Chapter: 第41話 甘えを許す穏やかな視線 それから暫くして──三冊の本を抱えて彼は戻り「テーブルの方に行こう」と促した。 そうして、彼は一冊ずつテーブルの上に本を置く。どれも表紙が煤けた古ぼけた本だった。それも割と厚みがなく薄いものばかり。 「昔の貴族の娘が綴った伝記とか、架空の恋愛物語。あとは詩集。女の子の好みそうなのってこのあたりかなぁと。好みに合えばいいんだけどね。文体も堅苦しくないし、短いやつ選んだから結構読みやすいと思うよぉ?」 読みやすいものを。そんな配慮をしてくれると思わなかった。 思ったことを包み隠さず言う悪癖──と、本人も言ったが、こういう部分を見ると、やはり彼には気遣いの心があると窺える。 「ありがとうございます。読んでみます」 イルゼが当たり前のように礼を言い、本をひとまとめにしようとしたと同時だった。手と手が触れ合い、そのままきゅっと彼に手を握られてしまった。 一拍置いて、遠くから柱時計の鐘の音が聞こえてきた。 突然何か……。イルゼは驚いて目を丸くすると、彼はヘラッとした笑みを見せる。 「そうそう。すっかり忘れてたけど……昼になるからね。お礼を言いつつ、飯だってイルゼを呼んでこようって思って来たんだったわ。本は部屋まで俺が運んでやるから、部屋に戻ろ?」 そう言って、彼はイルゼから手を離すと手際よく三冊の本を纏めて片手に持つ。 「じ、自分で持てます……」 さすがに持って貰うのは悪い。そう思うが、彼はいいやと首を横に振る。 「だーから、人の厚情を軽々と打ち返さないの。イルゼはもっと甘えることを覚えなよぉ?」 そう言われてしまえば、もう刃向かう言葉もない。しかし、甘えろとは。妙に気恥ずかしく感じてしまい、イルゼが俯きつつ頷くと「それでよし」と彼は満足そうに言うが……すぐに何か思い出したように、慌ててイルゼを見下ろす。 「それよりさぁ。俺、今日と明日が暇にな
Last Updated: 2025-12-24
Chapter: 第40話 赤く染まった頬、額に落ちる甘い口付け ……しかし、彼は本当に顔が整っているとまじまじ思ってしまった。 義兄以外に男なんて殆ど知らないが、もう何度だって思うがこうも綺麗な男がいるものだとイルゼは改めて思ってしまう。 (物語の中の王子様みたい) 娼婦を束にして買うとの噂があるが、この容姿ならばきっと皆イチコロに違いない。 シュロイエの残党を象徴する忌まれた白銀の瞳だが……その色だって、儚げな印象を際立たせる宝石のようにしかみえないのだから。 「イルゼ、本当に表情に出るようになって可愛くなったよねぇ。イチゴみたいに真っ赤になってると味見したくなっちゃうよ?」 彼は悪戯気にクスクスと笑み、イルゼの前髪を掻き分けて額に口付けを落とした。 そうして触れられた箇所がジンと奥から熱を帯びるようだった。 なぜだろう、言葉が出せない。〝嫌〟なり〝やめて〟なりそのくらいなら言えるはずだが、どうにも言葉が出てこない。 否、決して嫌でなかったのだ……。 そんな自分が尚更不思議に思えて、イルゼは真っ赤になってプルプルと震えると、彼はようやくイルゼから退いた。 「なんかぁ……イルゼって思った以上に反応が可愛いから、つい意地悪したくなっちゃう。ごめんねぇ?」 謝る割にまったく悪びれた言い方ではない。 本当に何を考えているのかよく分からない。少しばかり不服に思って、プイと彼から顔を背けると「ごめんて」ともう一度謝られた。 しかし、可愛いだの言われるのは恥ずかしいし、嗜虐の標的にされるのも嫌だった。 もう話題を逸らしたい。イルゼはぼんやりと周囲を眺めて一つため息をつく。 「読書が好きなんですね」 思ったままを|訊《き》けば、彼は不思議そうにイルゼに目をやった。 「まぁ、うん。そーだね。めんどくせーとか嫌だぁーとか思ったときに現実逃避もできるしさ。学があっ
Last Updated: 2025-12-23
Chapter: 第39話 図書室の無邪気な笑み ──翌朝。朝食を取ってすぐ、イルゼは図書室に来ていた。 本日の行程は、本棚の中の清掃。そして、落ちた塵をすべてモップで掃く。これだけやれば、きっと綺麗になるだろう。 ピタリと閉ざした窓を開けると、緑の匂いをたっぷりと含んだ初夏の風が入り込み、イルゼは深く深呼吸した。 昨日長い時間換気したお陰もあって、カビ臭さは幾分かマシになっていた。否、自分の鼻が麻痺してしまっただけかもしれないが……。そんなことを思いつつ、イルゼは早速本棚の掃除を始めた。 昨日の失敗を踏まえたお陰か、本棚掃除は思った以上に捗った。 正午になる前にはすべての本棚の清掃が終わり、残りは掃き掃除をしてモップがけで終わり。ここまでくれば、あとひとふんばりだ。 イルゼは早速、箒で部屋の隅から掃き始めて間もなくだった。 