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九重有
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九重有の小説

沼の声

沼の声

後継者ミステリー歪んだ関係
地方都市の沼の近くで、連続殺人事件が起こる。 被害者たちは皆、死の直前に同じ言葉を残していた。 ――「声を聞いた」 新聞記者である〈私〉は取材を進めるうちに、事件と十年前に起きた妹の通り魔殺人事件との奇妙な符合に気づく 犯人はすでに死亡し、事件は解決したはずだった それでも夜になると、私の耳にはあの日と同じ声が蘇る 「聞かなければ、楽になる」 沼に囲まれた町に残る血塗られた因習 消された記録 歪められた記憶 そして、聞こえるはずのない声 私が追っていたのは連続殺人事件ではなかった 聞いていないことにしてきた真実が 静かに語り始める物語である。
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Chapter: 21話 確認者
 朝になっても、私は戻らなかった。 戻らなかった、と考えた時点で、まだどこかに私は残っていたのかもしれない。 けれど、玄関の鏡に映っていたのは、私ではなかった。 真壁朔也だった。 そう呼ばれる形をした顔。 そう返事をするための喉。 そう署名するための手。 朝の挨拶は、よく回る。 おはようございます、と言えば相手の顔がほどける。 ほどけた顔の隙間に、紙の白さが差し込む。 真壁朔也は笑う練習をしなくてよかった。 笑う必要がある時に、笑えばいい。 それだけだ。 頬の筋肉は、役のために動く。 公民館の鍵は軽い。 昨日、町内会の女が印と一緒に置いていったものだ。 「朝、開けておいて」 それだけの言葉だったのに、鍵を持った時から、もう断れないものになっていた。 軽い鍵で開く扉ほど、重いものが入っている。 真壁は靴を揃え、帳面のある机へまっすぐ歩いた。 新しい台帳の背に「確認者」とある。 白いページが、皮膚みたいに薄い。 薄いから、触るとすぐ熱を持つ。 熱を持つと、生き物に見える。 生き物に見えれば、手が止まりにくい。 朱肉の蓋を開けると、湿り気が鼻の奥を撫でる。 朱は血に似ているのに、血の匂いがしない。 血の匂いがしないから、罪悪感が立たない。 罪悪感が立たないまま、赤だけが残る。 それがいちばん都合がいい。 今日の来客は、よそ者だった。 町の外から来た若い男で、背中に癖のない荷物を背負っている。 癖のない人間は、まだ紙に逆らう形を持っていない。 まだ自分の名を守る術を知らないからだ。 男は玄関で立ち止まり、空気を吸い込んだ。 沼の匂いに気づく顔をした。 その顔が、少しだけ哀れだった。 哀れは、手続きを滑らかにする。 「相談ですか」 真壁は自分の声が低すぎないことを確かめてから言った。 低すぎると怖がられる。 怖がられると抵抗される。 抵抗は紙を汚す。 紙が汚れると、余計に手がかかる。 男は頷き、何かを説明しようとした。 真壁は最後まで聞かない。 言葉を聞くと人間が混ざる。 混ざった人間は後味が悪い。 後味が悪いと、次の線が揺れる。 「まず、確認だけ」 真壁は机の上に一枚の紙を置いた。 閲覧確認書。 欄は少ない。 少ない欄ほど逃げ道がない。 男は紙を見て、ペンを取ろうと
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 20話 起点
