Chapter: STORY 63「……こんな場所あったんだ」このホテルはたまに家族で食事などで使用することもあったが、隠しフロアのような場所に、静かに上昇するエレベーターの中、私はぽつりと呟いた。豪華なインテリア、ふかふかのソファ、煌めくシャンデリア、そして、窓の外には都会の夜景が広がっている。こんな場所に、二人きり。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも鼓動がうるさいのだろう。「ここで食事でもしろってことですか?」 なんとなく気を紛らわせたくて、冗談めかしてそう言った。「陸翔兄さまには、たくさん迷惑をかけたから……」そこまで言ったところで、ふいに—— 体が温かさに包まれる。——陸翔兄さまに、抱きしめられて……る?「……陸翔兄さま?」驚いて声を出そうとしたが、それがちゃんと音になったかどうかもわからない。ドレスのせいで露出していた肩に、彼の温もりがダイレクトに伝わる。彼の体温がじかに感じられて、思考が追いつかなくなる。「沙織」 「……はい」「すべてが片付いたら言いたいことがあった」 そこまで言うと、陸翔兄さまは言葉を止めた。この状況で何を言われるか想像もつかず、心臓がバクバクと音を立てる。「ずっと沙織が好きだ。兄としてじゃなく」 え_?耳に届いたはずなのに、全く意味が理解できなくてただ動けない。「沙織が俺のことを兄としてしか思えないこともわかっていて、こんなことを言うのもルール違反だと思ってる。でも、もう、後悔をしたくない全力でこれから俺は沙織を口説くから」——陸翔兄さまが、私を?彼の腕の中で固まったまま、パニック寸前の私は、何と答えていいのかわからなかった。「沙織から電話をもらった日、あの時の傷ついた沙織を見て、俺はどれだけ後悔したか。あの時、沙織の幸せだと信じて、身を引いた自分をどれだけ呪ったか」「……でも、でも、陸翔兄さまは明日香さんが……」「明日香?」「明日香さんと恋人だったでしょう?」私がそう言うと、陸翔兄さまは少し考え込んだような表情を浮かべた。「明日香とは、そういう関係だったことはない」「でも結婚を……」「俺はずっと沙織が好きだった。沙織が早くに結婚をして、少しやけになった。明日香からのビジネス婚の頼みを断らずに受けてしまった」陸翔兄さまの言葉に、息が詰まる。私があきらめてしまったあの日。彼の気持ちを知ろうともせ
Last Updated: 2026-03-05
Chapter: STORY 62「沙織が……神田グループの令嬢……?」芳也、美咲さん、そして芳也の母親——三人の顔から血の気が引いていく。現実を受け入れられないのか、虚ろな目で立ち尽くし、やがて廃人のようにその場へと崩れ落ちた。「そんな、そんなはずない……!」美咲さんが呆然と呟くが、もはや誰も耳を貸す者はいない。その時——「俺は神田社長の命令で、彼女を保護したに過ぎない」陸翔兄さまの低く響く声が、会場の静寂を切り裂いた。「それを不倫だなどと騒ぎ立て、彼女を侮辱したこと——許されると思うな!!」鋭い怒声が響き渡る。誰もが息を呑み、誰一人としてその言葉を否定できる者はいなかった。「……連れていけ」静かに告げられた陸翔兄さまの言葉とともに、会場に控えていた警備が動き出す。青ざめた三人は、もはや抵抗する力もなく、そのまま引きずられるように会場を後にした。そして——「皆様、お騒がせして申し訳ありません」壇上に戻った父が、会場全体へと向けて穏やかに言葉を投げかける。「余興はこれまでにして——さあ、パーティーをお楽しみください」父の堂々たる宣言とともに、会場には再び穏やかなざわめきが戻った。「今日は本当にありがとうございました。そして、お騒がせしたことをお詫びします」父の落ち着いた声が、広い会場に静かに響いた。私は壇上に立つ父を見つめながら、ようやく——本当にすべてが終わったのだと、心の底から実感した。「これからの神田グループをよろしくお願いします。今後、娘の沙織が継ぐのか、ここにいる秋元が継ぐのか、それはまだ分かりません。しかし——」父はゆっくりと私と陸翔兄さまに視線を向ける。「いずれにせよ、我がグループは今後もさらなる発展に向けて精進してまいります」力強い言葉で締めくくると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。——しかし、父は再び口を開く。「ただ……父としての発言をお許しください」前置きをしてから、父は私と陸翔兄さまに視線を向けた。「娘を全力で守ってくれた秋元、そして、私の娘がともにこの会社を支えてくれる——そんな未来を、今回の出来事を通して思い描きました。これは父としての勝手な願望ですが」その言葉に、私は驚いて目を見開いた。しかし、次の瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。慌てて私は頭を下げる。隣に立つ陸翔兄さまの表情をそっと横目でうかが
Last Updated: 2026-03-04
