「譲渡人の署名が必要ですか?どうしてですか?」凛は目の前の職員を見つめ、思わず問いかけた。職員は説明した。「対象物が大きすぎますので、正式な譲渡契約書をお持ちでも、規定により譲渡人自筆の同意確認書を追加で提出していただく必要があります」凛は書類を握る手に力を込めた。つまり、海斗の署名もまだ必要ということだ。……「社長、おはようございます」エレベーターから海斗が出てくると、アシスタントが入口で笑顔で出迎えた。「午前9時は、投資家団体会議で甘井製菓への出資と長期投資に関する協議。10時は、友一商事の木村(きむら)社長が協力案件について来社。11時は、部門報告会です。午後は事前の予定通り、クロスアジアの大沢(おおさわ)社長とゴルフ。本日のスケジュールは以上となります」アシスタントは歩きながら報告し、ちょうど海斗がオフィスのドアを開ける直前の一秒前に話を終えた。海斗は動きを止め、「投資家会議は取りやめだ。それから木村友一(きむら ともかず)には、こちらが与えるのは30分だけと伝えろ。今回の提案も前回同様に誠意がなければ、これ以上話す必要はない」と告げた。「かしこまりました」海斗がドアを押してオフィスに入ると、机の上には淹れたてのコーヒーが置かれていた。カップの側面に指を当て、温度がちょうど良いことを確かめる。そのままカップを手に取り、窓際まで歩いたが――一口飲んだだけで置き、それ以上手を付けなかった。こんなに練習したというのに、やはり彼女の淹れるコーヒーの味にはかなわない……同じコーヒー豆、同じマシン、同じカップを使っているのに、なぜ味が変わってしまうのか。1年経っても、海斗はまだ凛のいない生活に慣れることができなかった。コーヒーも、おかゆも、牛肉も、リビングの配置も、寝室のシーツも――何もかもが違っていた。そう思うと、海斗はふっと苦笑した。「コンコン」「どうぞ」アシスタントが朝食を運び入れ、テーブルに置くと、静かに退室した。海斗には食欲がなかったが、それでも無理をして少し口にした。午前中、海斗は会議に出たり、報告書を読み込んだり、書類に決裁を下したりして過ごした。日々同じことの繰り返しで、まるで働く機械のようだ。以前も似たような生活だったが、それでも当時
電話の向こうで、政司はしばらく沈黙してから言った。「……本当に自分たちで実験室を建てるつもりなのか?」「もちろんだよ!」「気まぐれや思いつきじゃないだろうな?」「もちろん違うわ!私たちは真剣なの!」「わかった、2億だろ?じゃあこれから銀行に行って、お前の口座に振り込む!」「わー、ありがとうパパ!愛してる、ちゅー!」「へへ……」と、政司は照れくさそうに笑った。その夜、早苗は3人のグループチャットに、入金確認のスクリーンショットを載せた。まぶしいくらいのゼロが8つ、目に焼きつく額だった。早苗【解決~】……学而はその「~」を見て、思わず口元を緩めた。早苗がこのメッセージを送ったとき、どれほど得意げに笑っていたかが想像できる。自分も頑張らないと。そう思い、携帯をしまってソファの前へ歩く。「おじいちゃん、久しぶりに将棋でもどう?」「おう、いいぞ!せっかく帰ってきたんだ、もう長いことまともに相手してくれる奴がいなかったんだ」学而の祖父・小林泰彦(こばやし やすひこ)は杖をつき、ソファから立ち上がって将棋盤の前に腰を下ろした。二局指し終えるころには、互いに熱のこもった勝負で気分もすっきりしていた。学而は悟られないように少し手加減し、泰彦をすっかり上機嫌にさせた。「学而、また負けたな。今日はどうも調子が悪いようだね?」学而はため息をつき、困ったふりをして言った。「明らかにおじいちゃんの腕が上がってるよ。正直、この間こっそり練習してたんじゃないですか?」お世辞はどんな相手にも効果抜群だ。案の定、泰彦は「はははは……」と、嬉しそうに大笑いした。「いやいや、もう一局!」と学而が言った。今度は手加減せずに指し、結果はもちろん学而の勝ちだった。泰彦は軽く鼻を鳴らし、子供が拗ねたような調子で言った。「俺が練習したって?むしろお前の方が練習してたんじゃないのか!もうやらないぞ、全然面白くない!」そう言ってから一瞬間を置き、続けた。「祝日でも週末でもないのに、どうして今日は家に帰ってきた?しかも自分から俺と将棋を指すなんて。さあ言え、何があった?」「ゴホン!」泰彦の鋭い目には何も隠せないことを、学而はとうに分かっていた。だから彼も包み隠さず、学校で受けたアカデミックハラスメントや悪意
