LOGIN柏原律哉(かしわばら りつや)は、原則を重んじ、時間を厳守し、決して例外を作らないことで有名な男だった。 だが、婚姻届の提出に関しては、水瀬一花(みなせ いちか)との約束を8回もすっぽかしていた。 1回目は、海外に8年間留学していた大学の後輩、白石琴葉(しらいし ことは)が帰国したため、彼が空港へ迎えに行ったからだ。 2回目は、琴葉が料理中に誤って指を火傷して赤くしたというだけで、彼は一花を途中で置き去りにし、琴葉に薬を塗りに行った。 3回目は、琴葉の息子である悠真(ゆうま)が熱を出し、慌てて病院へ連れて行ったためだ。 …… そして今回が8回目。またしても彼は現れず、「急用ができた。遅くなる」と電話をかけてきただけだった。 一花はただ呆然としていた。やがて、窓口の職員が彼女に向かって言った。 「彼氏さんはまだ来ないんですか?もうすぐ窓口が閉まる時間ですよ」 一花がもう一度電話をかけようとした時、律哉から先にメッセージが届いた。 【今日の午後はもう間に合わない。また別の日にしよう】 そのメッセージを見て、一花の胸の奥に言葉にできないほどの切なさが込み上げた。 スマホをしまって帰ろうとした時、ふと琴葉の最新のSNSの投稿を目にして、彼女は硬直した。 写真には楽しそうに笑っている琴葉と、その隣で悠真を抱きかかえ、甘やかすような視線を琴葉に向ける律哉の姿が写っていた。 添えられた文章には【悠真が遊園地に行きたいって言うから、先輩に丸一日付き合ってもらっちゃった。大感謝!】とある。 写真を見つめる一花は息を呑み、声を発することさえままならなくなった。 なんと、今回の彼の「急用」とは、琴葉の息子を遊園地へ連れて行くことだったのだ。 胸が締め付けられるように痛み、悔しさと怒りで全身が小刻みに震えた。 すぐに電話をかけて律哉を問い詰めようとしたが、コメント欄で彼女と律哉の共通の友人たちが冷やかしているのが目に入った。 【何年経っても、律哉は相変わらず琴葉に激甘だな】
View More3年後。建築デザイン界において、「水瀬一花」の名を知らぬ者はもはやいない。彼女は伝統的な刺繍の緻密な技法を、現代建築の構造へと巧みに組み込み、発表する作品のどれもが「至高の芸術」と称賛を浴びていた。そして彼女はついに、自分の力で築き上げた財産で、亡き母が残したあの古い実家を買い戻した。不動産の権利書を手にしたその日、彼女は一人きりの部屋で、昼から夜の帳が下りるまで、ただ静かに座り続けていた。珀翔は彼女を急かすことはせず、ただドアの外で待ち続けた。やがて彼女が自ら扉を開けると、ようやく歩み寄ってきた。「さあ、帰ろうか」彼はごく自然な仕草で、彼女の手を優しく握りしめた。この3年の間に、二人はごく自然な流れで共に歩むようになっていた。ドラマチックな大恋愛だったわけでも、身を焦がすような狂おしい恋だったわけでもない。彼女が徹夜で図面に向かう夜には、彼がさりげなく夜食とブランケットを用意してくれた。彼が裁判で法廷に立つ日の朝には、彼女が彼のネクタイを締め直し、書類を整えた。彼は一花の決断に決して干渉せず、ただ無条件に支持し、最も頼れる後ろ盾であり続けた。それは彼女がずっと望んでいた、対等で健やかなパートナーシップだった。本当の愛とは、自分をすり減らしてまで相手の穴を埋めるものではなく、互いをより良い方向へと導き合うものなのだ――彼女は今、そのことを心から実感していた。……ある日、一花は海外の小さな町で開催されたビジネスフォーラムに招待された。閉会後、彼女は主催者からのレセプションの誘いを丁重に辞退し、異国の街並みを一人で散策していた。こぢんまりとしたその町は古き良き風情を残しており、空気までもがゆったりと穏やかに流れているように感じられた。