Chapter: STORY 61「あなたには、沙織嬢への暴行容疑で送検させていただきます」「な、なにを……?」芳也が唖然とした顔で固まる。「あなたがしたことは、すべて警察へと報告しています」陸翔兄さまは容赦なく続ける。「元妻へのストーカー容疑、そして暴行未遂——」「そんな、そんなこと……!」芳也はしどろもどろになりながら、必死に言い訳しようとするが、その場にいる誰もが彼を軽蔑の目で見つめていた。「そして、美咲さん」陸翔兄さまの冷たい声が、美咲さんを射抜く。怯えながら後ずさる彼女を、兄さまは容赦のない視線で見下ろした。「あなたにも沙織嬢の名誉毀損にあたる嘘偽りを会社で流した罪を償ってもらいます」「ち、違う! それは——あの女が私にそそのかしたのよ!」突然、美咲さんが震える手で誰かを指さした。私たちの視線が、その先の人物へと向けられる。——そこにいたのは、一人の蒼白な女性。彼女は自分が指名されたことを理解した瞬間、唇を震わせ、恐怖に駆られたように会場の出口へと駆け出した。しかし——「彼女も捕まえろ」陸翔兄さまの静かな指示が飛ぶと、会場の警備がすぐに動く。逃げようとする彼女は、出口の手前であっさりと取り押さえられた。——後にわかったことだが、彼女は真紀という女性で、陸翔兄さまのストーカーだったらしい。「なんで……どうして……。こんな、こんな底辺の女が!!」美咲さんの顔が悔しさと憎しみで歪み、鬼のような形相で私を睨みつける。「黙れ!!!」壇上から響いたのは、父の怒声だった。これまで冷静に見守っていた父も、とうとう我慢ならなくなったのだろう。——でも、最後にこの幕を引くのは、私の役目だ。私は静かに一歩前へ進み、芳也たちをまっすぐに見据えた。「芳也さん——」会場の空気が張り詰める中、私はゆっくりと口を開いた。「あなたと結婚したことを後悔はしません」芳也がハッと顔を上げ、私を見つめる。「でも——あなたをこんな風にしてしまったのは、私の責任かもしれない。ごめんなさい」静かに、それでもはっきりとそう告げる。コツ、コツとヒールの音が響く中、私は芳也の真正面に立った。「あなたの会社を大きくしたかった。それは本当よ」「……!」芳也の顔が、言葉にならない感情で歪む。「でも、それが過ちだった」はっきりとそう言うと、私は次に芳也の母親へと視線を移
Last Updated: 2026-03-03
Chapter: STORY 60「お前、沙織とグルだったのか? なんだ、ホストじゃなくスパイだったのか?」低俗な発想に、私は思わず口元を押さえ、クスっと笑ってしまった。(どこまでくだらない考え方ができるのか……)「笑うな」そんな私を、少したしなめるように陸翔兄さまが小さく呟く。その直後、壇上の父が静かに口を開いた。「秋元副社長、今回の件の説明を」父の厳かな声が会場に響き渡る。その言葉に、陸翔兄さまは静かに会釈し、堂々と壇上へと向かった。「改めまして、今回の全権を指揮しております、神田グループ副社長の秋元陸翔です」圧倒的な存在感を放ちながら、陸翔兄さまが話し始めると、先ほどまで傲慢に振る舞っていた芳也の体が強張り、なんとか立ってはいるものの、膝がわずかに震えているのが見て取れた。その隣で、美咲さんと芳也の母親もまた、明らかに怯えた様子で体を強張らせている。「今回の件で、サクシードソリューションの佐橋社長は、コードシステム前社長・小林に賄賂を渡し、仕事を得ようとしていたことが明らかになりました。そして、小林には会社の横領の容疑もかかっており、その件については、弊社としても厳粛に対応してまいります。申し訳ありません」陸翔兄さまが頭を下げると同時に、会場がどよめく。そのあと、陸翔兄さまは、淡々と、芳也の会社がどれだけずさんな経営をしていたのか、仕事に穴だらけであったこと、問題が山積みだったことを指摘していく。そして、それが小林社長と結託していたことも伝えた。「そんな、そんなことあるわけがない……! 俺の会社はずっと順調で、俺の力でここまでやってきたんだ!」必死な叫びが会場に響く。芳也の顔は赤く染まり、悔しさと怒りが入り混じったように、壇上の陸翔兄さまを睨みつけていた。しかし——「黙れ!」低く、鋭い怒声が空気を切り裂いた。その瞬間、会場が張り詰めた静寂に包まれる。「お前の会社があるのは、すべて彼女がいたからだろう」陸翔兄さまは、淡々とした口調でそう言い放つと、ゆっくりと私の方へと視線を向けた。その言葉の意味を理解できず、芳也は愕然とした表情のまま立ち尽くす。「は? 沙織が? どうしてこの女が関係するのよ!」先に声を荒げたのは、芳也の母親だった。半ば錯乱したように声を張り上げる彼女の顔には、怒りと混乱が滲んでいた。「この女といえば、主婦のくせにまとも
Last Updated: 2026-03-02
