The Last Smile

The Last Smile

last updateLast Updated : 2026-01-10
By:  makoUpdated just now
Language: Japanese
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届かない思いを封印して、優しい恋に逃げた過去。 その報いが今、来たのだろうか。 支え続けた夫の成功とともに、すれ違い、夫の愛人と義母に嵌められていく沙織の未来は…? 淡い恋と、儚い復讐…。そして…

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Chapter 1

STORY 1

どうしてこんなことになったのだろう。

自分の本当の気持ちから逃げたからだろうか。

それでも、付き合い、結婚をしていたこの数年、私は彼を愛していたし、大切にしていた。

でも……。

「離婚して」

その言葉を自分から言う日が来るなんて。

地位や名誉を手に入れると同時に、優しさを失うのは仕方がないのだろうか。

そんな私の言葉を、隣にいる女性が心の中で喜んでいたとしても、私はもうどうでもいい。

私は幸せになる権利などないのだから。

忘れたいのに、心に居続けるあなたを思う私の罰なのだから……。

◇ ◇ ◇

「食事は?」

「いらない。食べてきた」

ちらりと壁に掛けられた高級なアンティーク時計に視線を向けると、針はすでに23時を回っていた。

広々としたリビングは、落ち着いた間接照明に照らされ、天井の高い大きな一軒家ならではの静けさが漂っている。フローリングの床には毛足の長い高級なカーペットが敷かれ、ソファは柔らかそうなレザー張りで、上質さを感じさせる。

「会食だったの?」

私は、部屋着のまま尋ねる。夫は、つい先ほど帰宅したばかりで、スーツ姿のままネクタイも外さず、少し疲れた様子だ。

彼は最近IT企業を立ち上げ、軌道に乗り始めたところで、会食の機会が非常に多い。私は視線をそらしつつ問いかけた。

「ああ」

リビングの奥には豪華なダイニングテーブルがあり、私たちはいつもそこに並んで食事をしていた。だが、最近は夫から夕食がいるかどうかの連絡すら来なくなってしまった。

作っていた食事を冷蔵庫にしまうために、キッチンへと向かう。

どれくらい経っただろうか。このすれ違いが始まってから。

「今日の仕事はうまくいった?」

少しでもこの関係を修復したくて、明るい声で私は尋ねた。

「お前なんかに話をして、わかるのか?」

しかし、夫はバカにしたように鼻で笑い、冷たい声音で返してくる。その一言が胸に刺さり、私は無意識にキュッと唇を噛みしめた。

結婚してわずか一年半で、こうも夫婦の関係が変わってしまうものなのだろうか。

私、神田沙織と、夫である佐橋芳也は大学の時から付き合い、卒業後一年で結婚をした。

だから、今私は佐橋沙織になっている。

派手な二人ではなかった私たち。穏やかで、ひだまりのようなお付き合いをしていたはずだった。

しかし芳也の成功が続くにつれて、彼の態度が少しずつ変わってきた。お金とステータスを手に入れることで、彼は変わっていってしまったのだと思う。

四年前――

大学のキャンパスは新緑がまぶしく、私は今日も芳也を待っていた。服装はいつもシンプルで、無駄な装飾は一切なし。肩にかかる黒髪も、特に手入れはしていないが、芳也はそれがいいと言ってくれていた。

『ごめん、待たせた?』

笑顔で走って来る芳也。身長175センチで爽やかな彼は、大学では外見が目立つ存在だが、性格はシャイで、とてもかわいい。

そのことに気づいて、芳也から告白をされ、私は徐々に彼に心を開いていった。

「ううん、大丈夫だよ。それより、昨日バイトで来られなかった講義のノート」

奨学金を使って通っている芳也は、生活費も全部自分で稼いでいるため、どうしてもバイトを優先する日がある。

「沙織、本当に頼りになるよ。お前がいなかったら、俺、とっくに大学辞めてる」

「でしょ? 持つべきものは、かわいい彼女?」

少しふざけて言った私を、芳也はギュッと抱きしめた。

「ねえ、ここ外、外!!」

「じゃあ、早く家に帰ろう」

そう言いながら、小さな1Rのアパートへと急ぐ。玄関から見渡せる全ての空間は、決して広くはない。窓際には小さな観葉植物が並び、それもまた二人で一緒に育てている大切なものだった。

