LOGIN祖父の死をきっかけに、山間の村に戻った冬馬は、そこで“何か”に触れてしまった。 夜の森に響く低い唸り声、皮膚に残る熱、腹の奥で疼くような感覚―― そして、現れた謎の男・朔夜。 「お前を噛んだら、もう手放せない」 耳元で囁かれたその声に、冬馬は抗えない恐怖と、知らず滲む期待を感じてしまう。 誰にも語られない村の禁忌、獣神の末裔の存在。 「噛まれたら終いだ」という言葉の意味を知る時、冬馬はもう、戻れない場所に足を踏み入れていた。 抗う心と裏腹に疼く身体。 それは愛か、呪いか。 彼はなぜ“選ばれた”のか―― 逃れられない運命の中で、二人の関係が、じわじわと絡み合っていく。
View More――雪解け水が、山の小川をさらさらと流れている。 凍てつく冬の終わりを告げるように、透明な水音が谷に響き、湿った空気が土をほどいていく。 梅の蕾がふくらみはじめ、朝の光が少しずつ長くなっていく。 陽だまりにはやわらかなぬくもりがあり、湿った土の匂いが春の到来を告げていた。 囲炉裏の火が、ぱちり、と小さく弾ける。 そのそばで、冬馬は静かに茶を淹れていた。 鉄瓶から立ち上る湯気が天井へと昇っていく。蒸気の白さが朝の光に溶け込み、ゆらゆらと家の中にやさしく揺れていた。 隣の布団には、まだ朔夜の気配が残っている。 わずかに乱れた寝具と、温もりを帯びた空気。 そこに彼がいた証が、確かに息づいている。 冬馬はふと立ち上がり、障子を開けた。 外には朝靄がまだわずかに残っていて、庭先の石畳に水滴がきらめいていた。 小さな春草が、土の隙間から顔をのぞかせている。 その色は淡く、けれど強く、何もなかった場所にしっかりと命を刻んでいた。 一羽の小鳥が、いつの間にか軒先に止まっていた。 細い声で、ひとこと囁くように鳴く。 ――ああ、春が来たんだ。 冬馬はその場にしゃがみこみ、小鳥と同じ目線で空を見上げた。 風が、枝を撫でる音がする。 何もかもが、すべてが、やさしくなっていた。 茶碗を手に取り、縁側に腰を下ろす。 吸い込む空気には、もうあの冷たい刺すような冷気はなかった。 代わりにあったのは、どこか甘さを含んだ春の匂い。「……起きてたのか」 背後から声がした。 低く、落ち着いた、けれどどこか眠たげな朔夜の声。 冬馬が振り返ると、彼は寝癖のついた髪を無造作にかき上げながら、まだ少し緩んだ着物のまま、縁側にやってきた。 その体温が近づくだけで、心の底まであたたかくなる。「起きたばかり。茶、飲む?」「……ああ」 茶碗を手渡すと、朔夜は静かにそれを受け取り
風の音が変わった。 かつては冷たさを運んでいた山の風が、いまはただ、やわらかく頬を撫でるだけだった。 冬馬は、村の奥にある古びた家の縁側に腰を下ろし、庭に舞い散った落ち葉をじっと見つめていた。 あの祭りの夜から、いくつの朝を迎えただろう。もはや数えるのもやめていた。「ここ、思ってたよりも……悪くないな」 ぽつりとこぼれた独り言に、背後から静かな気配が重なる。 振り返ると、朔夜が土のついた手で鍋を運んでいた。 肩には湯気がふわりとかかっていて、ほんのりと味噌の匂いがする。「少しずつ、住めるようになってきた」 そう言って、朔夜は座敷の上に鍋を置き、冬馬の隣に腰を下ろした。 湯気がふたりの間をやわらかく揺れ、冬の名残の冷気をやさしく溶かしていく。「……俺さ、外に出なきゃって、ずっと思ってた」 冬馬の声は低く、どこか遠くを思い出すようだった。 「……」 朔夜は黙ったまま、隣でじっと耳を傾ける。「でも今は……なんかもう、いいかなって」 素直な本音だった。誰に向けるでもなく、ただ心から零れた声。 朔夜は、言葉の代わりにそっと冬馬の手を握った。 指先から伝わるぬくもりが、まるで静かな誓いのようにじんわりと沁みていく。 村人たちは、もはや冬馬を避けることはなかった。 ときおり誰かが玄関先に山菜を置いていき、子どもが遠巻きに笑いながら手を振っていく。 ――神の伴侶。 誰も口に出さない。だが確かに、そう『扱われている』ことを、冬馬は知っていた。 けれど、それでもう構わなかった。 朔夜が隣にいて、自分を必要としてくれて――この場所で共に生きている。 それだけで、もう十分だった。「朔夜……お前が、何者でもいい。俺は……お前といたい」 静かに言った言葉に、朔夜が応える。「……その言葉だけで、俺はここに在ることができる」 言葉の代わりに、指が優しく絡み合う。 火の入った鍋の中で、ぱちりと音が弾けた。 小さな音が、ふたりの空間にやさしく染み渡っていく。 冬馬は、そっと肩を寄せた。 そのぬくもりは、これまでに感じたどんな温もりよりも、確かだった。 夕暮れが近づいていた。 山の稜線が、ゆるやかに黄金色へと染まりはじめる。 陽は傾き、空の色が少しずつ赤みを帯びていく。 鳥たちの声も、いつの間にか遠のいていた。 夜の帳が、静
熱に浮かされたような夜だった。 外は、まだ深い夜の帳に包まれているというのに――冬馬の身体は、まるで火照りに飲み込まれるように、じんわりと熱を帯びていた。 薄い寝巻き一枚では、とても足りない。 だが、熱いのは肌ではない。 もっと奥――胸の真ん中から、焦げつくようにゆっくりと広がっていく、そんな熱だった。 「……朔夜……」 名前を呼ぶ声は、意識の底から滲み出たように微かだった。 ただひたすらに、求めるように。懇願するように――喉の奥で震えながら絞り出された。 その瞬間だった。 ――ふ、と。 閉ざされたままの戸が、音もなく開いた。 軋みひとつなく、まるで風が押したわけでもないのに。 部屋の空気が、かすかに揺れる。 そして、闇の中から、じんわりと沁み出すように、懐かしい『気配』が忍び寄ってきた。 朔夜――。そう思ったときには、冬馬の膝が床に落ちる。。 意思ではなく、身体が、自然と動いていた。 視線を上げる。 夜の影の奥、静かにそこに立つ男の姿が目に映った。「……どうして……来なかったんだ」 喉が震えた。 怒りでもない、責めるでもない。 ただ――寂しさが焼けるように胸を焦がしていた。 朔夜は、答えない。 ただ静かに、音もなく歩み寄ってくる。 その歩みは、まるで夜の帳をまとった影のようだった。 光に溶けることも、闇に沈むこともなく――ただ、滑らかに近づいてくる。 やがて冬馬の目の前で、彼はそっと膝をつく。 そして、言葉もなく、顔を寄せ、額と額をそっと重ね合わせた。「……悪かった」 それだけだった。 けれど、その一言で――冬馬の中に溜まっていたすべてが、崩れていった。 凍っていた想いが、ひとつ、またひとつと、静かに溶けてゆく。「あんたがいないと……俺、どうにかなりそうだった……」 声は震え、指先が朔夜の衣を掴む。 胸元に顔を埋めると、そこには――確かに、朔夜の体温があった。 熱い――けれど、それは自分を焦がす炎ではなく、帰る場所のような暖かさだった。「……怖かったんだ。お前が壊れるのが」 囁くような声が、耳元に落ちる。 朔夜の手が背中をやさしく撫でるたび、心がほどけてゆく。「けれど――もう、離さない。お前が望まなくても、縛りつける」 その低い声に、冬馬の心臓が跳ねた。 次の瞬間、強く、腰を抱き
祭りが終わった村には、奇妙な安堵が漂っていた。 子供たちは再び表を駆け回り、老婆たちは縁側で茶を啜っている。 男たちは畑に戻り、女たちは水を汲みに行く――一見、何も変わらぬ日常が戻ってきたかのようだった。 けれど、冬馬にはそれが『静かすぎる』ことに気づいていた。 鳥の声すら、妙に遠い。 風が吹いているのに、木々が揺れていないように見える。 足を止め、耳を澄ませても、何かが足りない。空気の層が一枚、ぴたりと自分だけに張りついているような、そんな感覚があった。「……誰も、俺を見ていない」 いや――そうではない。 村人たちは、確かに視線を向けている。 ただ、それは人を見る目ではなかった。 