罪の鎖に繋がれた没落令嬢は猟奇領主の執愛に溺れる~ローレライの夜想曲~

罪の鎖に繋がれた没落令嬢は猟奇領主の執愛に溺れる~ローレライの夜想曲~

last updateDernière mise à jour : 2026-02-14
Par:  日蔭スミレComplété
Langue: Japanese
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殺人犯の娘・イルゼは、義兄の庇護で外の世界から隔離され、孤独に暮らしていた。 しかしある日──義姉の理不尽ないびりで髪を切り落とされ激昂したイルゼは、肉切り包丁を振り回し、意図せず義兄を傷つけて絶望の淵へ落ちる。 そこで手を差し伸べたのは、悪しき噂が尽きぬ「猟奇領主」ミヒャエルだった。 背中に残る傷、銀に変わる瞳──領主の秘密をイルゼは知る。 領主は、かつてイルゼが激流を望む崖の上で救った“自殺志願者の少年”だった。 「ねぇローレライ。歌ってよ」 孤独を抱えた二人は、不器用に寄り添い距離を縮める。 やがてイルゼは彼からの執着的な愛に溺れ、初めての“幸せ”を見つけるが……。 ヒストリカル×狂愛執着ロマンス。

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Chapitre 1

プロローグ 私を呪う血の音

 まるで厚い硝子がらすをひとつ隔てて音を聞いているかのよう。大嫌いな女の耳障りな悲鳴は、彼女の耳にどこか遠く、底冷えする水底から響くように届いていた。

 それは視界も同じだった。

 すべてが色彩を失い、ぐらりと歪み、四隅が血の色に滲んでいく。空気は重く、肺に絡みつくような粘り気を帯び、息をするたびに鉄の匂いが鼻腔を刺した。

 地面に散った家畜の餌──湿った麦と豆が土に混じり、踏みつけられてねばつく。そこへ鶏たちが、羽をばたつかせながら騒ぎ立てる。羽音と鳴き声が脳裏に反響し、鼓膜を震わせた。

 そして、罵倒と悲鳴を同時に吐き散らしながら逃げ惑う、下品なほど派手な装いの女。黒地の衣服が泥にまみれ、裾を引き裂かれながら這う滑稽な姿が、視界の端で蠢く。

 ──あぁ、目障りだ。大嫌いだ。こんな女のために私は。

 どうして私ばかりが我慢し、嫌な思いをし、胸の奥を抉られるような苦しみを味わい続けなければならないのだ。どうして、こんな立場に追いやられねばならないのだ。〝私自身〟が何をしたというのだ。

 どうして、どうして、どうして!

 これまでに、これほどの強い怨嗟えんさと殺意を抱いたことがあっただろうか。

 肉切り包丁を握る手が、汗で滑る。刃は鈍く光り、指の関節が白くなるほど力を込めた。

 彼女──イルゼ・ジルヒャーは、川底のように暗く澱んだ双眸そうぼうで、逃げ惑う女を捉えて離さない。瞳の奥に、復讐の黒い炎が揺らめいている。

 取り返しのつかない行為をしているのは分かっている。けれど、自分でも、この激情はもう止められなかった。

 喉の奥がひどく熱く、唾液が鉄の味を帯びていた。心臓がひどく荒く脈打ち、耳の奥で耳鳴りが鳴り響く。

 日々の罵倒。度を超えた意地悪の数々。そして今日は、唯一の誇りである大切な髪を、根元から無造作に切り落とされた。

 そのすべては、何年も昔、父が殺人を犯したという理由で。

 この女──義姉の母親を、父が殺してしまったという理由で。

 ──蛙の子は蛙。

 あの父親と同じ血が流れていること自体、吐き気を催し、胃の底がねじれるような嫌悪で胸が締め付けられる。けれど、もう、この激情は止められそうにない。

 許せない。許せないから殺してしまいたい。許せないから壊してしまいたい。

 ああ、神様どうか、私に最後の情けを。そして幸運を。

 そんなふうに心の奥底で、血の味のする祈りを捧げたその瞬間だった。

 ぐらぐらと揺れた赤く歪んだ視界の先──義姉が石に足を取られ、地面に転んだ。

 膝が泥に沈み、両手で這いながら悲鳴を上げる。その白い喉が震え、涙と泥が混じって頬を汚す。

(ああ、神様は私を見放さなかった……)

