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あおはな
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روايات بقلم あおはな

貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を

貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を

「ノワール・ヴァレリアン。あなたとの婚約は破棄する」 それは十年前、貴族令嬢カローラが口にした決別の言葉だった。 平民出の“勇者候補”として騎士団に加わりながらも、魔力適性ゼロと嘲笑されていたノワール。 家のため、未来のため――カローラは彼を手放した。 そして十年後。 魔王が世界を滅ぼす寸前、ひとりの男が現れる。 黒衣に身を包み、魔王を屠り、神にすら刃を向けた“最強の勇者”の名は――ノワール。 「カローラ、君を迎えに来た」 その声は、静かに、でも狂おしいほどの執着を孕んでいた。 世界を救った報酬に、彼が望んだのは嘗て失った婚約者――ノワールだった。
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Chapter: 最終話 世界の終わりと、はじまりの中で
 雪解けの春が訪れてから、三年目の冬がこの村を包もうとしていた。 辺境の地、フィオレ――森と湖に抱かれたこの場所は、王国の地図からも抜け落ち、誰にも顧みられない静謐な空間として、ただそこに在った。 かつて神を斬り、王国を揺るがした男の姿など、ここにはない。 あるのは、薪を割り、子を抱き、スープを温めるただの父親の姿。 その名も、ノワール。 朝、カローラは戸口を開けて、小さく息をつく。 白い息が空に溶けていき、降り積もる雪はまだ浅く、木々の間から差し込む朝の光が、世界を仄かに照らしていた。「……寒いわね、今日も」 振り返ると、小さな足音が近づいてくる。 「ママ、ママっ、雪! ほら、ゆきだよ!」 まだ幼い女の子が、嬉しそうに外を指差している。 ふわふわの髪はカローラに似て柔らかく、目元と口元には、どこかノワールの面影が宿っていた。「ええ、見えてるわ……冷たくなるから、お外はパパが帰ってからにしましょうね」「うん……でも、あのね、ゆきのにおいって、ちょっとおいしそう」「ふふ、それは雪じゃなくて、パンの焼ける匂いじゃないかしら?」 母と娘の笑い声が、小さな家の中に柔らかく響いた。 ノワールは、その声を背に受けながら薪小屋から戻ってきた。 戸を開けると、少女が真っ先に駆け寄ってくる。「パパ、おかえり!」「ん。……ただいま」 無骨な男の口から返るその一言は、誰よりも誠実で、温かかった。 ノワールは娘の頭をそっと撫で、雪の付いた肩を軽く払い落とす。 その手はかつて神を屠った剣の手でありながら、今はただ、小さな命を優しく包むためだけに存在していた。 カローラは微笑みながら、薪を受け取る。 ノワールと交わす視線の中には、言葉を超えた絆があった。 「朝ごはん、できてるわ……スープ、少し冷めちゃったかも
آخر تحديث: 2026-02-10
Chapter: 第24話 罪と共に生きる
 カローラは、ふと鏡に映る自分の顔を見つめることがある。 薪の炎が揺れる小さな家の壁にかけられた、小さな銀縁の鏡。 その中に映るのは、どこか静かに落ち着いた、見慣れないほど柔らかい表情をした自分。 若くして貴族令嬢と呼ばれ、刺繍のドレスと決まりきった笑顔を着ていたあの頃――政略、名誉、婚約。 そうした言葉の中で、自分という存在を押しつぶして生きてきた少女は、今ここにはもういない。 火の灯るこの静かな家で、誰の目にも晒されず、ただひとりの隣で生きている。 それは、名誉でも義務でもなく、自ら選んだ日常。 彼の隣に在ること、それだけが、今の彼女の人生だった。 ノワール。 嘗て『黒衣の勇者』と呼ばれた男。 今では、村の誰もがただの一人の男、『ノワール』としか知らない存在。 彼は薪を割り、土を耕し、雨の日には無言で窓の外を眺めている。 あまりに静かで、あまりに平凡で――それでいて、彼女だけが知っているのだ。 平穏の奥に、どれほどの『絶望』と『異常』が潜んでいるかを。 この男の手は、かつて神を斬った。 王に膝をつかせ、信仰を捻じ曲げ、人の倫理と秩序を粉砕したその手が、今は温かいスープの鍋をかき回している。 だが、力は失われていない。 いや、むしろ――今もなお、世界を終わらせるだけの力を抱えている。 その全てを、たった一つの『願い』のために。 自分という存在のためだけに。 ──狂気にも似た、純粋な執着。 ある晩、火が赤々と燃える暖炉の前で、カローラは膝を抱えながら、ぽつりとつぶやいた。「……私を選んだんじゃないのよね」 ノワールは、振り返らなかった。 火の中に目を落としたまま、ただ静かに聞いていた。「あなたが選んだのは、『罪』だった……そうでしょ?」 ノワールの瞳が、ふとカローラへと向けられる。 その黒い目は、昔から変わらない。沈黙の中に、すべてを語る目だった。
آخر تحديث: 2026-02-10
