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夏目若葉
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Novels by 夏目若葉

それだけが、たったひとつの願い

それだけが、たったひとつの願い

母の病気という家庭の事情から、突然姉の知り合いのマンションの一室を間借りすることになった主人公の大学生・由依は、そこで一人の青年・ジンと出会う。 ジンは台湾と日本のハーフで、台湾で主にモデルの仕事をしている芸能人だった。 自然と距離が近づいていき、仲が深まっていくふたり。それと同時にジンは仕事のオファーが増えていき、スターとしての階段を上り始める。 由依と一緒にいたいと願うジンだが、日本で所属している芸能事務所が突然経営危機に陥る。 由依はジンの将来と自分の家族の事情を鑑み、とある決断をする。 4年の歳月が過ぎたあと、ふたりの運命の糸が再び絡み始めて……
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Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第六話
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。  会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。  おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。  突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。  だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。  鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。  口ごもる私を見て、
Last Updated: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第五話
 翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。  二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。  体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。  幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。  菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。  そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。  どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。  彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
Last Updated: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第四話
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。  ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。  彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。  打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。  しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。  だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。  ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。  あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。  顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。  正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。  ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
Last Updated: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第三話
 小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。  彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。  愛されているのは私のはずなのに。  うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。  そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。  心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。  肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。  プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。  ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。  申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。  どうやらマネ
Last Updated: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第二話
 ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。  二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。  ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。  ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。  私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。  信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。  監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。  設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。  うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
Last Updated: 2025-02-12
Chapter: スピンオフ・エマの気持ち 第一話
 ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。  交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。  連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。  普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。  しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。  堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。  衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。  秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。  本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。  鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
Last Updated: 2025-02-12
純愛リハビリ中

純愛リハビリ中

一夜限りの相手とバーでトラブルになった咲羅(さら)を助けてくれたのは、転勤してきた同じ会社の斗夜(とうや)だった。 ふたりは恋愛について話しているうちに、大人になるにつれて最低な恋しかできていない共通点に気づき、純愛を取り戻せるように、恋愛感覚のズレを正すための“リハビリ”と称したデートをする。 咲羅はシンプルで健全なデートを楽しいと感じることができたが、時枝(ときえだ)という女性が斗夜に近づいてきて嫉妬してしまう。 そんな中、以前合コンで知り合った戸羽(とば)と再会し、デートに誘われるが、昼間ならという条件付きで応じる。 草食系だと思っていた戸羽に、ホテルに誘われた咲羅は……