 どこか安堵した面持ちで、唇に甘い微笑みを乗せ、イルゼは肉切り包丁を振り下ろす。

 双眸そうぼうにとらえた義姉の青ざめた怯えに歪んだ顔。震える肩が、まるで小鳥の翼のように小さく跳ねる。

(ああ、いい気味だ)

 刹那──つんざくほどの耳障りな悲鳴が響き、視界の端に赤々とした鮮血が飛び散った。

 その瞬間、イルゼの脳裏にふと浮かぶのは、誰よりも大好きだった唯一の母の姿だった。

 イルゼと同じ豊かな金の髪。川の水面のような青い瞳。

 父にどやされれば、真夜中に家を抜け出し、崖の上から川を眺めて歌う母。

 涙は流しても、ここで苦しみを歌にして叫んでしまえば、川の流れの音がすべてを呑み込んでくれると。

『人生ってとても苦しいときもあるけど、素晴らしいものだと思うわ。私はイルゼのお母さんになれた。それだけで幸福なの。今は辛い状況だけど……前を向いて生きていけば大丈夫。イルゼはきっと幸せになるのよ』

 ──いつか、お父さんだってきっと〝もとの優しいお父さん〟に戻るわ。

 そういって笑う顔が、ぼんやりと浮かぶ。

 前を向いて歩んでいけば、きっと幸せに繋がっている。

 いつも気丈にそう語っていた、そんな母はある日、行方不明になってしまった。

 朝、ベッドは冷たく、部屋に残るのは母の匂いだけ。

 父は酒をあおり、イルゼは母の枕を抱き締めて泣いた。   

 そして、数年後。再婚した父が殺人容疑で捕縛されたとき、前妻──イルゼの母の殺害を吐露したのであった。

 その遺体は、大雨の日に崖から川に投げ捨てたと……。

(お母さん、私……私は……)

 殺人犯、トビアス・ジルヒャーの娘。

 イルゼ・ジルヒャーはその日、大きな罪を犯した──

 

