Chapter: 第二十八話「寝ようか」陽介さんの低い声が、静まり返った空間に響いた。私は少し遅れて頷くと、当麻が眠る寝室へと向かった。ドレスを脱ぎ、メイクを落としながら、なんとなくまだ胸のざわつきが残っているのを感じる。今日の出来事、陽介さんの言葉、そして彼が持っていた指輪──。(……考えすぎ、なのかな)そう思おうとしても、頭の奥に残った違和感は消えなかった。ベッドに入る前に、ふとクローゼットの奥に視線を向ける。ずっと触れていなかった、小さな木箱。私はそっと扉を開け、その箱を手に取った。白い手のひらに収まるほどのサイズ。蓋には薄く彫り込まれた模様があり、時間とともに少し色あせている。それでも、この箱だけはずっと手放せなかった。ゆっくりと開けると、中にはいくつかの小さな宝石、古いアクセサリー──そして、一つの鍵があった。「……」金属の表面は、長年触れられずにいたせいか、わずかにくすんでいた。それでも、形は鮮明に覚えている。(あの夜、ポケットに入っていた鍵)それが何なのかも分からず、ただずっと持っていた。無くすこともできず、意味を知ることもなく、ただここにあった。(でも……)リビングで見た陽介さんの指輪。それを見つめる彼の表情。なぜか、それがこの鍵と重なるような気がした。「まさか……ね」私は小さく苦笑し、鍵をそっと指先でなぞった。考えすぎかもしれない。でも、もしも──。そのとき。「……っ」静かな寝室に、小さな泣き声が響いた。私はハッとして顔を上げ、すぐに当麻のベビーベッドへ向かった。鍵は、とりあえずバッグの中へ。今は、考える時間ではない。私は当麻を優しく抱き上げ、背中をさすりながら、小さく息を吐いた。朝の光が差し込むオフィスビルのエントランスをくぐると、いつもの風景が広がっていた。スーツ姿の社員たちが行き交い、忙しそうにスマートフォンを操作している。私は清掃用具を抱えながら、小さく息をついた。(……今日も、いつも通り)パーティーの余韻がまだ少し残っているような気がしたが、私はすぐに頭を切り替えた。ここでは、私は"CEOの妻"ではなく、ただの清掃員なのだから。「おはよう、美優ちゃん」「あ、おはようございます、安田さん」通りかかった受付の安田さんが、にこやかに挨拶をしてくれる。エレベーターへ向かうと、すれ違いざま
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: 第二十七話「それで子供を?」陽介さんは何も気づいていないようで、静かに私を見た。「はい」ただそれだけの返事をするのに、私はかなり勇気を振り絞った。これを言えば、彼も思い出すかもしれない。しかし、でも、あの彼は目が見えなかった。この指輪は誰かからもらっただけだという可能性もあるし、似たものかもしれない。(この指輪はどうしたんですか?)そう尋ねるべきかもしれない。そして、(これは知っていますか?)あの日、私が彼からもらったかもしれないもの。お互いまた会う日のために交換をしたのかもしれないもの。記憶があいまいな自分を呪うしかない。しかし、きっとお互いのものを交換したのだと思う。そして、あの日、私はこの形見を渡してでも、彼にもう一度会いたいと思っていたのかもしれない。「あの……」あの日、ポケットから見つけたのは見覚えのない、アンティークの鍵のようなものだった。それが何かもわからなかった私は、ただずっと小さな宝石箱の中にしまっていた。彼のものだという保証もないし、何かもわからない。家に帰ってから、その存在に気づいただけで、もうそれを二度と話に出すことなどないと思っていた。「ん?」やわらかく聞き返す彼に、私は言葉を探す。『鍵を知っていますか?』そう尋ねれば、答えはもちろんYESだろう。誰だって知っているはずだ。部屋から持ってきて見せるのが一番いいだろうか。そう思った私だったが、陽介さんが口を開いた。「たぶん、弟が三条に騙されているのだろう。