暁を待つ獣

暁を待つ獣

last updateLast Updated : 2026-02-02
By:  あおはなCompleted
Language: Japanese
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祖父の死をきっかけに、山間の村に戻った冬馬は、そこで“何か”に触れてしまった。 夜の森に響く低い唸り声、皮膚に残る熱、腹の奥で疼くような感覚―― そして、現れた謎の男・朔夜。 「お前を噛んだら、もう手放せない」 耳元で囁かれたその声に、冬馬は抗えない恐怖と、知らず滲む期待を感じてしまう。 誰にも語られない村の禁忌、獣神の末裔の存在。 「噛まれたら終いだ」という言葉の意味を知る時、冬馬はもう、戻れない場所に足を踏み入れていた。 抗う心と裏腹に疼く身体。 それは愛か、呪いか。 彼はなぜ“選ばれた”のか―― 逃れられない運命の中で、二人の関係が、じわじわと絡み合っていく。

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Chapter 1

第01話

「乃亜さん、私、妊娠したの。だから早く凌央さんと離婚して。子供が生まれて、父親がいないなんて可哀想でしょう?」

電話越しに聞こえる涙声。乃亜は眉間を押さえ、冷たく答えた。

「姉さん、他に言いたいことは?早く話して。このまま録音しておくから、離婚裁判で財産分与の時に役立てるわ」

「乃亜、このクソ女!録音なんてしてたの?」

相手はそう叫ぶと、電話を切った。

受話器越しのツーツー音を聞きながら、乃亜は手元の妊娠検査表を見つめた。「妊娠4週目」の文字がまるで自分を突き刺すように感じた。

本当は今夜、凌央に妊娠を知らせるつもりだったが、もうそんな必要はない。

この子供は、不意にやってきた。

しかし、乃亜にとっては唯一の救いだった。

仕事を終えて帰宅すると、小林が出迎えた。

「奥様、朝おっしゃったメニューに従って料理の準備をしました。お着替えになったら調理をお願いします」

乃亜は靴を履き替えながら、家の中に入った。

「作っておいて。私はお風呂に入りたい」

小林は驚いた様子で「え、ええ、わかりました!」とうなずいた。

奥様は以前、病気の時でさえ料理を自分で作るほどだったのに。今日は一体どうしたのかしら?少し心配だ。

疲れ切った体で浴槽に浸かる乃亜。気づけば、いつの間にか眠ってしまっていた。

ふと、体が浮くような感覚で目を覚ました。

目の前には、凌央の深い瞳があった。

「小林さんが、お前が具合悪そうだと言っていた。病気か?」

彼の表情はいつも通り冷たく、何の感情も読めなかった。

その瞳を見つめながら、乃亜はふいに美咲からの電話を思い出し、微笑んだ。

「あなたの義姉さんが妊娠したらしい。産ませるつもり?」

「……ああ」

乃亜は彼の顔から何かを読み取ろうとしたが、落胆するばかりだった。

彼女は彼を押しのけ、床に降り立つと、バスタオルで乃亜の体を包み込んだ。

「その子供を産ませるなんて、私は許さない」

どんな女性も、結婚生活に割り込む第三者を好むわけがない。ましてや、その女性の子供など認めるはずがない。

美咲の子供と乃亜自身の子供――どちらか一つしか選べない。

凌央がどうしても美咲の子供を守ると言うのなら、乃亜は迷わず離婚を切り出す。

その言葉を聞いた瞬間、凌央の鋭い目つきが乃亜に向けられた。

「その子に手を出すな、と警告したはずだ!」

3年間ともに過ごしてきた夫が、まるで彼女を引き裂こうとするかのように、凄まじい形相で睨みつけている。

乃亜の心は、刃物で深く刺されたように痛み、血まみれになる思いだった。

彼がこれほどまでにあの子供を庇うとは――

だから美咲は、あんなにも堂々と電話をして、離婚を迫ったのか。

初めて出会った時の衝撃。再会の時のときめき。そして、長年続けてきた一方的な愛。

この物語は、ようやく終焉を迎えたのだと乃亜は悟った。

暗く深呼吸をし、胸に押し寄せる激しい痛みを抑えながら、乃亜はゆっくりと口を開いた。

「凌央、私たち、離婚しましょう」

美咲の子供が生まれたら、自分も身を引かなければならない。どうせ追い出されるのなら、今のうちに離婚した方がいい。

美咲の妊娠は、凌央の浮気の証拠だ。離婚の時には少しでも多く財産をもらえるだろう。

凌央は「離婚」という言葉を聞いた瞬間、顔の表情が一気に暗くなった。

「お前が俺と離婚したい?それはお前が本当に愛している田中拓海が戻ってきたからか?」

乃亜は少し驚いたが、冷たく笑って答えた。

「そうよ。私が拓海を愛していると分かっているなら、さっさと離婚届にサインして。そうすれば、私たちは本当に結ばれることができるから」

結婚して3年間、乃亜はずっと良い妻であろうと努力してきた。実家ではあまり大切にされなかった彼女だったが、それでも箱入り娘として何もかも整った生活をしていた。それに、凌央のために仕事の合間を縫って料理を学び、パン作りやフラワーアレンジメントまで習った。

凌央の胃が弱かったため、彼女は3年間毎日栄養を考えた食事を作り、彼の胃の元気に戻した。

それほど努力しても、彼は乃亜が他の男を愛していると信じている。

それがどれほど乃亜を傷けたことか。

凌央は怒りで歯ぎしりしながら、突然乃亜の目の前に迫り、圧迫感たっぷりに言い放った。

「お前は俺の女だ。離婚したとしても俺のものだ!他の男と一緒になるなんて、夢見るな!」

乃亜は彼の視線をまっすぐ見つめ、恐れることなく答えた。

「サインしないなら、婚内不貞で告訴するわよ。その時は桜華市の誰もが美咲が浮気相手だと知ることになるでしょうね。あの人のことをあれほど大切にしているあなたなら、彼女の名声が地に落ちるのは嫌でしょう?」

以前なら、美咲が目の前に現れても無視することができた。しかし今、彼女は妊娠している。しかも、自分の子供と同じ父親の子供だ。これ以上見て見ぬふりを続けることなどできない。

