登入沙月が頼まれたのは水口夫妻の実家からの援助の“見える化”――つまり家計の調査と計算である。彼女はそれを家に持ち帰り、食事の後のリビングでノートパソコンをパツパツといじっていた。「一番大きな援助は旅行代よね、あとは外食やお裾分けなんかの、食費援助、それに衣服代……なるほど、衣服代か……」沙月はパソコンを置いて立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。一番手前、目につくところにあるのは綺麗に畳んだ下着と普段着。奥の方は、きっちりと積み上げられた衣装ケースとハンガーにかけられたワンピースが、狭いクローゼットの三分の一ほどを埋めている。沙月は、そのうちの一つを手に取った。シャラリと指に心地よいシルクの手触り。高級ブランドで、物は悪くないのだが……「沙月?」突然、寝室に入ってきた陽介は、沙月が手にしたワンピースを見て言った。「何そのば……レトロなワンピース、そんなの持ってたんだ?」「これ、あなたのお母さんがくれたのよ、もう着ないからって」「で、それ、どうするの?」「そうね、着ないから……いずれ捨てようかなと」「えっ、もったいないじゃん、着なよ。母さんは着道楽だからさ、多分それ、高い服だよ」「でもねえ、さっきあなたも言ったじゃない、ばばくさいって」「言ってないよ! 俺は……レトロだって言ったんだよ!」ここで、言葉を飲み込むことは簡単だ。沙月の胸の内に、蕾が一つ、ふっと生まれる。適当に「じゃあ、気が向いたら着ようかな」とでも答えて、クローゼットの扉を閉めればいいだけ。そうすれば誰も不快な気持ちになることもないし、喧嘩のリスクも回避できる。でも……「お義母さんに伝えてもらえないかな、私、こういうのは着ないから、いただいても無駄になりますって」沙月としては随分と思い切った言葉だったのだが、陽介はそれを、軽い会話の一部としか思わなかったらしい。「いいじゃん、くれるっていうんだから、もらっておけば」「でも、本当に着ないのよ、だから、こうやってしまっておくのに場所を取るの。だから、一度捨てちゃおうかなって……」「人からもらったものを捨てるのは失礼だろ、それに、いつか着る機会もあるかもだし、捨てなくてもいいじゃん」「でも……」「あー。はいはい、わかったよ」陽介は片手をあげて沙月の言葉を遮った。「つまり、俺が母さんに言えばいいんだろ、
二人は車で、郊外に向かって走っていた。「何をしに行くつもりなんです?」ハンドルを握る沙月が聞くと、助手席で缶コーヒー片手に美沙が答える。「プチ身上調査、まあ、水口さんの旦那さんってどんな人なのかを、一度見に行ってみようってところね」「それって違法じゃないんですか」「プチだからね、違法になるほどのことはしないから。たまたま行った釣り堀で、たまたま見かけた人に、たまたま世間話に付き合ってもらうだけだもの」「随分と仕組まれた“たまたま”ですこと」「そこは、ね、気づかないふり〜」やがて二人は、町場を少し離れた河原にある小さな釣り堀に着いた。四角いコンクリ池にトタン屋根で日陰を作っただけの、古びた釣り堀だ。ペンキ塗りの看板の文字は日に焼けて剥がれ落ち、かろうじて“堀”の文字だけが読み取れた。目的の人物は、池のほとりに置かれたビールケースに座って、釣り糸を垂れながらコンビニのおにぎりを食べている最中だった。中肉中背、顔立ちは派手ではないが太めの眉が誠実そうに見える、普通の好青年。それが水口大吾である。彼の姿を見つけた美沙は、口の中で小さく「チッ」と舌打ちした。「マジで釣りに来てんじゃん、暇人か!」沙月はそんな美沙を宥めようとする。「まあまあ、釣りに行くって家を出たんだから、それは釣りに来て当然でしょう」「わかってないなあ、釣りとか、パチンコとか、図書館とか、一日中ヒマがつぶれてソロで出かけるような趣味って、浮気の言い訳に使われがちなのよ」「まるで、浮気を期待していたみたいに聞こえますけど?」「期待はね、してたわよ、だって不貞って離婚訴訟のとき手っ取り早くカタがつくからね」「美沙さんは、水口さんご夫妻を離婚させたいんですか?」「いや、実を言うと、そこまで“離婚”という結果にこだわってるわけじゃなくってね、ただね、“離婚も選択肢の一つ”くらいの覚悟を持ってほしいんだよね、だって……」美沙が沙月をじっと見つめる。「離婚したくない……つまり嫌われたり相手を怒らせたくないから、言葉を飲み込んじゃうんでしょ」その鋭い目線は、まるで心の奥底まで見透かそうとしているかのよう。沙月は、ちょっと居心地の悪い気分になる。「み、水口さんの話、ですよね?」「さあね」ちょっと首をすくめて、美沙は話を切り上げた。傍の釣り竿たてから適当な2本を取り
