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空蝉ゆあん
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Novels by 空蝉ゆあん

僕の推し様

僕の推し様

居酒屋のアルバイトを掛け持ちしている庵は生活をするのにやっとだった。疲れきった時にふとある配信に目が止まり、輝きを放ちながら自分の道を歩いているタミキにハマってしまう。泥沼に自ら入り込んでいく庵の姿を書いたシリアスBL──
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Chapter: 分離された二つの刻む時間
 62話 分離された二つの刻む時間  自我を持つはずがなかったもう一人の自分の意識が南を襲い続ける。ぐっと歯を食いしばりながら、感情の波に溺れそうになる自分を抑えているが、徐々に強くなっている。どうにか対策を講じないと、この体も心も侵食されていくかもしれない。同じ細胞を持つ存在を肉体に入れてしまうと、その後どうなるのか彼は知らない。「ぐっ……はっ」 頭の中に自分の記憶じゃない映像が定着しつつある。南の知る現実と杉田の見てきた現実が合わさりながら、溶けようとしていた。 その事に気づく者はいない。南の精神力は僕らが思っている以上に、強い。それもあり、表には出さないように戦っている。僕は南の背負った十字架に気づく事もなく、希望と願いを抱いて、仮想空間から抜け出そうとしていた。沢山あった建物も、広がっていた自然も、何もかもが花が枯れたように、色を失い全く知らない世界へと様変わりしている。普通に歩いていた人達の姿は消え失せ、この世界には僕だけが取り残された状態になっている。「どうやって出ればいいんだ」 あの時、言った彼の言葉を思い出しながら力に変えていく。今まで何も出来なかった僕に出来るのだろうかと思う事もある。それでもタミキにもう一度、会いたい。その願いだけが僕の心を支えているんだ。 勇気を持つ事なんて出来ないと勘違いしていた自分はもういない。ただあるのは明るい未来に向けて走り出した僕がいた。「君はまだ知らない。俺達は全ての結末を知っているから。まだ君は知らなくていいんだ」 バグは空間から始まり、杉田へと侵食していった。仕込んだのは南だが、改良をしたのはカケルだったんだ。「どうするつもりだ、逃すのか」「いいえ、父さん。俺達は二人を裂く為に存在している。彼らを自由にはさせないよ」 スーツを脱ぎ捨てるとまるで魔法のように貴族のような格好に変化していく。二人は十歳に生きたタミキの父と兄のはずだが、別の顔を持っているようだった。「タミキは私達にとって重要な子だ。あの子が全てを思い出した時に、使命を思い出すだろうな」
Last Updated: 2025-07-09
Chapter: 新しい因縁
 61話 新しい因縁  ベッドの上で眠り続けている僕を心配そうに見つめているタミキがいる。僕達二人が犯した罪を認める為に、過去にリンクし仮想空間の住人として生きる事を選んだ過去の僕達とは違う道を選んだ。椎名のサポートのおかげで現実世界に戻ってこれたタミキはいつになるか分からない僕の目覚めを待っている。今回の仮想空間で起こった出来事は、二人の記憶を保持する為に、定着させているようだった。そのおかげでタミキはあの場所でいたタミキとして生きる事が出来ている。何千年も眠り続けていた体は崩壊してしまったが、二人の副製品として新しい肉体を用意していた。一つのデーターを現実の記憶のように捻じ曲げて記憶を肉体に上書きすると、思った以上に事が上手く運んだようだった。「寝坊助さんだな、庵は」 なるべく不安定な自分を出さないように気をつけている。少しでも気を抜くと、同じ事を繰り返してしまうんじゃないかと不安が会ったからだ。少しの不安が積もっていく。その度に、大丈夫と自分自身に言い聞かすと、僕の髪を優しく撫でた。 二人っきりの時間はあっという間で、少し前まで愛し合っていた二人の事を思い出すと、欲望が出てきそうになる。タミキの思考を遮断させようと、ドアの向こうから誰かの影が映る。「いいかい?」「どうぞ」 タミキが僕を見ている時に限って、合わせるように南が来訪する。僕の寝顔を見続けていた彼は、南の顔を見ると、うんざりしたように呟いた。「その顔で俺を見るなよ」 タミキの知っている杉田は南とは別人のようだった。話を聞くと南の複製として杉田を作ったようだった。彼の置かれた環境で、正確や行動、言葉遣いは変わると説明されたが、どうしてもモヤモヤしているようだった。「何か言ったかい?」 満面の笑みでタミキを見ている南は、杉田と違って温厚に見える。僕の事で二人がバトルをしたとは知らないのは僕だけだった。 ムスッとした表情で不貞腐れていると、くすくすと茶化すように笑った。二人は現実世界でも因縁があるようだった。「南には関係ねぇよ。それより庵はまだ目を覚まさな