凌央は長い指で乃亜の顎を掴み、冷たい視線を浴びせた。

「久遠グループを倒産させたくなければ、大人しくしていろ。美咲には手を出すな!」

彼の言葉一つ一つが、心に重く響き、まるで槌で打たれるようだった。

乃亜は背筋に冷たいものを感じた。

凌央は彼女を放して、服を整えた。その姿は再び上流社会のエリートのようだった。

彼が去った後、乃亜は自分の惨めな姿を見下ろし、自嘲の笑みを浮かべた。

「これでも桜華法律事務所の看板弁護士、桜華市のトップ弁護士なのに。外では堂々とした姿を見せても、凌央の前ではこんなに惨めになるなんて」

すぐに気持ちを切り替え、乃亜は部屋着に着替えて階下へ向かった。

ダイニングに入ると、耳に優しい男性の声が入った。

「泣かないで。すぐに行くから」

その後、凌央は慌ただしく部屋を出て行った。

テーブルに並べられた4品1汁を見ても、乃亜の食欲は湧かなかった。

お腹の中の子供を思い出し、無理やり食べ物を口に運んだが、味が全く分からなかった。

部屋に戻ると、依頼人からの電話が鳴った。酔った様子の依頼人は延々と夫との過去を語り始めた。

「結婚した頃は何もなかったけど、一緒に頑張って幸せだった。でも今ではお金を手にして、夫は浮気を繰り返すようになったの」

乃亜は自分の結婚生活を思い出さずにはいられなかった。

結婚して3年、彼女たちが夫婦であることを知るのは身近な数人だけ。外では誰も彼らが夫婦だとは知らない。

少なくとも依頼人には、かつて幸せな時間があった。

その事実に、なぜか胸が苦しくなった。

かつては、愛する人と一緒にいられるなら、どれほど卑屈な思いをしても幸せだと思っていた。今ではそれがただの愚かさだったと気づいた。

結局、依頼人は電話の途中で眠ってしまい、乃亜はスマホを置き、目を閉じた。

「目を覚ませば、新しい人生が始まる」

深夜、携帯電話の音で目を覚ました。ぼんやりする中で耳に届いたのは、

「乃亜さん、すみませんが夢幻館まで来て兄さんを迎えに来てくれませんか?酔っ払っているんです」

言葉を聞き終える前に電話は切れた。

乃亜は深く息を吸い込み、明日の朝に市役所で離婚手続きをする予定があるのを思い出した。今迎えに行かないと、凌央が二日酔いで手続きに遅れる可能性がある。

仕方なく、布団を跳ね除けて立ち上がった。

「明日離婚すれば、凌央が会所で酔い潰れていようが、もう私には関係ない」

結婚して3年、夢幻館に凌央を迎えに行くのは一度や二度ではなかった。乃亜は慣れた足取りで個室を探した。

その部屋には、美咲がいた。彼女の存在に乃亜は驚かなかった。

美咲はこのグループの富裕層たちと親しくしており、凌央の正妻である乃亜は、彼らにとっては異物のような存在だった。

「乃亜さん、こんな夜遅くに呼び出してしまって、本当に申し訳ないです!」

電話をかけてきた田中裕樹は、彼らの中で最年少で、凌央を心から尊敬しているようだった。

「いいえ、大丈夫です」

乃亜は微笑みながら、柔らかな声で答えた。

凌央の周りの富裕層たちは彼女を見下し、名前で呼び捨てにするのが常だった。そんな中、唯一彼女を「乃亜さん」と呼んでくれるのが裕樹だった。

裕樹が拓海の弟であることもあり、乃亜は彼に良い印象を持っていた。

その時、冷たく鋭い声が響いた。

「美咲さんが来たからには、凌央の面倒は彼女に任せればいい。あなたがここにいる必要はない。帰れ」

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第01話
