その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の表情がわずかに変わった。――母斑。もし今この場で夏美が、自分の体にあるその母斑の形を口にしたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。「どんな母斑?」隼人が不思議そうに問い返した。「蝶の――」「隼人……なんだか急に、頭がクラクラするの……」夏美が「蝶の」まで口にしたその時、瑠璃は眉間を寄せて弱々しく隼人にもたれかかった。隼人の意識はすぐに瑠璃へと戻った。彼はすぐに彼女を抱き上げた。「病院へ連れていこう」「病院なんて必要ないわ。ただ少し、疲れただけよ」瑠璃は彼の肩に身を預けながら、かすかに囁いた。隼人に抱かれてその場を離れる彼女を見送りながら、夏美と賢の心には、どこか得体の知れない不安がじんわりと広がっていった。夜が更けて、窓辺の大きな木をそよ風が揺らし、ささやくような音を立てていた。瑠璃はベッドに横たわっていたが、まったく眠気はなかった。それでも、目を閉じて、眠っているふりをしていた。今夜は彼女と隼人の新婚初夜だった。彼が今どんな気持ちでいるのか、彼女には分からない。だが彼と肌を重ねることだけは、どうしても避けたかった。しばらくすると、バスルームから水の音が止み、隼人が静かに出てくる足音が聞こえてきた。まるで彼女を起こさないようにと、意図的に足音を抑えているようだった。やがてベッドの片側がわずかに沈み、隼人がそこに横たわったのが分かった。彼の体温と気配が、じわじわと瑠璃の側に近づいてきた。瑠璃の心臓がわずかに早く鼓動し、毛布の下にある手が静かに強ばっていく。彼がまさか、そんなつもりじゃ……そう思った矢先、頬にふわりとあたたかな吐息が触れた。キスされるかもしれない――その不安に駆られ、瑠璃は一気に目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は深く静かな目とぶつかった。「起こしてしまったか?」男の低くて優しい声が耳元でささやいた。瑠璃は口角を少し引き上げた。「ううん」「それならよかった」隼人は穏やかに微笑み、長くしなやかな指で彼女の頬に触れ、その美しい顔がゆっくりと近づいてきた。そして、彼の唇は彼女の口元にそっと触れた。瑠璃は彼を押しのけた。「隼人……私、妊娠してるのよ。あんまり無理はできないわ」隼人は顔を上げて彼女を見つめ、その目に探るような光を
瑠璃はその微笑を浮かべたまま眠る顔を冷ややかに見つめ、薄く唇を引き結んだ。三年間ほとんど毎晩眠れなかったって言ってたんじゃなかった?なのに、昨夜はずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたじゃない。ふん、隼人――あなたは本当に、私の死を悔やみ、不安に感じたことなんてあったの?いいえ、あなたは一度だって、そんなことなかった。彼の顔を一瞥し、瑠璃は素早く身支度を整えて部屋を出た。ちょうどその時、君秋が部屋から出てくるところだった。「君ちゃん、おはよう」彼女は優しく微笑みながら彼のもとへ歩み寄った。「学校へ行くのね?ヴィオラお姉ちゃんが朝ごはんを作ってあげようか?」君秋はその言葉を聞いて、キラキラした大きな目で見上げながらコクリと頷いた。「うん」その愛らしく整った小さな顔を見て、瑠璃の気分は一気に和らいだ。メイドたちは朝早くから朝食の準備をしていたが、それでも瑠璃は自らキッチンに立ち、君秋のために簡単で栄養バランスの良い朝ごはんを作った。君秋は食卓につき、目の前のハート型の目玉焼きをじっと見つめていたが、なかなか箸を取ろうとしなかった。瑠璃は彼の反応が気になって声をかけた。「君ちゃん、目玉焼きが苦手?食べたいものがあれば教えてね、ヴィオラお姉ちゃんがすぐ作ってあげる」そう言った直後、君秋は首を横に振った。その澄んだ目にはまっすぐな喜びが宿っていて、彼は小さな口を開き、可愛らしい八重歯を覗かせながら言った。「ありがとう、ママ」――ママ。瑠璃は一瞬、言葉を失った。