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Chapter: 第五十話
 斗夜の言葉を聞いて、私は深くうなずいた。  私が今日戸羽さんとデートしているのはマスターも知っているし、心配してくれていた。  まさかその日に斗夜と付き合うことになったとは予想していないだろうけど。「それに、咲羅をあきらめるように言わなきゃ」 「マスターは全然そんな気持ちはないよ」 「今日の医者は咲羅がちゃんと断ったんだろ? じゃあ、あとは重森か。まさか他にも伏兵が?」 人をモテキャラに仕立て上げないで、とあきれた顔をすると、斗夜が綺麗な顔で笑う。  今のはヤキモチだろうかと考えたら、それもうれしく思えた。 雨の上がった歩道を、ふたりで手を繋いで駅まで歩く。  気持ちが通じ合ったあとの“恋人繋ぎ”は、たったそれだけの触れ合いでも胸がキュンとした。 バーに着いてマスターにきちんと報告しようとしたら、ニヤリと意味ありげな笑みを先に投げかけられた。  私たちが“恋人繋ぎ”のまま入って来たのを見て、すぐに状況がを理解したらしい。 お店にいるあいだ、ずっと冷やかされていた気がするけれど、マスターは私たちのことを喜んでくれて、それがすごくうれしかった。 お酒を飲んで喋って、ふわふわとした幸せな時間を過ごし、斗夜とふたりでバーを出た。  再び歩きながら、“恋人繋ぎ”で幸せをかみ締める。 なのに、いつかの日のように、突然斗夜が繋いだ手を引いて狭い道へと入った。人のいない、真っ暗で狭い路地だ。  深いブラウンの髪から覗く色気のある瞳に射貫かれて、「どうしたの?」とは聞けなくなってしまった。  大きな手が私の背中に回り、ふわりと抱き寄せられる。  私の瞳はまだ、斗夜に囚われたまま。 ゆっくりと斗夜の顔が近づいてきて、私がわずかに瞳を伏せると、斗夜の温かな唇が私の唇を優しく覆った。  愛情が伝わってくるような、しっとりとしたやさしいキスで、決して荒々しさのないそれは、繰り返されることなくそのまま離れた。「キスは……するんだね。……ハグも」 「それはしたいって言っただろ。だけど部屋だと理性が飛んで歯止めがきかなくなるから。ここなら、この先はできないし」 今どうしてもキスしたくなったんだ、なんてそんな顔で言われたら、幸せで胸がギューっと苦しくなる。「俺、咲羅のこと本気だから」 「うん」 「浮気はしないよ」 本当にしない? とは、聞かな
Last Updated: 2025-05-06
Chapter: 第四十九話
 堂々と私を好きだと言っておきながら、斗夜は今さら表情に不安の色をにじませる。「そんなの決まってるじゃない。お互い同じ気持ちだったことがうれしいからよ」 お互いに惹かれ合い、心と心が繋がる感動を、私は長年ずっと置き去りにしてきてしまっていた。  相手ときちんと向き合って、真正面からぶつからなければこの気持ちは得られないのに、私は怖がって逃げてばかりだったのだ。「そうか」と優しいまなざしで微笑んだあと、私の頭を撫でていた彼の手が頬に触れ、伝っていた涙を拭った。  私は胸がキュンとして、急激に愛しい気持ちがこみ上げてきてしまい、斗夜の首に腕を絡めて自分から抱きついた。「おいおい咲羅、今ここでそれは反則だろ」 「どうして?」 「……俺は必死で我慢してるんだぞ? さっきから必要以上に触れないようにしてるのに、俺がその気になったらどうするんだよ」 せっかく良い雰囲気なのに、と私は小さく口を尖らせたけれど、斗夜は柔らかく笑って私の身体をそっと離した。「別にいいんじゃないかな? 私たちはちゃんと両思いになれたんだから」 「いや、ダメだ。付き合った初日にそうなったら、それこそ彰になにを言われるか。 野獣だの節操なしだのと、言いたい放題だろ」 マスターの発言をそこまで気にする必要があるのかと思ったら笑えてきた。  別にそう言われても開き直ればいいのに。「じゃあ、マスターには内緒にする?」 私たちに男女の関係があるかどうかは、自ら言わなければわからないだろう。  だけど斗夜は私の提案に首を振った。「アイツを見くびりすぎ。そういうの、見ただけでわかるみたいだ」 「すごい特殊能力ね。というより、斗夜がわかりやすく態度に出してるんじゃないの?」 「……そうなのか」 マスターは、いつもと雰囲気の違う斗夜を見てピンと来ているだけだと思う。友達だからわかるのだ。「とにかく、しばらく我慢する」 「……いつまで?」 「そうだな……一ヶ月は我慢しようか」 真剣に悩んで期間を設定した斗夜がおかしくて、吹き出しそうになってしまう。  私はそれをぐっとこらえ、質問を続けた。「キスもしないの? ハグも?」 「いや……それは……」 私がわざと誘うように言うと、斗夜はうなって腕組みをし、さらに悩みだした。「キスは……したいな」 「あはは」 「だけど今は
Last Updated: 2025-05-04