そして、母も」話がもとに戻り、一番の核心部分になったことで、私はきゅっと鍵のことを飲み込んだ。途端に、現実へと引き戻された。私はきゅっと鍵のことを飲み込む。(……そうだった。いま、目の前の問題はこれ)悠馬COOが三条に利用され、そして陽介さんの母親も、もしかしたらただの操り人形になっている可能性すらある。母親が悠馬さんをCEOにすることを強く望んでいることは、私も知っている。そのためなら、どんな手を使っても、どんな危険な取引でも、躊躇しない。陽介さんはずっとこの母親の意向に逆らい、自分で会社を守ろうとしていた。そして――その戦いの最中で、彼は失明し、あの夜に私を助けた彼となったのかもしれない。鍵と指輪のことを話すべきか、迷いながらも、私は陽介さんの横顔を見つめた。彼は静かに、しかし鋭い眼
Last Updated: 2025-04-24
Chapter: 第二十六夜ーー美優眠れなかった。パーティーの余韻がまだ体に残っていて、ベッドに横になっても意識が冴えてしまう。 陽介さんの言葉が、ずっと胸の奥でこだましている。「俺が……お前を守る」あの言葉に嘘はなかった。 けれど、それは契約上の責任としてなのか、それとも――。自分の中に芽生え始めた感情に、どうしても整理がつかなくて、私はベッドから抜け出した。静まり返った廊下を、そっと歩く。 夜の空気がひんやりと肌を撫でるなか、リビングの方から淡い光が漏れているのが見えた。(まだ起きてる……?)静かに覗くと、陽介さんがソファに深く座り、ワイングラスを片手に、何かをじっと見つめていた。「眠れないのか?」不意に私をみて陽介さんが、静かに問いかける。「はい……」素直にそう答えると、陽介さんは何も言わずに立ち上がり、ワイングラスをもう一つ用意してくれた。「飲めるか?」「……少しだけなら」ワイングラスを受け取ると、赤ワインのかすかな香りが鼻をくすぐる。 グラスの中でゆっくりと揺れる深紅の液体を見つめながら、私は小さく息を吐いた。しばらくの沈黙。夜の静寂が、二人の間に漂う。口を開くべきか迷いながらも、私はゆっくりと切り出した。「三条のこと……黙っていてごめんなさい」陽介さんの手が一瞬だけ止まる。「いや……あの男との縁談のことを聞いて、色々と納得した」そう言いながら、彼は静かにグラスを傾ける。「それにしても、お前の語学力とパーティーでの振る舞い。掃除婦とは思えないほどだった。素性を聞いてもいいのか?」言葉の端々に探るような気配を感じた。私は小さく笑いながら、ワインを一口含む。「そんなに特別なことではありません。私はただ、昔そういう環境にいた……それだけです」「環境?」「……母が華族の家系で、父は京華堂の社長でした。だから、小さい頃から社交の場に出る機会が多くて。おかげで、礼儀作法も語学も、叩き込まれました」陽介さんは声を発することはなかったが、かなり驚いた表情をした。そんな彼から視線を逸らすと、私は続けた。「でも、父は私のことを"商売の道具"としか見ていなかった。私が大学院へ進学しようとすると、いい縁談の話ばかり持ってきて……。三条との縁談もそのひとつでした」「それで、家を出たのか?」「はい。でも、家を出たからといって、すぐに自立で
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第二十五夜「大丈夫か?」会場へ戻る途中、陽介さんが小さく囁く。彼の手はまだ私の手首を軽く掴んだままで、そのわずかな体温が妙に意識に残る。「ええ……」 私はゆっくりと頷く。 「でも、三条は私たちの結婚に何かしらの興味を持っているみたいです」「そうだろうな」陽介さんは眉を寄せ、険しい表情を見せた。 厳しい眼差しの奥に、鋭く研ぎ澄まされた警戒心が見える。「お前は彼と話したことがあるのか?」少し迷ったが、嘘をつく理由はない。「いいえ……正式に会ったことはありません。でも、昔、私の父が彼との縁談を進めようとしていました」陽介さんの歩みが止まる。「それは……初耳だな」「私自身が断ったので、結局会う前に破談になりました。