まさか君秋がこんなにも早く、そして自分から「ママ」と呼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。普通の子供なら、継母には少なくとも嫌悪感を持つものなのに。なのに君秋は、心から自分を慕ってくれている。瑠璃の目尻が熱くなり、そっと君秋の頭を撫でながら、慈しみに満ちた眼差しを向けた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんは、あなたを本当の我が子のように大切にするからね。これからは、あなたを心から愛するママがそばにいるよ」君秋はコクリと頷き、その小さな顔にこれまで見たこともないほど自由で幸せそうな笑顔を咲かせた。その笑顔を見て、瑠璃の心もとろけるように温かくなった。これまでの愛や憎しみも、復讐も、その笑顔の前では全てが小さく思えた。朝食
君秋のその一言に、瑠璃も夏美も、目を大きく見開いて驚いた。夏美もデザイナーであり、瑠璃の体にある母斑は、まさにA4用紙に描かれたその蝶とほぼ完全に一致していた。もしかして、どこかで自分の腰の後ろにあるその母斑が見えてしまい、それを君秋が目にしたのではないか――瑠璃の胸にそんな疑念が浮かんだ。「君ちゃん、この蝶を見たって言ったけど、どこで見たの?」夏美はしゃがみ込み、目を潤ませながら食い入るように尋ねた。「碓氷夫人、こんなにたくさんのビラを印刷されたんですか?それで娘さんを探そうと?」瑠璃は平静を装い、話題をそらした。夏美はうなずいた。「ネットでもたくさん情報を出しているけど、こうした手段も一つの方法だと思って。とにかく、娘を見つけられるなら、どんな手段でも使いたいの!」その声には、切実な願いと誠意があふれていた。彼女は心から、かつて失ってしまった我が子を見つけたいと思っているのだ。瑠璃の心は揺れ動き、思わず胸が締めつけられた。……もしかしたら、私の本当の両親を責めるべきじゃなかったのかもしれない。彼らは、蛍一家に騙されていただけ。自分たちの大切な子を探すために、利用されてしまっただけなんだ。でも……「君ちゃん、お願い。どこでこの蝶を見たのか、おばあちゃんに教えてくれない?」再び、夏美の必死の問いかけが瑠璃の耳に飛び込んできた。彼女ははっとして現実に戻り、止めようとしたその瞬間、小さな声が耳を打った。「瑠璃お姉ちゃん」君秋は静かに、そう答えた。瑠璃の心臓が一瞬、強く鼓動した。夏美も呆然とした。「君ちゃん……今、瑠璃お姉ちゃんって言ったの?それって、四宮瑠璃のこと?」君秋はこくんとうなずき、突然、小さな手で瑠璃の右腰の後ろを指差した。「瑠璃お姉ちゃんの、ここのところに、このちょうちょがあるよ」「……」「……」まさか本当に、君秋があの母斑を見たことがあったなんて――三年前に「死んだ」自分のことを、当時まだ二歳だった君秋が、こんなにも鮮明に覚えていたなんて。瑠璃は完全に予想外の展開に言葉を失った。「な、なに?」夏美は混乱したまま、視界が暗くなっていくのを感じた。まるで全身から力が抜けるような感覚に襲われ、よろめきながら倒れそうになる。瑠璃はすぐに我に返り、夏美の体
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
彼女の笑顔はまるで咲き誇る花のように華やかで、その瞳は言葉を語るように生き生きと輝き、まるで星屑がその中で瞬いているかのようだった。電話を切った隼人は、立ち上がって瑠璃のもとへ歩み寄った。「ヴィオラ、碓氷夫婦が今夜、俺たちを自宅に招きたいそうなんだ」瑠璃は手を止め、わずかに目を伏せた。「どうして急に招待なんて?」「頼みたいことがあるらしい。お前に協力してほしいそうだ」隼人は彼女の顔を見つめながら、二人の「頼みごと」の内容を静かに伝えた。それを聞いた瑠璃は、くるりと身を翻し、指先で彼のネクタイを引き寄せた。小悪魔のような笑みを浮かべて、まるで愛らしい少女のような表情で囁いた。「あなたの顔を立てて、引き受けてあげる」隼人は彼女の美しく華やかな顔立ちに見惚れ、心臓の鼓動が一気に早まるのを感じていた。夕暮れ時。