「これ、ちょっと塩が多かったかも」

私は夕食を準備しながら、キッチンとテーブルの間を忙しく行き来する。芳也はそんな私を笑顔で見守りながら、勉強をしていた。

「沙織の料理はいつもうまいし、大丈夫だよ」と笑ってくれる。

彼が起業したいという夢を叶えるために、あの頃の私はできる限りのサポートをしてきた。

「これうまい。本当に沙織は料理もできるし、最高の奥さんになるよ」

遅くまで勉強をする芳也の背中を見つめながら、小さなシングルベッドで目を閉じる。そんな日々が幸せだった。

燃えるような恋かと聞かれたら、それは違ったが、いつか家族愛になり、生きていける。そう思っていた。

そんな昔をつい思い出してしまっていた私は、小さく息を吐いた。

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STORY 1
どうしてこんなことになったのだろう。自分の本当の気持ちから逃げたからだろうか。それでも、付き合い、結婚をしていたこの数年、私は彼を愛していたし、大切にしていた。でも……。「離婚して」その言葉を自分から言う日が来るなんて。地位や名誉を手に入れると同時に、優しさを失うのは仕方がないのだろうか。そんな私の言葉を、隣にいる女性が心の中で喜んでいたとしても、私はもうどうでもいい。私は幸せになる権利などないのだから。忘れたいのに、心に居続けるあなたを思う私の罰なのだから……。◇ ◇ ◇「食事は?」「いらない。食べてきた」ちらりと壁に掛けられた高級なアンティーク時計に視線を向けると、針はすでに23時を回っていた。広々としたリビングは、落ち着いた間接照明に照らされ、天井の高い大きな一軒家ならではの静けさが漂っている。フローリングの床には毛足の長い高級なカーペットが敷かれ、ソファは柔らかそうなレザー張りで、上質さを感じさせる。「会食だったの?」私は、部屋着のまま尋ねる。夫は、つい先ほど帰宅したばかりで、スーツ姿のままネクタイも外さず、少し疲れた様子だ。彼は最近IT企業を立ち上げ、軌道に乗り始めたところで、会食の機会が非常に多い。私は視線をそらしつつ問いかけた。「ああ」リビングの奥には豪華なダイニングテーブルがあり、私たちはいつもそこに並んで食事をしていた。だが、最近は夫から夕食がいるかどうかの連絡すら来なくなってしまった。作っていた食事を冷蔵庫にしまうために、キッチンへと向かう。どれくらい経っただろうか。このすれ違いが始まってから。「今日の仕事はうまくいった?」少しでもこの関係を修復したくて、明るい声で私は尋ねた。「お前なんかに話をして、わかるのか?」しかし、夫はバカにしたように鼻で笑い、冷たい声音で返してくる。その一言が胸に刺さり、私は無意識にキュッと唇を噛みしめた。結婚してわずか一年半で、こうも夫婦の関係が変わってしまうものなのだろうか。私、神田沙織と、夫である佐橋芳也は大学の時から付き合い、卒業後一年で結婚をした。だから、今私は佐橋沙織になっている。派手な二人ではなかった私たち。穏やかで、ひだまりのようなお付き合いをしていたはずだった。しかし芳也の成功が続くにつれて、彼の態度が少しずつ変わってきた。お金とステータスを
last updateLast Updated : 2026-01-06
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STORY 2
「食事作らなくていいって言っただろ? これ見よがしにため息ついて、俺に対する嫌味か?」「そんなわけないでしょ? 私はただ、自分のすべきことを」「別に頼んでない」それだけを言って、リビングを出て行く芳也に、私はキュッと自分の胸元を握りしめた。外に出ていく彼の足音がだんだん遠ざかり、家の中は再び静寂に包まれた。どうして?お金があることは、こんなにも人を変えてしまうの?彼が出て行ったリビングに、仄かに香る甘い香り。これに気づいたのは、いつからだっただろうか。翌週の週末、私はいつも通り掃除機をかけていると、リビングのドアが開いた。ようやくお目覚めか。そんな思いでちらっと時計を見ると、もう少しで11時になろうとしていた。