 冬馬《とうま》は山を覆う霧が、薄い紗のように枝葉の隙間を滑り落ちていくのが見えた。  霧は風に流されるでもなく、重たく澱んだ空気の中で、ただそこに留まり、森の奥へと溶け込んでいくようだった。  葉の縁に溜まった雫が、ぽたり、と落ち、石の上で小さな音を立てた。  か細く消え入りそうなその音は、しかし冬馬の耳の奥に、残響のように微かに残った。  灰色の空は低く垂れ込み、雲の輪郭は滲んで、空と山の境目が曖昧だった。  視界の奥で、細い枝が風に揺れ、かさりと葉擦れの音が微かに聞こえる。  その音に、冬馬は無意識に目を向けたが、そこには何もいなかった。  けれど、その「何もいない」が、余計に胸の奥をざわつかせる。 風が頬をひやりと撫で、通り過ぎていった。 車の窓をほんの少しだけ下ろすと、冷えた空気が指先に触れた。  思った以上に冷たく、一瞬、指を引き込めそうになったが、冬馬はそのままじっとしていた。  湿った木の匂いが、風の中に混じって流れ込んできた。  苔、濡れた土、落ち葉の発酵しかけた匂い。  それらが薄い靄の中で溶け合い、鼻腔をくすぐり、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。  冬馬は深く息を吸い込んだが、喉の奥に鈍い痛みが広がり、思わず細く息を吐き出した。 ――こんな場所だったか。 だが、そもそも冬馬はこの場所を、ちゃんと覚えてなんていなかった。  祖父の葬儀で耳にした『山奥の村』という響きと、幼い頃の曖昧な記憶が頭の奥で擦れ合っているだけで、景色としての輪郭は残っていない。  幼い頃に一度だけ来たことがあったはずなのに、それも夢の中で見たものだったのか、あるいは作り上げた記憶だったのか、自分でも確信が持てないでいた。  目の前に広がる鬱蒼とした山道。  雨に濡れて黒ずんだ石段。  枝葉の合間から覗く、苔むした岩肌。  それらはどれも見覚えがないはずなのに、なぜか冬馬の皮膚の裏側がじわりと冷たくなる。  じっとりとした視線を浴びているような感覚が、背中の中心に触れるような錯覚を呼び、呼吸が浅くなった。  無意識に肩を竦め、首筋をすくめたところに、冷たい風が入り込み、ひやりとした冷気が背中を這った。  車のタイヤが石を踏み、ぐり、と小さな音を立てる。その音が無性に耳障りで、冬馬は思わず息を止めた。  ハンドルを握る指先
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第02話
 夜が深くなるにつれて、窓の外の景色はぼんやりと溶けていく。 山の稜線も、木々の輪郭も、雨に滲んで曖昧になり、ただ灰色の闇が外に広がっているようだった。 風は止み、代わりに、しとしとと細い雨が降り出し、雨粒が軒先を打つ音は、まるで誰かが指先で木を叩くように、規則的で、けれどかすかだった。 時折、古びた木の柱が小さくきしみ、梁の奥で何かが軋むような音がする。 その音が、やけに湿った空気の中で遠く、響くように思えた。 深い森の奥で何かが息をひそめ、微かに呻くような音を立てているのかもしれない――そんな想像が、ふと脳裏をかすめた。 時計の針の進む音がないこの家の中では、そんな小さな音すらも、俺の鼓動よりも近くに感じられた。 自分の呼吸の音が、耳の奥で浅く響き、その合間に聞こえる雨の音や、時折混じる葉擦れの音が、どこか遠くの世界から届いているようで、現実感が薄れていく。 胸の奥に何かがじんと滲み、息をするたびに、どこかしらざわざわとした不安が喉元までせり上がってくるようだった。 縁側に座り、足元に置いた煙草の箱を指先で弄ぶ。 箱の角が少し潰れていて、紙の手触りがざらついており、無意識のうちに箱の縁をなぞり、爪で軽く引っかくと、薄い紙がわずかに毛羽立つ感触が伝わった。 