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: 辿り着いたのは……
  60話 辿り着いたのは……  次元をわたる事は不可がかかってしまう。壊れかけている記憶の残像に飲まれそうになりながらも、意識を保とうと南は集中した。ワープホールのような空間の中で僕がいる場所へと飛ぶと、目の前に杉田の影が漂っていた。自分自身の分身と合う事はドッペルゲンガーと出会う事と同等の意味を持つ。しかし人の肉体を手放した影は、自我を崩壊させながら、見たこともない獣の姿へと変貌していく。逃げる僕と追いかけてくる影の間にたどり着いた南は全てのバグを自分の体に内臓している電子心臓に取り込んでいく。闇だけを抽出していると、僕の右手にある電子タトゥーも吸い込まれていった。「杉田が二人?」 突然の出来事に走っていた僕は減速していった。重たかった体が急に軽くなった気がする。リハビリのお陰で走る事は出来るようになったけど、前のようには走れなかった。それなのに、急に力が湧いてきて、足を持ち上げても、違和感を感じなくなっていた。「走り続けろ、そしてあそこに行くんだ」 南は僕に大声を張り出しながら、伝えると邪魔をしてくるもの全てを喰らい尽くしていく。その姿は人間離れしていて、遠い存在に感じていた。あの杉田は僕の知っている彼ではないと確信し、出来るだけ今出す事が出来る全速力で光の中へとダイブして行った。「……それでいい」 僕が光に包まれていく姿を見て、安心したように微笑んだ。目の前に影がいるのに、何故だか清々しい。彼は影の頭目掛けて、USBを差し込むと、全てのデーターを消去していく。杉田としての記憶も、感情も、感覚も、何もかもを——「何を…ああああ」 黒く濃かった闇は、徐々に生気を失いながら、薄くなっていく。彼は何が起きているのかを知る前に、ちりの一部になり、この世界の底へと溶けていく。その姿を見届けながら、自分の体にも何かを打つと、南の姿は最初からなかったように、消えていた。  大きな光に包まれながら 隠れている人物が微笑みをかける 彼の手に引き寄せられるように 繋いでいる  ピッピッピッと電子音が
Last Updated: 2025-07-07
Chapter: バグ
59話 バグ 僕の知らない所で動いている事実が押し寄せながら、僕を違う世界へと招待する。自分の願いを叶える為に、駆け込もうとするが、怨霊のように杉田の影が阻止しようとしている。人の形から黒いモヤへと姿を変えると、ダイレクトに負の感情が僕に体当たりする。道になっていた光が少しずつ汚されながらも、僕を待ち続けていた。 「なんで、邪魔しないで」 夢と現実の境目がなくなりつつある。それはこの世界が消滅の道を辿っている証拠でもあった。ここに生きていた人形のプログラム達はオリジナルの僕を逃すまいと躍起になっていた。杉田の念が中心になり、綺麗な形を保っていたものまで、ウィルスのように感染していく。 「行くな、行くな」 右手をガシッと掴まれると、くっきりと跡が浮き出てくる。跡は痣になり、そうして違う異物の存在へと書き換えられていく。ドットのようにブロックが積み重なっている形は、この世界を維持していたデーターの破片だった。除けようとしても、消す事が出来ないタトゥーのように、しっかりと刻まれていく。 「オリジナルの君でも、バグからは逃げられない」 過去の映像が現在になり、そうして違う未来を作ろうとしているようだった。この世界を管理していた人々はこの状態から逃げ出している。誰かに責任をなすりつけるので、精一杯な様子だった。映画のように干渉していた人達も、この騒動に巻き込まれないように、映画館から逃げ出していく。 スクリーンを乗っ取った杉田だった存在は、見る影もなくなると、現実世界へと自分のプログラムを通じて、全てのネットワークへと繋げると、自分の中で育てたウィルスを大量放出していく。 「俺達を作るだけ作って、破棄しようだなんて虫が良すぎる。お前達が守ろうとした庵だけは、この世界に留まってもらう」 誰に向かって言っているのだろう。現実離れしている現状に、置いてけぼりになっている僕は、首を傾げた。何がどうなっているのか把握出来ていない僕は、ただ彼の叫びを聞きながら
Last Updated: 2025-07-06
Chapter: 前兆
