LOGIN「ぼく」には高校のときから好きな女性がいます。 みんなの憧れ、大学に入ってからは、西館のマドンナとひそかに呼ばれていた女性です。 完璧な彼女は、到底ぼくなんかの手の届く人じゃなくて……。 ずっと、ただの友達の1人でいることに満足していました。 そんなある日、彼女がお見合いをして、結婚をするために大学をやめて故郷に戻るというのを聞いて……。 ※昭和のイメージで書きました。
View Moreその日、ぼくは少し不安な気持ちで門への道を急いでいました。今日の講義は2時限と4時限。午後はオフです。
ノートや参考書の詰まったスクールバッグにちょっと苛立ちもあったんですが、何よりはやはりずっしりと重いバッグが食い込む肩の痛みがだんだん強くなって。堪えきれず、小休止しようと思い、葉をたくさんつけた常緑樹の木の下で立ち止まったときです。だれかがぼくの名を呼びました。
振り返ると、ちょうど吹いた強い風にざわざわとさざめく枝葉越しに、友人の正樹の姿が見えました。 彼は、彼を待つぼくの元へと走り寄ってきて、そして言ったのです。「おまえ、聞いたか!? あの西館のマドンナが、結婚しに田舎へ戻るんだと!」
冬の終わりの、2月も半ばのことでした。
◆◆◆
『西館のマドンナ』とは、ぼくの高校時代からの知り合いの1人です。そのころからクラス内でも頭ひとつ抜けて秀でた女性で、すっきりとした顔立ちとはきはきと話す口調は聞いていて心地よく、当時、クラスだけでなく学年の男子生徒のほとんどが、彼女に少なからず好意を寄せていました。また、人望も厚く、高校時代は生徒会副会長を務め、男たちだけでなく女たちからも好かれていて、何ひとつ取っても優れた、そしてそれを鼻にかけない、すばらしい女性……です。
ぼくもまた例にもれず、ずいぶん前からひそかに彼女の姿を目で追うようになっていました。
気づかれないようにと細心の注意を払って、いつも、いつも。 この大学を選んだのも、実は、学びたい科があったからだけではなく、クラス委員として希望進路表を集めた際に、彼女のものが偶然見えたからではないかと、思ってもいます。緑なす黒髪が風に揺れ、梳く指の所作まで美しく、彼女の笑声が聞こえるだけで胸の動悸は高まり――けれどぼくは彼女の数多くいる友人のうちの1人であり、恋人ではありません。
彼女のような女性に、ぼくのような男は不似合いです。
彼女を知ってからもうじき6年……。なぜか彼女は特定の恋人をつくらず、定期的に流れるうわさはあくまでうわさでしかありませんでした。
もちろん交際を申し込んだ男たちはいたはずです。高校時代も、大学へ入ってからも。ぼくの知らない所で――そこまでの関係です。おそらくぼくだけではないでしょうが――告白され、彼女はそのすべてを完璧に断わってきたのでしょう。これまで1度も彼女がふったということで、彼女が不当に当たられたり、男同士でいがみ合うような事件は起こらなかったという事実が、その証拠だと思っています。彼女――北原 美和子は、ぼくにとって聖女でした。
◆◆◆
数日後、彼女の結婚を惜しむための会が開かれることになり、高校からの知り合いということで避けることができず、ぼくも出席することになってしまいました。場所は、学部の飲み会などでよく使われていた居酒屋『こうだ家』の2階を貸切です。本当は、もっと賑わいのある街へ繰り出そうという話が出ていたのですが、彼女たっての頼みでこことなったのです。
学部の男の大半が彼女に惚れていたので、その会はやけに早く酒が皆の間を回りました。
酒の勢いでごまかすつもりか、彼女に少々下品なことを口にする輩も1人2人いましたが、そういった話はすべて周囲の者に適当に流され、本人はそれとなく注意を受けて黙り込むという結果となっていました。 そういったことを前もって懸念していたのか、彼女の両脇は3隣までしっかりと女子が埋めていて、男たちはおいそれと近寄れない雰囲気です。ぼくですか?