「今日、母さんが来るから、昼食用意して」まだ眠気が残る表情の芳也が、挨拶もすることなく放った第一声に、苛立ちを感じる。彼の顔には昨夜のアルコールが残っていて、かなり飲んだのだろう。私は掃除機の音を止め、思わず「また?」と声が漏れた。最近、芳也は仕事で家を空けることが多いうえに、帰りも遅い。そして、たまに昼間に顔を出すかと思えば、決まって義母を呼ぶことが増えていた。「何だよ、その言い方」芳也は少し苛立った声で言い返してきたが、私はそのまま掃除機のコードを片付けながら、ため息をついた。「だって、毎回急に言うじゃない。準備だってあるし、せめて前もって教えてほしいって言ったよね」私はそう言いながら、彼の顔を見た。しかし、芳也は軽く肩をすくめて、ソファに倒れ込んだ。「別にいつも大したもの作ってないだろう。簡単なやつでいいよ。母さんだって、そんなの気にしてないからさ」「簡単なやつって言っても……」私の言葉など聞く気はないようで、芳也は無造作にリモコンを手に取ると、テレビをつけた。「とにかく、母さんが来るのは決まってるから。昼には間に合わせてくれよ」昼までと言っても、もう一時間もない。今頃起きてきて、なにを言っているのだ。そう思った私だったが、芳也は私の顔を見ることなく、ただテレビを見ていた。私は家政婦じゃない――。そう思いつつも、台所へと歩き、冷蔵庫を開けた。中には、昨夜の残り物と、ほんの少しの野菜しか入っていない。これで義母のために昼食を用意しなければならない。どうして毎回こうなんだろう、と思いながらも、
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STORY 3
食事が終わったと思ったら、芳也はお義母さんを伴って、買い物に行くと言い残し、家を出て行った。食べ散らかされたテーブルを片づけた後、私はようやく一息ついて、ソファに身を沈める。その時、着信を知らせる音が聞こえ、ディスプレイに視線を向けると、実家の母の名前が表示されていて、思わず笑みがこぼれた。「じゃあ、またね」実家の母の優しい声を聞き終え、通話ボタンを静かに押した後、堪えていた涙が一筋、頬を伝った。幸せだと疑っていない両親には、うまくいっていないことを話せずにいる。私は、かなり裕福な家に生まれ、愛情も何もかも十分に与えてもらってきた。それなのに――勝手に家を出たのは私。芳也が母子家庭で、私のことも同じような境遇だと思い込んでいたこともあり、なかなか言えなかった。両親には「少しの間、私のお金をあてにしない人になるまでは、見守ってほしい」と頼んでいた。それが、こんなことになるなんて……。自分で選んだ過ちは、自分で何とかしなければいけない。私は、広いリビングを見渡す。物質的には恵まれていても、小さな1Rに住んでいた時の方が、ずっと幸せだった。たった数年で、こんなにもお互いの心が離れていくものなのか。そして――私自身、芳也に対する気持ちは、もう残っていない。どうして私は、がんばってきたのだろう。自嘲気味な笑みが、零れ落ちた。◇ ◇ ◇「朝からそんな顔をするな!!」あの日から、芳也の態度はさらに酷くなった気がする。義母のことや、愛人の名前まで知ってしまった以上、笑顔でいることなど難しかった。そんな私に、芳也は暴言を浴びせる。なにも言わない私に、芳也は舌打ちをすると、そのまま会社へと出かけて行った。どうしよう……。これ以上、一緒にいる意味などない。しかし……。一日中、広い家を掃除して、買い物に行き、そしてパソコンを開く。今回、芳也の会社の大きな仕事の相手は、私が役員を務めている会社だ。もちろん、取引相手として芳也の会社がそれに値すると思っている。けれど、どうしても詰めが甘いところや、足りないところは、私がフォローしてきた。これまでも、私はかなりのサポートをしてきた。しかし、そのことに彼が気づくことなどなかった。私が彼の部下と連絡を取っていることも、その部下には口止めをしてあったとはいえ、芳也が知る由もないだろう
last updateLast Updated : 2026-01-06
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STORY 4
