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第四十六話

Author: 夏目若葉
last update Last Updated: 2025-04-29 09:00:42

 戸羽さんと別れてホームで電車を待つ間、私はバッグからスマホを取り出して、先ほど斗夜から来たメッセージを眺めた。

 まだ返事をしていないことに気づき、既読無視はまずいと、あわてて文章を打ち込む。

『今から電車に乗って帰ります』

 車両に乗り込む前に、送信ボタンを押した。

 文章が短くて不愛想だっただろうか。

 車両の中は、けっこう混みあっていて蒸し暑く、嫌な空気だった。

 最寄駅に着いてホームに降り立つと、ザーっと大粒の雨が空から落ちてきていてガックリと肩を落とした。

 戸羽さんと別れたときも、今にも降りそうな感じで真っ暗だったから、心配した通りになってしまった。

 濡れて帰るには勇気が要るくらいの強い雨だ。

 仕方がないので、駅に隣接するコンビニに立ち寄り、ビニール傘を購入した。

 こうしていつの間にか家に傘が増えていく、などとぼんやりと考えながら自宅まで歩みを進める。

 雨は止むどころか、さらに勢いを増しているのだと、アスファルトに強く打ち付ける雨粒を見て思った。

 傘をさしていても、足元が次第に濡れていった。

 パンプスの中が気持ち悪いので早く帰りたい。

 自分のマンションに辿り着いたけれど、私は瞬間的に歩みを止めた。

 マンションの軒先に人影が見える。

 雨が当たらないようになのか、大きな身体をすぼめいるのは、斗夜だった。

 傘も持たず、腕組みをしながらそこに彼は立っていた。

「斗夜……いつから居たの?」

 思わず駆け寄ってそう尋ねたのは、斗夜はまったく濡れておらず、雨が降る前からここに居たのだとすぐにわかったから。

「少し前だよ。電話したんだけど繋がらなかった」

「ごめん。電車に乗る時に音を消しててそのままにしてた」

 マナーモードに設定していて、バッグの中で着信しても気がつかなかった。

 斗夜から電話が来るとは思いもしなかった。

 ここへ来たのが少し前なんてウソだろう。

 私が電車に乗っている間に雨が降ってきたのだから、かなり待っていたはず。

「ここ、よく覚えてたね」

「ああ」

 以前、初めてデートをした日に送ってもらったことがあるが、斗夜は一度来ただけのこの場所を覚えていた。

『実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ』

 戸羽さんに言われた言葉が頭をかすめる。

 正直、すぐに理解できなかったけれど、今わかった気がし
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     傘はコンビニで買えば済むけれど、そろそろ夕刻なので、帰るにはいいきっかけだと思った。  カフェでお茶をしている間に、雨が土砂降りになったら大変だ。  私の言葉に納得するように、戸羽さんが静かに歩き出す。 だけど自然と私の右手を繋いできて、今までになかった彼の行動にドキっと心臓が跳ねた。  戸羽さんが手を繋ぐのは、意外に思えたから正直驚いた。「あの……」 「カフェじゃなくて、あそこにしようか?」 「……え」 帰るんですよね? と私が声をかけようとしたら、先に戸羽さんが言葉を発した。「あそこなら、外で大雨が降ろうと関係ないよ」 繋いだ手をギュっと強く握られたけれど、私はただ呆然としてしまう。  何かの間違いだ、信じられない、と思う自分がいた。 戸羽さんが示した場所は、―――― ホテルだった。 私は頭の上に雷が落ちたみたいな衝撃を受けた。  温厚そうで知的な戸羽さんに、まさかホテルに誘われてしまうなんて。  時間もまだ十七時にもなっていない夕方だし、酔った勢いでもないのに。「今日は……昼間のランチデートのはずですよね?」 「ああ、うん。でも、誘わないと言ってないよ」 昼間だろうとなんだろうと関係ないだなんて、草食系の戸羽さんには似つかわしくないセリフだ。  だけど、繋いだ手を強引に引っ張って行かないあたりが、戸羽さんらしいと思った。  そこにきちんとした節度があり、理性がある。「あの………ごめんなさい」 私は戸羽さんとはホテルに行けない。  うつむきながらボソリと謝りの言葉を述べる私の手を、戸羽さんは力が抜けたようにゆっくりと離した。  気まずい空気が流れ始めるタイミングで、バッグの中のスマホからメッセージを受信した着信音が鳴る。  無言のままバッグに手を突っ込んで確認すると、送り主は斗夜だった。『今どこにいる?』 斗夜は今日私がデートなのは知っているのに、どうして急にひと言だけ送ってきたのかわからない。  そう思っていたら、またすぐにメッセージが届いた。『大丈夫か? 襲われてないか?』 無機質なスマホに並べられた言葉の羅列が、途端に私の胸を熱くした。  ただ文字を見ているだけなのに、鼻の奥がツンとして、じわりと目に涙が溜まってくる。「ごめんね。俺、ちょっと焦ったみたい」 ふと我に返り、隣で佇む戸羽さん

