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99回、君を許した

99回、君を許した

By:  匿名Kumpleto
Language: Japanese
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付き合って7年。婚約者は、ある男性研修医を優先して、僕との入籍を99回断った。 最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がっているからと、僕との旅行を放り出し、その夜の飛行機で病院へ戻った。 2回目は、もう役所に入るところだった。彼が働きすぎで倒れたと知るや、彼女は僕を雪の中に丸一日置き去りにした。 それからも、僕が彼女と一緒にいるたびに、研修医はあれこれ理由をつけて、彼女を呼び出した。 とうとう僕は手を放すと決めた。彼女と幸せな結婚をする日を、もう待つのはやめよう。 ところが、僕の異動を知った彼女は、やがて取り乱し、僕にすがるようになった。

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Kabanata 1

第1話

役所の入口の階段は、座り続けた僕の体温で熱を帯びていた。

何度目かもわからないまま、スマホの画面をつける。瀬戸夏帆(せと かほ)からの最後のメッセージは、3時間前のままだ。

【急患が入ったの。少しだけ待ってて】

少しと言われて待っていたら、何時間も過ぎていた。

見慣れた白いSUVがようやく現れた。思わず勢いよく立ち上がりかけて、そのまま動けなくなる。

助手席にいたのは宮坂悠真(みやさか ゆうま)。どこまでも僕たちにつきまとう、あの研修医だった。

夏帆が窓を下ろす。その声には、聞き慣れた焦りがにじんでいた。

「早く乗って!悠真が急に動悸を訴えてて、すぐ病院に連れていかないと」

悠真が待っていたように苦しげなうめき声を上げ、座席で体を丸めた。そちらへ目を向けると、今日は髪まできっちりセットしている。白衣の下からのぞくシャツの襟にも、丁寧にアイロンがかかっている。

血色だって僕よりいい。

その様子を見て、突然の動悸だと素直に信じる気にはなれなかった。僕も医者だということを、夏帆は忘れたのだろうか。

深く息を吸った。

「夏帆、今日は入籍する日だって、覚えてる?」

夏帆は苛立たしげにハンドルをたたいた。

「覚えてる!でも今は悠真の容体が危ないの。こんなときまで、自分のことばかり言わないで!」

悠真が力なく顔を上げた。また、遠慮がちな、物わかりのいい顔を作っている。

「僕は大丈夫です、瀬戸先生。お二人は先に手続きを……僕は、自分でタクシーを呼びますから……」

そう言ってシートベルトを外そうとした悠真が、ふと顔をこちらに向けた。その口元に、勝ち誇った笑みが浮かぶのを僕は見逃さなかった。

こうして悠真が気を遣うふりをするほど、夏帆の目には僕がわからず屋に映る。夏帆は声を荒らげ、ベルトを外そうとする悠真の手を押さえた。

「岸本遼(きしもと りょう)、何を考えてるの!?こんな状態なのに、まだそんなことを言うの?入籍なんていつでもできるでしょう。悠真に何かあったらどうするの!命がかかってるの。わがままもいい加減にして!」

