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八街ヒサシ
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Novels by 八街ヒサシ

追いかけないで旦那様 〜奥様はお仕事中だよ!〜

追いかけないで旦那様 〜奥様はお仕事中だよ!〜

日立みやびは典型的な虐げられ妻。 夫の初恋が帰ってくることを知った彼女は自ら身を引くために偽装死して”本業”に復帰する。 しかし夫は彼女への愛に目覚めて彼女を追いかけ始めて…… 竿強な妻と最弱な夫による追いかけっこが、今、始まる
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Chapter: ジャングル帰りの男
甘く啜り泣くような旋律が響く中、エレベーターの扉が開いた。『これは一体、どういう状況だ?』彼は若い。だが将来のトップ候補として既に頭角をあらわしはじめている有能で冷徹な男だ。男たちは黙って道を開けた。その先にいるのは、数人のマフィアに押さえつけられた哀れなジョバンニ。『|裏切り者《トラディトーレ》か』ジョバンニは頭の先からつま先まで染み込む怯えに身を震わせながら、額を床に擦り付ける。『裏切りなんかじゃない、レンジャーロッソはみんなの味方! つまり俺たちの味方でもあるんだ!』『ジョバンニ、お前には言ってなかったな、オレは日本育ちだ』『つ、つまり……?』『これはヒーローショーってやつだろ、俺らは悪役、奴らはヒーロー……敵だ』キョースケは突然、なんの躊躇いもなく銃を抜いた。その銃口がジョバンニの眉間に押しつけられる。『選べ、命乞いか、死か』『くうっ……だが、それでも、トートイを捨てるなんて、オレには!』あまりにガチの悪役すぎて、“会場のみんな”はドン引きだ。「うわーん、怖いよぉ」「レッド、早くやっつけて~!」爽介は史緒里にこそっと小声で囁いた。「こんなところでなんの躊躇いもなく銃を出すとは……やばいな、どの作戦で行く?」しかし史緒里は、俯いたまま肩を小刻みに震わせて答えない。「しーちゃん、ねえ、聞いてる?」突然、史緒里が膝をついて天に向かって両手を突き上げた。大袈裟すぎるほどの歓喜のポーズだ。「ブッッッラビッシオ! マフィアですよ、マフィア! 恋愛小説では稀によく見るけれど真っ当に生きていたら生涯出会わない職業ナンバーワン! しかも、この状況で銃を抜いちゃう傍若無人さが恋愛小説的! 若くてイケメンなのに要職についているっていう設定もまさに! 最高です!」史緒里は目をカッピラいて、ハンサムな“若きカポ”をじっくりと鑑賞し始めた。「ああっ、いいですね、ビジュアルは百点満点! “動画を見たら1話無料”でよく出てくるアレにそのまんま出演できそうな、ゴッリゴリの恋愛小説マフィアですっ!」爽介が史緒里の袖を引く。「おい、しーちゃん? おーい?」「こほん、ああ、えっと、作戦でしたっけ」「そう、作戦だ、まずはちびっこの安全を確保したい」マフィアと史緒里たちを中心に、“ヒーローショー”を楽しむ親子連れで完全な人垣ができている
Last Updated: 2026-08-02
Chapter: ニンジャとヒーロー
ここで、フードコートからの脱出手段を読者にだけ解説しよう!阿部マフィアたちが紙コップに視線を落とした瞬間、史緒里はあらかじめ目を付けてあった空の買い物カートを引き寄せた。この時間、わずか0.1秒。さらに史緒里はカートに結子をのせ、あらかじめ計算しておいたテーブルの間の隙間をほぼ一直線に、トップスピードで駆け抜けた。霞ヶ浦警備保障特殊警備員である、彼女の脚力あってこその脱出劇だ。かかった時間は全て合わせて0.5秒。阿部マフィアたちからすれば、本当に瞬き一つの間。史緒里はカートを女子トイレの入り口前に横付けすると、結子を下ろして囁いた。「私は奴らを誘き出し、時間を稼ぎます、どうぞごゆっくり」「でも、相手は本物のマフィアよ!」「いいから、行って!」結子はきゅっと唇を引き結び、決意を込めてうなずいた。「ご武運を!」そして、トイレへと駆け込んでゆく。残された史緒里は、軽くその場でトントンと足踏みをして、それからキューッと背伸びして体幹を調整する。「さてと、じゃあ、始めますか」こちらは、ほんの一瞬のうちに目標を見失ってしまった阿部マフィアたちーーそのうちの一人、ジョバンニはオタクである。日本のサブカルチャーをこよなく愛する彼は、日本育ちのカポの護衛につくという任務に自ら進んで志願した。目的はもちろん、カポについて日本へ渡り聖地“アキハバラ”を訪れることである。そんなジョバンニは、この“人間消失”に激しいときめきを覚えた。仲間たちは大慌てで、イタリア語で怒鳴り合っている。『お前ら、なんでちゃんと見ていないんだ!』『見てたさ! お前こそ居眠りでもしていたんじゃないのか!』『おいおい、冗談だろ、昨夜はバッチリ8時間睡眠、これっぽっちも眠くなんかないさ!』『ここで言い争っている場合か、早く追いかけろ!』だがジョバンニだけは。『ファンタスティコ! ニンジャだ、ニンポーだよ!』『何言ってるんだ、お前、コミックの読みすぎだろ』『ここはニホンだ、ニンジャがいたっておかしくないだろ!』他の奴らは何も考えずに、いきなりフードコートを飛び出して行ったけれど、ジョバンニはまず慎重に仲間たちに連絡を入れた。『監視対象消滅、おそらくニンジャのニンポーだ』連絡を受けた仲間たちも『何言ってんだお前』とは言っていたが、監視対象の消滅は一大事だ。