木々の隙間から差し込む夕陽が、金色の光となって地面にこぼれ落ちていた。瑠璃は隼人の腕を取り、ふたり並んで碓氷家の門をくぐった。すでに待っていた夏美と賢は、彼女の姿を見た瞬間、言葉にできないほどの感情がこみ上げた。その顔は、まさに自分たちの愛娘・瑠璃と瓜二つだった。もう手に入らないその笑顔。今こうして目の前に「似た顔」があるだけでも、傷だらけの心がほんの少し癒される。たとえ、それがどんなに身勝手な感情だったとしても。それでも今、夏美と賢は心から瑠璃に近づきたいと思っていた。「ヴィオラさん、隼人様、ようこそ」夏美は心からの歓迎の笑みで招き入れ、名残惜しそうに瑠璃の顔を見つめた。「本当に美しいお顔ね。今夜はどうぞよろしくお願いします」「碓氷夫人、ヴィオラで構いませんよ」瑠璃は穏やかに微笑んだが、その胸中には冷ややかな皮肉が流れていた。――この顔で、私はかつてあなたたちの前に立っていた。でも、あのとき受けたのは、冷酷で容赦ない仕打ちだけだった。人の心とは、なんと移ろいやすく、そして恐ろしいものか。そのころ、台所では琴が来客に気づいて顔を出していた。そして、瑠璃の姿を認めた瞬間、目に怒りの炎が宿った。「奥様が言ってた貴賓って、あの女!?あんなのが宝華さんの足元にも及ばないくせに!」内心では瑠璃を切り刻んでやりたいほどの憎悪に燃えていたが、今は耐えた。彼女はよそ行きの笑みを浮か
夏美のその一言が落ちると、隼人と賢は同時に彼女へ視線を向けた。確かに、瑠璃は「高橋倫太郎」を祖父と呼んでいたが、どう見ても実の祖父ではないはずだ。では、なぜ夏美がその名前を知っているのか?「夏美、本当に家の中でその名前を見たのか?」賢は驚きを隠せなかった。召使いにせよ親族にせよ、「高橋倫太郎」という名前の者がいた記憶など、彼には全くなかった。だが夏美は、確信を持って頷いた。「琴さんのところよ!」「琴さん?」隼人の眉がぴくりと動いた。「うちの家政婦よ。二十代から働いてて、もう三十年以上になるわ」夏美は説明した。「高橋倫太郎という名前、彼女の部屋で見たの」「琴さんの本名は高橋琴。彼女の名字も高橋なの……」話すうちに、夏美の心はだんだんと高鳴っていった。ある仮説が、心の中に浮かび上がってきたのだ。「賢……まさか、ね……すぐに帰って確認しないと!」そう言って、彼女は慌ただしく賢の腕を引いて向きを変えた。隼人は墓碑に目を向け、それから急いで去っていくふたりの背を静かに見送った。彼の中でも、すでにある程度の筋書きが見えてきていた。空を見上げると、曇天の雲間から、一本の陽光が差し込んでいた。――神様は、案外俺に優しいのかもしれない。……帰り道、夏美と賢の胸は不安でいっぱいだった。屋敷に戻ると、ちょうど琴がキッチンからスープを持って出てきたところだった。「奥様、お帰りなさい。ちょうどよかったわ、さっき炊いたばかりのスープです。前にあの悪女に怪我させられたの、私、本当に申し訳なく思ってます」琴は誠実な顔で謝りながらも、責任を瑠璃に押しつけていた。夏美は、本当はすぐにでも問いただしたかったが、彼女がそんなにも真摯に謝罪する様子を見て、感情を抑えて微笑んだ。「あなたがわざとじゃないのはわかってるわ。でも、瑠璃も千ヴィオラも、あなたが言うような悪女じゃないの」琴の目が一瞬で鋭くなった。「千ヴィオラ?違いますよ、あれは瑠璃っていう悪女に決まってます!奥様も旦那様も、騙されないでください!あの女は宝華さんを殺したんですよ、あいつは死んで当然です!」その言葉に、夏美と賢の表情が一気に暗くなった。誰であろうと、自分たちの娘をそう罵る言葉を聞いて、平然としていられるはずがない。しかも、瑠璃の無
