author-banner
夏目若葉
夏目若葉
Author

夏目若葉の小説

純愛リハビリ中

純愛リハビリ中

一夜限りの相手とバーでトラブルになった咲羅(さら)を助けてくれたのは、転勤してきた同じ会社の斗夜(とうや)だった。 ふたりは恋愛について話しているうちに、大人になるにつれて最低な恋しかできていない共通点に気づき、純愛を取り戻せるように、恋愛感覚のズレを正すための“リハビリ”と称したデートをする。 咲羅はシンプルで健全なデートを楽しいと感じることができたが、時枝(ときえだ)という女性が斗夜に近づいてきて嫉妬してしまう。 そんな中、以前合コンで知り合った戸羽(とば)と再会し、デートに誘われるが、昼間ならという条件付きで応じる。 草食系だと思っていた戸羽に、ホテルに誘われた咲羅は……
読む
Chapter: 第四十八話
「リハビリ……もう辞めないか?」 しばしの沈黙が流れたあと、斗夜から飛び出した言葉はそれだった 。  マスターから、斗夜がリハビリはもう必要ないと言いだしていると聞いていたが、それは本当だったのだ。  実際に本人の口から聞くと、ダメージが大きい。  後ろからなにかで殴られたみたいな衝撃が走った。「マスターから聞いたよ」 私が溜め息を吐きながら言えば、「あのおしゃべりめ」と斗夜のつぶやく声が聞こえた。  胸の内側に、どんどん悲しみが広がっていく。  今、斗夜の顔は見られない。見たら……泣いてしまうから。「リハビリはもうなしね。わかった」 そう返事をするしかなかった。  私と斗夜はリハビリ仲間という関係を解消し、ただの同僚に戻る。  それだけの話なのに、お前は新しい男とデートでもしてろ、と言われたような気持ちになった。 そしてもうひとつ、悲しい感情を思い出した。  好きな人に振られる“失恋”は、こんなに辛いものだったのだ。「私とリハビリでデートしていても仕方ないもんね」 「……え?」 「好きな子にきちんと気持ちを伝えなきゃ。私と練習ばかりしていても前に進めないよ」 うまく笑えている自信はないけれど、うつむくことなく私は精一杯笑顔を作った。  だけど斗夜は隣に座る私の肩を掴み、自分のほうへ向かせて視線を合わせる。「……なんの話だ?」 それはまぎれもなく、たくさん傷つけて後悔しているという斗夜と元カノの話だ。  すべて言わなくてもわかっているはずなのにと、私は小さく溜め息を吐く。「元カノに……気持ちを伝えてきなよ」 「え? 元カノには、俺じゃなくてもっとふさわしい男がきっといる。たしかに俺のせいで彼女とはうまくいかなかったけど、やり直したいとは思ってないよ。俺がリハビリを辞めたいのは、そうじゃなくて……」 斗夜の大きな手の平が、私の頭をゆっくりと優しく撫でた。「咲羅とは、もうリハビリなんか要らないと思ったから」 「………」 「俺は咲羅が好きだって、きちんと自覚がある。リハビリとか理由をつけずに、これからは普通にデートがしたいし、一緒にいたい」 私の感情がジェットコースターみたいに激しく上下して、処理が追いつかない。  斗夜が元カノと復縁したいだなんて、私の勘違いだったのだ。「“リハビリしよう”なんて、咲羅と一緒
最終更新日: 2025-05-01
Chapter: 第四十七話
「簡単に入れていいのか?」 「だって……この雨だし」 「俺、襲うかもしれないぞ?」 斗夜の言葉で微妙な空気になり、沈黙が流れた。  たった今、恋をしていると気づいたのだから、好きな男に抱かれるのならばかまわない、と少なからず思った私はバカなのだろう。  今までのリハビリがまったく活かされていないではないか、と反省の念にかられる。「ウソだよ。実は話があるんだ」 こんな状況で余裕の笑みを浮かべる斗夜は、私よりも何枚もうわてだ。「……どうぞ」    玄関扉の鍵を開け、部屋の中に彼をいざなう。  私はこの状況のドキドキして、スリッパを差し出すだけで精一杯だ。 部屋の中をキョロキョロと見回す斗夜を、そんなにじろじろ見ないでとソファーに座らせる。  私はキッチン冷たいお茶を用意し、斗夜の前のテーブルに置いた。  すると斗夜が私の腕を咄嗟に掴んだので、何事だろうと驚いた。「……なに?」 「デート、どうだったんだ?」 斗夜は気になっていることを直球で聞いてきた。「誘われただろ? ホテル」 「……うん」 斗夜の推測は当たっているけれど、たとえ私が誘いに乗っていたとしても、戸羽さんは私を本当に抱いたのだろうか。  試されただけかもしれないと考える私は甘いのかな。  私が口ごもるように返事をしたのが気に入らないのか、斗夜の眉間には不満だとばかりにシワが寄っている。「草食系には見えないって、彰の言った通りだったな」 私は以前は戸羽さんに対して草食系だという印象だったけれど、マスターは最初からそうは見えないと言っていたから、その見立ては当たっている。「行ったのか?」 「行くわけないでしょ」 「よく逃げてこられたな」 不機嫌そうにしている斗夜に、「そんな人じゃないから」と私も少しムっとしながら反論した。  戸羽さんを本城みたいな男と同じ扱いをされた気がしたから、腹が立ったのだ。  戸羽さんは無理やりホテルに連れ込んだりしない。穏やかでやさしい紳士なのは間違いないもの。「その男と付き合うのか?」 「え?」 「……好きなのかと聞いてるんだ」 斗夜の声のトーンは静かだけれど、熱のこもった真剣な瞳が私を射貫いた。「付き合わないよ」 斗夜はなぜ聞くのだろう。  もしかしたら……などと、嫌でも期待してしまう。  もし斗夜が私を好
