今朝、彩華は早くに帰っていた。それでも、彼女と入れた時間は俺に気力を与えてくれた。副社長という肩書きは残っていても、もう何の意味も持たない。経営会議から外され、重要な案件の決定権も取り上げられた今、俺は社内で“お飾り”のような存在だ。それでも、まだ終わりだとは思っていない。社内には、父のやり方に不満を持つ人間がいる。数は少ないが、その中で一番のキーマン――坂本部長。かつては経営戦略を担い、社長とも対等に意見を交わせる存在だった。今では意図的に部署から外され、冷遇されている。夜の9時を回った社内。人気の少ない小会議室に、坂本部長と俺、ふたりだけ。「久しぶりですね、副社長」「会議に呼ばれなくなったから、名前を呼ばれることも減りましたよ」皮肉っぽく言ってみせると、坂本部長は薄く笑った。「……まあ、今の会議は聞くだけ無駄だ。社長とその腰巾着連中で、全部決まってる」それには同感だった。俺は黙ってカバンから一枚の資料を取り出し、テーブルの上に置いた。「これ、見てください。社長が極秘で進めている来季の組織案です」坂本部長の表情が変わる。資料に目を落とし、読み進めるにつれて、彼の眉間に皺が寄っていく。「……これは……“戦略室”を直属に? しかも、全権を委ねる構造? つまり、取締役会すら形だけにする気か」「はい。このまま進めば、社長の独裁体制が完成します。反対意見はすべて排除され、組織は完全に息のかかった人間だけで構成される」坂本部長がゆっくりと顔を上げた。「俺のチームがバラバラに異動されたのも……この布石か」「あなたの存在が、父にとっては目障りだったんです」それを伝えるのは少し心苦しかったが、事実だ。「だから、お願いがあります。……俺に力を貸してくれませんか?」一拍、間を置いてから、俺はまっすぐに言った。「社長を取締役会で退陣させます。そのための動議を起こす。証拠も、必要な根回しも始めています。……けど、俺ひとりでは難しい。だから、あなたの力が必要です」重い沈黙が落ちた。けれど、逃げるつもりはない。もしここで退いたら、それこそ全部無駄になる。彩華との未来も、瑠香を守る覚悟も――そのための戦いを、投げ出すわけにはいかない。「……本気なんだな?」坂本部長が低く言った。「はい。俺はもう、父のやり方には従いません」坂本部長が立ち
「帰らないでほしい」――初めて聞いた日向の弱い部分に触れ、思わず頷いてしまったけれど――。今からどうしていいのか、正直よくわからなかった。日向と私は、恋人でも夫婦でもない。けれど、まったくの他人……そういうわけでもない。そんな曖昧な関係の私たち。何かを話さなければ。そう思いつつも、結局リビングのソファに座り、日向が何気なく再生した映画を見つめるしかなかった。けれど、ストーリーはまったく頭に入ってこなかった。日向の気持ちは、こないだ少し聞くことができた。私のことが大切だったということもわかったし、彼にも事情があって姿を消すしかなかったこと。そして今、その原因を取り除こうとして、忙しい日々を送っていること。そんな彼に、私は何ができるのだろう。そう思う反面――泊まるということは、もしかしたら何かあるのかもしれない……そんなことも思ってしまう。……ダメだ、考えるのはやめよう。そう思って、私は映像に集中しようとした。日向も映画に集中しているのか、黙ったまま、目線だけを画面に向けていた。しばらく映像に意識を向けようと頑張ってみたものの――やっぱり無理。触れそうで触れないこの距離が、余計に緊張する気がする。『私はソファで眠るから、日向はベッドで休んで』そう言おうとした。けれど、そのとき――ふっと、右の肩に重みを感じた。「……日向?」思わず小さな声で呼びかけてみるが、返事はない。そしてその代わり、かすかな寝息だけが耳に届く。「寝てる……?」息をのむようにして、私は日向の方を見た。穏やかな表情を浮かべて、今、自分の肩にもたれかかって眠っている。心臓がどくん、と大きく跳ねる。見てはいけないものを覗き込むような気持ちで、私は彼の横顔をじっと見つめていた。長く伸びた睫毛。眠っているときだけが見せる、無防備な表情。昔から大好きだった彼――不意に、胸の奥がきゅう、と苦しくなった。いつも完璧で、誰からも尊敬される日向の、少し垣間見える弱さを知ってしまった今、どうしても彼の隣にいたい。少しでも支えたい。そんな気持ちになる。いなくなってしまった日向を信じるのは、やっぱり怖い。でも、だからといって日向から離れたいとは思わない。「日向のバカ……」そう呟いても、日向は夢の中だ。これで今までのことは許してあげるから、どうか頑張って。そう思
