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九重有
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九重有の小説

あなたの罪まで愛してる

あなたの罪まで愛してる

歪んだ愛純愛バッドエンド一途むずきゅん化け物浮気・不倫歪んだ関係無敵
愛されたことのない御厨愛梨沙は、愛し方を知らなかった。見つめることを恋だと思い、後を追うことを愛だと思った。 2025年6月17日、彼女はジュエリーショップ【Y.COCO】で鴻上拓哉を見つける。妻も愛人も嘘もある男。けれど、誰かのために迷う横顔だけは、ひどく優しく見えた。 やがて拓哉は、誰にも言えない罪を犯す。愛梨沙は逃げない。責めない。ただ白い手袋の指先をそろえ、微笑む。 幸せな妻は知らない顔で朝食を並べ、赤い爪の愛人は男を追い詰める。その間で愛梨沙は、愛という名前をつけながら、拓哉の逃げ道を少し消していく。 「大丈夫。私だけは、拓哉さんの罪まで愛してる」
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Chapter: 38話 赤い布 Part1
聖はそのまま道路を渡り切ると、拓哉の前で立ち止まりました。 「それはこっちの台詞だ」 二人の間には、車一台ぶんほどの距離しかありません。 麻里亜はガラス扉の内側から息をのみました。 「聖……」 思わず漏れた声は、ガラスに遮られ外までは届きません。 拓哉は銀色の鍵を指先で揺らしました。 「帰れ」 「帰るのはあんただよ」 「これは俺と麻里亜の話だ」 「違う」 聖は首を横へ振ります。 「昨日、あんたが何をしたか忘れたのか?」 拓哉の目が細くなりました。 「麻里亜は来ただろ?」 「だから何だ」 「嫌なら来ないんじゃないのか?」 「そう思ってるから危ないんだよ」 二人の視線が絡み合います。 車が通るたびに、街灯の光が二人の顔を切り分けました。 少し離れた自動販売機の陰で、愛梨沙は指を止めています。 瑠璃子からの返事はありません。 スマホの画面には、最後に届いた文章だけが残っていました。 〈赤いスカーフなら、心当たりがあります〉 (知ってるんだ。 あの赤を。 どうして? 拓哉さんが持っているものを) 拓哉は聖から目を離さず、静かに言いました。 「麻里亜」 ガラス扉の向こうで肩が震えます。 「来い」 麻里亜は動けませんでした。 拓哉を見ます。 聖を見ます。 どちらへ近づいても、何かが壊れてしまう気がしました。 「麻里亜」 もう一度呼ばれます。 聖は振り返らずに言いました。 「中へ入るな」 その一言で、麻里亜の足が止まりました。 拓哉は小さく息を吐きます。 「話にならないな」 そう言って踵を返しました。 裏手から受け取った銀色の鍵を鍵穴へ差し込みます。 金属音が静かに響きました。 カチリ。 ドアのロックが外れます。 拓哉は振り返りました。 「入れ」 麻里亜は唇を噛みました。 「……少しだけ」 「麻里亜!」 聖が声を荒らげます。 「入るな!」 麻里亜はゆっくり首を横へ振りました。 「話して終わらせるだけだから」 「話すだけならここでも出来るだろ?大体事情はすでに俺にバレてるのに、わざわざこんな所に入る必要あるか?」 「お願い、聖」 その声は、聖へ向け
最終更新日: 2026-07-30
Chapter: Part4