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プロローグ 私を呪う血の音
 まるで厚い硝子をひとつ隔てて音を聞いているかのよう。大嫌いな女の耳障りな悲鳴は、彼女の耳にどこか遠く、底冷えする水底から響くように届いていた。    それは視界も同じだった。  すべてが色彩を失い、ぐらりと歪み、四隅が血の色に滲んでいく。空気は重く、肺に絡みつくような粘り気を帯び、息をするたびに鉄の匂いが鼻腔を刺した。    地面に散った家畜の餌──湿った麦と豆が土に混じり、踏みつけられてねばつく。そこへ鶏たちが、羽をばたつかせながら騒ぎ立てる。羽音と鳴き声が脳裏に反響し、鼓膜を震わせた。    そして、罵倒と悲鳴を同時に吐き散らしながら逃げ惑う、下品なほど派手な装いの女。黒地の衣服が泥にまみれ、裾を引き裂かれながら這う滑稽な姿が、視界の端で蠢く。    ──あぁ、目障りだ。大嫌いだ。こんな女のために私は。    どうして私ばかりが我慢し、嫌な思いをし、胸の奥を抉られるような苦しみを味わい続けなければならないのだ。どうして、こんな立場に追いやられねばならないのだ。〝私自身〟が何をしたというのだ。    どうして、どうして、どうして!    これまでに、これほどの強い怨嗟と殺意を抱いたことがあっただろうか。  肉切り包丁を握る手が、汗で滑る。刃は鈍く光り、指の関節が白くなるほど力を込めた。    彼女──イルゼ・ジルヒャーは、川底のように暗く澱んだ双眸で、逃げ惑う女を捉えて離さない。瞳の奥に、復讐の黒い炎が揺らめいている。    取り返しのつかない行為をしているのは分かっている。けれど、自分でも、この激情はもう止められなかった。  喉の奥がひどく熱く、唾液が鉄の味を帯びていた。心臓がひどく荒く脈打ち、耳の奥で耳鳴りが鳴り響く。    日々の罵倒。度を超えた意地悪の数々。そして今日は、唯一の誇りである大切な髪を、根元から無造作に切り落とされた。    そのすべては、何年も昔、父が殺人を犯したという理由で。  この女──義姉の母親を、父が殺してしまったという理由で。    ──蛙の子は蛙。  あの父親と同じ血が流れていること自体、吐き気を催し、胃の底がねじれるような嫌悪で胸が締め付けられる。けれど、もう、この激情は止められそうにない。    許せない。許せないから殺して
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第1話 夏の夜に出会った傷だらけの少年
 ──紺碧の夜空に、白銀の星々。  川のせせらぎの響く夜の崖から望む景色は、大好きだった母とその歌声を自然と思い出す。  母が消え去ったあの日から、イルゼは不安になるたびにこの崖に足を運んでいた。   『もし、歌を歌ってるのを誰かに見られたらどうするの?』    夜にこんな場所で歌を歌っていたら、きっと変な人だと思われちゃう。  そんなふうに訊けば、母は微笑み──   『〝私は、ローレライ〟って名乗るのはどう?』  なんて、悪戯気に笑った。    ローレライとは、この切り立った崖そのものを現すが、同時に、歌声で船乗りを惑わすセイレーンの一種と言われている。  謂わば、歌声を武器とする、女の怪物だ。   そんな母の喩えは、何だか少し滑稽で、イルゼはほんのりと微笑んだ。    しかし、ここは森の中の切り立った崖の上。人なんて来るはずもないと思ったが──母が消えた翌年の夏。嵐が過ぎた夏の夜、黒髪の男の子がやって来たのだ。    容姿からするに、イルゼより少し年上と思しい。  髪は脂気を失ってぱさぱさとしており、体躯は細く、まるで骨と皮。その所為で目元がやけに際立っていた。    その瞳は、優しげな垂れ目だった。  印象深いのは、淡い色彩の瞳。  月明かりの下でははっきりしないが、この国の人々の目色からすれば、アイスブルーだろうと想像できた。 イルゼの住まうツヴァルク領は、王国の外れ。とても辺鄙な場所にある。この領地はとても狭く、住人も少ない。  そうとなれば、歳の近い子どもの顔は、大抵覚えているが……イルゼはその男の子にまったく見覚えがなかった。    酷い折檻でも受けたのだろう。彼のボロボロの衣類から覗く四肢は痣だらけ。  その様から、彼がここへ来た理由は穏やかな理由でないと、幼いながらでも、簡単に想像ができた。  ──きっと、この断崖絶壁から濁流に身を投げようとしているのだろう。    そう悟って、イルゼが歌を止め彼に詰め寄ると、立ち止まっていた彼はガタガタと歯を鳴らして怯えきった相好でイルゼを見る。   「君、誰……! 何してるの! 今、真夜中だよ! ねぇ、君はオバケなの?」    彼は今にも泣き出しそうな声で訊く。  そんな反応され
