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Novels by mako

消えた妻は振り返らない 復讐は雨のように

消えた妻は振り返らない 復讐は雨のように

政略結婚で嫁いだ先で夫からも家族からも愛されることのない日々を送っていた澪。 名家の娘でありながら、その立場はすでに形だけのものとなり、黒崎家では「名ばかりの妻」でしかなかった。 そんなある日、夫・黒崎恒一のもとへ、一人の女性が現れる。 ――白石美咲。 父の過去が生んだ、澪の異母妹。 夫の視線も、居場所も、そして“妻”という立場さえも。 「お姉さまは優しいんです」 そう言って微笑むその裏で、美咲は澪を追い詰めていく。 離婚を決意する澪だが、離婚だけは承知しない夫。そのため澪はすべてを捨てて自分も不倫をして不貞を理由に離婚をしようとするが、予想外の妊娠に、澪はすべてを捨てて姿を消すがーー。
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Chapter: STORY16
そのあと、何を話したのかよく覚えていなかった。どうして部長はこんなことに協力してくれるのか、どうして再会してしまったのか。そんなことを考えればきりがないが、私にとっては奇跡のようなことだ。無理やり結婚をさせられ、夫は義妹と愛人関係にあり、それをあっせんする父。もしかしたら、命すら狙われる可能性もある。そこまで腐っていないと思いたいが……。「どうした? やっぱりやめるか?」その問いに、私はハッとして顔を上げた。部長はただ私に視線を向けているだけで、何を考えているのかは読めない。「いえ、お願いします」そう答えると、部長は小さく頷いた。これから不倫をしようとしている男女とは思えないほど張り詰めた空気に、どこか現実味がない気がしていた、そのときだった。不意に、目の前から「それにしても……」と声が落ちる。それにしても、何だろう――そう思いながら、私はゆっくりと顔を上げた。「仕事のとき、よく身分を隠して普通に働いていたな」それは、家の仕事をするなり、働かなくてもよかったのではないか――そんな意味合いだろう。「そんな、いいものではないんですよ。お金があったって」自虐的な言葉がこぼれてしまい、私はハッとする。「すみません。こんな話……」慌てて謝罪すると、部長は初めてわずかに表情を歪めて、「悪い」と小さく呟いた。「あの時……俺に相談しなかったのは……」それは、結婚するのに想いを伝えるのは不誠実だから、迷惑だから――そんな言い訳はいくらでもある。けれど本当は、気持ちが伝わってしまって、冷たく拒否されるのが怖かった。そう、ただ怖かったのだ。これから起こる現実も、部長のそばにいられなくなることも。でも、そんなことを言っても今さらだ。「離婚……ができたら、きちんとお礼をして、目の前から消えますね。部長は、私が既婚者だって知らなかったことにしてくれればいいので」不倫をすれば、部長にも迷惑がかかる。だから、私が離婚のために騙した――そういう形にするのが、彼にとっては一番いいはずだ。私は自由さえ手に入ればいい。海外にでも行けばいい。それくらいのお金は残るだろうし、仕事だってできる。そう考えながら、私は彼に笑って見せた。不倫をするのなら、このまま部屋に来るのだろうか――そんなことを考えていたが、食事を終えたあと、部長は何も言わずに席を立
Last Updated: 2026-04-27
Chapter: STORY15
さっきは離婚ができない理由までは話していなかった。嫌なら離婚すればいい、そう思うのは当然だ。「夫、そして私の父も承知しないでしょうね。どんなことがあっても」「それはどうして?」ごもっともな言い分に、私は苦笑しつつ口を開く。「私のお金が目当てだから。離婚をしたら手に入らないでしょう?」アルコールのせいもあるのか、自嘲気味な言葉を発してしまったが、少しふわふわとした気分になってくる。「私はお金なんていらないから、とりあえず離婚したいんです」最後は本音が零れ落ちて、我に返る。「そんなことがあって、家を出てこのホテルに」最後は彼の問いの答えになっただろう。このホテルに来た理由は単純に家出だ。しばらく、沈黙が続く。「これからどうするつもりだ?」メインが運ばれてきたころ、そう尋ねられ私は「そうですね……」とつぶやいた。「家にバレないように弁護士の先生を雇って、家を借りて……でも、足がつくから、誰か男の人でも見つける? 私が浮気をしたら、不貞で離婚できますかね?」お酒の勢いというものは怖い。いつもなら絶対に考えないことが口をついた。でも、不倫相手を見つけて、自分の不貞でもなんでも、慰謝料を払ってでも離婚できればそれでいい気がしてきた。「そうすれば、住む場所も見つかるし一石二鳥ですかね? なんて……冗談……」少しおどけて言って見せた私だったが、まっすぐな部長の視線に笑顔をひっこめる。「じゃあ、俺と不倫すればいい」一瞬、意味が理解できなかった。「……え?」思わず間の抜けた声が出たが、部長は表情を変えないまま続ける。「証拠を作る。言い逃れできない形で。弁護士も俺が用意しよう」その言い方は、まるで仕事の提案のように冷静だった。「慰謝料は払うつもりはあるんだろ?」「それはもちろんそうですが……」慰謝料でもなんでも払ってでも離婚して、復讐をしたい。それはそうだが、部長を巻き込んでいいのだろうか。「……本気で言ってるんですか」問いかける声が、わずかに震えた。部長は迷わず頷く。「本気だ」短い一言。自分から提案したことだが、逃げ道がなくなる気がした。「嫌ならやめろ」淡々と続けられ、私はごくりと唾を飲み込んだ。ずっと憧れていて、好きだった人。その人と不倫――。相手としてはこれ以上ない人だ。でも、あの両親、夫と部長を関わらせれば、迷