  • 純愛リハビリ中   第四十三話

     戸羽さんの金銭感覚はいったいどうなっているのだろうと、心配になってくる。「すみません、今日彼女は機嫌悪いみたいで。またプロポーズするときに、あらためて来ますから」 戸羽さんが穏やかににっこりと笑うと、女性店員の頬がみるみるうちに赤く染まり、「うわぁ」と小さく歓声まであがった。  ……誰が機嫌悪いのだ。いや、それよりも「おめでとうございます」という視線を送られている私は、いったいどうすればいいのか。「もう! 戸羽さん!」 「あはは。面白かったね」 店の外に出た途端に早速抗議してみるものの、戸羽さんは可笑しそうに笑い出だした。  それを見て、あれはわざと芝居したのだと私はようやく気づいた。「最初から買う気はなかったんですね?」 「咲羅ちゃんの好みは知りたいけどね。でも、店員さんの前で堂々と買わない!なんてハッキリ言うわけにもいかないから」 「だからって、プロポーズがどうのって……。今度行ったとき、ご結婚されるんですよね? って聞かれますよ? エンゲージリングとマリッジリングを売りつけられちゃうじゃないですか。そうなっても 私は知りませんからね」 他人事のように私がおどけて言うと、戸羽さんは再び吹き出すように笑う。「その時は……彼女がプロポーズをなかなか受けてくれないことにしようか」 「私が悪者ですか?」 「あははは」 戸羽さんの茶目っ気のある一面を初めて見た。  出会ったときから穏やかでやさしそうだとは感じていたけれど、こんなに冗談を言って笑う人だとは思わなかった。  素直に心の内を言うと、今日のデートは楽しい。 このあと、私は豪華じゃなくてもいいと言ったのだけれど、高そうなランチをご馳走になった。  有名なシェフがいるフレンチレストランで、味もおいしかったし、ラグジュアリーな空間が素敵で優雅な気持ちになれた。  そして、ふらりと大型書店に寄って、並べてある本を見ながらふたりで話した。 こうして少しずつ、相手を知っていくことが大切なのだ。  どんなものに興味があって、普段どんなことをするのか。  そうするうちにだんだんと、人となりがわかっていく。  その結果、必ずしも恋愛感情が生まれるとは限らないけれど、私はずいぶん前からこの過程を飛ばしていた。  相手の中身を見ようとしていなかったのだから、恋愛なんてできるはずがな

  • 純愛リハビリ中   第四十二話

     ショーケースには煌びやかなリングやネックレスを中心に、ブランドものがずらりと並んでいる。  桁がひとつ違うくらい価格帯に幅はあるものの、どれもこれも高額だ。  そんなふうに、庶民は価格ばかり気にしてしまう。「どれか、お気に召したものはございましたか?」 少し見ていただけだったのに、女性の店員がすかさず声をかけてきた。  その姿は頭のてっぺんからつま先まで隙がなく、私には何時間かけても真似できないと思うほど、全身綺麗に手入れされている。  長いまつげでまばたきをする彼女の完璧な営業スマイルを前に、私も愛想笑いを浮かべた。「お客様は指がとても綺麗でいらっしゃるので、どのリングでもお似合いだと思いますよ」 どう見ても、彼女のネイルのほうが断然綺麗だ。  お好みは? などと問われても困ってしまう。どう転んでも私には買えないから。「あ、大丈夫です。綺麗だから見ていただけで……」 今は目の保養にするしかできないけれど、いつの日か思い切って買えたらいいなと夢を思い描く。  具体的に欲しいものが出来たら、もっと貯金する気持ちも芽生えるだろう。「どうしたの?」 気がつけば戸羽さんが私の真後ろに立っていて、突然声をかけられて驚いた私は心臓が飛び出るかと思った。「な、なんでもないです! 用事が終わったのなら出ましょう」 あわてて戸羽さんの腕をグイっと引っ張ってみるが、彼は足を動かしてくれない。「指輪かぁ。女の子はこういうの好きだよね」 戸羽さんがおもむろにショーケースに近づいて行ってしまい、私たちは再び女性店員の綺麗な笑顔に捕まってしまう。「お客様は指が綺麗でいらっしゃるので……とお話していたのですが、こちらなど私はお似合いかと思います」 「そうですか。人気なのはどの辺り?」 戸羽さんが話に食いついていくのを見て、私は顔が引きつって来た。「今は別のこちらのシリーズになりますね」 「へぇ」 「ピンクサファイアが可愛いと評判なんですよ?」 ついに、女性店員がショーケースの鍵を開けて実物を出してきてしまった。「咲羅ちゃん、嵌めてみたら?」 私は戸羽さんの袖口をそっと引っ張って、待ったをかける。  この流れでは買うはめになってしまうから。「戸羽さん……まさか買う気じゃないでしょうね?」 「ははは」 目の前に店員がいることも忘れ、大