Chapter: 第23話 一輪の花と、十年越しの贈り物
 その日が近づくと、カローラは朝から落ち着かない心地になる。 辺境の村にも春の兆しが差し始め、窓の外では木々が薄緑の芽を覗かせていた。 鳥たちがさえずり、土の匂いが柔らかく空気に混じる。 冬のあいだ閉ざされていた世界が、再び目を覚ますように、生の気配で満ちていく。 けれど、彼女の心に芽吹くのは、自然の変化ではなかった。 ──十年前。 すべてが光に包まれていた、あの眩しい初夏の一日。 小さな庭で、まだ幼い彼に向かって、彼女は無邪気に言ったのだ。『「守ってね』と。 何の打算も知らない、ただまっすぐな子供の願いとして。 侯爵家の庭園に咲いていた白い花。 彼女はそれを摘み、自分の髪にそっと挿して笑った。  あの時に交わした拙い約束は、今も彼女の胸に、色褪せることなく残っている。 春の訪れと共に、今年もその記憶が彼女の心をやさしく波立たせていた。 辺境のこの村にも、確かに春は訪れる。 夜の霜がゆるみ、凍てついた地面から草が芽吹き、空気にわずかな温もりが宿る。 そして──その季節になると、村の道の向こうから、毎年同じものが届く。 小さな包み――粗末な紙に包まれた手のひらほどのそれは、遠く長い旅をしてきたかのように、うっすらと埃をかぶっていた。 中には、一輪の白い花。 花弁は瑞々しく、まるで今しがた摘まれたかのような新鮮さで、指先に触れれば、朝露の余韻さえ残しているかのようだった。 柔らかな香りが、胸の奥を切なく揺さぶった。 手紙も、差出人の名もない。 言葉ひとつ添えられていない。 けれど、それが誰から届いたのか――カローラには、痛いほどわかっていた。 たった一輪の白い花。 それは、十年を越えても変わらぬ『誓い』の印。 彼が、毎年この日を忘れることなく、どれだけ遠く離れていても、どれほど言葉を交わさずとも、カローラを想い続けてきた証だった。 花びら一枚一枚に、彼の無言の想いが染み込んでいる気がした。 この世界のどこかで、自分が生きていることを、彼は確かに覚えていてくれている。 それだけで、心が熱を帯びた。 カローラはその白い花を、静かに、丁寧に押し花にする。 潰れぬように、壊さぬように、そっと、慈しむように紙に挟む。 そして、古い日記帳の一ページに、今年の記録を書く。 『また届いた』と書きながら、彼女は一年分の小
آخر تحديث: 2026-02-10
Chapter: 第22話 神なき国、王の独白
 王都、ヴァル=エルレア。 かつては信仰と栄光が交差し、神殿の鐘が朝と共に鳴り響いていた都市。 だが今、その鐘は沈黙していた。 白壁の神殿は封印され、門前に立つ者はなくなった。 かつて人々が頭を垂れた英雄の石像は撤去され、その破片が広場の隅に積み上げられている。「……何もかも、終わったように見えるな」 ローランド王は窓の外を眺めながら、誰にともなく呟いた。 その背中は、王国を支えてきた威厳を失い、ただ老いたひとりの男のそれに変わっていた。 重苦しい静けさの中、若い侍従が声を低くして問う。「……陛下、記念碑の撤去について、正式な告知を民へ?」「必要ない。民はすでに……すべてを知っている」 その声には疲れが滲んでいた。 いや、疲労ではない。 もっと深い場所で、何かが決定的に崩れてしまった者の声だった。「神を斬った男……ノワールという異端の『勇者』を称えようとしたのは、我々自身だ」 王は机の上の羊皮紙に視線を落とした。 それは、かつて彼がノワールに与えた――『望むものを授ける』と書かれた褒賞の誓約書。その下には、今も王自らの署名が残っていた。「……だというのに、彼が望んだものは、栄光でも、土地でも、地位でもなかった。ただ一人の『女性』だけだったのだ」 室内に微かな緊張が走る。 誰も名を口にしなかった。その名前を出すことが、何か大切なものを壊してしまいそうで。「我々は……彼を何一つ理解していなかったのだよ」 王は唇を噛み、ゆっくりと言葉を継いだ。「力だけを見て、利用価値ばかりを量ろうとした……だが、あの男は確かに『人間』だった」 手のひらをそっと空へ向けるように、彼は天を仰いだ。「神を斬ったその手で、たった一人の女を選んだ。民でも、国家でも、神でもない……彼のすべてを投げ出しても惜しくないと信じた存在を……だが、それが……我々には理解できなかった。否、理解しようとすら、しなかったのだ」 重苦しい沈黙が落ちる。 やがて王は深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。そしてぽつりと呟いた。「……だがな、不思議なものだ」「彼が『あの娘』を選んだことだけは、なぜか……私の胸に、小さな安堵をもたらしている」 侍従が戸惑いを隠せず、小さく眉をひそめた。「安堵……に、ございますか?」「ああ」 王はわずかに微笑んだ。その笑みには、ほの
آخر تحديث: 2026-02-10
Chapter: 第21話 報せの届かぬ地にて