わがままなのは、僕なのか。

ここにいる3人とも医者だ。こんな下手な芝居でごまかせると思われていることが、医者としても腹立たしかった。

「午前の回診のときは、ナースステーションで冗談を言ってたよね。それが急にICUに入るほど悪くなったの?」

「いい加減にして!」

夏帆が勢いよく車のドアを開けた。

「今、脈が速くなって、息苦しがってるの。いつ何が起きても――」

「窒息する?ショックを起こす?」

僕はその先を遮った。

「心臓の病気でどんな症状が出るか、君も知っているだろう。今の彼が、そんなに切迫した状態に見える?」

悠真の演技が途切れた。取り繕おうとする顔に、焦りや戸惑いが次々と浮かぶ。

それでも夏帆は、僕が悠真を見殺しにしようとしていると決めつけていた。ますます声を荒らげる。

「もう少し大人になれないの?いつも悠真を目の敵にして、何になるの!」

目の敵、か。

悠真のためなら、夏帆はいつでも僕に譲らせ、何度でも約束を破ってきた。僕たちの関係を大事にしてほしいと、一度言っただけで、そんなふうに受け取られる。

思わず、ふっと鼻で笑った。ゆっくりと書類をポケットに戻す。

「99回目だよ」

「……何が?」

「入籍をしようとするのは、今日で99回目だ。君が彼のために僕との約束を破ったのも、これで99回目」

背を向けて地下鉄の駅へ歩きだす。背後のヒールの音が一瞬途切れ、それから僕を追ってきた。

「最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がってるからって、僕との旅行を放り出して、その夜の飛行機で病院に戻って、彼に付き添った。