第20話 起点 名簿更新日の翌朝、目が覚めて最初に玄関へ行った。 理由は分からない。ただ、鍵を見なければいけない気がした。 鍵は内側から閉まっていた。 閉まっていたはずなのに、鍵穴の縁に細い傷が増えている。 刺して抜いて、刺して抜いた回数の傷だ。 家の鍵にまで手続きが染みると、家はもう家ではなくなる。 内側から鍵を見ているのに、外から入ろうとしている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 玄関から台所へ戻ると、匂いが先に来た。 紙の匂い。糊の匂い。朱肉の匂い。 どれも昨日まで役場で嗅いだ匂いなのに、台所の空気に混ざっている。 テーブルの上に、封筒が三通並んでいた。 並び方が整いすぎている。 誰かが端を揃えた並び方だ。 鍵は閉まっていた。 それをもう一度思った。 思ったところで、何の役にも立たなかった。 昨夜、ここには何もなかった。 少なくとも、私は見ていない。 見ていないものが、朝には整って置かれている。 それがいちばん嫌だった。 誰かが入ったのか。 紙だけが先に来たのか。 考えようとして、どちらでも同じだと思った。 一通目は「最終確定通知」。二通目は「関係者名受理控」。三通目は、白紙のように見える薄い紙で封がされていた。 宛名だけが黒い活字で大きい。 真壁朔也 様。 活字の「真壁朔也」は、もう何度も見ている。 見ているのに、喉の奥がひりつく。 自分の名を見ているはずなのに、名前の方が自分を見返してくる。 封を切る前に、携帯が震えた。 知らない番号ではない。 町内会の連絡網の中に混ざっていた番号だ。 「真壁さん」 町内会の女の声が出た。 朝の声なのに夜みたいに落ち着いている。 落ち着きは、落ち着かせるための声だ。 「今日で終わるから。九時。公民館」 終わる。 終わると言いながら、始める予定が透ける。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は短く笑った。 「もう関係ないわ」 関係ない。 関係ないと言えるのは、関係を確定する側だけだ。 電話が切れると同時に、チャイムが鳴った。 短い二回。 私は覗き穴を見た。 隣の家の老婆だった。 いつも朝に植木へ水をやる老婆だ。 今日はバケツを持っていない。 手が空いているのに、手の甲だけが少し濡れている。 「真壁さん」 
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 19話 二重台帳
 朱い印の音が、まだ耳に残っていた。 誰も私を止めなかった。 止めないというより、もうこの部屋で必要な分は済んだ、という顔をしていた。 私は椅子を引き、照合室を出た。 廊下の空気が少しだけ生温かかった。 役場の中で温度が戻るのは、紙の白さから目を逸らせた時だけだ。 だが、今日は逸らせない。 廊下の向こうで、さっきの「真壁朔也」が連れていかれている。 職員の背中に隠れて、背の曲がった男の影が揺れる。 番号札も名札もない胸。 返事だけが残る喉。 私は歩いた。 追うふりはしなかった。 追うふりをすると、追った事実が手続きになる。 廊下の掲示板の前で立ち止まったふりをして、視線の端で男の行き先を拾う。 職員は窓口の列へ男を混ぜ、別の窓口へ回した。 回すという動きが、荷物を回す動きに似ている。 荷物は落ち着く。 落ち着いた荷物は運びやすい。 そう思ってから、嫌になった。 私は人を荷物だと思いたいわけではない。 けれど、この町の手続きは、人を荷物に見える位置へ運ぶ。 男は振り向かない。 振り向かないのは、振り向く必要がないからだ。 名で呼ばれ、返事をし、次へ行く。 そういう生活が体に染みている。 窓口の札には「更新」「照合」「控え発行」と並び、どれも正しい顔をしている。 正しい顔の前で、男が「真壁朔也」として紙に触れる。 触れた瞬間、私の方が余計に薄くなる。 薄くなるのに、宛名だけは分厚い。 男は窓口の前で紙に触れたあと、職員に促されて奥へ歩いた。 客用の廊下ではない。 職員通用口の方だ。 