ログイン愛されたことのない御厨愛梨沙は、愛し方を知らなかった。見つめることを恋だと思い、後を追うことを愛だと思った。 2025年6月17日、彼女はジュエリーショップ【Y.COCO】で鴻上拓哉を見つける。妻も愛人も嘘もある男。けれど、誰かのために迷う横顔だけは、ひどく優しく見えた。 やがて拓哉は、誰にも言えない罪を犯す。愛梨沙は逃げない。責めない。ただ白い手袋の指先をそろえ、微笑む。 幸せな妻は知らない顔で朝食を並べ、赤い爪の愛人は男を追い詰める。その間で愛梨沙は、愛という名前をつけながら、拓哉の逃げ道を少し消していく。 「大丈夫。私だけは、拓哉さんの罪まで愛してる」
もっと見る扉が大きく揺れました。 麻里亜の指がつまみにかかります。 回しました。 カチリ。 鍵が外れます。 聖が扉を押し開けました。 拓哉が一歩よろめきます。 聖はすぐに麻里亜の前へ入りました。 「大丈夫か」 麻里亜は頷きました。 「うん」 聖は麻里亜の手首を見ます。 赤くなっています。 「何した」 拓哉が息を吐きました。 「何もしてない」 「これで?」 「掴んだだけだ」 「痛いって言ってただろ」 「お前に説明する必要ない」 聖が拓哉へ近づきました。 麻里亜が服の袖を引きます。 「聖、いい」 「でも」 「帰りたい」 聖は拓哉を睨んだまま、ゆっくり下がりました。 「分かった」 麻里亜は床に落ちた赤いスカーフへ向かいます。 拓哉が言いました。 「それは持っていくな」 麻里亜の足が止まりました。 「私のだけど」 「俺の車にあった」 「だから返してもらう」 「置いてけ」 「嫌」 麻里亜はスカーフを手に取りました。 拓哉が一歩出ます。 聖が間へ入りました。 「もう触るな」 「どけ」 「帰らせろ」 「お前が決めることじゃない」 「麻里亜が帰るって言ってる」 二人が睨み合います。 その時、黒い鞄の中でスマホが震えました。 拓哉は動きませんでした。 振動は止まりません。 麻里亜が鞄を見ました。 「また奥さん?」 「違う」 「見てもないのに?」 拓哉の顔がこわばりました。 聖も鞄へ目を向けます。 拓哉は急いでスマホを取り出しました。 画面を伏せようとします。 その前に、麻里亜が名前を読みました。 「瑠璃子さん」 拓哉の指が止まります。 「出れば」 「帰れ」 「奥さんに知られたくないの?」 「帰れって言ってる」 麻里亜は拓哉を見ました。 さっきまでよりも、ずっと静かな顔でした。 「もう知ってるかもしれないよ」 「何を」 「全部」 拓哉が麻里亜へ近づきます。 聖がその前へ出ました。 「行くぞ」 麻里亜は頷きました。 スカーフを持ち、聖と一緒に廊下へ出ます。 愛梨沙は階段の陰へ身を寄せました。 麻里亜が先に通ります。 その後ろを聖が続きました。 聖は階段へ向かう途中、一度だけ愛梨沙を見ました。 「まだいたのか」 愛梨沙は答えません。 「さっき
「麻里亜!」 聖がすぐに答えました。 麻里亜は内側のつまみへ手を伸ばします。 拓哉が扉の前へ入りました。 「開けるな」 「どいて」 「まだ終わってない」 「終わった」 「麻里亜」 「終わったって言ってるの!」 麻里亜は拓哉の胸を押しました。 拓哉は動きません。 「今ここから出たら、全部終わるぞ」 「それでいい」 拓哉が黙りました。 麻里亜の目に涙がにじみます。 「もう、あなたのために黙らない」 「俺のため?」 「そうだよ」 麻里亜は一度、唇を噛みました。 「好きだったから黙ってた」 扉の外の聖も何も言いませんでした。 拓哉は麻里亜を見ています。 「でも、もう無理」 「……何が」 「怖い」 拓哉の眉が動きました。 「あなたが怖い」 麻里亜は足元の赤いスカーフへ目を向けました。 腰をかがめ、手に取ります。 拓哉が腕を伸ばしかけました。 麻里亜はその前に窓へ走りました。 細長い窓の下、透明になっている部分へ赤いスカーフを押し当てます。 「何してる」 拓哉が近づきます。 麻里亜はスカーフを左右へ振りました。 外階段にいた愛梨沙の目の前で、赤い布が揺れます。 「誰かに見せてる」 「誰に」 「誰でもいい」 拓哉が窓を見ました。 「聖か」 「違う」 麻里亜は窓の外を指しました。 「外に誰かいる」 拓哉の顔が窓へ向きます。 曇りガラスの向こうに、人の形がありました。 愛梨沙は反射的に一段下がります。 見つかる。 胸が速く鳴りました。 それでも、足は階段を下りません。 (見て 拓哉さん こっち見て) 拓哉が窓へ近づきました。 愛梨沙は壁へ身体を寄せます。 その時、スマホが震えました。 瑠璃子からの着信です。 愛梨沙はすぐに切りました。 室内で麻里亜が拓哉の横を抜けました。 今度こそ扉へ向かいます。 「麻里亜」 拓哉が振り返りました。 「触らないで」 麻里亜はつまみを回そうとします。 拓哉が腕を掴みました。 「やめて!」 その声を聞いた聖が、扉へ身体をぶつけました。 ドン、と廊下に響きます。 「麻里亜!」 「開けて!」 もう一度。 扉の枠が軋みました。 拓哉が麻里亜を扉から離そうとします。 麻里亜は必死につまみへ手を伸ばしました。 指先