拓哉の横顔から、表情が消えました。道路の向こうで、聖も拓哉を見ています。麻里亜はガラス扉の内側にいました。まだ二人が向かい合ったことには気づいていません。愛梨沙は息を抑えながらスマホを構えます。〈夫が聖さんに気づきました〉瑠璃子から、ようやく返事が届きました。〈夫の様子を見ていてください〉〈近づかないで〉愛梨沙は返事を打ちませんでした。拓哉から目を離せなかったのです。拓哉は右手に銀色の鍵を持っています。左肩には黒い鞄。中には赤い布。麻里亜を二人きりの部屋へ呼び、裏手から鍵を受け取り、人目を避けて現れました。それだけなら、妻へ知られたくない男の行動として説明できます。けれど、赤い布だけが分かりません。書類でもありません。贈り物なら、なぜ透明な袋へ入れているのでしょう。捨てるものなら、なぜ麻里亜と会う日に持ってきたのでしょう。(何をするつもりだったの?麻里亜さんと二人になって鍵を閉めてその赤い布を見せるの?首に巻いてあげる?口へ触れさせる?拓哉さんの手であの赤が女の肌へ重なるところ見てみたい怖い顔も泣く顔も拓哉さんが作ったものなら全部きれい)拓哉が鞄の位置を直しました。ほんのわずかに口が開きます。透明な袋の中の赤が、街灯を受けました。その布の端には、小さなほつれがありました。新品ではありません。誰かが使っていたものです。拓哉は聖を見たまま、鞄の口を閉じました。聖は缶コーヒーを路面へ下ろしました。両手を空けています。いつでも拓哉へ近づけるように。拓哉の口元が、ほんの少し動きました。笑ったようにも見えました。けれど、目は笑っていません。二人の間を車が通り過ぎます。赤い尾灯が、拓哉の頬を一瞬だけ染めました。愛梨沙のスマホが震えます。瑠璃子からでした。〈鞄の中のものを、もう少し詳しく見られますか〉愛梨沙は画面へ指を滑らせました。〈赤い布です。透明な袋に入っています。新品ではないと思います〉〈形は?〉愛梨沙は拓哉の鞄を見ました。〈細長い布です〉しばらく既読がつきませんでした。その間に、拓哉が道路の向こうにいる聖へ向かって口を開きました。「何しに来た」車の音に削られて、声までははっきり届きません。それでも、口の形だけは分かりました。聖も何かを返しました。拓哉
最終更新日: 2026-07-28
Chapter: Part3
午後7時46分。麻里亜が姿を見せました。駅の方から早足で歩いてきます。薄い色のコート。肩へ掛けた鞄。歩きながら何度も後ろを振り返っていました。聖に気づくと、足を止めます。二人の間には道路がありました。麻里亜はスマホを取り出しました。聖のポケットが震えます。聖は画面へ目を落としました。愛梨沙の場所から内容は見えません。けれど、聖の表情がさらに険しくなったことは分かりました。麻里亜はビルの入口へ向かいます。聖が道路を渡ろうとしました。麻里亜は首を横へ振ります。来ないで。声にしなくても、そう言っているのが伝わりました。聖は足を止めました。麻里亜はガラス扉を開け、中へ入りました。階段の方へは進まず、入口付近で待っています。愛梨沙は瑠璃子へ送りました。〈麻里亜さんが着きました。聖さんも近くにいます〉〈夫は少し前に会社を出ました〉〈こちらまで何分ですか?〉〈車なら10分ほどです〉愛梨沙は時刻を確認しました。7時49分。拓哉は20時を指定しています。時間どおりに来るつもりなら、そろそろ近くまで来ていてもおかしくありません。それでも愛梨沙の胸には、別の予感がありました。拓哉は正面から来ない。理由は分かりません。けれど、ビルの入口を見つめながら、そう思いました。誰にも言わずに来てほしい。外では落ち着いて話せない。二人だけの部屋。拓哉は麻里亜へ見つけてもらうためではなく、他の誰にも見られないために、この場所を選んだのではないでしょうか。愛梨沙はビルの側面へ視線を向けました。細い通路の先は暗く、正面から奥までは見えません。〈建物の裏手も確認します〉瑠璃子へ送ると、すぐに返事が来ました。〈夫へ気づかれないでください〉愛梨沙は自動販売機の陰を離れました。道路を回り込み、ビルの横にある細い通路へ近づきます。奥には金属製の外階段がありました。壁には数字の並んだ黒い箱があります。レンタルスペースの鍵を受け取るキーボックスでしょう。蓋は閉じています。通路の壁が視界を遮り、ここからは正面の道路までは見渡せません。愛梨沙は通路へ入りすぎず、角から奥を見ました。数分が過ぎました。午後7時57分。遠くで車のドアが閉まる音がしました。足音が近づきます。正面の道路からではありません。裏の路地からです