Chapter: STORY 59しかし——さすがに周囲の人々も、この騒ぎに気づき始め、会場の空気が微妙に変わってきたのを感じる。(そろそろ、まずいかもしれない)そう思ったその時だった。視界の端で、一人の男が静かに現れる。黒縁の眼鏡をかけ、やや長めの髪を無造作に下ろしているが、それでも隠しきれない圧倒的な存在感。——陸翔兄さま。彼が現れた瞬間、それまで騒がしかった場が、ピタリと静まり返る。その圧倒的なオーラをまとった彼を前に、先ほどまでの罵倒もどこか空回りしているように感じる。それでも、美咲さんはこれ見よがしに陸翔兄さまに言葉をかけ、必死に何かをアピールしている。だが、陸翔兄さまの目は、全く笑っていなかった。その目の奥に燃える静かな怒りが、今にも爆発してしまいそうなほど張り詰めているのがわかる。そう思ったその瞬間、壇上がライトに照らされ、父の姿が見えた。壇上では、父の挨拶が進み、続いて来賓たちの挨拶が続いていた。美咲さんや芳也は、すっかり私のことなど忘れたかのように楽しげに振る舞っていた。そんな二人の様子を横目に見ながら、私は静かにワイングラスを手に取る。——そして、ついにその瞬間が訪れた。「それでは、ここで一つ発表をいたします。我が神田グループであるコードシステムの新規プロジェクトについての発表に移ります」父の落ち着いた声が会場に響き渡る。その瞬間、芳也たちの態度が一変した。待ち構えていたかのように身を乗り出す芳也は、ワイングラスを持つ手をわずかに強張らせている。隣の美咲さんは期待に満ちた目で壇上を見つめ、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。(よほど自信があるのね……)彼らの反応を観察しながら、私は静かにグラスを傾ける。しかし、次に父が発した言葉で、会場の空気は一変した。「その前に、一つお知らせがあります」穏やかながらも、どこか冷ややかさを含んだ父の声が響く。「先月末をもって、社長の小林は退任となっております」一瞬の静寂——。「え?」美咲さんの戸惑い混じりの声が、会場の静けさの中に妙に鮮明に響いた。「小林社長が……退任?」芳也も目を丸くし、美咲さんと顔を見合わせる。彼らだけでなく、周囲の関係者たちも次々とざわめき始めた。(まだ序章にすぎないのに、この反応……)私は静かにグラスを置き、父の次の言葉を待った。——そして、その一言が、
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: STORY 58陸翔兄さまは組んでいた足をゆっくり戻し、すっと立ち上がると、近くに控えていたスタッフに静かに何かを指示する。少しして、スタッフが黒いビロードの箱を手にして戻ってきた。「よく似合ってる。あとはアクセサリーがあればいいだろう」穏やかな口調でそう言いながら、陸翔兄さまが視線を向けると、スタッフが箱の蓋を開いた。そこに収められていたのは、繊細なカットが施されたダイヤモンドがちりばめられた、まばゆいばかりのネックレスだった。(こんなもの、私がつけていいの……?)戸惑いがよぎる間に、陸翔兄さまは迷うことなくネックレスを手に取り、私の前へと歩み寄ってきた。そのまま、くるりと肩に手を添え、私の体を鏡の方へと向かせる。「動かないで」低く落ち着いた声に、背筋が自然と伸びる。陸翔兄さまは私の首元へそっと手を伸ばし、丁寧にネックレスをつけてくれる。ひんやりとした宝石が肌に触れ、少しひやりとする。その感覚とは対照的に、陸翔兄さまの指先は温かかった。——心臓の音が、うるさい。鏡越しに陸翔兄さまと視線が交わる。端正な顔立ちの彼が、静かに金具を留める仕草をしているのが、なんだかひどく落ち着かなくて、視線を逸らしたくなる。私は結婚もして、一度は妻としての生活を経験したというのに、こんなことで息が詰まりそうになるなんて。(何をこんなに緊張してるの、私……)ほんの少し、金具を留めるために触れた彼の指先に、意識が集中する。たったそれだけのことなのに、なぜか肌が敏感になったような気がして、鼓動がどんどん速くなっていく。それが、どうしようもなく恥ずかしくて、私はそっと唇を噛んだ。そんな陸翔兄さまが選んでくれたドレスを纏い、私は今日、この会場に来た。父が張り切っただけあり、パーティーの規模は想像以上に大きい。決算報告と達成パーティーという場に、一プロジェクトの発表を入れ込むなど通常ならあり得ない。それに、招待されたのは政界の重鎮や各業界の名だたる社長、役員たち。会場の雰囲気も華やかで、格式の高さを感じさせるものだった。そんな錚々たる顔ぶれの中で挨拶をする予定はまだなかったため、私はVIPが集まるエリアには向かわず、なるべく顔見知りがいない社員たちが集まる場所で芹那と一緒にいた。そんな時だった。会場のざわめきをかき消すように、ひときわ大きな聞き覚えのある声が耳
Last Updated: 2026-02-26
Chapter: STORY 9「一週間、でございますか」初めて見せた戸惑いだった。予約なし、身分の提示も曖昧なまま、まとまった日数を求める客など、警戒されて当然だろう。けれど、ここで引くわけにはいかない。クレジットカードは使いたくない。履歴を辿られれば、すぐに足がつく。「必要であれば、先にお支払いします」そう告げると、女性は一瞬だけこちらを見たあと、すぐに穏やかな表情へ戻った。「かしこまりました。お部屋はツインタイプのご案内となりますが、よろしいでしょうか」「構いません」差し出された書類に視線を落とし、ペンを握る。名前を書くその一瞬、ためらいが生まれる。だが、私は祖母の旧姓を書き込んだ。偽りであることは分かっている。それでも、ここではそれが自分を守るための手段になるのだと、無理やり納得させる。手続きを終え、荷物を預けると、ようやく張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。ラウンジへ向かう。