Mag-log in殺人犯の娘・イルゼは、義兄の庇護で外の世界から隔離され、孤独に暮らしていた。 しかしある日──義姉の理不尽ないびりで髪を切り落とされ激昂したイルゼは、肉切り包丁を振り回し、意図せず義兄を傷つけて絶望の淵へ落ちる。 そこで手を差し伸べたのは、悪しき噂が尽きぬ「猟奇領主」ミヒャエルだった。 背中に残る傷、銀に変わる瞳──領主の秘密をイルゼは知る。 領主は、かつてイルゼが激流を望む崖の上で救った“自殺志願者の少年”だった。 「ねぇローレライ。歌ってよ」 孤独を抱えた二人は、不器用に寄り添い距離を縮める。 やがてイルゼは彼からの執着的な愛に溺れ、初めての“幸せ”を見つけるが……。 ヒストリカル×狂愛執着ロマンス。
view more まるで厚い
朝、ベッドは冷たく、部屋に残るのは母の匂いだけ。
父は酒をそして、数年後。再婚した父が殺人容疑で捕縛されたとき、前妻──イルゼの母の殺害を吐露したのであった。
その遺体は、大雨の日に崖から川に投げ捨てたと……。 (お母さん、私……私は……) 殺人犯、トビアス・ジルヒャーの娘。 イルゼ・ジルヒャーはその日、大きな罪を犯した──またリンダだろうか……。否、今度はメラニーか。それか、迷い込んだ街の人か。 イルゼが顔をやれやれと上げると、そこにはルードヴィヒの姿があった。「イルゼ、ここにいたの?」 ──人疲れ? なんて戯けて言われるので、戸惑いつつ頷くと、「だろうと思った」と悪戯気に笑んで彼は近づいてきた。「あれ。ルイは仕事じゃないの?」 「少し気晴らし。別に急ぎでもないしさ。イルゼが庭園に行ったってメラニーが言ってたら来たけど……人多すぎて俺も疲れたわ」 だって、みんな話しかけてくるし……。 唇を尖らせて言うものだから、そんな仕草が少しばかり可愛く思えて、イルゼはクスクスと笑んでしまった。「領主様がそれじゃ困るでしょ? これから、もっと人が多い場所に顔を出すのでしょうし」 そうして、二人は他愛のない会話を交わし、互いに微笑んだ。 それから暫く──ルードヴィヒはどこか緊張した面持ちでイルゼを見た。「イルゼ、ちょっと真面目な話がしたいんだけどさ。少し立てる?」 いつになく真剣な口調に、イルゼの胸が小さく跳ねた。 どうしたのだろうか──戸惑いつつ立ち上がると、彼は優しくイルゼの手を取り、その場でゆっくりと片膝をついた。白銀の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。 薔薇の香りが風に乗って漂い、二人の間を優しく包む。「イルゼ……俺の生涯を、君に捧げたい。君を幸せにすることを、心の底から誓う。どんな闇からも、どんな痛みからも、精一杯守る。俺は未熟な領主かもしれないけど、この地をしっかり治めて、君と温かい家庭を築きたい。君の笑顔を、毎日見ていたい。だから、どうか……」 ──俺と、結婚してくれ。その言葉に、イルゼは息を飲んだ。 まさか、今この瞬間に言われるとは思わなかった。 いつかそのつもりだと言っていたのに、心のどこかでまだ遠い未来のように感じていた。 頰が熱くなり、視界が潤む。 ぽかんと口を開けたまま、言葉が出てこない。彼は少し不安げに、でも優しく目を細めて微笑んだ。「イルゼの返事、聞きたいな」
突然声をかけられて、イルゼは慌てて顔を上げようとしたが、すぐに躊躇った。 予想だにしない人物からの声だからだ。 忘れもしない。この癪に障る甘ったるい喋り口調は義姉リンダのものに違いない。 恐らく自分だと認識していないだろう。 しかし──「ちょっと、ねぇ大丈夫……誰か呼んだ方が良いかしら?」と肩を揺すられてしまい、観念してイルゼが顔を上げると、お仕着せのドレスを纏ったリンダが目を丸く開いて口を開けて突っ立っていた。 扇情的で毒々しい印象しかなかった義姉だが、どうにも化粧も薄くなったせいか、幾分か幼く見える。それに、お仕着せが妙に似合っている。「大丈夫ありがとう。どこも悪くない」 とりあえず短く答えると、彼女は非常に気まずそうに俯いた。「ねぇ……貴女、今ちょっと良いかしら?」 都合は悪くないか、具合が悪くないか。と、今一度、真面目な口調で聞かれて、妙に緊張が走った。 あの事件の後、手紙を寄越されたが、イルゼは返事を書いていなかった。 それどころか、使用人たちの計らいで鉢合わせを避けるため、リンダとは会わぬようになっていた。「……大丈夫」 緊張しつつ答えれば、彼女は小さく頷いた。「……その。兄の指示とはいえ、髪の毛を切り落としたこと。あれだけはずっと謝りたかったわ。肉切り包丁を振り回したっておかしくないとは思う」 そう言うなり、リンダは頭を下げる。 「私は、母親を貴女の父親に殺された行き場の無い怒りを、あなたにぶつけ、腹いせに利用し続けたわ。貴女と父親は違うって分かっていたのに……本当に、ごめんなさい」 その謝罪に、イルゼは困却した。 手紙でも聞いていたが、あまりにも今更な言葉だ。 それに髪を切られた件においても、一年が経過したので、すっかり後ろ髪も肩を越すほどに伸びている。だからもう、これ以上語る言葉なんて無いというのに。「髪は…