ただ、彼がどういう人かは、調べて知っていました」私の声が少し硬くなるのを、自分でも感じる。三条のことを思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。彼がどういう男なのか、私は十分に理解していた。 あのとき、逃げてよかったと今でも思っている。陽介さんはしばらく黙っていた。 視線を伏せ、考え込むような表情を浮かべている。 やがて、彼は静かに息を吐き、低く言った。「これ以上、三条に関わるな」その言葉には、いつもより強い感情がこもっていた。 私を見つめる瞳は真剣そのもので、彼がわからなくなる。「俺が……お前を守る」低く、しかし確かに響くその言葉に、私は小さく息を呑んだ。(どうして……こんなふうに言うの?)彼の言葉は、あまりにもまっすぐで、強い。 なのに、それが胸の奥に深く染み込んで、揺さぶられる。契約結婚のはずなのに。 ビジネスとしての関係のはずなのに。「……はい」それ以上、何も言えなかった。 ただ、陽介さんの隣を歩きながら、彼の言葉の余韻に囚われていた。帰宅して、私はドレスを脱ぎ、静かにベッドへ腰を下ろした。(俺がお前を守る)あの言葉が、ずっと頭の中に残っている。冷徹でビジネスライクな人間だと思っていたのに。 今夜の言葉や行動には、確かに温かさがあった。(……どうして?)形式上の関係だったはずなのに、少しずつ「夫婦」としての実感が湧き始める。 だけど、それを認めるのが怖かった。(これはただの契約のはず)そう言い聞かせながらも、胸の奥が妙にざわつく。 陽介さんのことをもっと知りたくなる。 彼の声が、
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第二十四夜そんな中、目の前の老夫婦の女性が、グラスのワインを零してしまったのが見えた。咄嗟にすぐに駆け寄ると、すぐに彼女の和服についたワインを拭き少し会話をする。「お嬢さん、ありがとう。助かったわ」「いいえ、素敵なお着物ですね。小紋が見事です」着物も一通りしつけられ、純粋にその見事な柄に笑顔になる。少しだけ会話をして彼の元に戻ると、陽介さんが私をみて少し眉を寄せた。「何者?」陽介さんが冗談めかして言う。「……何を今さら。あなたの妻で、あなたの会社の清掃員ですよ」私は軽く微笑んで返したが、その瞳には冗談ではない色が混じっていた。「ふーん」それだけの単語からは、彼の意図はわからない。こんなふうに男性から見つめられることなんて経験のない私は、なんとなくあの日の夜のサングラスの奥の瞳を思い出してしまう。なんで今あの日のことを。落ち着かない気持ちをどうにかしようとしていたところで、「そろそろペアダンスの時間にな
Last Updated: 2025-01-30
Chapter: 第二十三夜会場に到着すると、煌びやかな装飾とシャンデリアの明かりが目に飛び込んできた。ハイクラスなホテルの宴会場は、どこを見ても洗練された雰囲気が漂い、訪れた人々もまた、その場に相応しい服装で会話を楽しんでいる。「緊張する?」 陽介さんが隣でさりげなく声をかけてくれた。「いえ、大丈夫です」 思った以上に自然な答えが出たのは、自分でも驚きだった。昔の私なら、このような場に慣れていたからだろう。今の生活とはかけ離れているけれど、身体に染み付いた感覚は意外にも残っているものだ。受付で名前を告げ、会場内に進むと、すぐに陽介さんに声をかける人物が現れた。取引先の社長だろうか、年配の男性が陽介さんと笑顔で握手を交わす。「奥様ですね。お美しい方だ」 その言葉に思わず頬が熱くなるが、陽介さんがさらりとフォローしてくれる。「ええ、彼女にはとても感謝しています」 そう言う陽介さんの表情から本心はわかるわけはない。しばらくすると、場の空気が少しざわつき始めた。会場の中央に一人の男性が現れ、周囲の人々と挨拶を交わしている。