Last Updated: 2026-04-24
Chapter: STORY14
「……飲めるか?」会社にいた時、飲み会の席はもちろんあったが、家のこともありあまり出席をしていなかった。部長が私がアルコールを飲むか飲まないかは知らないだろう。私自身、それほど得意ではなく、ほとんど口にしないが、今日はなんとなくいろいろなことがあり気持ちも高ぶっていて、飲みたい気分だった。「少しだけなら」そう答えて、口をつける。渋みと香りがゆっくりと広がっていくのに、心だけが落ち着かない。向かいに座る部長は、相変わらず無駄のない所作でグラスを持ち上げていた。何も聞かないのは怒っているからだろうか……。沈黙が落ちる。それに耐えきれなくなったのは、私のほうだった。「本当にご迷惑をおかけしました。あの時は」あの日の部長の表情は今でもはっきりと思い出せる。怒り、失望、そんなところだろうか。「食べたいものは?」その時、個室の扉がノックされたのが分かり、部長の返事はなく、質問に変わる。「お任せしてもいいですか?」到底魚だの肉だの言えるわけもなく、私はそう答えた。またもや沈黙になってしまい、私は泣きたくなってきてしまう。助けてもらいたい、そう思っていた人だが、目の前にいざいるとなると、彼に何をしてもらおうというのだ。「あの、やっぱり私……」料理も頼んでしまった上に、このまま帰るなんて本来許されるわけはないのに、そう口にしていた。「どうしてこのホテルにいたか聞いてもいいのか?」今まではワイングラスに視線を落としていた部長の瞳が、まっすぐに私とぶつかり、ごくりと唾を飲み込む。「私、結婚したんです」この言葉から言う必要は全くなかったが、動揺していた私はそう口にしていた。「結婚して夫となった男と泊まりにきた……そんな雰囲気はないな」その言葉から、部長の感情は読み取れず、私はまだ考えがまとまらないまま、契約結婚だったこと、義妹が現れたこと、だから、仕事もできなくなったことをとりとめなく話してしまった。過去の部下のこんな不幸な話を聞くなど、まったく面白くもないだろうし、言われたところでどうにもできないはずだ。「こんな話……ごめんなさい」最後に申し訳なさからそう謝罪すると、目の前のワインを一気に飲み干した。まだ食事もしていないところに、多くのワインが入り、胃がカッと熱くなるのが分かった。そこへ美しい前菜が運ばれてきた。「食べよう」ただ
Last Updated: 2026-04-24
Chapter: STORY13
時間だ。そう思い、私はゆっくりと立ち上がった。袋から取り出したネイビーのドレスに袖を通し、簡単に髪を整える。鏡に映る自分は、ほんの少しだけ背筋が伸びて見えた。深呼吸をひとつして、私は部屋を出た。エレベーターに乗り込み、静かに上昇していく中で、無意識に背筋が伸びる。やがて最上階に到着し、扉が音もなく開いた。一歩外へ出ると、そこは先ほどのフロアとはまるで別世界のような静けさに包まれていた。柔らかな照明に照らされた通路の先にはレストランの入口が見え、その手前には数人の男性たちが集まり、低い声で何かを話している。いかにも仕事のできる男たち――そんな言葉が自然と浮かぶ。無駄のないスーツの着こなし。わずかな仕草にも隙がなく、その場の空気だけが少し張り詰めているように感じられた。私はその集団に視線を向けないようにしながら、横を通り過ぎる。やはり一人でレストランに入るのは気後れしてしまう。そう思った、そのときだった。「――久しぶりだな」背中に落ちた低い声に、心臓が一瞬だけ跳ねた。振り向かなくてもわかる――そう思った自分に、なぜか落胆にも似た感情が広がる。それでも、ゆっくりと顔を上げる。視線の先、集団の中から一人、こちらへと歩み出るのが見えた。――小松部長。電話をかけようとして、結局できなかった相手が、今、目の前にいる。現実なのかどうか、うまく理解が追いつかない。それでも、目の前の彼はあの頃と何も変わらない、無駄のない立ち姿でそこにいた。いや、むしろ以前よりもいっそう洗練され、静かな迫力すらまとっているように見える。「……部長」名前を呼ぶだけで、喉がわずかに乾いた。彼は軽く頷くと、周囲の男たちへ短く視線を送り、何事かを一言二言交わす。すると、その場の空気が自然にほどけ、彼らは一歩引くように距離を取った。このまま「では」と言ってレストランに入ってしまってもいいのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。だが、その前に彼がこちらへ歩み寄ってきた。「……こんな場所で会うとは思わなかったな」淡々とした声。責めるでもなく、詮索するでもない。それがかえって、申し訳なさを呼び起こす。「……私もです」それだけしか返せず、次の言葉を探すものの見つからず、私はわずかに唇を噛んだ。「お二人ですか?」気づけばレストランの前まで来ていた。スタッフが穏やか
Last Updated: 2026-04-23
Chapter: STORY 12