最終更新日: 2026-07-27
Chapter: Part2
午後4時17分。拓哉から連絡が届きました。〈20時〉続いて、地図の共有画面が送られてきます。駅から少し離れた古い雑居ビル。3階にある時間貸しのレンタルスペースでした。〈ここで待ってる〉麻里亜は地図を開きました。飲食店ではありません。人の多い場所でもない。貸会議室という名前になっていますが、掲載されている室内写真には、小さなテーブルと椅子が二脚しかありませんでした。白い壁。細長い窓。鍵を使って入る個室。麻里亜は画面を閉じ、もう一度開きました。〈どうしてここなの?〉拓哉からは、しばらく返事がありませんでした。5分後。〈外だと落ち着いて話せないから〉〈誰にも言わずに来て〉麻里亜は胸の奥に広がる違和感を、言葉にできませんでした。拓哉は人目を避けたいだけなのかもしれない。妻に知られたくないのだから当然です。昨日のように感情的にならず、二人だけで話したいのでしょう。そう考えれば、不自然ではありません。けれど、その説明を信じようとするほど、指先が冷えていきました。麻里亜は共有された地図の画面を撮り、瑠璃子へ送りました。〈20時にここです〉瑠璃子からは、すぐに返事が届きました。〈ありがとうございます〉〈聖さんには?〉麻里亜は少し迷いました。〈場所だけ送ります〉〈分かりました。夫には、聖さんへ伝えたことを知られないでください〉麻里亜は聖との画面を開きました。地図を送ります。〈20時。会って話したら帰る〉今度は、すぐに既読がつきました。〈行くな〉〈もう決めた〉〈俺も行く〉〈来ないで〉〈無理〉麻里亜は画面を閉じました。同じ頃、瑠璃子から愛梨沙へ住所が送られていました。〈20時です。夫より先に着いてください〉愛梨沙は地図を確認しました。自宅から車で30分ほどです。建物の正面には狭い道路。隣にコインパーキング。裏手には細い通路があります。正面から見張れば、入口へ向かう人間は確認できそうでした。〈分かりました〉〈聖さんも来る可能性があります〉愛梨沙は画面を見つめました。〈麻里亜さんが呼んだのですか?〉〈場所を伝えたようです〉〈夫は知っていますか?〉〈知りません〉愛梨沙は小さく笑いました。拓哉は麻里亜と二人きりになるつもりです。麻里亜は聖へ場所を教えています。瑠璃子は愛梨
最終更新日: 2026-07-27
Chapter: 37話鍵のある部屋 Part1
店を出てからも、瑠璃子の言葉が耳の奥に残っていました。「明日、夫が誰にも見せないつもりの姿を、私の代わりに見てきてください」夫。その呼び方だけが、胸の奥へ細く刺さります。拓哉は瑠璃子の夫です。法律にも、名字にも、家の鍵にも守られた人。愛梨沙がどれほど拓哉を見つめても、その事実だけは変わりません。それでも瑠璃子は、自分ではなく愛梨沙に頼みました。拓哉が麻里亜と会う姿を、自分の代わりに見てほしいと。愛梨沙は自宅へ戻ると、明かりもつけずにベッドへ腰を下ろしました。鞄の中からスマホを出します。連絡先には、先ほど登録したばかりの瑠璃子の名前がありました。まだ一度も文章を交わしていません。それなのに、その名前はずっと前から画面にあったように見えました。(妻なのに自分では見に行かないんだね怖いの?それとも私の目なら汚れてもいいと思ってる?いいよ拓哉さんが誰を見てどんな嘘をついてどんな指で女に触れるのか全部、私の中へ入れてあげる)スマホが震えました。瑠璃子から初めての連絡です。