次は、もう役所に入るところだったのに、彼が働きすぎで倒れたと聞いて、僕を雪の中に丸一日置き去りにした」

夏帆の目を見ながら、つかまれていた手をゆっくりと引き抜いた。

「今日で99回目だよ……夏帆、今日が付き合って7年の記念日だってことは、覚えてる?」

夏帆の目に、一瞬、動揺が浮かんだ。何か言い訳をしようとした、そのとき、車の中で悠真がまたうめいた。

夏帆は一度そちらを振り返った。僕に向き直ったとき、その目はもう、あの人を案じる色に戻っている。

「怒ってるのはわかる。でも今、悠真には私が必要なの。入籍するために治療を遅らせるわけにはいかないでしょ。タクシーで帰って。私は先に彼を病院へ連れていくから」

僕はうなずいた。

二人を乗せた車が走り去る。それを見送って、この7年の何より残酷な答えを、僕はようやく思い知った。

夏帆はいつだって、自分を必要としてくれる人を求めている。

そして、その相手は一度も、僕ではなかった。

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9 Kabanata
第1話
役所の入口の階段は、座り続けた僕の体温で熱を帯びていた。何度目かもわからないまま、スマホの画面をつける。瀬戸夏帆(せと かほ)からの最後のメッセージは、3時間前のままだ。【急患が入ったの。少しだけ待ってて】少しと言われて待っていたら、何時間も過ぎていた。見慣れた白いSUVがようやく現れた。思わず勢いよく立ち上がりかけて、そのまま動けなくなる。助手席にいたのは宮坂悠真(みやさか ゆうま)。どこまでも僕たちにつきまとう、あの研修医だった。夏帆が窓を下ろす。その声には、聞き慣れた焦りがにじんでいた。「早く乗って!悠真が急に動悸を訴えてて、すぐ病院に連れていかないと」悠真が待っていたように苦しげなうめき声を上げ、座席で体を丸めた。そちらへ目を向けると、今日は髪まできっちりセットしている。白衣の下からのぞくシャツの襟にも、丁寧にアイロンがかかっている。血色だって僕よりいい。その様子を見て、突然の動悸だと素直に信じる気にはなれなかった。僕も医者だということを、夏帆は忘れたのだろうか。深く息を吸った。「夏帆、今日は入籍する日だって、覚えてる?」夏帆は苛立たしげにハンドルをたたいた。「覚えてる!でも今は悠真の容体が危ないの。こんなときまで、自分のことばかり言わないで!」悠真が力なく顔を上げた。また、遠慮がちな、物わかりのいい顔を作っている。「僕は大丈夫です、瀬戸先生。お二人は先に手続きを……僕は、自分でタクシーを呼びますから……」そう言ってシートベルトを外そうとした悠真が、ふと顔をこちらに向けた。その口元に、勝ち誇った笑みが浮かぶのを僕は見逃さなかった。こうして悠真が気を遣うふりをするほど、夏帆の目には僕がわからず屋に映る。夏帆は声を荒らげ、ベルトを外そうとする悠真の手を押さえた。「岸本遼(きしもと りょう)、何を考えてるの!?こんな状態なのに、まだそんなことを言うの?入籍なんていつでもできるでしょう。悠真に何かあったらどうするの!命がかかってるの。わがままもいい加減にして!」わがままなのは、僕なのか。ここにいる3人とも医者だ。こんな下手な芝居でごまかせると思われていることが、医者としても腹立たしかった。「午前の回診のときは、ナースステーションで冗談を言ってたよね。それが急にICUに入るほど悪く
Magbasa pa
第2話
タクシーには乗らず、歩いて帰った。家に着く頃には、もう薄暗くなっていた。玄関に立ち、靴箱の上に飾られた二人の写真を見る。3年前、南の島で撮ったものだ。夏帆は本当に楽しそうに笑っていて、その目には星がいっぱいに詰まっているようだった。今、その輝きはすべて、別の人に向けられている。胸の奥から、どうしようもない無力感が湧いてきた。ソファに体を投げ出すと、スマホが震えた。夏帆からだ。【検査が終わったよ。悠真は大丈夫。少し低血糖を起こしただけだった】画面を見つめたまま、文字を打とうとしては指が止まる。さんざん迷って、結局送ったのは短い返事だけだった。【わかった】すぐに、次のメッセージが届く。【今夜、一緒に食事しよう。いつものお店で】断るべきだった。けれど、再び画面が光った。【あなたの好きな窓際の席、予約しておいたよ】それを見ただけで、情けないほど心が揺らいだ。7年間もの習慣は恐ろしい。今度こそ、自分が悪かったと気づいて、変わろうとしているのかもしれない。