二人はそろって学而に視線を向けた。彼は頭をかき、「なんでそんな目で見るんだ……」と、どこか照れくさそうに言った。「学而ちゃん、あなたの家って一体何してるの?」と、早苗の視線は一瞬で意味深なものに変わった。凛も、「前に確か…ご両親は公務員だって言ってたよね?」と口にする。どうやらこの「公務員」は、普通の公務員ではなさそうだ。凛はそれ以上詮索せず、そこで話を切った。早苗は大雑把な性格だが、空気を読む目はある。高級幹部の家庭の子女は皆控えめだというし、今まで言わなかったのも無理はない。だから早苗もそれ以上追及しなかった。学而はようやく安堵の息をついた。「全力を尽す」「わかった」早苗が「実験室のために——」と声を上げ、学而が「二度と追い出されないように——」と続ける。二人はそう言って、そろって凛の方を見た。凛は一瞬きょとんとし、思わず「がんばろ?」と口にした。「がんばろう!!!」……言い終えるや否や、三人はすぐに動き出した。早苗はマンションを出るとすぐにスマホを取り出し、父親に電話をかけた——「もしもし〜パパ、ご飯食べた?」「食べたよ。早苗は?」俊。「まだだよ……」早苗の声は一瞬でしおれて、可哀想そうな響きになった。早苗の父・政司はそれを聞いただけで、ただ事ではないと察した。大事な娘が食事も摂らないなんて、間違いなく一大事だ。「パパに話してごらん、いったい何があったんだ?」早苗は最近研究室で起きた出来事を一気に父親へまくしたてた。「……ってわけなの。ねえ、腹立たしいと思わない?!」バシッ!政司は太ももを叩き、「まったく人を馬鹿にしている!研究科は管理すべきことはせず、庇うべきでないものを庇っている。立派な高等教育機関でこんなことがあるなんて!本当に人を馬鹿にしている!」と憤った。「そうそう!」早苗は勢いよく頷いた。「パパ、知ってる?私が『自分で研究室を作ったほうがまし』って言ったら、上条チームの二人の学生に聞かれて、笑われたの。『昼間から夢を見てる』って言われて、それに『デブ』って……うぅ……」「なんだと?!お前をデブ呼ばわりするなんて!?いいか、早苗は全然太ってなんかいない。これは福を呼ぶ顔ってやつだ。世間知らずの田舎者なんかと張り合う必要はない!ふ
「だってうちのパパ、ビルなんて数え切れないほど持ってるんだから!いつも追い出すのはあっちの都合で、誰もパパを追い出せやしない!だからさ、物はやっぱり自分のじゃなきゃダメなのよ!そうじゃないと腰を据えて構えられない!研究科から借りたボロ部屋、CPRTもないし消防設備も不完全。私たちが必死に研究成果を出しても、最後は研究科の手柄になるってわけ?世の中にそんな都合のいい話がある?ちぇっ——」大家の娘は、今までこんな屈辱を味わったことがなかった。「何が偉いっていうの?ボロ部屋一つ、機材だって全部私たちが自分で買ったんだから!」この短気さときたら、本当に我慢ならない。早苗の怒涛のまくしたてに、学而と凛はただ呆気にとられるばかりだった。「えっと……驚かせちゃった?」早苗の丸い顔に一瞬だけ気まずさが浮かび、慌てて弁解した。「普段はこんなんじゃないの、本当。ただ、たまにカッとなるとブレーキが利かなくて……ゴホン!」学而は唾を飲み込み、何も言えなかった。「……」凛は目を輝かせ、うなずきながら言った。「早苗の言った通り!私も同じこと考えてた。研究科から借りた実験室じゃ、私たちが主導権を握るなんて無理よ」研究科は好きな時に回収できるし、難癖をつけてきたり、他のグループに貸し出したりもできる。凛たちはまな板の上の鯉で、なすがままにされるしかない。「じゃあ……研究科から借りるのやめる?」と早苗が探るように言った。凛はこくりと、小さくうなずいた。学而が尋ねる。「じゃあどこから借りるの?」凛は答えた。「借りる必要ある?早苗が前に言ってたように、自分たちで作ればいいじゃない」作、作る?この一言に、学而は完全に呆然とした。早苗は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間、興奮のあまりソファから飛び上がった。「そうよ!私たちで作ればいいじゃない!最高じゃない!」自分たちだけの実験室――もう取り上げられる心配もなければ、卑劣な輩に狙われる恐怖もない。凛は落ち着いた声で言った。「調べてみたけど、B大学の校則や生命科学研究科の関連規定には、在校生が独立した実験室を設立してはいけないとは書かれていないの。手続きが整っていて、資格も揃っていれば、問題ないわ」早苗は即座に手を挙げた。「私がお金出すわ!いくら必要?1億?それとも2億?」