「おぉ~すげぇ。カビ臭さが薄くなってる」 間伸びた声が部屋の外からして、慌てて振り返るとミヒャエルの姿があった。 彼は濃紺の下衣のポケットに手を突っ込んでツカツカと図書室に踏入ってきた。しかし、歩くとなかなかに猫背で姿勢が悪い。 「……おはようございます」 ミヒャエル様と彼の名を付けて言いそうになるが、すぐにイルゼは口を噤む。 きっと〝様〟とかつけるなだと言われるので面倒だ。それに、あまり彼の名を呼べば、本当の名前をうっかり口走るのではないかと恐れてしまい、あれからというものの、口頭で彼の名前を極力呼ばないように注意している。 だが、彼は口を噤んだイルゼを気にする様子もなく、ニマっと口角を緩めた。 「やー。もう昼前だね。イルゼ集中して頑張ってたのかなぁ?」 偉いぞ~なんて間延びした調子で褒められるのがむず痒い。 頬をほんのり染めてイルゼが壁掛け時計を確認すると、確かにもう午前十一時三十分を過ぎている。 彼は仕事中ではないだろうか。もうすぐ昼食の時間になるので、もしや、呼びに来てくれたのか…&hell
Last Updated: 2025-12-22
Chapter: 第38話 災いの瞳と古い争いの歴史 ────シュロイエ。南東の山間部に住まう騎馬民族。 青みを帯びた黒髪と銀の瞳を持つ。南東部のツヴァルク、キーファー、ヴァイデ、フリーダなどへの侵攻。街を焼き払い、女や子どもを攫う悪行を繰り返し、〝悪魔〟と|喩《たと》えられた。白銀の瞳は〝災いの瞳〟と呼ばれ、国々が束になって滅ぼすまでに半世紀を要した。 その一文を読んだイルゼは、すぐにこめかみを揉んだ。 『災いの瞳って言われてるらしーよ』 ふと、以前彼が言った言葉が頭を駆け巡る。 歴史を紐解けば、確かにそうなるだろう。 ……ツヴァルクやキーファーなどは今は領地の名だが、王国として統合される前はすべて独立した国だった。 つまり、シュロイエという騎馬民族がいたのは三世紀も四世紀も昔。否、もしかすればもっと古い。 こんな古い出来事を、いまだに持ち出して迫害されるなんて、信じられなかった。 生まれてからずっとツヴァルク伯爵領に住まうイルゼでさえ知らないのだから……。 否、自分が知らないだけか。 だが、外との交流があるヨハンもリンダも一度も口にしたことがない。つまり、皆ろくに知らないのだろう。 杞憂するのは、学がある者か、遠い昔話に詳しい老人くらいに違いない。 王宮側だって、そんなことは大して気にしないはずだ。 何せ、国が現在の領地程度に狭かった時代は、日常的に戦が起こり、各々が領地拡大に|躍起《やつき》になっていた。そうして勝者が敗者を吸収し、幾度も繰り返して現在の王国が成り立っている。 領地も保たぬ山岳の騎馬民族、シュロイエもその歴史の一部に過ぎない。 しかし、そんな民族がいたなど本当に知らなかった。 イルゼは深いため息を吐き、ぼんやりと項を眺めること|幾許《いくばく》か……途端にハッと目を|瞠《みは》った。 ふと、脳裏に「川底の歌」の歌詞が浮かんだのだ。 ──星の瞳を持つ者は夜風に駆け
Last Updated: 2025-12-21
Chapter: 第37話 埃の図書室、本に挟まれた秘密メモ 現在イルゼがいる場所は、城の東側。塔の真下にある図書室だった。 こぢんまりとした空間だが、背の高い本棚がぎっちりと並んでおり、その中も所狭しと本が詰まっていた。 見たところ古い本が多い。真新しいものもそれなりにあるが、殆どの見出しが色褪せていた。しかし、なぜに一人で図書室の掃除をしているのか。その理由は、昨日ミヒャエル本人に直々に頼まれたからだ。 ────重要な文献なんて置いていないけれど、どうにも使用人たちは入りにくいらしい。たまに俺が日干しに行くけれど、結構埃が積もっている。悪いが、お願いできるか? と、そのような旨の書かれた手紙を渡されて、イルゼはすぐに快諾した。 炊事の下ごしらえに洗濯に掃除と使用人の仕事は山のようにある。とはいえ、掃除に関しては、一日ですべてを終わらせるわけではないそうだ。 何やら、掃除箇所を数日に分けて回しているらしい。 しかし、自分が加わったことによって確実に効率が良くなったのだろう。循環があまりに早く来ることから、メラニーも戸惑っていた。 さすがに使用人たちの仕事を余計に奪うのは良くないと思えたので、イルゼは彼のお願いが丁度良いと思った。 けれど本当に、図書室は掃除をしていなかったのだろう。インクに埃とカビの臭いが混ざっており、部屋に踏み入った時は思わず鼻を摘まむほどだった。 すぐに換気をしたが、染みついているので臭いは簡単に剥がれない。 それでも、さすがに数時間もいれば慣れてしまう。イルゼははたきを持ち、脚立によじ登って再び本棚の上の埃を払い始めた。 そうして、|幾許《いくばく》か。 本棚の上の掃除を終えた頃には壁掛け時計の針が丁度午後五時を示していた。あと二時間ばかりで夕食の時間となる。 まだ日も沈んでもいないので、六時くらいは粘ろう。 やり切れなかった分は明日に回せば良い。そう思って、イルゼは本棚の中の掃除を始めた。 とりあえず、面倒臭そうな分厚い文献が詰まった棚から始めることにした。 一冊如き大した重量でないが、二冊三冊と欲張って持