 王都から北東へ、馬で十日。 広大な森林ときらめく湖に囲まれた辺境の村──フィオレ。 地図にもほとんど記されることのないその地は、旅人の間でも語られることのない、まるで世界から忘れ去られたような村だった。 その静寂の中に、ノワールとカローラの姿があった。 まるで、世界の喧騒から自らを切り離したかのように、ひっそりと。 この地の朝は霧とともに始まり、夜は風とともに閉じる。 夜明けに現れる乳白色の霧は、すべてを柔らかく包み込み、まるで過去の影すら覆い隠すようだった。 ここには戦も魔獣も届かず、貴族の命令も、王の意志も届かない。 そんな場所で、彼らは人目を避けながら、しかし寄り添うように、静かな日々を送っていた。 ノワールは仮面を外し、黒衣を脱ぎ、勇者という象徴を捨てた。 古びたチュニックに袖を通し、木を割り、水を汲み、畑を耕す。 その鍛え上げられた身体は、土の感触にも驚くほど馴染んでいた。 外から見れば、ただの寡黙な青年。 勤勉で、村人からの信頼も厚い『ひとりの男』だ。 だが――カローラだけは知っていた。 彼の中に今なお残る、世界を斬り裂いた力の残滓を。 触れるものすべてを焼き尽くすほどの、神すら殺せる男の余韻が、彼の沈黙の奥に息づいていることを。 ある日、村の子供が木から落ちて怪我をした。 幼い悲鳴に、村人たちが駆け寄る。 ノワールは黙って傷に手をかざしただけで、血は止まり、腫れも引いていった。 少年はすぐに立ち上がり、笑顔を取り戻した。「すごい、おじさん!魔法使いみたいだよ!もう痛くない!」 少年の無邪気な声に、ノワールは少しだけ笑った。 それは、かつてカローラだけに見せた、不器用で、しかし心からの微笑みだった。 だがその光景を、カローラは木陰からそっと見つめていた。 彼の優しさを見るたび、胸の奥が締め付けられる。 まるで、それがあまりに眩しくて、手が届かないもののように思えて。 彼は、これからも『人間のふり』をして生きて
آخر تحديث: 2026-02-07
Chapter: 第20話 この手を、二度と離さない
 ――これは、たったひとつの祈りの終わり。 そして、新たな世界の始まりだった。 静まり返った夜、月は雲ひとつない空に高く昇り、白銀の光を惜しげもなく地上へ降り注いでいた。 その光が、屋敷の奥にある古い庭園に、まるで静かな祝福のように広がっている。 ノワールとカローラは、そこで向かい合っていた。 月明かりの中に、ふたりの影が静かに寄り添っている。 そこは、かつてふたりが『出会った』場所だった。 幼いころの記憶が微かに残る、あの草むらの中。 貴族と孤児という身分の隔たりすら忘れ、ただ一人の『人』として、初めて言葉を交わした庭。 十年の歳月を超えて、ふたりは再びその同じ場所に立っている。 月光に照らされて、木々の葉がさやさやと揺れる音が、沈黙をそっと慰めている。 ノワールが、静かに口を開いた。「……お前が笑ってくれるなら、俺は、それだけで生きていける」 その声には、かすかな震えが混じっている。 世界を焼き、神を斬った男とは思えないほどに、脆く、繊細な響きだった。「世界なんかなくても、名誉が消えても、この身が朽ちても構わない。誰に否定されても、嘲られても……お前の笑顔だけが、俺の世界だった。それだけで、俺は何度でも、生まれ変われる」 彼の手が、ゆっくりと持ち上げられる。 その指先が、月の光を受けて青白く輝いていた。 剣すら要らない今、彼はただ――震える手を、カローラへと差し出す。 『力』ではなく、『心』で触れようとするように。 その手は、かつて数多の命を奪い、数え切れない咎を背負った手。 だが今は、ただひとりの少女の『選択』にすがるような、弱さを隠さない手だった。「……でも、お前が俺を拒むなら――」 ノワールの声はさらに小さく、風に溶けるようにかすれた。「そのときは……俺はこのまま消える。世界からも、お前の記憶からも、痕跡ごと消
آخر تحديث: 2026-02-07
血月の誓い 〜生贄の一族と吸血鬼の花嫁〜

血月の誓い 〜生贄の一族と吸血鬼の花嫁〜

修学旅行の帰り道、めんどくさそうにしている篝(かがり)と姉大好き灯(あかり)の双子姉妹は、深い霧に包まれた村に迷い込む。そこは、「血月村(ちづきむら)」――赤い月が空に浮かぶ、呪われた村だった。 霧の中に現れた人間、宮守(みやもり)は嫌そうな顔をしつつも、生徒たちに宿を提供する。 しかし彼は言った 「夜には出歩くな」と。 その禁忌を破った生徒達が美しい双子の吸血鬼に襲われる。 この村は双子の吸血鬼に支配された呪われた村だった。 「篝、お前は俺のモノだよ」 「灯、さぁ、おいで僕の花嫁」 花嫁として選ばれた灯を助ける為、篝は双子の吸血鬼に立ち向かう。
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Chapter: 第33話 甘い牢獄