歩き進めるうち、少し先にある地域の診療所から、何やらざわめきが聞こえてきた。何気なくそちらへ視線をやった彼女は、ふと足を止めた。診療所の前に設けられたボランティアの無料診察ブースには、順番を待つ年配の患者たちが何人も集まっていた。そして、白衣を羽織った一人の男がうつむき加減で、高齢者の血圧を丁寧に測っていた。彼の髪には白いものが混じり、かつてのように背筋は伸びておらず、その横顔には隠しきれない疲労の色が深く刻まれていた。それでも、患者に注意事項を説明
やがて、開廷の日が訪れた。法廷に立つ律哉は、もはや体型の合わなくなったよれよれのスーツを身にまとい、髪はボサボサで目は落ち窪み、顎には青黒い無精髭が伸び放題になっていた。一方、刑務官に連れられて出廷した琴葉の両手には手錠がかけられており、かつての可憐で庇護欲をそそる面影は微塵も残っていなかった。厳粛な法廷内に、裁判官の声が響き渡った。「……医療過誤事件について、審理の結果、被告人・柏原律哉は診療過程において重大な過失があり、患者の最適な救命の機会を遅らせ、患者の死亡に対して主たる責任を負うものと認める。判決は次の通り。被告・柏原律哉は、地方メディアを通じて原告・水瀬一花に対し公開謝罪を行うとともに、共同で原告に対する諸々の損害賠償として計3600万円を支払うものとする。さらに、柏原律哉の医師免許を剥奪し、生涯にわたり医療行為に従事することを禁ずる」生涯にわたり医療行為に従事することを禁ずる。その言葉が告げられた瞬間、律哉の体はグラリと揺れた。彼が人生の誇りとしてきたキャリアが、この一瞬にして完全に粉々に打ち砕かれた。裁判官は続けて判決文を読み上げた。「また、白石琴葉による商業詐欺事件について……被告人・白石琴葉は、不法領得の意思をもって架空のプロジェクトをでっち上げ、他人の巨額の財産を騙し取った。これは詐欺罪を構成し、その情状は極めて悪質である。よって併合罪として、懲役10年の実刑、および罰金刑に処す……」「10年……!?」判決を聞いた琴葉は、絶望のあまり金切り声を上げて完全に崩れ落ちた。彼女は狂ったように飛び出し、一花に向かって掴みかかろうと猛然と突進した。夜叉のような形相で叫んだ。「あなたね!あなたみたいなクズ女のせいで、私はっ……!」刑務官が瞬時に彼女を床に押さえつけたが、彼女はなおも必死にもがきながら、口汚く罵詈雑言を吐き散らし、その醜悪な本性を丸出しにした。「律哉!この役立たず!私を愛してるって言ったじゃない!なんで助けてくれないのよ!私が刑務所に入るなら、あなただってタダじゃ済まさないからね!この人殺し!」法廷中に、彼女の凄まじい泣き叫ぶ声と呪詛が響き渡る。だが、最初から最後まで、一花はピクリとも眉を動かすことはなかった。もはや、自分には何の関係もないことだった。……なお、律
律哉は、自分がどうやってアパートまで帰り着いたのか、まったく覚えていなかった。彼はスマホを手に取り、画面に表示された「一花」の文字を見つめたまま、指が宙で止まる。長い沈黙の後、彼は一花へメッセージを打ち込み始めた。【一度、ちゃんと話し合いたいんだ】送信ボタンを押したが、いくら待っても既読がつく気配はなかった。彼はその画面をじっと見つめ、一分一秒が過ぎていく中、意地になったようにもう一通送信した。【一花、会ってくれないか】やはり、既読の二文字が表示されることはない。スマホの画面にポロポロと涙が零れ落ちる。それでも彼は、すでにブロックされ、一花に届くはずもないメッセージを送り続けた。【一花、俺が間違っていた。許してくれないか?】【頼む……】【一花、すまない】【一花、愛してる……】……だが、その頃の一花は、パソコンの前に座って忙しく作業に追われていた。