Chapter: 第42話「計算違いのプロポーズ、契約書は破り捨てるためにある」「宰相閣下万歳! リアナ様万歳!」 「救国の英雄に栄光あれ!」王宮のバルコニー。 眼下には、王都の広場を埋め尽くす数万の民衆が、波のように揺れていた。 歓声の轟音が、身体の芯まで響く。 私はアレクセイ様に手を取られ、訳も分からぬまま群衆に向かって手を振っていた。(……どうしてこうなったの?)さっきまで、涙ながらの別れ話をしていたはずなのに。 今の私は、王家秘蔵のドレスを着せられ、なぜか「国の救世主」として崇められている。 隣にいるアレクセイ様は、完璧な「宰相スマイル」を張り付かせているが、繋いだ手は痛いほど強く、そして掌は冷や汗で湿っていた。「……笑え、リアナ。愛想を振りまくのも公務だ」 「引きつって笑えません。これ、残業手当は出るんですか?」 「出るものか。……これは『私的な儀式』の前座だ」アレクセイ様は群衆に手を振りながら、口元だけで囁いた。「私的な儀式?」 「ああ。……ここなら、誰も邪魔できないからな」彼は突然、私をバルコニーの柱の陰──群衆からは死角になる場所へと引き寄せた。 歓声が少し遠くなる。彼は懐から、一枚の紙を取り出した。 何度も書き直しクシャクシャになった羊皮紙だ。あの夜、深夜の執務室で書き殴っていた『婚姻届兼、永久専属契約書』の成れの果てらしい。書き直すたびに、悪魔の契約書は少しずつ、不器用な愛の言葉へと姿を変えていったようだった。「……読め」 「これは?」 「新しい契約書だ」私は怪訝に思いながら、その紙を受け取った。 タイトルには、殴り書きのような文字でこう書かれていた。『終身雇用契約書兼、人生のパートナーシップ協定』「……なんですか、これ」内容を目で追う。『第一条:勤務地は、甲(アレクセイ)の隣とする。半径五メートル以上離れることを禁ず』 『第二条:勤務時間は、本契約締結の瞬間から、乙(リアナ)の心臓が止まるその時までとする』 『第三条:給与は、甲の保有する全資産、全権力、および……甲の生涯にわたる「愛」の全てを支給する』めちゃくちゃだ。 労働基準法を完全に無視している。 ブラック企業どころではない。これは、私の人生そのものを搾取しようとする悪魔の契約だ。「……閣下。この契約書には不備があります」私は胸ポケットから、愛用の赤ペンを取り出した。 そして、紙の上に容赦なく赤線を入れていく。
Last Updated: 2026-08-16
Chapter: 第41話「退職の日、宰相閣下の前代未聞の職権濫用」「……以上で、全ての業務の引き継ぎを完了いたします」朝の光が差し込む宰相執務室。 塵一つなく磨き上げられた床。 背の順に整列されたファイル。 そして、デスクの上に置かれた一本の鍵。私は深く一礼した。今日、この瞬間をもって、私の雇用契約は満了する。「長い間、お世話になりました。……ご健勝をお祈り申し上げます」顔を上げると、デスクの向こうにいるアレクセイ様と目が合った。 彼は彫像のように動かない。 その顔色は蒼白で、目の下には濃い隈があった。昨夜、一睡もしていないのだろう。 私も同じだ。お互いに、ボロボロの顔をしている。「……行くのか」絞り出すような声だった。「はい。借金は完済されました。私にはもう、ここに留まる理由がありません」 「……理由は、借金だけか?」 「契約書には、そう書いてあります」私は心に蓋をして、事務的に答えた。 そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったから。「では、失礼します」私は踵を返し、扉へと歩き出した。 カツ、カツ、カツ。 ヒールの音が、カウントダウンのように響く。 