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: ストーカー ミーツ ストーカー
と、元気よく走り出したはいいが、祐市は悲しいかなインドア性能だ。走れば走るほど爽介に引き離されてゆく。「ま、待ってくれ、お義兄さん……」「兄と呼ぶな! あと、お前には期待していない、位置情報を共有してやるからゆっくり来い」ついに祐市は置き去りにされた。「はあ、はあ、ここは……どこだ?」目の前に聳え立つのは超大型ショッピングモール。「ここだな、ここに史緒里が……」中央エントランスに踏み込もうとした祐市は、入り口に近い平面駐車場を埋め尽くす勢いで停まっている“ヤンチャ”そうな車に気づいた。幅広でシルエットもゴツいカマロやダッジ。特徴的なボディが美しい古い型のリンカーンに、走り屋御用達みたいな外国製のスポーツカー……どれも幅広で、天井が低くて、いかにも堅気じゃない威圧感がある。黒いスーツを着た堅気じゃなさそうな外国人たちが、忙しそうに車から花を降ろし、それをショッピングモールの中へと運んでゆく。一般客には近寄り難い雰囲気がプンプンと漂っていたが、御曹司である祐市は「なるほどな」とうなずいた。「外国の方は、優先駐車場のマークを知らないんだろう」ずっしりと重厚な一台に近づいて、祐市は花を運び出している黒服の男に声をかけた。「ここは、車椅子や体の不自由な方のための駐車スペースだ、車をどけろ」声をかけられた男が異国の言葉で答える。『なんだ、お前』祐市、びっくり。「なっ、何語?」イタリア語である。祐市はあまりイタリア語には詳しくない。単語を羅列するだけのカタコトになる。『あー、車、ここ、違う、理解?』『なんだ? 文句があるならカポに言えよ』相手がいかにもイタリア人らしい大袈裟な身振りで話すから、祐市は話の内容をなんとなく理解した。「なるほど、彼がここの責任者だ、と言っている気がする」その責任者らしき男は、イタリア系ハーフの若い伊達男だった。彫が深くて、くっきりとしたイケメンな顔立ち。体のラインに沿ってぴっちりと仕立てられた細身のスーツを着崩して、ノータイで着た色シャツの第二ボタンまでを大胆に開けて、金のチェーンで飾ったワイルドな鎖骨を見せているのがなんともセクシー。明らかに堅気じゃない雰囲気が濃厚な彼を、祐市は、なぜか“同類”だと認識した。「君が責任者か」おそれも怯えも見せず、むしろ胸を張って話しかけてきた祐市に、
Last Updated: 2026-07-31
Chapter: 不安しかない共闘宣言
真っ赤な薔薇咲き誇る中に、ヘリでド派手に降りてきた爽介の存在が、祐市に混乱をもたらした。しかもわざわざ“血の繋がらないお兄ちゃん”を名乗っていることも、祐市には理解できなかった。「血の繋がらない……つまり養子か?」祐市ほどの上流の人間ともなれば、“養子”という概念はさほど珍しいものではない。金持ちは子供一人増えたところで困らないだけの経済力があるから、例えば優秀な後継者を迎えるためだったり、例えば愛人の子を認知するためだったり、例えば苦学生を支援するためだったり……一般のご家庭よりも気軽に養子縁組をすることが多い。だから祐市は、爽介という人物は霞ヶ浦家に引き取られた養子なのだろうと判断した。「たとえ血は繋がっていなくとも、妻の兄は俺の義兄《あに》! 歓迎するぞ、お義兄《にい》さん!」両手を広げてハグ待ちする祐市を、しかし爽介は殴り飛ばす。「お前にお義兄さんと呼ばれる筋合いはない!」「痛い! いきなり何をするんですか、お義兄さん!」「うるさい! お兄さんと呼ぶな! 俺は養子じゃない!」「養子じゃない……じゃあ、史緒里のお姉さんとご結婚なさっている、姻戚関係の“お義兄さん”とか?」「恐ろしいことを言うんじゃない、俺はまだ独身だ!」「じゃあ、どんな“兄”なんだ? なぞなぞか?」祐市の混乱は深まるばかり。「教えてくれ、あなたは史緒里とどういう関係なんだ! そして俺は、なぜ殴られたんだ!」「さっきも言っただろう、俺はしーちゃんの“血の繋がらないお兄ちゃん”だ! だから、可愛い妹につく悪い虫を駆逐する義務が、俺にはある!」史緒里はめちゃくちゃ真顔で、とてつもなく冷静にツッコミを入れる。「そんな義務、実の兄にすらないですよ」そして、未だ混乱の真っ只中にいる祐市。「史緒里、教えてくれ、こちらは?」「神栖爽介さんです、小さい頃から一緒に遊んでくれた友達で、なおかつ年上なので“兄さん”と呼んでいますけれど、血縁関係も姻戚関係もありません」「なるほど、つまり……」ポクポクポク、チーン!「近所のお兄ちゃんとか、知り合いのお兄ちゃん的な、単純な呼称としての“お兄ちゃん”だな!」「正解です! さすが祐市さん!」手を取り合ってキャッキャとはしゃぐ二人の姿に、爽介がイラついて足を踏み鳴らす。「だから! 別れた夫婦が! いちゃついてんじゃねーよ
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: なんもわかってないじゃないですかー!