指先が冷たい――掌も少し湿っている気がした。 箱から一本取り出し、口に咥える。 震える指先でライターを擦ると、火花が散り、小さな火が揺れた。 それは頼りない明かりで、すぐに夜の闇に呑まれてしまいそうだった。 煙草の先端がじわりと赤く染まり、ふっと煙が立ち上り、細く揺れるその煙は、縁側を抜ける冷たい空気の中で歪み、ゆらゆらと不規則に揺れて、やがて薄く消えていった。 吸い込むと、肺の奥にじんとした熱が広がり、喉の奥をかすめ、ゆっくりと細い煙を吐き出すと、冷たい夜気に触れた吐息が淡く白んで、目の前で儚く消えた。「……あんなに狭いアパートじゃ感じなかったのに、やけに、空気が重い」 ぽつりと呟いた声が、煙の向こうで溶けて消えていき、言葉は誰にも届かず、どこにも触れず、ただ夜の空気の中に滲んでいった。 都会にいた頃、こんな静けさを感じることはほとんどなかった。 駅前の喧騒や、アパートの上の階から聞こえる足音、車のクラクション、テレビの音、誰かの笑い声――そんな音に囲まれて暮らしてい
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第03話
「――やっと、戻ってきたんだな」 誰かが、そのように呟いた声が聞こえたような気がする。 腕の中に抱え上げられる感覚があった。 身体がゆっくりと浮き上がり、何かに包まれるような熱が背中にじわじわと染み込んでくる。 空気の冷たさに触れていたはずの皮膚が、別のものに覆われ、押し当てられるようにじんわりと重みを帯びていく。 それは焚き火のような一方的な温もりではなく、もっと湿度を含んだ、生々しい体温だった。 血が流れ、鼓動が響く、その『生』の感触が、布越しにじかに伝わってくる。 胸元に頬が触れた。 濡れた生地の冷たさが一瞬、ひやりと肌に当たり、思わず浅い息が喉の奥で震えた。 けれど、その冷たさの奥から、じわりと滲み出すように熱が広がり、まるで染み込むようにして肌の奥へと入り込んでくる。 冷たいのに、熱い――その曖昧な感覚に、思考が追いつかない。 ただ、頬に触れるその場所が、自分のものではない別の存在によって埋められていくようで、胸の奥にかすかな痺れが残った。 浅い呼吸が、朦朧とした意識の中で細く震える。 吐息をこぼしたとき、耳のすぐそばで低い声が、濡れた空気を震わせた。「……おまえの匂いだ」 声は低く、湿っていて、掠れ、けれどひどく熱を孕んでいた。 それは言葉の形をしているのに、言葉以上のもの――吐息の熱、喉の奥で擦れた音、息の流れ、唇の動き。 そのすべてが混ざり合い、鼓膜に直接触れるように、耳の奥で震えた。 意味を理解するよりも早く、声そのものが胸の奥に落ちる――それはまるで、長い間探していたものをやっと見つけた、そんな安堵にも似た響きを含んでいた。 けれど、そこに滲むのは安堵だけじゃない。 もっと深く、重たく、引きずるようなもの――欲望にも似た、諦めきれない執着が、その一言の奥に潜んでいるような気がした。 鼻先が、頬から耳元へとゆっくりと滑り、髪の根元に触れた。 湿った毛先が肌にかすかに触れ、そのたびに、かすかな吐息がふう、と肌の表面を撫でた。 喉の奥で低く鳴る音が、微かに唸るように響き、肺の奥までじんわりと染み込むようで――獣が、獲物の匂いを確 かめるように。 それはまるで、自分のものを見つけ出し、確かめるような動作だった。 鼻先が髪を梳くたび、浅い呼吸が小さく震え、その震えを、抱く腕が感じ取っている気がした。 皮
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第04話
