LOGIN地方都市の沼の近くで、連続殺人事件が起こる。 被害者たちは皆、死の直前に同じ言葉を残していた。 ――「声を聞いた」 新聞記者である〈私〉は取材を進めるうちに、事件と十年前に起きた妹の通り魔殺人事件との奇妙な符合に気づく 犯人はすでに死亡し、事件は解決したはずだった それでも夜になると、私の耳にはあの日と同じ声が蘇る 「聞かなければ、楽になる」 沼に囲まれた町に残る血塗られた因習 消された記録 歪められた記憶 そして、聞こえるはずのない声 私が追っていたのは連続殺人事件ではなかった 聞いていないことにしてきた真実が 静かに語り始める物語である。
View More私は、耳という器官を信用していない。
目は嘘をつくにしても、そこには形がある。輪郭があり、距離があり、誤りであれば訂正の余地がある。だが耳は違う。耳は形を持たないものを、あたかも確固たる実体であるかのように脳裏へ流し込む。しかもそれが嘘であるかどうか、本人には決して分からない。
市内で三人目の死体が発見された朝、私は編集部の片隅で原稿用紙に向かっていた。夜明け前の空気は湿り、輪転機の低いうなりが床から伝わってくる。その振動が、まるで自分の内臓を直接揺すっているように感じられた。
被害者はいずれも、死の直前に奇妙な言葉を残している。
――声を、聞いた。
警察は重要視していない。ただの錯覚、死の恐怖が見せた幻聴。そう片づけられている。しかし私は、その説明に奇妙な薄気味悪さを覚えた。なぜなら彼らの言葉は、細部に至るまで似通っていたからだ。
「近くで、誰かが話していた」
「振り返る前に、もう聞こえなくなった」 「聞こえなかったことに、した」最後の一文を目で追った瞬間、私は無意識に耳へ手をやった。耳朶の裏側が、じっとりと汗ばんでいる。まるでそこに、誰かの指が触れていたかのような感触が残っていた。
十年前のことを、思い出していた。
妹が殺された夜のことだ。
あれは通り魔事件として処理された。犯人はすでに死に、動機も不明のまま、事件は過去になった。私は新聞記者として、その記事を書いた一人でもある。淡々と事実を並べ、感情を排し、社会的に妥当な結論を添えた。
――それで、終わったはずだった。
だが最近、夜になると妙なことが起こる。眠りにつく直前、あるいは目覚めかけた曖昧な時間帯に、確かに声が聞こえるのだ。内容は決まって同じで、しかも親しみを帯びている。
「聞かなければ、楽になる」
私は耳を塞がない。
塞ぐという行為自体が、すでに“聞いている”ことの証明だからだ。原稿を書き終えた私は、ふと気づく。
その夜、三人目の被害者が殺された現場に、私はいた。取材のためだ。
それ以上の意味は、ない――はずだった。だが胸の奥で、何かが小さく、しかし確実に音を立てていた。
それは、歯車が噛み合う音によく似ていた知っている者は、もうほとんど残っていない。 その一文を書いてから、私は長い時間、何も書けずにいた。 ペン先が紙に触れるたび、かすかな音が耳につく。それだけが、この部屋にある現実だった。 知っている者が「残っていない」のなら、 では、消えた者はどこへ行ったのか。 私は、過去の記録を引っ張り出した。 取材ノート、音声データ、町史の写し。 そのどれにも、直接的な答えは書かれていない。 だが、共通点はあった。 消えた者たちは、皆、ある時期を境に「語られなくなる」。 死亡届が出ていない者もいる。転出記録だけが残り、その後の足取りが完全に途切れる者もいる。 町は、彼らを忘れたのではない。 最初から、覚えていなかったかのように振る舞っている。 私は、最初の一人を思い出した。 ――川村という男だ。 町の外から来た、臨時職員。 役場で短期間働き、住民の聞き取り調査をしていた。 彼は、沼に強い興味を示していた。 私は、彼と何度か話をしている。 記録によれば、彼はよく質問をした。 「なぜ、この町では事件が表に出ないのか」 「どうして、皆、同じ説明をするのか」 私は、答えている。 淡々と。 「そういう土地だから」と。 その数日後、川村は町を出た。 少なくとも、記録上はそうなっている。 だが、彼のアパートは、片付けられていなかった。 洗濯物も、食器も、そのままだった。 鍵も、郵便受けも、異常はない。 私は当時、それを「不可解な事件」として記録した。 今、読み返すと、違和感は別のところにある。 私は、探そうとしなかった。 次に思い出したのは、町の古老が語った話だ。 「昔な、気の強い女がいてな。 何でも口に出す人だった」 その女は、町のやり
否定する理由は、もう残っていなかった。 そう書いたあと、私はしばらくノートを閉じたまま、机に額をつけていた。 頭の中が静かだった。思考が止まっているというより、余計な音が消えた、という感覚に近い。 外では、風が吹いていた。 窓の隙間から、湿った匂いが流れ込んでくる。沼の匂いだと、私は即座に理解した。理解できること自体が、今となってはおかしい。 私は立ち上がり、妹の部屋へ向かった。 妹の部屋は、あの日からほとんど手を付けていない。警察が一通り調べ、必要なものだけを持ち出したあと、時間だけが堆積している空間だった。畳の色も、机の位置も、妹が最後にそこにいた時のままだ。 私は、引き出しを一つひとつ開けていった。 衣類、文房具、大学の資料。 どれも、よく知っているはずのものだったが、どこか他人の所有物のように感じられた。妹は、私の知っている妹だったのだろうか。あるいは、私が「知っていると思っていた妹」だっただけなのか。 