残りわずかな期待を抱いて、待ち合わせの店へ向かった。初めてデートをした、あのイタリアンレストランだった。夏帆は念入りに化粧をして、僕が贈った赤いワンピースを着ていた。目の前のマッシュルームのクリームスープをかき混ぜながら、以前と変わらない穏やかな様子で口を開く。「今日のことは……私が焦りすぎたと思う」僕は何も言わずにステーキを切った。「でも、悠真はまだ若いし、わからないことも多いでしょう。それに、本当に何かあったら……」ナイフとフォークが皿をこすり、耳障りな音を立てた。僕は表情を動かさず、顔を上げる。「夏帆、この食事の間だけでいいから、彼の話をしないでもらえる?」夏帆は一瞬きょとんとした後、笑ってうなずいた。「わかった」ようやく、空気が少し和らいだ。来週公開される映画のこと、新しく科に来た部長のこと。話は学生時代の失敗談にまで及んだ。ふと、昔に戻れたように感じる瞬間もあった。それなのに――「もう少し早く食べて」不意に夏帆が急かした。「どうして?」夏帆は手元のスマホに目を落とす。「悠真がここのティラミスを食べたいんだって。ひとつ、持ち帰ってあげようと思って」フォークが手から滑り、皿の上に落ちた。「本気で
Magbasa pa
第3話
ここを離れたいと思った。一度そう考えたら、実行に移すのは時間の問題だった。早朝の病院の廊下は、点滴のしずくが落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだ。僕は自分のデスクで、異動に必要な書類を整理していると、ドアをノックする音がした。「どうぞ」ドアが開き、作り笑いを浮かべた悠真が顔をのぞかせた。両手にコーヒーを2杯持っている。白衣の襟元から見える深い青色のシャツが、目に刺さった。見覚えのあるデザインだった。先月、夏帆がスマホを見せながら尋ねてきたのだ。「ネイビーとロイヤルブルー、どっちがいいと思う?」僕は自分への贈り物だと思い込み、何気なく色を選んだ。その後で値段を見て、高すぎるからやめておこうと勧めたのだった。あのとき、少しこわばった夏帆の笑顔。今思えば、なんとも皮肉な話だ。「岸本先生、昨日は本当にすみませんでした」悠真は机にコーヒーを置いた。わざとらしいほど声を落として続ける。「ちゃんとお詫びしたくて、来たんです」置かれたコーヒーを見たが、手は伸ばさなかった。気になるのは、やはりその襟元だった。「いいシャツだね」悠真はうつむいて襟を整え、得意げに口の端を上げた。「ああ、瀬戸先生が正式採用のお祝いにくださったんです。ロイヤルブルーが僕の肌に合うって」少し間を置き、さらに言う。「そうそう、来週から正式に瀬戸先生のチームに入ることになりました。瀬戸先生がわざわざ呼んでくださったんですよ。そばで、もっといろいろ学んでほしいって。岸本先生、実は前から言いたかったんですが……」悠真が顔を寄せ、さらに声を低くした。「恋人ひとり引き留められないなんて、あまりにも情けなくありませんか?」手の中でペンがぱきりと折れ、異動願にインクが飛び散った。もう我慢の限界だった。それでも職場で争うのは避けたくて、立ち上がってドアを開けた。「出ていってくれ」すると悠真は急におびえた顔を作り、よろめきながら2歩下がった。「岸本先生、僕は謝りに来ただけなのに、そんな……」廊下から聞き慣れたヒールの音が近づいてきて、ようやく狙いがわかった。次の瞬間、悠真は見えない手に押されたかのように、床へ激しく倒れ込んだ。コーヒーが全身にかかる。ドアの前に来た夏帆が目にしたのは、ちょうどその光景だった。顔がみるみる青ざめてい
Magbasa pa
第4話
悠真の一件以来、夏帆とは口をきかない日が続いていた。荷造りをするには、むしろ好都合だった。かつていちばん気に入っていたマグカップも、ほとんど迷わずごみ箱に捨てた。初めてのデートで買った、寄り添う2匹の猫の絵がついたカップだ。7年がたち、カップの底もところどころ色がはげていた。まるで、すっかり色あせた僕たちの関係みたいだった。片づけながら捨てていく。二人の思い出の品はすべて、ごみに出すためにまとめた。寝室に並べた段ボールには、自分のものをひとつずつ詰めていった。クローゼットのいちばん奥から、夏帆が初めてくれたプレゼントが出てきた。濃いグレーのマフラー。1か月かけてこっそり編み物を覚えたという、編み目の不ぞろいな手編みだった。しばらく見つめた後、それも、「保留」の袋に押し込んだ。