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第2話 一族の汚点、絞首台の父の娘
 喧しく憂鬱の朝が今日も始まった。 イルゼは気怠い身体を引き摺るようにベッドから起き上がる。  随分と年期を重ねたボロボロのクローゼットを開くと、埃とカビでも混ぜたような不快な臭いがする。クローゼットの中はガラガラだ。 吊されているものは、ヴァレンウルム王国の民族衣装──ディアンドルが五着ほど。 しかし二着は酷くボロ。穴の開いた部分を端切れで縫い合わせており、非常にみっともない。残り二着に関しては状態も良く綺麗だが、丈が少し長くて寸法が合わないもので……。  イルゼは顔をしかめつつ、綺麗なディアンドルを一着取り出してもそもそと着換えを始めた。 そうして着換えを済ませると、彼女はボロ屋敷を出て、屋敷の裏手にある鶏舎へと向かう。  そこには既に、焦げ茶髪の男の姿があった。 今日はきっと自分の方が早いだろうにと思ったが、本当にどれだけ早起きか。否、ろくに眠っていないのかもしれないが……。  イルゼは少し困った顔で彼の後ろ姿を見て間もなく。視線に勘付いたのか、彼は振り返ってやんわりと笑む。 「イルゼおはよう」「……おはよ。義兄さん」  抑揚の乏しい口調で挨拶し、イルゼはバケツに穀物の滓をたんまり入れて鶏舎の中に入って行った。  ──イルゼの母親が死者とされて数年後。父親は再婚した。 父は歳の割にはそこそこ外見も良く、外面だけは良かった。 酒に溺れているようには見せず、働くフリなんかお手の物。母が居なくなってからというものの、父は非常に狡賢くどうしようもない人間に成長した。  表向きには優しく穏やかな顔を装っていたが、その中身は虫喰いのがらんどう。完全に腐食していた。  そんな愚かな父と再婚した継母には二人の連れ子がおり、イルゼには三つ年上の義兄と一つ年上の義姉ができた。  その一人が彼……ヨハンだ。 義姉に関しては、今はこのボロ屋敷におらず、現在ここで暮らすのはイルゼと義兄のヨハン二人きり。  その頃、イルゼの母は捜索も打ち切られ、死亡と見なされた行方不明者。父は死別者という扱いだった。 ヨハンの母も、配偶者を病で亡くし、死別者。 ──死別同士の再婚。親戚も街の人間も、新たな門出を素直に祝福した。 だが、そこにはイルゼの父、トビアス・ジルヒャーの陰湿な企
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第3話 川底の瞳と鶏の血
 それから領地内の孤児院や修道院にも足を運んだが、殺人犯の実の娘であることやあと二年で成人という点で門前払いを受けた。    しかし、いつまでも泣いて落ち込み続けても、暮らしていけない。  少しずつこの領地の隣人たちの信頼を取り戻そうと、ヨハンの提案によって始めたのが養鶏業だった。    餌を撒き終え、鶏の群れの中でぽつりと立つイルゼは口を手で押さえて欠伸をしていた。そんな様子に見かねたのだろう。   「イルゼはねぼすけだな。まだ眠いのか?」    笑いながらヨハンに言われて、イルゼは首を横に振るい「大丈夫」と、またも抑揚の乏しい口調で答える。    愛想の欠片もない返答だが、これがイルゼの普通だ。  義兄は特にそれを気に留めず、穏やかな笑みを向けた。    イルゼは言葉が非常に平坦で感情が乏しく喜怒哀楽がろくに表情に出ない。  ──大きな瞳に愛らしい小さな鼻。腰につくほどに長く艶やかな金の髪。と、見た目こそ可憐だが、その表情は死んでいて、無感情な人形のようだった。    余計にそう見せるのは、瞳の色が一因しているだろう。  川底のような深く冷ややかな青緑色なので、どこか淀みをたたえているように映ってしまう。    そんなイルゼに対して義兄のヨハンときたら、顔立ちの精悍である癖に物腰が柔らかい性質の持ち主だった。  性格も非常に明るいことから街で評判の高い男である。  もはや、ヨハンのお陰でこの家業が円滑に回っていると言っても過言でない。