純恋に痛みをもたらすのは、いつだって義母の小さな一言。義母である水口英恵は、純恋のことを全く悪気なく“嫁扱い”する人だ。例えば親戚同士の会話のなかで。「うちのお嫁さんはねー、とてもいい子なのよ、気が利くし、おとなしいし」褒められているのだし、立場上は水口家の嫁に間違いない。だから、腹を立てるようなことはないはずなのだが、何やら、もやっとした感情が胸の中に根を下ろす。「私もね、娘がいなかったでしょ、娘ができたみたいに可愛がっているのよ」この程度で腹を立てるほど狭量じゃない。笑って聞き流す。「女の子の親って損よね」英恵が笑いながら言う。「どれだけ可愛がって育てても、最後はお嫁に出さなくっちゃなんだもの」悪意がないのはわかっている。ちょっとした笑い話をしているだけなのだと、わかっている。それでも……心の奥に根を張った何かが、小さな蕾をつける。何より苦痛だったのは“家族旅行”だった。夫も義父も釣りが趣味で、二ヶ月に一回は家族みんなで釣り旅行に出かける。「いいのよ、お金はウチが持つんだから、気楽にいらっしゃいよ」そう言われてしまうと断りづらい。だが、連れていかれるのは毎回決まって、渓流と温泉しかないような山奥の旅館。最初のうち、純恋は夫に教わって釣りを始めようとした。だが、義母はそんな純恋を旅館に引き留めた。「あらやだ、女の子なんだから釣りなんて退屈でしょ、無理しなくていいのよ」そう言って旅館に留め置かれる。「若い子は、こんな山奥退屈でしょ、車貸すから、一人で出かけてきてもいいのよ」義母は親切のつもりで言っているのだろうけど、町場まで遠い山の中で、たった一人で車を運転してどこへ行けというのか。しかたなくスマホで暇つぶし用のパズルゲームを始めれば、義母が画面を覗き込んでくる。「何してるの、ふーん、ゲーム?」「よければやってみます? 簡単ですよ」「やめておくわ、スマホの画面ってずっと見ていると、頭が痛くなっちゃうでしょ。それより、退屈しているなら温泉、入りに行きましょ」「私は……さっき入ったばっかりなので遠慮しておきます」「なに言ってるの、せっかくの温泉なのよ、一日中浸かっててもいいのよ、温泉なんだから!」そうして並んで湯船に浸かれば、横で親戚の誰がどの大学に行っただとか、知り合いの娘が何人目の子供を産んだだとか
時間通りに相談室にやってきたのは、“水口夫妻”ではなく妻だけ……「私、ちゃんとご夫妻でいらしてくださいって、招待状、出しましたよね?」膨れっ面で座る美沙。対面に座る水口純恋は、肩を小さく縮こめて俯いている。「すみません……夫には説明したんですけど」沙月は隣に座る美沙を宥めながら、純恋に聞く。「なんて言ったんですか?」「夫婦関係を改善するためのカウンセリングだって。夫が休みであることも、ちゃんと確認したんですけど……」「んで、その旦那さんはどこへ行ったのよ」美沙があまりに尖った声を出すから、純恋はますます萎縮して小さな声で。「釣りに……」「はぁ?」「す、すみません……」横から、沙月が美沙を宥める。「まあまあ、彼女が悪いわけじゃないですし、悪いのは来なかった旦那さん、でしょ」「それはもちろんなんだけど、あー、もー!」薔薇100本案件の始まりは“夫婦カウンセリング”から。小さな痛みの積み重ねである100本のバラの前で、まずは第三者を交えての話し合いが始まる……はずなのだが。「つまり旦那さんは、奥さんの傷ついた心より、釣りの方が大事ってことでしょ!」「そういうわけじゃないと思うんです……ただ、危機感が足りないっていうか……」美沙は立ち上がり、拳を振り回して熱弁する。