Mag-log in付き合って7年。婚約者は、ある男性研修医を優先して、僕との入籍を99回断った。 最初は、夜勤の彼が暗いのを怖がっているからと、僕との旅行を放り出し、その夜の飛行機で病院へ戻った。 2回目は、もう役所に入るところだった。彼が働きすぎで倒れたと知るや、彼女は僕を雪の中に丸一日置き去りにした。 それからも、僕が彼女と一緒にいるたびに、研修医はあれこれ理由をつけて、彼女を呼び出した。 とうとう僕は手を放すと決めた。彼女と幸せな結婚をする日を、もう待つのはやめよう。 ところが、僕の異動を知った彼女は、やがて取り乱し、僕にすがるようになった。
view more夏帆が突然、僕の手をつかんだ。驚くほど強い力だった。その指を、一本ずつ外していく。かつて夏帆が悠真のために、ためらいなく僕を置き去りにしたのと同じように。「もう終わったんだ。手を放して。自分をこれ以上みじめにしないで」泣き声に、周りの客の視線が集まった。店員がためらいながら近づいてくる。「お客様、何かお手伝いしましょうか?」僕は首を振り、立ち上がってその場を離れた。夏帆が追おうとして、椅子に足を取られ、無様に床へ倒れ込んだ。振り返らなかった。店を出ると、夜風が頬に触れた。またスマホが震えている。夏帆の番号だった。そのまま着信を拒否する設定にして、タクシーを拾った。バックミラーには、よろめきながら僕の後を追って店から出てくる夏帆が映っていた。夜の中で、その姿はひどく小さく見える。しばらく見つめてから、顔を背けた。この先、彼女がどうなろうと、もう僕とは関わりのないことだ。あの日以来、夏帆はついに僕の生活から姿を消した。決意が揺らがないことを、ようやく悟ったのかもしれない。あの最後の食事の後は、病院の下で待っていることも、電話がかかってくることもなくなった。スマホは静かになり、生活も落ち着きを取り戻した。汐凪市での仕事は、ますます順調だった。来たばかりの頃よりずっと明るくなったと、同僚たちにも言われた。半年後のことだった。ある学術交流会で、以前の病院の同僚に偶然会った。「岸本先生?」彼は少しためらった。「瀬戸先生のこと、聞いてますか?」首を振った。あまり話したいことではなかった。けれど相手には伝わらなかったようで、うわさ話を聞かせたくて仕方がない様子だった。「彼女……ちょっと大変なことになって。先月、手術中に上の空になって、医療事故を起こしたんです。幸い、患者さんは大事には至らなかったんですが、それで病院を解雇されて。最近ずっと精神的に不安定で、ひとり言ばかり言っていたそうです……」僕は眉をひそめ、黙っていた。「それだけじゃなくて、病院を解雇されたあと、宮坂先生のところへ行ったそうなんです。何がきっかけかはわからないんですが、もめたらしくて……メスで十数回も刺したそうです。宮坂先生は今、植物状態だそうです。瀬戸先生は精神に異常をきたしていると鑑定されて、療養施設に入ったと聞きま
夏帆との再会は、ちょっとした出来事として過ぎていくと思っていた。けれど、彼女の執着は想像を超えていた。学会での騒ぎの後、スマホにはひっきりなしに電話がかかり、メッセージが届くようになった。初めは謝罪と後悔の言葉。それが思い出をつづる長文に変わり、しまいには際限のないつきまといになった。「岸本先生、下にまたお花を届けに来た方がいますよ」ナースステーションの看護師、吉川が、からかうような笑みを浮かべて顔をのぞかせた。「バラが千本。すごい眺めですよ、先生モテモテですね」顔も上げずに答えた。「いつもどおり、科のみんなで分けてください」これだけで今週3度目だ。夏帆はどうやら、付き合い始めた頃をそっくり再現しようと決めたらしい。プレゼントを届け、建物の下でひたすら待つ。けれど、もうあの頃とは違う。かつては心を動かされたそんな振る舞いも、今となってはただ疲れるだけだった。吉川が少しためらった。「あの瀬戸先生、また受付で待ってるんです。今日は必ず会うって」僕はカルテを閉じた。「手術中だと伝えてください」「そう言ったんですけど、先生の仕事が終わるまで待つそうで」吉川は困ったように肩をすくめた。こめかみをもんだ。この1か月、ほとんど毎日こんな調子だ。夏帆は元の病院で長期休暇まで取り、僕に会うためだけに汐凪市へ来ていた。どれほど冷たくしてもへこたれず、かえって執念を強めていく。結局、会うことにした。心が揺らいだからではない。終わりのないつきまといに、これ以上耐えられなかったからだ。会う場所には、高級な洋食レストランを選んだ。席を予約したのは夏帆だ。僕が着いたときには、夏帆はもう席にいた。念入りに身支度を整え、以前僕が好きだった香水までつけている。「来てくれたんだ!」夏帆は目を輝かせ、すぐに立ち上がった。「先に少し頼んでおいたの。好きなものがあるか、見てみて……」テーブルの料理に目をやった――サーモンのソテー、いちごのサルサソース添え。僕はいちごアレルギーだ。オニオンスープ。玉ねぎは食べない。そして、スパイシーなステーキ。辛いものには一切手をつけない。並んでいる料理の大半は、悠真の好物だった。夏帆は僕の視線を追ったが、何が悪いのかまるで気づいていない。むしろ、不思議そうにどうした