非の打ち所の無い義兄だとはイルゼも思っていた。    しかし、なぜにここまで自分を構い気に掛けるのか。母を殺した男の娘だというのに……。  だが、これに対して「イルゼには何の罪もないだろう」の一点張りで、そう思う他なかった。    しかし、非の打ち所の無いとはいえ、苦労はしている所為か。ヨハンは非常に眠りが浅いらしい。    養鶏業を始めてからというものの、夜も眠れぬ不眠に悩まされているようで、街の診療所に度々訪れ、睡眠薬を処方してもらっているとのことだ。    片や、自分と来たら朝にめっぽう弱く、寝ようと思えば何時だって寝てしまえるほど。夕食を終えれば眠くなり、湯浴みを済ませてさっさと床に入る毎日だ。本当に、この睡眠欲を義兄に分けてあげたいほどだと思えて
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第4話 街の裏路地に咲く、毒々しい赤い花
 ヨハンと同じ焦げ茶色の髪に濃厚な琥珀色の瞳。髪はふんわりとボリュームのある癖毛だが、それが妙に小さな顔を際立たせて綺麗だとは思う。  だが、どうにも所作一つ一つが下品なことで虫唾が走る。  イルゼはリンダと目を合わせぬように、煮えたぎる鍋を見つめた。   「鶏の処刑人の朝は早いのね。どう景気は良いかしら? そういえば、私さぁ今月のアレを貰ってないわ……」    リンダの言葉にイルゼは黙りとしたまま、心底嫌そうに彼女に目をやった。   「今月の何」 「何って、馬鹿ね。私の家族費よ?」    家族費。つまり、養鶏業で稼いだ収入のうちの三分の一を寄越せとのことだ。    ……ここで働いてもいない癖にこうしてリンダは度々金をせびりに来るのである。  ヨハンが何度も咎めているが、どうにも実の妹という部分で甘い部分もあるのだろう。泣いて縋られてしまうとヨハンも叶わぬようで、毎度仕方なしに金を渡す。    だが、これで味をしめたのか、リンダは毎月のように請求に来るのだった。    当たり前のように、イルゼからしたら腑に落ちない。  それに義姉だって仕事をしているはずだ。それも養鶏業よりも確実に金になる仕事をしているのに……。    リンダは街の中心地とも呼べるひばり横町の酒場で働いている。  それも住み込みだ。酒場とはいえ、ただのウエイトレスでない。娼婦まがいなことをして金を巻き上げているのだ。    ヨハンはこれを知らない。少し前、ヨハンが熱を出した時、仕方なしにイルゼが代わりに早朝の街に配達に出掛けた際、通りかかったひばり横町の裏路地で彼女が男と口付けを交わす姿を見て悟ったことだった。    真っ赤なルージュを引き、派手な化粧をして裸同然のみすぼらしい格好で男と乳繰り合っていたのだ。首筋には、真っ赤な赤い花。それは男女の交わりを彷彿させるもので、きと売春は黒だろうと思った。    リンダはイルゼの視線にすぐ気がついた。  それも微塵も動じず、乳繰り合っていた男に強姦まがいなことを指示
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第5話 燃え上がる黒い憎悪、肉切り包丁と血の臭い
「あんた馬鹿? こんな薄汚い鶏女に服をくれるわけないでしょう。まして人殺しの娘に。自分の身分をいい加減にわきまえなさい。どれだけクズで惨めな生き物か、理解しなさいよ! 本当なら路頭に迷ってさっさと死ねばよかったの。そんな卑しい存在に私のお下がりなんてごめんだわ。それに、兄さん兄さんって……私の血の繋がった兄に懐かないでちょうだい!」    罵声を浴びせられたと同時だった。  頭に引き攣るような痛みが走りイルゼが顔を歪めたのも束の間──ザクリとした音とともに一瞬にして痛みが消え去る。   (何を……)    イルゼは青緑の瞳を見開き、怖々と背後にのしかかるリンダを見る。  そして、彼女が手にしていたものに思考が止まった。    リンダが右手に持つものは屠殺用に用意した肉切り包丁。  そして左手いっぱいに持つのは……長年伸ばしてきたイルゼの長い髪だった。    殺人犯の娘だ。当然自分のことなんて好きになれない。  それでも唯一好きな部分だ。母に褒められ、義母にも褒められて、愛おしげに触ってくれた自慢の髪だ。イルゼの瞳に、たちまち分厚い水膜が張った。   「やったわ。この金髪、昔っから気に喰わなかったのよ」    ざまぁみろ。