彼こそがフランスの外交官であり、今回のパーティーの主賓だと聞いていた。「初めまして」 男性が陽介さんに近づき、流暢なフランス語で話しかけてきた。その瞬間、陽介さんが一瞬だけ眉をひそめるのが分かった。フランス語を理解しているものの、流暢に話せるほどではないのかもしれない。普通であれば外交官ならば、英語で会話と彼も思っていたのだろう。いつのまに来ていたのかわからないが、いきなり神崎さんがここぞとばかりに間に割り込んできた。「私にお任せください!」 自信たっぷりにそう言う神崎さんが英語で話すと、もちろん彼も英語で答えたが、少しだけ言葉選びに迷いがある気がする。きっとフランス語の方が堪能で、詳しい話はそちらでしたいのかもしれない。その様子を見た私は、自然と口を開いていた。「Monsieur, je suis enchantée de faire votre connaissance. Laissez-moi vous aider si besoin est.」(お会いできて光栄です。必要でしたら私がお手伝いします。)完璧な発音でフランス語を話した私に、外交官は驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。「Ah, vous parlez
Last Updated: 2025-01-29
Chapter: STORY 59しかし——さすがに周囲の人々も、この騒ぎに気づき始め、会場の空気が微妙に変わってきたのを感じる。(そろそろ、まずいかもしれない)そう思ったその時だった。視界の端で、一人の男が静かに現れる。黒縁の眼鏡をかけ、やや長めの髪を無造作に下ろしているが、それでも隠しきれない圧倒的な存在感。——陸翔兄さま。彼が現れた瞬間、それまで騒がしかった場が、ピタリと静まり返る。その圧倒的なオーラをまとった彼を前に、先ほどまでの罵倒もどこか空回りしているように感じる。それでも、美咲さんはこれ見よがしに陸翔兄さまに言葉をかけ、必死に何かをアピールしている。だが、陸翔兄さまの目は、全く笑っていなかった。その目の奥に燃える静かな怒りが、今にも爆発してしまいそうなほど張り詰めているのがわかる。そう思ったその瞬間、壇上がライトに照らされ、父の姿が見えた。壇上では、父の挨拶が進み、続いて来賓たちの挨拶が続いていた。美咲さんや芳也は、すっかり私のことなど忘れたかのように楽しげに振る舞っていた。そんな二人の様子を横目に見ながら、私は静かにワイングラスを手に取る。——そして、ついにその瞬間が訪れた。「それでは、ここで一つ発表をいたします。我が神田グループであるコードシステムの新規プロジェクトについての発表に移ります」父の落ち着いた声が会場に響き渡る。その瞬間、芳也たちの態度が一変した。待ち構えていたかのように身を乗り出す芳也は、ワイングラスを持つ手をわずかに強張らせている。隣の美咲さんは期待に満ちた目で壇上を見つめ、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。(よほど自信があるのね……)彼らの反応を観察しながら、私は静かにグラスを傾ける。しかし、次に父が発した言葉で、会場の空気は一変した。「その前に、一つお知らせがあります」穏やかながらも、どこか冷ややかさを含んだ父の声が響く。「先月末をもって、社長の小林は退任となっております」一瞬の静寂——。「え?」美咲さんの戸惑い混じりの声が、会場の静けさの中に妙に鮮明に響いた。「小林社長が……退任?」芳也も目を丸くし、美咲さんと顔を見合わせる。彼らだけでなく、周囲の関係者たちも次々とざわめき始めた。(まだ序章にすぎないのに、この反応……)私は静かにグラスを置き、父の次の言葉を待った。——そして、その一言が、