Chapter: 第四十八話
「リハビリ……もう辞めないか?」 しばしの沈黙が流れたあと、斗夜から飛び出した言葉はそれだった 。  マスターから、斗夜がリハビリはもう必要ないと言いだしていると聞いていたが、それは本当だったのだ。  実際に本人の口から聞くと、ダメージが大きい。  後ろからなにかで殴られたみたいな衝撃が走った。「マスターから聞いたよ」 私が溜め息を吐きながら言えば、「あのおしゃべりめ」と斗夜のつぶやく声が聞こえた。  胸の内側に、どんどん悲しみが広がっていく。  今、斗夜の顔は見られない。見たら……泣いてしまうから。「リハビリはもうなしね。わかった」 そう返事をするしかなかった。  私と斗夜はリハビリ仲間という関係を解消し、ただの同僚に戻る。  それだけの話なのに、お前は新しい男とデートでもしてろ、と言われたような気持ちになった。 そしてもうひとつ、悲しい感情を思い出した。  好きな人に振られる“失恋”は、こんなに辛いものだったのだ。「私とリハビリでデートしていても仕方ないもんね」 「……え?」 「好きな子にきちんと気持ちを伝えなきゃ。私と練習ばかりしていても前に進めないよ」 うまく笑えている自信はないけれど、うつむくことなく私は精一杯笑顔を作った。  だけど斗夜は隣に座る私の肩を掴み、自分のほうへ向かせて視線を合わせる。「……なんの話だ?」 それはまぎれもなく、たくさん傷つけて後悔しているという斗夜と元カノの話だ。  すべて言わなくてもわかっているはずなのにと、私は小さく溜め息を吐く。「元カノに……気持ちを伝えてきなよ」 「え? 元カノには、俺じゃなくてもっとふさわしい男がきっといる。たしかに俺のせいで彼女とはうまくいかなかったけど、やり直したいとは思ってないよ。俺がリハビリを辞めたいのは、そうじゃなくて……」 斗夜の大きな手の平が、私の頭をゆっくりと優しく撫でた。「咲羅とは、もうリハビリなんか要らないと思ったから」 「………」 「俺は咲羅が好きだって、きちんと自覚がある。リハビリとか理由をつけずに、これからは普通にデートがしたいし、一緒にいたい」 私の感情がジェットコースターみたいに激しく上下して、処理が追いつかない。  斗夜が元カノと復縁したいだなんて、私の勘違いだったのだ。「“リハビリしよう”なんて、咲羅と一緒
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: 第四十七話
「簡単に入れていいのか?」 「だって……この雨だし」 「俺、襲うかもしれないぞ?」 斗夜の言葉で微妙な空気になり、沈黙が流れた。  たった今、恋をしていると気づいたのだから、好きな男に抱かれるのならばかまわない、と少なからず思った私はバカなのだろう。  今までのリハビリがまったく活かされていないではないか、と反省の念にかられる。「ウソだよ。実は話があるんだ」 こんな状況で余裕の笑みを浮かべる斗夜は、私よりも何枚もうわてだ。「……どうぞ」    玄関扉の鍵を開け、部屋の中に彼をいざなう。  私はこの状況のドキドキして、スリッパを差し出すだけで精一杯だ。 部屋の中をキョロキョロと見回す斗夜を、そんなにじろじろ見ないでとソファーに座らせる。  私はキッチン冷たいお茶を用意し、斗夜の前のテーブルに置いた。  すると斗夜が私の腕を咄嗟に掴んだので、何事だろうと驚いた。「……なに?」 「デート、どうだったんだ?」 斗夜は気になっていることを直球で聞いてきた。「誘われただろ? ホテル」 「……うん」 斗夜の推測は当たっているけれど、たとえ私が誘いに乗っていたとしても、戸羽さんは私を本当に抱いたのだろうか。  試されただけかもしれないと考える私は甘いのかな。  私が口ごもるように返事をしたのが気に入らないのか、斗夜の眉間には不満だとばかりにシワが寄っている。「草食系には見えないって、彰の言った通りだったな」 私は以前は戸羽さんに対して草食系だという印象だったけれど、マスターは最初からそうは見えないと言っていたから、その見立ては当たっている。「行ったのか?」 「行くわけないでしょ」 「よく逃げてこられたな」 不機嫌そうにしている斗夜に、「そんな人じゃないから」と私も少しムっとしながら反論した。  戸羽さんを本城みたいな男と同じ扱いをされた気がしたから、腹が立ったのだ。  戸羽さんは無理やりホテルに連れ込んだりしない。穏やかでやさしい紳士なのは間違いないもの。「その男と付き合うのか?」 「え?」 「……好きなのかと聞いてるんだ」 斗夜の声のトーンは静かだけれど、熱のこもった真剣な瞳が私を射貫いた。「付き合わないよ」 斗夜はなぜ聞くのだろう。  もしかしたら……などと、嫌でも期待してしまう。  もし斗夜が私を好
Last Updated: 2025-04-30
Chapter: 第四十六話