と、リンダは吐き捨てるように言って、ゴミでも投げ付けるように、切り落とした髪の毛と包丁を放り投げた。  間もなくリンダは立ち上がる。それと同時──イルゼはリンダの放り投げた肉切り包丁に手にしてユラリと立ち上がった。   「そうそう。あんたみたいなクズには惨たらしい散切り頭の方が似合うわよ?」    癪に障る声で嗤われた途端、イルゼの心臓は嫌なほどばくばくと脈打った。  視界の縁がどんどん血の色に染まっていく。  呼吸が荒くなり、身体は熱いが、指先はまるで氷を触るように冷たい。  頭の中は、嵐が過ぎ去った森のように滅茶苦茶だった。烈しい憎悪が揺らめき、復讐の黒い炎が胸の内を焦がし揺らめく。   「──この売女!」    その表情はいつもとは
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第6話 確かにそこにあった殺意
 その後、イルゼは急ぎヨハンを処置した。幸いにも傷は浅く大事に至っていないようで、処置をして間もなく出血は止まった。 イルゼは幾度もヨハンに詫びたが「気にしてない」と彼は優しくイルゼを窘めた。  どこまでも懐の広い義兄だ。だが、そんな優しさが酷く胸を締め付ける。  とんでもない罪を犯してしまったのだ。これからどう償えば良いのか……。 ヨハンの処置を終えたイルゼは深いため息をついた。  リンダは恐らく自警団を呼びに行ったのだと思しい。辺鄙な場所にあるこのボロ屋敷からツヴァルクの街は幾分か離れている。自警団の男たちを連れて戻るには恐らく一時間近くの時間がかかるだろう。  しかし、それにしてもリンダは薄情だとイルゼは内心呆れ返っていた。  彼女からしてみればヨハンは実の兄。まるで自分の身を守るよう、逃げるように怪我を負った兄を撥ね除けたのだ。 ああも取り乱していたなら仕方ないと思うが、普通であれば義兄を心配して、怪我の手当をすぐに当たるだろうに。それに、イルゼだってすぐに正気に戻っていたのだ。  あの上から目線で顎を聳やかし──「さっさと自首に行って」と言えるだろうに。 まぁ、肉切り包丁を振り回した自分が言えたものではないが……。 そう思いつつ、イルゼがため息をつけばヨハンの苦笑いが間近から聞こえた。 「多分、リンダが自警団を連れてくるだろうけど、俺が上手いこと説得する。交渉は得意だからな。包丁を振り回したのはマズイだろうけど……脅しであって、殺意は無かったんだよな?」  優しい眼差しを向けて訊かれるが、イルゼは答えることができなかった。 そんな訳がない。あの瞬間……間違いなく、殺意に支配されていたのだから。 「それより、義兄さんはお医者さんに見て貰わないと」  怪我の方が気がかりだ。と、眉を下げてイ
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第7話 生きるために身体を売る義姉と金の謎
 二人だって、頼る場所が無かったのだ。そうして、遺産や彼ら親族の縁切りに寄越した金でヨハンの提案により、養鶏業を始めたが……リンダはそれがどうにも性に合わなかったらしく、彼女は一人で街に出た。  そうして僅か十六歳で酒場で働きつつ、娼婦になったのだ。  普通、好き好んで娼婦になる女などいない。 なので、義姉だって生きるためにそうしたのだと分かる。仕方なしに身体を売るに違わない。こんな身の上だ。雇う側だって厄介に思うに違わない。  それは、養鶏業を営む前、仕事を探していたヨハンを見て理解していた。 賃金の安い葡萄畑の下働きか、どぶさらいなど。肉体労働以外に仕事なんてろくに無かったのだから。 『──このあばずれが!』  父がよく母に浴びせていた言葉をイルゼは反芻した。この歳にもなれば、〝あばずれ〟の意味は理解できる。  あの頃、母も身体を売って生活を支えていたのだとイルゼはどことなく理解していた。何せ、あの頃の母は昼過ぎに家を出て、夜遅くに帰ってきたからだ。 夜中になると、毎度父母は悶着を起こしていた。つまり、身体を売って稼いだ金が少ないからと、父がどやしていたのだろうと自然と結び付く。 (義姉さんも義姉さんで不幸に違わない……こんなことをするのだって、生きるために違わない。私、きっと酷いことを言ったに違いないわ)  反芻するほどに、イルゼは自分の犯した罪の重さを思い知った。 今までの苦渋を思い出すと、謝る気になんてなれやしないが、倫理に反した行動を起こしたことだけは謝るべきだろう。  しかし、稼ぎが良いのに、なぜに義姉は〝家族費〟など称してこちらにたかるのか。借金でも背負っているのか。と、今更のような疑問がよぎる。  単なる嫌がらせな気がしてならない部分もあるが、普通に考えて、金は持っているだろうし、家族費なんて要らないだろう。  |態々《わざ