そこへ入る時だけ、職員は男の背に手を添えた。 案内というより、運搬に近い手つきだった。 出入口の脇で、さっき出ていったはずの清掃員がモップを引いていた。 昨日、病院で見た背中と同じ丸さだ。 役場の制服の色が変わっても、背中の丸さは変わらない。 顔より先に、背中で分かった気がした。 私が近づくと、清掃員は目を合わせず、モップの柄だけを少し傾けた。 傾けた先は、職員通用口の方だった。 扉には「関係者以外立入禁止」。 どこへ行っても、禁止の札がある。 札のある場所へ、札のない人間が入る。 「昨日の人」 私が小声で言うと、清掃員は一度だけ頷いた。 「落ち着いたって言われる人は、ここを通る」 落ち着いた。
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 18話 更新日
 翌朝、町の放送が鳴った。 内容はいつもと同じ調子で、いつもより一段だけ事務的だった。 名簿更新日。 来庁のお願い。 提出の締切。 言葉の順番が、まるで天気予報みたいに平らで、平らなまま人を動かす。 雨が降ります。 傘を持ちましょう。 名簿を更新します。 名前を出しましょう。 そう並べられると、どれも同じことに聞こえる。 私は、テーブルの上の「関係者名提出補助票」を見た。 空白の上の凹みが、昨夜よりはっきりしている。 紙が勝手に濃くなるのではない。 こちらの目が、そこに寄っている。 寄った目は、予定を予定として認めてしまう。 認めたくないのに、見ているだけで少しずつ認めさせられる。 私は指先を握った。 昨夜、病院で拾った「落着」の紙片は、まだ上着のポケットに入っている。 洗ってもいないのに、そこだけ湿っている気がした。 紙が湿るのではなく、自分の皮膚が紙の方へ寄っている。 そう思って、また嫌になった。 玄関のチャイムが鳴った。 短い二回。 昨日と同じ鳴り方。 同じ鳴り方は、用件が変わっていないということだ。 ドアを開けると、町内会の女が立っていた。 笑顔が整っている。 整いすぎた笑顔は、もう結論を持っている。 「おはよう、真壁さん」 女は紙袋を持ち上げた。 「提出、代わりにしてあげる。代理提出、可だから」 代理提出可。 昨日の通知の文が、女の口から出ると温度を持つ。 温度を持った手続きは断りにくい。 「触るな」 私が言うと、女は驚いた顔をしなかった。 驚かないのが怖い。 その言葉も、その声の強さも、すでに想定されていた反応なのだと思った。 「触らないと進まないでしょう」 女は朗らかに言った。 「進まないと皆が困る」 皆が困る。 困るという言葉で、代理が正義になる。 私は紙袋の口元を見た。 折り返しがきっちりしている。 内側が少し湿っている。 紙を舐めた湿りの匂いがする。 封筒の口を閉じる指の湿りだ。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は一拍だけ間を置いた。 間を置いたのは、知らないからではない。 どの答えを使うか選んだからだ。 「更新日だから」 答えになっていない。 答えになっていないのに、答えになる音だ。 更新日だから、落ち着いた。 更新日だから
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 17話 失踪の手続き