最終更新日: 2025-04-30
Chapter: 第四十六話
 戸羽さんと別れてホームで電車を待つ間、私はバッグからスマホを取り出して、先ほど斗夜から来たメッセージを眺めた。  まだ返事をしていないことに気づき、既読無視はまずいと、あわてて文章を打ち込む。『今から電車に乗って帰ります』 車両に乗り込む前に、送信ボタンを押した。  文章が短くて不愛想だっただろうか。 車両の中は、けっこう混みあっていて蒸し暑く、嫌な空気だった。  最寄駅に着いてホームに降り立つと、ザーっと大粒の雨が空から落ちてきていてガックリと肩を落とした。  戸羽さんと別れたときも、今にも降りそうな感じで真っ暗だったから、心配した通りになってしまった。  濡れて帰るには勇気が要るくらいの強い雨だ。  仕方がないので、駅に隣接するコンビニに立ち寄り、ビニール傘を購入した。  こうしていつの間にか家に傘が増えていく、などとぼんやりと考えながら自宅まで歩みを進める。  雨は止むどころか、さらに勢いを増しているのだと、アスファルトに強く打ち付ける雨粒を見て思った。 傘をさしていても、足元が次第に濡れていった。  パンプスの中が気持ち悪いので早く帰りたい。  自分のマンションに辿り着いたけれど、私は瞬間的に歩みを止めた。  マンションの軒先に人影が見える。  雨が当たらないようになのか、大きな身体をすぼめいるのは、斗夜だった。  傘も持たず、腕組みをしながらそこに彼は立っていた。「斗夜……いつから居たの?」 思わず駆け寄ってそう尋ねたのは、斗夜はまったく濡れておらず、雨が降る前からここに居たのだとすぐにわかったから。「少し前だよ。電話したんだけど繋がらなかった」 「ごめん。電車に乗る時に音を消しててそのままにしてた」 マナーモードに設定していて、バッグの中で着信しても気がつかなかった。  斗夜から電話が来るとは思いもしなかった。  ここへ来たのが少し前なんてウソだろう。  私が電車に乗っている間に雨が降ってきたのだから、かなり待っていたはず。「ここ、よく覚えてたね」 「ああ」 以前、初めてデートをした日に送ってもらったことがあるが、斗夜は一度来ただけのこの場所を覚えていた。『実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ』 戸羽さんに言われた言葉が頭をかすめる。  正直、すぐに理解できなかったけれど、今わかった気がし
最終更新日: 2025-04-29
Chapter: 第四十五話
「本当にごめんなさい」 「謝らないでよ。こんなにすぐに誘う男は相手にしなくて正解。……トウヤ君が好き?」 「……」 率直に問われたけれど、私は頷くことも首を横に振ることもできずに押し黙ってしまう。  黒縁眼鏡の奥の優しい瞳が私を不思議そうに捉えていた。「私、本当に長い間、恋をしていないんです」 「……え?」 私の返事が意外だったのか、戸羽さんは驚いた拍子に小さな声を発した。「合コンに行くこともあっけど、そこで恋人関係になれるような出会いはなくて……」 「うん」「私、ある意味病気なんですよ。病名は“本気の恋の始め方を忘れた病”」 私がおどけるように笑うと、戸羽さんも「長い病名だね」と言って笑みを浮かべた。「実は彼も同じ病気だから、ふたりでリハビリしようって決めたんです」 「……そっか。医者の俺でも治せない病気だね」 「はい。彼は私に重要なことをたくさん教えてくれたように思います。でも……私は彼を好きなのかわからない。これははたして恋なのか、自信がありません」 斗夜とのデートは時間があっという間で、話していて楽しかったし飽きることなく過ごせた。  だけど斗夜が時枝さんと毎日蜜月だった今週は、ずっとモヤモヤとした感情に支配され続け、その正体がわからずに、苦しみ続けた。「もっとシンプルに考えればいいのに」 戸羽さんが空を見上げてしばし考え、私にアドバイスをくれる。「例えば、俺がほかの女の子とデートしても咲羅ちゃんはまったく平気だろうけど。トウヤ君がほかの子とデートしたら嫌だろ?」 「……どうかな」 「じゃあ、ホテルに行ったら?」 「それは嫌です」 斗夜がほかの子を抱くなんて、想像しただけで気持ちが悪くて吐きそうだ。「今、想像しただけで胸が締めつけられたよね? それは立派な嫉妬だよ。好きな証拠だと思うけど?」 そうか、思い出せなかったモヤモヤとした感情の名は…… 嫉妬だ。  急に自分の中で、ストンと腑に落ちた。「やっぱりまだリハビリが必要だね」 「……え?」 「大丈夫。実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ」 この病は普通の医者では治せないはずなのに、戸羽さんはなんでも治せてしまう神様みたいな人なのかもしれない。「……帰ろうか」 「はい」 駅の改札を抜けたところで挨拶を交わす。互いに乗る電車は反対方向のため、こ