  • 純愛リハビリ中   第四十一話

     次の日の朝、デートだから髪を巻こうと頑張ってみたけれど、以前ほど上手にできない。  ふと、斗夜と買い物デートをした日の記憶が蘇ってきた。  あの日も自分なりに頑張ってオシャレをして出かけたのを思い出し、この前はもう少しマシに髪が巻けたのに、と鏡の前で眉を寄せながらヘアアイロンと格闘した。 今日の服装は、清楚と上品をテーマに選んでみた。  薄いピンクのブラウスに、白のフレアスカートを合わせ、胸元には小さな石の付いたネックレスをあしらう。  女子アナのように知的さも出たので、自分の中では及第点だ。 五分前に待ち合わせの場所に着くと、戸羽さんもちょうど同時に姿を現した。「咲羅ちゃん」 私に気づいて声をかけてくる戸羽さんは、髪をワックスで遊ばせているせいか、前よりもカッコいい。  今日も相変わらず、黒縁眼鏡の奥から覗く瞳が穏やかで優しい感じがする。「来てくれてうれしいよ」 目を細める戸羽さんを見ながら、私も大人なのでさすがに連絡もなしに約束をすっぽかしはしない、と心に浮かんだ。「どこに行きますか?」 「えっと……ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんだ。実は腕時計の金具が壊れて、修理に出そうかと」 デートなのに所用に付き合わせて悪いと思ったのか、眉尻を下げてこちらを伺う戸羽さんが、少しばかりかわいらしい。「大丈夫ですよ。行きましょう」 私の返事を聞いた戸羽さんに優しい笑顔が戻り、ふたりで時計店を目指して歩き出す。  高級そうなお店の前で戸羽さんが歩みを止めた。  そこは間違っても私が普段フラっと立ち寄ることの出来ない雰囲気を纏った場所だった。  不審者のようにじろじろと店内を見回してしまいそうになったが、自制心でそれをぐっと堪える。 戸羽さんはカウンターの中にいる店員に声をかけ、金具が壊れた腕時計の修理の話を進めた。  待っている間、私はなにをするでもなく店内をうろうろとしていたのだけれど、手垢ひとつなくピカピカに磨かれたショーケースの中に展示されている、存在感のある腕時計がふと目に入ってきた。  別にそれを気に入ったわけではないのだけれど、隣に置かれていたプライスカードの値段を目にし、高すぎて目玉が飛び出た。 ケタを見間違えたかと思ったけれど、450万円だ。  だけどブランドものの時計ならば、それくらいの値段でもおかし

  • 純愛リハビリ中   第四十話

     斗夜は去り際になにか言ってから出てきたようで、それは私に関することだと思うから内容が気になってしまう。「なにを言ったの?」 クスっと電話口で思い出し笑いをする史香とは反対に、私はスマホを持つ手がわずかに震えた。『白井さんの噂は彼女をやっかんだ人が言いふらしたんです。あなたは彼女のなにを知ってるんですか? 彼女を傷つけて侮辱するような発言は、例え先輩でも俺は今後一切許しません!……って言ってた』 まるで魂を抜き取られたみたいに、私はボーっと聞き入ってしまった。  喉が急に熱くなってきて、声がうまく出て来ない。『あの時、確信しちゃった。八木沢さんも咲羅が好きなんだ、って』 斗夜が時枝さんに対してそんなことを言ったなんて信じられない。  この一週間、ふたりは蜜月に見えていたのに。『どう考えても咲羅に気があるとしか思えない。あの場に居た人はみんなそう感じてたよ。私の隣にいた重森なんて口があんぐりと開いてたわ。たぶん、八木沢さんには勝てないって思ったんだろうね』 ……違うよ。斗夜は私と同じでリハビリ中だもの。  彼には純粋に心から好きだと思える恋愛ができない欠点がある。  身体の関係にはなれても、相手と本気で心を繋げられないのだ。  今はその欠点を治すためにリハビリをしているのに、私を好きだなんて感情が簡単に芽生えるわけがない。  それは史香が彼をわかっていないだけだと思う。『私は重森だけじゃなくて、八木沢さんも慰めなくちゃいけないのかな? そうなったら重森なんて放っておくけど』 「……へ?」 『だって咲羅は明日の戸羽さんとのデートに乗り気なんでしょ? 重森が肩を落として言ってたよ』 別に乗り気じゃないのに、と私は重森を思い浮かべて口をとがらせた。  どうして史香が誤解するようなことをわざわざ言うのだろう。『明日のデート、どうなったか報告待ってるよ』 史香がフフフと楽しそうに笑い声を漏らす。「戸羽さんは、穏やかでいい人だから……明日いきなりどうにかなることはないと思う。それにね、戸羽さんと恋が出来そうかどうか、ちゃんと見極めたいんだ」 彼がどういう人なのかを理解するところから始めなければいけない。それが心を通わせる第一歩だから。『なんか咲羅……最近、変わったね』 「そう?」 本城との失敗の経験があってから、慎重になろうと

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