第17話 失踪の手続き 夜になっても、提出依頼の紙はテーブルの上で白いままだった。 白いままなのに、もう汚れている気がする。汚れはインクではなく、視線の脂だ。見れば見るほど、空白の方がこちらを覚えていく。 私はペンを手に取らなかった。 代わりに上着を羽織った。 家の中にいると、紙の匂いが濃くなる。濃くなった匂いは、胸の奥を鈍く焦がす。 息が浅くなると、判断が遅れる。遅れた判断は、町に回収される。 部屋の角にいた女のことを確かめなければならない。 落ち着いた、というあの言葉の中身を見なければならない。 この町で「落ち着いた」と言われた人間は、家へ帰るとは限らない。 騒いだ人間。泣いた人間。名前を言い渋った人間。 そういう人間は、役場ではなく病院へ回される。治療ではなく、相談という形で。 中身を見ずに提出だけ進めれば、次に消えるのは自分だ。 そういう確信だけは、最初から喉に残っていた。 公民館へは行かなかった。行けばまず町内会の視線に捕まる。 捕まれば、問い合わせた事実が「協力」として記録される。 役場でもなく、町内会でもなく、いちばん人が薄く扱われる場所へ向かった。 病院へ向かう道は、昼間よりも狭く見えた。 街灯はある。あるのに、明るい場所が少ない。 光は道を照らすためではなく、暗い場所を区切るために置かれているみたいだった。 途中で、閉まった商店の前を通った。 シャッターには、古い町内会の貼り紙が残っている。 防犯。 声かけ。 見守り。 どれも、安心のための言葉のはずだった。 けれど夜に見ると、少し違って見える。 誰が誰を見ているのか。誰のために声をかけるのか。 見守るという言葉は、見張るという言葉と背中合わせで立っている。 私はポケットの中で指を握った。 何も持っていない。持っていないのに、紙片の角に触れている気がする。 家に置いてきたはずの提出依頼が、服の内側までついてきている。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 歩かないものほど、こちらの歩幅をよく知っている。 町の外れの小さな病院。 看板の文字が古く、光が弱いところだ。弱い光の下では、嘘も本当も同じ顔になる。 夜間受付の窓口は閉まっていて、呼び鈴だけが置いてあった。 押すと、鈴の音が廊下を細く走った。 走った音に遅
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 16話 提出
役場を出てから、風の冷たさがずっと手のひらに残っていた。 陽はあった。 それなのに、風だけが冷たい。 私は封筒を持っていない。 持っていないのに、紙の角が指に刺さる感覚だけが残っている。 町内会の女が袋に入れた控えは、私の手には渡らなかった。 それでも、あの封筒は私より先に家へ帰っている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 なのに、人間より先にいることがある。 先回りされたみたいで、それが嫌だった。 玄関の鍵を回すと、金属の擦れる音がやけに大きかった。 家の中は静かだった。 静けさが、紙の白みたいに薄い。 薄いから、少し触れただけで破れる。 玄関脇の郵便受けを開けた瞬間、湿った匂いが立った。 雨の匂いではない。 糊の匂いだ。 封筒が二通、入っていた。 役場の窓口で見たものと同じ薄い紙。 角が不自然にそろっている。 私はしばらく、それを見ていた。 誰が入れたのかを考えようとした。 考えようとしたのに、最初に浮かんだのは人の顔ではなく、指だった。 封筒の口を閉じる指。 紙の端を押さえる指。 私の手の上に重なった指。 宛名には、黒い活字で「真壁朔也 様」と打たれていた。 字が整いすぎていて、私の体温が届かない。 体温の届かない名前は、札になる。 一通目は「仮確定控」。 二通目は「関係者名提出依頼」。 提出という文字が、紙の上で硬く光って見えた。 台所のテーブルに並べると、封筒の角が揃った。 揃っただけで、部屋の中が少し役場になる。 白い紙があるだけで、人の声が小さくなる。 テーブルの上に置いた二通の封筒は、ただそこにあるだけだった。 ただそこにあるだけなのに、椅子の位置まで変えられた気がした。 ここは私の家のはずだった。 けれど、封筒が置かれた瞬間から、この部屋には窓口の順番ができている。 私が座る場所。 紙を置く場所。 返事を待たれる場所。 家は狭い。 役場よりずっと狭い。 狭い場所に紙を置かれると、逃げ場がないことだけがよく分かる。 私は封を切らずに、宛名だけを指でなぞった。 なぞると、活字が爪の中へ入ってくる気がした。 真壁朔也。 口に出していないのに、舌の裏が乾く。 それが私の名前なのか、私に貼られた札なのか、まだ分からない。 分からない