その“不安”は、さっそく的中した。その日の帰り、定時ちょうどに史緒里が社屋を出ると、正面玄関どまん前にドーンとマイバッハが路駐していた。ウィーンと後部座席の窓が開いて、祐市が顔を出す。「乗れ」これが祐市以外なら、ストーキングで即アウト案件である。「君に見せたいものがある……」ちょっと恥ずかしそうに目を伏せてもアウトなものはアウト。だが史緒里は、そんな祐市の仕草を、うっかり“可愛い”と思ってしまったようだ。すんなりとドアを開けて後部座席に乗り込み、祐市の隣に座る。「もー、祐市さん、元カレの心得ってものが全然わかってないじゃないですか」言葉では咎めるが、その声音は柔らかくて、甘やかしの気配がぷんぷんと漂っている。「元カレの……心得‥‥だと?」「ええ、恋愛小説名台詞集vol.2にこういう言葉があってですね……“良い元カレというものは、死んだように振る舞うものなのよ!”」「元カレじゃなくて夫だし、“元”になるつもりないし……」「でもね、戸籍の“妻”の欄には、“宮坂みやび”の名前が書いてあるわけですよ、そうしたら、あなたの妻は、はい、誰ですか?」「お前だ」「情熱的! だけど! 全然わかってない!」「それより、見てくれ、あれ!」祐市が指さしたのは、大邸宅が立ち並ぶ高級住宅街の背後にある小高い山のうちの一つ。遠目に緑美しい風景のど真ん中、山の中腹あたりにバーンと巨大な赤いハートが浮かび上がっている。「最高級のバラを空輸させて、植えたんだ」祐市は照れを隠すため、ちょっとぶっきらぼうな口調でいう。これが史緒里の笑いのツボを直撃した。「ぎゃはー! “植えたんだ”じゃないですよ、環境破壊!」「赤い薔薇の花言葉を知っているか、“情熱的な愛”、俺は俺の情熱の全てをお前に捧げると誓うよ」「待って、このタイミングで真顔は逆に面白すぎるから!」「今回用意した花は99999本……」「物量作戦がすぎる!」ぎゃはーっと笑い転げているうちに車は山道を登り、赤い薔薇の咲き乱れる花畑のど真ん中へと到着した。祐市はそこで片膝をつく。一通り笑い転げた史緒里は、ようやく冷静になって痛くなった腹筋を撫でる。「いや、こんなことされても、無駄ですよ、今のあなたの妻はみやびさんなんですから、彼女を大事にしてあげてくださいよ」「まだ怒っているのか?」「いや、
Last Updated: 2026-07-29
Chapter: 花が足りていないのか?
朝早くから、霞ヶ浦警備保障の本社オフィスのロビーに、大量の花が運び込まれる。その作業を指揮するのは、もちろん祐市である。「薔薇はハート型に並べてくれ、表側にピンクの薄いものを、そこから中心に向かって赤に向かうグラデーションになるようにな」出勤してきた社員たちは、あるものはチラリと眺め、あるものは足を止めて、ヒソヒソと囁き合う。「何あれ、邪魔じゃない?」「なんか、大金持ちの御曹司らしいよ」「御曹司の考えることは、よくわからんな」そんな周りの迷惑など気にも留めない、それが御曹司。「笠間!」「はいっ!」「あれを!」「はい、ここに!」笠間が差し出したのは、手のひらに乗る程度小ぶりだが高級そうな小箱。「よし、これで準備は全て整ったな」祐市はスーツの襟をピシッと整え、さっと髪を撫で付けて身だしなみを整える。程なくして、史緒里が出勤してきた。ちなみに史緒里はここ数日、婚約破棄書を作成するために各種法務資料と睨めっこしたり、実際に草稿を打ったりといったデスクワークをしている。だから服装もデスクワーク仕様のレディーススーツをきっちりと着こなし、髪は固く一つに結んで、銀縁の細い眼鏡までかけたシゴデキ女子スタイルである。ピシッと背筋を伸ばし、コツコツと小気味よくヒールの音を鳴らして歩く史緒里を見て、祐市は「はわわ」と口元に手を当てた。「うちの嫁、カッコよすぎ」ぼんやりする祐市に、笠間が豪華な小箱を差し出す。「社長、これ、渡すんでしょ」「そ、そうだった、ナイスフォローだ、笠間!」祐市は小箱を持って駆け出し、ハート型に並べた薔薇を背景にして声を上げた。「みやび、いや、史緒里! でいいんだよな?」振り向いた史緒里は、その光景を見て大きく目を見開いた。「こっ、これは!」シゴデキ風味を壊さないために我慢してはいるが、すでに興奮は始まっている。その証拠に眼鏡をくいくいくいくいと意味なく高速で押し上げて忙しない。「恋愛小説では定番だけど、現実でやられたら迷惑度マックス、会社のロビーにハート型に花を並べる復縁の儀式!」祐市は片膝をつき、小箱を史緒里に差し出す。「働き始めたと聞いてな、これは入社祝いだ」新規入社したわけじゃなくって、別任務に移っただけだから“単なる異動では?”と思うのだが、祐市、全く何にもわかっていない。「社会人になったか
Last Updated: 2026-07-28
キズモノのシェフ 〜フレンチからファミレスへ、再起のレシピ〜

キズモノのシェフ 〜フレンチからファミレスへ、再起のレシピ〜

その傷は、私から美しい人生を奪っ た——。 フレンチレストランのシェフだった紗希は、 夫に店を奪われ、離婚とともにすべてを失う。 行き場をなくした彼女を拾ったのは、 大手ファミレスチェーンを率いる若きCEO。 商品開発部に配属された紗希は、 一流フレンチで培った技術と、 新たに学ぶ“大衆料理”の現実を武器に、 次々とヒット商品を生み出していく。 傷だらけになった人生でも、 料理があれば、もう一度立ち上がれる。 これは、キズモノのシェフが フレンチからファミレスへと舞台を移し、 再起の一皿を生み出す物語。
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Chapter: 踏み荒らされる矜持