 戸羽さんと別れてホームで電車を待つ間、私はバッグからスマホを取り出して、先ほど斗夜から来たメッセージを眺めた。  まだ返事をしていないことに気づき、既読無視はまずいと、あわてて文章を打ち込む。『今から電車に乗って帰ります』 車両に乗り込む前に、送信ボタンを押した。  文章が短くて不愛想だっただろうか。 車両の中は、けっこう混みあっていて蒸し暑く、嫌な空気だった。  最寄駅に着いてホームに降り立つと、ザーっと大粒の雨が空から落ちてきていてガックリと肩を落とした。  戸羽さんと別れたときも、今にも降りそうな感じで真っ暗だったから、心配した通りになってしまった。  濡れて帰るには勇気が要るくらいの強い雨だ。  仕方がないので、駅に隣接するコンビニに立ち寄り、ビニール傘を購入した。  こうしていつの間にか家に傘が増えていく、などとぼんやりと考えながら自宅まで歩みを進める。  雨は止むどころか、さらに勢いを増しているのだと、アスファルトに強く打ち付ける雨粒を見て思った。 傘をさしていても、足元が次第に濡れていった。  パンプスの中が気持ち悪いので早く帰りたい。  自分のマンションに辿り着いたけれど、私は瞬間的に歩みを止めた。  マンションの軒先に人影が見える。  雨が当たらないようになのか、大きな身体をすぼめいるのは、斗夜だった。  傘も持たず、腕組みをしながらそこに彼は立っていた。「斗夜……いつから居たの?」 思わず駆け寄ってそう尋ねたのは、斗夜はまったく濡れておらず、雨が降る前からここに居たのだとすぐにわかったから。「少し前だよ。電話したんだけど繋がらなかった」 「ごめん。電車に乗る時に音を消しててそのままにしてた」 マナーモードに設定していて、バッグの中で着信しても気がつかなかった。  斗夜から電話が来るとは思いもしなかった。  ここへ来たのが少し前なんてウソだろう。  私が電車に乗っている間に雨が降ってきたのだから、かなり待っていたはず。「ここ、よく覚えてたね」 「ああ」 以前、初めてデートをした日に送ってもらったことがあるが、斗夜は一度来ただけのこの場所を覚えていた。『実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ』 戸羽さんに言われた言葉が頭をかすめる。  正直、すぐに理解できなかったけれど、今わかった気がし
Last Updated: 2025-04-29
Chapter: 第四十五話
「本当にごめんなさい」 「謝らないでよ。こんなにすぐに誘う男は相手にしなくて正解。……トウヤ君が好き?」 「……」 率直に問われたけれど、私は頷くことも首を横に振ることもできずに押し黙ってしまう。  黒縁眼鏡の奥の優しい瞳が私を不思議そうに捉えていた。「私、本当に長い間、恋をしていないんです」 「……え?」 私の返事が意外だったのか、戸羽さんは驚いた拍子に小さな声を発した。「合コンに行くこともあっけど、そこで恋人関係になれるような出会いはなくて……」 「うん」「私、ある意味病気なんですよ。病名は“本気の恋の始め方を忘れた病”」 私がおどけるように笑うと、戸羽さんも「長い病名だね」と言って笑みを浮かべた。「実は彼も同じ病気だから、ふたりでリハビリしようって決めたんです」 「……そっか。医者の俺でも治せない病気だね」 「はい。彼は私に重要なことをたくさん教えてくれたように思います。でも……私は彼を好きなのかわからない。これははたして恋なのか、自信がありません」 斗夜とのデートは時間があっという間で、話していて楽しかったし飽きることなく過ごせた。  だけど斗夜が時枝さんと毎日蜜月だった今週は、ずっとモヤモヤとした感情に支配され続け、その正体がわからずに、苦しみ続けた。「もっとシンプルに考えればいいのに」 戸羽さんが空を見上げてしばし考え、私にアドバイスをくれる。「例えば、俺がほかの女の子とデートしても咲羅ちゃんはまったく平気だろうけど。トウヤ君がほかの子とデートしたら嫌だろ?」 「……どうかな」 「じゃあ、ホテルに行ったら?」 「それは嫌です」 斗夜がほかの子を抱くなんて、想像しただけで気持ちが悪くて吐きそうだ。「今、想像しただけで胸が締めつけられたよね? それは立派な嫉妬だよ。好きな証拠だと思うけど?」 そうか、思い出せなかったモヤモヤとした感情の名は…… 嫉妬だ。  急に自分の中で、ストンと腑に落ちた。「やっぱりまだリハビリが必要だね」 「……え?」 「大丈夫。実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ」 この病は普通の医者では治せないはずなのに、戸羽さんはなんでも治せてしまう神様みたいな人なのかもしれない。「……帰ろうか」 「はい」 駅の改札を抜けたところで挨拶を交わす。互いに乗る電車は反対方向のため、こ
Last Updated: 2025-04-28
解けない恋の魔法

解けない恋の魔法