大きな窓から差し込む光は柔らかく、外の喧騒が嘘のように切り離されている。落ち着いた色合いのソファに身を沈めると、ようやく自分がここまで逃げてきたのだという実感が追いついてきた。サンドイッチとコーヒーを頼み、ひと息つく。とりあえず部屋は確保できた。だが、ここが終着ではない。このまま滞在し続けることはできないし、かといって身元を明かさずに部屋を借りるのも簡単ではない。父が動けば、友人を頼ることもすぐに知られてしまうだろう。どうするべきか。答えはまだ見えない。運ばれてきたコーヒーから立ち上る香りは、驚くほど深く、ゆっくりと胸の奥に広がっていく。張り詰めていた神経が、ほんのわずかだけ緩むのを感じた。さて、チェックインまではまだ時間がある。どうしたものか――そう考えながら、少し残っていたコーヒーを飲み干した、そのときだった。「沢田様」呼び慣れない名に、一瞬返事が遅れる。「……はい」慌てて振り向くと、そこには仕立ての良いスリーピースを着た男性が立っていた。年の頃は三十代前半だろうか。立ち姿も所作も隙がなく、いかにも一流ホテルのスタッフといった風情である。「お部屋のご用意が早く整いましたので、ご案内させていただけますが、いかがなさいますか」その言葉に、思わず目を瞬かせる。だが、これからのことを落ち着いて考えられる場所を早く確保したかった私は、すぐに小さく頷いた。「……ありがとうござい
Last Updated: 2026-04-10
Chapter: STORY 8「何か冷やすものをもってこればよかった……」 そう思った私は、じんじんする頬に手を当てた。結婚をしてから、いい関係ではなかったが手を上げたり暴言を吐かれることはなかった。 それが美咲が現れてからの彼は別人のようだ。 愛情があったわけでもないが、最低限うまくやりたいと思って努力をしてきたこ私の中の気持ちが切れるのには十分なことだ。 弁護士はともかく、この家をとりあえず出るしかない。 「とりあえずホテルに泊まるしかないな……」 クレジットカードや、実家がよく利用するホテルはまずい。ライバル会社で父が目の敵にしているKAIグループのホテルがいいだろう。 とりあえずネットで予約を……。 そう思った私だったが、それすらすぐに足がつきそうで私はとりあえず家を出ようと決めた。 その時、外でバタンという音が聞こえ、窓の外を見ると恒一さんと美咲が車で出かけていく姿が見えた。 今しかチャンスはない。私は用意していたスーツケースにバッグを手に家を出た。 大通りまででてタクシーを呼ぶとセクチュアリーヒルズホテルまでと運転手に伝える。そこでようやく家をでれたことにほっと息をなでおろした。 あくまで私の財産が必要なあの人たちは、どれだけいなくなって欲しいと思っていても、形上の妻が必要なのだ。 会社や社会では父が実験を握っていて、権力はかなり大きい。恒一さんの実家も力を持っている。 権利だけを持っている小娘である私より、よほど周りの大人を動かしやすいのは確かだ。 「命さえ狙いそうよね……」 そう思ったことが声に出ていたようで、運転手さんが「え!」って声を上げた。それを慌てて「映画の話です」そう答えた。タクシーがゆるやかに速度を落とし、やがて大きなアーチ状の車寄せの下へと滑り込むように停車した。 「到着しました」 運転手の声に、私ははっと我に返る。顔を上げた瞬間、思わず息を呑んだ。セクチュアリーヒルズホテルは、夜の光に照らされて静かに輝いていた。正面のファサードは重厚な石造りでありながらどこか柔らかさを感じさせ、幾重にも重なるガラスの向こうには、シャンデリアの光が滲むように広がっている。出入りする人々は皆、洗練された装いで、まるで別の世界のようだった。自分の姿をふと見下ろす。いろいろ気が回っていないこともあり、私の服装は
Last Updated: 2026-04-09
Chapter: STORY 7仕方なくキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、中に並んでいる食材はどれも昨日までの自分が用意したものばかりであることに気づき、思わず小さく息を吐いた。当たり前だ。この家で食事を作ってきたのは、ずっと私だったのだから。私はいつも通りに味噌汁を火にかけ、卵を割り、焼き魚を用意した。出来上がった料理をトレイに乗せてダイニングへ運ぶと、リビングでソファに腰かけている恒一さんと、その隣に当然のように身を寄せる美咲の姿が目に入った。その距離の近さに、これが預かっている妹との距離かとため息が零れ落ちそうになる。「できたわ」それだけを告げて仕方がないので、自分も食べようと席に着こうとした時だった。「……何してる」低く抑えた声だったが、その意味を理解できずに夫に視線を向けた。「座ろうとしているのか?」その言葉に、椅子へ伸ばしかけていた手を止めた。「お前の席はない」淡々と、まるで説明するまでもない事実のように言い放たれ、その一言で空気の温度がわずかに下がるのを感じた。「……そう」それだけを口にして、立ったまま二人の様子を見ている自分がおかしくなる。この二人と朝食を食べたいわけじゃない。「いただきます」場の空気とは無関係に、美咲が明るい声を響かせる。何事もなかったかのように箸を取り、味噌汁に口をつけた、その直後だった。「……え?」