〈先ほどお願いしたことですが、夫には絶対に知られないでください〉愛梨沙は画面へ指を滑らせました。〈はい〉〈麻里亜さんにも話しかけないでください〉〈分かっています〉〈何か起きても、すぐには間へ入らないで〉愛梨沙の指が止まりました。何か起きても。店では口にしなかった言葉です。他の文章よりも、その一文だけが黒く見えました。〈何か起きると思っているのですか?〉既読はつきました。けれど、返事は届きません。数分後、瑠璃子から送られてきたのは、問いへの答えではありませんでした。〈場所が分かり次第、連絡します〉愛梨沙はスマホを伏せました。瑠璃子は、何かを考えています。麻里亜から聞いたことだけではない。拓哉が明日、どんな顔で麻里亜へ会うのか。その先に何が起きる可能性があるのか。少なくとも、愛梨沙より深く先を見ています。胸の奥が、ゆっくり熱を帯びました。瑠璃子は妻です。それなのに、拓哉を愛梨沙の視線へ差し出そうとしています。(あなたの夫を私に見せてくれるんだね知らない拓哉さんを妻しか見てはいけないところまで私に覗かせてくれる優しい人それとも私を使うつもり?どちらでもいいよ拓哉さんに近づけるならあなたの指先にな
最終更新日: 2026-07-25
Chapter: Part4
愛梨沙は手袋の内側へ爪を食い込ませました。(知ってたんだ私が拓哉さんを見てること同じ道を歩いた足も同じ店で吸った息も拓哉さんが振り返る前に柱の陰へ隠れた身体も全部妻の目の中に入ってた見つかってたんだ恥ずかしいうれしい拓哉さんの奥さんに私の愛を見られてたこの人は私が拓哉さんを欲しがる姿を何度も写真で見たんだもっと見て白い布を剥がして指の先から胸の奥まで開いてあなたより深いところに拓哉さんがいるって妻の指で確かめて)「知っていたのに、どうして今まで何も言わなかったんですか?」「少なくとも、報告の中であなたが夫へ話しかける場面はありませんでした」瑠璃子の視線が、愛梨沙の白い手袋へ下りました。「夫を見ているだけなのか、近づく機会を待っているのか、それとも傷つけるつもりなのか、判断できなかったんです」「傷つけると思ったなら、警察へ話せばよかったでしょう?」「夫の近くに同じ女性が何度かいたというだけでは、何も起きていませんから」「拓哉さんには?」「話していません」愛梨沙の唇が、わずかに開きました。「どうしてですか?」「夫があなたを知らないのなら、わざわざ教える必要はありません。知っているのに隠しているのなら、尋ねても正直には答えないでしょう」瑠璃子は結婚指輪へ親指を添えました。「どちらにしても、私から名前を教える理由はありませんでした」「今夜までは?」「ええ。今夜までは」愛梨沙は瑠璃子の目を見ました。怒りも怯えもありません。けれど、何も感じていない目ではありませんでした。愛梨沙がどこまで知っているのか。どこまで夫を追っているのか。その奥に何が潜んでいるのか。瑠璃子もまた、愛梨沙を測っています。「私がここにいることも、最初から分かっていたんですか?」「店に入った時は気づきませんでした。窓へ同じ姿が何度か映ったので、顔を確認しました」「写真の私を覚えていたんですね」「何度も見ましたから」その言葉が、愛梨沙の胸の内側を撫でました。(何度も私を見たんだ拓哉さんを見ている私を妻が見ていた拓哉さんの背中を挟んで私たちずっと向かい合ってたんだねあなたは夫の先から私は夫の後ろから同じ人を見てた近いね思ってたよりずっと近い)「私が麻里亜さんを追ってきたとも思っているんで
最終更新日: 2026-07-24
沼の声

沼の声

後継者ミステリー歪んだ関係