最終更新日: 2025-04-28
Chapter: 第四十四話
 傘はコンビニで買えば済むけれど、そろそろ夕刻なので、帰るにはいいきっかけだと思った。  カフェでお茶をしている間に、雨が土砂降りになったら大変だ。  私の言葉に納得するように、戸羽さんが静かに歩き出す。 だけど自然と私の右手を繋いできて、今までになかった彼の行動にドキっと心臓が跳ねた。  戸羽さんが手を繋ぐのは、意外に思えたから正直驚いた。「あの……」 「カフェじゃなくて、あそこにしようか?」 「……え」 帰るんですよね? と私が声をかけようとしたら、先に戸羽さんが言葉を発した。「あそこなら、外で大雨が降ろうと関係ないよ」 繋いだ手をギュっと強く握られたけれど、私はただ呆然としてしまう。  何かの間違いだ、信じられない、と思う自分がいた。 戸羽さんが示した場所は、―――― ホテルだった。 私は頭の上に雷が落ちたみたいな衝撃を受けた。  温厚そうで知的な戸羽さんに、まさかホテルに誘われてしまうなんて。  時間もまだ十七時にもなっていない夕方だし、酔った勢いでもないのに。「今日は……昼間のランチデートのはずですよね?」 「ああ、うん。でも、誘わないと言ってないよ」 昼間だろうとなんだろうと関係ないだなんて、草食系の戸羽さんには似つかわしくないセリフだ。  だけど、繋いだ手を強引に引っ張って行かないあたりが、戸羽さんらしいと思った。  そこにきちんとした節度があり、理性がある。「あの………ごめんなさい」 私は戸羽さんとはホテルに行けない。  うつむきながらボソリと謝りの言葉を述べる私の手を、戸羽さんは力が抜けたようにゆっくりと離した。  気まずい空気が流れ始めるタイミングで、バッグの中のスマホからメッセージを受信した着信音が鳴る。  無言のままバッグに手を突っ込んで確認すると、送り主は斗夜だった。『今どこにいる?』 斗夜は今日私がデートなのは知っているのに、どうして急にひと言だけ送ってきたのかわからない。  そう思っていたら、またすぐにメッセージが届いた。『大丈夫か? 襲われてないか?』 無機質なスマホに並べられた言葉の羅列が、途端に私の胸を熱くした。  ただ文字を見ているだけなのに、鼻の奥がツンとして、じわりと目に涙が溜まってくる。「ごめんね。俺、ちょっと焦ったみたい」 ふと我に返り、隣で佇む戸羽さん
最終更新日: 2025-04-27
Chapter: 第四十三話
 戸羽さんの金銭感覚はいったいどうなっているのだろうと、心配になってくる。「すみません、今日彼女は機嫌悪いみたいで。またプロポーズするときに、あらためて来ますから」 戸羽さんが穏やかににっこりと笑うと、女性店員の頬がみるみるうちに赤く染まり、「うわぁ」と小さく歓声まであがった。  ……誰が機嫌悪いのだ。いや、それよりも「おめでとうございます」という視線を送られている私は、いったいどうすればいいのか。「もう! 戸羽さん!」 「あはは。面白かったね」 店の外に出た途端に早速抗議してみるものの、戸羽さんは可笑しそうに笑い出だした。  それを見て、あれはわざと芝居したのだと私はようやく気づいた。「最初から買う気はなかったんですね?」 「咲羅ちゃんの好みは知りたいけどね。でも、店員さんの前で堂々と買わない!なんてハッキリ言うわけにもいかないから」 「だからって、プロポーズがどうのって……。今度行ったとき、ご結婚されるんですよね? って聞かれますよ? エンゲージリングとマリッジリングを売りつけられちゃうじゃないですか。そうなっても 私は知りませんからね」 他人事のように私がおどけて言うと、戸羽さんは再び吹き出すように笑う。「その時は……彼女がプロポーズをなかなか受けてくれないことにしようか」 「私が悪者ですか?」 「あははは」 戸羽さんの茶目っ気のある一面を初めて見た。  出会ったときから穏やかでやさしそうだとは感じていたけれど、こんなに冗談を言って笑う人だとは思わなかった。  素直に心の内を言うと、今日のデートは楽しい。 このあと、私は豪華じゃなくてもいいと言ったのだけれど、高そうなランチをご馳走になった。  有名なシェフがいるフレンチレストランで、味もおいしかったし、ラグジュアリーな空間が素敵で優雅な気持ちになれた。  そして、ふらりと大型書店に寄って、並べてある本を見ながらふたりで話した。 こうして少しずつ、相手を知っていくことが大切なのだ。  どんなものに興味があって、普段どんなことをするのか。  そうするうちにだんだんと、人となりがわかっていく。  その結果、必ずしも恋愛感情が生まれるとは限らないけれど、私はずいぶん前からこの過程を飛ばしていた。  相手の中身を見ようとしていなかったのだから、恋愛なんてできるはずがな