不意に鍵の回る音がした。顔を上げると、夏帆が入ってくるところだった。手には悠真のお気に入りの洋菓子店の紙袋を提げている。散らかった床を見た途端、笑顔が固まった。「へえ、今度は何のつもり?」バッグをソファへ放り、わざと明るい声を出す。「いい年をして、子どもみたいに家出ごっこ?」何も言わず、仕事の鞄から用意してあった異動願を出して、目の前に差し出した。空気が凍りついたようだった。夏帆の顔から嘲笑が消え、驚きに変わり、最後には怒りでゆがんだ。差し出した手をはたかれ、書類が床に散らばった。「こんな偽物で、私をだませると思ってるの!?悠真と距離を置かせたいだけでしょう。病院を辞めるって脅すつもり?遼、いつからそんな卑怯なことをするようになったの!」かがんで紙を拾い、軽くほこりを払った。「脅しじゃない。本気だよ」「嘘ばっかり!」夏帆の声が跳ね上がった。「あの日、私が悠真をかばったから、仕返ししてるんでしょう!」僕は首を振った。自分でも驚くほど、声は静かだった。「それもあるけど、それだけじゃない。もう、長い間ずっと疲れてたんだ。病院を移るだけじゃない。夏帆……僕たちも別れよう」夏帆の目に、かすかな怯えがよぎったのを確かに見た。けれど彼女は、僕に対して優位に立つことに慣れすぎていた。自分の言動を省みることも、謝ることも、二人の間にある問題に向き合って、根本から解決しようとすることもない。ただ、僕が仲直りを求めてく
Magbasa pa
第5話
それから夏帆は、ますます露骨に僕を挑発するようになった。朝の回診では、毎日、偶然を装って悠真と一緒に現れる。悠真は決まってあのロイヤルブルーのシャツを着ていて、わざわざ僕の前で、夏帆の白衣の襟を整えた。夏帆もとびきり甘い笑みを浮かべ、廊下中に聞こえる声で言う。「本当に気が利くんだね」ナースステーションでは若い看護師たちがささやき合っていた。同情の目を向けてくる人もいたが、僕が醜態をさらすのを待っている人のほうが多そうだった。ある日は、悠真がわざわざ食堂で僕を呼び止めた。「今夜、瀬戸先生が、先生のお気に入りのお店に連れていってくれるんです」悠真が意味ありげにまばたきをした。「お二人が初めてデートした、あのお店ですよ」僕は目も合わせず、その横を通り過ぎた。いちばんひどかったのは、水曜日の朝のミーティングだ。夏帆は堂々と10分も遅れ、悠真と一緒に息を切らして会議室へ駆け込んできた。夏帆の首元には、はっきり赤い痕が見えていた。悠真の勝ち誇った表情もあって、会議室は一瞬で静まり返った。部長が気まずそうにせき払いをした。「瀬戸先生、襟元が……」夏帆は気にする様子もなく髪を整えた。「すみません、寝坊してしまって」挑むような視線が、まっすぐ僕に向けられた。僕は手元のカルテをめくり、顔も上げなかった。そして金曜日、全職員が集まる会議で、この茶番はとうとう頂点に達した。院長がひと通り連絡事項を伝えたあと、突然こう告げた。「運営会議での協議の結果、岸本先生は汐凪市の分院に異動し、心臓外科の副部長に就任することになりました。着任は来週月曜日です」会場が一斉にざわついた。いくつもの視線が僕へ集まる。その中でも、3列目に座る夏帆の視線がひときわ痛かった。「そんなはずありません!」夏帆が勢いよく立ち上がった。張り詰めた声が、耳に刺さる。「院長、あまりにも急な決定ではありませんか?」院長は眼鏡を押し上げた。「瀬戸先生、これは岸本先生ご本人の希望ですよ。手続きはすべて済んでいます。それに、こちらを離れることは、もうあなたにも書面を渡して伝えたと聞いていますが」夏帆の顔が真っ青になった。こちらを向き、唇を震わせる。「あなた……本当に行くの?冗談じゃなかったの?」僕は静かにうなずいた。「飛
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第6話