地方都市の沼の近くで、連続殺人事件が起こる。 被害者たちは皆、死の直前に同じ言葉を残していた。 ――「声を聞いた」 新聞記者である〈私〉は取材を進めるうちに、事件と十年前に起きた妹の通り魔殺人事件との奇妙な符合に気づく 犯人はすでに死亡し、事件は解決したはずだった それでも夜になると、私の耳にはあの日と同じ声が蘇る 「聞かなければ、楽になる」 沼に囲まれた町に残る血塗られた因習 消された記録 歪められた記憶 そして、聞こえるはずのない声 私が追っていたのは連続殺人事件ではなかった 聞いていないことにしてきた真実が 静かに語り始める物語である。
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Chapter: 21話 確認者
 朝になっても、私は戻らなかった。 戻らなかった、と考えた時点で、まだどこかに私は残っていたのかもしれない。 けれど、玄関の鏡に映っていたのは、私ではなかった。 真壁朔也だった。 そう呼ばれる形をした顔。 そう返事をするための喉。 そう署名するための手。 朝の挨拶は、よく回る。 おはようございます、と言えば相手の顔がほどける。 ほどけた顔の隙間に、紙の白さが差し込む。 真壁朔也は笑う練習をしなくてよかった。 笑う必要がある時に、笑えばいい。 それだけだ。 頬の筋肉は、役のために動く。 公民館の鍵は軽い。 昨日、町内会の女が印と一緒に置いていったものだ。 「朝、開けておいて」 それだけの言葉だったのに、鍵を持った時から、もう断れないものになっていた。 軽い鍵で開く扉ほど、重いものが入っている。 真壁は靴を揃え、帳面のある机へまっすぐ歩いた。 新しい台帳の背に「確認者」とある。 白いページが、皮膚みたいに薄い。 薄いから、触るとすぐ熱を持つ。 熱を持つと、生き物に見える。 生き物に見えれば、手が止まりにくい。 朱肉の蓋を開けると、湿り気が鼻の奥を撫でる。 朱は血に似ているのに、血の匂いがしない。 血の匂いがしないから、罪悪感が立たない。 罪悪感が立たないまま、赤だけが残る。 それがいちばん都合がいい。 今日の来客は、よそ者だった。 町の外から来た若い男で、背中に癖のない荷物を背負っている。 癖のない人間は、まだ紙に逆らう形を持っていない。 まだ自分の名を守る術を知らないからだ。 男は玄関で立ち止まり、空気を吸い込んだ。 沼の匂いに気づく顔をした。 その顔が、少しだけ哀れだった。 哀れは、手続きを滑らかにする。 「相談ですか」 真壁は自分の声が低すぎないことを確かめてから言った。 低すぎると怖がられる。 怖がられると抵抗される。 抵抗は紙を汚す。 紙が汚れると、余計に手がかかる。 男は頷き、何かを説明しようとした。 真壁は最後まで聞かない。 言葉を聞くと人間が混ざる。 混ざった人間は後味が悪い。 後味が悪いと、次の線が揺れる。 「まず、確認だけ」 真壁は机の上に一枚の紙を置いた。 閲覧確認書。 欄は少ない。 少ない欄ほど逃げ道がない。 男は紙を見て、ペンを取ろうと
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 20話 起点
第20話 起点 名簿更新日の翌朝、目が覚めて最初に玄関へ行った。 理由は分からない。ただ、鍵を見なければいけない気がした。 鍵は内側から閉まっていた。 閉まっていたはずなのに、鍵穴の縁に細い傷が増えている。 刺して抜いて、刺して抜いた回数の傷だ。 家の鍵にまで手続きが染みると、家はもう家ではなくなる。 内側から鍵を見ているのに、外から入ろうとしている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 玄関から台所へ戻ると、匂いが先に来た。 紙の匂い。糊の匂い。朱肉の匂い。 どれも昨日まで役場で嗅いだ匂いなのに、台所の空気に混ざっている。 テーブルの上に、封筒が三通並んでいた。 並び方が整いすぎている。 誰かが端を揃えた並び方だ。 鍵は閉まっていた。 それをもう一度思った。 