最終更新日: 2025-04-26
それだけが、たったひとつの願い

それだけが、たったひとつの願い

母の病気という家庭の事情から、突然姉の知り合いのマンションの一室を間借りすることになった主人公の大学生・由依は、そこで一人の青年・ジンと出会う。 ジンは台湾と日本のハーフで、台湾で主にモデルの仕事をしている芸能人だった。 自然と距離が近づいていき、仲が深まっていくふたり。それと同時にジンは仕事のオファーが増えていき、スターとしての階段を上り始める。 由依と一緒にいたいと願うジンだが、日本で所属している芸能事務所が突然経営危機に陥る。 由依はジンの将来と自分の家族の事情を鑑み、とある決断をする。 4年の歳月が過ぎたあと、ふたりの運命の糸が再び絡み始めて……
読む
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第六話
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。  会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。  おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。  突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。  だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。  鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。  口ごもる私を見て、
最終更新日: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第五話
 翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。  二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。  体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。  幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。  菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。  そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。  どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。  彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
最終更新日: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第四話
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。  ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。  彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。  打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。  しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。  だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。  ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。  あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。  顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。  正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。  ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
最終更新日: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第三話
 小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。  彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。  愛されているのは私のはずなのに。  うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。  そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。  心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。  肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。  プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。  ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。  申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。  どうやらマネ
最終更新日: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第二話
 ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。  二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。  ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。  ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。  私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。  信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。  監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。  設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。  うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
最終更新日: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第一話
 ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。  交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。  連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。  普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。  しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。  堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。  衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。  秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。  本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。  鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
最終更新日: 2025-02-12
解けない恋の魔法

解けない恋の魔法

