ログイン届かない思いを封印して、優しい恋に逃げた過去。 その報いが今、来たのだろうか。 支え続けた夫の成功とともに、すれ違い、夫の愛人と義母に嵌められていく沙織の未来は…? 淡い恋と、儚い復讐…。そして…
もっと見るどうしてこんなことになったのだろう。
自分の本当の気持ちから逃げたからだろうか。
それでも、付き合い、結婚をしていたこの数年、私は彼を愛していたし、大切にしていた。
でも……。
「離婚して」
その言葉を自分から言う日が来るなんて。
地位や名誉を手に入れると同時に、優しさを失うのは仕方がないのだろうか。
そんな私の言葉を、隣にいる女性が心の中で喜んでいたとしても、私はもうどうでもいい。
私は幸せになる権利などないのだから。
忘れたいのに、心に居続けるあなたを思う私の罰なのだから……。
◇ ◇ ◇
「食事は?」
「いらない。食べてきた」
ちらりと壁に掛けられた高級なアンティーク時計に視線を向けると、針はすでに23時を回っていた。
広々としたリビングは、落ち着いた間接照明に照らされ、天井の高い大きな一軒家ならではの静けさが漂っている。フローリングの床には毛足の長い高級なカーペットが敷かれ、ソファは柔らかそうなレザー張りで、上質さを感じさせる。
「会食だったの?」
私は、部屋着のまま尋ねる。夫は、つい先ほど帰宅したばかりで、スーツ姿のままネクタイも外さず、少し疲れた様子だ。
彼は最近IT企業を立ち上げ、軌道に乗り始めたところで、会食の機会が非常に多い。私は視線をそらしつつ問いかけた。
「ああ」
リビングの奥には豪華なダイニングテーブルがあり、私たちはいつもそこに並んで食事をしていた。だが、最近は夫から夕食がいるかどうかの連絡すら来なくなってしまった。
作っていた食事を冷蔵庫にしまうために、キッチンへと向かう。
どれくらい経っただろうか。このすれ違いが始まってから。
「今日の仕事はうまくいった?」
少しでもこの関係を修復したくて、明るい声で私は尋ねた。
「お前なんかに話をして、わかるのか?」
しかし、夫はバカにしたように鼻で笑い、冷たい声音で返してくる。その一言が胸に刺さり、私は無意識にキュッと唇を噛みしめた。
結婚してわずか一年半で、こうも夫婦の関係が変わってしまうものなのだろうか。
私、神田沙織と、夫である佐橋芳也は大学の時から付き合い、卒業後一年で結婚をした。
だから、今私は佐橋沙織になっている。
派手な二人ではなかった私たち。穏やかで、ひだまりのようなお付き合いをしていたはずだった。
しかし芳也の成功が続くにつれて、彼の態度が少しずつ変わってきた。お金とステータスを手に入れることで、彼は変わっていってしまったのだと思う。
四年前――
大学のキャンパスは新緑がまぶしく、私は今日も芳也を待っていた。服装はいつもシンプルで、無駄な装飾は一切なし。肩にかかる黒髪も、特に手入れはしていないが、芳也はそれがいいと言ってくれていた。
『ごめん、待たせた?』
笑顔で走って来る芳也。身長175センチで爽やかな彼は、大学では外見が目立つ存在だが、性格はシャイで、とてもかわいい。
そのことに気づいて、芳也から告白をされ、私は徐々に彼に心を開いていった。
「ううん、大丈夫だよ。それより、昨日バイトで来られなかった講義のノート」
奨学金を使って通っている芳也は、生活費も全部自分で稼いでいるため、どうしてもバイトを優先する日がある。
「沙織、本当に頼りになるよ。お前がいなかったら、俺、とっくに大学辞めてる」
「でしょ? 持つべきものは、かわいい彼女?」
少しふざけて言った私を、芳也はギュッと抱きしめた。
「ねえ、ここ外、外!!」
「じゃあ、早く家に帰ろう」
そう言いながら、小さな1Rのアパートへと急ぐ。玄関から見渡せる全ての空間は、決して広くはない。窓際には小さな観葉植物が並び、それもまた二人で一緒に育てている大切なものだった。
「これ、ちょっと塩が多かったかも」
私は夕食を準備しながら、キッチンとテーブルの間を忙しく行き来する。芳也はそんな私を笑顔で見守りながら、勉強をしていた。
「沙織の料理はいつもうまいし、大丈夫だよ」と笑ってくれる。
彼が起業したいという夢を叶えるために、あの頃の私はできる限りのサポートをしてきた。