あのデザインコンテストでの優勝が、大手企業からの提携オファーを彼女にもたらした。今回のプロジェクトのため、彼女は毎日遅くまで仕事に没頭していた。体はひどく疲れていたが、心にはこれまでにないほどの充実感が満ちていた。またしても徹夜をしてしまい、ふと時計を見た彼女は思い出した。今日は珀翔と、律哉に関する裁判の件で打ち合わせの約束があったのだ。珀翔は彼女をサポートし、琴葉を告発してその口座を凍結させた。さらに、律哉が一花の母親を死に追いやった件に関する証拠を集めて調査委員会に提出し、メディアにも情報をリークして、彼を完全に社会的に抹殺してくれた。残すは、最終的な裁判の開廷を待つのみだ。一花は簡単に身支度を整えると、部屋を出た。マンションの下に降りた途端、全身ずぶ濡れで見る影もなく落ちぶれた律哉の姿が目に入った。だが彼女は立ち止まることなく、見知らぬ赤の他人の横を通り過ぎるように、彼に一瞥もくれず歩き出そうとした。「一花!」律哉は振り返り、彼女の行く手を遮った。一晩中一睡もしていないせいか、その声はひどく掠れていた。「話そう。頼む、5分だけでいいんだ」昨夜、決して届かないメッセージを無数に送り続けた後、彼はどうしても彼女に直接会わなければと決意した。だからこそ、そのまま彼女のマンションの下へ駆けつけ、夜が明け、彼女が姿を現すま
律哉は一切の弁明をしなかった。いや、弁明のしようがなかったのだ。最後に彼はペンを取り、停職処分の通知書に自らの名前を書き入れた。彼が停職処分を受けたその日の午後、一花は被害者遺族として、メディアの独占インタビューに応じていた。カメラの前で、彼女は母親の発作から息を引き取るまでの経緯を、理路整然と語った。彼女が世間の前に突きつけたその事実は、まるで鋭利なメスのように、律哉がまとっていた「原則」という名の虚偽の皮を寸分違わず切り裂いた。「ただの後輩のために病院の規則を無視し、患者を見捨て、あろうことかその命すらも顧みないような医師は……」一花はカメラを真っ直ぐに見据え、一言一言、はっきりと口にした。「彼に、あの白衣を身にまとう資格はありません」帰宅した律哉は、ただテレビの画面を見つめていた。ディスプレイの光が彼の顔を明滅させながら青白く照らし出す。画面の中の一花を見つめながら、それが罪悪感なのか、それとも悔恨なのか、彼自身にも分からなかった。ただ、心臓のあたりが息ができないほどに痛んだ。追い打ちをかけるように、銀行からの督促状と裁判所の資産差し押さえ命令が次々と舞い込み、抵当に入れていた家も車もすべて没収された。彼は、二人の6年間の思い出が詰まった新居から容赦なく追い出された。立ち退きの日。ガランとした空っぽのリビングにぽつんと立つと、抑えきれない記憶の断片が次々と脳裏にフラッシュバックした。エプロン姿の一花がキッチンで料理を作り、その香りが部屋中に満ちていたこと。彼女がお気に入りのクッションを抱きしめ、ソファに丸まって映画を観ながら、感動的なシーンでこっそり涙を拭っていたこと。ベランダで植物に水をやりながら一人で楽しそうに話しかける彼女に、朝の柔らかな光が降り注ぎ、息を呑むほど美しかったこと。家のどこを見渡しても、彼女の面影があった。しかし今、そんな美しい思い出さえも、彼はすべて失おうとしているのだ。彼が移り住んだのは、狭くて湿っぽく、カビの臭いが染み付いた安アパートの一室だった。それからの彼は、まるで彷徨う亡霊のように、一花がかつて好んで足を運んでいた場所へ頻繁に姿を現すようになった。彼女がずっと行きたがっていたスイーツ店、二人が何度も手を繋いで歩いた並木道、彼女が一度入ると夕方まで時間