あの二人と別れ、部屋に戻ってしばらくすると、インターフォンが鳴り、私は思わずびくりと肩を揺らした。まさか――。そう思ったものの、すぐに首を振る。ここはあの家ではない。そんな無遠慮なことが許される場所ではないはずだ。玄関へ向かい、扉越しに声をかける。「……はい?」「お届け物でございます」その一言に、張り詰めていたものがわずかに緩む。扉を開けると、そこにはホテルスタッフだろう女性が立っていた。完璧に整えられた姿勢と所作は、先ほどフロントで見たものと同じで、無駄な動きが一切ない。「こちら、ホテルからのサービスでございます」そう言って差し出されたのは、先ほどのドレスショップの袋だった。一瞬、理解が追いつかない。袋を受け取り、中を覗く。そこに入っていたのは――先ほど、私が手に取ったあのドレスだった。「あの、どうして……」思わず口にしかけて、言葉が途切れる。もしかして、あのあと何かあって、私に回ってきたのだろうか。それとも、宿泊者であることが伝わって、店側からの配慮として――。いくつか理由を考えるが、どれも決定打にはならない。それでも、とりあえず代金を支払うべきだと思い直し、私は顔を上げた。「代金を取ってきますので、少しお待ちいただけますか」そう言って踵を返しかけた、そのときだった。「サービスでございます」柔らかな声が、背中に落ちる。振り返ると、女性は変わらぬ微笑を浮かべていた。だが次の瞬間、袋をこちらの手へと軽く押し戻すようにして、半ば強引に持たせる。「でも……」戸惑いを口にすると、女性はさらに穏やかに微笑む。「それでは、チェックアウトの際にご確認いただけますでしょうか。私どもの役目は、お届けすることですので」その言葉は丁寧だったが、これ以上踏み込ませないという意思もはっきりと感じられた。ここで押し問答を続けても、彼女を困らせるだけだろう。「……わかりました」そう答え、軽く頭を下げる。「ありがとうございます」「あと、こちらも必要でしたら」そう言って差し出された小さなボックスには、メイク用品やアクセサリーが収められていた。最低限のものは持ってきているが、派手なメイクを嫌う恒一さんに合わせていたせいで、手元にある化粧品は驚くほど少ない。これも後で清算すればいい。そう考え、私はそれを受け取った。「最後に、夕食
Last Updated: 2026-04-20
Chapter: STORY 11
私はその問いに声を返すことなく、店内へと足を踏み入れた。あえて迷う素振りも見せず、一着のドレスを手に取る。深いネイビーのシルク。落ち着いているのに、光の角度によっては艶やかに表情を変える。初めて入る店だが、どれも目を引くものばかりで、質の良さが一目でわかった。「聞いているのか?! どうして家で掃除をしていない」私の態度に苛立ったような声が背後から落ちる。だが、私は手を止めることなく、そのままドレスを見ていた。「こんなところで、何をしているんだ」これ以上は店にも迷惑だろう。私はハンガーにかかったドレスの裾を軽く整えながら、二人のほうへと向き直る。「服を買いに来ただけよ」それだけを告げて、ようやく視線を上げる。「何か悪い?」恒一さんの眉がわずかに寄る。その反応を見てから、私はもう一着、今度はより華やかなドレスを手に取った。淡い色合いのそれは、この場でも目を引く一着で、普段の自分なら手に取ることすらなかったものだ。「……そんなものを、どこに着ていくつもりだ」呆れと苛立ちが混じった声に、私は軽く肩をすくめる。「別に、あなたに関係ある? 欲しいと思ったから、買うだけよ」「関係あるだろ!」恒一さんがそう言ったあと、美咲がそっと口を開いた。「お姉さま……」遠慮がちな声と、今にも泣きそうな表情に、心の中で私はため息をつく。「こんな高いお洋服……大丈夫なんですか?」心配するような口調だが、言いたいことは分かる。「恒一さんのお金、ですよね……?」小さく言葉を続ける。「私、そういうの……あまりよくないと思ってしまって……ごめんなさい」申し訳なさそうなその言葉に、周囲のスタッフの視線までもが、わずかにこちらへ寄るのを感じた。この人たちはどう思っているのだろう。女が二人に男が一人。寄り添っている男女が、一人の女性に金を使うなと言っている。「お姉さま」と呼んだのだから、二人が姉妹だということは分かるはずだ。ならば、妻は美咲だと判断するだろう。妹の夫の金を使う姉――そんなところか。ため息をつきたいのを抑えながら、私は最初に手に取ったネイビーのドレスを再び持ち上げる。「これを」そうスタッフに声をかけた。「いい加減にしろ!」恒一さんの声が、今度ははっきりと怒りを帯びる。「自分の立場が分かっているのか」その視線は真っ直ぐに私へ向けら
Last Updated: 2026-04-17
The Last Smile

The Last Smile

届かない思いを封印して、優しい恋に逃げた過去。 その報いが今、来たのだろうか。 支え続けた夫の成功とともに、すれ違い、夫の愛人と義母に嵌められていく沙織の未来は…? 淡い恋と、儚い復讐…。そして…
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Chapter: STORY 63
