Se connecter愛されたことのない御厨愛梨沙は、愛し方を知らなかった。見つめることを恋だと思い、後を追うことを愛だと思った。 2025年6月17日、彼女はジュエリーショップ【Y.COCO】で鴻上拓哉を見つける。妻も愛人も嘘もある男。けれど、誰かのために迷う横顔だけは、ひどく優しく見えた。 やがて拓哉は、誰にも言えない罪を犯す。愛梨沙は逃げない。責めない。ただ白い手袋の指先をそろえ、微笑む。 幸せな妻は知らない顔で朝食を並べ、赤い爪の愛人は男を追い詰める。その間で愛梨沙は、愛という名前をつけながら、拓哉の逃げ道を少し消していく。 「大丈夫。私だけは、拓哉さんの罪まで愛してる」
Voir plus男が角を曲がったあとも、愛梨沙の目の奥には銀色の輪が残っていました。細い指輪で大きな宝石も派手な模様もありません。ただそこにあるだけで、その男には帰る場所があるのだと知らせる輪でした。白い手袋の女はしばらく角の手前で立ち止まりました。追いかける足はあるのに、足の裏だけが湿った地面に貼りついたように動きません。黒い缶の冷たさが指先から手首へ上がってきます。それでも缶を捨てることはできませんでした。男と同じものを、まだ手放したくなかったのです。結婚している人奥さんがいる人誰かの家へ帰る人その言葉は愛梨沙の中でひとつずつ沈みました。沈むたび、胸の奥が少し重くなります。けれど沈んだものは底で消えませんでした。むしろ底の方で、白く光り始めたのです。ここで帰ればいいだけでした。知り合いでもない男既婚者たまたま見かけただけの人そうやって自分に言い聞かせ、黒い缶を捨て、駅へ戻り、夜には別のことを考えればよかったのです。けれど愛梨沙は、そうしませんでした。(奥さんがいるんだね。じゃあ、あの白い箱は奥さんのものなのかな。白いリボンを選ぶ時、少し困ったみたいに笑ってた。……いいな。毎日名前を呼べる人が、あんな顔まで持っていくんだ)愛梨沙は角の向こうを見ました。男の背中はまだ見えました。濃紺のスーツ白い小箱黒い缶左手の銀色それらが人混みの中で、小さな印のように動いています。愛梨沙は歩き出しました。さっきよりも少しだけ距離を置きます。近づきすぎると、自分の中の熱が男に気づかれてしまいそうでした。白い手袋の中では指が汗ばんで、缶を持つ布がわずかに湿っています。男は大通り沿いを進みました。駅前の店が途切れ、ガラス張りのビルが増えていきます。昼下がりの街は雨の前なのに妙に白く、車の窓もビルの壁も信号機も、全部が薄いベールをかぶっているようでした。男は途中で一度立ち止まり、スマホを見ました。画面を見た男の口元が、ほんの少し緩みます。それは笑顔と呼ぶには短すぎるものでした。けれど愛梨沙には分かりました。彼は画面の向こうの誰かに、少しだけ気を許したのです。その小さな緩みが、鋭く刺さりました。自分には向けられていない顔まだ名前も知らない女が、勝手に傷つくには早すぎるのにそれでも愛梨沙は、ちゃんと傷つきました。(誰?)声にはしませんで
第2話 同じ道そして愛梨沙は、その男の後を追いました。男は早足ではありませんが、立ち止まることもしませんでした。駅ビルの出口へ向かう人の流れの中で、濃紺の背中は何度か見えなくなり、また現れます。白い小箱の入った紙袋が、男の手の中で小さく揺れていました。愛梨沙は、その揺れを見ていました。近づきすぎてはいけません。声をかけてはいけません。肩に触れてもいけません。恋というものは、最初から触ってしまうと壊れるのだと、愛梨沙は思っていました。触れられたことのない女ほど、触れることを怖がるものです。けれど不思議なことに、見ることだけは怖がりません。見ることは、まだ罪ではない。少なくとも、その時の愛梨沙はそう思っていました。駅ビルの出口を抜けると、冷房で冷えた肌に六月の湿気が貼りつきました。