名刺には“谷崎隼人”と大きく書いてある。箔押しされた会社名は“谷崎ホールディングス”、肩書きは“取締役”だ。それをチラリと見た咲希は、納得した。「ああ、あなたが“谷崎の坊ちゃん”」谷崎グループの御曹司が破天荒な人物だというのは、業界内では有名な話だ。身分を隠して現場に紛れ込むような“悪戯”を好んでするのだとか。「ウチにきたのも“悪戯”の一つですか」咲希は深い感情もなく軽口のつもりで言ったのだが、隼人はこれに予想以上の狼狽を見せた。「いや、違うんだ、本当に、試すようなことをしたのは申し訳なかったが、決して悪戯ではないんだ、ここ見て」大慌てで隼人が指差したのは、所属として書かれた“新規ブランド開発本部長”の文字。「後継者修行の一環として、この部署を任されてね、そこで、君をスカウトしにきたんだ」咲希の口元が静かに引き結ばれる。その瞳の奥に侮蔑の色が浮かんだ。「つまり当店にお食事に来たのではなく、ビジネスに来たと」ラ・ベラ・ヴィータには知名度があり、高級料理店であるというステータスもある。店の売却を打診するために客を装って来店する投資家は今までにもいた。だが、彼らが欲しがるのはいつだって“ラ・ベラ・ヴィータ”という店そのものであり、咲希自身の価値が求められたことはない。咲希は無意識のうちに、傷を隠した襟元を指でなぞった。「この店は譲りません、お食事をなさらないなら、どうぞお帰りを」隼人は立ち上がり、傷をなぞろうとする咲希の手を握り止めた。「俺が欲しいのは店じゃない、君自身だ、君の才能が欲しいんだよ」「私には、そんな価値はありませんよ」「君は……」隼人の胸が僅かに痛む。彼はバックグラウンドチェックによって咲希の現状をある程度把握している。その情報には、夫と離婚寸前の関係であることも、その夫の無理解に傷つけられていることも書いてあった。だが、実際に傷を気にする姿を見ると……彼女は深く傷ついている。自分が無価値だと思いこむほどに。握った指先がひどく冷たいことが、隼人には耐えられなかった。「誰が価値がないなんて言った?」「誰って……」「傷の一つや二つで、人は無価値になったりしない、特に君は、傷ついてなお魅力的な才能を持っているじゃないか」「料理を作ることしか能のない女ですよ、私は」「十分じゃないか、俺は、その才能
Last Updated: 2026-07-10
Chapter: 価値を知る男
ラ・ベラ・ヴィータには、初見のお客様がいらっしゃったら、必ず咲希自らが接客を担当するというルールがある。この日、二組目のお客様は、まさに“初見”の客であった。「ご予約のお客様、いらっしゃいました!」厨房に咲希を呼びに来た時下は、そのあと、少し歯切れ悪く言葉を続ける。「しかし、あの……」「なに、どうしたの?」店の入り口までお客様を迎えに出た咲希は、なるほどこれは時下も戸惑うはずだと思った。ラ・ベラ・ヴィータにドレスコードは存在しない。それでも、超高級店であるという格式に配慮して、客は皆きちんとした格好をしてくる。ところが店先に立つ男は、随分とラフな格好をしていた。 上は洗いざらしてゴワゴワになった白Tシャツ、下は擦り切れたダメージジーンズに、足元は安っぽいゴム草履。髪型ももっさりと前髪をだらしなく垂らして、無精髭も生えている。時下は咲希にそっと耳打ちした。「お断りしましょうか」しかし咲希は迷うことなく返す。「いいえ、きちんとご案内して」「しかし、うちの店の格を下げるんじゃ……」「そうね、確かに格式は下がるかもしれない。でも、お客様を見た目だけで判断するのは、お店の品格を下げる行為だわ」咲希は自らコック帽を脱ぎ、その客に向かって腰を折った。「ようこそ、いらっしゃいませ、ラ・ベラ・ヴィータへ」男はそんな咲希を値踏みするように、頭のてっぺんから爪先まで無遠慮に眺め回した。「あんたがここのえらい人?」「シェフを務めさせていただいてます、畠山咲希です」「ふうん、腰が低くていいじゃん、感心感心」その傲慢な口ぶりに時下は眉間に皺を寄せる。だが咲希は、彼の振る舞いに違和感を覚えた。店をやっているのだから、これまでにも無礼な客に行き当たったことはいくらでもある。軽薄さなら、身近に宮下という弟子もいて見慣れている。だけどこの男の振る舞いは、それらとは違って、どこか嘘くさい。だが咲希はそれを指摘するようなことはしなかった。彼女の料理に必要なのは客を見極めることであり、暴くことではない。「どうぞこちらへ」咲希はこの男を席へと案内する。彼が履いたゴム草履は、よく磨かれた床を踏むたび、ペタペタと楽しそうに鳴った。軽薄なのは演技かもしれないが、根は悪くなさそうだ、と咲希は思った。男は席につくとまず、ビールを注文した。「とり
Last Updated: 2026-07-08
Chapter: 冷え切った家
畠山海斗は合理主義の男である。彼にとって食事とは生命維持のための栄養補給、そしてビジネスを円滑に進めるためのツール、それ以上でも以下でもなかった。だが、新しく愛人となった向坂淳美は、 新たな“食事”の価値を彼に教えてくれた。「飲食業って、手堅いビジネスだって言われてるのよ、だって食事をしない人はいないんだから常に需要はあるわけでしょ」料亭の個室で、卓上に並べられた料理の写真を撮影しながら、彼女は言った。向坂淳美はフォロワー数三万人を超えるインフルエンサーで、その主な活動は高級料理店や話題の店舗のグルメリポートである。「だけど、需要があるってことは、競合も多いってコト! つまりレッドオーシャンなのよ、お店を成功させるためには他店との差別化とブランディングが必要なの、つまり知名度って武器なのね」海斗は突き出しの小鉢に箸をつけながら、「なるほど」と頷いた。淳美の知識は底が浅い。しかし若さ故の直感的で大胆な発想は、海斗に新鮮なインスピレーションを与えてくれる。利益に貪欲なところも海斗と相性がいい。