ブライダル会社に勤める緋雪(ひゆき)は、新企画のためのブライダルドレスのデザインを、新進気鋭のデザイナー・最上梨子(もがみりこ)に依頼しに行く。 しかし、オファーを請ける代わりに、ある秘密を守ってほしいとマネージャーである宮田(みやた)に頼まれてしまう。宮田は見た目とは違って中身は変わり者で、緋雪は振り回されるが、冗談めかしながらも好きだと言われるうちに意識し始める。 だが、宮田を好きなモデルのハンナに嫉妬された緋雪はあからさまに意地悪をされて……
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Chapter: 第十章 運命の出会い 第七話
「だけど、ものには順序ってもんがあるからね」 「は?」 「まずは緋雪が僕のマンションに越して来る件を決行しなきゃ」 「えぇ?!」 昨日の発言、覚えていたんですか……。「とりあえず今日も仕事終わったらうちに来る? それとも今日は僕が初めて緋雪の家に行こうか?」 「あ、あの……」 「ほら、どっちにしろ帰るのが面倒っていうかさ。それなら居住スペースをひとつにしちゃえばいいんだよ」 「そ、そんなに一緒に住みたいんですか?」 興奮気味にペラペラと話す彼に、そう言葉を返すのが精一杯だった。「うん。だって毎日緋雪にキスしたいし。抱きしめたいし、それ以上のこともしたい」 「それだと、操さんの言ってたとおりじゃないですか!」 「ん? 操?」 「……なんでもないです」 軽く思い出し笑いをしているのを見られたくなくて、ふいっと顔を背けたのに。  彼は私の肩を掴んでグイっと引き寄せたかと思うと、顔を傾けてキスをした。「わっ! こんな所でしちゃダメです!」 ここは路上。公衆の面前だ。  しかも、しかも! 会社の目の前なのに!  驚いて抗議しても、彼は不敵に笑っているだけだった。「僕はどうせ“ド変態”だからね。路上でチューなんてへっちゃら。緋雪限定だけど」 操さんが言っていた“ド変態”という言葉。  私は口にするのをためらって、その言葉を咄嗟に飲み込んだのに。  ……彼も覚えていたらしい。  そう思ったらおかしくて、笑いがこみ上げた。「まさか誰も思わないですよね。最上梨子が実は“ド変態”だなんて」 「そんなこと言うと、ウエディングドレス作ってあげないからね」 「それは嫌です」 少し前までは、全く知らなかったな。  この人と会話すると、こんなに楽しくなるなんて。  この人の笑顔を見ると、こんなに嬉しくなるなんて。  この人を、こんなに愛しく思うなんて。  ……大切にしたくなるなんて。「“ド変態”の僕は嫌い?」 「……嫌いじゃないです」 「じゃあ、今夜も……」 「き、昨日もしたのに……」 「はは。昨日は昨日」 照れてる緋雪もかわいい、なんて言われるともうお手上げ状態だ。  ふと、二階堂さんの言ってた言葉を思い出した。 ―――― 『運命の出会い』 この人の笑顔も、温
Last Updated: 2025-05-06
Chapter: 第十章 運命の出会い 第六話
「では、交渉成立ということで。このドレスのデザイン、僕のスタッフのパタンナーに型紙起こしてもらっていいですか?」 「よろしくお願いします」 会議室を出てエレベーターに乗り、私は宮田さんを見送るために一階まで降りた。  見送ったら、ついでに少し休憩してから戻ろうかな。「良かったですね。すべてうまくいきましたね」 会社の外に出て、大きく太陽に向かって伸びをしながら私は隣に佇む宮田さんをチラリと盗み見る。「そうだね。いずれ気づかれるかも……とは思ってたけど、まさかあんなにズバっと袴田さんに正体を言い当てられるのは意外だったな」 「あのときは本当に心臓が止まるかと思うほど驚きましたよ」 「はは。緋雪は必死に否定してくれたよね」 なんでもないことだったみたいに笑う彼を見ていると、私もあきれながらも笑顔になった。「でも、結局宮田さんは世間にバレてもかまわないみたいなこと言っちゃうし」 「僕はただ、緋雪を守りたかっただけなんだけどな。ていうか、……昴樹」 「え?」 「今、休憩中でしょ? だったら“昴樹”って呼んでよ。昨日の夜はベッドの中で素直に呼んでくれたのに……」 「わぁーー!! なんてこと言うんですか!」 真っ赤な顔で宮田さんの口を両手で塞ごうとすると、逃げながらケラケラと笑われた。「僕を必死に守ろうとしてくれたこと、うれしかったよ。ありがとう」 お礼なんて言われたら、胸がキュンとしてしまう。  私は不器用だから、誤魔化しなんて袴田部長には最初から通用しなかったのに。「私も……昴樹さんが私を手放さないって言ってくれたこと、とてもうれしかったです」 デザイナーである前にひとりの男だと……  だから私を手放さないと言ってくれたときは、感動で涙があふれた。「当たり前だよ。パワーの源だって言ったでしょ。緋雪が傍にいてくれたら、きっとどんなデザインでも描けるし、なんでもできる」 本当に今の彼……いや、パワーアップした最上梨子ならどんなデザインでも、すごいものが描けそうだと思う。「これから忙しくなるなぁ。さっきのうちわとメモ用紙のデザインは楽勝だとしても、まだ森のイメージのブライダルドレスもデザインしなきゃいけないしさ。ブレスレッドにネックレスにリング、ジュエリーデザインもやりたいし」 「やりたいこと、いっぱいですね」 「うん。全部緋