 薄い光が、瞼の裏にじんわりと染み込んでくる。 閉じたまぶたの奥で、朝の色が淡く滲み、ぼんやりと揺れていた。 意識は深いところからゆっくりと浮かび上がり、肺の奥で湿った息が小さく震えた。 喉が乾いている――けれど、ただの乾きじゃない。 そこに、じんわりとした熱が残っているような、奇妙な感覚があった。「……っ」 小さく息を吸い込み、掠れた声が喉の奥で引っかかった。 何か言おうとして、けれど言葉にはならず、また浅い呼吸に混じって消えた。 唾を飲み込むと、喉の奥に微かな痛みが走り、その奥に残る熱の痕跡が、息のたびにじわじわと広がるようだった。 ゆっくりと瞼を開けると、障子の隙間から薄曇りの朝の光が、細い線を引くように差し込んでいた。 天井の木目が、かすかに揺れる視界の中でぼんやりと滲み、古びた木の匂いが、ひっそりと鼻腔に満ちていった。 雨は……止んだんだろうか? それとも、まだ降っているんだろうか――分からなかった。 ただ、部屋の空気は湿り気を帯びていて、畳に触れた指先がじんわりと冷たさを吸い込んでいった。「……何だよ、これ……」 低く、かすれるような声が、誰にも届かず、天井の木目に向かってこぼれ落ちた。 自分の声が、ひどく遠く、別の誰かのもののように感じられる。 頭をわずかに動かすと、首筋の奥に、重たく沈むような疼きが残っていた。 寝違えたような一過性の痛みじゃない。 もっと、じっとりとした――夜を引きずるような、深く沈んでいく疼きだ。 息を吸い込むと、肺の奥で何かがざわめいた。 湿った匂いが、うっすらと広がる。 雨の匂い。 土の匂い。 そして、その奥に、獣のような匂いが薄く残っていた。「……っ、何だよ……これ……」 唇が乾き、震える声が喉の奥でかすれて消えた。 震える指先を髪に伸ばすと、根元に残る湿り気に、指がわずかに絡まった。 それは雨のせいじゃない。 もっと近く、肌の奥にまで触れたものの残り香だった。 皮膚の上に、髪の奥に、じっとりと絡みつくように纏わりついている。 それが外の森から流れてきたものじゃないことを、冬馬は本能でわかっていた。「……夢、じゃ……ないのか……?」 声が震え、吐息に混じってかすれた。 胸の奥がきゅうっと縮み、息が浅くなる。 吐き出した息にすら、その匂いが微かに混じってい
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第05話
 身体が重い。 ただの疲れじゃない。 背中の奥がじわじわと火照るようで、逆に手足の先はどこか冷たく、熱と冷たさが皮膚の下で混じり合いながら、ゆっくりと絡まっていくようだった。「……はあ……」 小さく吐き出した息が、思った以上に掠れていた。 喉が乾いている――けれど、その渇きはただの乾きじゃなく、何かを噛み締めたあとに残るような、じっとりとした痺れを含んでいた。 胸の奥で鼓動が、まだ静かに、けれど確かに響いていた。 耳の奥で、じくりとした鈍い音が絡みつき、頭の芯をじわじわと熱くする。 祖父の遺品を整理しようと、居間の隅に置かれた古びた棚を引き寄せた。 木の表面はざらつき、角が丸く擦り減っていて、触れる指先に古い木の匂いが移った。 引き出しを引くと、ぎい、と軋む音が狭い部屋に響き、思わず肩が小さく跳ねた。 音が、妙に大きく聞こえ、壁や床に反響して、耳の奥にじわりと沈んでいく。 引き出しの中から出てきたのは、見覚えのない古びた骨董品の数々だった。 小さな木箱、煤けた紙に包まれた何かの欠片、埃をかぶり、微かに黄ばみを帯びた紙の端が、指先にふれるたび、ざらりとした感触を伝えてくる。 そして、その奥に――白く尖ったものが、ひっそりと潜んでいた。 獣の牙のような、けれど何の牙かも分からない、不確かな形をしており、同じように埃にまみれ、長い時間を閉じ込めたように沈んだ色をしていた。 