今まで付き合ってきた女たちとは違う“価値”が、淳美にはある。畠山海斗は合理主義の男なのだ。彼にとって"ラ・ベラ・ヴィータ"は、回収効率の悪い不良債権でしかなかった。そしてそれは、畠山咲希という女にも当てはまる。だから彼は利を取って、向坂淳美を選んだ。淳美はようやく撮影を終えて、料理の前に座った。箸をとるよりも先にスマホをいじり、撮ったばかりの動画を入念にチェックする。「ラ・ベラ・ヴィータは知名度あるお店だし、そこに私が企画として入ったら、それだけでもすごい話題になると思うのよ、でも今の経営スタイルじゃダメ、1日5組限定なんて、採算取れないでしょ」「なるほど」「だから、私が考えるコンセプトはこう! “あの有名店の料理を誰でも手軽に”!」「悪くないな」海斗は淡々と箸を進める。淳美は、まだスマホを置かない。どこからか、鹿おどしの跳ねる甲高い音が響いた。食事を終えた海斗は、久しぶりに"家"に帰った。パーティ向けの礼服が必要だったのだ。ドアを開けると、なんの匂いもしない空間が、そこにあった。例えば料理を作ってこびりついた油煙の匂いだとか、浴室に蓄積する水垢の匂いだとか——そうした生活臭は、この家にはない。締め切ったままのカーテンを開
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 暖かい厨房
まさか、こんなに苦戦するとはーー咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。——それでもこの結果か。咲希はスマホを置いて立ち上がった。開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。最初に出勤してきたのは村上だった。彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。「先生、大丈夫ですか」この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。だが、彼らは若くて後ろ盾もない。せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」「カルパッチョですか?」「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」「刺身ですか、フレンチなのに」「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」「また……オーナーに怒られますよ」「そうね、怒られるでしょうね」村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。彼の手元は繊細ではないが誠実だ。ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。次に出勤してきたのはギャルソンの時下。彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。「白身魚ですか、となると白ですね」咲希は頷く。「甘口のものを中心に準
Last Updated: 2026-06-18
Chapter: この店だけが私の存在証明
微かに冷蔵庫のモーター音が聞こえる。海斗は厨房の入り口にもたれたまま、不機嫌そうに腕を組んでいる。彼の靴先がコツコツと地面を叩く音が、その苛立ちを無言のうちに語っていた。咲希はレシピ帳から顔も上げずに答える。「考えてみたわ」床を叩いていた音がふいに止まる。咲希はさらに静かな声で続けた。「離婚には応じる」海斗の顔に喜色が浮かんだ。だが、その喜びが形になるよりも早く、咲希は顔を上げて強い眼差しを海斗に向けた。「だけど、この店は渡さない」海斗の表情が一気に落胆に変わる。「そんなことを、まだ言うのか」「慰謝料はこの店だけでいい、そうすれば離婚には応じる」「咲希、よく聞け……」「入らないで!」厨房の中へと足を踏み出す海斗を、咲希は声だけで押し留めた。「ここは関係者以外立ち入り禁止よ、話があるならそのままどうぞ」「俺は君の夫で、ここの出資者だが、それでも関係者じゃないというのか」咲希は鼻先で笑って答えない。今や彼女にとってこの男は、他人よりもよそよそしい存在だ。そして海斗にとっても、咲希はもはや尊重する必要のない相手であった。「君の手腕ではこの店の経営を維持することはできないだろう、たかが料理に、君はこだわりすぎなんだ」「それがあなたに何の関係があるというのかしら」「関係はあるだろう、出資した以上、利益は戻してもらわなきゃならない」「利益ね、あなたにとって大事なのは、それだけなのね」この店——ラ・ベラ・ヴィータの店舗自体の資産価値はさほどでもない。1日5組に限定して、原価を考えず高級食材をふんだんに使うスタイルだから、売り上げもほとんどない。それでも利益至上主義の海斗が、なぜこの店の所有権にこだわるのか。それは、この店の知名度が十分に価値あるものだからだ。「俺ならば、この店をもっと大きくすることができる」「大きくするつもりはないわ」「それだよ、そのこだわりがこの店を潰す、だから君にこの店は渡せない」咲希は黙ってレシピ帳を閉じ、立ち上がった。「仕込みがあるの、どうぞお帰りください」「咲希、あまり頑固だと、後悔することになるぞ」海斗は大袈裟に踵を返して立ち去る。遠ざかってゆくその足音を聴きながら、咲希は無意識のうちにコック服の襟元を指先でなぞった。そこには古い傷痕がある。首元を起点に、胸を通って脇腹まで
Last Updated: 2026-06-18
Chapter: その店の名は“ラ・ベラ・ヴィータ”