あと十歩。五歩。三歩。 ノブに手をかける。 これで終わり。 さようなら、私の愛した氷の宰相──。ダンッ!!背後から、凄まじい音がした。 デスクを蹴り倒すような音。 そして、突風のような気配が私に迫る。「行くなッ!!」「え……?」振り返る間もなかった。 背後から、強い力で抱きすくめられた。 アレクセイ様だ。 彼は私の背中に覆いかぶさるようにして、ドアノブにかけた私の手を、自分の手で強引に押さえつけた。「か、閣下……? 何を……」 「行くな。行かせない」耳元で聞こえる声は、宰相の威厳など欠片もない、駄々っ子のような響きだった。 彼の腕が、私の体に食い込むほど強く締め付けられる。 震えている。 あの「氷の宰相」が、小刻みに震えている。「契約終了です。これは監禁罪に当たります」 「知ったことか! 私が法だと言っただろう!」 「滅茶苦茶です……!」 「ああ、滅茶苦茶だ! 計算も論理も知るか! 君がいなくなる世界など、私にとってはエラーでしかないんだ!」アレクセイ様は私を強引に反転させ、向き合わせた。 至近距離にある彼の顔は、苦悶に歪んでいた。 アメジストの瞳が、潤んで揺れている。「……金を払えばいいんだろう?」彼は私の肩を掴んで揺
Last Updated: 2026-08-16
Chapter: 第40話「荷造りは終わらない、捨てられないガラクタたち」段ボール箱が三つ。 それが、私のこの公邸での生活の全てだった。「……少ないですね。備品ばかりで、私の私物なんてこんなものです」深夜のゲストルーム。 明日、私はここを出ていく。 契約終了に伴う退去。 それが優秀な経理係の去り際だ。「さて、あとはこの引き出しの中身を仕分けして、廃棄すれば完了……」私はデスクの引き出しをひっくり返し、中身を床にぶちまけた。 ガラガラ、と乾いた音がする。 出てきたのは、一見するとゴミのようなガラクタばかりだった。「……これ、まだ取っておいたんだ」最初に手に取ったのは、小さな白いボタン。 白蝶貝の、欠けたボタンだ。 以前、アレクセイ様のシャツから取れかけ、私が縫い直した時のもの。その際、予備として交換した古い方を、なぜか捨てずに持っていたのだ。『……君は、本当に私の修繕係だな』あの時の、彼の驚いた顔と、少し照れたような笑顔が脳裏に蘇る。 彼の体温。間近で嗅いだ香水の匂い。 ただのボタンなのに、掌に乗せると熱を持っているような気がした。「……資産価値、ゼロ。廃棄対象です」私はゴミ箱へ捨てようとした。 でも、指が動かない。 ゴミ箱の縁で手が止まり、震え出す。(……だめ。捨てられない)私はボタンをポケットにねじ込んだ。 次に出てきたのは、映画の半券のような紙切れ。 街へ「視察」に行った時、露店でもらった福引券だ。ハズレくじ。『一等賞は世界一周旅行か。当たったら、君と行くのも悪くないな』 『ハズレです、閣下。参加賞のポケットティッシュです』 『……ちぇっ』子供みたいに唇を尖らせていた、氷の宰相。 あの時、彼は確かに私との未来を夢見てくれていた。 たとえそれが、冗談だったとしても。そして、最後に拾い上げたのは──小指の爪ほどの、歪な形をした紫色の石だった。 魔力などほとんど残っていない、道端に転がっているようなクズ魔石。 彼が初めて私の「節約弁当」を食べた翌日、お礼だと言って本物の宝石と一緒に渡してきたものだ。『その紫色は、私の目の色に似ているだろう? 君にあげるよ』 『いりません、こんな石ころ』 『持っていてくれ。……私だと思って』「……馬鹿みたい」私はその石を握りしめ、膝を抱えて座り込んだ。「全部、ガラクタじゃないですか。市場価値なんてありません。質屋に持って行っても、一ベルにもなりません」