それを思わず手に取った瞬間、掌の奥に、ひやりとした冷たさがじわりと広がった。 冷たいのに、じんわりとした感触が皮膚の下へと沈み、そこから細い棘のようなものがじわじわと広がっていくような錯覚を覚える。 指先がかすかに震え、喉の奥がひゅう、と細く鳴った。 背筋に、ぞわりと冷たいものが這い上がる。 背中の奥、肩甲骨の間あたりに、じっと張りつくような視線のようなものが、重たく、ひやりと留まった。 振り払いたいのに、身体は固まったまま、息が浅く、胸の奥で微かに引っかかる。「……っ、何の、牙だ……?」 掠れた声が、喉の奥で引っかかり、息と混じって震えた。 喉がひりつき、唇が乾いて、舌先がかすかにひりつく。 どうして、こんなものが――何で、こんなものが、こんなところに。「……なんなんだよ、これ……」 思わず零れた声は、自分の耳にさえ遠く、頼りなく響いた。 それ
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第06話
 薄暗い夕方。 雨が止んだあとの空気はまだ重たく、じっとりとした湿気が縁側の木の板に染み込んでいた。 座り込んだ腰の下から、薄く冷たい感触がじわりと伝わってくる。 ふう、と小さく息を吐き、タバコの箱を手のひらで軽く叩いた。 指先が微かに震えていて、箱の端がひしゃげ、紙の感触がひどく指に残る。 一本を取り出し、咥え――唇の端が乾き、微かに切れて、紙の感触がざらつきを伝えた。 ライターを擦ると、ぱち、と小さな火花が弾けた。 その音が、やけに耳に残る。 炎の先がちらりと揺れ、タバコの先に赤い火が灯った。 吸い込むと、肺の奥が熱を持ち、じんと鈍い感触が広がり、細い煙を吐き出すと、それがゆっくりと空気の中で漂い、ふわりと上へ消えていった。 その煙の向こうで、ふと――何かが視界の端で揺れた気がした。「……誰……?」 小さく、掠れた声が喉の奥で零れた。 すぐに答えが返ってくるはずもないと分かっていたのに、唇が勝手に動いていた。 鼓動が、喉の奥で重たく響く。 手の中のタバコが微かに揺れ、煙がふわりと揺れた。 その奥に――いた。 森の縁に、じっと佇む影。「……あ……」 小さな声が喉から洩れ、震えた。 指先が冷たくなり、膝の上で無意識にぎゅっと握りしめた拳が震えた。 煙が視界をぼやかし、湿った空気が鼻腔に薄く絡む。 その奥から、野生の匂い――雨に濡れた獣の、微かに生臭さを含んだ匂いが、じんわりと胸の奥に滲みてきた。 男が、森の奥に立っていた。 無言のまま、ただ、じっとこちらを見ている。 その視線は鋭いわけではなかった。 けれど、目の奥に潜んでいる何かが、言葉にならない重さでこちらの胸の奥にのしかかってくる。 怒りか、渇望か、それとも……もっと別の、形のない何か。 分からない。 分からないのに、胸の奥がきゅう、と縮み、息が浅くなる。「……なんで……」 声にならないような小さな声が、喉の奥で掠れた。「……また……」  何か言おうとしたが、言葉が喉に引っかかり、うまく出てこなかった。 震える指で、タバコの先端を灰皿に押しつけ――じゅ、と煙が立ち、焦げた匂いが鼻をかすめる。 指先が白くなるほど力が入っていることに気づき、そっと手を開く。 でも、手の震えは止まらなかった。 男が、ゆっくりと近づいてきた。 一歩、また一
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第07話