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第8話 兄の傷と妹の罪の鎖
 自警団の詰め所に連れられて来たイルゼはむさ苦しい男たちに囲われて尋問を受けていた。  木造平屋の詰め所は存外狭い。 現在は五月の初旬。春ではあるが、時間が正午に近づくほどに気温が上昇し始めて、蒸し暑くなりはじめた。詰め所は、窓を開けて換気をしているが、どうにも男臭さが抜けきっていなかった。 「それで……どういった状況でそうなったんだ」  先程まで馬車で一緒だった赤ら顔の副団長に訊かれて、イルゼは戸惑いつつ事の経緯を答えた。まったく感情の篭もらぬ口調で淡々と述べると、次第に取り囲んでいた男たちの顔が曇っていく。 「家庭環境に難あり……」  正面で帳面にメモを取る眼鏡をかけた生真面目そうな男はそう呟くと、イルゼと向き合って深くため息をこぼした。 「お姉さんにいびられているなど、背景はなんとなく分かったよ。だけど、お兄さんに相談できなかったのかい? 君のしたことは殺人未遂、とても重たい罪だ。それにもう十七歳なら成人。責任能力だってある……」  苦い顔で言う彼は深いため息をこぼして、顎の下で手を組んだ。 「殺人犯の娘とはいえ、〝蛙の子は蛙〟という訳でないだろう。話を聞くからに、家庭環境に問題が多い。何より、俺は……君の精神状態が心配になるよ」  真っ向から言われて、イルゼが目をしばたたいたと同時──詰め所の扉が開き、ヨハンが入ってきた。傷の状態を確認する為、診療所に行っていたのだ。 「ああ、丁度お兄さんが来たか。傷の具合はどうだったかい?」  生真面目そうな男はペンを置いてヨハンに目をやった。 「ええ、問題ないです。既に血は止まっていたので。数針縫って化膿止めの軟膏を塗っただけですよ」  確かに、血は止まっていたものの、傷口はぱっくりと開いていたのだ。縫うのも無理はないだろうが、強い罪悪感がのしかかる。 表情に出さぬも
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第9話 猟奇領主が狙う散切り金髪
 ──姿を現したのは、ヨハンと年端も変わらぬ長身の男だった。 青光りした濡れ羽色の髪は癖もなく、短く綺麗に切り揃えられており、上品な艶がある。緩やかに下降した目の輪郭には澄み切った空色の瞳をたたえている。  日焼けはしておらず、色白で体躯が細く──どこか女性的にも思えてしまうほど。非常に端正な顔立ちの青年だった。その背後には、がっしりとした髭面の男が控えている。  すると、自警団の男たちは皆、ハッと我に返り恭しく頭を垂れた。 何事か……。  イルゼは思いヨハンを見るが、彼も頭を垂れていることに驚いてしまう。 頭を下げぬままのイルゼに気づいたのか、チラリと横目で見たヨハンは慌てて、イルゼの頭を下げさせた。 「ん。どうしたのぉ。っていうか、頭上げなって。皆揃って、なんか……そーしてると、すんげぇ馬鹿みたい」  随分と癖のある喋り方だった。高音とも低音とも受け取りがたい声色も掠れており、かなり癖がある。しかし、どこか妖艶な甘みを含んでいた。  男の声から一拍経過して、ヨハンはイルゼの頭を押さえた手を離す。そうして、イルゼが顔を上げると、濡れ羽色の髪の男は周囲を見渡して「キヒヒ」と、品性の欠けた笑い声をこぼす。 見た目がいかにも繊細そうな上、上品なので意外だ。あまりに酷いギャップだろう。感情が乏しいイルゼでも、さすがに驚いてしまい口をぽかんと開いた。 「ああ、申し訳ございません。ミヒャエル様。丁度事件があったようで、事情聴取をしていたそうで……」  後ろに控えていた体躯の良い男が心底申し訳なさそうに言う。 恐らく彼が団長だろうか。中年ではあるが、たるみなどなく騎士の如くがっしりとした体格と貫禄からそう窺えた。  ミヒャエルと呼ばれた黒髪の男は「いいや」と、横に振ってヘラリと笑んだ。  ……ミヒャエル。どこか聞き覚えのある名前だ。 一般的な男性名ではある
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