ぼくはいつものように皆からは少しはずれて、彼女からは右斜め前の端席で、大きな障子窓のはまった窓枠に背をもたれさせ、遠慮気味に飲んでいました。もう、ぼくの目には彼女しか映りません。
口に含んだアルコールのせいか、ぼくは少しばかり夢見心地で、口八丁手八丁でなんとか女子の包囲網にもぐり込み、彼女に近寄ろうとする男や、「こうなるんだったらもっと早く行動に移していればよかった」と、次々と来るふざけ半分の男たちからの告白に、少し大袈裟に驚いて見せたり笑ったりと、くったくなく表情を変える彼女を見つめていました。やがて、12時近くになったころ。終電を気にする女子たちが抜けていき、男たちはそんな女子を送りながら帰るか、酔い潰れていびきをかきながら座敷に大の字になっているかとなりました。
ぼくはといえば、窓枠に腰かけて、手の中で包み込むように持った中身のないグラスを、なんとはなしにゆらゆらと揺らしながら、手入れの行き届いた、箱庭のような小さな内庭の風景を眺めていました。
隅のほうで、蝋梅の木が黄色い小花を咲かせています。 ふと、長かった冬の名残りのような冷たい風が頬をかすめて吹き、そこに含まれたほのかに甘い芳香に目を細めたときです。だれかがぼくの手の中からグラスを持っていきました。グラスを持つ手を追うように視線を上げたなら、そこにいたのは彼女です。
片方の膝を落とし、ぼくのほうを覗き上げるような格好をした彼女が、ぼくの手から奪い取ったグラスを持って、そこにいました。
「さっきからずっとそうしてるけど、何か面白いものでもあるの? 猫でもいた?」
「べつに……酔い覚ましに、涼んでいただけだよ。猫はいない」ぼくは驚きと緊張に早まった鼓動を隠すために、さっきまで見ていた庭へと目を戻しました。
ですが、感覚の全てが彼女へと向かっています。「ふぅーん」
返事を聞いても彼女は去ろうとしません。むしろそこに腰を据えると、ぼくが見ているものを知ろうと思ったのか、枠から身を乗り出してしばらく庭に目を凝らしていましたが、そこには何もないと結論づけると、やおら不思議そうな目をぼくへと向けてきました。
ぼくは彼女に見つめられているということで発熱寸前。
分かっていましたが、つくづくなさけない男です。ぼくは。「……結婚、するんだって?」
一生懸命、頭の中で何か会話の糸口となるものをと必死に考え。ようやく出た言葉がこれでした。
その祝いの席に来ているというのに……口にした直後、われながら間の抜けた言葉だと、唇を噛みました。「……うん」
「そう……」 「あっ、でもまだ分かんないわよ。お見合いしただけで、相手の返事待ちだし……」彼女を断わるような男がいるわけがない、ということはこの6年で十分知り尽くしています。 だから、彼女のこの言葉は何の慰めにもなりませんでした。
「ひどいと思わない? ちょっと帰って来いって言われて帰郷したら、いきなり美容院へ行け、これを着ろって言われて。何事かと思ってたら、兄にホテルのレストランへ連れて行かれたの。そしたらそこに兄の会社の人がいて……お見合いの席だったわけ。
もぉ、驚く間もなかったわ」彼女はおどけたように声をあげて笑ったのですが、ぼくが笑っていないことに気付くと、自重するように口元に手をあてて笑うのをやめました。
「この間、母から電話があって。九分どおり決まりだって。
ふざけた話よねっ。勝手にお見合いさせたくせに、今度は結婚だ、早く戻れ、ですって」 「でも、結婚するんだ」 「……うん」ぼくはいつの間にかにぎりしめていた手に気づくと、無性に腹立だしくてなりませんでした。
ぼくは大声で言いたいのです。「結婚なんてやめてくれ。ぼくはきみが好きで、だけどぼくのことを好きになってくれとは言わない。でも、せめてきみは、きみの好きなやつと一緒になってほしい」
けれど、ぼくが言えるはずもありません。どうして言えるでしょうか。6年です。6年、彼女と友人として付き合ってきました。高校ではクラスメイトとして。今も同じ大学で、同じ学部で……。
言えたならとっくの昔に口にしています。だから、ぼくの唯一の言葉は「大学はどうするつもりなの?」
だけでした。
「うーん……、分かんない。けど、結婚したら向こうで暮らすことになるし……無理よね」
「でも、あと1年だよ?」 「いいの。べつに、未練ないから」彼女の頭が、ぼくの膝へと落ちました。寄りかかるように顔を押しあてて、目を閉じています。そしてそのまま黙り込んでしまい、ぼくも、友人として何と言えばいいのか分からず、ずっと無言でいました。
彼女の口からはっきりと聞いた『結婚』の言葉が胸の中でしこりを作り、胸焼けを起こしかけていて、気分が悪くてしかたありません。けれど彼女の頭がかかっているために動けず、結局ぼくは身動きできないまま、ずっと胸のむかつきを我慢していました。
これは嫉妬です。
彼女がだれかのものになる。ぼくの知らない場所で彼女はこれからを過ごし、そしてその場が彼女の全てとなり、こちらでの生活は全て思い出となって、いつかはぼくのことなど忘れてしまうのでしょう。そうして何年か過ぎたのち、クラス会などでぼくと会ったとき、彼女は思い出してくれるでしょうか?