まるで、もう『人』ではない何かに対する、敬いと畏れが入り混じった視線。 以前のような拒絶でも嫌悪でもない。だが、それ以上に遠くて、触れられない。 『穢れ』の扱いから、今や『神の伴侶』のように。 それは、身を清められ、選ばれしものとして神に捧げられたという意味だった。 祭りの夜に『選ばれた』者として、冬馬の立場は変わった。 老婆たちは誰も口に出さぬが、その目は言っていた。 ――あの子はもう人ではない。神の隣にいる者だ、と。 冬馬は、ふと視線を落とした。 自分の手が、自分のものではないように思えた。 皮膚の下に、別のものが流れている気がする。 体温が変わったのではない。自分の“重心”が、どこか別の場所へ移動してしまったような感覚だった。 『村を出よう』と思っていた気持ちが、いつのまにか霧のように薄れていることに気づき、ぞっとした。 どこかへ行きたいわけではない。ただ、ここにいることが――妙に『自然』に感じてしまう。 「……まずいな」 自分でもその感覚の異常さに、舌打ちしたくなる。 そして、もうひとつ気づいたことがあった。 ――朔夜が、現れない。 あれから、何度夜を迎えても、戸が開く音はなかった。 耳を澄ませても、あの匂いは流れてこない。 まるで、朔夜という存在が、この村から『抜け落ちた』かのように。 けれど、冬馬は知っていた。 朔夜は『いる』。 確かにこの村のどこかに。 ただ、それが人の姿である必要は、もうないのだ。 ――神は姿を持たぬもの。 今、朔夜は『村の外』に姿を隠したのではない。 『村そのもの』に溶けている
淡い光が、瞼の裏に滲んでいた。 閉じたまぶたの奥で、薄曇りの朝の気配がぼんやりと揺れている。 耳の奥で鳥の声がかすかに響き、遠くで風が木々を撫でる音が混じる。 けれど、その音がやけに遠く感じられ、鼓膜の奥では、別の音――ひゅう、ひゅうと浅く震える自分の呼吸音が、異様に大きく響いていた。 ゆっくりと瞼を開けると、天井の木目がぼんやりと滲み、視界の端が霞んだ。 浅い呼吸が喉の奥で詰まり、胸の奥がきゅうっと縮み、薄く湿った音がひゅうっと鳴った。 息が吸いきれず、肺の奥が重たく痺れる。 身体の奥で、じんわりとし
朔夜の気配が、すっと夜気に溶けていった。 気づけばもう、背後にいたはずの熱は消え、ただ森の奥から葉の擦れる音だけが微かに響いていた。 けれど、消えたはずなのに――首筋に残る吐息の熱が、夜気の冷たさに触れて、じわりとひりつくように疼いた。皮膚の奥に沈んだ熱が、鼓動と一緒に微かに震え、喉の奥で息が細く詰まった。「……夢じゃない……絶対に……」 掠れた声が喉の奥で零れた。 自分でも気づかないうちに、言葉が漏れていた。
坂道を下り、山の裾に広がる小さな集落に足を踏み入れたとき、空気が僅かに湿っている気がした。 昼間のはずなのに、雲が薄く広がり、陽の光はどこかくぐもり、瓦屋根の影が薄暗く地面に滲んでいる。 家々の壁はどこも煤けて色褪せ、軒先の植物もどこか元気がなく、息を潜めるように佇んでいた。 玄関先で箒を持つ老婆が、こちらをちらりと見ていたのだが、その視線はほんの一瞬で、すぐに地面へと落とされ、口元が小さく引き結ばれた。 他の村人たちも同じで、こちらが近づくと、わずかに肩をすぼめ、視線を逸らし、声を潜め、ただ作業の手を止めずにいる。
夜気は重たく、湿った空気が家の中を満たしていた。 縁側に座り込んだ冬馬の膝の上で、指先がわずかに震え、浅い呼吸がひゅうひゅうと喉の奥で擦れる音を立て、息を吸い込むたび、冷たいはずの空気が肺の奥でひりつき、胸の奥がじわりと軋んだ。 ――その時、空気が変わる。 ふわり、と獣のような、湿った土と草の匂いが鼻先をかすめた。 肩がひくりと震え、指先が膝の上で小さく痙攣した。「……っ」 思わず声が漏れた瞬間、気配が、そこにあった。 音もなく、影が夜気から滲み出すようにして、目の前に立って