幸い、最近は抱えている仕事も多くなく、引き継ぎは驚くほど順調に進んだ。執務室で最後の数冊のカルテを整理する。7年分の手術記録は、段ボールの中に整然と収まっていた。もうすぐ、これを管理するのも別の人になる。突然ドアが開き、夏帆が入口に立った。僕をじっとにらんでいる。今日は化粧をしておらず、目の下のくまが目立った。強くかみしめた唇は白くなっている。「私は……あなたがここを辞めること、まだ認めてない」顔も上げず、書類を整理し続けた。「人事異動に全員の了承はいらないよ。本院が決めたことだから」「遼!」夏帆が机をたたき、ペン立ての中のペンが跳ねた。けれど、その勢いはすぐにしぼんだ。指先で無意識に机の角をなぞっている。「いつまでこんなことを続けるつもりなの……」ようやく顔を上げ、静かに夏帆を見た。「仕事の引き継ぎ中です、瀬戸先生」よそよそしい呼び方に、夏帆の目がこわばった。すぐに目の縁を赤くしながら、それでも意地を張るように顔を背ける。夏帆はいつだって、僕に対しては上から物を言ってきた。僕が自分から離れていく日など、来るとは思っていなかったのだろう。僕にはここで待ち続け、何もかも受け入れる以外の道はないと、信じていたのだ。だから誰にでも優しく、理解を示せる。僕以外には。「別に、いてほしいなんて思ってない。毎日その不機嫌な顔を見ずに済んで、せいせいする!」そこへ悠真が顔をのぞかせた。また、いかにも心配しているという表情を作っている。「岸本先生、瀬戸先生……ずいぶん急に行かれるんですね。もしかして僕が、お二人の関係を壊してしまったんでしょうか。もしそうなら、謝ります。病院を辞めてもかまいません。お二人が仲よくいてくだされば、それでいいので。僕のことは気にしないでください……」「悠真!」夏帆が、不自然なほど鋭い声で遮った。悠真の腕をつかんで引き寄せる。その力に、悠真がよろめいた。「どうしてあなたが謝るの!心の狭い誰かが、勝手に私たちを疑ってるだけ。自分が卑しいから、何でもそういうふうにしか見えないんでしょう。相手にしなくていい。行こう!」悠真を引っ張って出ていこうとした夏帆が、ドアの前でぴたりと止まった。意外にも、その肩がわずかに震えている。「遼、もう一度だけ聞く。本当に行くの?」答えず、
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第7話
汐凪市での暮らしは、思っていた以上に順調だった。分院の同僚たちは温かく迎えてくれ、職場の雰囲気ものびのびとしていて居心地がいい。新しい生活のリズムにもすぐになじみ、この街のにぎわいも静けさも、楽しめるようになっていた。3か月後、僕は分院の代表として、全国規模の心臓外科の学術交流会に参加した。会場は汐凪国際会議場。各地から第一線で活躍する専門家が集まっていた。何人かの医師と最新の手術法について話していると、背後がざわついた。「遼」聞き慣れた声に、体がこわばった。振り返ると、少し離れたところに夏帆がいた。ぞっとするほど顔色が白い。ずいぶん痩せていた。体に合っていたはずの白衣が、今はぶかぶかだ。目は充血していて、長い間まともに休めていないように見えた。後ろには悠真がいた。ただ、二人の間にははっきり距離があり、以前のような親密さは感じられない。「本当に、あなたなんだ……」夏帆が足早に近づいてきた。声が少し弾んでいる。「来るって聞いたから、私、わざわざ……」言い終わる前に、目の縁が赤くなった。そんな様子には触れず、礼儀として軽く会釈をした。「瀬戸先生、お久しぶりです」「遼、私……」袖をつかもうと伸びてきた手が、途中で止まる。「後悔してる。本当に、後悔してるの……あなたがいない毎日が、私……」涙が一気にあふれ出した。泣き声で、言葉も聞き取れないほどだった。「毎日あなたのことを考えてる……私が悪かった。お願い、戻ってきてくれない?」会場では多くの人がこちらに気づき、興味ありげな視線を向けていた。悠真は気まずそうに脇に立ち、不快そうな顔をしている。僕は仕方なく1歩下がって距離を取った。「瀬戸先生、ここは学会の会場です。私的な話は、また別の機会に」「嫌、今話したい!」夏帆が急に声を張った。「私のこと、憎んでるのはわかってる。でも本当に、悪かったってわかったの!悠真が……」「夏帆さん!」悠真がとうとう口を挟んだ。「みんな見てますし、ここは……」「黙って!」夏帆が勢いよく振り向き、鋭い目で悠真をにらんだ。「全部あなたのせい!あなたさえ……」そこで言葉が途切れた。取り乱していることに気づいたのか、慌てて僕を見る。「遼、やり直そう?今度こそ、約束するから……」「ごめ
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第8話