「……こんな場所あったんだ」このホテルはたまに家族で食事などで使用することもあったが、隠しフロアのような場所に、静かに上昇するエレベーターの中、私はぽつりと呟いた。豪華なインテリア、ふかふかのソファ、煌めくシャンデリア、そして、窓の外には都会の夜景が広がっている。こんな場所に、二人きり。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも鼓動がうるさいのだろう。「ここで食事でもしろってことですか?」 なんとなく気を紛らわせたくて、冗談めかしてそう言った。「陸翔兄さまには、たくさん迷惑をかけたから……」そこまで言ったところで、ふいに—— 体が温かさに包まれる。——陸翔兄さまに、抱きしめられて……る?「……陸翔兄さま?」驚いて声を出そうとしたが、それがちゃんと音になったかどうかもわからない。ドレスのせいで露出していた肩に、彼の温もりがダイレクトに伝わる。彼の体温がじかに感じられて、思考が追いつかなくなる。「沙織」 「……はい」「すべてが片付いたら言いたいことがあった」 そこまで言うと、陸翔兄さまは言葉を止めた。この状況で何を言われるか想像もつかず、心臓がバクバクと音を立てる。「ずっと沙織が好きだ。兄としてじゃなく」 え_?耳に届いたはずなのに、全く意味が理解できなくてただ動けない。「沙織が俺のことを兄としてしか思えないこともわかっていて、こんなことを言うのもルール違反だと思ってる。でも、もう、後悔をしたくない全力でこれから俺は沙織を口説くから」——陸翔兄さまが、私を?彼の腕の中で固まったまま、パニック寸前の私は、何と答えていいのかわからなかった。「沙織から電話をもらった日、あの時の傷ついた沙織を見て、俺はどれだけ後悔したか。あの時、沙織の幸せだと信じて、身を引いた自分をどれだけ呪ったか」「……でも、でも、陸翔兄さまは明日香さんが……」「明日香?」「明日香さんと恋人だったでしょう?」私がそう言うと、陸翔兄さまは少し考え込んだような表情を浮かべた。「明日香とは、そういう関係だったことはない」「でも結婚を……」「俺はずっと沙織が好きだった。沙織が早くに結婚をして、少しやけになった。明日香からのビジネス婚の頼みを断らずに受けてしまった」陸翔兄さまの言葉に、息が詰まる。私があきらめてしまったあの日。彼の気持ちを知ろうともせ
Last Updated: 2026-03-05
Chapter: STORY 62
「沙織が……神田グループの令嬢……?」芳也、美咲さん、そして芳也の母親——三人の顔から血の気が引いていく。現実を受け入れられないのか、虚ろな目で立ち尽くし、やがて廃人のようにその場へと崩れ落ちた。「そんな、そんなはずない……!」美咲さんが呆然と呟くが、もはや誰も耳を貸す者はいない。その時——「俺は神田社長の命令で、彼女を保護したに過ぎない」陸翔兄さまの低く響く声が、会場の静寂を切り裂いた。「それを不倫だなどと騒ぎ立て、彼女を侮辱したこと——許されると思うな!!」鋭い怒声が響き渡る。誰もが息を呑み、誰一人としてその言葉を否定できる者はいなかった。「……連れていけ」静かに告げられた陸翔兄さまの言葉とともに、会場に控えていた警備が動き出す。青ざめた三人は、もはや抵抗する力もなく、そのまま引きずられるように会場を後にした。そして——「皆様、お騒がせして申し訳ありません」壇上に戻った父が、会場全体へと向けて穏やかに言葉を投げかける。「余興はこれまでにして——さあ、パーティーをお楽しみください」父の堂々たる宣言とともに、会場には再び穏やかなざわめきが戻った。「今日は本当にありがとうございました。そして、お騒がせしたことをお詫びします」父の落ち着いた声が、広い会場に静かに響いた。私は壇上に立つ父を見つめながら、ようやく——本当にすべてが終わったのだと、心の底から実感した。「これからの神田グループをよろしくお願いします。今後、娘の沙織が継ぐのか、ここにいる秋元が継ぐのか、それはまだ分かりません。しかし——」父はゆっくりと私と陸翔兄さまに視線を向ける。「いずれにせよ、我がグループは今後もさらなる発展に向けて精進してまいります」力強い言葉で締めくくると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。——しかし、父は再び口を開く。「ただ……父としての発言をお許しください」前置きをしてから、父は私と陸翔兄さまに視線を向けた。「娘を全力で守ってくれた秋元、そして、私の娘がともにこの会社を支えてくれる——そんな未来を、今回の出来事を通して思い描きました。これは父としての勝手な願望ですが」その言葉に、私は驚いて目を見開いた。しかし、次の瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。慌てて私は頭を下げる。隣に立つ陸翔兄さまの表情をそっと横目でうかが
Last Updated: 2026-03-04
Chapter: STORY 61
「あなたには、沙織嬢への暴行容疑で送検させていただきます」「な、なにを……?」芳也が唖然とした顔で固まる。「あなたがしたことは、すべて警察へと報告しています」陸翔兄さまは容赦なく続ける。「元妻へのストーカー容疑、そして暴行未遂——」「そんな、そんなこと……!」芳也はしどろもどろになりながら、必死に言い訳しようとするが、その場にいる誰もが彼を軽蔑の目で見つめていた。「そして、美咲さん」陸翔兄さまの冷たい声が、美咲さんを射抜く。怯えながら後ずさる彼女を、兄さまは容赦のない視線で見下ろした。「あなたにも沙織嬢の名誉毀損にあたる嘘偽りを会社で流した罪を償ってもらいます」「ち、違う! それは——あの女が私にそそのかしたのよ!」突然、美咲さんが震える手で誰かを指さした。私たちの視線が、その先の人物へと向けられる。——そこにいたのは、一人の蒼白な女性。彼女は自分が指名されたことを理解した瞬間、唇を震わせ、恐怖に駆られたように会場の出口へと駆け出した。しかし——「彼女も捕まえろ」陸翔兄さまの静かな指示が飛ぶと、会場の警備がすぐに動く。逃げようとする彼女は、出口の手前であっさりと取り押さえられた。——後にわかったことだが、彼女は真紀という女性で、陸翔兄さまのストーカーだったらしい。「なんで……どうして……。こんな、こんな底辺の女が!!」