「美咲、もう来てるのか?」「あっ、芳也!」私が何かを言う前に、まるで自分が妻だと言わんばかりに、彼女はパタパタと走り寄った。そして、ふたりでリビングにやって来た。「おい、沙織、どういうことだ? こんなに散らかって」「どうって、美咲さんが……」私が反論しようとした瞬間だった。「芳也ごめんなさい。私が少し遅れてしまったせいで、片付けを手伝うのが遅れてしまったの」「なっ!」自分で勝手に来て散らかしておいて、それを言うの?ようやく彼女と義母が何をしたいのか、理解した。「だから沙織さんを責めないで」「美咲……」芳也は完全に美咲さんの言葉を信じているようだった。美咲さんはそう言いながら、まき散らした本を拾い始めた。「美咲がやることないよ。日中遊びまわっていたコイツがやればいいんだ」「遊びまわるってなに?」さすがに聞き捨てならない言葉に、私は芳也を見た。「母さんに聞いたよ。出かけてばかりで、買い物ばかりしているらしいな。お前は変わったな」ああ、そこも繋がっているのか。完全に、ふたりにはめられていることを知った。それでも、今までの私を芳也は知っているはず。時間が経てば目を覚ましてくれる。――そう信じたかったが。「美咲、もういい。夕飯はまだだろう。外に食べに行こう」「それなら、パパが久しぶりに芳也に会いたいって言ってたわ。芳也のお母様も呼べばいいんじゃない?」そんなふたりを見て、泣くことすらバカらしくなり、私はただ立ち尽くしていた。「沙織、俺たちが戻るまでに片付けておけよ」「いやよ」思わず、私は声をあげていた。「え?」今まで盲目的に彼をサポートしてきた私を知っているからだろう。まさかそんな言葉を聞くとは思っていなかったのか、芳也は驚いたように私を見た。「私は悪くない、美咲さんが片付ければいいでしょ」「え? あっ、そうよね。私が頼まれたんだもの。ごめんなさい、沙織さん」絶対にそんなことを思っていないだろう美咲さんが、泣きそうな顔をしながらゴミ箱に手を伸ばす。「沙織! お前……」初めて、芳也は手を振り上げ、私の頬を平手打ちした。手をあげられたことで、私の中で――何かが壊れる音がした。「芳也、よく思い出して。私がどれだけあなたをサポートしてきたと思っているの? 今の地位に一人でなったみたいな顔しないでよ」叩かれた
last updateLast Updated : 2026-01-09
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STORY 5
今まで、かなり自分の中でも無理をしていた。しかし、自分のわがままで家を出て、恋をしたつもりで、結婚までしたのだ。その最後がこうなったからといって、彼に電話をしたことは卑怯なのではないか。「沙織?」電話をしたにもかかわらず、なにも話さない私に、心配そうな彼の声が聞こえた。「陸翔兄さま、お久しぶりです」そんなありきたりな言葉しか出なかったが、なんとか涙声を隠して、努めて明るく言ったつもりだった。秋元陸翔は、父の会社の副社長であり、父がもっとも信頼している人だ。本人も、世界的電気メーカー・秋元グループの次男であり、私も小さいころから家族ぐるみの付き合いだった。小さい頃は、本当に兄だと思っていたこともあり、今でも兄さまと呼んでしまう。「どうした? 何かあったんだろ?」何年も音信不通だった私からの電話だ。彼がそう思うのは、当たり前だった。「いえ、あの」「沙織」言いよどんだ私の耳に、鋭い声が届く。昔から、陸翔兄さまには隠し事などできない。「実は、ちょっと喧嘩をしてしまって……」喧嘩というレベルではないが、私なりに言葉を選んでそう告げると、陸翔兄さまが小さく息を吐いたのがわかった。「今は、なにをしてるんだ?」追い出された。困り果てて、無意識にあなたに電話をしていた。そんなこと言えるわけがない。冷静になれば、スマホがあればタクシーも呼べるし、ホテルに泊まることもできるだろう。「大丈夫です」「答えになってない」何をしている、という問いに「大丈夫」という答えは、確かに間違っている。「沙織」鋭く問われ、私は静かに「外にいます」と答えた。「すぐに行く」陸翔兄さまなら、そう言ってくるのはわかっていた。でも、彼には妻がいるはずだ。私のために動いてもらうのは、よくない。「あの、本当に急にごめんなさい。大丈夫だから」「動くな」言いかけた私の言葉を遮り、それだけを言われて、電話は切られていた。「頼る人……間違えたな……」六歳年上の彼には、ずっと付き合って婚約していた女性がいた。兄と呼ぶのも、私と彼の距離を取るためにした、私自身のけじめでもあった。そう。陸翔兄さまは、私が恋焦がれていた人だ。報われない気持ちから逃げたくて、芳也の明るさに縋った。芳也と一緒にいるうちに、彼のことは忘れたし、もう気持ちはないと思っていた。