Last Updated: 2025-12-20
Chapter: 第36話 温かなカップと乳母の寡黙な瞳 六月上旬。初夏に差し掛かり、すっかり日の入りが遅くなった。 現在午後四時に差し掛かるが、いまだに太陽は煌々と輝いており、イルゼは額に滲み出た汗を拭い、窓の外を眺めて一つため息をつく。 城に来て、早いこと一ヶ月が経過した。 あれ以降、イルゼは部屋の外へ出るようになり、メラニーにぴったりくっついて歩き、使用人の手伝いをこなすようになった。 そうして彼女と深く関わるうちに知ったが、メラニーの掃除技術はイルゼの予想を遥かに超えていた。 身のこなしが軽く、手際が抜群に良い。 高い窓の掃除も何のその。華奢な体で壁に指をかけ、腕力と脚力だけでよじ登り、難なく埃を払う。 どう見ても細い腕に、そんな力が宿っているとは思えない。そんなギャップにイルゼは毎度驚かされている。 ……それ以外で驚かされたのは、ミヒャエルからの手紙を渡す時だ。 最初こそ素直に手渡しだった。 だが最近、イルゼが気づかぬうちにディアンドルのポケットへ滑り込ませるのである。 最初は手品かと思った。けれど、それはすれ違いざま、指先が一瞬だけスカートの布を掠めるだけ。そして次の瞬間、ポケットに手紙が入っているのだ。 ミヒャエルからの手紙がない日は、包み紙にくるんだ飴玉やヌガーが入っていることもある。「いつ入れたでしょうか?」と、メラニーはにやりと笑って当てるゲームを始める。 ほぼ毎日のやりとりだが、いまだに一度も当てたことがない。 決してぼんやりしているわけではないのに、本当にいつ入れたのかわからない。 とんでもない技術だ、とイルゼは素直に感心していた。 そんなメラニーを含めて、城内で働く使用人は四人だけだ。 彼女の兄──ヘルゲとザシャとは、もうすっかり顔見知り。二人ともメラニーと同じく朗らかで、人見知りのイルゼでも少しずつ馴染み始めている。 そして、もう一人は、調理場を担当する初老の女だった。 赤みを含んだ茶髪に白髪が交じり、紅葉を終えて
Last Updated: 2025-12-19
Chapter: エピローグ2 指輪に宿る未来、これからの時代 足音が近づき、レックスがネクターの作業部屋の前を通りかかった。母はその瞬間、すかさず彼を呼び止める。「お、何だ。ネクターの母ちゃん?」 そう言って、レックスは気軽に答えるが、その声は二年前より低く、容姿も見違える程に変わった。 かつてはネクターとほとんど変わらない背丈だったのに、今では頭一つ分も高く、スコットとそう変わらない。 工房での力仕事に加え、スコットの紹介でヒューズ社の部品工場でも時々顔を出して働くようになった。そのおかげもあって、華奢だった少年の体には筋肉がつき、随分と逞しくなっていた。 その顔立ちも、少年らしいあどけなさが消え、精悍な青年のそれに変わっていた。少し悪い顔をすれば、余計に悪人顔になったようには思うが……。 そう、あの手術以降……レックスは正しい時を取り戻し、成長を始めた。 あれから二年。彼は十八歳になった。 「……で、何か用か? ネクターも仕事が忙しそうだし、用件は早めに言ってやれな?」 軽く肩を竦めて言ったその一言に、ネクターは心の中でガッツポーズをした。 そうだ、よく言った。もっと言ってやれ。 一方の母は、そんな青年をじっと見上げ、少女のように口元を緩める。 「ねぇ、そういえばレックス君。貴方、ネクターと交際してるのよね? もう二年だっけ?」 「ああ、うん。そうだけど」 今更それが何か……とでも言いたげに、彼は小首を傾げた。 「率直に聞くけど、レックス君はネクターを完全に自分の傍に置いておきたいとか、そろそろネクターの赤ちゃんが欲しいって思わない?」 母のあまりにも直球な言葉に、レックスはこれでもかという程に目を丸くし、ネクターは顔を真っ赤にした。「ちょっ……お、お母様!? 昼間から何を言うの!」 慌てふためくネクターの声が部屋に響く。だがレックスは、不意を突かれた動揺をすぐに飲み込み、頬をかきながら穏やかに答えた。「一応、軍の精密検査の結
Last Updated: 2025-10-25