凛は彼の呆れたような表情を見ると、つい笑ってしまった。凛は彼の呆れたような表情を見ると、つい笑ってしまった。「受け取ってください、おじさん——父が作ったビーフジャーキーはすごく美味しいんです。普通の人にはなかなか食べられませんから」「今、僕を何て呼んだ?」陽一は一歩近づき、片手を壁につきながら低く問うた。「ん?」凛はもう後ずさりできず、無垢な顔で彼を見上げた。「父の言葉をそのままお伝えしただけで、私が言ったわけじゃありません」「……」「先生、廊下狭いんですけど……少し下がっていただけますか?」陽一は自分がまだ風邪を引いていることを思い出し、うつさないようにと小さくため息をつき、手を引いて脇へ退いた。凛は改めて、彼が本当に話の通じる方で、しかも紳士だと感じた。陽一はビーフジャーキーを受け取り、凛は残りを家に持ち帰ると、写真を撮って慎吾に送った。するとすぐに返信が届いた——【庄司くんに渡したか?】【渡したよ。お父さん、庄司先生に優しすぎじゃない?】父は、自分用にもっと残しておけとは一言も言わなかった。慎吾は文字を打つのが面倒になったのか、音声メッセージを送ってきた。「もちろんだ!兄弟や友人には寛大で豪快に、幸せは分かち合うべきだ!」凛は心の中で思った——この言葉、庄司先生に聞かせたい。……自分は変なことを言ったわけでもないのに、壁際に追い詰められるなんて。さっき、彼が自分を角まで追い詰め、体を傾けて迫ってきた瞬間を思い出す。あの時、彼の香りと吐息が全身を包み込んでいた。凛は情けなく顔を赤らめた。鼓動も無意識に速くなった。高校の頃、クラスの男子がわざと近づいてきて、わざと距離を詰めてくることがあり、凛は毎回顔を赤らめていた。海斗と出会う前は、異性の接近にうまく慣れられず、圧迫されるようで苦しく感じていた。恋愛して別れも経験したから、この癖は治ったと思っていたのに……逆戻りして、また出てしまった。凛はこの一連の反応を「昔の癖が出ただけ」と片づけ、これ以上深くは考えなかった。……午後、凛は早苗と学而を自宅に呼び寄せた。「……ちょっと集まって、実験室のことを相談しよう」「わかった」「すぐ行く!」二人はすぐにやって来た。早苗は毛足の長いスリッパを履き、学而も部屋
凛は少し驚いた。「私にくれるんですか?じゃあ先生は……」陽一は淡々と答える。「寒くない」「ありがとうございます」路地の入口に差し掛かると、陽一は足を止めた。「少し待ってて」そう言って脇のコンビニに入っていく。一分も経たずに、彼は飲み物を二つ手に戻ってきた。「はい」凛は受け取り、ふと香りを確かめる。「これ、何ですか?」「ジンジャーティー」凛は眉を上げた。「このコンビニでこんなの売ってましたっけ?」記憶になかった。「季節限定で、最近出たばかり」「先生のも同じですか?」陽一は軽く首を振る。「いや。僕のはほうじ茶だ」凛は紙コップを抱え、手のひらは温かく、肩にはまだ上着が掛かっている。全身がほかほかとして、頬もわずかに紅く染まっていた。階段を上りきると、凛は上着を脱いで陽一に差し出す。「ありがとうございます、先生。おやすみなさい」陽一は口元をわずかに緩め、静かに応えた。「おやすみ」そして二人は、それぞれの家へと帰っていった。凛はシャワーを浴びた後、論文を読むために席につき、特にニットの上着を羽織って全身がぽかぽかと温まっていた。携帯が鳴り、画面を見ると慎吾からの着信だった。「もしもし、お父さん」「凛、もう寝たか?」「まだ。論文を読んでるところ」「寒くなってきたから、あまり夜更かしするなよ。ちゃんと服を着込むんだぞ」「わかってるよ。こっちは暖房があるから、室内はそんなに寒くないよ。お母さんは?」「原稿を書いてる。そうだ、ビーフジャーキーを送ったぞ。5キロくらいあるから、明日には届くはずだ」「そんなに?どうやって食べきるの?」「一人で全部食べるんじゃない。半分は庄司くんにあげなさい。お前たちは家が向かい同士なんだから、そのまま渡せばいい。簡単だろう」一方その頃、陽一は家に入ると、いつものように上着をコートハンガーに掛けようとした。しかしふと動きを止め、その上着を取り外す。そこには、まだ女性の香りが残っていた。彼は無意識に近寄り、匂いを嗅いだ……はっとして自分の行動に気づいた瞬間、目に一瞬だけ後悔の色がよぎる。そしてまるで感電したかのように上着をソファへ放り投げ、大股で浴室へ向かった。すぐに、水の流れる音が響いた。しかし、そこには湯気の気配がまるで