夏美と賢は、重い足取りで隼人のあとをついて歩き、やがて辿り着いたのは、すでに無残なまでに破壊されていたひとつの墓だった。「ここが……瑠璃が埋葬されていた場所なの?」夏美は目を大きく見開き、涙に濡れた瞳で呆然と見つめた。目の前に広がる光景を、どうしても受け入れることができなかった。墓は無惨にも壊されており、墓石も粉々に砕かれ、元の形をとどめていなかった。「蛍が人を雇って壊させた」隼人は淡々とした声で答えた。その瞬間、夏美と賢の瞳には怒りの炎が灯った。だがそれ以上に胸を締め付けていたのは、深い悲しみと悔しさだった。夏美は手に持っていた白菊と線香を地面に置き、砕け散った石片の前に静かにしゃがみ込んだ。一片の小さな石を拾い上げ、それをまるで宝物のように優しく撫でた。悔しさに震える涙が、その石の上にぽたりと落ち、深く沁み込んでいった。「私の、可愛い娘よ……」賢もまた膝をつき、夏美の肩を抱き寄せながら、同じく後悔と悲しみに満ちた涙を流した。――あの時、自分たちが瑠璃をあれほどまでに激しく責め、罵り、手を上げさえしなければ。こんな形で償うしかない現実を、どうしても受け入れきれなかった。隼人は、目の前で泣き崩れるふたりを静かに見つめていた。かつてこの場所を訪れたときのような、心の空虚さや絶望は、もはや彼の眼差しにはなかった。しばらくして、ようやく夏美が感情を落ち着けて立ち上がった。「瑠璃の遺骨は?遺骨はどこに?どんなことがあっても、私は娘のためにもう一度ちゃんとしたお墓を建ててあげたいの!」「遺骨と副葬品は、蛍に盗まれた。今もどこにあるのかわからない」「な……なんだって!?」「瑠璃の遺骨を……蛍が盗んだ?一体、なんのためにそんなことを……」賢は理解できず、言葉を失った。夏美は怒りに震えながら叫んだ。「この女は……なんて冷酷なの!瑠璃を陥れて死に追いやっただけでなく、亡くなったあとの遺骨まで奪うなんて……今すぐにでも探し出して問いただしてやる!」「俺も一緒に行く」賢もその場で立ち上がった。だが、隼人が静かに声を発した。「行くだけ無駄だ。あの女が口を割るはずがない」その言葉に、夏美の足が止まり、瞳に溜まった涙がきらりと光った。胸に積もる後悔と罪悪感が、ますます彼女を締めつけた。「隼人
隼人は静かにスマホを耳に当てたまま、賢が一言一言、鑑定結果を告げるのを黙って聞いていた――その声には言葉では表せないほどの複雑な感情が滲んでいた。喜びに満ちてはいたが、その中には抑えきれない哀しみも混ざっていた。――やはり、そうだったのか。賢の話を聞き終えた隼人の胸中には、大きな津波のような衝撃が押し寄せていた。「隼人、帰ってたのね」電話が切れていないうちに、前方から耳に心地よい澄んだ声が響いてきた。隼人が顔を上げると、瑠璃がこちらへ歩み寄ってくる姿が見えた。彼の心の奥深くにしまい込んできたその美しい顔立ちが、目の前でだんだんと近づいてきて、視界に大きく広がっていく。「ちょうど、あなたの帰りを待ってたところよ。一緒に食事しましょ」瑠璃は隼人の前に立ち、彼のジャケットを脱がせようと手を伸ばした。隼人は無言のまま通話を切り、その視線は瑠璃の微笑む小さな顔に釘付けになっていた。彼女がジャケットをかけようと後ろを向いた瞬間、彼は急にその手首を掴んだ。「どうしたの?」瑠璃は不思議そうに振り返った。「いや、ただ……ちょっと会いたかっただけだ」彼はそう言って、彼女を引き寄せ、そっと抱きしめた。彼の両腕がしっかりと彼女を包み込み、掌から伝わるぬくもりが静かに彼女の肌を温める。誰にも知られない想いが、じわじわと燃えていくようだった。――だが、このハッグは、瑠璃の中にあった怒りと嫌悪の感情を、かえって一層強くさせた。彼がかつて自分にどれだけ冷たく、どれだけ無関心だったか、彼女は決して忘れていなかった。大雨の中、何度も彼女を見捨てたこと。絶望の淵に追いやられた日々。春が来ても凍えたままだったあの心は、いまだに温まることはなかった。隼人――あなたは本当に、仮面を被った女にしか惹かれないのね。私が真心で向き合っていた時、あなたは振り向こうともしなかった。それなのに今、嘘で塗り固めた私に、そんなにも執着するなんて。ふん。瑠璃はそっと唇の端を上げ、微笑んで見せた。その笑みには、皮肉と冷笑が混ざっていた。「隼人、私も会いたかったわ」彼女は淡々とした声で応じた。「さあ、食事にしましょう。君ちゃんが待ってるわ」瑠璃は彼の腕をすり抜けて歩き出し、隼人の顔を振り返ることはなかった。食事中、瑠璃は君秋に料理を取り
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の