空は低く、雨になる少し前の匂いがして、誰かの傘の先がまだ開かれないまま足元で揺れています。タクシー乗り場には水を含んだ風が流れ、車道の向こうの紫陽花は、さっきよりも青く見えました。男は駅前の横断歩道を渡り、革靴が白い線を踏みました。愛梨沙は少し遅れて、同じ白線を踏みます。ただの横断歩道で、誰のものでもない、誰でも踏める、汚れた白い線です。それでも愛梨沙には、そこだけが男の残していった小さな道しるべのように見えました。(同じところを歩いてる。偶然じゃないよね? だって、こんなに人がいるのに、私だけがちゃんとあなたの後ろを歩けてるんだもん。あなたが右へ行けば私も右へ行けるし、あなたが止まれば私も止まれる。ねえ、これって少しだけ、一緒に帰ってるみたいだね)男は振り返りません。それが、愛梨沙にはありがたいことでした。振り返られたら、きっと何もできません。目が合えば、息の仕方を忘れてしまいます。だから今は、背中だけでよかったのです。知らない男の背中。まだ名前も知らない男。けれど、さっきまでより少し近い男。男は駅前の小さな広場を抜け、ビルの脇にある自動販売機の前で足を止めました。愛梨沙は街路樹のそばで止まります。白い手袋の内側が、急に熱くなりました。男は紙袋を片手に持ったまま財布を出し、硬貨を入れました。ちゃり、と小さな音。男が選んだのは、黒い缶でした。銀色の文字で、BLACK COFFEEとだけ書かれています。甘くなさそうで、冷たそうで、少し寂しそうな缶
これは、白い手袋をした女が、薄紅色の男を見つけた日の話です。その日からちょうど1年後、男は死にます。女の手の中で。けれど2025年6月17日、男はまだ生きていました。ジュエリーショップ【Y.COCO】の硝子ケースの前で、薔薇の形をした小さなルビーのピアスを見下ろしていました。それは、真紅の薔薇の女へ贈られるはずの赤でした。けれど白い手袋の女は、まだそのことを知りません。知らないまま、男の横顔を見つめていました。誰かのために迷う顔を、愛だと思ってしまったのです。雨は降っていませんでした。けれど駅前の空気は、濡れた布を胸に押し当てられているみたいに重く、歩道の端に咲く紫陽花は、青にも紫にもなりきれないまま湿った光の中で滲んでいました。朝方まで降っていた雨の匂いが、アスファルトに残っていました。濡れた土。青い葉。傘袋の古い水。人の服に移った冷房の匂い。そういうものの中を、女は白い手袋をはめたまま歩いていました。女の名は、御厨愛梨沙。26歳。衣食住には困らず、綺麗な部屋も、柔らかな服も、空腹にならないだけの金もありました。けれど、誰かに大事にされた記憶だけがありませんでした。泣いても、誰も来ませんでした。熱を出しても、誰も額に触れませんでした。誕生日には、箱だけが届きました。箱の中身はいつも高価で、綺麗で、冷たく、愛梨沙が本当に欲しかったものだけが入っていませんでした。だから愛梨沙は、誰かが誰かのために迷っている姿に弱かったのです。それが、たとえ不実な男の買い物だったとしても。【Y.COCO】の店内には、白い光が落ちていました。指輪。ネックレス。小さなピアス。どれも硝子の中で、誰かに選ばれるのを静かに待っていました。愛梨沙は店の外で足を止めました。その時、男がいました。濃紺のスーツを着た男でした。背が特別高いわけではありません。けれど人混みの中で、そこだけ少し光が薄くなるような立ち方をしていました。袖口からのぞく手首は白く、指は長く、何かを乱暴に扱うことを知らないように見えました。男は硝子ケースを覗き込み、店員の説明を聞いていました。「こちらは小ぶりですが、薔薇の細工が入っておりますので、華やかに見えますよ」店員の声が、冷房の効いた空気にやわらかく落ちました。男は少しだけ首を傾げました。「大きすぎないですか