Chapter: エピローグ1 二度目の夏がやって来る あの日々から、二度目の夏が訪れていた。 ネクターは十九歳になり、少女から大人の女性へと歩みを進めつつあった。とはいえ、〝異端の女職人〟は変わらずだった。 結局、レックスの手術が終わった翌年の春に、二人は叔母の工房へと戻ってきたのである。 理由は単純だった。叔母ひとりで工房を切り盛りするには、やはり限界があったのだ。「作業の手が早いネクターと、雑務を何でもこなすレックスがいないと店が回らないのよ!」 ──だから返せ。そう言って、叔母は母に向かってどやしつけたらしい。 戻ってきてからの日常は、驚くほど以前と変わらなかった。 毎日修理に追われ、毎日納品に走る。最近は個人客だけでなく、企業からの依頼も増えており、ますます忙しくなっていた。 だが持ち込まれる品の多くは、雑に扱われて壊れたものばかりだった。 ここ数年で、生活に便利な家電も増えてきた。一般家庭にもそれらは少しずつ普及し始めているが、どうやら「機器の不具合は叩けば直る」という迷信がどこからか広まってしまったらしい。 結果、余計に状態を悪化させた機械が持ち込まれることが後を絶たなかった。「──ッ! そんなわけないじゃない! もっと機械を大事に扱えないのかしら!」 文句をこぼしながらも、ネクターは結局手を動かすしかない。 その様子を見て、レックスは「ドリスに似てきたな」などとからかって笑うのだった。 愛すべき仕事であることに変わりはない。精密機械に没頭できる日々は、ネクターにとっては何より幸せだった。困ることなど──仕事に関しては、何ひとつなかった。 ただし、困りごとは別のところにあった。「ねぇ~ネクター? 貴女、もう来年には二十歳よね? そろそろうちを継ぐ気はなぁい?」 間近から響く母の甘ったるい声に、ネクターは顔を引き攣らせて鼻を鳴らした。「ないわ。というか、ブラックバーン社の社長様が毎週こんな所で油を売っていて良いのかしら? 私、仕事が忙しいの」 いいから帰った帰った。そう言って半眼を向ければ、母は頬をぷうっと膨らませ、「
Last Updated: 2025-10-25
Chapter: 63話 振り返らぬ背に残された愛 反射的に振り向きそうになった。 だが、その瞬間、鋭く低い声が背後から響く。「……絶対に振り返るな」 重みを帯びた言葉は鋭く心臓を突き刺し、レックスは息を呑んだ。 聞き覚えのある声だった。否、五百年という途方もない時を経た今も、決して聞き間違えるはずがない。 ──アプフェル。ミッテ。 どうして彼女たちの声がここに響くのか。 ファオルは言っていた。同じ魂を持っていても、かつての記憶は残らないはずだと。ならば、いま耳にした声は幻聴か、それとも最後の奇跡なのか。 考えるより早く、視界はじわりと霞み、眦が焼けつくように熱を帯びる。 涙を堪えることなど、もうできなかった。「……フェリクス。ありがとう」 震えを含んだアプフェルの声が告げるのは、ただの感謝。 わざわざ、それを伝えるためだけに来たのか。あまりに酷い。会いたくて仕方がなかったのに、振り向くことは許されないのだから。 それでも──。 あのときの自分は、ただ仕える者として当然のことをしただけだ。 返す言葉も見つからず、レックスは黙って小さく頷いた。「聖者……いいえ、生者として生きなさい。必ず、必ず……幸せになると約束しなさい」 それは主人からの、最後の命令。 アプフェルがそう言い添えた直後、背中越しに暖かな気配が二つ重なった。 振り向いてはならない。 それでも、視界の端に映った影は、確かに茜色と黄金。アプフェルとミッテの面影が、涙に霞んで揺れていた。 頬を伝う雫の熱が煩わしくて、レックスは慌てて腕で拭った。 それでも涙は止まらない。「生きるに決まってんだろ! ……ミッテ、ボクに言ったじゃないか。生への執着を忘れるなって。たとえ一片でも希望になるからって……! 一度は投げ出そうとしたけど……でも、ボクはあの約束を守れただろ!」 嗚咽に押されるように声が迸った瞬間、荒々しくも優しい手が頭に触れた。 乱雑に髪を撫でる感触。大きく、温かな手。 ──あの頃もそうだった
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 62話 花の蜜にて不死の霊薬、その甘やかな名は その少女を思い出せない。 それが酷く悔しく、なんだか悲しくさえ思えて、フェリクス──いや、レックスは奥歯を強く噛みしめた。 胸の奥にぽっかりと穴が開いたようで、そこから大切な何かが抜け落ちていく感覚。喉の奥にせり上がる焦燥を必死に押しとどめようとしたその時、肩にとまる小さな影が小さくため息をついた。「……しょうがないなぁ、ヒントあげるよ」 羽ばたきとともに響いたファオルの声は、いつも通り飄々としていながらも、どこ か温かさを含んでいた。「〝歯車の魔女〟だ」 その言葉が告げられた瞬間、頭の中で何かが弾けた。 