かすかな違和感を含んだ声が聞こえた、次の瞬間、美咲の表情がわずかに曇る。「どうした?」恒一さんがすぐに身を乗り出し、その顔を覗き込む。「いえ……なんだか、少し変な味がして……」遠慮がちな口調だったが、その言葉ははっきりと場に落ちた。それだけで、空気が変わる。「……変な味?」低く繰り返されたあと、ゆっくりとこちらへ向けられる視線に、背筋が冷たくなるのを感じた。「お前、何をした?」「何もしてないわ」即座に否定する。そんなことをする理由も意味もない。「普通に作っただけよ」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、「ふざけるな」低く押し殺した声と同時に視界が大きく揺れ、パシン、と乾いた音が室内に響いた。何が起きたのか理解するより先に、頬に焼けるような痛みが走り、遅れて、自分が叩かれたのだという事実が現実として追いついてくる。「美咲に何かあったらどうするつもりだ」冷たい声音と、まっすぐに向けられる怒りの視線。そのど
Last Updated: 2026-04-08
Chapter: STORY 6やはりいつもと違う部屋だからか、昨日のことがあったからか……。遅くまで寝付けなかったこともあり、気づけばブラインドから明るい日差しが差し込んでいた。「どうしよう!!」朝食の準備が間に合わない、そう思った私だったが、不意に別に作ることはない、そう思った。今日は土曜日。恒一さんも会社は休みのはずだ。美咲が彼と一緒に夜を過ごしたのなら……。そこまで考えて小さく息を吐いて、ベッドを下りた。スーツケースの中から着やすいワンピースを選ぶと、それに袖を通す。ゲストルームということで洗面台もついたこの部屋にいて、むしろ良かった。そんなことを思いつつ支度を済ませた。美咲が現れる前は、夫婦なんて到底言えないが、必要だからだろうが、恒一さんは朝食はとっていた。家政婦とでも思っているのかもしれないが。さあ、今日はどうしようか。いつもは彼が仕事に行った後、私も食事をとっていたし、休日は作っている間にキッチンでさっと済ませているが……。ブラインドを開けると、とてもいい天気で、桜も綺麗かもしれない。外で食べよう。別にこの家にいる必要などない。朝食だって美咲に作ってもらえばいい。そう思うと、私はバッグを持ってリビングへと向かった。そのまま玄関へと向かおうとした時だった。「澪、どこに行くんだ。朝食も作らずに」二階の階段の上から聞こえたその声に、私は静かに振り返った。そこにはバスローブ姿の恒一さんが立っていた。どこに? 朝食も作らずに? その問いに、いつも通り過ごすつもりなのかと私は彼を見据えた。「美咲は?」「もうすぐ来る」その言葉の意味を考えるより先に、背後のリビングの扉がゆっくりと開いた。「おはようございます、恒一さん」柔らかな声。振り返らなくてもわかる。「お姉さんも、おはよう」一瞬だけ間を置いて付け足された言葉に、私はゆっくりと視線を向けた。美咲はすでにきちんと身支度を整えていて、まるでこの家の“主”であるかのように自然にそこに立っている。「悪い、美咲。朝食まだできてないみたいだ」当然のような一言で、胸の奥がすっと冷える。「今日は作らないわ」静かにそう返すと、恒一さんの表情がわずかに歪んだ。「は?」低く、苛立ちを含んだ声が聞こえたが、私はキュッと唇をかみしめて口を開く。「私は外で食べるつもりなの。だから――」そこまで言いかけたと
Last Updated: 2026-04-06
Chapter: STORY 5寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。私はそこで一息つくと、荷物を持って一階のゲストルームへと向かった。十畳ほどだが、トイレもシャワーも備え付けてある部屋だ。ここで十分だし、二階より一階の方が何かと都合がいい気がする。そう思いながら、私はベッドへと腰かけた。このまま美咲がこの家にいるなら、また何かをしてくるかもしれない。そして恒一さんは、それを盲目的に信じる。その前に、自分でできることを始めなければ。そう思うと、私はPCの電源を入れた。とりあえず、榊原の顧問弁護士に――いや、それはまずい。父の息がかかっていないとは言い切れない。もちろん、一人だけこの件を相談できる相手はいる。いや、正確には“いた”というべきかもしれない。今も協力してくれるとは限らない。小松碧唯。私が働いていたKMコーポレーションの上司であり、そして――私がこの結婚を決めるきっかけになった人だ。世間体もあったため、大学は好きに行かせてもらえたが、父のもとで働くことは許されなかった。しかし、大学時代の論文が目に留まり、国内最大手のセキュリティ企業であり国家案件まで扱うKMコーポレーションに、運よく入社することができた。結婚しろと言われるまで、私はそこで働いていた。その時の上司が、小松碧唯だった。冷静沈着で、感情を表に出すことはあまりない人だったが、残業で疲れている部下や仕事に行き詰まった者をきちんと見て、さりげなくフォローしてくれる人だった。ひそかに、私が憧れていた人。高い身長に整った容姿、芸能人と言われても遜色のない外見に加え、KMという大企業の若き部長。憧れたり、本気で想いを寄せたりする女性社員は後を絶たなかった。それでも、小松部長がその誘いに応じるとこ