ブライダル会社に勤める緋雪(ひゆき)は、新企画のためのブライダルドレスのデザインを、新進気鋭のデザイナー・最上梨子(もがみりこ)に依頼しに行く。 しかし、オファーを請ける代わりに、ある秘密を守ってほしいとマネージャーである宮田(みやた)に頼まれてしまう。宮田は見た目とは違って中身は変わり者で、緋雪は振り回されるが、冗談めかしながらも好きだと言われるうちに意識し始める。 だが、宮田を好きなモデルのハンナに嫉妬された緋雪はあからさまに意地悪をされて……
読む
Chapter: 第十章 運命の出会い 第三話
「いえ。最上梨子が描きました」 「……だからそれは、あなたでは?」 ……どうして部長がそれを知ってるのだろう。  私の強張った顔からは嫌な汗が噴出し、これ以上ないくらいに激しい動悸がした。「ぶ、部長! なにを仰っているのかわからないです」 「朝日奈、お前は黙ってろ。俺は今、宮田さんに尋ねているんだ」 ここで部長にバレたらどうなるの?  せっかくこんなに素敵なデザインを描いてもらえたというのに、すべて白紙に戻るかもしれない。  宮田さんは最初に言ったから。  秘密がバレたら、仕事は反故にする、と。  実際に、このデザインがドレスになることはないの? 幻で終わる?  それも嫌だけれど、そんなことよりも。  部長がこの事実をほかの誰かに漏らしてしまったら……彼が最上梨子だったと世間にバレてしまいかねない。  それは絶対に嫌だ。  だって彼がずっと守り通してきた秘密なのだから  バレるなんてダメ! 絶対にダメ!!「宮田さんは最上さんのマネージャーさんですよ! な、なにを変なこと言い出してるんですか、部長!」 「……朝日奈」 「私、黙りませんよ! おかしなことを言ってるのは部長ですから! 違いますよ、絶対に違います! マ、マネージャーさんが……そんな、デザインなんて描けるわけもないですし……」 「朝日奈さん、もういいです」 そう言った宮田さんを見ると、困ったような顔で笑っていた。「袴田さんには最初からバレる気がなんとなくしていました」 「朝日奈が必死に否定したのが、逆に肯定的で決定打でしたけどね」 「はは。そうですね」 そのふたりの会話で気が遠のきそうになった。  私があわてて否定すればするほど、逆に怪しかっただなんて。「で、いつから気づいてました?」 「変だなと思ったのは、あなたがここに視察に来たときです」 部長の言葉に、やはりという表情で宮田さんが穏やかに笑う。「普通、物を造る人間は大抵自分の目で見て確認したいものです。特にデザイナーなんていう、なにもない“無”のところから発想を生み出す人間は。……私もそうでしたからわかります」 「そうですね」 「だけどあなたは最上さんの代理だと言ってやって来た。いくら彼女がメディアには出ないと言っても、それはさすがに不自然でしたから」 「なるほど」 私にはそんなこと、ひ
最終更新日: 2025-05-01
Chapter: 第十章 運命の出会い 第二話
 エレベーターで企画部のフロアに到着すると、先に宮田さんを会議室へと通して袴田部長を呼びに行く。  私がコーヒーを三つお盆に乗せて部屋に入ると、ふたりが立ってお決まりの挨拶をしているところだった。「わざわざご足労いただいて恐縮です」 「いえいえ。こちらこそ最上本人じゃなく私が代理で訪れる非礼をお許しください」 「早速ですが、デザインが出来たとかで……?」 「はい」 袴田部長もどんなデザインなのか気になっているのだろう。  ワクワクしているような笑顔を私たちに見せる。「朝日奈、お前はもう見たんだろう?」 「はい。部長も今からド肝を抜かれますよ」 「お前……客人の前で“ド肝”って……」 「あ、すみません」 いけない、いけない。  普段の口調からなにかボロが出ることもあるんだから、この際私は極力黙っていよう。「では袴田さんもご覧いだだけますか」 先ほどと同じように、宮田さんが書類ケースからデザイン画の描かれたケント紙を取り出して部長の前に差し出す。  それを一目見た部長は、一瞬で目を丸くして驚いた様子だった。「これは……すごい」 ドレスの形はマーメイド。  色はエメラルドグリーンを基調に、下にさがるほど濃くなるグラデーションになっている。  肩の部分はノースリーブで、胸のところで生地の切り返しがあってセクシーさを強調している。  そして、なんと言っても素晴らしいのはスカート部分だ。  元々、曲線美を得意とする最上梨子らしく、長い裾のスカートのデザインは、まるで波のような動きを表していた。「この部分は?」 部長が指をさしたのは、肩から羽織る白のオーガンジーの部分だった。「海のイメージだったので、最上は人魚を連想したようで。それで形もマーメイドにしたようなのですが、上半身が少し寂しい気がしてそれを付け足したそうです。必要ないなら省くように言いましょうか?」 「いえ。これはまるで“羽衣”みたいだと思ったもので。私もあったほうがいいと思います。しかしドレスの色も、いいですねぇ」 「朝日奈さんに聞けば、披露宴会場の中は深いブルーにするおつもりだと。そこで最上は明るいエメラルドグリーンのドレスが映えると思いついたみたいです」 さすがですね、とデザインをベタ褒めする部長を見ていると私もうれしくて頬が緩んだ。  自分で絶好調だと