  男は、すぐ目の前にいた。 肌が触れそうなほど近く、湿った吐息が喉の奥で低く震え、細く浅い呼気が冬馬の頬を掠めた。 そのわずかな風のような温度さえ、皮膚の奥まで染み込んでくる気がして、ひやりとした寒気が背中を這い上がった。 目を逸らしたいのに、逸らせない。 視線が絡んだまま、息が詰まった。 吸い込もうとした空気が胸の奥で細く詰まり、喉が渇いてひりつき、唇の端がわずかに震えた。 その震えが頬へと広がり、浅く息を吸い込むたび、かすかな音が喉の奥で鳴った。 それが自分のものだと気づいた瞬間、さらに強く胸の奥がざわめき、声が出せなくなった。 男の顔が、さらに近づく。 わずかに傾いだ影が煙の向こうで揺れ、肌のすぐ近くで息づかいが濃くなった。 鼻先が冬馬の頬のすぐ近くを掠め、浅く、湿った呼気が肌に触れた。 その瞬間、ふわりと鼻腔を満たしたのは、雨に濡れた獣の匂い。 湿った土と草の匂いの奥に、わずかに血と鉄の生臭さが混じり合い、胸の奥にまで染み込んでいった。 息を吐くたび、その匂いが肺の奥で渦を巻き、じくじくとした疼きを残した。 男はそっと鼻先を寄せ、頬のすぐ近くで浅く息を吸い込んだ。 その音が、ひゅう、と湿った気配を含んで耳の奥で響き、その熱が薄い皮膚を撫でる。 目を閉じることも、拒むこともできず、ただ身じろぎもせずに受け止めるしかなかった。「……おまえの匂いだ」 低く湿った声が、喉の奥でこすれるようにして落ちていく。 その響きは空気の中に溶け、耳の奥でじわりと滲み、胸の奥にじんと沈んだ。 その響きが、皮膚の奥をゆっくりと這い回り、喉の奥で浅い息が詰まった。「……っ、なに……おまえ……」 震える声が、無意識のうちに喉の奥で掠れた。 唇がわずかに開き、言葉を絞り出そうとしたが、乾いた空気が歯の隙間から震え混じる音を立てた。 頬
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第08話
 坂道を下り、山の裾に広がる小さな集落に足を踏み入れたとき、空気が僅かに湿っている気がした。 昼間のはずなのに、雲が薄く広がり、陽の光はどこかくぐもり、瓦屋根の影が薄暗く地面に滲んでいる。 家々の壁はどこも煤けて色褪せ、軒先の植物もどこか元気がなく、息を潜めるように佇んでいた。 玄関先で箒を持つ老婆が、こちらをちらりと見ていたのだが、その視線はほんの一瞬で、すぐに地面へと落とされ、口元が小さく引き結ばれた。 他の村人たちも同じで、こちらが近づくと、わずかに肩をすぼめ、視線を逸らし、声を潜め、ただ作業の手を止めずにいる。 鍋を洗う水音、箒の掠れる音、靴音が湿った土を踏む微かな音。 それらが、妙に遠く、けれど耳の奥で張り詰めたように響いた。 その空気に、喉の奥がひりつき、思わず唾を飲み込む音がやけに大きく耳に残った。 浅い息を一つ吸い込み、震える指先を胸元で握る。「……あの、祖父のことで、少し……」 声が掠れ、喉の奥で途切れた。 自分でも息を呑むように言葉を飲み込み、唇の端がわずかに引きつるのが分かった。 けれど、家の軒先で縁側に座る年老いた男が、ゆっくりと顔を上げた。 土の匂いが混じるような空気の中、深く刻まれた皺の奥に、濁った瞳がわずかに光を含んだ。 口元がかすかに動き、湿った吐息が洩れた。「ああ……おじいさんのことなら、まあ……」 言葉の端がぼそりと途切れ、そこから先は小さな溜息のように流れ、濁流のように曖昧に溶ける。 何を言いたいのか、何を言いたくないのか、その輪郭が掴めない。 無理に続きを待つように視線を向けると、男の瞼が一度、重たく伏せられた。「……あの人も、長いこと……あの山に……な……」 途切れ途切れの言葉の間で、老婆が小さく咳払いをし、手元の箒の動きを止め
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第09話※微
