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第3話

Author: 匿名
ここを離れたいと思った。一度そう考えたら、実行に移すのは時間の問題だった。

早朝の病院の廊下は、点滴のしずくが落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだ。僕は自分のデスクで、異動に必要な書類を整理していると、ドアをノックする音がした。

「どうぞ」

ドアが開き、作り笑いを浮かべた悠真が顔をのぞかせた。両手にコーヒーを2杯持っている。白衣の襟元から見える深い青色のシャツが、目に刺さった。

見覚えのあるデザインだった。先月、夏帆がスマホを見せながら尋ねてきたのだ。

「ネイビーとロイヤルブルー、どっちがいいと思う?」

僕は自分への贈り物だと思い込み、何気なく色を選んだ。その後で値段を見て、高すぎるからやめておこうと勧めたのだった。

あのとき、少しこわばった夏帆の笑顔。今思えば、なんとも皮肉な話だ。

「岸本先生、昨日は本当にすみませんでした」

悠真は机にコーヒーを置いた。わざとらしいほど声を落として続ける。

「ちゃんとお詫びしたくて、来たんです」

置かれたコーヒーを見たが、手は伸ばさなかった。気になるのは、やはりその襟元だった。

「いいシャツだね」

悠真はうつむいて襟を整え、得意げに口の端を上げた。

「ああ、瀬戸先生が正式採用のお祝いにくださったんです。ロイヤルブルーが僕の肌に合うって」

少し間を置き、さらに言う。

「そうそう、来週から正式に瀬戸先生のチームに入ることになりました。瀬戸先生がわざわざ呼んでくださったんですよ。そばで、もっといろいろ学んでほしいって。岸本先生、実は前から言いたかったんですが……」

悠真が顔を寄せ、さらに声を低くした。

「恋人ひとり引き留められないなんて、あまりにも情けなくありませんか?」

手の中でペンがぱきりと折れ、異動願にインクが飛び散った。

もう我慢の限界だった。それでも職場で争うのは避けたくて、立ち上がってドアを開けた。

「出ていってくれ」

すると悠真は急におびえた顔を作り、よろめきながら2歩下がった。

「岸本先生、僕は謝りに来ただけなのに、そんな……」

廊下から聞き慣れたヒールの音が近づいてきて、ようやく狙いがわかった。

次の瞬間、悠真は見えない手に押されたかのように、床へ激しく倒れ込んだ。コーヒーが全身にかかる。

ドアの前に来た夏帆が目にしたのは、ちょうどその光景だった。顔がみるみる青ざめていく。

「遼!何をしてるの!?」

コーヒーまみれの白衣をまとい、床で苦しそうに体を丸める悠真。僕は立ち尽くし、どうすればいいのかわからなかった。

「僕は何もしてない。彼が勝手に……」

「黙って!」

夏帆は駆け寄って悠真を支え起こし、こちらを振り返った。僕の言葉をはねつけるように言う。

「わざわざ謝りに来てくれた人に、こんなことをするの?」

「僕じゃない……」

「この目で見たの!悠真があなたのところへ行くって言ったときから、心配してた。また意地悪されるんじゃないかって。でも、まさか手まで出すなんて!研修医にこんなことをして、ひどすぎると思わないの!?」

廊下には、いつの間にか大勢の同僚が集まっていた。

悠真をかばう夏帆を見ていると、急に何もかもばかばかしく思えてきた。

「夏帆、彼がさっき僕に何を言ったか、知ってる?」

夏帆は冷ややかに笑った。

「それが何?私が見たのは、あなたが悠真を突き飛ばしたところだけ!」

悠真が絶妙なタイミングでせき込み、夏帆の袖をつかんだ。

「僕は大丈夫です。ただ、コーヒーがちょっと熱くて……」

夏帆は慌ててその腕を確かめた。

「赤くなってる!行こう、処置してもらわないと」

悠真に肩を貸して歩きだし、ドアのところで足を止めた。こちらを見ようともせずに言う。

「遼、今回は本当にやりすぎ。これだけは絶対に許せない。悠真に謝らないなら、私たちは終わりだから!」

ドアが乱暴に閉められた。

足元のコーヒーだまりに、ゆがんだ僕の顔が映っていた。異動願のインクは大きくにじんでいる。7年かけて少しずつ傷つけられ、染みだらけになった僕の思いのようだった。

まだ何か、未練があるだろうか。

ない。もう、何ひとつ。

息を吐いてスマホを取り出し、院長に電話をかけた。

「汐凪市への異動の件ですが、できるだけ早く移りたいんです。今週中に出発しても大丈夫ですか?

わかりました。すぐ準備します」

電話を切り、机の上の夏帆との写真を最後に一度だけ見た。そっと、伏せて置く。

99回分の許しは、もう使い果たした。

100回目は、僕自身を解き放つと決めた。

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