最終更新日: 2026-06-22
あなたの罪まで愛してる

あなたの罪まで愛してる

歪んだ愛純愛バッドエンド一途むずきゅん化け物浮気・不倫歪んだ関係無敵
愛されたことのない御厨愛梨沙は、愛し方を知らなかった。見つめることを恋だと思い、後を追うことを愛だと思った。 2025年6月17日、彼女はジュエリーショップ【Y.COCO】で鴻上拓哉を見つける。妻も愛人も嘘もある男。けれど、誰かのために迷う横顔だけは、ひどく優しく見えた。 やがて拓哉は、誰にも言えない罪を犯す。愛梨沙は逃げない。責めない。ただ白い手袋の指先をそろえ、微笑む。 幸せな妻は知らない顔で朝食を並べ、赤い爪の愛人は男を追い詰める。その間で愛梨沙は、愛という名前をつけながら、拓哉の逃げ道を少し消していく。 「大丈夫。私だけは、拓哉さんの罪まで愛してる」
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Chapter: 39話 Part4
扉が大きく揺れました。 麻里亜の指がつまみにかかります。 回しました。 カチリ。 鍵が外れます。 聖が扉を押し開けました。 拓哉が一歩よろめきます。 聖はすぐに麻里亜の前へ入りました。 「大丈夫か」 麻里亜は頷きました。 「うん」 聖は麻里亜の手首を見ます。 赤くなっています。 「何した」 拓哉が息を吐きました。 「何もしてない」 「これで?」 「掴んだだけだ」 「痛いって言ってただろ」 「お前に説明する必要ない」 聖が拓哉へ近づきました。 麻里亜が服の袖を引きます。 「聖、いい」 「でも」 「帰りたい」 聖は拓哉を睨んだまま、ゆっくり下がりました。 「分かった」 麻里亜は床に落ちた赤いスカーフへ向かいます。 拓哉が言いました。 「それは持っていくな」 麻里亜の足が止まりました。 「私のだけど」 「俺の車にあった」 「だから返してもらう」 「置いてけ」 「嫌」 麻里亜はスカーフを手に取りました。 拓哉が一歩出ます。 聖が間へ入りました。 「もう触るな」 「どけ」 「帰らせろ」 「お前が決めることじゃない」 「麻里亜が帰るって言ってる」 二人が睨み合います。 その時、黒い鞄の中でスマホが震えました。 拓哉は動きませんでした。 振動は止まりません。 麻里亜が鞄を見ました。 「また奥さん?」 「違う」 「見てもないのに?」 拓哉の顔がこわばりました。 聖も鞄へ目を向けます。 拓哉は急いでスマホを取り出しました。 画面を伏せようとします。 その前に、麻里亜が名前を読みました。 「瑠璃子さん」 拓哉の指が止まります。 「出れば」 「帰れ」 「奥さんに知られたくないの?」 「帰れって言ってる」 麻里亜は拓哉を見ました。 さっきまでよりも、ずっと静かな顔でした。 「もう知ってるかもしれないよ」 「何を」 「全部」 拓哉が麻里亜へ近づきます。 聖がその前へ出ました。 「行くぞ」 麻里亜は頷きました。 スカーフを持ち、聖と一緒に廊下へ出ます。 愛梨沙は階段の陰へ身を寄せました。 麻里亜が先に通ります。 その後ろを聖が続きました。 聖は階段へ向かう途中、一度だけ愛梨沙を見ました。 「まだいたのか」 愛梨沙は答えません。 「さっき
最終更新日: 2026-09-05
Chapter: 39話 Part3