忘却の靄が一気に吹き飛ばされ、押し流すように記憶が雪崩れ込んでくる。 ────五百年前。 冷たい手術台に上げられ、目を覚ましたときに告げられた忌まわしい呼び名。〝生物兵器アビス〟。 使い物にならないと封印され、五百年の眠りについたこと。 やがて目覚めた自分を呼び起こした、桃金の髪をした聡明な少女との出会い。 無理やり結んだ契約。彼女を守るために権能を使った。 ──彼女は、なんと呼んでくれただろうか。『貴方のこと、レックスと呼んでもいい?』 柔らかく澄んだ声。アプフェルによく似た愛らしさを持ちながらも、より落ち着き、凛とした響きがあった。 その瞬間、彼の胸を突き破るように確信が走る。「……ネクター!」 叫び声とともに我に返ると、肩の上で羽を震わせるファオルが「おかえり」と穏やかに呟く。 レックスは震える指先を見つめながら、きょろきょろと辺りを見回した。どうして自分はこんな場所にいるのか──。だが、すぐに思い当たる。 以前ファオルが言った言葉。 「聖痕を持つ者の魂は〝還る場所〟を持つ」と。 ならば、ここはそういうことなのだ。「ちょ、ちょっと待て! 全部……色々思い出したんだが!」 取り乱す声に、ファオルは心底うんざりしたように返す。「何さ」 「これってつまり……ボク、死んだのか?」
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 61話 大聖堂にて、失われた名を探す あの後、レックスはネクターの生家で過ごすこととなった。 北南部の都市スチールギムレットにあるブラックバーン邸。そこは、レックスが王族や大貴族の屋敷で見慣れた荘厳さに決して劣らぬほどの立派な邸宅だった。 前々からネクターやドリスの所作に育ちの良さが垣間見えていたものの、いざ屋敷を目の当たりにしてしまうと──あぁ、やはり彼女たちは特別なのだと、心底納得させられる。 高い天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされ、幾重にも飾られたタペストリーには長き家系の歴史が刻まれている。重厚な階段を昇り降りするだけで、己が異邦人であることを痛感させられる場所だった。 そうして二ヶ月、三ヶ月と時が過ぎた。 日没が早まり、街に粉雪が舞い始めた頃──イフェメラ軍からレックス宛に一通の手紙が届いた。 内容をネクターに読んでもらったところ、脊髄に植え込まれた装置を取り外す準備が整ったという知らせだった。もしも手術の後も生存できれば、イフェメラ軍の保護と保証を受け、正式な国籍までも与えられるという。 だが、五百年も時を止められていた身だ。 いくら現代技術が飛躍的に発展していようとも、生存の可能性などどれほどのものか。言葉を尽くされてもなお、簡単には信じられなかった。 しかも、あの一件があったばかりだ。 あの日のように、甘言に誘われては新たな改造を施されるのではないか──そんな不安が頭を離れなかった。 だが、ネクターの母は静かに微笑み、彼の懸念を宥めるように言った。 「その心配は要らないわ。……今の軍に、そんな余裕は無いもの」 理由を聞けば、あの日の騒動に遡る。 ゴードン大佐が一般民に武力を向けたことは瞬く間に広まり、国の有権者たちが大騒ぎしたそうだ。その結果、イフェメラ軍は徹底した立て直しを迫られている最中であり、旧態依然としたやり方は決して許されぬ、と。そんな状況下にあるらしい。 「だから大丈夫よ」と言われて、レックスはようやく胸の奥から安堵を覚えた。 だが──問題は別にある。 生き残れるか否か。それこそが最大の壁だった。 最悪の結果
Last Updated: 2025-10-23
Chapter: 60話 断絶を越えて見つけた親子の絆 連絡通路を渡り、ブラックバーン社の飛行船に身を移した瞬間だった。 扉が閉まるや否や、張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、母はその場でへなへなと腰を落とし、床にしゃがみ込んでしまった。「お、お母様!?」 慌ててネクターも身を屈め、母の顔を覗き込む。 だが返ってきたのは、力なく崩れるような仕草ではなく、次の瞬間に娘を強く抱き寄せる温もりだった。 目を丸くしたネクターの耳元で、母は涙声を震わせる。「ああ……ああもう! 本当に怖かったのよ! 貴女が交渉に行って時間を稼ぐって、ドリスに急かされて、必死でここまで来たけれど……。なのに、無線で聞いたのよ。貴女があの豚に突き落とされて、海に落ちたって……!」 言葉を捲し立てる母の瞳には、今にも零れそうな涙が大粒に溜まっていた。 強い人だと思っていた。自分を突き放した冷たい母だと信じ込んでいた。