 結城の叫びは、ほとんど悲鳴だった。「篝ッ!!」 その声が、深い水の底へ沈みかけていた意識を強引に引きずり上げる。 篝の指先は影月へ伸びかけたまま空中で止まり、次の瞬間、はっと我に返った。「……っ、あ……」 息が乱れる。 胸の奥まで這い上がってきていた黒い紋様が、まだ熱を持ったまま脈打っている。 痛みは消えない――むしろ意識が戻ったことで、余計にはっきりした。 肩から胸元へ、皮膚の下を何かがじわじわと侵していくような不快感。 篝は反射的にその腕を押さえた。 影月の目が、わずかに細まる。 その表情の変化はほんのわずかだった。 だが、篝にははっきりわかった。 間違いなく苛立っている。 自分へではなく、あの声を飛ばした結城へ向けて、底の深い苛立ちが滲んでいる。「……また、あの男か」 低く吐き捨てるような声。 さっきまで篝へ向けていた甘さが、ほんの一瞬だけ剥がれた。 赤い瞳の奥で、獣めいた不機嫌が鋭く光る。 外では、結城がなおも何か叫んでいた。 結界越しで言葉は途切れ途切れにしか届かない。 それでも、篝の名を呼び続けていることだけはわかる。 宮守も札を打ち込み続けているのだろう。 社全体が低く軋み、赤布が揺れ、見えない力同士がぶつかり合う気配がしていた。「篝に触れるなと言ったはずだ」 影月が静かに呟く。 それは結城へ向けた言葉でありながら、同時に篝の耳元へ落とされた呪いみたいでもあった。 篝は苦しげに呼吸を整えようとする。 正気へ戻った、戻ったはずだ。 なのに、身体の奥へ入り込んだ熱と痺れは消えない。 影月の声も、さっきよりさらに深く残っている。 夢の残響なんかではない。今この場で直接、意識の内側へ流し込まれている。 影月は再び篝へ視線を戻した。 先ほどの苛立ちは、すでに表面から消えている。 穏やかですらある――だが、その静けさがかえって恐ろしかった。「……まだ、折れないか」「誰が……」「そう言いながら、さっきは手を伸ばしただろう?」 その一言が、篝の喉を締めつけた。 否定したい。 したいのに、指先がほんの一瞬でも影月へ向いた事実が、声を奪う。「違う……!」「違わないぞ?」 影月は篝の顎へ指を添える。 冷たい。 冷たいのに、その冷たさが火照った皮膚へ触れた途端、身体の奥の痛みがわずか
آخر تحديث: 2026-03-30
Chapter: 第32話 檻の中
 笑い声が、社の奥でひどく静かに響いた。 それを合図にしたように、空気が変わる。「……っ!」 篝が聖刀へ手をかけた瞬間、床に貼られた札が一斉に赤く燃え上がった。 火ではない――けれど火に似たものが走り、畳の上に複雑な紋を描く。 社全体が生き物のように脈打ち、壁も床も、天井から垂れた布も全てが一斉に篝へ牙を剥いた。「篝っ!」 結城の叫びが飛ぶ。 宮守が札を投げるが、白い紙片は途中で見えない壁に弾かれ、空中で焼け落ちた。 これは、結界だ。 しかも前とは比べものにならないほど濃い。 篝は反射的に灯へ駆け寄ろうとした。だが足元から黒い靄が這い上がり、足首へ絡みつく。 冷たくぬめるような感触に全身が総毛立つ。 振り払おうと身を捩ったその瞬間、背後から伸びてきた腕に腰を強く引かれた。「――捕まえた」 耳元で落ちた声に、心臓がひやりと縮む。 影月が、こちらに目を向けていた。 気配もなく背後へ回り込まれていた。 篝が振り返るより早く、影月の腕は完全に篝を囲い込み、逃げ道を塞ぐ。 乱暴に締め上げるわけではない。 けれど、一度捕らえたものを二度と離すつもりはないという静かな強さが骨の奥まで食い込んでくる。「放せッ!」「嫌だ」 低く囁く声は、奇妙なほど穏やかだった。 それが余計に恐ろしい。 社の奥で、紅月が楽しげに笑う気配がする。 灯は祭壇の前で揺れるみたいに座ったまま、こちらを見ていた。 さっきまで見せていた柔らかな笑みは薄れ、代わりに苦しげな揺らぎが瞳の奥に浮かんでいる。「篝!くそ、離れろ!」 結城が結界へ体当たりする。 鈍い音とともに弾き返され、地面へ膝をつく。 宮守も即座に札を打ち込むが、今度は社全体がそれを拒むように低く唸った。「駄目だ、分断された……!」 宮守の声が苦く沈
آخر تحديث: 2026-03-28
Chapter: 第31話 偽りの再会
 社へ足を踏み入れた瞬間、篝は息を止めた。 前に来たときと同じはずの場所なのに、空気の質が違う。 赤い布、揺れる灯火、壁を埋める札、床板に染み込んだ古い匂い――どれも見覚えがあるのに、今夜はそれらが妙に整いすぎて見えた。 まるで誰かのために、丁寧に舞台が用意されたみたいに。 ――その中央に、灯はいた。 花嫁衣装をまとい、祭壇の前に静かに座している。 白い衣は灯火を受けて薄く紅を溶かし、黒い髪が肩口に滑り落ちていた。 指先は膝の上で綺麗に重ねられ、背筋はすっと伸びている。 その姿だけ見れば、ひどく整っていて、ひどく穏やかだった。 穏やかすぎて、逆におかしい。「……灯」 篝の声が、思ったより小さく出た。 胸の奥で心臓が痛いほど脈打つ。 ようやく会えたはずなのに、喜びより先に背筋へ冷たいものが走っていた。 灯はゆっくりと顔を上げる。 その動作には、前に見たようなぎこちなさがなかった。 まるで夢の底から引き上げられかけているような危うさもない。 ただ静かに、滑らかに、篝の方へ視線を向ける。 そして――微笑んだ。「――篝お姉ちゃん」 その呼び方に、篝の足が止まる。 懐かしい声。 懐かしいはずなのに、どこか薄い膜を一枚挟んで聞いているような違和感がある。 抑揚はある、ちゃんと灯の声だ。 けれど、そこに灯そのものの熱がない。 まるでよくできた人形が、覚えた台詞を綺麗に口にしたみたいだった。 灯は小さく首を傾げる。「来てくれたんだね」「……灯」「うれしい」 笑顔は柔らかい。 だが、その柔らかさが篝にはひどく不気味に思えた。 灯はこんなふうに静かに笑う子ではない。 もっと無遠慮で、もっと感情が顔に出る。 嬉しいなら嬉しいで、駆け寄ってきて腕にしがみつくくらいの子だ。 今、目の