「麻里亜!」 聖がすぐに答えました。 麻里亜は内側のつまみへ手を伸ばします。 拓哉が扉の前へ入りました。 「開けるな」 「どいて」 「まだ終わってない」 「終わった」 「麻里亜」 「終わったって言ってるの!」 麻里亜は拓哉の胸を押しました。 拓哉は動きません。 「今ここから出たら、全部終わるぞ」 「それでいい」 拓哉が黙りました。 麻里亜の目に涙がにじみます。 「もう、あなたのために黙らない」 「俺のため?」 「そうだよ」 麻里亜は一度、唇を噛みました。 「好きだったから黙ってた」 扉の外の聖も何も言いませんでした。 拓哉は麻里亜を見ています。 「でも、もう無理」 「……何が」 「怖い」 拓哉の眉が動きました。 「あなたが怖い」 麻里亜は足元の赤いスカーフへ目を向けました。 腰をかがめ、手に取ります。 拓哉が腕を伸ばしかけました。 麻里亜はその前に窓へ走りました。 細長い窓の下、透明になっている部分へ赤いスカーフを押し当てます。 「何してる」 拓哉が近づきます。 麻里亜はスカーフを左右へ振りました。 外階段にいた愛梨沙の目の前で、赤い布が揺れます。 「誰かに見せてる」 「誰に」 「誰でもいい」 拓哉が窓を見ました。 「聖か」 「違う」 麻里亜は窓の外を指しました。 「外に誰かいる」 拓哉の顔が窓へ向きます。 曇りガラスの向こうに、人の形がありました。 愛梨沙は反射的に一段下がります。 見つかる。 胸が速く鳴りました。 それでも、足は階段を下りません。 (見て 拓哉さん こっち見て) 拓哉が窓へ近づきました。 愛梨沙は壁へ身体を寄せます。 その時、スマホが震えました。 瑠璃子からの着信です。 愛梨沙はすぐに切りました。 室内で麻里亜が拓哉の横を抜けました。 今度こそ扉へ向かいます。 「麻里亜」 拓哉が振り返りました。 「触らないで」 麻里亜はつまみを回そうとします。 拓哉が腕を掴みました。 「やめて!」 その声を聞いた聖が、扉へ身体をぶつけました。 ドン、と廊下に響きます。 「麻里亜!」 「開けて!」 もう一度。 扉の枠が軋みました。 拓哉が麻里亜を扉から離そうとします。 麻里亜は必死につまみへ手を伸ばしました。 指先
最終更新日: 2026-09-03
Chapter: 39話 Part2
階段を上がってくる足音に、聖が振り返りました。 このビルの外階段は、三階廊下の端へつながっていました。 踊り場の手前に、白い手袋の女が立っています。 愛梨沙でした。 彼女は一段下で足を止め、聖を見上げています。 「……あんた、誰だ」 聖の声に、部屋の中の麻里亜が反応しました。 「聖? 誰かいるの?」 聖はすぐには答えませんでした。 目の前の女に見覚えはありません。 けれど、偶然ここへ来た人間にしては、立ち止まり方が静かすぎました。 愛梨沙は口元だけで笑います。 「部屋を間違えました」 「なら下りろ」 「すぐに」 そう言いながら、愛梨沙は動きません。 廊下の奥から漏れる光が、白い手袋を薄く照らしています。 聖は一歩、愛梨沙へ近づこうとしました。 その時、室内で拓哉のスマホがまた震えました。 長く、細かく。 伏せられた画面がテーブルの上で鳴っています。 麻里亜は拓哉を見ました。 「出ないの?」 拓哉は答えません。 「さっきから、ずっと同じ人?」 「関係ない」 「関係あるから出られないんでしょ」 拓哉の目が麻里亜へ向きました。 「黙れ」 「奥さん?」 その一言で、拓哉の喉が小さく動きました。 麻里亜はその反応を見逃しませんでした。 「瑠璃子さん?」 扉の外で、聖の身体が強張ります。 愛梨沙も、階段の途中で息を止めました。 拓哉はゆっくりテーブルへ戻りました。 スマホはまだ震えています。 画面へ手を伸ばし、通話を拒否しました。 「どうして、奥さんからの電話に出ないの」 麻里亜が聞きました。 