Last Updated: 2026-04-02
Chapter: STORY 4部屋を片付けていると、背後で静かにドアが開く音がした。振り返らなくてもわかったのは、甘ったるい香水の匂いがしたからだ。あれからまだ十分もたっていないのに、もう急かしに来たのだろうか。「まだ終わってないわ」振り返らずにそう言うと、後ろでドアが閉まったのが分かった。仕方なく振り返ると、そこには美咲だけが立っていた。「恒一さんは?」別に興味はないがそう聞くと、美咲は「お風呂よ」と答えた。時間からして、食事をしてきたのかどうかもわからないが、こんなに早いとは思わなかったし、昼間の父の電話のこともあり、今日は作っていない。「へえ、確かにゲストルームよりこっちの部屋の方が広いわね」私の横をすり抜けて部屋の中に入ると、見回しながら美咲がそう口にする。特に何も答えずにいると、美咲は壁にもたれ、私に視線を向けた。「ねえ、私がここに来た理由、なんだと思う?」クスっと可愛らしく聞く美咲に、私はまとめていた荷物から顔を上げ、彼女を見据えた。「両親が海外に行くからじゃないの?」父から聞いたままの言葉を返すと、美咲は微笑を浮かべて何度か首を縦に振った。「そうよ。ひとりになっちゃうから、私、寂しかったの。お姉さんがいてくれたら、家族が一緒にいられるでしょう?」その言葉にさすがに苛立ちを隠せず、私は表情をゆがめた。「さすがにそんな言い訳、信じない」淡々と言うと、美咲は少し驚いたような表情を浮かべた。「へえ、お姉さん、私のことわかってるんだ」ここまであからさまにされて、わからないということなどありえない。そう思っていると、衝撃の言葉が降ってくる。「でも、ずっとずっとそうだったって知ってた? 私、ずっと、お父様にもお母様にも、そうやってお姉さんのこと言っていたのよ」「え?」両親が私に冷たいのは母のことがあったからだと思っていた。もちろんそれもあるかもしれないが、美咲があることないこと言っていたため、父もあの態度だったのか……。妙に腑に落ちた私だったが、それを今知ったからといって何も変わらない。「そう、別にどっちでもいいわ」私がそう答えると、美咲は初めて表情をゆがめた。「つまらない」「何か言った?」呟いた美咲の言葉を聞き取れず聞き返すと、いきなり美咲が、「ごめんなさい! お姉さん!!」そう大声で叫んだ。「ごめんなさい! お姉さん!!」その甲高
Last Updated: 2026-04-01
Chapter: 第二十八話「寝ようか」陽介さんの低い声が、静まり返った空間に響いた。私は少し遅れて頷くと、当麻が眠る寝室へと向かった。ドレスを脱ぎ、メイクを落としながら、なんとなくまだ胸のざわつきが残っているのを感じる。今日の出来事、陽介さんの言葉、そして彼が持っていた指輪──。(……考えすぎ、なのかな)そう思おうとしても、頭の奥に残った違和感は消えなかった。ベッドに入る前に、ふとクローゼットの奥に視線を向ける。ずっと触れていなかった、小さな木箱。私はそっと扉を開け、その箱を手に取った。白い手のひらに収まるほどのサイズ。蓋には薄く彫り込まれた模様があり、時間とともに少し色あせている。それでも、この箱だけはずっと手放せなかった。ゆっくりと開けると、中にはいくつかの小さな宝石、古いアクセサリー──そして、一つの鍵があった。「……」金属の表面は、長年触れられずにいたせいか、わずかにくすんでいた。それでも、形は鮮明に覚えている。(あの夜、ポケットに入っていた鍵)それが何なのかも分からず、ただずっと持っていた。無くすこともできず、意味を知ることもなく、ただここにあった。(でも……)リビングで見た陽介さんの指輪。それを見つめる彼の表情。なぜか、それがこの鍵と重なるような気がした。「まさか……ね」私は小さく苦笑し、鍵をそっと指先でなぞった。考えすぎかもしれない。でも、もしも──。そのとき。「……っ」静かな寝室に、小さな泣き声が響いた。私はハッとして顔を上げ、すぐに当麻のベビーベッドへ向かった。鍵は、とりあえずバッグの中へ。今は、考える時間ではない。私は当麻を優しく抱き上げ、背中をさすりながら、小さく息を吐いた。朝の光が差し込むオフィスビルのエントランスをくぐると、いつもの風景が広がっていた。スーツ姿の社員たちが行き交い、忙しそうにスマートフォンを操作している。私は清掃用具を抱えながら、小さく息をついた。(……今日も、いつも通り)パーティーの余韻がまだ少し残っているような気がしたが、私はすぐに頭を切り替えた。ここでは、私は"CEOの妻"ではなく、ただの清掃員なのだから。「おはよう、美優ちゃん」「あ、おはようございます、安田さん」通りかかった受付の安田さんが、にこやかに挨拶をしてくれる。エレベーターへ向かうと、すれ違いざま