Last Updated: 2025-05-06
Chapter: 第十章 運命の出会い 第五話
「では……」 「お言葉を返すようですが、それはできません」 「え……?」 「僕を好きになってくれますように、と僕自身が魔法をかけました。彼女に初めて会ったときから、しかも解けないように魔法をかけつづけてます。今も」 話の方向がわからないのか、袴田部長は押し黙って宮田さんの言葉を聞き入っている。「魔法をかけたのは最上梨子ではありません。宮田昴樹というひとりの男です。僕はデザイナー・最上梨子である前に、ひとりの人間ですから。僕のすべてのパワーの源である彼女を手放すことなんて……魔法を解くことなんてできません。第一、この魔法の解き方なんて知らないですよ」 宮田さんのその言葉を聞いて、とうとう涙が零れ落ちてしまった。  パワーの源だと、私を手放さないと言ってくれたことがうれしくて。  でも今は泣いてはいけない、と思い、慌てて自分の頬を掌で拭う。「……はは。あなたは人間ではなく、魔法使いでしたか」 「……」 「最初はあなたが朝日奈に気があるように思えましたが。あなたに接するうち、純粋な朝日奈のが最上梨子であるあなたに惚れてしまったんだと思ってました。ですが、お話を聞く限りではあなたのほうが口説いたと?」「はい」 ふたりの表情が和らぎ、少しずつ笑みが戻ってくる。「しかし。こんなヤツのどこがいいんですか? 私にはさっぱりわかりませんね」 「そうですか? 袴田さんもお気に入りでは?」 「勘弁してくださいよ。いつも世話を焼かされてるだけですから」 「それは良かった。まぁ……気に入ってると言われても、誰にも渡しませんけど」 そんな会話をしつつ、ふたりが笑いあっている。  会話の内容は私のことなのに、そんなふたりをただ傍観するしかできなかった。「ですから袴田さん、お願いは別のことでお願いします」 「とは言っても……」 「なにかデザインできるものがあったら、なんでもやりますよ。もちろんノーギャラで」 ……デザインできるもの?  ドレスはさすがにもう稟議を通すのは難しい。だとしたら、ほかにデザインできるものっていったいなに?「あっ!」 突然声を出した私に、ふたりが同時に視線を向けてくる。「なんだよ、急に大きな声を出して」 「部長、アレがありますよ」 「アレ?」 「毎年夏に会社でうちわを作るじゃないですか!」 「あ……うちわ、ねぇ
Last Updated: 2025-05-04
Chapter: 第十章 運命の出会い 第四話
 それは最上梨子のデザイン画でもあるけど……。  それよりも、宮田昴樹というひとりの男性を守りたいんだ。  騒がれて傷つく彼の姿は見たくない。「それは……どういう意味だ?」 「……」 「俺は……お前はもっと、身の丈を知ってるヤツだと思ってたんだがな」 頑なに頭を上げない私の頭上に、辛らつな言葉が突き刺さる。  きっと私の気持ちは、部長にはお見通しだ。「公私混同するなよ。相手は今をときめくデザイナーだぞ?」 「……すみません」 「最上梨子に、惚れてどうするんだ!!」 「やめてください!」 部長が大きな声で私を叱咤する。  泣きそうになるのをグッと堪えて俯いたままでいると、それを制止する宮田さんの声が聞こえてきた。「彼女を……朝日奈さんを責めないでください」 「……」 「悪いのはすべて僕ですから」 ……宮田さん。「袴田さん、僕の正体のことを誰かに喋りたいのなら、それでも構いません」 宮田さん……なにを言ってるの?「ペラペラと他所で喋って、私になんのメリットがあるっていうんです? 週刊誌の記者にリークして小金を稼ぐとでも? 冗談じゃない。私も元はあなたと同じデザイナーの端くれ。同業者を売るような汚いマネなんてしませんよ。見くびってもらっては困ります」 「いえ……決してそういう意味では……」 袴田部長の勢いに飲まれたのか、宮田さんが難しい顔をして押し黙る。「あなたと朝日奈の間で、なにが約束されて、どういう経緯でこのデザインが描かれるに至ったのか、私は詳しくは知りません。まぁ、もうそんなことは知らなくてもいいです。ですが、私がこの秘密のことを黙っている代わりに宮田さん、ひとつお願いを聞いてもらえませんか」 神妙な顔つきで提案を突きつける部長に、私は隣で息を呑んだ。「お願い、とはなんでしょう?」 「朝日奈は見ての通り不器用で、一生懸命真面目にやりすぎるところがあります。最上梨子の秘密を守りたいと強く思うあまり、最上梨子に恋をしてしまった」 「部長……」 「その呪縛を解いてやってください。朝日奈を……解放してやってください」 呪縛って……そんな言い方ひどい。  しかも部長はなにか勘違いしていると思う。 まるでそれじゃ、私が囚われてがんじ絡めになってるみたいだ。「部長! 呪縛だなんて。勝手に決め付けないでください!」