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STORY 6
「まさか、あの男、お前に手をあげたのか!」「少しだけ。でも大丈夫。本当にごめんね。少しお金を貸してもらえれば、夫がいない間に荷物を取りに行って、返すから……」少し話して、敬語が抜けた時だった。「いい加減にしろ!」陸翔兄さまの、本気で怒った声に、私は肩をビクッと揺らした。「ごめんなさい。迷惑を……」すぐ、言葉を戻した。ずっと連絡をしていなかったのに、こんな都合のいいことをした私を、怒るに決まっている。そう思った、その時だった。「違う。怒鳴って悪かった。でも、頼むから、そんなに無理をするな。もう、大丈夫だから」その言葉に、私の瞳から、涙が零れ落ちた。「実家に帰るか?」少しの沈黙の後、陸翔兄さまの問いに、私は考え込んだ。実家に帰れば、きっといろいろなことを聞かれるだろう。そして何より、心配をかけてしまうのは容易に想像がつく。もう少し、一人でいろいろと考えたかった。私が小さく首を振ると、陸翔兄さまも「わかった」とだけ答えて、再び運転を再開した。数十分走って到着したのは、「The Celestia Tokyo」。神崎グループのホテル部門が経営するこのホテルは、VIPをもてなすための格式高い場所だ。家を出る前は、よくここで両親と食事をしたことを思い出す。外観はガラス張りのモダンなデザインで、夜のライトアップがラグジュアリーな雰囲気を漂わせていた。「この格好で入れるかな」その雰囲気に、私は思わず言葉を漏らした。すぐにベルボーイがやってきて、私のドアを開けようとしたが、陸翔兄さまが軽く手を上げてそれを制し、先に自分で降りて助手席のドアを開けてくれた。「ありがとうございます」そう言って、彼の差し出した手に触れるのを一瞬ためらったが、ただのエスコートだと自分に言い聞かせ、手を重ねた。車内の温かさに慣れていたせいか、外のひんやりとした空気が頬を撫でた。その時、突然肩に温もりを感じた。陸翔兄さまが着るはずだったのだろう、ブラックのロングコートを羽織らされたのだとわかった。「陸翔兄さま?」「外は寒い。着ておけ」「ありがとう」お礼を言いながら、コートの胸元をキュッと握りしめると、少し甘い香水の香りが漂い、ドキッとしてしまう。こんな時に何を考えているのかと、自分を戒めた。足元のサンダルは隠せなかったものの、コートのおかげで
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STORY 7
リビングの隣には、4人がけの大理石のダイニングテーブルがあり、照明は控えめな間接照明が、落ち着いた光を投げかけている。ダイニングからは、プライベートバルコニーへと続くドア。その向こうにはバルコニーが置かれていて、テーブルと椅子が配置されていた。ここからは、東京湾の美しい夜景が一望できる。「こんな部屋……」思わずそうこぼした私に、陸翔兄さまは、かなり大きなため息をついた。「沙織、お前にふさわしいのは、この部屋だ。自分が誰なのかわかっているか?」そう問われ、私はグッと言葉に詰まる。芳也に虐げられ、義母や美咲さんに罵られ、気づかないうちに、自分でも萎縮してしまっていた。「ありがとうございます」背筋を正してそう言った私に、陸翔兄さまは「それでいい」と穏やかに笑ってくれた。その時、部屋のチャイムが鳴り、私たちは玄関に視線を向けた。入ってきたのは、一人の洗練されたフォーマルなスーツに身を包んだ男性だった。「陸翔様、失礼いたします」「急に呼び出して申し訳なかった」陸翔兄さまの言葉に、支配人は笑顔で「とんでもない」と応えながら、私に視線を向けた。「沙織お嬢様、ご無沙汰しております。