思ったところで、何の役にも立たなかった。 昨夜、ここには何もなかった。 少なくとも、私は見ていない。 見ていないものが、朝には整って置かれている。 それがいちばん嫌だった。 誰かが入ったのか。 紙だけが先に来たのか。 考えようとして、どちらでも同じだと思った。 一通目は「最終確定通知」。二通目は「関係者名受理控」。三通目は、白紙のように見える薄い紙で封がされていた。 宛名だけが黒い活字で大きい。 真壁朔也 様。 活字の「真壁朔也」は、もう何度も見ている。 見ているのに、喉の奥がひりつく。 自分の名を見ているはずなのに、名前の方が自分を見返してくる。 封を切る前に、携帯が震えた。 知らない番号ではない。 町内会の連絡網の中に混ざっていた番号だ。 「真壁さん」 町内会の女の声が出た。 朝の声なのに夜みたいに落ち着いている。 落ち着きは、落ち着かせるための声だ。 「今日で終わるから。九時。公民館」 終わる。 終わると言いながら、始める予定が透ける。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は短く笑った。 「もう関係ないわ」 関係ない。 関係ないと言えるのは、関係を確定する側だけだ。 電話が切れると同時に、チャイムが鳴った。 短い二回。 私は覗き穴を見た。 隣の家の老婆だった。 いつも朝に植木へ水をやる老婆だ。 今日はバケツを持っていない。 手が空いているのに、手の甲だけが少し濡れている。 「真壁さん」 
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 19話 二重台帳
 朱い印の音が、まだ耳に残っていた。 誰も私を止めなかった。 止めないというより、もうこの部屋で必要な分は済んだ、という顔をしていた。 私は椅子を引き、照合室を出た。 廊下の空気が少しだけ生温かかった。 役場の中で温度が戻るのは、紙の白さから目を逸らせた時だけだ。 だが、今日は逸らせない。 廊下の向こうで、さっきの「真壁朔也」が連れていかれている。 職員の背中に隠れて、背の曲がった男の影が揺れる。 番号札も名札もない胸。 返事だけが残る喉。 私は歩いた。 追うふりはしなかった。 追うふりをすると、追った事実が手続きになる。 廊下の掲示板の前で立ち止まったふりをして、視線の端で男の行き先を拾う。 職員は窓口の列へ男を混ぜ、別の窓口へ回した。 回すという動きが、荷物を回す動きに似ている。 荷物は落ち着く。 落ち着いた荷物は運びやすい。 そう思ってから、嫌になった。 私は人を荷物だと思いたいわけではない。 けれど、この町の手続きは、人を荷物に見える位置へ運ぶ。 男は振り向かない。 振り向かないのは、振り向く必要がないからだ。 名で呼ばれ、返事をし、次へ行く。 そういう生活が体に染みている。 窓口の札には「更新」「照合」「控え発行」と並び、どれも正しい顔をしている。 正しい顔の前で、男が「真壁朔也」として紙に触れる。 触れた瞬間、私の方が余計に薄くなる。 薄くなるのに、宛名だけは分厚い。 男は窓口の前で紙に触れたあと、職員に促されて奥へ歩いた。 客用の廊下ではない。 職員通用口の方だ。 そこへ入る時だけ、職員は男の背に手を添えた。 案内というより、運搬に近い手つきだった。 出入口の脇で、さっき出ていったはずの清掃員がモップを引いていた。 昨日、病院で見た背中と同じ丸さだ。 役場の制服の色が変わっても、背中の丸さは変わらない。 顔より先に、背中で分かった気がした。 私が近づくと、清掃員は目を合わせず、モップの柄だけを少し傾けた。 傾けた先は、職員通用口の方だった。 扉には「関係者以外立入禁止」。 どこへ行っても、禁止の札がある。 札のある場所へ、札のない人間が入る。 「昨日の人」 私が小声で言うと、清掃員は一度だけ頷いた。 「落ち着いたって言われる人は、ここを通る」 落ち着いた。