凶刃は私の体に傷を刻んだ。それは私の“美しい人生”をも切り裂いた。私に残されたのは、料理だけだった。照明は暖色系、黄色みを帯びた柔らかい光が店内を暖かく照らして明るい。テーブルには真っ白いクロスがかけられ、並ベラれた銀のカトラリーは丁寧に磨き上げられて曇り一つない。テーブルについているのは畠山海斗と、その愛人である向坂淳美、そして本日海斗が取引を持ちかけようとしている海道物産の社長、海道恒吉であった。本日のアミューズが並ベラれ、ワインが注がれる。海道はワイングラスを揺らしながら満足そうに言った。「ここが噂の“ラ・ベラ・ヴィータ”……いい店ですな」海斗がにっこりと笑う。それは営業用の胡散臭い笑顔ではあったのだけれど、海道は気にする風もなかった。「しかし、私は他の連中とは違いますよ、胃袋で商売に手心を加えるようなことはしない、どんな料理を出されても、契約なんかしませんよ」「ははは、その話は後で、まずは料理を楽しんでください」アミューズは小さなパンにアボカドとエビを乗せて軽く炙りをかけたもの。アボカドの優しい緑とエビの赤が美しい目にも美味しい一品だ。サクッと音を立ててそれを齧った海道は、軽く目を見開いた。「ほう、これは……」パンはトーストされてカリカリとした歯応えが楽しい。作り置きなどせず、食べる直前に組み上げたからこその歯応えだ。えびには少し強めの下味がつけられ、口中でアボカドと合わさった瞬間の味がきちんと計算されている。海道の口元が静かに綻ぶ。これを見た向坂淳美は、満足そうに微笑んだ。「いかがですか、いい店でしょ、うちの海斗はこの店の出資者だからいつでも予約が取れるんです、お気に召したなら、またご招待しますよ」まるで海斗の妻であるかのような態度だが、この場の誰もそれを咎めない。海斗自身が彼女のそうした振る舞いを普段から許容しているからであり、世間ではこの向坂淳美こそが彼の妻だと思われているのである。その頃、畠山海斗の本当の妻である畠山咲希は、この店の厨房にいた。「村上、オードブルを出してきてちょうだい、宮下はスープの仕上げをはじめて、時島、次のワインを用意して」二人の弟子とギャルソンに指示を出しながら、咲希は本日の“メインディッシュ”の鍋をかき混ぜている。弟子が恐る恐る首をすくめながら聞く。「あの、シェフ、本
Last Updated: 2026-06-18
離婚互助会カウントダウンクラブ

離婚互助会カウントダウンクラブ

離婚するほど不幸なわけじゃない—— そう思って飲み込んだ言葉に、薔薇を一本。 九十九本目までは、あなたの物語。 百本目からは、私たちの出番。 ようこそ、離婚互助会カウントダウンクラブへ。
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Chapter: 第十二話
沙月が頼まれたのは水口夫妻の実家からの援助の“見える化”――つまり家計の調査と計算である。彼女はそれを家に持ち帰り、食事の後のリビングでノートパソコンをパツパツといじっていた。「一番大きな援助は旅行代よね、あとは外食やお裾分けなんかの、食費援助、それに衣服代……なるほど、衣服代か……」沙月はパソコンを置いて立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。一番手前、目につくところにあるのは綺麗に畳んだ下着と普段着。奥の方は、きっちりと積み上げられた衣装ケースとハンガーにかけられたワンピースが、狭いクローゼットの三分の一ほどを埋めている。沙月は、そのうちの一つを手に取った。シャラリと指に心地よいシルクの手触り。高級ブランドで、物は悪くないのだが……「沙月?」突然、寝室に入ってきた陽介は、沙月が手にしたワンピースを見て言った。「何そのば……レトロなワンピース、そんなの持ってたんだ?」「これ、あなたのお母さんがくれたのよ、もう着ないからって」「で、それ、どうするの?」「そうね、着ないから……いずれ捨てようかなと」「えっ、もったいないじゃん、着なよ。母さんは着道楽だからさ、多分それ、高い服だよ」「でもねえ、さっきあなたも言ったじゃない、ばばくさいって」「言ってないよ! 俺は……レトロだって言ったんだよ!」ここで、言葉を飲み込むことは簡単だ。沙月の胸の内に、蕾が一つ、ふっと生まれる。適当に「じゃあ、気が向いたら着ようかな」とでも答えて、クローゼットの扉を閉めればいいだけ。そうすれば誰も不快な気持ちになることもないし、喧嘩のリスクも回避できる。でも……「お義母さんに伝えてもらえないかな、私、こういうのは着ないから、いただいても無駄になりますって」沙月としては随分と思い切った言葉だったのだが、陽介はそれを、軽い会話の一部としか思わなかったらしい。「いいじゃん、くれるっていうんだから、もらっておけば」「でも、本当に着ないのよ、だから、こうやってしまっておくのに場所を取るの。だから、一度捨てちゃおうかなって……」「人からもらったものを捨てるのは失礼だろ、それに、いつか着る機会もあるかもだし、捨てなくてもいいじゃん」「でも……」「あー。はいはい、わかったよ」陽介は片手をあげて沙月の言葉を遮った。「つまり、俺が母さんに言えばいいんだろ、
Last Updated: 2026-07-23
Chapter: 第十一話