お嬢様にお会いできるなら、すぐに参りますよ」私の服装を見ても変わらず、変な顔ひとつせず、柔らかな笑みと言葉をくれるその姿に、私はキュッと胸が締め付けられるような気がした。何度も、私の誕生日パーティーなどで心遣いをしてくれて、丁寧にお祝いの言葉を伝えてくれた人だった。――自分の心を守るために、この世界から逃げ出してしまって、私はどれだけ多くの人に心配をかけたのだろう。「ご無沙汰しております」その気持ちを込めて、私は深くお辞儀をした。すると、すぐ隣で見守っていた陸翔兄さまが、支配人に声をかけた。「彼女の服と必要なものを用意してほしい。しばらく滞在できるように」「かしこまりました」そう言って、支配人は穏やかに頭を下げ、静かに部屋を出て行った。時計を見ると、もう20時を過ぎている。「陸翔兄さま、仕事は大丈夫だった?」そう尋ねながら、私は借りていたコートを脱いで、彼に返す。きっと彼は、早く家に帰らなければならないだろう。ここまでしてもらって、本当に感謝しかない。「俺のことは気にするな。それより、沙織。お前、本当に何も持たずに出てきたのか?」私が返
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STORY 8
そう思っていたが、もうここまで来たら、そんなことを思う必要もないだろう。「お前は悪くない」ソファに座って話していた私の頭を、ぽん、と陸翔兄さまが優しく撫でてくれる。小さい頃も、転んだときや落ち込んだとき、こうしてよく慰めてくれた――その手の温かさに、思わず泣きたくなってしまう。「でも、これからのこともあるし、一度戻らないといけないね。私の物も多少はあるし」芳也の口座から引き落とされるカードなどは、もう必要ない。けれど、銀行口座や、隠してあった自分の名義の通帳やカードは、彼に知られないよう、ちゃんと隠してある。「離婚届にもサインしてもらわないと」そう言ったその時、部屋のチャイムが鳴り、誰かが来たことがわかった。陸翔兄さまが静かに立ち上がり、玄関へ向かう。しばらくして、荷物を手に戻ってきた。その中身を見ると、先ほどの私の服装を見て、急いで手配してくれたのだろう。取り急ぎ必要な着替えが、きちんと揃っていた。「ほら」「ありがとう」「とりあえず寒いだろう。風呂に入って、着替えてこい」「え?」彼がいる前でお風呂に入って着替える?そんなこと、できない――そう思ったが、家族としか思われていない私。彼には奥様がいるわけでもない。ただ二人きりというだけで、そんなことを意識していた自分が恥ずかしくなる。濡れている私のことを、ただ気遣ってくれているだけなのに。「わかった」着替えを手に取ると、私は浴室へ向かった。ーー閑話 芳也ーー「芳也、美味しかったね」「ああ」隣にいるのは、美しく華やかな美咲。結局、美咲の父と俺の母は都合がつかず、ふたりでイタリアンを食べに行った。帰りのタクシーの中で、美咲が楽しそうに笑うのを見て、俺も自然と微笑んでみせる。食事の間は、旅行や買い物の話で盛り上がり、楽しい時間を過ごした。結婚して一年ほどして、会社が軌道に乗り始めた頃――とあるパーティーで美咲と再会した。いつも地味な沙織ばかり見ていた俺は、颯爽とドレスを着て歩く美咲の姿に目を奪われ、「自分の隣にいるべき人は彼女だ」そんなことを思ったのを、今でもはっきりと覚えている。……けれど、先ほどの自分の行動に、少しだけ罪悪感も沸き上がる。そんな時、美咲がふと口を開いた。「沙織さん、どうしてるかしら?」美咲が発した一言で、自分の心の内を見透か
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STORY 9