──けれど今、必死に抱き締めて泣く姿は、ただの母親そのものだった。「もぅ……どうしてそんなに危ない橋ばかり渡りたがるの、この子は! 心配で……心配で……!」 そう叫んだ後、息を吸うようにぽつりと、「やっぱり魔女ね!」と憎まれ口を添える。だが、その口ぶりすらも泣き笑いに揺れ、くしゃくしゃになった顔でネクターの額や頬に幾度も口付けを落とした。 ──叔母から「切り札がある」と聞いてはいたが、まさかそれが母自身だったとは思いもしなかった。 確かに、この状況を覆せるのは母しかいなかったのかもしれない。 けれど同時に、危険を呼び寄せる立場に母を巻き込んでしまったことが、今になって骨身に沁みて恐ろしくなる。 自分は、これまで母の手紙を一度として開かず、返事さえ寄越さなかった。 嫌われ、捨てられたのだと思い込んでいた。──だが、こうして駆けつけてくれた。助けてくれた。 込み上げる思いに、ネクターは深く頭を垂れ、感謝と謝罪を口にした。 母は、少し赤い目を瞬かせ、肩で息をしながらも毅然とした声音を取り戻していた。「まったく……。可愛らしさの欠片もない反抗期の娘だって、
Last Updated: 2025-10-23
Chapter: エピローグ 火輪の花が照らす、永遠の約束 その夏の盛り。キルシュとケルンはツァール西部の地、メーヴェを後にした。 向かう先は海の向こう。西の島国、イフェメラだった。 帝都炎上から半年以上。 混乱の最中、二人の生存が世に知れ渡れば、再び騒乱の種になってしまうだろう。 それを避け為にも、静かな隠居の地を求めて、今こうして波に揺られていた。 あの日から、二人はブリギッタが治める西部領地の屋敷に身を潜め、使用人として暮らしていた。 ──キルシュに関しては、生活力に長けていた事もあり、家事において他の使用人に劣る事はなかった。 一方のケルンも、頭の回転が早く、計算や帳簿付けの手腕に優れており、領地の管理を多忙にこなすブリギッタにとって、大変心強い助けとなっていた。 だが、いくら優秀であろうと、若い恋人同士というのはなかなか隠し切れないものがある。 暇さえあればケルンがキルシュにちょっかいをかけ、彼女を膝に乗せては愛でる始末。休憩時間にはおやつを「あーん」と食べさせ合い、夜には寄り添ってバルコニーでいちゃいちゃと月を眺める。 ──つまるところ、目に余るほどの馬鹿っぷるだったのである。 そうしてとうとうブリギッタは痺れを切らし、ある日、二人を呼び出し分厚い封筒を渡した。 そこには金色の文字でこう記されていた。『使用人(仮)退職金』と……。 その額は、慎ましく暮らせば三年は生きていける程。 労働力に見合わないあまりに多すぎる退職金にキルシュが「正気?」と猛抗議をしたのは言うまでもない。「うるさいわね! 私はあんたより頭が良いのは存知でしょう? こっちは貿易で儲けのある金持ち貴族よ。黙って貰っておきなさい」 と、一蹴りされてしまったのである。 しかし、真意は後にユーリから知らされた。 「見ていて苛立つ」というのも、あながち嘘ではなかったが―― 本当のところ、ブリギッタが気に病んだのはケルンの立場だった。 存在を隠され、間引きされた筈の第一皇子。 皇帝が退位を表明した今、もし彼の存在が明らかになれば、次期皇帝の権限すら持つ可能性がある。 彼自身は「そんな器じゃない」と、謙遜していたが……だからこそ、二人がツァールに居続ける事は不安材料だったのだ。「……事実、俺たちがツァールに居るだけで、また国が揺れる恐れはある。ブリギッタ嬢の厚意に甘えよう
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 71話 二人で還る場所 ※ 永遠の夜、ナハトを討った後の記憶は、あまりにも曖昧だった。 それはまるで、どこまでも長い夢を見ていたような、静かでゆらゆらとした時間だった。 ──きっと、自分は死んだのだろう。キルシュは、そう理解していた。 視界は真っ黒に塗り潰されて、どこにいるのかも分からなかった。 意識だけはしっかりとあるのに、目は見えず、声も出せず、身体も動かせなかった。 ただひとつ、分かっていた事がある。 まるで凪いだ水面をたゆたっているような、静かで優しい感覚。 母親の胎内の記憶がもしあるなら、きっとこんなだろうなとでもいった感覚だ。 それでも確かだったのは、自分の手が誰かの手と固く繋がれていた事だった。 無骨で温かく、どこか懐かしい手のひら。 目に見えなくとも、声が聞こえなくても、それがケルンの手だと、キルシュには分かる。『もう離さない、ずっと一緒』 声が聞けずとも、そう言われているような気がしたのだから。 それだけで、どこか安心できて、怖さは不思議と感じなかった。 けれど──夢から目覚める直前、キルシュはクレプシドラの声を聞いた。