最終更新日: 2025-05-01
Chapter: 第十章 運命の出会い 第一話
*** 約束していた翌日。  私は朝一番で袴田部長のデスクへ行き、ブライダルドレスのデザインが出来たことを報告した。  最上梨子の代理として宮田さんがデザイン画を持ってくる件も話し、部長のスケジュールを確認する。「それにしても、突然出来るもんかなぁ」 「え?」 「いやだって、全然進んでないみたいなこと言ってただろ?」 そうやって、少し不思議そうにする部長に、私は満面の笑みでこう口にした。「最上梨子は天才なんですよ」 宮田さんに伝えた時間は十四時。  その少し前に私は一階に降りて宮田さんの到着を待った。  しばらくすると、黒のスーツに身を包んだ宮田さんが現れて私に合図を送る。「お疲れ様。昨日のアレで足腰痛くない?」 「え!!……ここでそういう話は……」 「あはは。緋雪、動揺してる」 ムッと口を尖らせると、彼は逆にニヤっと意味深な笑みを浮かべた。「その顔やめてよ。尖らせた唇にキスしたくなる」 そう言われて私は一瞬で唇を引っ込めた。「あちらのテーブルへどうぞ。言っときますけど今日は“仕事”ですからね、宮田さん!」 「はいはい」 ガツンと言ってやったつもりなのに、この人には全然効いてない。  ……ま、それは以前から変わっていないな。「これなんだけど……」 移動するとすぐに宮田さんは書類ケースから一枚のケント紙を取り出して私に見せた。  テーブルの上に並べられたそれを見て、私は一瞬で驚愕する。「な……なんですか、これは……」 ケント紙に綺麗に濃淡をつけて色づけされたデザイン画。  生地の素材や装飾の内容など、詳しいことは鉛筆で書き込まれている。  それらを見て、私は息が止まりそうになった。「あれ……ダメだった?」 おかしいな、などと口にしながら隣でおどける彼を、  この時 ――――本当に天才だと思った。「マーメイド……。こんなすごいドレスのデザイン、私は初めて見ました。最上梨子は……計り知れない天才ですね」 「……そう? 緋雪に褒められると嬉しいな」 「感動して泣きそうです。行きましょう! 部長に見せに」 テンション高くそう言うと、宮田さんがにっこりと余裕の笑みを浮かべた。
最終更新日: 2025-05-01
Chapter: 第九章 一人二役 第六話
 しばらく意識を手放していた私がぼんやりと目を開けると、そこには逞しい胸板があった。  私を腕枕していた手が肩を掴んで、ギュッと身体ごと抱き寄せる。「起きた?」 声のするほうを何気なく見上げると、やさしい眼差しが向けられていた。  目が合うと先ほどまでの情事を思い出して、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。「緋雪は恥ずかしがり屋さんなんだね」 そう言ってこめかみにキスを落とす彼は、余裕綽々だ。「あ、そうだ。頼まれてたデザイン、出来たんだけど」 「デザインって……」 「もちろんブライダルドレス。海のやつね」 「え?!」 以前に彼が自分で採点をしてボツにしたデザインじゃなくて……。  まったく新しいものを描き直してくれたのだと思うけれど。「出来たって……納得できるものが描けたってことですか?」 「うん。けっこう自信あるよ。自分の中じゃ手直しは要らないと思うくらい」 「え~、すごい!」 食いつくように目を輝かせる私を見て、彼がクスリと笑った。「最近、仕事が絶好調なんだよね。急になにか降臨してくるみたいに、ポーンとデザインが頭の中に浮かぶんだ」 「そういうのを、天才って言うんですよ」 「そうかな? 緋雪と結ばれた次の日から急にそうなったんだけど」 香西さんが、最近の彼のデザインを見てパワーアップしてると言っていたし、素晴らしい才能だと絶賛していたことを思い出す。 やっぱりこの人は、天才なんだ。「出来たデザイン、見せてください」 「ごめん、今ここにはないんだ。事務所にあるから」 「じゃあ、明日事務所に行くので……」 「僕が緋雪の会社に持って行くよ」 「え?」 明日の予定を思い出しながら、何時に事務所を訪問しようかと思考をめぐらせていると、宮田さんから意外な言葉が発せられた。  私がデザイン事務所を訪れることが、普通になっていたのに、どういう風の吹き回しだろう。「うちの会社に、来るんですか?!」 「うん。どのみち出来上がったデザインは袴田さんに見せることになるよね? だったら僕が行ったほうが早いから」 「それはそうですけど……」 「あ、緋雪は一番に見たい?」 その質問には素直にコクリと頷く。  自分が担当だということもあるから余計に、誰よりも早くそれを見たい気持ちがあるのはたしかだ。「じゃあ、袴田さんに会う前
最終更新日: 2025-04-30