「お前には関係ない」 「私と会ってるから?」 「違う」 「じゃあ出ればよかったじゃない」 拓哉はスマホを黒い鞄へ入れました。 「話を戻す」 「戻さない」 麻里亜は一歩、扉へ近づきます。 「もう帰る」 拓哉はその前へ出ました。 「まだだ」 「もう話すことない」 「ある」 「私はない」 扉の向こうから、聖が強く叩きました。 「麻里亜、開けろ」 麻里亜は扉へ手を伸ばします。 拓哉の指が、その手首へかかりました。 「やめろ」 「離して」 「開けるな」 「離してって言ってる!」 扉越しに、聖が息をのむ気配がありました。 「今、何した」 拓哉は扉へ向かって言いました。
最終更新日: 2026-09-02
Chapter: 39話 扉の外 Part1
三階の廊下から響いた音に、麻里亜の指が止まりました。 内側のつまみに触れたまま、扉の向こうへ耳を澄ませます。 拓哉もスマホを伏せたまま、動きません。 着信は切れました。 部屋の中に、換気扇の低い音だけが戻ってきます。 「……誰?」 麻里亜が小さく言いました。 拓哉は答えません。 視線だけが、扉の方へ動きます。 扉の向こうで、足音が止まりました。 一枚の板を挟んで、誰かが立っています。 「麻里亜」 聖の声でした。 麻里亜は息を吸い込みます。 「いるんだろ?」 拓哉の眉がわずかに動きました。 「開けるな」 麻里亜は拓哉を見ます。 「どうして?」 「話が終わってない」 「終わったよ」 「終わってない」 拓哉の手が黒い鞄へ伸びました。 麻里亜は反射的に一歩下がります。 鞄の中には鍵があります。 スマホもあります。 赤いスカーフは、まだテーブルの上です。 扉の外から、聖がもう一度呼びました。 「麻里亜、返事しろ」 「……大丈夫」 麻里亜は答えました。 けれど、その言葉は細く震えていました。 すぐに聖が返します。 「大丈夫な声じゃない」 拓哉が扉へ近づきました。 麻里亜との間に身体を入れるようにして、内側のつまみに手を伸ばします。 麻里亜はその腕を止めようとしました。 「開けて」 「黙ってろ」 「開けてって言ってるの」 「今、あいつを入れたら余計に面倒になる」 「面倒にしたのはあなたでしょ」 拓哉の目が細くなりました。 廊下で、また乾いた音がします。 麻里亜は肩を震わせました。 「何の音?」 拓哉は答えません。 扉の向こうで、聖が短く息を吐きました。 「廊下の案内板に当たっただけだ」 さっき落ちたのは、それだったのでしょう。 麻里亜は扉の下の隙間を見ました。 細い光が差し込んでいます。 けれど、そこに立つ聖の姿までは見えません。 外階段の下で、愛梨沙は顔を上げていました。 三階の廊下の方で、人の気配が重なっています。 窓からは、誰がどこにいるのか分かりません。 ただ、聖が上へ行ったことだけは分かりました。 さっきまで道路側にいた男の姿が、もうありません。
最終更新日: 2026-08-08
Chapter: Part4
「昨日の時点で、私一人じゃどうにもできなくなってるから」 部屋の空気が止まりました。 拓哉は麻里亜を見つめたまま動きません。 「誰に話した?」 低い声が落ちます。 麻里亜は首を横へ振りました。 「それは言わない」 「聖か」 返事はありません。 「他にもいるのか」 「答えない」 拓哉はゆっくり息を吐きました。 赤いスカーフを握る指へ、少しだけ力が入ります。 「どこまで知られてる」 「知りたい?」 麻里亜は静かに見返しました。 「昨日までなら教えたかもしれない。でも、もう違う」 「俺を追い詰めたいのか?」 「追い詰めたのは自分でしょ?!」 拓哉は目を閉じました。 短い沈黙が流れます。 「……写真だけは消してくれ」 「嫌」 「頼む」 「昨日は命令した」 「今日は頼んでる」 「違う」 拓哉は顔を上げました。 