畳についた、彼女の白く細い指。その薬指に光るだろう、指輪を想像して、ぼくは一層気持ちが悪くなっていきました。
漂う甘い蝋梅の香りに誘われるように面を上げた彼女も、それと気付いたのか、「どうしたの? 顔色が悪いわ」
と、少しあわてた様子で訊いてきました。
「……大丈夫」
ぼくはのどにせり上がってきたものを飲み下して、どうにか答えます。
「本当に?
あら、やだ。 ちょっと、このセリフ……。ふふっ。ふふふふっ」彼女はいたわるように伸ばした手を、やおら引き戻すと口にあて、笑い出しました。
楽しそうに目を細めてぼくの膝をぱしっとはたきます。「やだ。なぁに? あたしったら。
このセリフって、あなたと初めて会ったときとそっくりそのままじゃない。高校の入学式のとき、あなたったら1人離れて校舎裏なんかで木にもたれかかってて。青白い顔してるから、心配して声をかけたあたしに「大丈夫です、すみませんでした」なんて謝ってきて……」 「そう、だったかな?」 「そうよぉ。あのあと同じクラスになったでしょ? あ、あのときの男の子だ、って思ったから、それであなたのこと覚えたの。 あなたは? 覚えてる?」あのとき、ぼくの中で彼女への想いが生まれ、全てが始まったのです。忘れるはずがありません。
でも、そう答えるのも気恥ずかしくて。 ぼくは照れ笑いをしながらうなだれました。「もう……。ずるいと思わない? あたしは覚えてたのに」
「……ごめん」ぼくの苦しまぎれの嘘に彼女は気付かなかったようで、ぷっくり片頬を膨らませます。
そして、なぜか部屋を見渡して、だれも起きていないのを確認したあと、それでも内緒話をするように口元を手で隠し、声をひそめて言いました。「……ねえ。どうしてあたしが結婚するか、分かる? あなたのせいなのよ。知ってた……?」
その、ほほ笑みながらの意味ありげな視線と言葉に驚いて、一瞬どこにいるかも忘れて後ろへ身を退いたぼくは、窓の桟に後頭部と肩をしたたかにぶつけてしまいました。
彼女は最初こそ驚き、心配そうに身を乗り出したものの、後頭部に手をあて、声をかみ殺して痛みに堪えるぼくの姿に、ほっとした様子でくすくすと笑い。そして、ふっと脱力すると、続けるように話し始めました。「ううん、あなただけじゃない。みんなのせい。
あたし、いつもだれかがそばにいてくれてたことも、そしてその人たちがあたしのことを好いてくれてるってことも知ってたわ。 でも、そう思うたびに、これって本当にあたしが目的なのかしら? って思ってもいたの。 だれもがどこか、何かを牽制しあってて、あたしじゃなくてそちらにばかり気がいってるみたいだったから。そして、みんなそうすることで楽しんでたの。 だから、かもね。母の押しを断わり切れなかったのは。 ふふっ。 あたしってみんなのダシにされてたのよね、結局」 「それは違う。みんな、きみが好きだから――」 「そう? そうかしら。あたしは、みんなが楽しむきっかけでしかなかったんじゃない? だって、みんなあたしがいなくなることばかり惜しんで、だれも引き止めようとしないのよ? 最後まで……あたしは、みんなのオイシイお酒のツマミ」 「きっと、違うはずだよ……」『少なくとも、ぼくはきみを見ていたよ』
あえてその言葉は飲み込みました。
どこか陳腐な、そしてぼく自身、彼女が話す言葉の裏の意味――気持ちがあるのではないかと、期待しすぎている気がして……。 でも彼女はその曖昧なぼくの返答に不服らしく、かみつくように言ってきました。「違わないわよ! だって、あなただってそうじゃない。見てるだけ、だれか彼女を止めてくれって、離れた所から見てるだけでしょ!? ……あっ」
「知ってたんだ……」彼女の的確な表現が、それはそうか、と納得できたからかもしれません。なぜか羞恥は起きず、ただ、自分だけが知られていないつもりで空回りしていたことに、疲労のようなだるさを全身で感じていました。
彼女の失言を責めるつもりは毛頭なく、ただこの会話はいつまで続くのだろうとぼんやり考えていただけなのですが、そうして無言でいるぼくに、不注意だったと自省していた彼女のほうは、責められている気持ちになったのかもしれません。