 58話 前兆  沈んでいく意識の中で僕は泣いている。タミキを裏切ってしまった気持ちを抱えながら、子供が泣きじゃくるように、泣き叫んでいた。そんな僕に手招きをする人物が声をかけてくる。「そんなに泣いてどうしたんだ?」 声の主の方へと視線を向けると、光に包まれているように眩しくて、手で遮ろうとする。強い光はまるで彼の生命力そのものの形をしていて、全ての人に影響を与える、そんな光を持っていた。 ゆっくりと眩しさを逃しながら近づいていくと、遠くにいた彼がいつの間にか目の前に姿を現した。ぎゅっと抱きしめられると、彼が誰なのか分かった気がする。ずっと待ち侘びていた存在に、嬉し泣きをしていると、杉田との事が過去の出来事へと塗り変わっていく。禍々しい嫉妬も、闇も、束縛も、全てを浄化してくれているようだった。「離れていても俺は、庵、君の側にいる」 その言葉は力を持つと、全ての光が空間に連動され、僕の内部へと干渉し始めた。目で見えるものではない、心で見える景色を見せてくれた彼の側には、笑って幸せそうに日常を過ごしている僕の分身の姿がそこにある。まるで予知夢を見ているようで、願いが形になっていく瞬間を感じた気がした。「大丈夫だよ、一人にはしない……きっと」 後ろから抱きしめてくる彼は甘い吐息を耳元で漏らすと、僕の耳を甘く噛んでいく。時折、ちゅうちゅうと舌を鳴らし、まるで子猫が毛繕いをするように、優しく丁寧に舐めていく。現実なら感覚があるはずなのに、温もりを感じるだけだった。ここは自分の都合のいい未来を見せてくれる特別な場所なのかもしれない。そう想うと、嬉しい反面切なさが増殖していく。  夢は自分の願望を示す鏡だ その鏡を手に入れる事は 難しく、苦しい それでも手に入れる事で 僕は本当の僕になれるのかもしれない  僕とタミキの影響がこの世界の杉田に影響を与えている事に気づけなかった。何処にも行ってほしくないと引き止める為に無意識に全ての時間軸と機能を奪っていく。模倣されたプログラムが自我を持ってしまった事で僕は前に進む事が出来
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: 嫉妬と拒絶
 57話 嫉妬と拒絶  疲れた僕は布団の中でゴロゴロしている。今日からリハビリが始まったからだった。だいぶ筋力は戻ってきたが、なかなか上手く歩けない。自分から自由を捨てたのだから、自業自得だった。最初は立つ事から始めた。本来なら歩けるはずなのに、メンタル的な原因があるらしく、明日からはカウンセリングも受ける事になっている。少し力を使うだけでも疲労が出てくるのに、大丈夫なのかと不安にもなる。 消灯時間を過ぎているので、置かれている電気スタンドをつけ、暗さを紛らわしている。あの火事以降、どうしても暗闇で寝る事が出来なくなってしまった。 淡い光を見つめていると、眠たくなってくる。いつもこの時間帯はタミキの事を考えてしまう。そんなルーティンになっていた。何処で何をしているのか分からない彼を想うのは辛い。自分に勇気と力があったのなら、助け出す事が出来たのに、現実は違った。「会いたいな」 あんなに愛しあった人は他にはいない。タミキが姿を現さなくても、僕はこの気持ちをなかった事にはしたくない。唯一会えるのが、夢の中だけなんて残酷だ。 ドアの隙間から誰かの足音が聞こえてくる。見回りだろうか。起きてる事に気づかれてしまったら、怒られるだろう。電気はこのままにして、布団を深く被ると、目を瞑る。スウスウと寝息を立てると、狸寝入りが完成する。「……寝たか」 少し遅れていたら、目があっていただろう。その人はベッドの側に座り、僕の様子を観察しているようだった。なるべく不自然にならないように心がけながら、顔にかかっていた布団をゆっくりと押さえつけていった。「……庵、まだあいつの事を」 聞き覚えのある声に耳を傾ける。僕を助けてくれた杉田は僕を避けるようになっていた。それなのに、今僕の側にいるのは昔と同じ優しい声をしている彼だった。 ぬっと影が重なっていく。彼の鼓動が聞こえそうなくらい近づいた体は、何が起こるのかを理解していないようだった。「俺は諦めない、絶対に」 タミキには負けたくない気持ちが表面化されていく。そこには嫉妬と暗い感情が見
Last Updated: 2025-07-04
To...pulsation

To...pulsation

僕、私、あたし、君、俺。 沢山の絵の具達に囲まれながら 涙を流す。 色々な形の「愛」 涙は時を経て 心の中で眠る
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Chapter: コーヒー④ コーヒー⑤ コーヒー⑥
 ◻︎コーヒー④   笑顔って大事だよね。こういう居場所って大切な空間だよね。ユミがどうしてこの店にこだわるのか分かった気がした。最初はダンディーなマスターの話を聞き、なんだとぉ!俺と言う存在がありながらとか思ってたけど。実際関わると凄く落ち着いてて、人間的に深みのある人なんだと感じたよ。 俺は音をたてながら淹れられたコーヒーを早く飲みたくて、飲みたくて、待ち遠しい。 まるで子供の時に戦隊モノのアニメを見ていた時と同じような興奮作用。 まだ飲んでないし、匂いしか嗅いでいないから、コーヒーが原因ではないぞ。うん……多分。 『はい。お待たせしました』 そう言いながらカウンターに置かれるコーヒー。値段も安く、低価格。そして飲めない人間も飲めるように変えてしまう魔法を持っている魔法使いの生まれ変わり。 