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 18話 更新日
 翌朝、町の放送が鳴った。 内容はいつもと同じ調子で、いつもより一段だけ事務的だった。 名簿更新日。 来庁のお願い。 提出の締切。 言葉の順番が、まるで天気予報みたいに平らで、平らなまま人を動かす。 雨が降ります。 傘を持ちましょう。 名簿を更新します。 名前を出しましょう。 そう並べられると、どれも同じことに聞こえる。 私は、テーブルの上の「関係者名提出補助票」を見た。 空白の上の凹みが、昨夜よりはっきりしている。 紙が勝手に濃くなるのではない。 こちらの目が、そこに寄っている。 寄った目は、予定を予定として認めてしまう。 認めたくないのに、見ているだけで少しずつ認めさせられる。 私は指先を握った。 昨夜、病院で拾った「落着」の紙片は、まだ上着のポケットに入っている。 洗ってもいないのに、そこだけ湿っている気がした。 紙が湿るのではなく、自分の皮膚が紙の方へ寄っている。 そう思って、また嫌になった。 玄関のチャイムが鳴った。 短い二回。 昨日と同じ鳴り方。 同じ鳴り方は、用件が変わっていないということだ。 ドアを開けると、町内会の女が立っていた。 笑顔が整っている。 整いすぎた笑顔は、もう結論を持っている。 「おはよう、真壁さん」 女は紙袋を持ち上げた。 「提出、代わりにしてあげる。代理提出、可だから」 代理提出可。 昨日の通知の文が、女の口から出ると温度を持つ。 温度を持った手続きは断りにくい。 「触るな」 私が言うと、女は驚いた顔をしなかった。 驚かないのが怖い。 その言葉も、その声の強さも、すでに想定されていた反応なのだと思った。 「触らないと進まないでしょう」 女は朗らかに言った。 「進まないと皆が困る」 皆が困る。 困るという言葉で、代理が正義になる。 私は紙袋の口元を見た。 折り返しがきっちりしている。 内側が少し湿っている。 紙を舐めた湿りの匂いがする。 封筒の口を閉じる指の湿りだ。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は一拍だけ間を置いた。 間を置いたのは、知らないからではない。 どの答えを使うか選んだからだ。 「更新日だから」 答えになっていない。 答えになっていないのに、答えになる音だ。 更新日だから、落ち着いた。 更新日だから
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 17話 失踪の手続き
第17話 失踪の手続き 夜になっても、提出依頼の紙はテーブルの上で白いままだった。 白いままなのに、もう汚れている気がする。汚れはインクではなく、視線の脂だ。見れば見るほど、空白の方がこちらを覚えていく。 私はペンを手に取らなかった。 代わりに上着を羽織った。 家の中にいると、紙の匂いが濃くなる。濃くなった匂いは、胸の奥を鈍く焦がす。 息が浅くなると、判断が遅れる。遅れた判断は、町に回収される。 部屋の角にいた女のことを確かめなければならない。 落ち着いた、というあの言葉の中身を見なければならない。 この町で「落ち着いた」と言われた人間は、家へ帰るとは限らない。 騒いだ人間。泣いた人間。名前を言い渋った人間。 そういう人間は、役場ではなく病院へ回される。治療ではなく、相談という形で。 中身を見ずに提出だけ進めれば、次に消えるのは自分だ。 そういう確信だけは、最初から喉に残っていた。 公民館へは行かなかった。行けばまず町内会の視線に捕まる。 捕まれば、問い合わせた事実が「協力」として記録される。 