僕の足から身を離し、やおら立ち上がったので、立ち去るのだと思い――そうなると急に足元のぬくもりが消えたのがさびしくなって――つられて顔を彼女のほうへ向けると、彼女はこぶしを握り、唇をかみ締めていました。「北原さん?」
「……あたし、もういやなの。だれも、本当にはあたしを見てくれない……。 だから結婚を賭けたのに、引き止めてくれる人、1人もいなかったわ。みんな笑顔で、おめでとう、ばかり口にして……。いやんなる」唇を震わせる彼女の横顔をじっと見ていると、それまで静かだった胸の奥がざわざわとしてきて。
何か言おう、と。 今言わなければ一生後悔するかもしれないという考えが浮かび、急かされて。でも、彼女の言う、その『1人』であるぼくに、今さら何が言えるのだろうと。 何も思いつかないまま、それでも口を開きかけたとき。 彼女はすでにぼくの伸ばす手の届かない戸口に立って、こちらを悲しげに振り返っていました。「あなたは、出会ったときからずっと、あたしを見てくれていた人よ。そんなあなたに、だれもしてくれなかったことを期待するのは、いけないことだったのかしら」
そして次の瞬間、駆け寄ってきた彼女の泣き伏すような体がぼくの腕の中に割り込んできました。
見た目よりもほっそりとして、想像していたよりもずっとやわらかな感触と彼女の肌の香りとぬくもりにぼくは声も出ないほど驚き、すっかりとまどってしまいました。
目の前にある彼女の肩に手で触れると、小刻みに震えているのが伝わってきます。
女性に抱きつかれた経験など1度もなくて。どうしたらいいのかうろたえるぼくの唇に唇が触れ、頬がすり寄せられました。「……して。いつか、思い出して、ね。
きっとみんな、あたしみたいな存在、すぐに忘れてしまうでしょうけど……あなただけは忘れないで……。 お願い。忘れてしまわないで、思い出してね」 それから、彼女はぼくの学生証を記念に、と素早く胸ポケットから抜き取り、空元気と分かる痛々しさではしゃいで部屋を抜けて行きました。 列車は明日の午後、最後の講義が終わってからだとだれかが言っていましたが、ぼくは見送りには行かないつもりです。それを見越しての、彼女からの抱擁だったのでしょうから。◆◆◆
あの日から1週間が過ぎて、だれもが西館のマドンナのことを口にしなくなったことで、ぼくも彼女の言葉を認めざるを得なくなってきたころ。ぼくの元へ1通の手紙が届きました。
封筒の裏に書かれた、差出人の名は『北原 美和子』。
教えた覚えはないと思いつつ、いつもあった胸ポケットの中身のせいと気づけば、あの、日がたつにつれて夢のように思えてしかたのない彼女との会話と最後の抱擁、触れあった唇の感触が、むせるような気まずさで浮かんでこようとしてきて。ぼくはあわてて封を切りました。
真っ白な、彼女らしい便箋のあざやかな輝きに目を細めつつも、ぼくの目は字を探していきます。
1枚目は白いままで、2枚目の下のほうにやっと小さく、『学生証の再発行には、お金と時間がかかるのよ。苦学生なんでしょ? あなた。
でも、ただで返すのもいやだから、あの日。あの木が思い出せたなら、取り返しに来なさいよ。褒美として返してあげるから』と、いう言葉だけが書かれていました。
まったく、彼女らしい文面。切符代で学生証は作れるというのに。
ということは、これは期待してもかまわないという後押しなんでしょうか?
忘れるはずのない彼女との出会いの場所、校舎裏。人目を避けてぼくが立っていた木は、もうすぐ薄桃色の花をつけます。 大学のメインロードの並木の蕾も、もう枝一面に広がっていて……。 そして今も、こうして窓に腰掛けているとそのほのかな香りが風に乗って、ぼくの部屋をすり抜けていきます。うららかな木漏れ日に目を閉じれば、その姿があざやかに浮かぶこのごろ。
閉じた花弁のふくらみが開くのも、そう遠くはないでしょう。彼女への返事は……そうですね。
『最初の花が開いたなら、その一枝を持って迎えに行きます』
というのはどうでしょうか?
細くこぼれてくる光を手でさえぎり、表の参道を見下ろせば、小さく花が見えたような……。【春望~最初の花が開いたなら、その一枝を持って迎えに行きます~ 了】