……そう、ツヴァルクの領主は変わったのだ。 前領主、ミヒャエル・ツヴァルクが死去したことにより、彼の異母兄弟であるルードヴィヒ・ツヴァルクが領主となったのである。 あの後、彼は身代わりであったことを王宮に明かした。 下手をすれば詐欺罪や不敬罪などに問われる恐れもあったが、彼は瞳の色も変えずありのままの自分で侍従たちを連れ、王宮に向かい、国王にこれまでをすべて話した。 だが存外、国王は寛容だったらしい。 そのもっともな理由は、彼の父に当たる前領主よりも、彼の方が領地を上手に切り盛りしていることや、領地の財政が安定していて素晴らしいとの評判が高かったからだ。 そうして、彼は正式に爵位を継ぐ形となった。 それから領地に戻って数日後── ルードヴィヒは初めて領民たちの前に立ち、ミヒャエルの死を伝え、今まで彼の名を借りて領地を治めていたことを発表した。 王宮では承認されても、領民には反発されることも覚悟していたそうだが……気にしていないのは領民も同様で、反発する者は誰一人としていなかった。 また白銀の瞳も、誰も触れることもなかった。 そう、案の定──野蛮で残忍な騎馬民族シュロイエというのは遠い過去の話。覚えているものなどそう残っていなかったのだ。 むしろ、彼は領民から感謝されていた。 奇人変人の猟奇領主と散々に噂になっていたものの──所得の多い者に税を増やし、少ない者には軽くする。そして、領地整備などの意見もすぐに取り入れるなど、彼のやり方や税金の使い道を誰もが納得していたのだ。 むしろ皆、群衆の前で姿なんて出しもしない領主がようやく顔を出しただけでも嬉しいと活気づいていた。「猟奇領主だなんて、あんな噂は嘘だったじゃないか。有能な領主様だ」「なんであんな噂が広がったのやら。確かに俗っぽさや癖があるが、賢い青年だったよ」 そんな評価ばかり広がったのである。そもそも、病弱と言われたミヒャエル様がこうまでして領地を取り仕切ることは難しいと考えていたそうで、「本物か」と噂になっていたら
──それから、一年の月日が巡った。しかし、この一年の間で本当に様々なことが起きたものだと、薔薇園の迷宮の果てにある東屋で休憩するイルゼは頬杖をついて反芻する。 陽光が柔らかく差し込み、薔薇の甘い香りが風に乗って漂う。外は随分と賑やかだった。老若男女の話し声が多数響き、子どもたちの笑い声や驚きの歓声が混じり、それだけでなく鶏の元気な鳴き声までするのだ。庭園が一般開放された今日、訪れた人々が花々を眺めたり、鶏に餌をやったりと、活気に満ちている。 イルゼはこの一年、変わらず城に留まり続け、ルードヴィヒの隣部屋で暮らしていた。 穏やかな朝の光が差し込む部屋で、彼の寝顔を覗き見るのが日課になったり、夜には一緒に夕食を囲むのが当たり前になったり──そんな小さな幸せが積み重なった一年だった。あの事件の後、イルゼは使用人たちの協力のもと、すぐに養鶏業を畳んだ。 日常が切り離されたことはどこか寂しかったが、皆が優しく手伝ってくれた。 当然、家に戻って暮らすことも考えたが、「こんな寂れた場所で女の子が一人暮らしなんて危ないし、ここに住んでていいから」とルードヴィヒに言われてしまったのである。 彼の声はいつものように気怠げだったが、瞳の奥に本気の心配が宿っていた。それに逆らえず、イルゼは頷いてしまった。 とはいえ、何もせずにただで住むのは申し訳ない。 手持ち無沙汰に、メラニーに「仕事がしたい」と頼んだが、彼女は首を横に振るばかり。「イルゼは他にやることがこれからあるわ」と、優しく諭されるだけだった。 そして……数日後にイルゼのために呼ばれたのは、精神科医ではなく、今度は淑女教育の講師だった。 お茶のマナーに刺繍、歌の稽古、ダンスの稽古など。優雅なティーカップの持ち方、針を運ぶ繊細な手つき、伸びやかな歌声、優美なステップ──まるで貴族の娘のような教育に、ますます意味が分からない。 困惑したイルゼは、自室で仕事をするルードヴィヒに問い詰めたのである。