涙声を震わせる。「ああ……ああもう! 本当に怖かったのよ! 貴女が交渉に行って時間を稼ぐって、ドリスに急かされて、必死でここまで来たけれど……。なのに、無線で聞いたのよ。貴女があの豚に突き落とされて、海に落ちたって……!」 言葉を捲し立てる母の瞳には、今にも零れそうな涙が大粒に溜まっていた。 強い人だと思っていた。自分を突き放した冷たい母だと信じ込んでいた。──けれど今、必死に抱き締めて泣く姿は、ただの母親そのものだった。「もぅ……どうしてそんなに危ない橋ばかり渡りたがるの、この子は! 心配で……心配で……!」 そう叫んだ後、息を吸うようにぽつりと、「やっぱり魔女ね!」と憎まれ口を添える。だが、その口ぶりすらも泣き笑いに揺れ、くしゃくしゃになった顔でネクターの額や頬に幾度も口付けを落とした。 ──叔母から「切り札がある」と聞いてはいたが、まさかそれが母自身だったとは思いもしなかった。 確かに、この状況を覆せるのは母しかいなかったのかもしれない。 けれど同時に、危険を呼び寄せる立場に母を巻き込んでしまったことが、今になって骨身に沁みて恐ろしくなる。 自分は、これまで母の手紙を一度として開かず、返事さえ寄越さなかった。 嫌われ、捨てられたのだと思い込んでいた。──だが、こうして駆けつけてくれた。助けてくれた。 込み上げる思いに、ネクターは深く頭を垂れ、感謝と謝罪を口にした。 母は、少し赤い目を瞬かせ、肩で息をしながらも毅然とした声音を取り戻していた。「まったく……。可愛らしさの欠片もない反抗期の娘だって、
Last Updated: 2025-10-23
Chapter: エピローグ 火輪の花が照らす、永遠の約束 その夏の盛り。キルシュとケルンはツァール西部の地、メーヴェを後にした。 向かう先は海の向こう。西の島国、イフェメラだった。 帝都炎上から半年以上。 混乱の最中、二人の生存が世に知れ渡れば、再び騒乱の種になってしまうだろう。 それを避け為にも、静かな隠居の地を求めて、今こうして波に揺られていた。 あの日から、二人はブリギッタが治める西部領地の屋敷に身を潜め、使用人として暮らしていた。 ──キルシュに関しては、生活力に長けていた事もあり、家事において他の使用人に劣る事はなかった。 一方のケルンも、頭の回転が早く、計算や帳簿付けの手腕に優れており、領地の管理を多忙にこなすブリギッタにとって、大変心強い助けとなっていた。 だが、いくら優秀であろうと、若い恋人同士というのはなかなか隠し切れないものがある。 暇さえあればケルンがキルシュにちょっかいをかけ、彼女を膝に乗せては愛でる始末。休憩時間にはおやつを「あーん」と食べさせ合い、夜には寄り添ってバルコニーでいちゃいちゃと月を眺める。 ──つまるところ、目に余るほどの馬鹿っぷるだったのである。 そうしてとうとうブリギッタは痺れを切らし、ある日、二人を呼び出し分厚い封筒を渡した。 そこには金色の文字でこう記されていた。『使用人(仮)退職金』と……。 その額は、慎ましく暮らせば三年は生きていける程。 労働力に見合わないあまりに多すぎる退職金にキルシュが「正気?」と猛抗議をしたのは言うまでもない。「うるさいわね! 私はあんたより頭が良いのは存知でしょう? こっちは貿易で儲けのある金持ち貴族よ。黙って貰っておきなさい」 と、一蹴りされてしまったのである。 しかし、真意は後にユーリから知らされた。 「見ていて苛立つ」というのも、あながち嘘ではなかったが―― 本当のところ、ブリギッタが気に病んだのはケルンの立場だった。 存在を隠され、間引きされた筈の第一皇子。 皇帝が退位を表明した今、もし彼の存在が明らかになれば、次期皇帝の権限すら持つ可能性がある。 彼自身は「そんな器じゃない」と、謙遜していたが……だからこそ、二人がツァールに居続ける事は不安材料だったのだ。「……事実、俺たちがツァールに居るだけで、また国が揺れる恐れはある。ブリギッタ嬢の厚意に甘えよう
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 71話 二人で還る場所 ※ 永遠の夜、ナハトを討った後の記憶は、あまりにも曖昧だった。 それはまるで、どこまでも長い夢を見ていたような、静かでゆらゆらとした時間だった。 ──きっと、自分は死んだのだろう。キルシュは、そう理解していた。 視界は真っ黒に塗り潰されて、どこにいるのかも分からなかった。 意識だけはしっかりとあるのに、目は見えず、声も出せず、身体も動かせなかった。 ただひとつ、分かっていた事がある。 まるで凪いだ水面をたゆたっているような、静かで優しい感覚。 母親の胎内の記憶がもしあるなら、きっとこんなだろうなとでもいった感覚だ。 それでも確かだったのは、自分の手が誰かの手と固く繋がれていた事だった。 無骨で温かく、どこか懐かしい手のひら。 