Last Updated: 2026-08-16
Chapter: 第39話「最後の業務は、引き継ぎではなく「思い出作り」」「……閣下。これは何の冗談ですか?」翌朝。 私は完璧に仕上げた『業務引き継ぎマニュアル(全十巻)』をデスクに積み上げ、アレクセイ様に問いただした。 彼は私のマニュアルを一瞥もしないまま、コートを羽織って扉の前に立っている。「冗談ではない。業務命令だ」 「ですから、引き継ぎをしないと後任の方が困ります。私の|独自計算式《アルゴリズム》は、初見では解読不能ですよ?」 「後任などいない」彼はきっぱりと言い切った。「私が全部やる。……君の代わりなど、この世に存在しないからな」 「過労死しますよ?」 「構わん。……それより、行くぞ。今日は『重要拠点』の最終視察だ」アレクセイ様は強引に私の手を取り、執務室から連れ出した。 重要拠点? 財務省か、それとも造幣局か。 しかし、彼が向かった先は、予想もしない場所だった。「……ここですか? 重要拠点というのは」辿り着いたのは、王宮の裏庭。 雑草が生い茂り、資材が雑然と置かれた、殺風景な場所だ。 でも、私にとっては見覚えのある場所だった。「ああ。ここが、すべての始まりだ」アレクセイ様は地面の一角を革靴のつま先で指した。 そこには、私が数ヶ月前、木の枝で書きなぐった数式の跡が、雨風に晒されて微かに残っていた。「……あの時、君はここで、一人でブツブツと国家予算の矛盾を計算していたな」 「見ないでください。黒歴史です」 「いや、美しかった。泥だらけの靴で、ボロボロの服で……それでも君の瞳は、どんな貴族よりも知的に輝いていた」彼は懐かしそうに目を細め、隣にあるベンチに腰掛けた。 そして、隣をポンポンと叩く。「座れ。……あの日と同じ景色を、もう一度見たかったんだ」私は躊躇いながらも、彼の隣に座った。 肩が触れ合う距離。 風が吹き抜け、木々の葉がざわめく音だけが響く。「……リアナ」「はい」 「私は、君に出会うまで……この世界がただの『チェス盤』に見えていた」アレクセイ様がポツリと語り出した。「人間は駒。感情はノイズ。全ては利益と損失で計算できるゲームだと思っていた。……だが、君という『エラー』が、私の盤面を茶苦茶にした」 「エラー扱いは心外です」 「最高の褒め言葉だ。……君のおかげで、私は初めて、盤上の駒ではなく『生きた人間』として呼吸ができた気がする」彼は私の手を取り、その指に自分の指を絡ま
Last Updated: 2026-08-13
Chapter: 第38話「完済通知書、震えるペンの先」王立銀行発行の小切手。 額面、二千万ベル。 それは、羊皮紙一枚とは思えないほどの物理的な重さを持っていた。 私の手の中で、それは「自由への切符」であると同時に、アレクセイ様との縁を切る「絶縁状」のように感じられた。(……行きましょう、リアナ。これが貴女の望んだゴールなのだから)私は震える足を叱咤し、廊下を歩いた。 一歩進むごとに、心臓が冷えていく。 宰相執務室の前。 いつもならノックもせずに飛び込んで「書類が散らかってます!」と怒鳴るところだ。 でも今日は、手が震えてノックができない。「……入れ。そこにいるのだろう」中から、低い声がした。 気配でバレている。 私は深呼吸をし、重い扉を開けた。「失礼いたします」夕暮れの執務室。 アレクセイ様はデスクに座り、窓の外を見ていた。 逆光で表情は見えない。 だが、その背中から漂う空気は、かつてないほど張り詰めていた。「……来たか」「はい。お約束どおり、精算に参りました」私はデスクの前に進み出た。彼との距離、わずか二メートル。この距離が、今日は無限の谷のように遠い。私は小切手をデスクの上に置いた。 