آخر تحديث: 2026-03-28
Chapter: 第30話 再突入
 夜は、まるで最初から待っていたみたいに森へ降りてくる。 日が落ちるのを待っていたのではない。 寧ろ陽が沈んだ瞬間から、こちらがようやくあちらの時間へ足を踏み入れるのだと気づかされるような夜だった。 木々の隙間に沈んだ闇は深く、風さえどこか湿り気を帯びている。 宮守の隠れ家を出た時、篝は無意識に一度だけ背後を振り返った。 戻る場所を確かめたかったのか、それとも、今夜を越えられない予感を振り払いたかったのか、自分でもわからなかった。「行くぞ」 宮守の低い声が、夜気を裂く。 篝は短く息を吸い、頷いた。 隣では結城が黙って歩調を合わせる。 腰には札と縄、簡素な刃物。 戦う力は篝ほどない。 それでも、今夜ここへいるという意思だけは、誰よりも固かった。 三人は森の奥へ進んだ。 足元の落ち葉は湿り、踏むたびに鈍い音を返す。 前回、灯を取り戻せなかった夜と同じ道のはずなのに、今夜の森はまるで別の場所みたいだった。 木々の影が濃い。 遠くで鳴く鳥の声も、途中で首を絞められたみたいに不自然に途切れる。 篝は聖刀を抱えるように持ちながら歩いていた。 鞘の中の刃は相変わらず沈黙している。 だが重みだけは確かだった。 灯を助けるために必要なもの。 双子を断ち切るために必要なもの。 そして、自分の中の何かとも向き合わなければ抜けないもの。 今夜の目的ははっきりしていた――灯を取り戻し、そして儀式そのものを壊す。 もう一度だけではない。今度こそ終わらせる。「――ここから先は、声を落とせ」 宮守が足を止めずに言う。 その手には、すでに数枚の札が挟まれていた。 白い紙は夜の中で妙に浮いて見える。「社の周りには前より濃い結界が張られているはずだ。私はそれを崩す」「俺は?」「篝の補助だ。それと、無理に前へ出るな……お前の役目は篝が踏み込む道を切らさぬことだ」「……わかった」 結城の返答は短い。 けれど、その声に怯えはあっても迷いはなかった。 篝は前を見たまま、指先へ少しだけ力を込める。 影月と向き合わなければならない、避けては通れない。 あの男はおそらく、今夜も篝を待っている。 拒絶されるたびに喜ぶような、あの壊れた執着を胸に抱えたまま。 思い出したくもないのに、夜になると影月の声はひどく近くなる。 ――俺のところへ来
آخر تحديث: 2026-03-25
Chapter: 第29話 花嫁の部屋
 灯は、長い夢を見ているような気がしていた。 目を開けているはずなのに、何もかもが薄い膜を隔てた向こう側にある。 揺れる灯火も、畳に落ちる影も、遠くから聞こえる水音も、どれも少しだけ現実感がない。 身体は重く、指先ひとつ動かすにも、深い水の底でもがくみたいな鈍さがあった。 ――紅い。 部屋の中のものは、どれもひどく紅く見える。 壁にかかる布も、灯籠の火も、漆塗りの小箱も、目を凝らすたびに血の色を滲ませる。 白いはずの自分の袖口でさえ、灯の目にはどこか薄く染まって見えた。 花嫁衣装だと、誰かが言っていた気がする。 その言葉を聞いたとき、灯は最初、それが自分のことだとは思わなかった。 誰か別の、もっと遠いところにいる知らない娘の話をしているみたいだった。「灯」 柔らかな声が、耳元に落ちる。 灯はゆっくりと顔を上げた。 紅月がそこにいた。 白い髪、白い肌、そしてよく笑う口元。 見た目だけなら綺麗な人だと思う。 怖い顔をしているわけでもない。 怒鳴ったり、乱暴に掴んだりもしない。 寧ろ、最初からずっと優しかった。 気分が悪そうにしていれば水を飲ませ、髪が乱れれば指先で丁寧に梳き、眠そうにしていれば肩へ寄りかからせてくれる。 だからこそ、その優しさが怖かった。「また、そんな顔してるね」 紅月はくすりと笑った。 その指が、灯の頬へ触れる。 冷たい――ひどく優しい手つきなのに、その冷たさだけはどうしても慣れなかった。「怖い?」「……」 答えようとしても、うまく声が出ない。 灯は小さく唇を動かすだけで、すぐに力が抜けてしまう。 紅月はそれを責めない。 ただ、よしよしと宥めるみたいに髪を撫でる。「大丈夫だよ。怖がらなくていい」「……こわ、い」「うん。でも、すぐに慣れる」 
آخر تحديث: 2026-03-24
Chapter: 第28話 条件
 夕暮れは、森の輪郭を少しずつ曖昧にしていく。 昼のあいだに進められる準備は、もうほとんど残っていない。 宮守の札と、結城の手に馴染ませた縄と刃物、隠れ家の周囲の確認、退路の確認。 ひとつひとつは小さな作業でも、どれも夜を越えるためには欠かせないものだった。 だが、そのどれよりも重いものが、今は篝の膝の上にあった。 ――黒い鞘に収まったままの聖刀。 抜こうとしても抜けない。 柄に触れるたび、刃の重みだけは手のひらへ伝わってくるのに、肝心の刀身はまるで拒むみたいに沈黙したままだ。 篝は火の落ちた囲炉裏のそばで、その刀をじっと見つめていた。 宮守は向かいに座り、結城は少し離れた壁際で札を束ねている。 外では風が木々を揺らし、葉擦れの音が絶えず鳴っていた。「……やっぱり、抜けない」 篝が低く呟くと、宮守はわずかに目を細めた。「力を込めれば抜ける、というものではない」「ああ、それは何度も聞いた」「なら、まだ理解しておらんのだろう?」 