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第二十六夜

Author: mako
last update Last Updated: 2025-03-12 09:14:50
ーー美優

眠れなかった。

パーティーの余韻がまだ体に残っていて、ベッドに横になっても意識が冴えてしまう。

陽介さんの言葉が、ずっと胸の奥でこだましている。

「俺が……お前を守る」

あの言葉に嘘はなかった。

けれど、それは契約上の責任としてなのか、それとも――。

自分の中に芽生え始めた感情に、どうしても整理がつかなくて、私はベッドから抜け出した。

静まり返った廊下を、そっと歩く。

夜の空気がひんやりと肌を撫でるなか、リビングの方から淡い光が漏れているのが見えた。

(まだ起きてる……?)

静かに覗くと、陽介さんがソファに深く座り、ワイングラスを片手に、何かをじっと見つめていた。

「眠れないのか?」

不意に私をみて陽介さんが、静かに問いかける。

「はい……」

素直にそう答えると、陽介さんは何も言わずに立ち上がり、ワイングラスをもう一つ用意してくれた。

「飲めるか?」

「……少しだけなら」

ワイングラスを受け取ると、赤ワインのかすかな香りが鼻をくすぐる。

グラスの中でゆっくりと揺れる深紅の液体を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

しばらくの沈黙。

夜の静寂が、二人の間に漂う。

口を開くべきか迷いながらも、私はゆっくりと切り出した。

「三条のこと……黙っていてごめんなさい」

陽介さんの手が一瞬だけ止まる。

「いや……あの男との縁談のことを聞いて、色々と納得した」

そう言いながら、彼は静かにグラスを傾ける。

「それにしても、お前の語学力とパーティーでの振る舞い。掃除婦とは思えないほどだった。素性を聞いてもいいのか?」

言葉の端々に探るような気配を感じた。

私は小さく笑いながら、ワインを一口含む。

「そんなに特別なことではありません。私はただ、昔そういう環境にいた……それだけです」

「環境?」

「……母が華族の家系で、父は京華堂の社長でした。だから、小さい頃から社交の場に出る機会が多くて。おかげで、礼儀作法も語学も、叩き込まれました」

陽介さんは声を発することはなかったが、かなり驚いた表情をした。

そんな彼から視線を逸らすと、私は続けた。

「でも、父は私のことを"商売の道具"としか見ていなかった。私が大学院へ進学しようとすると、いい縁談の話ばかり持ってきて……。三条との縁談もそのひとつでした」

「それで、家を出たのか?」

「はい。でも、家を出たからといって、すぐに自立で
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Comments (2)
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川端良子
久々に、男が駄目男じゃない。話なので楽しみにしてるのよ。次の更新待ってるよわ
goodnovel comment avatar
菅野ひろ子
いつづきでるの?早くみたいのです。消化ふりょう。
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