階段を上がってくる足音に、聖が振り返りました。 このビルの外階段は、三階廊下の端へつながっていました。 踊り場の手前に、白い手袋の女が立っています。 愛梨沙でした。 彼女は一段下で足を止め、聖を見上げています。 「……あんた、誰だ」 聖の声に、部屋の中の麻里亜が反応しました。 「聖? 誰かいるの?」 聖はすぐには答えませんでした。 目の前の女に見覚えはありません。 けれど、偶然ここへ来た人間にしては、立ち止まり方が静かすぎました。 愛梨沙は口元だけで笑います。 「部屋を間違えました」 「なら下りろ」 「すぐに」 そう言いながら、愛梨沙は動きません。 廊下の奥から漏れる光が、白い手袋を薄く照らしています。 聖は一歩、愛梨沙へ近づこうとしました。 その時、室内で拓哉のスマホがまた震えました。 長く、細かく。 伏せられた画面がテーブルの上で鳴っています。 麻里亜は拓哉を見ました。 「出ないの?」 拓哉は答えません。 「さっきから、ずっと同じ人?」 「関係ない」 「関係あるから出られないんでしょ」 拓哉の目が麻里亜へ向きました。 「黙れ」 「奥さん?」 その一言で、拓哉の喉が小さく動きました。 麻里亜はその反応を見逃しませんでした。 「瑠璃子さん?」 扉の外で、聖の身体が強張ります。 愛梨沙も、階段の途中で息を止めました。 拓哉はゆっくりテーブルへ戻りました。 スマホはまだ震えています。 画面へ手を伸ばし、通話を拒否しました。 「どうして、奥さんからの電話に出ないの」 麻里亜が聞きました。 「お前には関係ない」 「私と会ってるから?」 「違う」 「じゃあ出ればよかったじゃない」 拓哉はスマホを黒い鞄へ入れました。 「話を戻す」 「戻さない」 麻里亜は一歩、扉へ近づきます。 「もう帰る」 拓哉はその前へ出ました。 「まだだ」 「もう話すことない」 「ある」 「私はない」 扉の向こうから、聖が強く叩きました。 「麻里亜、開けろ」 麻里亜は扉へ手を伸ばします。 拓哉の指が、その手首へかかりました。 「やめろ」 「離して」 「開けるな」 「離してって言ってる!」 扉越しに、聖が息をのむ気配がありました。 「今、何した」 拓哉は扉へ向かって言いました。
三階の廊下から響いた音に、麻里亜の指が止まりました。 内側のつまみに触れたまま、扉の向こうへ耳を澄ませます。 拓哉もスマホを伏せたまま、動きません。 着信は切れました。 部屋の中に、換気扇の低い音だけが戻ってきます。 「……誰?」 麻里亜が小さく言いました。 拓哉は答えません。 視線だけが、扉の方へ動きます。 扉の向こうで、足音が止まりました。 一枚の板を挟んで、誰かが立っています。 「麻里亜」 聖の声でした。 麻里亜は息を吸い込みます。 「いるんだろ?」 拓哉の眉がわずかに動きました。 「開けるな」 麻里亜は拓哉を見ます。 「どうして?」 「話が終わってない」 「終わったよ」 「終わってない」 拓哉の手が黒い鞄へ伸びました。 麻里亜は反射的に一歩下がります。 鞄の中には鍵があります。 スマホもあります。 赤いスカーフは、まだテーブルの上です。 扉の外から、聖がもう一度呼びました。 「麻里亜、返事しろ」 「……大丈夫」 麻里亜は答えました。 けれど、その言葉は細く震えていました。 すぐに聖が返します。 「大丈夫な声じゃない」 拓哉が扉へ近づきました。 麻里亜との間に身体を入れるようにして、内側のつまみに手を伸ばします。 麻里亜はその腕を止めようとしました。 「開けて」 「黙ってろ」 「開けてって言ってるの」 「今、あいつを入れたら余計に面倒になる」 「面倒にしたのはあなたでしょ」 拓哉の目が細くなりました。 廊下で、また乾いた音がします。 麻里亜は肩を震わせました。 「何の音?」 拓哉は答えません。 扉の向こうで、聖が短く息を吐きました。 「廊下の案内板に当たっただけだ」 さっき落ちたのは、それだったのでしょう。 麻里亜は扉の下の隙間を見ました。 細い光が差し込んでいます。 けれど、そこに立つ聖の姿までは見えません。 外階段の下で、愛梨沙は顔を上げていました。 三階の廊下の方で、人の気配が重なっています。 窓からは、誰がどこにいるのか分かりません。 ただ、聖が上へ行ったことだけは分かりました。 さっきまで道路側にいた男の姿が、もうありません。
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