「庇わなくていいの! “夫婦カウンセリング”って言われてるのに、奥さんだけが来ればいいと思ってるのって、夫婦の問題ってのが他人事だと思ってるってことよね、無責任じゃない?」沙月が美沙の袖を引く。「まあまあ、それを彼女に言っても、仕方ありませんよ」「でもっ!」「いいから、一度座りましょう」美沙は「ふーっ、ふーっ」と荒い呼吸をいくつか吐いた後、ようやく頭が冷えたのか、ポスンとソファーに腰を落とした。低い声で「あー」と唸った後で、ようやく冷静に話を始める。「こういうケースでは、私は離婚を選ぶことをお勧めします」「もう少し落ち着いて」「落ち着いてる、めっちゃ落ち着いてるし!」沙月は顎を指先でさすりながら、しばし考えた。こんな時、遥子ならばなんと言うだろうかと——「先生、それを決めるのは彼女自身です、まずは意思確認を」「そうね、どう、あなた、離婚したいでしょ」「それは誘導になります、ここからは私が」沙月は話の主導権を握った。「カウントダウンクラブのマ
ブリーフィングを終えた沙月は車で家に向かう。信号待ちのふとした瞬間、ダッシュボードに置いた薔薇が目についた。「飲み込んだ言葉の代わりに薔薇を……ね」日々の暮らしの中には“相手を不快にさせるほどのことはない”と思って、口にせずに飲み込む言葉が多すぎる。例えばスーパーでレジ打ちのお姉さんの手がのろくてイラついた時。例えば飲食店で料理の出し方が雑だった時。不快ではあるが、わざわざクレームを入れるほどではないと思って飲み込んだ言葉。職場でお局さんから“余計なお世話”を言われた時や、上司からセクハラすれすれの言葉を投げかけられた時や。——飲み込んだ言葉の代わりに薔薇を。日々の中に薔薇は降り積もってゆく。一つ、また一つと……音も立てず、静かに。そうして降り積もった薔薇には気づかないふりをして生きることが“大人としての振る舞い”なのだと、沙月は知っている。家に帰ると陽介の母が来ていた。珍しいことではない。陽介の母、清美は親切な性格で、共働きでは家事の手が回らないところもあるだろうと、まめに手伝いに来てくれるのだ。そう、これはあくまでも“親切”なのだ。清美は台所に立って、何やら煮物をこしらえている。すでに帰ってきている夫は、リビングでソファに寝転んでドラマを見ていた。かすかに洗濯機の回る音が聞こえていた。清美は顔を上げて明るく笑う。「あら、ちょうどご飯ができるところよ、手を洗ってらっしゃい」その笑顔があまりにも悪意のないものだから……言えない。沙月は手にしていたスーパーの袋を冷蔵庫にしまった。手を洗って戻ってくると、夫はすでに食卓に出された煮物に箸をつけていた。「母さんの煮物、うまいな。沙月も煮物は上手なんだけど、味付けが上品で物足りないんだよな」「それは仕方ないでしょ、私の煮物は田舎風だから、味は濃くて美味しいけれど下品でしょ?」誰にも悪意はない、だから言えない……「ああ、そうだ、洗濯終わったみたいだから、干してきちゃうわね」「今からですか?」「そうよ、今干しておけば、明日の朝には乾くでしょ」「でも、夜干しになっちゃうし……」「大丈夫よ、下着は洗わなかったから。夜に下着干すのは、さすがに不用心だものね」薔薇は降り積もる。静かに、また一つ。だけど——沙月は、今日もらってきた一輪の薔薇を、そっと窓際に飾るだけにとど
「極端な話をすると、例えば目玉焼きにソースをかけるか、醤油をかけるか、たったそれだけのことからリコーンってなることもまあ、あるかもしれないねって話なのよ」これは美沙の言葉だ。それは水口夫妻の“面談“のためのブリーフィングの場でのことだった。水口夫妻の詳しいプロフィールが書かれた書類をめくりながら、沙月は戸惑いの言葉を返す。「この水口さんご夫妻も、目玉焼きで離婚するんですか?」「違う違う、あくまでも例え話。いや、"目玉焼きでリコーン"の調停を担当したことあるけどね」「そんなことで離婚できるんですか?」「できる。マジでできる。離婚理由として一番多いのが"性格の不一致”ってやつなんだけど、これって便利な言葉でね、目玉焼きに何をかけるかっていう些細な問題から、子どもの教育方針や夫婦生活の価値観、嫁姑問題から金銭のやり取りに至るまで、意見の相違ってのを何でもかんでもひっくるめて"性格の不一致”として扱うことができるわけよ」「はあ、なるほど?」