二人は車で、郊外に向かって走っていた。「何をしに行くつもりなんです?」ハンドルを握る沙月が聞くと、助手席で缶コーヒー片手に美沙が答える。「プチ身上調査、まあ、水口さんの旦那さんってどんな人なのかを、一度見に行ってみようってところね」「それって違法じゃないんですか」「プチだからね、違法になるほどのことはしないから。たまたま行った釣り堀で、たまたま見かけた人に、たまたま世間話に付き合ってもらうだけだもの」「随分と仕組まれた“たまたま”ですこと」「そこは、ね、気づかないふり〜」やがて二人は、町場を少し離れた河原にある小さな釣り堀に着いた。四角いコンクリ池にトタン屋根で日陰を作っただけの、古びた釣り堀だ。ペンキ塗りの看板の文字は日に焼けて剥がれ落ち、かろうじて“堀”の文字だけが読み取れた。目的の人物は、池のほとりに置かれたビールケースに座って、釣り糸を垂れながらコンビニのおにぎりを食べている最中だった。中肉中背、顔立ちは派手ではないが太めの眉が誠実そうに見える、普通の好青年。それが水口大吾である。彼の姿を見つけた美沙は、口の中で小さく「チッ」と舌打ちした。「マジで釣りに来てんじゃん、暇人か!」沙月はそんな美沙を宥めようとする。「まあまあ、釣りに行くって家を出たんだから、それは釣りに来て当然でしょう」「わかってないなあ、釣りとか、パチンコとか、図書館とか、一日中ヒマがつぶれてソロで出かけるような趣味って、浮気の言い訳に使われがちなのよ」「まるで、浮気を期待していたみたいに聞こえますけど?」「期待はね、してたわよ、だって不貞って離婚訴訟のとき手っ取り早くカタがつくからね」「美沙さんは、水口さんご夫妻を離婚させたいんですか?」「いや、実を言うと、そこまで“離婚”という結果にこだわってるわけじゃなくってね、ただね、“離婚も選択肢の一つ”くらいの覚悟を持ってほしいんだよね、だって……」美沙が沙月をじっと見つめる。「離婚したくない……つまり嫌われたり相手を怒らせたくないから、言葉を飲み込んじゃうんでしょ」その鋭い目線は、まるで心の奥底まで見透かそうとしているかのよう。沙月は、ちょっと居心地の悪い気分になる。「み、水口さんの話、ですよね?」「さあね」ちょっと首をすくめて、美沙は話を切り上げた。傍の釣り竿たてから適当な2本を取り
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 第十話
純恋に痛みをもたらすのは、いつだって義母の小さな一言。義母である水口英恵は、純恋のことを全く悪気なく“嫁扱い”する人だ。例えば親戚同士の会話のなかで。「うちのお嫁さんはねー、とてもいい子なのよ、気が利くし、おとなしいし」褒められているのだし、立場上は水口家の嫁に間違いない。だから、腹を立てるようなことはないはずなのだが、何やら、もやっとした感情が胸の中に根を下ろす。「私もね、娘がいなかったでしょ、娘ができたみたいに可愛がっているのよ」この程度で腹を立てるほど狭量じゃない。笑って聞き流す。「女の子の親って損よね」英恵が笑いながら言う。「どれだけ可愛がって育てても、最後はお嫁に出さなくっちゃなんだもの」悪意がないのはわかっている。ちょっとした笑い話をしているだけなのだと、わかっている。それでも……心の奥に根を張った何かが、小さな蕾をつける。何より苦痛だったのは“家族旅行”だった。夫も義父も釣りが趣味で、二ヶ月に一回は家族みんなで釣り旅行に出かける。「いいのよ、お金はウチが持つんだから、気楽にいらっしゃいよ」そう言われてしまうと断りづらい。だが、連れていかれるのは毎回決まって、渓流と温泉しかないような山奥の旅館。最初のうち、純恋は夫に教わって釣りを始めようとした。だが、義母はそんな純恋を旅館に引き留めた。「あらやだ、女の子なんだから釣りなんて退屈でしょ、無理しなくていいのよ」そう言って旅館に留め置かれる。「若い子は、こんな山奥退屈でしょ、車貸すから、一人で出かけてきてもいいのよ」義母は親切のつもりで言っているのだろうけど、町場まで遠い山の中で、たった一人で車を運転してどこへ行けというのか。しかたなくスマホで暇つぶし用のパズルゲームを始めれば、義母が画面を覗き込んでくる。「何してるの、ふーん、ゲーム?」「よければやってみます? 簡単ですよ」「やめておくわ、スマホの画面ってずっと見ていると、頭が痛くなっちゃうでしょ。それより、退屈しているなら温泉、入りに行きましょ」「私は……さっき入ったばっかりなので遠慮しておきます」「なに言ってるの、せっかくの温泉なのよ、一日中浸かっててもいいのよ、温泉なんだから!」そうして並んで湯船に浸かれば、横で親戚の誰がどの大学に行っただとか、知り合いの娘が何人目の子供を産んだだとか
Last Updated: 2026-07-10
Chapter: 第九話
時間通りに相談室にやってきたのは、“水口夫妻”ではなく妻だけ……「私、ちゃんとご夫妻でいらしてくださいって、招待状、出しましたよね?」膨れっ面で座る美沙。対面に座る水口純恋は、肩を小さく縮こめて俯いている。「すみません……夫には説明したんですけど」沙月は隣に座る美沙を宥めながら、純恋に聞く。「なんて言ったんですか?」「夫婦関係を改善するためのカウンセリングだって。夫が休みであることも、ちゃんと確認したんですけど……」「んで、その旦那さんはどこへ行ったのよ」美沙があまりに尖った声を出すから、純恋はますます萎縮して小さな声で。「釣りに……」「はぁ?」「す、すみません……」横から、沙月が美沙を宥める。「まあまあ、彼女が悪いわけじゃないですし、悪いのは来なかった旦那さん、でしょ」「それはもちろんなんだけど、あー、もー!」薔薇100本案件の始まりは“夫婦カウンセリング”から。小さな痛みの積み重ねである100本のバラの前で、まずは第三者を交えての話し合いが始まる……はずなのだが。「つまり旦那さんは、奥さんの傷ついた心より、釣りの方が大事ってことでしょ!」「そういうわけじゃないと思うんです……ただ、危機感が足りないっていうか……」美沙は立ち上がり、拳を振り回して熱弁する。「庇わなくていいの! “夫婦カウンセリング”って言われてるのに、奥さんだけが来ればいいと思ってるのって、夫婦の問題ってのが他人事だと思ってるってことよね、無責任じゃない?」沙月が美沙の袖を引く。「まあまあ、それを彼女に言っても、仕方ありませんよ」「でもっ!」「いいから、一度座りましょう」美沙は「ふーっ、ふーっ」と荒い呼吸をいくつか吐いた後、ようやく頭が冷えたのか、ポスンとソファーに腰を落とした。低い声で「あー」と唸った後で、ようやく冷静に話を始める。「こういうケースでは、私は離婚を選ぶことをお勧めします」「もう少し落ち着いて」「落ち着いてる、めっちゃ落ち着いてるし!」沙月は顎を指先でさすりながら、しばし考えた。こんな時、遥子ならばなんと言うだろうかと——「先生、それを決めるのは彼女自身です、まずは意思確認を」「そうね、どう、あなた、離婚したいでしょ」「それは誘導になります、ここからは私が」沙月は話の主導権を握った。「カウントダウンクラブのマ