『我は未熟な神故に、変則的な使徒を二つも留め続ける事はできない。……だが、お前たちの生を強く望む者がいる。再生の聖痕と、芽吹きを支える光の聖痕を引き換えに、お前たちをあるべき場所へ還そう』 そんな言葉だったと、ぼんやりと思い出す。 そして、どれほどの時が過ぎたのかも分からぬまま──キルシュは誰かの声に呼び戻されるように、ゆっくりと意識を取り戻した。 目を開けた時、そこは見覚えのない部屋。 そして、目の前では散々自分をいびってきた筈のクラスメイトが、大粒の涙を溢して抱きしめていたのだ。 それはまるで、夢の続きを見ているようだった。 けれど、現実は確かに動いていた。 帝都は本当に炎に包まれたのだと知らされた。──あれから、もう半年が経っているらしい。 自分は、西部領地
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 70話 徒花は、冬の果てで再び咲く 書き物机に向かい、帳簿に向かうブリギッタは深いため息をつきながら、眉間を揉む。 帝都炎上からというもの、女貴族たちは皆、忙しない日々を送っていた。 本来、ツァールの女貴族の務めといえば──花を愛で、刺繍に親しみ、教会での慈善バザーに顔を出す事。特に何もせずとも聡くある事。これが仕事だ。 けれど、帝都が崩れて以来、領主である男性たちはみな帝都の復興の為に出向き、留守を預かるのは女たちとなった。 しかし、女手さえ足りていない領では、聖職者や名門家が代わりに政を担っているとも聞く。 ──それでも、やはり「学識こそ宝」と教えられてきたのは間違いではなかった。 計算ができる事が幸いし、数字に纏わる事務作業をそつなくこなせる事で、今の自分をどれほど助けているか。 だが、問題は量だった。 支援物資、避難民への義援金、それらに関する出納帳が山積みとなって、日が暮れても帳簿の終わりは見えなかった。 (……さすがに、くたびれるわね) ブリギッタは癖も無い青肌色の髪をくるくると指に絡めながら、暗算に集中していると──バタン、と扉が荒々しく開く音がして、思わず眉をひそめる。 見なくても誰が入って来たか分かる。 乱れた金髪に碧眼、息を切らしながら駆け込んできたのは──帝都からともに逃れてきた南部辺境地・ヴィーゼ伯爵家の使用人、ユーリだった。 「ブリギッタ嬢、大変だ!」 彼はまるで火急の知らせでもあるかのように声を張り上げる。 ──彼とは、帝都崩壊の最中に知り合った。学院で負傷したブリギッタを、キルシュの命を受けて、メーヴェの領地まで送り届けてくれた恩人だ。 その後、帰郷するように言ったものの、彼は「神堕ろしの証人」だと語り、南部への帰還をためらった。 恩義と恐れ。そのどちらもが彼の胸にあったのだろう。結果、彼は西部に留まり、屋敷の雑務を手伝ってくれていた。 まして、現在は、宗教改革が起きて、南部辺境地はまさに今騒動の渦中に置かれている。〝帰りた
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 69話 名もなき祈りは今も冬に眠る 推定死亡者数、八百人以上。 行方不明者、およそ千名。 帝都炎上から、半年。ツァール帝国は初夏の日差しが差し込んでいた。 だが、国全体はいまだに揺らいだまま。 ツァール聖教、そして国の統治そのものが、足元から崩れていった。 国教は邪教崇拝だった。 聖職者たちや諸派の上位に就いていた者たちが次々と、自らの罪を告白し懺悔を口にした。 その中心に立っていたのは、南方辺境を治める辺境伯イグナーツ・ヴィーゼである。 彼が従っていたという《蝕(エクリプセ)》と呼ばれる諸派は、一般にはほとんど知られていなかった。 それは、まるで富裕層だけが入会できる会員制組合のように、水面下でひっそりと活動していたという。 彼らは語った。 来るべき戦乱と国の衰退を見越し──能有りたちを生贄に〝神堕ろし〟という、悍ましい儀式に手を染めたと。 その結果として、帝都に現れた禍々しき機械仕掛けの偶像が現出したのだと、イグナーツは語った。 信じ難い話ではある。 だが、目の当たりにした人々の多さが、疑念を打ち消した。 更には、その信憑性に拍車をかけたのは、皇帝陛下自身の懺悔だった。 ──陛下は、第一子が能有りであった事から、精霊返しを行っていたと、衆目の前で告げたのである。 ……その子息が、生きている事を知り、機械仕掛けの偶像の器に捧げたのだと。 更に、過激諸派《蝕》の支援を行っていた事も……。 邪教に手を染め、罪の無い犠牲を多く出した。もはや、この国の上に立つ資格は無い。 陛下は事態が落ちつき次第、退位を宣言した。 だが、災いを呼んだ《蝕》、更にはそれを支えた皇帝すら裁ける者は、もはやこの国に存在しなかった。 なぜなら、誰もが同じく邪教に呪縛され、盲信の果てにあったからだ。 洗脳が解けた今となっては、皆が等しく同じ立場に違いない。 帝国性は廃止となるだろう。公国となる