机の一番下の引き出しは、固くなっていた。 少し力を入れると、ぎ、と嫌な音を立てて開いた。 中にあったのは、一冊のノートだった。 大学ノート。表紙に名前はない。だが、角が丸くなり、背表紙が少し裂けている。持ち歩かれていた痕跡が、はっきりと残っていた。 私は、その場に座り込み、ノートを開いた。 一ページ目。 〈兄が、変だ〉 文字は、妹のものだった。 見慣れた丸みのある字。少し癖のある「兄」の書き方。胸の奥が、鈍く痛んだ。 二ページ目。 〈町の人じゃない。 でも、町の人より、町のことを信じている〉 意味が、すぐには掴めなかった。 私は町の外で暮らしていた時間の方が長い。進学し、仕事をし、そして戻ってきただけだ。町の人間ではない、という自覚はある。 だが、「町の人より、町を信じている」とは、どういう意味だ。 ページをめくる。
私は、ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。 書かなければならない、という衝動だけが先にあり、何を書くべきかは分からない。いや、分かっていないふりをしていただけかもしれない。 そのとき、携帯が震えた。 警察からだった。 妹の件で、改めて話を聞きたいという。加えて、連続殺人の捜査で、新たな証言が出たらしい。私の取材が、捜査の妨げになっていないか確認したい、とも。 第三者の視点。 それは今の私にとって、救いのように思えた。 警察署の取調室は、奇妙なほど明るかった。白い蛍光灯の下では、沼も、町も、因習も、すべてが現実味を失う。 担当の刑事は、淡々と話し始めた。 「あなたの妹さんの件ですが……」 事故として処理された経緯。現場の状況。改めて聞いても、新しい情報はない。だが、次の言葉で、私は身を固くした。 「当日、沼の近くで、あなたを見たという証言が出ています」 私は、ゆっくりと息を吐いた。 「……私ですか?」 「はい。夜遅くに、誰かと話していた、と」 刑事は、証言者の名前を告げた。 町の外れに住む、年配の女性だった。 私は、その女性を知っている。 妹が、よく話をしていた相手だ。 「証言者は言っています。あなたは落ち着いていて、慌てた様子はなかった、と」 それは、不思議と安心できる内容だった。 少なくとも、私は“被害者を見つけて狼狽する兄”ではなかった。 ――では、何をしていた? 警察を出たあと、私はその女性の家を訪ねた。 彼女は、私を見ると、少しだけ困ったように笑った。 「話しちゃって、ごめんなさいね。でも……黙ってるのも、違うと思って」 縁側に座り、彼女は語った。 「あなた、あの夜、妹さんと話してたでしょう」 私は、頷いた。 「ええ。少しだけ」 「少し、じゃなかったわよ」 彼女は、はっきりと言った。 「あなた、説得してた」 胸が、ざわついた。 「説得……?」 「ええ。町のこと、沼のこと。 “選ばれる”とか、“戻る”とか…… 難しい話を、静かに」 彼女は、続ける。 「妹さん、泣いてた。 でも、あなたは怒らなかった。 ただ……決めてる人の話し方だった」 決めている人。 その言葉が、耳に残った。 帰り道、私は自分に言い聞かせた。 それは、第三者の誤解だ。 記憶違い
〈次は、誰を返す〉 その一文を、私は何度も読み返した。 問いではない。 命令でもない。 だが、選択の余地がないことだけは、はっきりと分かる文章だった。 まるで、すでに答えが決まっていて、それを確認するためだけに書かれた言葉のようだ。 私は、椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。 頭の奥で、何かが軋むような音を立てている。 妹の死について、私はこれまで「分からなかった」という立場を取ってきた。 不可解な事故。 警察もそう結論づけた。 沼での転落。夜間。足を滑らせただけ。 だが、それは「説明として都合がいい」というだけの話だ。 本当に分からなかったのは、 なぜ妹が、あの夜、そこにいたのか。 なぜ、町を離れるはずだった彼女が、沼へ向かう道を選んだのか。 私は、資料の束を引き寄せた。 過去の失踪事件、沼入の記録、断片的な証言。 ある共通点が、はっきりと見えてきていた。 戻ってきた者。 完全には戻らなかった者。 そして、戻りかけた者。 町は、戻ってきた者を排除しない。 完全に馴染まなかったとしても、沈黙を守る限りは、許容する。 だが―― 「戻りかけた者」だけは、違った。 町の論理を理解しかけ、しかし拒否した者。 内側に入りかけて、境界を踏み越えなかった者。 そういう存在は、最も危険だった。 妹は、その条件に、あまりにも当てはまりすぎている。 彼女は、この町を嫌っていた。 だが、完全に切り捨てることもできなかった。 私が取材で戻ると言ったとき、妹は少し考えてから、同行を申し出た。 「最後に、ちゃんと見ておきたいから」 あのときの言葉の意味を、私は理解していなかった。 最後に、何を? ノートをめくると、妹との会話が断片的に書き留められている。 記者としての習慣だ。身内との雑談ですら、言葉にして残してしまう。 〈ここ、空気が重い〉 〈みんな、同じ話し方するよね〉 〈優しいけど、線を引いてる〉 そして、最後のページ。 〈私、ここにいると、昔の自分に戻りそうで怖い〉 その一文を読んだとき、胸が締め付けられた。 妹は、「戻る」ことを恐れていた。 町の論理に、飲み込まれることを。 私は、録音機を手に取った。 聞いた音声の続きが、まだ残っている。 再生ボタンを