「俺は頼んでる」 「私には同じ」 麻里亜は鞄を抱き締めます。 「あなたが欲しいのは謝ることじゃない」 拓哉は黙っています。 「安心したいだけ」 部屋へ換気扇の音だけが流れました。 「私は、その安心をあげる気はない」 窓の外では、車が一台通り過ぎました。 街灯の明かりが曇りガラスを細く流れていきます。 外階段の下で、愛梨沙は身じろぎひとつせず立っていました。 窓の下だけが、かすかに明るくなります。 人影が近づき、また離れる。 声は聞こえません。 けれど、二人の距離だけは伝わってきました。 (苦しいね 拓哉さん 謝る声も 隠す指も もう届かない 私なら その苦しい息まで 唇で受け止めるのに 帰る場所なんていらない 逃げる腕なんていらない あなたが崩れるところを 一番近くで見ていたい) 愛梨沙のスマホが震えました。 瑠璃子からです。 〈変化はありましたか?〉 〈まだ出てきません〉 送ると、既読がつきました。 それ以上、連絡はありません。 部屋では、拓哉がテーブルへ手をついていました。 「一つだけ聞く」 麻里亜は答えません。 「その証拠は、俺を終わらせるために使うのか」 「使うかどうかは、これからのあなた次第」 拓哉は苦く笑いました。 「俺を試してるのか」 「違う」 麻里亜はゆっくり首を振ります。 「もう信じられないだけ」 その一言が
最終更新日: 2026-08-07
Chapter: Part3
倒れた椅子が床を滑り、鈍い音を立てました。拓哉も麻里亜も動きを止めます。部屋には、二人の荒い息だけが残りました。「……離せ」拓哉が低く言いました。「先に離して」「スマホだけ見せろ」「嫌」麻里亜は鞄を胸へ抱えたまま、壁際まで下がります。拓哉は視線を外しません。「昨日、お前は俺を脅した」「脅してない」「証拠を見せるって言った」「嘘を隠そうとしたのは、あなたでしょ」拓哉は何も返しませんでした。代わりに、床へ落ちた赤いスカーフへ目を向けます。ゆっくり拾い上げ、皺を伸ばしました。「こんな物まで残してる」麻里亜は眉を寄せます。「思い出だから?」「違う」「じゃあ何?」「返してもらうため」拓哉は小さく息を吐きました。「本当に、それだけか」麻里亜は答えません。拓哉は赤いスカーフを細く畳みます。その指先は昨日とは違い、静かでした。だからこそ、麻里亜は背筋が冷えます。「昨日は悪かった」拓哉が言いました。「……」「手首も」麻里亜は袖の上から右手首を押さえました。薄く残る痛みが、身体の奥でよみがえります。「本当に悪いと思ってるなら」「思ってる」「証拠を消してなんて言わないで」拓哉は目を伏せました。短い沈黙が流れます。「消してほしい」麻里亜は肩を震わせました。「結局、それなんだ」「違う」「違わない」「これ以上、大きくしたくない」「大きくしたのは、あなたでしょ」拓哉は唇を結びました。「全部、取り返しがつかなくなる」「だから私が黙れば済むって思ってる」「そうじゃない」「同じだよ」拓哉は言葉を探しました。けれど見つかりません。部屋の外では、階段を上り下りする足音が一度だけ聞こえ、すぐ遠ざかっていきます。二人とも耳を澄ませました。静けさが戻ります。「あいつは入ってこない」拓哉が小さく呟きました。「どうして分かるの」「お前が止めたから」麻里亜は苦く笑います。「私の言うことなんて、もう聞かないよ」その言葉に、拓哉の表情がわずかに揺れました。外階段の下では、愛梨沙が窓を見上げていました。曇りガラスの向こうで、人影が離れ、また近づきます。どちらなのかは分かりません。けれど、まだ終わっていないことだけは伝わってきました。〈動きはありません〉瑠璃子へ送ります。返事はありませ
最終更新日: 2026-08-05
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