夏帆との再会は、ちょっとした出来事として過ぎていくと思っていた。けれど、彼女の執着は想像を超えていた。学会での騒ぎの後、スマホにはひっきりなしに電話がかかり、メッセージが届くようになった。初めは謝罪と後悔の言葉。それが思い出をつづる長文に変わり、しまいには際限のないつきまといになった。「岸本先生、下にまたお花を届けに来た方がいますよ」ナースステーションの看護師、吉川が、からかうような笑みを浮かべて顔をのぞかせた。「バラが千本。すごい眺めですよ、先生モテモテですね」顔も上げずに答えた。「いつもどおり、科のみんなで分けてください」これだけで今週3度目だ。夏帆はどうやら、付き合い始めた頃をそっくり再現しようと決めたらしい。プレゼントを届け、建物の下でひたすら待つ。けれど、もうあの頃とは違う。かつては心を動かされたそんな振る舞いも、今となってはただ疲れるだけだった。吉川が少しためらった。「あの瀬戸先生、また受付で待ってるんです。今日は必ず会うって」僕はカルテを閉じた。「手術中だと伝えてください」「そう言ったんですけど、先生の仕事が終わるまで待つそうで」吉川は困ったように肩をすくめた。こめかみをもんだ。この1か月、ほとんど毎日こんな調子だ。夏帆は元の病院で長期休暇まで取り、僕に会うためだけに汐凪市へ来ていた。どれほど冷たくしてもへこたれず、かえって執念を強めていく。結局、会うことにした。心が揺らいだからではない。終わりのないつきまといに、これ以上耐えられなかったからだ。会う場所には、高級な洋食レストランを選んだ。席を予約したのは夏帆だ。僕が着いたときには、夏帆はもう席にいた。念入りに身支度を整え、以前僕が好きだった香水までつけている。「来てくれたんだ!」夏帆は目を輝かせ、すぐに立ち上がった。「先に少し頼んでおいたの。好きなものがあるか、見てみて……」テーブルの料理に目をやった――サーモンのソテー、いちごのサルサソース添え。僕はいちごアレルギーだ。オニオンスープ。玉ねぎは食べない。そして、スパイシーなステーキ。辛いものには一切手をつけない。並んでいる料理の大半は、悠真の好物だった。夏帆は僕の視線を追ったが、何が悪いのかまるで気づいていない。むしろ、不思議そうにどうした
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第9話
夏帆が突然、僕の手をつかんだ。驚くほど強い力だった。その指を、一本ずつ外していく。かつて夏帆が悠真のために、ためらいなく僕を置き去りにしたのと同じように。「もう終わったんだ。手を放して。自分をこれ以上みじめにしないで」泣き声に、周りの客の視線が集まった。店員がためらいながら近づいてくる。「お客様、何かお手伝いしましょうか?」僕は首を振り、立ち上がってその場を離れた。夏帆が追おうとして、椅子に足を取られ、無様に床へ倒れ込んだ。振り返らなかった。店を出ると、夜風が頬に触れた。またスマホが震えている。夏帆の番号だった。そのまま着信を拒否する設定にして、タクシーを拾った。バックミラーには、よろめきながら僕の後を追って店から出てくる夏帆が映っていた。夜の中で、その姿はひどく小さく見える。しばらく見つめてから、顔を背けた。この先、彼女がどうなろうと、もう僕とは関わりのないことだ。あの日以来、夏帆はついに僕の生活から姿を消した。決意が揺らがないことを、ようやく悟ったのかもしれない。あの最後の食事の後は、病院の下で待っていることも、電話がかかってくることもなくなった。スマホは静かになり、生活も落ち着きを取り戻した。汐凪市での仕事は、ますます順調だった。来たばかりの頃よりずっと明るくなったと、同僚たちにも言われた。半年後のことだった。ある学術交流会で、以前の病院の同僚に偶然会った。「岸本先生?」彼は少しためらった。「瀬戸先生のこと、聞いてますか?」首を振った。あまり話したいことではなかった。けれど相手には伝わらなかったようで、うわさ話を聞かせたくて仕方がない様子だった。「彼女……ちょっと大変なことになって。先月、手術中に上の空になって、医療事故を起こしたんです。幸い、患者さんは大事には至らなかったんですが、それで病院を解雇されて。最近ずっと精神的に不安定で、ひとり言ばかり言っていたそうです……」僕は眉をひそめ、黙っていた。「それだけじゃなくて、病院を解雇されたあと、宮坂先生のところへ行ったそうなんです。何がきっかけかはわからないんですが、もめたらしくて……メスで十数回も刺したそうです。宮坂先生は今、植物状態だそうです。瀬戸先生は精神に異常をきたしていると鑑定されて、療養施設に入ったと聞きま
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