Chapter: 第3話沙月は、持ち帰った薔薇を100円均一で買ったそっけない一輪挿しにいけて、出窓に飾った。夫である陽介は、「へえ、珍しいことをするね」と笑った。悪意からではない。単なる夫婦のコミュニケーションとしての、さりげない会話のつもりだろう。それは沙月もわかっているのだが……「君もようやく女性らしい情緒というものを理解したんだね」「大袈裟ね、花を一輪飾っただけじゃない?」「いやいや、君さあ、花なんて食べられるわけでもないし、資産価値があるわけでもないし、買うだけ無駄だって言ってたじゃない」「ああ、言ったこと、あったかも……」沙月はそっと薔薇に触れる。たった一本残された、あの棘を指先で探す。ちくりと小さな痛みが走った。だが、血が流れるほどじゃない。思えば結婚生活は“お互い様”。時には沙月が彼の棘になることだってあるはずだ。だけど彼も、そうした小さな棘を飲み込んでくれている。円満な家庭とは、そうした思いやりで出来上がってゆくもの――沙月がふと顔を上げると、夫は邪気のない笑みを浮かべていた。「なんか疲れた顔してるなあ、いいよ、今日は手伝うよ、何をすればいい?」そう言ってくれる夫は優しいと思う。ルックスも整っているし、仕事だって大手企業のエリート社員という将来を約束された立場であり、収入も安定している。身持ちが固くて真面目だから、浮気をするようなこともないだろう。だから沙月は、自分は幸せな結婚をしたのだと、常日頃から思っている。少なくとも、世間で見るような“離婚するほど不幸な結婚”をした女性よりもよほど幸せなのだと。だから、多少の痛みは……「そうね、とりあえずお風呂を洗ってきてくれると、助かるかなあ」「よし、任せてくれ、ピカピカにしてやるよ!」陽介は張り切って腕を捲り上げると、風呂場に向かった。沙月はその間に洗濯を取り込み、天日でカラッと乾いた足拭きマットを持って脱衣所に向かう。浴室の扉越しに、少し調子のはずれた鼻歌とシャワーの音が聞こえた。「ねえ、足拭き、持ってきてないでしょ」「ん、あー、忘れた」「ここに置いておくから、ちゃんと足拭いて上がってきてね」「わかったー」この間に食事の支度を済ませてしまおうと、沙月はキッチンに立つ。「豆腐があったわね、麻婆豆腐にしようかしら」レトルト調味料を取り出したところで、お風呂場
最後更新: 2026-06-06
Chapter: 第二話沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。だが、沙月は居心地の悪い思いで、ソファにちんまりと座っていた。「あの、本当に、離婚するつもりは、ないんですよ、私」彼女の向かいに座るマダムこと福重遥子は、沙月の言葉を聞いて楽しそうに笑い声を上げた。「ああ、もしかしてウチが“離婚互助会”なんて呼ばれているから、誤解してる?」「誤解なんですか?」「ええ、誤解。まあ実際に離婚ですよってなったら、いろんなサポートはするし、そのための人材も揃っているし、実績もあるしで、周りが勝手に呼び始めたのよね、離婚互助会って」「じゃあ、本当はここ、何をするところなんですか?」「そうね、簡単にいうと、結婚生活の愚痴を聞いてあげようっていう、お節介おばさんによる癒しのサロン、かしら?」「それって、運営費はどこから出ているんですか?」沙月の返しに、遥子が楽しげに目を細める。「あら、あらあら、面白いことを言うわね」「面白くありません、職業柄、収支の見えない組織は警戒して然るべき、だと思うんです」「なんのお仕事をなさっているの?」「会計事務所で働いています」「つまり、会計士さん?」「いえ、税理士補助です」「だからお金の話になるのね」遥子は楽しそうに――本当に心底楽しそうに目をキラキラさせて沙月を見た。「いいわ、とてもいい、あなた、うちのスタッフとして働いてくれない?」「はい?」「ああ、ごめんなさい、それはあまりにも唐突よね、とりあえず、お近づきの印に」遥子がテーブルの上にあった花瓶から薔薇を一輪、引き抜く。「初回特典よ、これ、どうぞ」受け取った沙月は、それが|加工花《プリザーブドフラワー》であることに気づいた。「生花ではないんですね」「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃない、ただ日常という花束に紛れて誤魔化されてしまうだけ、だから」「飲み込んだ言葉、ですか」「あるでしょ、一つくらい。例えば『お皿くらい洗って』とか、『靴下を裏返しで出さないで』とか」「いえ、うちの夫は家事は手伝ってくれますし、きちんとした性格なので靴下は表に返し
最後更新: 2026-06-06
Chapter: 第一話………………………………離婚するほど不幸なわけじゃない——そう思って飲み込んだ言葉に、薔薇を一本。九十九本目までは、あなたの物語。百本目からは、私たちの出番。ようこそ、離婚互助会カウントダウンクラブへ。………………………………沙月に“カウントダウンクラブ”のことを教えてくれたのは、離婚経験のある女友達だった。「いいから、一度行ってみなさいよ」手の中に押し込まれたのは小さなカード。書かれているのは箔押しの薔薇で飾られた“カウントダウンクラブ”のロゴ、それに住所だけ。沙月はそれを押し返そうとした。それでも友人は、小さなカードを引っ込めようとはしない。「大丈夫、変なところじゃないから。別名“離婚互助会”、本当に真っ当な女性向けの相談サロンだから、詐欺とかじゃないから」「なんか、すごく怪しく聞こえるんだけど」「怪しくないよ、私も離婚する時、ここにお世話になったのよ」「そっか、でもね、離婚したいわけじゃないのよ」「わかってる、離婚しろっていってるんじゃないの。でも、ここ、結婚生活の愚痴を聞くだけとかもやってるから、ね」沙月は結局、カードを押し返すことができず、それを受け取ってハンドバッグの底に押し込んだ。それが三ヶ月前のこと——今日になって、そのカードのことを思い出したのは、朝食の席で夫に言われた一言がきっかけだったのかもしれない。沙月の夫——早坂陽介はトーストを齧りながらなにげなく言った。「仕事、いつ辞めるんだ」まるで辞めることが決定事項であるような言い様に、わずかな苛立ちが心中に湧く。それでも沙月は、(彼に悪気はないんだから)と苛立ちを飲み込んで、にっこりと微笑んだ。「それは、この間も話したでしょう、辞めるつもりは、今のところないって」陽介と結婚して二年目、義母からも「赤ちゃんはまだなの」と何度も聞かれている。生活も落ち着いたし、そろそろ子供を持つことを考え始めてはいるが、だからといって仕事を辞めようとまでは考えていない。「うちの事務所は小さいけれど、産休制度もしっかりしているし、もし辞めるにしても実際に妊娠してから様子を見て、って話だったでしょ?」「そうだっけ? あー、そうだったかも」夫に悪気があるわけではないことはわかっている。わかってはいるが、真剣味のかけらもなくヘラヘラと笑っている様子に、沙月の苛立ち
最後更新: 2026-06-06