なんか妄想の中でファンタジーになっている気がするが、あくまで俺の趣味だから勘弁してくれ。 心の呟きは囁き声に変わり、リアルと連動し、言葉を声にしていく。 『ふふふ。心の声が出てますよ』「あっ……ちゃうんすよ。これは」 『楽しい方ですね。本当に人間的に興味を抱きました』「あ……ありがとうございます」 ストレートな表現にも柔らかさがある物の言い方。この人接客の|いろは《・・・》をきちんと理解している人のようだ。どんな職種でも完璧にこなせそうな気がする。 そういや副業してたっていうてたな。何の仕事なんだろうか? 自分とマスターの会話を思い出しながら、辿っていくんだ。どんな些細な情報でもいい。少しでも近づきたいと憧れた。って、俺、男じゃんか。なんだこの、始まりの恋みたいなシチュエーションは……。悪いけど。俺にはユミと言う大切な人が、心のオアシスがいるんだ。だからこの気持ち、愛を受け取る事は出来ない。 受け取ってしまったら未知の世界がっ…… ――すみません 
Last Updated: 2025-06-20
Chapter: コーヒー② コーヒー③
 ◻︎コーヒー②    『どうしたの?なんか変だよ?顔赤くない?』 ユミの笑顔につられてニヤけてるなんて言える訳ない。そんな事恥ずかしくて言葉にも出来ないから、そっと心を隠すように顔を背けた。 『なんで目を合わせてくれないの?あたし何かした?意地悪しすぎたかな?』 いやいや、お前の意地悪なんていつもの事で楽しみながら見つめてるし、観察してる。簡単に言えばビーバーの生体記録と同じだ。小学生の時に読んだ教科書の内容を思い出していると、何故かユミとビーバーがドッキングしている。 いつもこうだ。照れちゃうとさ、脳内回路がやばくなるんだよ。変態な方にいくと言うか、なんつーか。 言葉が出てこないけど、言える事はただ一つ。 不安がるユミも可愛いってことだ。 あー、もう、と頭を掻きながら、真っ赤になっている顔で、瞳で、彼女を見つめ呟いた。「お前が可愛すぎるんだよ」 なんでこんな事言ってんの?それも店で。店主だって見てて、ニヤニヤしてるじゃねぇか。 微笑ましい光景を見つめて、ダンディーな雰囲気を醸し出している。 なんだろう。俺も大人なのに、負けている気がするのは気のせいだろうか。 よく分からないけど、こういう日常の一コマ一コマが幸せで、幸福で、笑顔で、そして愛情の欠片なのかもしれない。沢山のプラスの感情も、マイナスの感情も全て含んで人は宝石になっていくんだろうな。 こういう空間もいいなって思った。そんな俺を見かねてユミが耳元で囁く。 『恥ずかしいから。そういうの大きな声で言うのやめてくれない?告白してる訳じゃないんだから』「え(は?)」 珍しくモジモジしながら照れてるユミがいる。女の子らしく、可愛らしく、萌えるよな。男なら確実に。俺はおねぇじゃねぇから萌え萌えの萌えに決まってるだろうが。 『早く決めようよ。マスター待ってるし。恥ずかしい』 大人しいユミをからかう準備は出来ている。俺はユ
Last Updated: 2025-06-20
Chapter: 漫才 コーヒー①
 ◻︎漫才  あたしはツッコミ役になりたいと切実に思う、高校生……。 うん、高校生なのよ、まだ15だもん。制服も家のタンスにあるし、教科書も家に保管してる。使ってなくても、着ていなくても、女子高生なのよ。 毎日|姑《しゅうとめ》に小言言われて、ひるんでいる主婦じゃないから、勘違いしないでマジで! 教科書はある意味『ハリセン』のかわりなの。あれは勉強をする道具じゃなくて、違う使い道があるのよ。あたしに勉強と言う二文字はないんだからね。 ――ん?二文字だっけ。漢字は二つ。読み仮名は五つ。あれれ? まぁ、そんな事は忘れとこう。そんなの大した事でもないし、日本語が読めるから大丈夫、大丈夫。 うん……大丈夫。この前『あんたの言葉は意味不明』とか言われてたなんて誰も知らないから、|まだ《・・》大丈夫なんよね。 これは心の呟きだから、誰にも見られていない。バレていないから平気だし。 タフで純粋なハートがあるから。自信満々。  今日もサボリ、明日も明後日も……永遠に! あたしはいつもの河原に来て、さっさと制服を脱ぎ捨てる。下には私服着ているし、スカートは制服ので上等。ばれないって。上着がどうにかなりゃ、いいわけよ。あたしって天才じゃない?「あー楽。制服って好かんわ。堅苦しい」 はーい。次にいらないものは何でしょうか。「これいらない」 靴よ靴。学校の靴なんて嫌なの。やっぱさスニーカーでしょ。楽だもん。それにスニーカーを選ぶのに一番大切で重要な事があるのよ。それはね……。 お前学校はとか指導員の先生に遭遇した時にダッシュして逃げれるし、何かトラブルの時にまけれる。ヒールとかだと本気で走れないし、やばくなったら裸足で走らないといけなくなる。 それならば、回避するしかないでしょうに。どんな相手だろうが構わない。あたしは全力で逃亡出来る自信があるの。家族にそう言うとさ、あんた馬鹿じゃないの?そんな事考えてるから半年もしないうちに卒業