「これうまい。本当に沙織は料理もできるし、最高の奥さんになるよ」
遅くまで勉強をする芳也の背中を見つめながら、小さなシングルベッドで目を閉じる。そんな日々が幸せだった。
燃えるような恋かと聞かれたら、それは違ったが、いつか家族愛になり、生きていける。そう思っていた。
そんな昔をつい思い出してしまっていた私は、小さく息を吐いた。
「……こんな場所あったんだ」このホテルはたまに家族で食事などで使用することもあったが、隠しフロアのような場所に、静かに上昇するエレベーターの中、私はぽつりと呟いた。豪華なインテリア、ふかふかのソファ、煌めくシャンデリア、そして、窓の外には都会の夜景が広がっている。こんな場所に、二人きり。ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも鼓動がうるさいのだろう。「ここで食事でもしろってことですか?」 なんとなく気を紛らわせたくて、冗談めかしてそう言った。「陸翔兄さまには、たくさん迷惑をかけたから……」そこまで言ったところで、ふいに—— 体が温かさに包まれる。——陸翔兄さまに、抱きしめられて……る?「……陸翔兄さま?」驚いて声を出そうとしたが、それがちゃんと音になったかどうかもわからない。ドレスのせいで露出していた肩に、彼の温もりがダイレクトに伝わる。彼の体温がじかに感じられて、思考が追いつかなくなる。「沙織」 「……はい」「すべてが片付いたら言いたいことがあった」 そこまで言うと、陸翔兄さまは言葉を止めた。この状況で何を言われるか想像もつかず、心臓がバクバクと音を立てる。「ずっと沙織が好きだ。兄としてじゃなく」 え_?耳に届いたはずなのに、全く意味が理解できなくてただ動けない。「沙織が俺のことを兄としてしか思えないこともわかっていて、こんなことを言うのもルール違反だと思ってる。でも、もう、後悔をしたくない全力でこれから俺は沙織を口説くから」——陸翔兄さまが、私を?彼の腕の中で固まったまま、パニック寸前の私は、何と答えていいのかわからなかった。「沙織から電話をもらった日、あの時の傷ついた沙織を見て、俺はどれだけ後悔したか。あの時、沙織の幸せだと信じて、身を引いた自分をどれだけ呪ったか」「……でも、でも、陸翔兄さまは明日香さんが……」「明日香?」「明日香さんと恋人だったでしょう?」私がそう言うと、陸翔兄さまは少し考え込んだような表情を浮かべた。「明日香とは、そういう関係だったことはない」「でも結婚を……」「俺はずっと沙織が好きだった。沙織が早くに結婚をして、少しやけになった。明日香からのビジネス婚の頼みを断らずに受けてしまった」陸翔兄さまの言葉に、息が詰まる。私があきらめてしまったあの日。彼の気持ちを知ろうともせ
「沙織が……神田グループの令嬢……?」芳也、美咲さん、そして芳也の母親——三人の顔から血の気が引いていく。現実を受け入れられないのか、虚ろな目で立ち尽くし、やがて廃人のようにその場へと崩れ落ちた。「そんな、そんなはずない……!」美咲さんが呆然と呟くが、もはや誰も耳を貸す者はいない。その時——「俺は神田社長の命令で、彼女を保護したに過ぎない」陸翔兄さまの低く響く声が、会場の静寂を切り裂いた。「それを不倫だなどと騒ぎ立て、彼女を侮辱したこと——許されると思うな!!」鋭い怒声が響き渡る。誰もが息を呑み、誰一人としてその言葉を否定できる者はいなかった。「……連れていけ」静かに告げられた陸翔兄さまの言葉とともに、会場に控えていた警備が動き出す。青ざめた三人は、もはや抵抗する力もなく、そのまま引きずられるように会場を後にした。そして——「皆様、お騒がせして申し訳ありません」壇上に戻った父が、会場全体へと向けて穏やかに言葉を投げかける。「余興はこれまでにして——さあ、パーティーをお楽しみください」父の堂々たる宣言とともに、会場には再び穏やかなざわめきが戻った。「今日は本当にありがとうございました。そして、お騒がせしたことをお詫びします」父の落ち着いた声が、広い会場に静かに響いた。私は壇上に立つ父を見つめながら、ようやく——本当にすべてが終わったのだと、心の底から実感した。