陸翔兄さまを待たせていることもあり、大きな夜景の見えるジャグジーはお預けにして、私はシャワーだけを浴びて浴室から出た。先ほどホテルスタッフが持ってきてくれた服は、シンプルで着やすそうなワンピース――それでも、上質な生地と丁寧な縫製がすぐにわかる、とても良いものだった。メイク用品はもちろん、化粧水をはじめとするアメニティもすべて揃っていて、私はそのひとつひとつを手に取りながら、ふと鏡の中の自分を見つめた。「疲れた顔してるな……」鏡に映る自分を見て、思わずそんな言葉が零れ落ちた。髪も、肌も、まともに手入れができていない。 その理由はただひとつ―― 私のものを買うと、芳也がいい顔をしなかったから。会社が大きくなり、自分のためには惜しみなくお金を使うようになっても、 私のためには、ほんの少しの化粧水さえ惜しかったのだろう。自分のお金を使えば、「どこからそれが出てきているんだ」と詮索されそうで、私はずっと、与えられた生活費の中でやりくりをしてきた。だから、美容院に行ったのも――思い返せば、もうかなり前だ。「なにしてたんだろ、私……」ぽつりと呟きながら、久しぶりにきちんとメイクをしてみる。 少しはマシに見える気がしたが、髪はだいぶ傷んでいて、下ろす気にはなれなかった。 丁寧に乾かして、一つに結ぶ。静かにリビングの扉を開けると、東京タワーと見事なインテリアが目の前に広がった。そんな空間に当然のように馴染み、パソコンを操りながら電話をかけている陸翔兄さまの姿―― その背中に、私は思わず目を奪われる。「じゃあ頼んだ」そう言って電話を切ると、彼はそのまま私の方へ歩いてきた。「お腹空いただろう。沙織、少し痩せすぎだ。ちゃんと食べてたのか?」その言葉に、私は思わず苦笑してしまう。 ここ数か月、食事を作って待っていても芳也は帰ってこなかったり、食べなかったりすることが続き、私も食欲がなくなっていた。 確かに、少し体重が減ったかもしれない。「ありがとう。とてもおいしそう」椅子を引いてもらって座ったとき、最近、誰かにこんなふうに気を使ってもらったことがなかったと、改めて気づいた。「陸翔兄さまは? 夕食、食べていないでしょう?」私に付き合わせるのは申し訳ないと思いつつ、そう尋ねた。 でも、言ってからすぐに、家で奥様が食事を作って待って
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STORY 10
ずっと自分が作ったものばかりを食べていて、外食なんて、もう随分行っていなかった。「そうか」そんな私を見て、陸翔兄さまも静かに微笑みながら、きれいな所作で料理を口に運んだ。「沙織」「ん?」不意に名前を呼ばれ、私は手を止めて前を向く。「離婚、するってことでいいんだよな?」ストレートな問いに、私は少しだけ思案してから、口を開いた。「うん。……私にも悪いところがあったから、できる限り結婚生活を続ける努力はしてきた。 でも、手を上げられたし、不倫もされたし……もう、いいよね」最後の言葉は、陸翔兄さまに答えを求めてしまうような口調になっていた。 でも、その返事を聞く前に、私は自分の想いを続ける。「それに、向こうが離婚して再婚したいんだと思う、彼の母親もそれを望んでるし」自分で言っていて、どこか空しくなった。 けれど、それが現実だった。 これ以上、目をそらす理由も、意味もなかった。「バカな奴らだな」苦虫を潰したような、彼らしくない言葉遣いについ笑ってしまう。「資産の管理も顧問弁護士にお願いしてるから、当面のお金には困らないし、どこかで仕事も始められると思うから心配しないで。まずは芹那に連絡をしなきゃいけないけど」「芹那さんって、若井芹那? コードシステムの管理部長か?」「そう。私の親友。それに、私、コードシステムに籍があるし」「だから、沙織の夫の会社がコードシステムとの商談を得られたんだな。新規のスマホ事業の」この短い時間に、そこまで調べているとは―― さすが陸翔兄さま。彼の手腕には、やっぱり敵わないと思ってしまう。「私情を挟んでごめん。商談のチャンスだけはもらったの。でも、中身はきちんとコードシステムに利益が出るものだったと思う」そのために、芳也に気づかれないように人員を送り込んだり、プレゼンの甘い部分は私が陰で修正してきた。――けれど、それももう終わりだ。「それは沙織が動いていたからだろう。いなくなって、その商談、維持できるのか?」「え?」まっすぐに見つめられ、陸翔兄さまがすべてお見通しだということがすぐにわかった。 彼には昔から隠し事などできなかった。「そうだね。……そのうち、ほころびが出ると思うさすがに私も、ここまでされたら
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