Last Updated: 2025-06-19
Chapter: 最後のプレゼント 膝枕
 ◻︎最後のプレゼント   もう一度会いたいと言われた。あたしは会うつもりなんて更々ない。なかったはずなのに、連絡のやり取りの中で上手く誘導されながら会う事になってしまった。でも、ここで会ってケリをつけるのが一番きれいかもしれない。そう思ったの。それが一番二人の為だとも感じてた。 凄い連絡量だったのを覚えている。あれは私が18の時の事だった。彼の名前はカイ。元々何の接点もなくて、ふとした縁の絡みが関係性を築いたものだと思う。 何も考えていなかったあたしはいつものようにフランクに人と関わろうとする。勿論男性も女性もだ。 どちらかと言うと男友達よりも女友達の方が多いんだよね。女性を優先してしまう所があって。得に仲良ければいい程。特別扱いしてしまう自分がいるんだよ。 重たい足取りで彼との待ち合わせ場所に行くと、そこに彼の車が止まっている。 ――ドクン 過呼吸にも近い苦しさと心臓の深い音があたしを少しずつ不安の色へと染め上げる。あたしは右手を心臓付近へと伸ばし、覚悟を決めたかのように拳に力を入れる。 大丈夫、大丈夫、あたしは強いから……。 そうやって自己暗示をかけるしか方法を知らない。そうしないと安定も安心もしない。額には少しずつ冷や汗が溢れてくる。足はカクカク震えながら、それでも勇気を振り絞りながら、近づいていく。 コツコツと向かう足音が あたしの不安を消すように 地面へと感情を捨てていく 彼への想いを 彼への願いを 彼との思い出の数々を。 色々な事を考えていると、あっと言う間に彼の車の前に突っ立ってた。 不安そうなあたしを見かねた彼が車から降りてきて一言囁く。 『大丈夫か?さおり』「……」 言葉なんて出ない。何も浮かんでこないの。 彼はふふっと微笑みながら震えるあたしを抱きしめる。
Last Updated: 2025-06-18
Chapter: 逃亡③ 心の呟き
 ◻︎逃亡③   逃げても逃げても君は追いかけてくる。どうやって、まいてもすんなりとあたしの姿を捉える貴方は探偵みたい。少しの情報だけで、あたしを簡単に見つける事が出来る。有能な探偵。あたしは逃げまどいながら、表面では、あら見つかってしまったのね、なんて微笑みながら余裕の態度を見せつけ、威嚇する。そうやって威嚇する事で、相手の内面と性格、そして人間関係の作り方、長所と短所、全てを把握する為に挑発するの。それにのっかかってくれば『ボロ』が出るのが人間。そうやって色々な情報を集めながら、あたしは繋がりを把握していく。 貴方は『本当』のあたしを見つける事は出来ないよ。心の中の言葉と口の言葉では若干違うのが現実。それでも、心の呟きと頭脳の呟きを混ぜながら、曖昧な自分を自らが作り上げ、自分と言うブランドを確立していく。 『琥珀が何を考えているのか分からない』 |弥生《やよい》は時々あたしに本心を漏らしてしまう。それは弱さに繋がり、あたしの心を支えれるのか微妙なラインなのにね。反対に言えば心を開いてくれてる。そして違う目線で言えば10年以上の付き合いなのに、それだけしか心を開けないと言う事にもなる。 まぁ、あたしが弥生を責めれる立場ではないんだけどね。弥生は優しい、あたしの心の奥底に獣が住み着いてて、破壊を望みながら『ある計画』を進めようとしているのにもきっと気づいている。止められない、止まらない、止めようがない。無力な自分を責めている弥生の姿が浮かんでくる。 10年以上の付き合いがあるのに、本当の自分を出せれてないのはあたしの方。抱え込むだけ抱え込んで、そして蒸発する。空気に混ざりながら、溶けてなくなるように、姿を消すの。 怖いんだと思うよ。旅人のあたしが急に昔みたいに『いなくなる』んじゃないか、ってさ。 ――大丈夫だよ。 心の中ではそう呟くけど、言葉では違う。また違う言葉を作り出しながら、闇の闇。心の獣のいる場所まで堕ちて、染まろうとする。 意識がふわりとして心地いい。この空間はあたしとそして獣だけももの。他の誰も入り込めない空間なのだから。
Last Updated: 2025-06-17
Chapter: オセロ 逃亡① 逃亡②