「これからの神田グループをよろしくお願いします。今後、娘の沙織が継ぐのか、ここにいる秋元が継ぐのか、それはまだ分かりません。しかし——」父はゆっくりと私と陸翔兄さまに視線を向ける。「いずれにせよ、我がグループは今後もさらなる発展に向けて精進してまいります」力強い言葉で締めくくると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。——しかし、父は再び口を開く。「ただ……父としての発言をお許しください」前置きをしてから、父は私と陸翔兄さまに視線を向けた。「娘を全力で守ってくれた秋元、そして、私の娘がともにこの会社を支えてくれる——そんな未来を、今回の出来事を通して思い描きました。これは父としての勝手な願望ですが」その言葉に、私は驚いて目を見開いた。しかし、次の瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。慌てて私は頭を下げる。隣に立つ陸翔兄さまの表情をそっと横目でうかが
「あなたには、沙織嬢への暴行容疑で送検させていただきます」「な、なにを……?」芳也が唖然とした顔で固まる。「あなたがしたことは、すべて警察へと報告しています」陸翔兄さまは容赦なく続ける。「元妻へのストーカー容疑、そして暴行未遂——」「そんな、そんなこと……!」芳也はしどろもどろになりながら、必死に言い訳しようとするが、その場にいる誰もが彼を軽蔑の目で見つめていた。「そして、美咲さん」陸翔兄さまの冷たい声が、美咲さんを射抜く。怯えながら後ずさる彼女を、兄さまは容赦のない視線で見下ろした。「あなたにも沙織嬢の名誉毀損にあたる嘘偽りを会社で流した罪を償ってもらいます」「ち、違う! それは——あの女が私にそそのかしたのよ!」突然、美咲さんが震える手で誰かを指さした。私たちの視線が、その先の人物へと向けられる。——そこにいたのは、一人の蒼白な女性。彼女は自分が指名されたことを理解した瞬間、唇を震わせ、恐怖に駆られたように会場の出口へと駆け出した。しかし——「彼女も捕まえろ」陸翔兄さまの静かな指示が飛ぶと、会場の警備がすぐに動く。逃げようとする彼女は、出口の手前であっさりと取り押さえられた。——後にわかったことだが、彼女は真紀という女性で、陸翔兄さまのストーカーだったらしい。「なんで……どうして……。こんな、こんな底辺の女が!!」美咲さんの顔が悔しさと憎しみで歪み、鬼のような形相で私を睨みつける。「黙れ!!!」壇上から響いたのは、父の怒声だった。これまで冷静に見守っていた父も、とうとう我慢ならなくなったのだろう。——でも、最後にこの幕を引くのは、私の役目だ。私は静かに一歩前へ進み、芳也たちをまっすぐに見据えた。「芳也さん——」会場の空気が張り詰める中、私はゆっくりと口を開いた。「あなたと結婚したことを後悔はしません」芳也がハッと顔を上げ、私を見つめる。「でも——あなたをこんな風にしてしまったのは、私の責任かもしれない。ごめんなさい」静かに、それでもはっきりとそう告げる。コツ、コツとヒールの音が響く中、私は芳也の真正面に立った。「あなたの会社を大きくしたかった。それは本当よ」「……!」芳也の顔が、言葉にならない感情で歪む。「でも、それが過ちだった」はっきりとそう言うと、私は次に芳也の母親へと視線を移
「お前、沙織とグルだったのか? なんだ、ホストじゃなくスパイだったのか?」低俗な発想に、私は思わず口元を押さえ、クスっと笑ってしまった。(どこまでくだらない考え方ができるのか……)「笑うな」そんな私を、少したしなめるように陸翔兄さまが小さく呟く。その直後、壇上の父が静かに口を開いた。「秋元副社長、今回の件の説明を」父の厳かな声が会場に響き渡る。その言葉に、陸翔兄さまは静かに会釈し、堂々と壇上へと向かった。「改めまして、今回の全権を指揮しております、神田グループ副社長の秋元陸翔です」圧倒的な存在感を放ちながら、陸翔兄さまが話し始めると、先ほどまで傲慢に振る舞っていた芳也の体が強張り、なんとか立ってはいるものの、膝がわずかに震えているのが見て取れた。その隣で、美咲さんと芳也の母親もまた、明らかに怯えた様子で体を強張らせている。