Last Updated: 2025-05-03
Chapter: 第十章 運命の出会い 第三話
「いえ。最上梨子が描きました」 「……だからそれは、あなたでは?」 ……どうして部長がそれを知ってるのだろう。  私の強張った顔からは嫌な汗が噴出し、これ以上ないくらいに激しい動悸がした。「ぶ、部長! なにを仰っているのかわからないです」 「朝日奈、お前は黙ってろ。俺は今、宮田さんに尋ねているんだ」 ここで部長にバレたらどうなるの?  せっかくこんなに素敵なデザインを描いてもらえたというのに、すべて白紙に戻るかもしれない。  宮田さんは最初に言ったから。  秘密がバレたら、仕事は反故にする、と。  実際に、このデザインがドレスになることはないの? 幻で終わる?  それも嫌だけれど、そんなことよりも。  部長がこの事実をほかの誰かに漏らしてしまったら……彼が最上梨子だったと世間にバレてしまいかねない。  それは絶対に嫌だ。  だって彼がずっと守り通してきた秘密なのだから  バレるなんてダメ! 絶対にダメ!!「宮田さんは最上さんのマネージャーさんですよ! な、なにを変なこと言い出してるんですか、部長!」 「……朝日奈」 「私、黙りませんよ! おかしなことを言ってるのは部長ですから! 違いますよ、絶対に違います! マ、マネージャーさんが……そんな、デザインなんて描けるわけもないですし……」 「朝日奈さん、もういいです」 そう言った宮田さんを見ると、困ったような顔で笑っていた。「袴田さんには最初からバレる気がなんとなくしていました」 「朝日奈が必死に否定したのが、逆に肯定的で決定打でしたけどね」 「はは。そうですね」 そのふたりの会話で気が遠のきそうになった。  私があわてて否定すればするほど、逆に怪しかっただなんて。「で、いつから気づいてました?」 「変だなと思ったのは、あなたがここに視察に来たときです」 部長の言葉に、やはりという表情で宮田さんが穏やかに笑う。「普通、物を造る人間は大抵自分の目で見て確認したいものです。特にデザイナーなんていう、なにもない“無”のところから発想を生み出す人間は。……私もそうでしたからわかります」 「そうですね」 「だけどあなたは最上さんの代理だと言ってやって来た。いくら彼女がメディアには出ないと言っても、それはさすがに不自然でしたから」 「なるほど」 私にはそんなこと、ひ
Last Updated: 2025-05-01
Chapter: 第十章 運命の出会い 第二話
 エレベーターで企画部のフロアに到着すると、先に宮田さんを会議室へと通して袴田部長を呼びに行く。  私がコーヒーを三つお盆に乗せて部屋に入ると、ふたりが立ってお決まりの挨拶をしているところだった。「わざわざご足労いただいて恐縮です」 「いえいえ。こちらこそ最上本人じゃなく私が代理で訪れる非礼をお許しください」 「早速ですが、デザインが出来たとかで……?」 「はい」 袴田部長もどんなデザインなのか気になっているのだろう。  ワクワクしているような笑顔を私たちに見せる。「朝日奈、お前はもう見たんだろう?」 「はい。部長も今からド肝を抜かれますよ」 「お前……客人の前で“ド肝”って……」 「あ、すみません」 いけない、いけない。  普段の口調からなにかボロが出ることもあるんだから、この際私は極力黙っていよう。「では袴田さんもご覧いだだけますか」 先ほどと同じように、宮田さんが書類ケースからデザイン画の描かれたケント紙を取り出して部長の前に差し出す。  それを一目見た部長は、一瞬で目を丸くして驚いた様子だった。「これは……すごい」 ドレスの形はマーメイド。  色はエメラルドグリーンを基調に、下にさがるほど濃くなるグラデーションになっている。  肩の部分はノースリーブで、胸のところで生地の切り返しがあってセクシーさを強調している。  そして、なんと言っても素晴らしいのはスカート部分だ。  元々、曲線美を得意とする最上梨子らしく、長い裾のスカートのデザインは、まるで波のような動きを表していた。「この部分は?」 部長が指をさしたのは、肩から羽織る白のオーガンジーの部分だった。「海のイメージだったので、最上は人魚を連想したようで。それで形もマーメイドにしたようなのですが、上半身が少し寂しい気がしてそれを付け足したそうです。必要ないなら省くように言いましょうか?」 「いえ。これはまるで“羽衣”みたいだと思ったもので。私もあったほうがいいと思います。しかしドレスの色も、いいですねぇ」 「朝日奈さんに聞けば、披露宴会場の中は深いブルーにするおつもりだと。そこで最上は明るいエメラルドグリーンのドレスが映えると思いついたみたいです」 さすがですね、とデザインをベタ褒めする部長を見ていると私もうれしくて頬が緩んだ。  自分で絶好調だと
Last Updated: 2025-05-01
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