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: STORY 58陸翔兄さまは組んでいた足をゆっくり戻し、すっと立ち上がると、近くに控えていたスタッフに静かに何かを指示する。少しして、スタッフが黒いビロードの箱を手にして戻ってきた。「よく似合ってる。あとはアクセサリーがあればいいだろう」穏やかな口調でそう言いながら、陸翔兄さまが視線を向けると、スタッフが箱の蓋を開いた。そこに収められていたのは、繊細なカットが施されたダイヤモンドがちりばめられた、まばゆいばかりのネックレスだった。(こんなもの、私がつけていいの……?)戸惑いがよぎる間に、陸翔兄さまは迷うことなくネックレスを手に取り、私の前へと歩み寄ってきた。そのまま、くるりと肩に手を添え、私の体を鏡の方へと向かせる。「動かないで」低く落ち着いた声に、背筋が自然と伸びる。陸翔兄さまは私の首元へそっと手を伸ばし、丁寧にネックレスをつけてくれる。ひんやりとした宝石が肌に触れ、少しひやりとする。その感覚とは対照的に、陸翔兄さまの指先は温かかった。——心臓の音が、うるさい。鏡越しに陸翔兄さまと視線が交わる。端正な顔立ちの彼が、静かに金具を留める仕草をしているのが、なんだかひどく落ち着かなくて、視線を逸らしたくなる。私は結婚もして、一度は妻としての生活を経験したというのに、こんなことで息が詰まりそうになるなんて。(何をこんなに緊張してるの、私……)ほんの少し、金具を留めるために触れた彼の指先に、意識が集中する。たったそれだけのことなのに、なぜか肌が敏感になったような気がして、鼓動がどんどん速くなっていく。それが、どうしようもなく恥ずかしくて、私はそっと唇を噛んだ。そんな陸翔兄さまが選んでくれたドレスを纏い、私は今日、この会場に来た。父が張り切っただけあり、パーティーの規模は想像以上に大きい。決算報告と達成パーティーという場に、一プロジェクトの発表を入れ込むなど通常ならあり得ない。それに、招待されたのは政界の重鎮や各業界の名だたる社長、役員たち。会場の雰囲気も華やかで、格式の高さを感じさせるものだった。そんな錚々たる顔ぶれの中で挨拶をする予定はまだなかったため、私はVIPが集まるエリアには向かわず、なるべく顔見知りがいない社員たちが集まる場所で芹那と一緒にいた。そんな時だった。会場のざわめきをかき消すように、ひときわ大きな聞き覚えのある声が耳
Last Updated: 2026-02-26
Chapter: STORY 57「何の騒ぎですか?」低く落ち着いた声が響く。その声に、私はすぐに反応し、秋元さんのもとへと歩み寄った。「この女性が、このパーティーに紛れ込んで場を乱しているんです」そう伝えると同時に、ちらりと沙織の方を見る。彼女は何も言わずにこちらを見返していた。社員かもしれないが、本社の人間が彼女のことを知るわけがない。きっと場違いな存在として、すぐに追い出せるはず。何より、この男も私に気があるのはこの間から明らかだ。ならば、きっとすぐに沙織を排除してくれる。「この人は?」芳也の母親が私を見て、秋元さんに問いかける。「神田グループの方よ」私がそう説明すると、彼女の態度は瞬時に変わった。「先日はうちの息子がお世話になったようですね」さっきまで沙織に向けていた敵意とは打って変わり、愛想のいい笑顔を作りながら、秋元さんに挨拶をする。「ええ、こちらこそ大変お世話になりました」相変わらず穏やかな口調の秋元さん。私は彼にそっと耳打ちする。「あの女性、元夫に未練があるみたいで、泣いてすがりに来たんです。こんな場所まで」困ったものだという表情を浮かべ、彼の反応を伺う。だが、その瞬間、一瞬だけ空気が変わった気がした。(……え?)気のせいだろうか。彼の表情は変わらないのに、今までとは違う何かを感じた。その時、壇上にスポットライトが当たり、神田グループの社長が姿を現した。会場が静まり返る。パーティーの主催者である彼が、何を話すのか——その言葉を待つように、皆が壇上へと視線を向けた。Side 沙織今日、このパーティーが行われる少し前、私は神田家御用達のドレスサロンにいた。