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 68話 永遠の夜に咲く火輪の花 片や、正面からナハトに対峙したキルシュは、うつむきながらも小さく笑い出した。 「ねぇ……頭が悪い私が言うのもなんだけど、憎悪の神って随分と知能が低いのね? 貴方、私の本当の願いをまるで見抜けてない。私は彼の教えてくれた《希望》だけは、絶対に忘れられない」 ──だから、私は貴方に《心》なんて渡さない。 強く言い放ち、顔を上げたキルシュは、瓦礫の上に倒れていたファオルに鋭い視線を投げる。 「いつまで寝たままでいるの! 甘えないで! あなたの目と耳は、今まで何を見て、何を聴いてきたの? 私とケルン、二人分の信仰と《心》じゃ、まだ足りないのかしら!」 ──目覚めなさい、クレプシドラ! キルシュの叫びに応えるよう。ファオルの身体がまばゆい金の光に包まれ、渦巻く粒子がひとつの人影を形づくっていく。 『我は未熟で、不甲斐ない神。だが、その声は確かに聞き届けた』 厳かだが、どこかファオルに似た子どもの声だった。 やがて光が晴れると、翠の髪と黄金の瞳を持つ、小さな人の姿が現れた。 白を基調とした短いローブには、繊細な金の幾何学模様が縫い込まれている。耳にはファオルの瞳に似た赤い飾りが揺れ、胸元には金の砂が詰まった砂時計──それが、刻を司る神・クレプシドラだった。 ──亡きツァイト王国で信仰されていた古の神。男とも女ともつかない、まるで人形のように愛らしい子どもの姿をしていた。 「この国なんてどうでもいい。でも、罪もない人たちが苦しむのはもう嫌。未来には希望がある筈。憎悪を、闇を、私は打ち砕きたい」 ──その加護を、私に。……《心》は、二つじゃ足りないの? 問いかけるキルシュに、クレプシドラは静かに首を横に振る。 『加護は与えられる。だが、おまえは生きた人間だ。己の《心》を我に委ねれば……その身体は持たぬ。しかも我が身の一部、《聴く者》の願いは──』 途端にクレプシドラの耳飾りは赤々と光った。 これがファオルの本当の姿なのだろう。 きっと『自己犠牲などしないと言ったじゃないか』と言っているような気がした。 ファオルの泣きじゃくる声が自然と頭に過る。 それを悟ったキルシュは、クレプシドラに歩み寄り、赤い耳飾りに唇を寄せた。 「馬鹿ね。私だって自己犠牲なんてくそくらえよ? ただ、こんな迷惑な邪神を野放しにしておきたくな
Last Updated: 2025-07-19
Chapter: 67話 六万五千の刻を超えて 直後、機械仕掛けの偶像は、花びらが舞うようにキラキラと光に還っていった。 残されたのは、彼──ケルン自身。 侵蝕はすでに深く進んでいたものの、人の姿を取り戻した彼は、釣り上がった黄金の瞳を細め、無骨な腕でそっとキルシュを抱き寄せる。 「キルシュに、最後のお願いがある。……俺の《心》を全部、貰ってくれないか。ひでぇ事、言ってるのは分かってる。これが最後の我が儘だ……その先、別の誰かと結ばれたっていい。でも俺、キルシュにだけは、忘れられたくない」 どこで息をしているのかも分からない、消え入りそうな声だった。 彼は、何度もキルシュに謝罪の言葉を繰り返した。 キルシュは、彼の手を強く握りしめ、何も言わずに頷いた。 拒む理由が見当たらなかった。 否、受け入れるべきだと、はっきりと思えた。 これが運命で、これが生きる意味なのだと……。 キルシュは、か細い息を上げる彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。 もう力が残っていないのだろう。彼はただ、やんわりとキルシュの唇を食む。 その瞬間──キルシュの脳裏には、夥しい彼の記憶が一気に流れ込んできた。 ──レルヒェの市場へ使いに出た少年時代。 盗みを疑われた彼を庇ってくれた、茜髪の小さな少女がいた。 子供たちの中で一番のチビ。強気なくせに、すぐ泣いてしまう。 その少女の名は、熟れた桜桃を思わせる茜色の髪にふさわしく、キルシュといった。『ケルンに意地悪しないで!』 稚い声で泣き叫んだあの日から、彼は彼女に惹かれていた── 素直で、純粋で、笑った顔が格別可愛い。そんなキルシュが初恋だった。 時を経て、礼拝堂のステンドグラスの下で、永遠の友情を誓い合い、未来では恋人として生き、必ず守ると誓った事。 運命に引き裂かれたあの日の、底知れぬ絶望と憎悪。 啓示として渡された未来の断片……自ら選んだ運命の事。
Last Updated: 2025-07-17