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: 第二十七話「それで子供を?」陽介さんは何も気づいていないようで、静かに私を見た。「はい」ただそれだけの返事をするのに、私はかなり勇気を振り絞った。これを言えば、彼も思い出すかもしれない。しかし、でも、あの彼は目が見えなかった。この指輪は誰かからもらっただけだという可能性もあるし、似たものかもしれない。(この指輪はどうしたんですか?)そう尋ねるべきかもしれない。そして、(これは知っていますか?)あの日、私が彼からもらったかもしれないもの。お互いまた会う日のために交換をしたのかもしれないもの。記憶があいまいな自分を呪うしかない。しかし、きっとお互いのものを交換したのだと思う。そして、あの日、私はこの形見を渡してでも、彼にもう一度会いたいと思っていたのかもしれない。「あの……」あの日、ポケットから見つけたのは見覚えのない、アンティークの鍵のようなものだった。それが何かもわからなかった私は、ただずっと小さな宝石箱の中にしまっていた。彼のものだという保証もないし、何かもわからない。家に帰ってから、その存在に気づいただけで、もうそれを二度と話に出すことなどないと思っていた。「ん?」やわらかく聞き返す彼に、私は言葉を探す。『鍵を知っていますか?』そう尋ねれば、答えはもちろんYESだろう。誰だって知っているはずだ。部屋から持ってきて見せるのが一番いいだろうか。そう思った私だったが、陽介さんが口を開いた。「たぶん、弟が三条に騙されているのだろう。そして、母も」話がもとに戻り、一番の核心部分になったことで、私はきゅっと鍵のことを飲み込んだ。途端に、現実へと引き戻された。私はきゅっと鍵のことを飲み込む。(……そうだった。いま、目の前の問題はこれ)悠馬COOが三条に利用され、そして陽介さんの母親も、もしかしたらただの操り人形になっている可能性すらある。母親が悠馬さんをCEOにすることを強く望んでいることは、私も知っている。そのためなら、どんな手を使っても、どんな危険な取引でも、躊躇しない。陽介さんはずっとこの母親の意向に逆らい、自分で会社を守ろうとしていた。そして――その戦いの最中で、彼は失明し、あの夜に私を助けた彼となったのかもしれない。鍵と指輪のことを話すべきか、迷いながらも、私は陽介さんの横顔を見つめた。彼は静かに、しかし鋭い眼
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: 第二十六夜ーー美優眠れなかった。パーティーの余韻がまだ体に残っていて、ベッドに横になっても意識が冴えてしまう。 陽介さんの言葉が、ずっと胸の奥でこだましている。「俺が……お前を守る」あの言葉に嘘はなかった。 けれど、それは契約上の責任としてなのか、それとも――。自分の中に芽生え始めた感情に、どうしても整理がつかなくて、私はベッドから抜け出した。静まり返った廊下を、そっと歩く。 夜の空気がひんやりと肌を撫でるなか、リビングの方から淡い光が漏れているのが見えた。(まだ起きてる……?)静かに覗くと、陽介さんがソファに深く座り、ワイングラスを片手に、何かをじっと見つめていた。「眠れないのか?」不意に私をみて陽介さんが、静かに問いかける。「はい……」素直にそう答えると、陽介さんは何も言わずに立ち上がり、ワイングラスをもう一つ用意してくれた。「飲めるか?」「……少しだけなら」ワイングラスを受け取ると、赤ワインのかすかな香りが鼻をくすぐる。 グラスの中でゆっくりと揺れる深紅の液体を見つめながら、私は小さく息を吐いた。しばらくの沈黙。夜の静寂が、二人の間に漂う。口を開くべきか迷いながらも、私はゆっくりと切り出した。「三条のこと……黙っていてごめんなさい」陽介さんの手が一瞬だけ止まる。「いや……あの男との縁談のことを聞いて、色々と納得した」そう言いながら、彼は静かにグラスを傾ける。「それにしても、お前の語学力とパーティーでの振る舞い。掃除婦とは思えないほどだった。素性を聞いてもいいのか?」言葉の端々に探るような気配を感じた。私は小さく笑いながら、ワインを一口含む。「そんなに特別なことではありません。私はただ、昔そういう環境にいた……それだけです」「環境?」「……母が華族の家系で、父は京華堂の社長でした。だから、小さい頃から社交の場に出る機会が多くて。おかげで、礼儀作法も語学も、叩き込まれました」陽介さんは声を発することはなかったが、かなり驚いた表情をした。そんな彼から視線を逸らすと、私は続けた。「でも、父は私のことを"商売の道具"としか見ていなかった。私が大学院へ進学しようとすると、いい縁談の話ばかり持ってきて……。三条との縁談もそのひとつでした」「それで、家を出たのか?」「はい。でも、家を出たからといって、すぐに自立で
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第二十五夜「大丈夫か?」会場へ戻る途中、陽介さんが小さく囁く。彼の手はまだ私の手首を軽く掴んだままで、そのわずかな体温が妙に意識に残る。「ええ……」 私はゆっくりと頷く。 「でも、三条は私たちの結婚に何かしらの興味を持っているみたいです」「そうだろうな」陽介さんは眉を寄せ、険しい表情を見せた。 厳しい眼差しの奥に、鋭く研ぎ澄まされた警戒心が見える。「お前は彼と話したことがあるのか?」少し迷ったが、嘘をつく理由はない。「いいえ……正式に会ったことはありません。でも、昔、私の父が彼との縁談を進めようとしていました」陽介さんの歩みが止まる。「それは……初耳だな」「私自身が断ったので、結局会う前に破談になりました。