そこは銀座の高級ブランドが集まるエリアの一角にあるVIPルーム。重厚な扉を開けると、洗練された空間が広がっている。ふわりと漂う上品な香り、厳選されたシャンデリアの灯りが柔らかく絹のドレスを照らし、壁際には美しく仕立てられた最新のハイブランドのドレスが並んでいる。昔はよくここでドレスを選んだことを懐かしく思い出す。久しぶりに着るドレス。少しだけ緊張しながら、私はいくつものドレスを手に取り、眺めていた。「沙織」不意に聞こえた静かな声に、私は驚いて振り返る。「陸翔兄さま……?」そこに立っていたのは、変わらぬ落ち着いた表情の彼だった。「社長から、今日選びに行っているから、帰りに迎え
Last Updated: 2026-02-25
Chapter: STORY 56閑話 美咲きらびやかな神田グループの所有するパーティー会場。豪華なシャンデリアが天井から輝き、ドレスアップした人々が優雅にグラスを傾けている。私も芳也にねだって買ってもらったドレスに身を包み、この洗練された空間に溶け込んでいた。そして、今夜同行しているのは——芳也と、その母親。小林は神田グループの一員として出席するため、私たちとは別行動だが、きっとうまく立ち回るだろう。秋元もこちらに引き込んでいるはずだし、問題はない。「本当に、美咲ちゃんのおかげね。こんな素敵なパーティーに来れるなんて」芳也の母が満足そうに微笑みながら言う。私はそんな彼女に優雅に微笑み返した。彼女は沙織のことを嫌っていた。沙織が芳也の婚約者だった頃から、孤児のような身の上の彼女を決して認めようとはしなかった。(まあ、私からすれば、芳也のために尽くしてくれた分、少しは感謝してもいいのかもしれないけど)そんなことを考えながら、ふと視線を上げた瞬間——思わず動きを止めた。——沙織!?目の前に広がる景色の中で、周囲の男性たちがなにやらそわそわと落ち着かない様子を見せている。その視線の先にいたのは——まぎれもなく、沙織だった。(なぜ……?)確かに彼女はコードシステムで働いている。だから、ここにいてもおかしくはない。だが、このパーティーは上層部や選ばれた人間だけが招待される特別な場。それに、彼女はすでに担当から外したはず……!なのに、沙織は何の違和感もなく、にこやかに隣の女部長と談笑していた。優雅な微笑みを浮かべ、まるでこの場が当然のように振る舞っている。私がじっと彼女を見つめていることに、最初に気づいたのは芳也の母だった。「ねえ、芳也! どうしてあの女がこんなところにいるのよ!!」彼女は突然、怒りをあらわにしながら、芳也に詰め寄る。「は?」芳也は、母親の剣幕に一瞬きょとんとしながら、指さされた方向を見た。「沙織……?」最後の言葉が疑問形になったのは、私にも理解できた。今夜の沙織は、まるで別人のようだった。彼女が纏っているのは、今年の新作のハイブランドのドレス。気品あふれるその装いは、どこから見ても洗練され、特別に仕立てられたものに違いなかった。そして——彼女の姿に、この場の誰もが視線を奪われていた。その瞬間、沙織の視線がこちらに向いた。ほん
Last Updated: 2026-02-24
Chapter: STORY 55実家の重厚な扉を開けると、幼い頃から見慣れた広いエントランスが目に入る。大理石の床に反射する柔らかな照明、整然と並べられた美術品、そしてふわりと漂う上品な香りがした。先日戻って以来だが、今日はいろいろ話したくて実家に戻っていた。「沙織、おかえり」ダイニングルームの奥、長いテーブルの向こうで、父がワイングラスを片手に微笑んでいた。テーブルにはすでに母が用意した豪華な料理が並び、まるで「おかえりなさい」と迎えられているような気持ちになる。「久しぶりに食事でもどうだ?」「ありがとう」父と向かい合って座ると、すぐにワインが注がれた。クリスタルのグラスの中で深いルビー色の液体が揺れる。久しぶりに飲む実家のワインは、どこか懐かしく、胸の奥が少し温かくなる。