目に見えなくとも、声が聞こえなくても、それがケルンの手だと、キルシュには分かる。『もう離さない、ずっと一緒』 声が聞けずとも、そう言われているような気がしたのだから。 それだけで、どこか安心できて、怖さは不思議と感じなかった。 けれど──夢から目覚める直前、キルシュはクレプシドラの声を聞いた。『我は未熟な神故に、変則的な使徒を二つも留め続ける事はできない。……だが、お前たちの生を強く望む者がいる。再生の聖痕と、芽吹きを支える光の聖痕を引き換えに、お前たちをあるべき場所へ還そう』 そんな言葉だったと、ぼんやりと思い出す。 そして、どれほどの時が過ぎたのかも分からぬまま──キルシュは誰かの声に呼び戻されるように、ゆっくりと意識を取り戻した。 目を開けた時、そこは見覚えのない部屋。 そして、目の前では散々自分をいびってきた筈のクラスメイトが、大粒の涙を溢して抱きしめていたのだ。 それはまるで、夢の続きを見ているようだった。 けれど、現実は確かに動いていた。 帝都は本当に炎に包まれたのだと知らされた。──あれから、もう半年が経っているらしい。 自分は、西部領地
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 70話 徒花は、冬の果てで再び咲く 書き物机に向かい、帳簿に向かうブリギッタは深いため息をつきながら、眉間を揉む。 帝都炎上からというもの、女貴族たちは皆、忙しない日々を送っていた。 本来、ツァールの女貴族の務めといえば──花を愛で、刺繍に親しみ、教会での慈善バザーに顔を出す事。特に何もせずとも聡くある事。これが仕事だ。 けれど、帝都が崩れて以来、領主である男性たちはみな帝都の復興の為に出向き、留守を預かるのは女たちとなった。 しかし、女手さえ足りていない領では、聖職者や名門家が代わりに政を担っているとも聞く。 ──それでも、やはり「学識こそ宝」と教えられてきたのは間違いではなかった。 計算ができる事が幸いし、数字に纏わる事務作業をそつなくこなせる事で、今の自分をどれほど助けているか。 だが、問題は量だった。 支援物資、避難民への義援金、それらに関する出納帳が山積みとなって、日が暮れても帳簿の終わりは見えなかった。 (……さすがに、くたびれるわね) ブリギッタは癖も無い青肌色の髪をくるくると指に絡めながら、暗算に集中していると──バタン、と扉が荒々しく開く音がして、思わず眉をひそめる。 見なくても誰が入って来たか分かる。 乱れた金髪に碧眼、息を切らしながら駆け込んできたのは──帝都からともに逃れてきた南部辺境地・ヴィーゼ伯爵家の使用人、ユーリだった。 「ブリギッタ嬢、大変だ!」 彼はまるで火急の知らせでもあるかのように声を張り上げる。 ──彼とは、帝都崩壊の最中に知り合った。学院で負傷したブリギッタを、キルシュの命を受けて、メーヴェの領地まで送り届けてくれた恩人だ。 その後、帰郷するように言ったものの、彼は「神堕ろしの証人」だと語り、南部への帰還をためらった。 恩義と恐れ。そのどちらもが彼の胸にあったのだろう。結果、彼は西部に留まり、屋敷の雑務を手伝ってくれていた。 まして、現在は、宗教改革が起きて、南部辺境地はまさに今騒動の渦中に置かれている。〝帰りた
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 69話 名もなき祈りは今も冬に眠る 推定死亡者数、八百人以上。 行方不明者、およそ千名。 帝都炎上から、半年。ツァール帝国は初夏の日差しが差し込んでいた。 だが、国全体はいまだに揺らいだまま。 ツァール聖教、そして国の統治そのものが、足元から崩れていった。 国教は邪教崇拝だった。 聖職者たちや諸派の上位に就いていた者たちが次々と、自らの罪を告白し懺悔を口にした。 その中心に立っていたのは、南方辺境を治める辺境伯イグナーツ・ヴィーゼである。 彼が従っていたという《蝕(エクリプセ)》と呼ばれる諸派は、一般にはほとんど知られていなかった。 それは、まるで富裕層だけが入会できる会員制組合のように、水面下でひっそりと活動していたという。 彼らは語った。 来るべき戦乱と国の衰退を見越し──能有りたちを生贄に〝神堕ろし〟という、悍ましい儀式に手を染めたと。 その結果として、帝都に現れた禍々しき機械仕掛けの偶像が現出したのだと、イグナーツは語った。 信じ難い話ではある。 だが、目の当たりにした人々の多さが、疑念を打ち消した。 更には、その信憑性に拍車をかけたのは、皇帝陛下自身の懺悔だった。 ──陛下は、第一子が能有りであった事から、精霊返しを行っていたと、衆目の前で告げたのである。 ……その子息が、生きている事を知り、機械仕掛けの偶像の器に捧げたのだと。 更に、過激諸派《蝕》の支援を行っていた事も……。 邪教に手を染め、罪の無い犠牲を多く出した。もはや、この国の上に立つ資格は無い。 陛下は事態が落ちつき次第、退位を宣言した。 だが、災いを呼んだ《蝕》、更にはそれを支えた皇帝すら裁ける者は、もはやこの国に存在しなかった。 なぜなら、誰もが同じく邪教に呪縛され、盲信の果てにあったからだ。 洗脳が解けた今となっては、皆が等しく同じ立場に違いない。 帝国性は廃止となるだろう。公国となる