美咲さんの顔が悔しさと憎しみで歪み、鬼のような形相で私を睨みつける。「黙れ!!!」壇上から響いたのは、父の怒声だった。これまで冷静に見守っていた父も、とうとう我慢ならなくなったのだろう。——でも、最後にこの幕を引くのは、私の役目だ。私は静かに一歩前へ進み、芳也たちをまっすぐに見据えた。「芳也さん——」会場の空気が張り詰める中、私はゆっくりと口を開いた。「あなたと結婚したことを後悔はしません」芳也がハッと顔を上げ、私を見つめる。「でも——あなたをこんな風にしてしまったのは、私の責任かもしれない。ごめんなさい」静かに、それでもはっきりとそう告げる。コツ、コツとヒールの音が響く中、私は芳也の真正面に立った。「あなたの会社を大きくしたかった。それは本当よ」「……!」芳也の顔が、言葉にならない感情で歪む。「でも、それが過ちだった」はっきりとそう言うと、私は次に芳也の母親へと視線を移
Last Updated: 2026-03-03
Chapter: STORY 60
「お前、沙織とグルだったのか? なんだ、ホストじゃなくスパイだったのか?」低俗な発想に、私は思わず口元を押さえ、クスっと笑ってしまった。(どこまでくだらない考え方ができるのか……)「笑うな」そんな私を、少したしなめるように陸翔兄さまが小さく呟く。その直後、壇上の父が静かに口を開いた。「秋元副社長、今回の件の説明を」父の厳かな声が会場に響き渡る。その言葉に、陸翔兄さまは静かに会釈し、堂々と壇上へと向かった。「改めまして、今回の全権を指揮しております、神田グループ副社長の秋元陸翔です」圧倒的な存在感を放ちながら、陸翔兄さまが話し始めると、先ほどまで傲慢に振る舞っていた芳也の体が強張り、なんとか立ってはいるものの、膝がわずかに震えているのが見て取れた。その隣で、美咲さんと芳也の母親もまた、明らかに怯えた様子で体を強張らせている。「今回の件で、サクシードソリューションの佐橋社長は、コードシステム前社長・小林に賄賂を渡し、仕事を得ようとしていたことが明らかになりました。そして、小林には会社の横領の容疑もかかっており、その件については、弊社としても厳粛に対応してまいります。申し訳ありません」陸翔兄さまが頭を下げると同時に、会場がどよめく。そのあと、陸翔兄さまは、淡々と、芳也の会社がどれだけずさんな経営をしていたのか、仕事に穴だらけであったこと、問題が山積みだったことを指摘していく。そして、それが小林社長と結託していたことも伝えた。「そんな、そんなことあるわけがない……! 俺の会社はずっと順調で、俺の力でここまでやってきたんだ!」必死な叫びが会場に響く。芳也の顔は赤く染まり、悔しさと怒りが入り混じったように、壇上の陸翔兄さまを睨みつけていた。しかし——「黙れ!」低く、鋭い怒声が空気を切り裂いた。その瞬間、会場が張り詰めた静寂に包まれる。「お前の会社があるのは、すべて彼女がいたからだろう」陸翔兄さまは、淡々とした口調でそう言い放つと、ゆっくりと私の方へと視線を向けた。その言葉の意味を理解できず、芳也は愕然とした表情のまま立ち尽くす。「は? 沙織が? どうしてこの女が関係するのよ!」先に声を荒げたのは、芳也の母親だった。半ば錯乱したように声を張り上げる彼女の顔には、怒りと混乱が滲んでいた。「この女といえば、主婦のくせにまとも
Last Updated: 2026-03-02
Chapter: STORY 59
しかし——さすがに周囲の人々も、この騒ぎに気づき始め、会場の空気が微妙に変わってきたのを感じる。(そろそろ、まずいかもしれない)そう思ったその時だった。視界の端で、一人の男が静かに現れる。黒縁の眼鏡をかけ、やや長めの髪を無造作に下ろしているが、それでも隠しきれない圧倒的な存在感。——陸翔兄さま。彼が現れた瞬間、それまで騒がしかった場が、ピタリと静まり返る。その圧倒的なオーラをまとった彼を前に、先ほどまでの罵倒もどこか空回りしているように感じる。それでも、美咲さんはこれ見よがしに陸翔兄さまに言葉をかけ、必死に何かをアピールしている。だが、陸翔兄さまの目は、全く笑っていなかった。その目の奥に燃える静かな怒りが、今にも爆発してしまいそうなほど張り詰めているのがわかる。そう思ったその瞬間、壇上がライトに照らされ、父の姿が見えた。壇上では、父の挨拶が進み、続いて来賓たちの挨拶が続いていた。美咲さんや芳也は、すっかり私のことなど忘れたかのように楽しげに振る舞っていた。そんな二人の様子を横目に見ながら、私は静かにワイングラスを手に取る。——そして、ついにその瞬間が訪れた。「それでは、ここで一つ発表をいたします。我が神田グループであるコードシステムの新規プロジェクトについての発表に移ります」父の落ち着いた声が会場に響き渡る。その瞬間、芳也たちの態度が一変した。待ち構えていたかのように身を乗り出す芳也は、ワイングラスを持つ手をわずかに強張らせている。隣の美咲さんは期待に満ちた目で壇上を見つめ、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。(よほど自信があるのね……)彼らの反応を観察しながら、私は静かにグラスを傾ける。しかし、次に父が発した言葉で、会場の空気は一変した。「その前に、一つお知らせがあります」穏やかながらも、どこか冷ややかさを含んだ父の声が響く。「先月末をもって、社長の小林は退任となっております」一瞬の静寂——。「え?」美咲さんの戸惑い混じりの声が、会場の静けさの中に妙に鮮明に響いた。「小林社長が……退任?」芳也も目を丸くし、美咲さんと顔を見合わせる。彼らだけでなく、周囲の関係者たちも次々とざわめき始めた。(まだ序章にすぎないのに、この反応……)私は静かにグラスを置き、父の次の言葉を待った。——そして、その一言が、