 背後で気配が膨らんだ。 夜気に混じり、湿った熱がゆっくりと近づいてくるのが、背中の奥で分かる。 息を吸おうとしたが、肺の奥でひゅうっと詰まる音が鳴り、喉がかすかに鳴った。 視線を前に向けたまま、身体がこわばり、肩がわずかに震えた。「……おい、やめろ……近づくな……」 かすれた声が喉の奥で引っかかり、言葉が途切れそうになる。 それでも言わなければ、何かが侵食してくる気がして、震える声で絞り出した。 しかし、返事はない。 ただ、すぐ後ろで、低く湿った吐息が震え、肺の奥から絞り出されるような浅い息が肌に触れた。 次の瞬間、首筋にそっと鼻先が触れ、ひやりとした夜気の中で、その部分だけがじんわりと熱を持ち、皮膚が薄く震えた。「やめろ……っ」 息が震え、喉の奥で細い音が掠れた。 唇が乾き、肩がひくりと跳ねる。 その小さな震えをなぞるように、朔夜が低く笑うような息を吐き、耳元に唇を寄せた。「……冬馬、怖いのか」 湿った声が、喉の奥で掠れ、耳の奥でじわりと広がった。 言葉ではなく、熱のようなものが皮膚の奥に染み込んでくる。「違う……怖く、なんか……」 否定しようとした声が小さく震え、かすれ、最後の言葉が途切れた。 喉の奥でひゅうっと浅い息が鳴り、視界がじわりと滲む。「じゃあ、どうして震えてる?」 朔夜の声は低く、湿った吐息と共に首筋に絡みついた。 吐き出された音が肌の上を這い、皮膚の奥に小さな震えを刻み込んでいく。 肩が痙攣し、指先が膝の上でじっとりと汗を滲ませた。「……やめろ……本当に……やめてくれ……」 震える声が喉の奥で
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第10話
 朔夜の気配が、すっと夜気に溶けていった。 気づけばもう、背後にいたはずの熱は消え、ただ森の奥から葉の擦れる音だけが微かに響いていた。 けれど、消えたはずなのに――首筋に残る吐息の熱が、夜気の冷たさに触れて、じわりとひりつくように疼いた。皮膚の奥に沈んだ熱が、鼓動と一緒に微かに震え、喉の奥で息が細く詰まった。「……夢じゃない……絶対に……」 掠れた声が喉の奥で零れた。 自分でも気づかないうちに、言葉が漏れていた。 声は頼りなく、湿った空気に溶けて消えそうで、喉の奥でひゅうひゅうと震えた音が混じった。 震える指が、無意識に首筋へと伸びた。 触れた瞬間、びくりと肩が跳ね、指先が冷たく震える。 ――確かに、そこには残っていた。 肌の表面を薄く掠めた唇の感触、浅く沈んだ歯の圧、そして――なにより、吐息が置いていった熱が、皮膚の奥にじんわりと広がっていた。  指先でなぞるたび、そこからじくじくと疼くような感覚が胸の奥へと伝わり、喉の奥で小さな音が擦れた。 どうしてこんな感覚が残っているのか。 何もされていないはずなのに――けれど、あの言葉、あの指、あの声が、まだ耳の奥で湿った響きを持って、何度も何度も繰り返される。 あの時逃げなきゃいけなかった。 声を上げて、拒まなきゃいけなかった。 なのに、身体は震えたまま硬直して、指先が腹の上で僅かに痙攣し、足が動かなかった。 その事実が、余計に羞恥を煽り、胸の奥でじくじくとした熱と、冷たさの混じるような疼きを残していた。「なんで……なんで……」 小さな声が喉の奥で細く擦れ、膝の上で手を握りしめた。 けれど、手のひらがじっとりと汗ばんでいるのが分かり、余計に息が浅くなった。 指先が冷たく痺れ、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。 両腕を抱きしめたまま、浅い呼吸を繰り返し、冬馬はふと、
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