ワインを一口飲み干したタイミングで、父がゆっくりと口を開いた。「それで、どうだ?」「……何が?」実家の重厚な扉を開けると、幼い頃から見慣れた広いエントランスが目に入る。大理石の床に反射する柔らかな照明、整然と並べられた美術品、そしてふわりと漂う上品な香りがした。先日戻って以来だが、今日はいろいろ話したくて実家に戻っていた。「沙織、おかえり」ダイニングルームの奥、長いテーブルの向こうで、父がワイングラスを片手に微笑んでいた。テーブルにはすでに母が用意した豪華な料理が並び、まるで「おかえりなさい」と迎えられているような気持ちになる。「久しぶりに食事でもどうだ?」「ありがとう」父と向かい合って座ると、すぐにワインが注がれた。クリスタルのグラスの中で深いルビー色の液体が揺れる。久しぶりに飲む実家のワインは、どこか懐かしく、胸の奥が少し温かくなる。ワインを一口飲み干したタイミングで、父がゆっくりと口を開いた。「それで、どうだ?」「……何が?」「それなのに、あいつが——お前の気持ちが一番大切だとかなんとか、わかったことを言うから、私だって手を下さなかっただけだ」「え?」その意味が分からず問いかけると、父はワイングラスを置き、私をまっすぐに見据えた。「一度でも、お前が愛した男のことだから、お前の気持ちを優先したい。沙織がきちんと気持ちにケリをつけるまで待ちたいと——」陸翔兄さま……。やろうと思えば、父も陸翔兄さまも、芳也などすぐにこの業界から消し去ることは簡単なはずだ。それをしなかったの
Last Updated: 2026-02-20
Chapter: STORY 54――閑話 芳也「今日はありがとうございました。とても有意義な時間でした」俺は小さく会釈をして、二人に視線を向ける。本当に有意義だったよ。心の中でそう小さく笑う。「秋元さんはどうされるの?」美咲が頬を染め、暗にこれからの展開を期待するような視線を送ってくる。その様子に、胸の奥で嫌悪感がじわりと広がるのを感じながら、表情をゆがめないように気をつける。「まだ社に戻って仕事があるんです」わざと申し訳なさそうな口調で言うと、美咲の瞳がわずかに残念そうに揺れた。だが、すぐにふわりと微笑み、俺にそっと近づいてくる。甘ったるい香水の匂いが鼻をくすぐる。そして、俺の手に何かをそっと押し込む。「お待ちしてますね」ささやくような声とともに、美咲の指先が一瞬、俺の手を撫でるように触れる。見なくても分かる。小さな紙片には、名前と番号が書かれているのだろう。俺は手の中のそれを握りしめないようにだけ気をつけながら、表情を崩さず笑みを貼り付けたままにする。「それでは、お気をつけて」そう言って見送ると、小林と美咲はタクシーに乗り込み、街の灯りの中に消えていった。これから沙織の元夫、佐橋が合流するのか、それとも二人でどこかホテルに消えるのか――そんなことは、どうでもいい。佐橋が佐橋なら、あの女もあの女だ。(まったく、救いようがないな)胸の奥に込み上げる虫唾が走りそうな嫌悪感を、深く息をつくことで押し込める。――その直後。ゆるやかに黒塗りの高級車が俺の前に滑り込んでくる。無駄のない動きで運転手が降り、後部座席の扉を開けた。俺は何も言わずに乗り込み、ドアが閉まると同時にネクタイを緩め、眼鏡を外す。(……連絡先、か)シートに深くもたれ、ゆっくりと髪を指で崩しながら、車窓の向こうに流れる夜景を見つめた。(まったく、救いようがないな)胸の奥に渦巻く嫌悪感を、静かに押し込める。やがて車はレジデンスのエントランスの前で停まる。運転手が再び扉を開き、俺はゆっくりと降りた。玄関をくぐり、上着を脱ぎながら書斎へ向かう。沙織はもう眠っているだろうか。今日は食事をきちんと取っただろうか。ようやく俺に彼女が頼ってくれた。もちろん、何も言われなくても沙織の敵はすべて排除したいと思っている。しかし、相手は沙織の愛した男。そのことが俺に少しだけ躊躇をさせていたこと
Last Updated: 2026-02-16