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: STORY 58
陸翔兄さまは組んでいた足をゆっくり戻し、すっと立ち上がると、近くに控えていたスタッフに静かに何かを指示する。少しして、スタッフが黒いビロードの箱を手にして戻ってきた。「よく似合ってる。あとはアクセサリーがあればいいだろう」穏やかな口調でそう言いながら、陸翔兄さまが視線を向けると、スタッフが箱の蓋を開いた。そこに収められていたのは、繊細なカットが施されたダイヤモンドがちりばめられた、まばゆいばかりのネックレスだった。(こんなもの、私がつけていいの……?)戸惑いがよぎる間に、陸翔兄さまは迷うことなくネックレスを手に取り、私の前へと歩み寄ってきた。そのまま、くるりと肩に手を添え、私の体を鏡の方へと向かせる。「動かないで」低く落ち着いた声に、背筋が自然と伸びる。陸翔兄さまは私の首元へそっと手を伸ばし、丁寧にネックレスをつけてくれる。ひんやりとした宝石が肌に触れ、少しひやりとする。その感覚とは対照的に、陸翔兄さまの指先は温かかった。——心臓の音が、うるさい。鏡越しに陸翔兄さまと視線が交わる。端正な顔立ちの彼が、静かに金具を留める仕草をしているのが、なんだかひどく落ち着かなくて、視線を逸らしたくなる。私は結婚もして、一度は妻としての生活を経験したというのに、こんなことで息が詰まりそうになるなんて。(何をこんなに緊張してるの、私……)ほんの少し、金具を留めるために触れた彼の指先に、意識が集中する。たったそれだけのことなのに、なぜか肌が敏感になったような気がして、鼓動がどんどん速くなっていく。それが、どうしようもなく恥ずかしくて、私はそっと唇を噛んだ。そんな陸翔兄さまが選んでくれたドレスを纏い、私は今日、この会場に来た。父が張り切っただけあり、パーティーの規模は想像以上に大きい。決算報告と達成パーティーという場に、一プロジェクトの発表を入れ込むなど通常ならあり得ない。それに、招待されたのは政界の重鎮や各業界の名だたる社長、役員たち。会場の雰囲気も華やかで、格式の高さを感じさせるものだった。そんな錚々たる顔ぶれの中で挨拶をする予定はまだなかったため、私はVIPが集まるエリアには向かわず、なるべく顔見知りがいない社員たちが集まる場所で芹那と一緒にいた。そんな時だった。会場のざわめきをかき消すように、ひときわ大きな聞き覚えのある声が耳
Last Updated: 2026-02-26
見えない世界で出会った二人の約束

見えない世界で出会った二人の約束

一夜の過ちが、予期せぬ運命を引き寄せる――家族の厳しいお見合い話に追い詰められ、やけになってバーに飛び込んだ美優。彼女はそこで、目の見えないミステリアスなバーテンダーと出会い、酔いの勢いで一夜を共にしてしまう。しかし、彼に祖母の形見の指輪を託してしまったことに気づき、翌朝慌てて逃げ出す美優。数年後、偶然にも彼の会社で再会する二人。彼は大手企業のCEOだった――果たして、二人の運命の糸は再び交わるのか?見えない視線の中で織り成される恋物語。
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Chapter: 第二十八話
「寝ようか」陽介さんの低い声が、静まり返った空間に響いた。私は少し遅れて頷くと、当麻が眠る寝室へと向かった。ドレスを脱ぎ、メイクを落としながら、なんとなくまだ胸のざわつきが残っているのを感じる。今日の出来事、陽介さんの言葉、そして彼が持っていた指輪──。(……考えすぎ、なのかな)そう思おうとしても、頭の奥に残った違和感は消えなかった。ベッドに入る前に、ふとクローゼットの奥に視線を向ける。ずっと触れていなかった、小さな木箱。私はそっと扉を開け、その箱を手に取った。白い手のひらに収まるほどのサイズ。蓋には薄く彫り込まれた模様があり、時間とともに少し色あせている。それでも、この箱だけはずっと手放せなかった。ゆっくりと開けると、中にはいくつかの小さな宝石、古いアクセサリー──そして、一つの鍵があった。「……」金属の表面は、長年触れられずにいたせいか、わずかにくすんでいた。それでも、形は鮮明に覚えている。(あの夜、ポケットに入っていた鍵)それが何なのかも分からず、ただずっと持っていた。無くすこともできず、意味を知ることもなく、ただここにあった。(でも……)リビングで見た陽介さんの指輪。それを見つめる彼の表情。なぜか、それがこの鍵と重なるような気がした。「まさか……ね」私は小さく苦笑し、鍵をそっと指先でなぞった。考えすぎかもしれない。でも、もしも──。そのとき。「……っ」静かな寝室に、小さな泣き声が響いた。私はハッとして顔を上げ、すぐに当麻のベビーベッドへ向かった。鍵は、とりあえずバッグの中へ。今は、考える時間ではない。私は当麻を優しく抱き上げ、背中をさすりながら、小さく息を吐いた。朝の光が差し込むオフィスビルのエントランスをくぐると、いつもの風景が広がっていた。スーツ姿の社員たちが行き交い、忙しそうにスマートフォンを操作している。私は清掃用具を抱えながら、小さく息をついた。(……今日も、いつも通り)パーティーの余韻がまだ少し残っているような気がしたが、私はすぐに頭を切り替えた。ここでは、私は"CEOの妻"ではなく、ただの清掃員なのだから。「おはよう、美優ちゃん」「あ、おはようございます、安田さん」通りかかった受付の安田さんが、にこやかに挨拶をしてくれる。エレベーターへ向かうと、すれ違いざま