 ◻︎オセロ   彼女を見つめていると眩しくて悲しくなる 僕には届かない 僕に届く訳がないと思うから 思い込みかもしれないけれど それが僕の中の真実であり『答え』そのもの  あなたを見つめていると嬉しくなる 私を理解してくれるんだって…… 愛してくれるんだって…… 私を独りにしないんだって…… まるで正反対 オセロみたい 黒と白 二つが交わりながら 新しく生まれ変わる感情 見つめて見つけて 漂いながらも夢を見る。 光と闇の夢を。 回転するのはオセロ 表裏一体な二人のように…… ◻︎逃亡①   楽しい人が好きだ。何故かって?一緒にいて笑いが絶えないからだ。 厳しい人が好きだ。どうしてかな?自分の意見を持っているから。 喜怒哀楽を大切にする人が好きだ。何故だか安心する。詩人みたいだから。 あたしはあたしが嫌いだ。聞きたい?逃亡するから。 好きとかよく分からなかった。だけどいつも目で追っていたのは事実なんだ。気付かない振りをしていた。気付きたくないと思いながらでも、少しだけ、少しだけでいいからと夢を見ていた。手を伸ばせば届くはずなのに、伸ばす勇気がないあたしは、|微睡《まどろ》んでいるだけ。それしか出来ないの。どうしていいのか分からないから。動き方をしらないから。何も行動を起こす事が出来ない。 そう思ってた。それはあくまで思い込みに近いものの形。 心はいびつな形をしている。人は完璧じゃないからこそ、少しずついびつな形を滑らかにしていく。人生の中で何も
Last Updated: 2025-06-16
ゆるきゃん〜俺がハマったのは可愛い幼なじみでした

ゆるきゃん〜俺がハマったのは可愛い幼なじみでした

急に俺の目の前から姿を消した伊月。ずっと一緒だと約束したのに、離れ離れになってしまった。それから10年が経ち、ゆるくてきゃんきゃん吠えるワンコのような奴と出会い─ ハラハラドキドキ、ゆるきゃん男子に振り回されながら近づく薫とゆるきゃん男子
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Chapter: 45話 疑問
 45話 疑問  夢の中に沈んでいる薫は今までで一番、心地よい感覚に包まれている。現実で起こっている物事を抱え込んでいるから余計に、疲れているのだろう。そんな自分の寝顔を伊月が見ているなんて思わずに、ただ一人、漂っている。ゆっくりと薫に近づいていく伊月は、夏樹の言っている事を思い出しながら、過去を振り返りながら、右手を彼の頬へ伸ばしていく。触れると暖かく感じるはずなのに、何故だか膜のようなものが彼の顔面を覆って、体温を感じる事が出来ない。肌質は人間そのものの柔らかさをしている。つつつ、と顔から首元へと指を逸らしていく。首の上の部分は顎で隠れている為、側から見たら違和感は感じれないだろう。しかし確実にでっ張りを感じる。その違和感の正体を知るように、カリカリと剥いでいく。専用の液体が必要なのかもしれない。伊月の指では剥がれそうで、剥がれない。もどかしさを感じながら、作業を続けていると、ピクリと反応を示した。「伊月……」 自分の名前を呼んだ事のない彼が、まるで昔からの知り合いのように呼び捨てで呼んでいた。その声をどこかで聞いた事のある伊月は、スーツ裏に仕込まれている機器に気付き、そっと外していく。「ん」 外された機器は、変声機のようでスイッチを押すと、別の声が流れてくる。どこかにぶつけた反動で、本来の声に近いものが流れてきたが、より確実なものにする為に、スイッチの電源を落とした。 彼の正体を少しでも知りたいと願いながら、変声機が外れた状態で揺さぶると、微かな寝言が伊月の耳へと届いていく。「この声は……」 不思議だった物事が少しずつ繋がっていくと、彼の正体が見えてくる。何故、自分に正体を隠して、親父の言いなりになっているのか、彼の生き写しのように演じたり、訳の分からない現実が伊月に突きつけようとしている。 顔は確認する事が出来ない。伊月は知らない。このマスクは所有者のみが外す事が出来る特注品だ。他者が除けようとしても、反応する事はない。その事実に気づかず、ぱっと手を離した。 彼の口から聞こえてくる声は、あきらかに薫のものだった。何度、聞いても間違える事はない。ずっと見てき
Last Updated: 2025-07-09
Chapter: 44話 彼を中心に言い合う二人
 44話 彼を中心に言い合う二人  酔い潰れた薫を伊月の元へ送ると、不機嫌そうな伊月が迎えた。一人にされて何をする訳でもなく、時間を持て余していたのに、急に出て行ったと思えば、弟の夏樹が目の前にいるのだから、機嫌も悪くなるだろう。事情を軽く説明すると、邪魔しないようにそそくさと帰ろうとする。「入って」 機嫌の悪い時には言葉を簡潔にする癖がある。その事に気づいた夏樹は、嫌な予感を抱えながらも、伊月の言葉に従う事にする。ここで無理矢理帰ろうとすれば、余計事態を悪化しかねない。「……お邪魔します」 チラチラと伊月の顔を気にしながら、部屋に入ると綺麗な空間が広がっていた。そこは二人の為に用意されたお城の一室のようで、自分がこの空間に合っていない事に、以後血悪さを感じている。 伊月が先回りして椅子を引いて、夏樹を誘導する。気づかれないように小さく、ため息を吐くと、素直に座った。それを確認すると対面に座り、肘をつきながら目で語り始めた。何を言いたいのか分からない夏樹は、久しぶりの兄弟の再会がこんな形で行われるなんて、想像しなかったようだった。心の中でぶつぶつと形にならない言葉達を繰り返しながら、伊月の言葉を待ち続ける。「一緒に飲んでいただけって……夏樹はこの人がどういう人だか知って、言ってる?」 