Last Updated: 2026-07-04
Chapter: 第八話
ブリーフィングを終えた沙月は車で家に向かう。信号待ちのふとした瞬間、ダッシュボードに置いた薔薇が目についた。「飲み込んだ言葉の代わりに薔薇を……ね」日々の暮らしの中には“相手を不快にさせるほどのことはない”と思って、口にせずに飲み込む言葉が多すぎる。例えばスーパーでレジ打ちのお姉さんの手がのろくてイラついた時。例えば飲食店で料理の出し方が雑だった時。不快ではあるが、わざわざクレームを入れるほどではないと思って飲み込んだ言葉。職場でお局さんから“余計なお世話”を言われた時や、上司からセクハラすれすれの言葉を投げかけられた時や。——飲み込んだ言葉の代わりに薔薇を。日々の中に薔薇は降り積もってゆく。一つ、また一つと……音も立てず、静かに。そうして降り積もった薔薇には気づかないふりをして生きることが“大人としての振る舞い”なのだと、沙月は知っている。家に帰ると陽介の母が来ていた。珍しいことではない。陽介の母、清美は親切な性格で、共働きでは家事の手が回らないところもあるだろうと、まめに手伝いに来てくれるのだ。そう、これはあくまでも“親切”なのだ。清美は台所に立って、何やら煮物をこしらえている。すでに帰ってきている夫は、リビングでソファに寝転んでドラマを見ていた。かすかに洗濯機の回る音が聞こえていた。清美は顔を上げて明るく笑う。「あら、ちょうどご飯ができるところよ、手を洗ってらっしゃい」その笑顔があまりにも悪意のないものだから……言えない。沙月は手にしていたスーパーの袋を冷蔵庫にしまった。手を洗って戻ってくると、夫はすでに食卓に出された煮物に箸をつけていた。「母さんの煮物、うまいな。沙月も煮物は上手なんだけど、味付けが上品で物足りないんだよな」「それは仕方ないでしょ、私の煮物は田舎風だから、味は濃くて美味しいけれど下品でしょ?」誰にも悪意はない、だから言えない……「ああ、そうだ、洗濯終わったみたいだから、干してきちゃうわね」「今からですか?」「そうよ、今干しておけば、明日の朝には乾くでしょ」「でも、夜干しになっちゃうし……」「大丈夫よ、下着は洗わなかったから。夜に下着干すのは、さすがに不用心だものね」薔薇は降り積もる。静かに、また一つ。だけど——沙月は、今日もらってきた一輪の薔薇を、そっと窓際に飾るだけにとど
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 第七話
「極端な話をすると、例えば目玉焼きにソースをかけるか、醤油をかけるか、たったそれだけのことからリコーンってなることもまあ、あるかもしれないねって話なのよ」これは美沙の言葉だ。それは水口夫妻の“面談“のためのブリーフィングの場でのことだった。水口夫妻の詳しいプロフィールが書かれた書類をめくりながら、沙月は戸惑いの言葉を返す。「この水口さんご夫妻も、目玉焼きで離婚するんですか?」「違う違う、あくまでも例え話。いや、"目玉焼きでリコーン"の調停を担当したことあるけどね」「そんなことで離婚できるんですか?」「できる。マジでできる。離婚理由として一番多いのが"性格の不一致”ってやつなんだけど、これって便利な言葉でね、目玉焼きに何をかけるかっていう些細な問題から、子どもの教育方針や夫婦生活の価値観、嫁姑問題から金銭のやり取りに至るまで、意見の相違ってのを何でもかんでもひっくるめて"性格の不一致”として扱うことができるわけよ」「はあ、なるほど?」「で、ここからが大事、離婚理由として一番ポピュラーなのが"性格の不一致"だけど、これ、裁判にまで持ち込むとまず離婚理由として認められないことが多すぎるのよ」美沙は書類の束をばさっと投げ出し、得意げに顎を上げる。「ふふん、ここで目玉焼きの例えが効いてくるわけですよ。裁判では"目玉焼きには何をかけるか、意見が合わないので離婚します"なんて絶対に認められないでしょ、そう、これも例えなんですが、別々の調味料を用意すればいいでしょうとか、そもそも目玉焼きを食卓に出さなければ争いは起きないでしょうとか、そういう流れになるわけですよ」「それはまあ、そうでしょうね」「そこで、私たちの出番ですよ! 目玉焼きに何をかけるのか、それはネットでも度々論争を起こす重要な選択問題であり、人生哲学であるってことをきっちりはっきり主張して、確実に離婚をもぎ取る、そういうお手伝いをするのが、このカウントダウンクラブ……」そこへ、ドアを押し開けて瑶子がふわりと入ってきた。「先生ったら、また言ってる」遥子は楽しそうに笑って、沙月の隣の椅子に腰を下ろした。「先生の目玉焼きの例えは、とてもわかりやすいわ、だけど私たちが目指しているのは確実な離婚ではなくて、"納得"なのよ」遥子は薔薇を一本取り出し、それをクルクルと手の中で弄んだ。「そうね、逆
Last Updated: 2026-06-28
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