「今回の件で、サクシードソリューションの佐橋社長は、コードシステム前社長・小林に賄賂を渡し、仕事を得ようとしていたことが明らかになりました。そして、小林には会社の横領の容疑もかかっており、その件については、弊社としても厳粛に対応してまいります。申し訳ありません」陸翔兄さまが頭を下げると同時に、会場がどよめく。そのあと、陸翔兄さまは、淡々と、芳也の会社がどれだけずさんな経営をしていたのか、仕事に穴だらけであったこと、問題が山積みだったことを指摘していく。そして、それが小林社長と結託していたことも伝えた。「そんな、そんなことあるわけがない……! 俺の会社はずっと順調で、俺の力でここまでやってきたんだ!」必死な叫びが会場に響く。芳也の顔は赤く染まり、悔しさと怒りが入り混じったように、壇上の陸翔兄さまを睨みつけていた。しかし——「黙れ!」低く、鋭い怒声が空気を切り裂いた。その瞬間、会場が張り詰めた静寂に包まれる。「お前の会社があるのは、すべて彼女がいたからだろう」陸翔兄さまは、淡々とした口調でそう言い放つと、ゆっくりと私の方へと視線を向けた。その言葉の意味を理解できず、芳也は愕然とした表情のまま立ち尽くす。「は? 沙織が? どうしてこの女が関係するのよ!」先に声を荒げたのは、芳也の母親だった。半ば錯乱したように声を張り上げる彼女の顔には、怒りと混乱が滲んでいた。「この女といえば、主婦のくせにまとも
あのバカな男に組み敷かれている沙織を見たとき、頭に血が上りすぎて、初めて“殺意”というものを覚えたかもしれない。あれほど沙織を苦しめておいて、どうしてまだ自分のそばにいると思えるのか。どんな思考回路をしていれば、あんなにも傲慢な態度を取れるのか――理解できなかった。すぐにでも、あいつの触れた痕跡をすべて消し去りたかった。いや、抱きしめて“上書き”してしまいたい。そんな衝動が沸き上がるたびに、自分自身を抑えるのに必死だった。もし俺がそこで欲望に流されれば、結局は芳也と同じ、低俗な存在に成り下がるだけだ。沙織は離婚したばかり。そんな彼女に、他の男と親しくしているなどと噂が立てば、それ
冷蔵庫を開けて、中に入っている食材を確認すると、陸翔兄さまが気を遣ってくれたおかげで、新鮮な野菜や肉、乳製品までしっかり揃っていた。私は結婚していたころ、朝は味噌汁と焼き魚、夜は煮物や炒め物など、どこにでもあるような家庭料理ばかりを作ってきた。「陸翔兄さまほどの人なら、フレンチとかイタリアンとか、もっと豪華なものを食べているんじゃないかな……」そんなことを思って、一瞬悩んだが、今日一日なにも食べていなかった彼の胃に、いきなり重たい料理は負担になるかもしれない。それに、自信があるのは、やっぱり普通の家庭料理だけだ。「よし、今日は和食にしよう」そう決めて、じゃがいもと玉ねぎ、人参、そ
「間に合ってよかった」「どうしてここに?」ようやく少し落ち着きを取り戻した私は、我に返り、意識して少し距離を取ってから尋ねた。「元々ここに向かっていたんだ。社長から、今すぐに新しい住まいに引っ越させろって言われてて」父なら、いかにも言いそうなことだ。急にそんな命令を出されても困るだろうに、今はただ感謝の気持ちしか湧いてこない。「そうだったんですね……ごめんなさい」私にとっては助け舟だったけれど、陸翔兄さまにとっては迷惑な指示だったかもしれない。「とりあえず、今日はゆっくり休んだ方がいい。ただ、こんなことがあった以上、俺としても君にここに残ってほしくはない。引っ越しの手配はする
じゃがいもと玉ねぎの皮をむき、適当な大きさに切っていく。豚肉をさっと湯通しして余分な脂を落とし、だし汁で煮始めると、ふわりと優しい香りがキッチンに広がった。芳也との結婚生活の終わりの頃、作った料理は冷めたまま放置され、ラップも開けられず、そのまま捨てられることもしばしばだった。それでも毎日、無言で食卓に並べていた。そんな日々の記憶が一瞬よぎるが、私はそれを振り払うように、手を止めずに動かし続ける。そっと視線を向けると、陸翔兄さまはパソコンに向かい、真剣な表情で作業をしていた。時折、眉間にしわを寄せながらキーボードを叩く姿は、昔から変わらない。ふと、その視線がこちらへ向けられる。視