寝ていると言っても、本人がいる場所でする話ではない。酔い潰れているから、話を聞かれないと思ったのだろうか。いつもより真剣に話をする伊月が、遠い存在のように見えて仕方なかった。「そこは兄貴に関係ないだろ。てかどうして俺が尋問されている感じなの? 悪い事してないでしょ」 これ以上、説明すると、正体を隠した薫だと言う事に気づかれてしまう可能性があった。薫自身がしでかした事なら、自分は何も関係がないが、ここで全てを悟られてしまっては、薫に多大な迷惑をかけてしまう。それだけは避けたかった。 沈黙を貫く事が正解なのかもしれない。それでも二人を押さえつける伊月が放つ重圧からは簡単には逃げきれない。弟だから伊月の事を一番理解しているつもりの夏樹は、自分の言葉の使い方を慎重に選びな
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: 43話 忘れていたもの
 43話 忘れていたもの  頭を抱えながら考え事をしている伊月を見ている。一人の世界に置いてけぼりになったように感じた薫は、つい魔が差した。薫は身を乗り出すように伊月の様子を見つめるが、その事に気づかずに、自分の世界に没頭している彼がいる。自分を見てくれない、そんな状況が嫌になっていくと、無意識に伊月の頭を撫で始めた。「大丈夫か?」 自分の役を忘れてしまっている薫は、ついいつものように伊月に触れた。びくりと急な事に体を震わした伊月は、現実に引き戻されたようで、怪訝な目でこちらを見ている。いつもなら拒絶をしたのかもしれない。それでもただ動かず、その現実に向き合っている彼は、新しい強さを持とうとしている。「大丈夫ですよ。考え事をしてました」 警戒していた表情が少し落ち着いていく。どうやらこのマスクの人物の事を考えていたようだった。伊月の話かたでそれを察知した薫は、言いようのない嫉妬心を抱えていく。近くにいるのに、遠くに感じる。このような経験は初めてだった。いつも伊月からアクションを起こしてくれていたのに、このマスクを使うと、自分で行動をしなければ見てもらえない。「貴方は……誰なんですか?彼と同じ顔で何事もなかったかのように、初対面の人に会うようにしている。僕と貴方は昔からの知り合いですよね?」 伊月の言っている事は正解のようで不正解だ。彼がどんな事をしてしまったのかは把握しているが、彼の人物像までは知らない。自分なりに演じてはいるが、伊月からしたら人が変わったように、別人のようにしか感じれないのだろう。本来なら自分の正体を明かして、楽になりたい。それでも、今はまだ無理だった。薫はそこに触れずに、無言を貫く事にする。伊月が都合のいい解釈をしてくれる事を信じて。「そうですか、黙るんですね」 間が持たない。この状況をどう切り抜けていけばいいのか内心焦ってしまう。マスクで表情を隠しているから、気づかれる事はないが、少しの筋肉の動きに馴染んでしまう。その事を考えると、どうしても無の表情を保つしかなかった。 時間は早いようで遅い。腕時計の針がかすかに触れながら、二人の違和感をより深いものへ
Last Updated: 2025-07-07
Chapter: 42話 作られた事実
42話 作られた事実 自分の傷跡を見るたびに、傷つくのなら、見えない所でサポートすればいい。そう考えている彼は、伊月の知らない所で行動を開始する。なるべく日常を楽しんでほしいと願う気持ちは、周囲の人に沢山の指示を与え、いつしか彼を慕う人達で埋め尽くされていった。次第に上層部である話が持ち上がった。最初は親父の耳に入れないように、配慮していたらしいが、ここまで大きくなると、止めておくのは限界だったのだろう。 「彼はこの組織の人間を誑かしているようだ。この組織を乗っ取るつもりじゃないかと話が上がっている」 幹部五人は円卓の机で会議を続けている。そこに親父の姿はない。今日は話を通すかを決断する為に、極秘に会議を設けている形だった。何も知らない親父は、いつものように自室で書類整理をしている。 「他の組織とも結託しているようだぞ。この間ヤオハチの関係者と隠れるように密会をしていたしな」 吐き捨てるように状況を開示していく。ヤオハチの名前が出てくると幹部達の目つきが変わっていく。自分達の組織の妨害をしている闇組織ヤオハチ。今一番、警戒している組織の一つだった。表は経営者、裏は社会の治安を纏める為に出来ている伊月の所属する組織とは違う、犯罪まがいの事を中心にしているヤオハチに、沢山の闇組織が怒号を鳴らしていた。 「このまま好き勝手させておくのは、リスクがある。私達が奴らを支配しておかないと……」 幹部達は一斉に考え込んでいく。どうしたらこの組織を壊滅出来るのかを考えているようだった。その時、一人の幹部が思いついたように声を上げる。 「彼を利用する事で引っ張り出せるのでは?」 「その場合だと、こちらの行動は知られないようにしないといけない。どうする気だ?」 睨みをきかせながら、問いかけると、反応するようにニヤリと微笑んだ。何やら策があるらしい。幹部の一人は自分の考えた計画を周囲に伝えると、内容に驚いた幹部達は、一斉に笑い出しながら、決めていく。 裏でそんな事になっているとは思っていない伊月は、彼の事を思い出していた。いつも遠くから見守