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 68話 永遠の夜に咲く火輪の花 片や、正面からナハトに対峙したキルシュは、うつむきながらも小さく笑い出した。 「ねぇ……頭が悪い私が言うのもなんだけど、憎悪の神って随分と知能が低いのね? 貴方、私の本当の願いをまるで見抜けてない。私は彼の教えてくれた《希望》だけは、絶対に忘れられない」 ──だから、私は貴方に《心》なんて渡さない。 強く言い放ち、顔を上げたキルシュは、瓦礫の上に倒れていたファオルに鋭い視線を投げる。 「いつまで寝たままでいるの! 甘えないで! あなたの目と耳は、今まで何を見て、何を聴いてきたの? 私とケルン、二人分の信仰と《心》じゃ、まだ足りないのかしら!」 ──目覚めなさい、クレプシドラ! キルシュの叫びに応えるよう。ファオルの身体がまばゆい金の光に包まれ、渦巻く粒子がひとつの人影を形づくっていく。 『我は未熟で、不甲斐ない神。だが、その声は確かに聞き届けた』 厳かだが、どこかファオルに似た子どもの声だった。 やがて光が晴れると、翠の髪と黄金の瞳を持つ、小さな人の姿が現れた。 白を基調とした短いローブには、繊細な金の幾何学模様が縫い込まれている。耳にはファオルの瞳に似た赤い飾りが揺れ、胸元には金の砂が詰まった砂時計──それが、刻を司る神・クレプシドラだった。 ──亡きツァイト王国で信仰されていた古の神。男とも女ともつかない、まるで人形のように愛らしい子どもの姿をしていた。 「この国なんてどうでもいい。でも、罪もない人たちが苦しむのはもう嫌。未来には希望がある筈。憎悪を、闇を、私は打ち砕きたい」 ──その加護を、私に。……《心》は、二つじゃ足りないの? 問いかけるキルシュに、クレプシドラは静かに首を横に振る。 『加護は与えられる。だが、おまえは生きた人間だ。己の《心》を我に委ねれば……その身体は持たぬ。しかも我が身の一部、《聴く者》の願いは──』 途端にクレプシドラの耳飾りは赤々と光った。 これがファオルの本当の姿なのだろう。 きっと『自己犠牲などしないと言ったじゃないか』と言っているような気がした。 ファオルの泣きじゃくる声が自然と頭に過る。 それを悟ったキルシュは、クレプシドラに歩み寄り、赤い耳飾りに唇を寄せた。 「馬鹿ね。私だって自己犠牲なんてくそくらえよ? ただ、こんな迷惑な邪神を野放しにしておきたくな
Last Updated: 2025-07-19
Chapter: 67話 六万五千の刻を超えて 直後、機械仕掛けの偶像は、花びらが舞うようにキラキラと光に還っていった。 残されたのは、彼──ケルン自身。 侵蝕はすでに深く進んでいたものの、人の姿を取り戻した彼は、釣り上がった黄金の瞳を細め、無骨な腕でそっとキルシュを抱き寄せる。 「キルシュに、最後のお願いがある。……俺の《心》を全部、貰ってくれないか。ひでぇ事、言ってるのは分かってる。これが最後の我が儘だ……その先、別の誰かと結ばれたっていい。でも俺、キルシュにだけは、忘れられたくない」 どこで息をしているのかも分からない、消え入りそうな声だった。 彼は、何度もキルシュに謝罪の言葉を繰り返した。 キルシュは、彼の手を強く握りしめ、何も言わずに頷いた。 拒む理由が見当たらなかった。 否、受け入れるべきだと、はっきりと思えた。 これが運命で、これが生きる意味なのだと……。 キルシュは、か細い息を上げる彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。 もう力が残っていないのだろう。彼はただ、やんわりとキルシュの唇を食む。 その瞬間──キルシュの脳裏には、夥しい彼の記憶が一気に流れ込んできた。 ──レルヒェの市場へ使いに出た少年時代。 盗みを疑われた彼を庇ってくれた、茜髪の小さな少女がいた。 子供たちの中で一番のチビ。強気なくせに、すぐ泣いてしまう。 その少女の名は、熟れた桜桃を思わせる茜色の髪にふさわしく、キルシュといった。『ケルンに意地悪しないで!』 稚い声で泣き叫んだあの日から、彼は彼女に惹かれていた── 素直で、純粋で、笑った顔が格別可愛い。そんなキルシュが初恋だった。 時を経て、礼拝堂のステンドグラスの下で、永遠の友情を誓い合い、未来では恋人として生き、必ず守ると誓った事。 運命に引き裂かれたあの日の、底知れぬ絶望と憎悪。 啓示として渡された未来の断片……自ら選んだ運命の事。
Last Updated: 2025-07-17