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: 第二十七話
「それで子供を?」陽介さんは何も気づいていないようで、静かに私を見た。「はい」ただそれだけの返事をするのに、私はかなり勇気を振り絞った。これを言えば、彼も思い出すかもしれない。しかし、でも、あの彼は目が見えなかった。この指輪は誰かからもらっただけだという可能性もあるし、似たものかもしれない。(この指輪はどうしたんですか?)そう尋ねるべきかもしれない。そして、(これは知っていますか?)あの日、私が彼からもらったかもしれないもの。お互いまた会う日のために交換をしたのかもしれないもの。記憶があいまいな自分を呪うしかない。しかし、きっとお互いのものを交換したのだと思う。そして、あの日、私はこの形見を渡してでも、彼にもう一度会いたいと思っていたのかもしれない。「あの……」あの日、ポケットから見つけたのは見覚えのない、アンティークの鍵のようなものだった。それが何かもわからなかった私は、ただずっと小さな宝石箱の中にしまっていた。彼のものだという保証もないし、何かもわからない。家に帰ってから、その存在に気づいただけで、もうそれを二度と話に出すことなどないと思っていた。「ん?」やわらかく聞き返す彼に、私は言葉を探す。『鍵を知っていますか?』そう尋ねれば、答えはもちろんYESだろう。誰だって知っているはずだ。部屋から持ってきて見せるのが一番いいだろうか。そう思った私だったが、陽介さんが口を開いた。「たぶん、弟が三条に騙されているのだろう。そして、母も」話がもとに戻り、一番の核心部分になったことで、私はきゅっと鍵のことを飲み込んだ。途端に、現実へと引き戻された。私はきゅっと鍵のことを飲み込む。(……そうだった。いま、目の前の問題はこれ)悠馬COOが三条に利用され、そして陽介さんの母親も、もしかしたらただの操り人形になっている可能性すらある。母親が悠馬さんをCEOにすることを強く望んでいることは、私も知っている。そのためなら、どんな手を使っても、どんな危険な取引でも、躊躇しない。陽介さんはずっとこの母親の意向に逆らい、自分で会社を守ろうとしていた。そして――その戦いの最中で、彼は失明し、あの夜に私を助けた彼となったのかもしれない。鍵と指輪のことを話すべきか、迷いながらも、私は陽介さんの横顔を見つめた。彼は静かに、しかし鋭い眼
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: 第二十六夜
ーー美優眠れなかった。パーティーの余韻がまだ体に残っていて、ベッドに横になっても意識が冴えてしまう。 陽介さんの言葉が、ずっと胸の奥でこだましている。「俺が……お前を守る」あの言葉に嘘はなかった。 けれど、それは契約上の責任としてなのか、それとも――。自分の中に芽生え始めた感情に、どうしても整理がつかなくて、私はベッドから抜け出した。静まり返った廊下を、そっと歩く。 夜の空気がひんやりと肌を撫でるなか、リビングの方から淡い光が漏れているのが見えた。(まだ起きてる……?)静かに覗くと、陽介さんがソファに深く座り、ワイングラスを片手に、何かをじっと見つめていた。「眠れないのか?」不意に私をみて陽介さんが、静かに問いかける。「はい……」素直にそう答えると、陽介さんは何も言わずに立ち上がり、ワイングラスをもう一つ用意してくれた。「飲めるか?」「……少しだけなら」ワイングラスを受け取ると、赤ワインのかすかな香りが鼻をくすぐる。 グラスの中でゆっくりと揺れる深紅の液体を見つめながら、私は小さく息を吐いた。しばらくの沈黙。夜の静寂が、二人の間に漂う。口を開くべきか迷いながらも、私はゆっくりと切り出した。「三条のこと……黙っていてごめんなさい」陽介さんの手が一瞬だけ止まる。「いや……あの男との縁談のことを聞いて、色々と納得した」そう言いながら、彼は静かにグラスを傾ける。「それにしても、お前の語学力とパーティーでの振る舞い。掃除婦とは思えないほどだった。素性を聞いてもいいのか?」言葉の端々に探るような気配を感じた。私は小さく笑いながら、ワインを一口含む。「そんなに特別なことではありません。私はただ、昔そういう環境にいた……それだけです」「環境?」「……母が華族の家系で、父は京華堂の社長でした。だから、小さい頃から社交の場に出る機会が多くて。おかげで、礼儀作法も語学も、叩き込まれました」陽介さんは声を発することはなかったが、かなり驚いた表情をした。そんな彼から視線を逸らすと、私は続けた。「でも、父は私のことを"商売の道具"としか見ていなかった。私が大学院へ進学しようとすると、いい縁談の話ばかり持ってきて……。三条との縁談もそのひとつでした」「それで、家を出たのか?」「はい。でも、家を出たからといって、すぐに自立で
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第二十五夜