ただ、彼がどういう人かは、調べて知っていました」私の声が少し硬くなるのを、自分でも感じる。三条のことを思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。彼がどういう男なのか、私は十分に理解していた。 あのとき、逃げてよかったと今でも思っている。陽介さんはしばらく黙っていた。 視線を伏せ、考え込むような表情を浮かべている。 やがて、彼は静かに息を吐き、低く言った。「これ以上、三条に関わるな」その言葉には、いつもより強い感情がこもっていた。 私を見つめる瞳は真剣そのもので、彼がわからなくなる。「俺が……お前を守る」低く、しかし確かに響くその言葉に、私は小さく息を呑んだ。(どうして……こんなふうに言うの?)彼の言葉は、あまりにもまっすぐで、強い。 なのに、それが胸の奥に深く染み込んで、揺さぶられる。契約結婚のはずなのに。 ビジネスとしての関係のはずなのに。「……はい」それ以上、何も言えなかった。 ただ、陽介さんの隣を歩きながら、彼の言葉の余韻に囚われていた。帰宅して、私はドレスを脱ぎ、静かにベッドへ腰を下ろした。(俺がお前を守る)あの言葉が、ずっと頭の中に残っている。冷徹でビジネスライクな人間だと思っていたのに。 今夜の言葉や行動には、確かに温かさがあった。(……どうして?)形式上の関係だったはずなのに、少しずつ「夫婦」としての実感が湧き始める。 だけど、それを認めるのが怖かった。(これはただの契約のはず)そう言い聞かせながらも、胸の奥が妙にざわつく。 陽介さんのことをもっと知りたくなる。 彼の声が、
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第二十四夜そんな中、目の前の老夫婦の女性が、グラスのワインを零してしまったのが見えた。咄嗟にすぐに駆け寄ると、すぐに彼女の和服についたワインを拭き少し会話をする。「お嬢さん、ありがとう。助かったわ」「いいえ、素敵なお着物ですね。小紋が見事です」着物も一通りしつけられ、純粋にその見事な柄に笑顔になる。少しだけ会話をして彼の元に戻ると、陽介さんが私をみて少し眉を寄せた。「何者?」陽介さんが冗談めかして言う。「……何を今さら。あなたの妻で、あなたの会社の清掃員ですよ」私は軽く微笑んで返したが、その瞳には冗談ではない色が混じっていた。「ふーん」それだけの単語からは、彼の意図はわからない。こんなふうに男性から見つめられることなんて経験のない私は、なんとなくあの日の夜のサングラスの奥の瞳を思い出してしまう。なんで今あの日のことを。落ち着かない気持ちをどうにかしようとしていたところで、「そろそろペアダンスの時間にな
Last Updated: 2025-01-30
Chapter: 第二十三夜会場に到着すると、煌びやかな装飾とシャンデリアの明かりが目に飛び込んできた。ハイクラスなホテルの宴会場は、どこを見ても洗練された雰囲気が漂い、訪れた人々もまた、その場に相応しい服装で会話を楽しんでいる。「緊張する?」 陽介さんが隣でさりげなく声をかけてくれた。「いえ、大丈夫です」 思った以上に自然な答えが出たのは、自分でも驚きだった。昔の私なら、このような場に慣れていたからだろう。今の生活とはかけ離れているけれど、身体に染み付いた感覚は意外にも残っているものだ。受付で名前を告げ、会場内に進むと、すぐに陽介さんに声をかける人物が現れた。取引先の社長だろうか、年配の男性が陽介さんと笑顔で握手を交わす。「奥様ですね。お美しい方だ」 その言葉に思わず頬が熱くなるが、陽介さんがさらりとフォローしてくれる。「ええ、彼女にはとても感謝しています」 そう言う陽介さんの表情から本心はわかるわけはない。しばらくすると、場の空気が少しざわつき始めた。会場の中央に一人の男性が現れ、周囲の人々と挨拶を交わしている。彼こそがフランスの外交官であり、今回のパーティーの主賓だと聞いていた。「初めまして」 男性が陽介さんに近づき、流暢なフランス語で話しかけてきた。その瞬間、陽介さんが一瞬だけ眉をひそめるのが分かった。フランス語を理解しているものの、流暢に話せるほどではないのかもしれない。普通であれば外交官ならば、英語で会話と彼も思っていたのだろう。いつのまに来ていたのかわからないが、いきなり神崎さんがここぞとばかりに間に割り込んできた。「私にお任せください!」 自信たっぷりにそう言う神崎さんが英語で話すと、もちろん彼も英語で答えたが、少しだけ言葉選びに迷いがある気がする。きっとフランス語の方が堪能で、詳しい話はそちらでしたいのかもしれない。その様子を見た私は、自然と口を開いていた。「Monsieur, je suis enchantée de faire votre connaissance. Laissez-moi vous aider si besoin est.」(お会いできて光栄です。必要でしたら私がお手伝いします。)完璧な発音でフランス語を話した私に、外交官は驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。「Ah, vous parlez
Last Updated: 2025-01-29