「で、ここからが大事、離婚理由として一番ポピュラーなのが"性格の不一致"だけど、これ、裁判にまで持ち込むとまず離婚理由として認められないことが多すぎるのよ」美沙は書類の束をばさっと投げ出し、得意げに顎を上げる。「ふふん、ここで目玉焼きの例えが効いてくるわけですよ。裁判では"目玉焼きには何をかけるか、意見が合わないので離婚します"なんて絶対に認められないでしょ、そう、これも例えなんですが、別々の調味料を用意すればいいでしょうとか、そもそも目玉焼きを食卓に出さなければ争いは起きないでしょうとか、そういう流れになるわけですよ」「それはまあ、そうでしょうね」「そこで、私たちの出番ですよ! 目玉焼きに何をかけるのか、それはネットでも度々論争を起こす重要な選択問題であり、人生哲学であるってことをきっちりはっきり主張して、確実に離婚をもぎ取る、そういうお手伝いをするのが、このカウントダウンクラブ……」そこへ、ドアを押し開けて瑶子がふわりと入ってきた。「先生ったら、また言ってる」遥子は楽しそうに笑って、沙月の隣の椅子に腰を下ろした。「先生の目玉焼きの例えは、とてもわかりやすいわ、だけど私たちが目指しているのは確実な離婚ではなくて、"納得"なのよ」遥子は薔薇を一本取り出し、それをクルクルと手の中で弄んだ。「そうね、逆
沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。だがソファに座った沙月は、少しも癒されることなどなかった。手にした薄桃色のバラを所在なく撫で回しながら、ポツリと呟く。「これ、生花ではないんですね」手触りでわかる。その薔薇は防腐処理をされたプリザーブドフラワーだ。沙月の対面に座る遥子は、相変わらず落ち着きのある笑みを浮かべて答える。「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃ
………………………………離婚するほど不幸なわけじゃない——そう思って飲み込んだ言葉に、薔薇を一本。九十九本目までは、あなたの物語。百本目からは、私たちの出番。ようこそ、離婚互助会カウントダウンクラブへ。………………………………沙月に“カウントダウンクラブ”のことを教えてくれたのは、離婚経験のある女友達だった。「これ、知ってる? 離婚互助会って呼ばれてるんだけど」そんな言葉と共に手の中に押し込まれたのは、一枚の小さなカード。沙月はそれを押し返そうとした。「でもね、別に私、離婚したいわけじゃないのよ」それでも友人は、小さなカードを引っ込めようとはしない。「わかってる、離婚
それからしばらく、沙月は穏やかに暮らしていた。「沙月〜、ちょっときてー」陽介に呼ばれて洗い物の手を止める。リビングに行くと、陽介はソファーのクッションをどけて何かを探している様子だった。「あれさあ、テレビのリモコン、どこに置いた?」沙月は濡れた手を拭いて、テレビ台の端に置いたリモコンをとってやる。「使ったらここに戻そうって、こないだ決めたでしょ」「あー、そうだった、ごめんごめん」リモコンを受け取った陽介はソファにごろりと寝そべる。「あ、洗い物の途中だった? 手を止めさせてごめんな」そう言いながら野球中継をつける陽介を見て、沙月の中に小さな棘が生まれる。だけど、薔薇一本に
“相談室”の奥にある扉を開けると、そこは相変わらず、バラで埋め尽くされていた。誰かの激しい怒りを吸い上げたような真紅の薔薇。恋を弔う祭壇に似た白い薔薇。深い悲しみを抱え込んだみたいに俯く黄色の薔薇。この深い感情の中に、曖昧で不確かなピンクのバラを、果たして置いてもいいものなのか——手の中のバラをくるりと捻りながら佇む沙月に、遥子は静かな声で聞いた。「どうしたの?」「私なんかが、バラを置く資格があるのかなって……」「どうして?」「冷静に考えてみると、夫は別に悪いことなんか一つもしていないんです、私が勝手に苛立っただけで……」「そう、あなたはそう思ったのね」沙月は、ふと目に