Last Updated: 2025-07-06
Chapter: 41話 過去の彼と向き合う伊月
 41話 過去の彼と向き合う伊月  向き合って座っている二人は無言の中でじっと見つめあっている。話す気力の全くない伊月を見ていると、心が締め付けられていく。何か言葉をかけたいけど、別人の振りをしている今の自分に何か言える事はあるのかと考えてしまう。口にしてしまいそうな本音を溢れないように耐えている。「……貴方は」 自分にかけられた伊月の声を確認すると、虚な瞳が揺れていた。話すつもりがなかったはずだったのに、可愛い声が薫の心をじんわりと解いていった。何もかも正直に話したい気持ちが膨れ上がってくる。「なんだ?」 薫としての言葉はここで出してはいけない。自分に暗示をかけるように心の中で、何度も繰り返していく。何もなかったように取り繕うと、伊月の話を引き出していく。「どうして貴方は僕と婚約を?」「話が来たから、受けただけだ」 深い説明をすれば、自分の正体に気づかれてしまうリスクがある。最後の時まで、親父との約束を破らないように、安易的な言葉で繋げようとした。その事に、伊月は気づいていないようで、何かしら他にも理由はあるんだろう、と納得していた様子だった。「……僕には好きな人がいます、それでも僕を手放す気はないんですか?」 薫として関わっている時は、伊月のこんな表情を見た事がなかった。その対応を見ていると距離感がかなり開いているように感じる。彼に好かれていなかったら、こんな感じで対応されていたかもしれないと思うと、嬉しさが増していく。自分がどれほど、特別だったかを確認出来たから余計だ。薫は伊月の過去を親父から少し聞いていた。伊月にとってマスクの彼は拒絶するほど、嫌悪感を抱いているらしい。感情的になって、無礼な扱いを受けたなら報告をするように言われていたが、伊月も大人になったのだろう。完璧な対処だった。 空になったコーヒーを淹れにいくと、彼もお願いしますと差し出してくる。伊月も伊月なりに過去と向き合おうとしているようだった。コーヒーを淹れながら、次の言葉を考えていると、つい無言になってしまう。背中に感じる視線が痛い。伊月は彼の言葉を待っているのだ。
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: 40話 勘違いの現実
 40話 勘違いの現実  ずっと薫と過ごした部屋で居続けている伊月は、現実から逃げるように耳を塞いだ、彼にとってどんな音も、心の不安定を引き出してしまう材料になっているようだった。二日間、何も食べずにいる伊月の様子を確認している部下は、ため息をつきながら、体を支えていく。「満足しましたか? これが現実なんですよ。貴方と彼は縁がなかったんです」 縁がなかったと言い切る言葉が強烈な痛みを彼の心に与えていくと、全身に見えない力がかかっているように、重力がかかっていく。こんな思いをする事は、初めての経験だった。どんな事があっても、乗り越えられる自信を持っていた伊月だったが、こうも直面すると、耐えられない。捨てられた現実を受け止めきれない心に亀裂が生じる。これ以上、傷つきたくないと思いながら、全ての言葉を遮断する。それしか自分を守る術を知らなかったんだ。「こうなるのは分かっていたはずですよ。好き勝手してきた報いですね。これ以上、説教する気はないんで、そろそろいきましょうか」 歩く意思のない彼の体を抱き抱えると、部屋を出る。まるで死体を運んでいるような感覚に陥りながら、ため息を吐いた。 カンカンと階段を降りていくと、彼の婚約者が待つ車が停車していた。彼の護衛をしている人達は、周囲を警戒しながらも、伊月を受け入れる体制を作り出した。「後は頼むよ。私はまだ仕事があるから」「はい、お任せください」 護衛をしている三人のうち、一人は自信たっぷりそう言うと、満面の笑みで送り出した。新人教育をしながら、護衛をしている他の二人に視線で合図を送ると、苦笑いが返ってくる。エンジンの音が唸り上げると、何もなかったようにその場を離れた。  二人は無言の中で同じ時間を共有し始める。過去ばかりを見ている伊月と、正体を隠しながら彼の様子を伺う薫の姿が対比を生み出していく。どんな言葉をかけたらいいのか考えてみるが、今の伊月には言葉で説得しようとしても、地獄に突き落とすだけだろう。マンションを出る前に電話で言われた言葉を思い出しながら、瞼を閉じた。「伊月には正体をギリギリまで明かすな。あ
Last Updated: 2025-07-04
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