Chapter: 第九章 一人二役 第五話
 急激に自分の顔が赤らむのがわかった。  彼の言うことはもっともだと思うのだけれど、いざとなると恥ずかしさが先に立つ。「じゃあ……プライベートではそう呼ぶようにします」 「今、呼んで」 「え?!……こっ……こうき」 舌を噛みそうなほどガチガチに緊張しながら彼の名を呼ぶと、クスリと笑われた。「緋雪は本当にかわいい」 「もう!」 「ちゃんとベッドでもそう呼んでね」 からかわないでと言おうとしたところに、逆に彼のそんな言葉を聞いて更に顔が熱くなった。「顔、赤いけど?」 「そりゃ、赤くもなりますよ」 いつの間にか至近距離に彼の顔があって…。  そのなんとも言えない色気に、一瞬で飲み込まれてしまった。「その顔……ヤバい。すごく色っぽい」 「え? ……逆だと思いますけど」 「は? 僕? なにかフェロモンが出てるのかな? 今、めちゃくちゃ欲情してるから」 耳元で囁かれると、電流が走ったように脳に響いた。  彼のくれるキスは、最初は優しくて甘い。だけどそのうち深く、激しくなって……。  舌を絡め取られるうちに、なにも考えられなくなっていく。  手を引かれ、寝室の扉を開けると、彼が私の後頭部を支えるように深いキスが再開された。「緋雪は僕を誘惑するのが本当に上手だね」 ベッドになだれ込んで、覆いかぶさる彼を見上げると、異様なほどの妖艶な光を放っている。「ど、どっちが……ですか」 誘惑されているのは、私のほう。  欲情させられているのも、私のほう。  あなたは自分の持つ色気にただ気づいていないだけ。  ――― 色気があるのは、あなたのほう。 あなたの長い指が、私の髪を梳く。  あなたの大きな掌が、私の胸を包む。  あなたの柔らかい舌が、私の目尻の涙を掬う。「ほら、呼んで? 名前」 ふたりの吐息が交じり合う中、律動をやめずに彼が言う。「……い、今?」 「さっき約束したじゃん」 パーティの夜にも同じことをしたけれど……  今日の彼はあの時より余裕があって少し意地悪だ。  私には余裕なんて、微塵も無いのに。「早く呼んでよ。じゃないと、僕も限界が来そう」 ほら、と急かされるけれど。  私もやってくる波に煽られて、身体が自然とのけぞってくる。「こう……き。……昴樹……好き」 私の声を聞いて、一瞬止まった彼の律動が
最終更新日: 2025-04-30
Chapter: 第九章 一人二役 第四話
「今日、岳になにをされた?」 感触を確かめながら、私の右手をそっと握る彼の瞳に嫉妬の色が伺える。「全部は見てなかったから。抱きしめられた?」 「いえ、それはないです!」 「だけど、頬にキスはされたよね?」 ……それは、見てたんだ。  というか、二階堂さんも見られているタイミングでわざとやったんだろうけど。「ほかの男でも腹が立つのに、相手が相手だ。緋雪が昔一目惚れした岳だよ?! 僕があれを見て、どれだけ気が気じゃなかったかわかる?」 だから……一目惚れじゃなくて、憧れなのに。「だったらなぜ、私に八年前のことを言わせたんですか?」 私にとっては、もう昔のことで。  ただの憧れだったし、今は綺麗な思い出だ。  だから、八年前のことを二階堂さんに告げてもあまり意味はなかったのに。「緋雪が今も岳のことが心に引っかかってて……要するに好きなんだったら、後悔のないように告白させてあげたかった」 「それで、私と二階堂さんがくっ付いちゃったらどうするつもりだったんです?」 「そしたら……岳から奪う」 彼が、諦める、と言わなかったことがうれしくて。  私の右手を握る彼の手の上に、自分の左手を重ねる。「私は二階堂さんじゃなくて、あなたが好きです」 「緋雪………初めて好きって言ってくれたね」 もっと早く、言うべきだった。  どこまでが冗談なのかわからない彼は、本当は異才を放つ最上梨子なのだ  そう思うと、何の取り柄も無い女である私が傍にいるのはためらわれていた。  彼が仕事で関わるモデルの女性はみんな綺麗だから、私より絶対魅力的に決まっている……なんて、歪んだ感情も芽生えたりしていた。  好きだと態度で示されても、気まぐれにからかわれているだけだと思っていた。  いや……思おうとしていたんだ。 彼のデザインを見るたび、彼の作ったドレスに触れるたび、心をギュッと鷲づかみにされてその才能の蜜に吸い寄せられていた。  そんな人に好きだと言われ、態度で示されたら……。  しかもキスなんてされたら……最初から、ひとたまりもなかったのに。「僕も、好きだよ」 彼が心底うれしそうな顔をして、私の右の頬を撫でた。  そしてそこへ、ふわりと口付ける。  今日、二階堂さんがキスした場所と同じところだ。「上書き完了」 そう呟いた彼の顔が妖艶すぎ
最終更新日: 2025-04-30
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status