「大丈夫か?」会場へ戻る途中、陽介さんが小さく囁く。彼の手はまだ私の手首を軽く掴んだままで、そのわずかな体温が妙に意識に残る。「ええ……」 私はゆっくりと頷く。 「でも、三条は私たちの結婚に何かしらの興味を持っているみたいです」「そうだろうな」陽介さんは眉を寄せ、険しい表情を見せた。 厳しい眼差しの奥に、鋭く研ぎ澄まされた警戒心が見える。「お前は彼と話したことがあるのか?」少し迷ったが、嘘をつく理由はない。「いいえ……正式に会ったことはありません。でも、昔、私の父が彼との縁談を進めようとしていました」陽介さんの歩みが止まる。「それは……初耳だな」「私自身が断ったので、結局会う前に破談になりました。ただ、彼がどういう人かは、調べて知っていました」私の声が少し硬くなるのを、自分でも感じる。三条のことを思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。彼がどういう男なのか、私は十分に理解していた。 あのとき、逃げてよかったと今でも思っている。陽介さんはしばらく黙っていた。 視線を伏せ、考え込むような表情を浮かべている。 やがて、彼は静かに息を吐き、低く言った。「これ以上、三条に関わるな」その言葉には、いつもより強い感情がこもっていた。 私を見つめる瞳は真剣そのもので、彼がわからなくなる。「俺が……お前を守る」低く、しかし確かに響くその言葉に、私は小さく息を呑んだ。(どうして……こんなふうに言うの?)彼の言葉は、あまりにもまっすぐで、強い。 なのに、それが胸の奥に深く染み込んで、揺さぶられる。契約結婚のはずなのに。 ビジネスとしての関係のはずなのに。「……はい」それ以上、何も言えなかった。 ただ、陽介さんの隣を歩きながら、彼の言葉の余韻に囚われていた。帰宅して、私はドレスを脱ぎ、静かにベッドへ腰を下ろした。(俺がお前を守る)あの言葉が、ずっと頭の中に残っている。冷徹でビジネスライクな人間だと思っていたのに。 今夜の言葉や行動には、確かに温かさがあった。(……どうして?)形式上の関係だったはずなのに、少しずつ「夫婦」としての実感が湧き始める。 だけど、それを認めるのが怖かった。(これはただの契約のはず)そう言い聞かせながらも、胸の奥が妙にざわつく。 陽介さんのことをもっと知りたくなる。 彼の声が、
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第二十四夜
そんな中、目の前の老夫婦の女性が、グラスのワインを零してしまったのが見えた。咄嗟にすぐに駆け寄ると、すぐに彼女の和服についたワインを拭き少し会話をする。「お嬢さん、ありがとう。助かったわ」「いいえ、素敵なお着物ですね。小紋が見事です」着物も一通りしつけられ、純粋にその見事な柄に笑顔になる。少しだけ会話をして彼の元に戻ると、陽介さんが私をみて少し眉を寄せた。「何者?」陽介さんが冗談めかして言う。「……何を今さら。あなたの妻で、あなたの会社の清掃員ですよ」私は軽く微笑んで返したが、その瞳には冗談ではない色が混じっていた。「ふーん」それだけの単語からは、彼の意図はわからない。こんなふうに男性から見つめられることなんて経験のない私は、なんとなくあの日の夜のサングラスの奥の瞳を思い出してしまう。なんで今あの日のことを。落ち着かない気持ちをどうにかしようとしていたところで、「そろそろペアダンスの時間にな
Last Updated: 2025-01-30
Chapter: 第二十三夜
会場に到着すると、煌びやかな装飾とシャンデリアの明かりが目に飛び込んできた。ハイクラスなホテルの宴会場は、どこを見ても洗練された雰囲気が漂い、訪れた人々もまた、その場に相応しい服装で会話を楽しんでいる。「緊張する?」 陽介さんが隣でさりげなく声をかけてくれた。「いえ、大丈夫です」 思った以上に自然な答えが出たのは、自分でも驚きだった。昔の私なら、このような場に慣れていたからだろう。今の生活とはかけ離れているけれど、身体に染み付いた感覚は意外にも残っているものだ。受付で名前を告げ、会場内に進むと、すぐに陽介さんに声をかける人物が現れた。取引先の社長だろうか、年配の男性が陽介さんと笑顔で握手を交わす。「奥様ですね。お美しい方だ」 その言葉に思わず頬が熱くなるが、陽介さんがさらりとフォローしてくれる。「ええ、彼女にはとても感謝しています」 そう言う陽介さんの表情から本心はわかるわけはない。しばらくすると、場の空気が少しざわつき始めた。会場の中央に一人の男性が現れ、周囲の人々と挨拶を交わしている。彼こそがフランスの外交官であり、今回のパーティーの主賓だと聞いていた。「初めまして」 男性が陽介さんに近づき、流暢なフランス語で話しかけてきた。その瞬間、陽介さんが一瞬だけ眉をひそめるのが分かった。フランス語を理解しているものの、流暢に話せるほどではないのかもしれない。普通であれば外交官ならば、英語で会話と彼も思っていたのだろう。いつのまに来ていたのかわからないが、いきなり神崎さんがここぞとばかりに間に割り込んできた。「私にお任せください!」 自信たっぷりにそう言う神崎さんが英語で話すと、もちろん彼も英語で答えたが、少しだけ言葉選びに迷いがある気がする。きっとフランス語の方が堪能で、詳しい話はそちらでしたいのかもしれない。その様子を見た私は、自然と口を開いていた。「Monsieur, je suis enchantée de faire votre connaissance. Laissez-moi vous aider si besoin est.」(お会いできて光栄です。必要でしたら私がお手伝いします。)完璧な発音でフランス語を話した私に、外交官は驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。「Ah, vous parlez
Last Updated: 2025-01-29
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