そして、徹夜で作成した『借入金完済計算書』をその横に添えた。「閣下。これまでの借入金、および利息、遅延損害金、その他諸経費……全てを含めた全額です。これにて、完済とさせていただきます」事務的な口調を保つのが精一杯だった。 少しでも気を抜けば、声が震え、泣き出してしまいそうだったから。アレクセイ様はゆっくりと椅子を回し、私と向き合った。 そのアメジストの瞳が、小切手を見つめる。 そして、眉間に深い皺を寄せた。「……計算が、合わないな」「はい?」「足りないと言っている」彼は小切手を指先で弾いた。「二千万ベル? 馬鹿な。私の計算では、君の借金はあと一億ベルは残っているはずだ」「はあ!? 一億!? どこの悪徳金融ですか!」私は思わず素の声で叫び、そろばんを構えた。「法定利息は年一五%です! 私の計算に間違いはありません! どこからその一億なんて数字が出てきたんですか!」「……慰謝料だ」「い、慰謝料……?」「ああ。君が私の心を掻き乱し、業務に支障をきたしたことへの精神的苦痛に対する賠償金だ。日割り計算で加算している」アレクセイ様は真顔で、子供のような理屈を並べ立てた。「それか
Last Updated: 2026-08-13
Chapter: 第37話「事件解決、そして訪れる「別れ」の予感」「号外! 号外だーっ! 財務大臣マクシミリアン・バロン・グレイ、国家反逆罪で逮捕!」 「偽造金貨組織、壊滅! 宰相閣下、万歳!」王都の大通りに、新聞売りの少年の声が響き渡る。 窓の外を見下ろすと、数日前まで暴動寸前だった市場は、嘘のように平穏を取り戻していた。 人々は安心して買い物をし、店先には「政府公認・金貨交換所」の看板が掲げられている。「……計算通り、ですね」私は宰相公邸の自室で、静かに呟いた。 グレイ伯爵の逮捕から三日。 押収された彼の隠し資産──総額五十億ベルは全て国庫に没収され、被害を受けた経済の補填に充てられた。 ハイパーインフレの危機は去り、ベルの価値は守られた。 完璧なハッピーエンドだ。 国の経理係としては、これ以上ない成果と言えるだろう。コンコン、と控えめなノックの音がした。「リアナ様。王宮からの使者の方がお見えです」 「はい、今行きます」私は鏡の前で服装を整えた。 今日受け取るものが、私の人生を劇的に変えてしまうことを、私は知っていた。応接室に通されると、そこには侍従長が恭しく待っていた。 彼は私を見ると深々と頭を下げ、一枚の豪奢な羊皮紙と、重厚な木箱を差し出した。「リアナ・フォレスト嬢。この度の貴女様の働き、誠に天晴れでございました。国王陛下より、特別報奨金が|下賜《かし》されます」 「……恐縮です」私は震える手で木箱を受け取った。 ずしりと重い。 中には、王立銀行発行の最高額面小切手が入っているはずだ。「金額は、金貨二千枚。……二千万ベルでございます」「に、二千万……」息を呑んだ。 私の借金の残債は、先の報奨金を充当した後でも、約一千八百万ベルある。 つまり──。「……完済、ですね」 「はい。それどころか、二百万ベルほどの余剰金が出ます。さらに、陛下からはフォレスト家の爵位保全と、弟君たちの学費免除の特権も授与されるとのことです」侍従長はニコニコと笑っている。 貧乏令嬢が一夜にして借金をなくし、特権まで手に入れたのだ。 私は飛び上がって喜ぶべき場面だ。なのに。(……どうして?)私の心臓は、冷たい鉛を飲み込んだように重かった。 口角が上がらない。 「ありがとうございます」という言葉が、喉に張り付いて出てこない。「……リアナ嬢? いかがなさいましたか?」 「あ、いえ……あまりの光栄に、言葉が出
Last Updated: 2026-08-12