宮守の言葉は淡々とした言い方だった。 篝は眉を寄せ、刀の柄を握り直す。「理解って何だ……灯を助けたい気持ちは本物だぞ?」「それだけでは足りん」 宮守の声は低く、揺るがなかった。「その刀は吸血鬼を斬れる。だが、ただ強く願うだけでは抜けない。怒りでも、憎しみでも、焦りでも駄目だ。もっと深いところへ届かねばならん」 篝は顔を上げる。 結城も手を止めて、宮守の言葉に耳を傾けていた。「もっと深いところって」「本当に【手放せないもの】と向き合い、それでも斬る覚悟を決めた時だ」 その一言が、小屋の薄暗い空気に重く沈んだ。 そしてその言葉を聞いた篝はすぐには返せなかった。 本当に手放せないもの。 そんなもの、考えるまでもない。 灯だ――ずっとそう思っていた。 灯を助けるためなら何
آخر تحديث: 2026-03-23
暁を待つ獣

暁を待つ獣

祖父の死をきっかけに、山間の村に戻った冬馬は、そこで“何か”に触れてしまった。 夜の森に響く低い唸り声、皮膚に残る熱、腹の奥で疼くような感覚―― そして、現れた謎の男・朔夜。 「お前を噛んだら、もう手放せない」 耳元で囁かれたその声に、冬馬は抗えない恐怖と、知らず滲む期待を感じてしまう。 誰にも語られない村の禁忌、獣神の末裔の存在。 「噛まれたら終いだ」という言葉の意味を知る時、冬馬はもう、戻れない場所に足を踏み入れていた。 抗う心と裏腹に疼く身体。 それは愛か、呪いか。 彼はなぜ“選ばれた”のか―― 逃れられない運命の中で、二人の関係が、じわじわと絡み合っていく。
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Chapter: 最終話
 ――雪解け水が、山の小川をさらさらと流れている。 凍てつく冬の終わりを告げるように、透明な水音が谷に響き、湿った空気が土をほどいていく。 梅の蕾がふくらみはじめ、朝の光が少しずつ長くなっていく。 陽だまりにはやわらかなぬくもりがあり、湿った土の匂いが春の到来を告げていた。 囲炉裏の火が、ぱちり、と小さく弾ける。 そのそばで、冬馬は静かに茶を淹れていた。 鉄瓶から立ち上る湯気が天井へと昇っていく。蒸気の白さが朝の光に溶け込み、ゆらゆらと家の中にやさしく揺れていた。 隣の布団には、まだ朔夜の気配が残っている。 わずかに乱れた寝具と、温もりを帯びた空気。 そこに彼がいた証が、確かに息づいている。 冬馬はふと立ち上がり、障子を開けた。 外には朝靄がまだわずかに残っていて、庭先の石畳に水滴がきらめいていた。 小さな春草が、土の隙間から顔をのぞかせている。 その色は淡く、けれど強く、何もなかった場所にしっかりと命を刻んでいた。 一羽の小鳥が、いつの間にか軒先に止まっていた。 細い声で、ひとこと囁くように鳴く。 ――ああ、春が来たんだ。 冬馬はその場にしゃがみこみ、小鳥と同じ目線で空を見上げた。 風が、枝を撫でる音がする。 何もかもが、すべてが、やさしくなっていた。 茶碗を手に取り、縁側に腰を下ろす。 吸い込む空気には、もうあの冷たい刺すような冷気はなかった。 代わりにあったのは、どこか甘さを含んだ春の匂い。「……起きてたのか」 背後から声がした。 低く、落ち着いた、けれどどこか眠たげな朔夜の声。 冬馬が振り返ると、彼は寝癖のついた髪を無造作にかき上げながら、まだ少し緩んだ着物のまま、縁側にやってきた。 その体温が近づくだけで、心の底まであたたかくなる。「起きたばかり。茶、飲む?」「……ああ」 茶碗を手渡すと、朔夜は静かにそれを受け取り
آخر تحديث: 2026-02-02
Chapter: 第24話
 風の音が変わった。 かつては冷たさを運んでいた山の風が、いまはただ、やわらかく頬を撫でるだけだった。 冬馬は、村の奥にある古びた家の縁側に腰を下ろし、庭に舞い散った落ち葉をじっと見つめていた。 あの祭りの夜から、いくつの朝を迎えただろう。もはや数えるのもやめていた。「ここ、思ってたよりも……悪くないな」 ぽつりとこぼれた独り言に、背後から静かな気配が重なる。 振り返ると、朔夜が土のついた手で鍋を運んでいた。 肩には湯気がふわりとかかっていて、ほんのりと味噌の匂いがする。「少しずつ、住めるようになってきた」 そう言って、朔夜は座敷の上に鍋を置き、冬馬の隣に腰を下ろした。 湯気がふたりの間をやわらかく揺れ、冬の名残の冷気をやさしく溶かしていく。「……俺さ、外に出なきゃって、ずっと思ってた」 冬馬の声は低く、どこか遠くを思い出すようだった。 「……」 朔夜は黙ったまま、隣でじっと耳を傾ける。「でも今は……なんかもう、いいかなって」 素直な本音だった。誰に向けるでもなく、ただ心から零れた声。 朔夜は、言葉の代わりにそっと冬馬の手を握った。 指先から伝わるぬくもりが、まるで静かな誓いのようにじんわりと沁みていく。 村人たちは、もはや冬馬を避けることはなかった。 ときおり誰かが玄関先に山菜を置いていき、子どもが遠巻きに笑いながら手を振っていく。 ――神の伴侶。 誰も口に出さない。だが確かに、そう『扱われている』ことを、冬馬は知っていた。 けれど、それでもう構わなかった。 朔夜が隣にいて、自分を必要としてくれて――この場所で共に生きている。 それだけで、もう十分だった。「朔夜……お前が、何者でもいい。俺は……お前といたい」 静かに言った言葉に、朔夜が応える。「……その言葉だけで、俺はここに在ることができる」 言葉の代わりに、指が優しく絡み合う。 火の入った鍋の中で、ぱちりと音が弾けた。 小さな音が、ふたりの空間にやさしく染み渡っていく。 冬馬は、そっと肩を寄せた。 そのぬくもりは、これまでに感じたどんな温もりよりも、確かだった。 夕暮れが近づいていた。 山の稜線が、ゆるやかに黄金色へと染まりはじめる。 陽は傾き、空の色が少しずつ赤みを帯びていく。 鳥たちの声も、いつの間にか遠のいていた。 夜の帳が、静