役場でもなく、町内会でもなく、いちばん人が薄く扱われる場所へ向かった。 病院へ向かう道は、昼間よりも狭く見えた。 街灯はある。あるのに、明るい場所が少ない。 光は道を照らすためではなく、暗い場所を区切るために置かれているみたいだった。 途中で、閉まった商店の前を通った。 シャッターには、古い町内会の貼り紙が残っている。 防犯。 声かけ。 見守り。 どれも、安心のための言葉のはずだった。 けれど夜に見ると、少し違って見える。 誰が誰を見ているのか。誰のために声をかけるのか。 見守るという言葉は、見張るという言葉と背中合わせで立っている。 私はポケットの中で指を握った。 何も持っていない。持っていないのに、紙片の角に触れている気がする。 家に置いてきたはずの提出依頼が、服の内側までついてきている。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 歩かないものほど、こちらの歩幅をよく知っている。 町の外れの小さな病院。 看板の文字が古く、光が弱いところだ。弱い光の下では、嘘も本当も同じ顔になる。 夜間受付の窓口は閉まっていて、呼び鈴だけが置いてあった。 押すと、鈴の音が廊下を細く走った。 走った音に遅
最終更新日: 2026-06-22
Chapter: 16話 提出
役場を出てから、風の冷たさがずっと手のひらに残っていた。 陽はあった。 それなのに、風だけが冷たい。 私は封筒を持っていない。 持っていないのに、紙の角が指に刺さる感覚だけが残っている。 町内会の女が袋に入れた控えは、私の手には渡らなかった。 それでも、あの封筒は私より先に家へ帰っている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 なのに、人間より先にいることがある。 先回りされたみたいで、それが嫌だった。 玄関の鍵を回すと、金属の擦れる音がやけに大きかった。 家の中は静かだった。 静けさが、紙の白みたいに薄い。 薄いから、少し触れただけで破れる。 玄関脇の郵便受けを開けた瞬間、湿った匂いが立った。 雨の匂いではない。 糊の匂いだ。 封筒が二通、入っていた。 役場の窓口で見たものと同じ薄い紙。 角が不自然にそろっている。 私はしばらく、それを見ていた。 誰が入れたのかを考えようとした。 考えようとしたのに、最初に浮かんだのは人の顔ではなく、指だった。 封筒の口を閉じる指。 紙の端を押さえる指。 私の手の上に重なった指。 宛名には、黒い活字で「真壁朔也 様」と打たれていた。 字が整いすぎていて、私の体温が届かない。 体温の届かない名前は、札になる。 一通目は「仮確定控」。 二通目は「関係者名提出依頼」。 提出という文字が、紙の上で硬く光って見えた。 台所のテーブルに並べると、封筒の角が揃った。 揃っただけで、部屋の中が少し役場になる。 白い紙があるだけで、人の声が小さくなる。 テーブルの上に置いた二通の封筒は、ただそこにあるだけだった。 ただそこにあるだけなのに、椅子の位置まで変えられた気がした。 ここは私の家のはずだった。 けれど、封筒が置かれた瞬間から、この部屋には窓口の順番ができている。 私が座る場所。 紙を置く場所。 返事を待たれる場所。 家は狭い。 役場よりずっと狭い。 狭い場所に紙を置かれると、逃げ場がないことだけがよく分かる。 私は封を切らずに、宛名だけを指でなぞった。 なぞると、活字が爪の中へ入ってくる気がした。 真壁朔也。 口に出していないのに、舌の裏が乾く。 それが私の名前なのか、私に貼られた札なのか、まだ分からない。 分からない
最終更新日: 2026-06-22
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