汐凪市での暮らしは、思っていた以上に順調だった。分院の同僚たちは温かく迎えてくれ、職場の雰囲気ものびのびとしていて居心地がいい。新しい生活のリズムにもすぐになじみ、この街のにぎわいも静けさも、楽しめるようになっていた。3か月後、僕は分院の代表として、全国規模の心臓外科の学術交流会に参加した。会場は汐凪国際会議場。各地から第一線で活躍する専門家が集まっていた。何人かの医師と最新の手術法について話していると、背後がざわついた。「遼」聞き慣れた声に、体がこわばった。振り返ると、少し離れたところに夏帆がいた。ぞっとするほど顔色が白い。ずいぶん痩せていた。体に合っていたはずの白衣が、今はぶかぶかだ。目は充血していて、長い間まともに休めていないように見えた。後ろには悠真がいた。ただ、二人の間にははっきり距離があり、以前のような親密さは感じられない。「本当に、あなたなんだ……」夏帆が足早に近づいてきた。声が少し弾んでいる。「来るって聞いたから、私、わざわざ……」言い終わる前に、目の縁が赤くなった。そんな様子には触れず、礼儀として軽く会釈をした。「瀬戸先生、お久しぶりです」「遼、私……」袖をつかもうと伸びてきた手が、途中で止まる。「後悔してる。本当に、後悔してるの……あなたがいない毎日が、私……」涙が一気にあふれ出した。泣き声で、言葉も聞き取れないほどだった。「毎日あなたのことを考えてる……私が悪かった。お願い、戻ってきてくれない?」会場では多くの人がこちらに気づき、興味ありげな視線を向けていた。悠真は気まずそうに脇に立ち、不快そうな顔をしている。僕は仕方なく1歩下がって距離を取った。「瀬戸先生、ここは学会の会場です。私的な話は、また別の機会に」「嫌、今話したい!」夏帆が急に声を張った。「私のこと、憎んでるのはわかってる。でも本当に、悪かったってわかったの!悠真が……」「夏帆さん!」悠真がとうとう口を挟んだ。「みんな見てますし、ここは……」「黙って!」夏帆が勢いよく振り向き、鋭い目で悠真をにらんだ。「全部あなたのせい!あなたさえ……」そこで言葉が途切れた。取り乱していることに気づいたのか、慌てて僕を見る。「遼、やり直そう?今度こそ、約束するから……」「ごめ
幸い、最近は抱えている仕事も多くなく、引き継ぎは驚くほど順調に進んだ。執務室で最後の数冊のカルテを整理する。7年分の手術記録は、段ボールの中に整然と収まっていた。もうすぐ、これを管理するのも別の人になる。突然ドアが開き、夏帆が入口に立った。僕をじっとにらんでいる。今日は化粧をしておらず、目の下のくまが目立った。強くかみしめた唇は白くなっている。「私は……あなたがここを辞めること、まだ認めてない」顔も上げず、書類を整理し続けた。「人事異動に全員の了承はいらないよ。本院が決めたことだから」「遼!」夏帆が机をたたき、ペン立ての中のペンが跳ねた。けれど、その勢いはすぐにしぼんだ。指先で無意識に机の角をなぞっている。「いつまでこんなことを続けるつもりなの……」ようやく顔を上げ、静かに夏帆を見た。「仕事の引き継ぎ中です、瀬戸先生」よそよそしい呼び方に、夏帆の目がこわばった。すぐに目の縁を赤くしながら、それでも意地を張るように顔を背ける。夏帆はいつだって、僕に対しては上から物を言ってきた。僕が自分から離れていく日など、来るとは思っていなかったのだろう。僕にはここで待ち続け、何もかも受け入れる以外の道はないと、信じていたのだ。だから誰にでも優しく、理解を示せる。僕以外には。「別に、いてほしいなんて思ってない。毎日その不機嫌な顔を見ずに済んで、せいせいする!」そこへ悠真が顔をのぞかせた。また、いかにも心配しているという表情を作っている。「岸本先生、瀬戸先生……ずいぶん急に行かれるんですね。もしかして僕が、お二人の関係を壊してしまったんでしょうか。もしそうなら、謝ります。病院を辞めてもかまいません。お二人が仲よくいてくだされば、それでいいので。僕のことは気にしないでください……」「悠真!」夏帆が、不自然なほど鋭い声で遮った。悠真の腕をつかんで引き寄せる。その力に、悠真がよろめいた。「どうしてあなたが謝るの!心の狭い誰かが、勝手に私たちを疑ってるだけ。自分が卑しいから、何でもそういうふうにしか見えないんでしょう。相手にしなくていい。行こう!」悠真を引っ張って出ていこうとした夏帆が、ドアの前でぴたりと止まった。意外にも、その肩がわずかに震えている。「遼、もう一度だけ聞く。本当に行くの?」答えず、