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Chapter: 第23話
 熱に浮かされたような夜だった。 外は、まだ深い夜の帳に包まれているというのに――冬馬の身体は、まるで火照りに飲み込まれるように、じんわりと熱を帯びていた。 薄い寝巻き一枚では、とても足りない。 だが、熱いのは肌ではない。 もっと奥――胸の真ん中から、焦げつくようにゆっくりと広がっていく、そんな熱だった。 「……朔夜……」 名前を呼ぶ声は、意識の底から滲み出たように微かだった。 ただひたすらに、求めるように。懇願するように――喉の奥で震えながら絞り出された。 その瞬間だった。 ――ふ、と。 閉ざされたままの戸が、音もなく開いた。 軋みひとつなく、まるで風が押したわけでもないのに。 部屋の空気が、かすかに揺れる。 そして、闇の中から、じんわりと沁み出すように、懐かしい『気配』が忍び寄ってきた。 朔夜――。そう思ったときには、冬馬の膝が床に落ちる。。 意思ではなく、身体が、自然と動いていた。 視線を上げる。 夜の影の奥、静かにそこに立つ男の姿が目に映った。「……どうして……来なかったんだ」 喉が震えた。 怒りでもない、責めるでもない。 ただ――寂しさが焼けるように胸を焦がしていた。 朔夜は、答えない。 ただ静かに、音もなく歩み寄ってくる。 その歩みは、まるで夜の帳をまとった影のようだった。 光に溶けることも、闇に沈むこともなく――ただ、滑らかに近づいてくる。 やがて冬馬の目の前で、彼はそっと膝をつく。 そして、言葉もなく、顔を寄せ、額と額をそっと重ね合わせた。「……悪かった」 それだけだった。 けれど、その一言で――冬馬の中に溜まっていたすべてが、崩れていった。 凍っていた想いが、ひとつ、またひとつと、静かに溶けてゆく。「あんたがいないと……俺、どうにかなりそうだった……」 声は震え、指先が朔夜の衣を掴む。 胸元に顔を埋めると、そこには――確かに、朔夜の体温があった。 熱い――けれど、それは自分を焦がす炎ではなく、帰る場所のような暖かさだった。「……怖かったんだ。お前が壊れるのが」 囁くような声が、耳元に落ちる。 朔夜の手が背中をやさしく撫でるたび、心がほどけてゆく。「けれど――もう、離さない。お前が望まなくても、縛りつける」 その低い声に、冬馬の心臓が跳ねた。 次の瞬間、強く、腰を抱き
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Chapter: 第22話
 祭りが終わった村には、奇妙な安堵が漂っていた。 子供たちは再び表を駆け回り、老婆たちは縁側で茶を啜っている。 男たちは畑に戻り、女たちは水を汲みに行く――一見、何も変わらぬ日常が戻ってきたかのようだった。 けれど、冬馬にはそれが『静かすぎる』ことに気づいていた。 鳥の声すら、妙に遠い。 風が吹いているのに、木々が揺れていないように見える。 足を止め、耳を澄ませても、何かが足りない。空気の層が一枚、ぴたりと自分だけに張りついているような、そんな感覚があった。「……誰も、俺を見ていない」 いや――そうではない。 村人たちは、確かに視線を向けている。 ただ、それは人を見る目ではなかった。 まるで、もう『人』ではない何かに対する、敬いと畏れが入り混じった視線。 以前のような拒絶でも嫌悪でもない。だが、それ以上に遠くて、触れられない。 『穢れ』の扱いから、今や『神の伴侶』のように。 それは、身を清められ、選ばれしものとして神に捧げられたという意味だった。 祭りの夜に『選ばれた』者として、冬馬の立場は変わった。 老婆たちは誰も口に出さぬが、その目は言っていた。 ――あの子はもう人ではない。神の隣にいる者だ、と。 冬馬は、ふと視線を落とした。 自分の手が、自分のものではないように思えた。 皮膚の下に、別のものが流れている気がする。 体温が変わったのではない。自分の“重心”が、どこか別の場所へ移動してしまったような感覚だった。 『村を出よう』と思っていた気持ちが、いつのまにか霧のように薄れていることに気づき、ぞっとした。 どこかへ行きたいわけではない。ただ、ここにいることが――妙に『自然』に感じてしまう。 「……まずいな」 自分でもその感覚の異常さに、舌打ちしたくなる。 そして、もうひとつ気づいたことがあった。 ――朔夜が、現れない。 あれから、何度夜を迎えても、戸が開く音はなかった。 耳を澄ませても、あの匂いは流れてこない。 まるで、朔夜という存在が、この村から『抜け落ちた』かのように。 けれど、冬馬は知っていた。 朔夜は『いる』。 確かにこの村のどこかに。 ただ、それが人の姿である必要は、もうないのだ。 ――神は姿を持たぬもの。 今、朔夜は『村の外』に姿を隠したのではない。 『村そのもの』に溶けている
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Chapter: 第21話※
 指が、唇が、肌に刻むように伝えてくる。 ここにいる、お前は俺のものだ、と言っているかのように。 朔夜の舌先が、冬馬の鎖骨をなぞった瞬間――「……ぁ……っ……」 短く震えた吐息が、思わず唇から漏れる。 それは拒絶でも、困惑でもない。 むしろ、堪えようとしても溢れてしまった、無垢な反応だった。 肌を撫でる手が、まるで見えない縄のように冬馬の身体を縛っていく。 押しつぶされそうなほどの熱に包まれて、思考も感覚も朧になっていく。「さく、や……っ……」 その名を呼ぶ声さえ、吐息にまぎれて震える。 まるで誰にも聞かせたくないように、けれどどうしても抑えきれないように。 朔夜の指先が、腰に触れる。「や……っ、そこ……だめ……っ」 甘く途切れた声に、朔夜の目が細められる。 それはどこか愉しげで、けれど真剣な熱を孕んでいた。「言っただろ。もう、逃がさないって……」 そして彼は、躊躇なく冬馬の奥へと踏み込んだ。 声にならない声が、夜の静けさの中に溶けていく。 ――ふたりだけの、ひそやかな再契り。 鼓動と吐息、肌と肌が何度も何度も重なって、まるで過去の欠片までも溶かすように。 冬馬は、目を閉じたまま感じていた。 朔夜に刻まれていく痛みと快さ、それがまるで「生きている証」のように思えて。「……朔夜……っ……」 声が、泣きそうに震えた。 それは悦びであり、許しであり、心の奥からあふれ出た、愛の名残だった。 吐息の熱が肌をなぞり、指先が、胸元からゆっくりと下へ滑っていく。 触れられるたび、冬馬の身体が小さく震え、目元が赤く染まっていった。「朔夜……そんな、触れ方……っ」 震える声に、朔夜はわずかに口角を上げる。 けれどその目には、余裕よりも深く沈んだ熱情が揺れていた。 いつもは無表情に近いその顔が、今は獣のように飢えて見える。 けれどそれは、ただの欲ではない――喪ったものを取り戻そうとする、切実な飢えだった。「痛くしない……だから、力を抜け」 囁きとともに、そっと太腿を押し開かれる。 羞恥よりも先に、冬馬の奥底で何かが疼いた。 深く、満たされたい――そんな感情が、自分の中にあることに気づき、息が詰まる。 準備を整えられたその瞬間、朔夜が腰を落とす。 熱を孕んだものが、冬馬の奥へとゆっくり沈んでいく。「……ぁ、く…
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Chapter: 第20話
 夜は静かすぎた。 虫の声もなく、風さえ鳴らない。 まるで世界から音がひとつ、またひとつと抜け落ちていくように。 冬馬は部屋の隅で、膝を抱えていた。 薄い布団は掛けているはずなのに、身体の奥からじくじくとした寒さが這い上がってくる。 いや、寒いのではない。ただ――熱が足りないのだ。「……おかしい……」 かすれた声で呟き、腕を擦る。指先がひどく冷たい。 だが、それ以上に、胸の奥が痛かった。誰かに呼ばれている気がして、何度も夜の窓を見た。 けれど、あの気配はもう何日も姿を見せない。 ――来ない。朔夜が、来ない。 来なくていいと、あんな風に拒絶したくせに。 けれど来ないことが、こんなにも苦しいなんて、知らなかった。 気配すらない夜に、冬馬の肩は細かく震えていた。「……さく……や……」 喉の奥から、掠れたような声が零れた。 震える唇が、その名をようやく紡いだ瞬間だった。 ――ぎぃ、と音もなく、戸が開いた。 風のないはずの夜。 けれど、その隙間から染み出すように、濃く、熱い匂いが這い込んでくる。 それは冬馬の肌に染みついていたはずの香り――忘れたくても、忘れられなかった、朔夜の匂い。 冬馬は息を詰め、ゆっくりと顔を上げた。 視線の先、そこに――朔夜がいた。 闇の中で、朔夜の瞳だけがはっきりと輝いている。 黒曜石のようなその目は、凪いだ夜の湖底のように深く、そしてひどく飢えていた。 何も言わない。ただ、静かに、じっと冬馬を見つめていた。 けれどその視線が触れるたび、まるで身体の奥の奥まで舐められているような錯覚を覚え、冬馬はひくりと背筋を震わせる。「……どうして……今まで、来なかった……」 ようやく紡いだその声は、涙の膜を纏っていた。 熱と戸惑いと、胸を焦がす不安が、喉を焼いて掠れていく。 朔夜は、答えずに一歩、また一歩と近づいてくる。 踏みしめられた床板が、わずかに軋むたび、冬馬の心臓が跳ねた。 息を呑み、逃げようとした脚は動かなかった。 背中が壁につき、動けなくなる。 それなのに、心のどこかでは――待っていた。あの熱を、あの腕を。「……やっと、素直になったな」 低く湿った声が、耳に届いた瞬間、身体がひくりと跳ねる。 それはまるで、囁きというより――噛みつく寸前の獣の吐息だった。 そして次の瞬間、朔
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