私は冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出して、テーブルに置いたグラスと一緒に彼の前へ差し出した。そのとき――ほんの一瞬、指先と指先がふれた。ぴたりと、時間が止まる。一瞬の接触だったのに、体の奥がふわっと熱くなって、思わず視線をそらした。日向は何も言わず、ビールを受け取って、缶を開ける。「……いい匂いだな」温めたおかずから立ちのぼる湯気に、彼がそう呟いた。「冷蔵庫にあるものだけだから、たいしたものじゃないよ」照れくさくて目を合わせずにそう言うと、日向は苦笑しながら箸を手に取った。「そういうのが、いちばんうれしいんだよ」そう言って、一口、煮物を口に運んだ。「……うまい」その一言が妙にあたたかくて、私は思わず口元を緩めた。それからしばらく、食事の音とビールの缶が開く音だけが部屋に響いていた。日向が黙って、でも丁寧にごはんを食べている姿を見るだけで、なんだか安心する。「ちゃんと食べてなかったでしょ?」ふいに口をついて出た言葉に、日向は少し驚いたように箸を止めた。「……バレてたか」「見ればわかるよ。顔に“野菜不足です”って書いてあるもん」少しふざけたように言うと、日向ははにかんだように笑った。「やっぱり、彩華にはかなわないな」その笑顔は、ほんの一瞬だけ――心の奥に張りつめていたものが緩んだように見えた。そして次の瞬間、ふと真剣な表情に変わる。「……なあ」ビールの缶をテーブルに置きながら、日向がぽつりと口を開いた。「今、会社の中でいろんなことが動いてる。俺は、自分で選ぶって決めた。でも、その代わりに――失うかもしれないものもある」彩華、と彼は名前を呼ばなかった。でも、目がまっすぐに私を見ていた。「何かを選ぶって、何かを捨てることかもしれない。だけど……本当に捨てたくないものって、あるんだなって今さら気づいた」私は何も言わずに、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。「俺、会社のこと、ちゃんと片付ける。終わらせる。そしたら、ちゃんと話したいことがある」その言葉が何を指しているのか、私はわかっていた。きっと、瑠香のことだ。私たちの未来のことだ。だけど、今はまだ、それを言葉にしなくていい。「……うん。待ってるよ」そう返すと、日向はゆっくりと頷いた。その瞬間、どこか張り詰めていた空気が、少しだけあたたかく溶けていった気がした。
どれくらいの時間、抱きしめられていたのかはわからない。かなり長かったかもしれないし、一瞬だったかもしれない。日向は小さく息を吐いたあと、そっと私から距離を取ると、少し困ったような表情を浮かべていた。「悪い。いきなり」そう言って、日向は私を見下ろした。「ありがとう。食事、作ってきてくれたんだろ?」いつも通りにふるまっているように見えたけれど、明らかに疲れがにじんでいて、私はただその顔を見つめていた。「これ? もらっていい?」私が持っていたバッグに手を伸ばし、それを受け取ろうとする。「あと、どうやって来た? 送っていこうか?」私が何も言わないままなのに、日向は一方的に話し続けていた。「日向」静かに名前を呼ぶと、私の言いたかったことがわかったのか、日向はゆっくりと首を振った。「ごめん」「どうしたの?」いつもの余裕のある日向なら、スマートに「ありがとう」って言って、私を家に招き入れて、「食べたら送っていくよ」なんて、さらっと言い出す気がしていた。なのに今日は、なんとなく避けるような言い方をしながら、突然抱きしめてきたりして、やってることと言ってることがバラバラだった。でも、本気で私がここに来たことを迷惑に思っていないことは、もう私にもわかっていた。きっと日向は、小さいころからずっと、自分の気持ちを隠して、飄々としたふりをして生きてきたんだと思う。でも今は、そんな彼の心の内を、少しは理解できる気がしていた。「正直、少し疲れてる。このまま家に入れたら、俺はきっとまたさっきみたいに、抱きしめたり、甘えてしまう」まっすぐに伝えられたその言葉に、私は思わず笑ってしまった。「いまさらじゃん。いきなり抱きしめておいて、よく言うよ」そう返すと、日向は少し驚いたように目を見開いた。「……それもそうだな」小さく何度か頷いたあと、日向はようやくいつも通りの表情を浮かべた。「瑠香ちゃんは? 大丈夫なのか?」「お母さんが見てくれてる」そう答えると、日向はひとつ大きく息を吐いた。「少し上がっていってもらっていい? 俺、これ温められるかわからない」本当か嘘かなんて、今の私にはわからなかった。でもたぶん、今の私たちには、お互いにとって何かしらの“理由”が必要だった。「わかった」そう言って、私は日向と一緒に部屋へ向かった。日向がバスルームへ
夕飯の時間、私はいつもどおり瑠香にごはんを食べさせていた。今日もよく食べるな、なんて微笑みながらスプーンを口に運ぶ。「もっとー」「はいはい。ちゃんともぐもぐしてね」お風呂に入れて、髪を乾かして、絵本を一冊読んで――瑠香がすやすやと寝息を立てるころには、夜の10時を回っていた。ベッドのそばに静かに腰を下ろし、小さくため息をついた瞬間、ふと日向の顔が頭をよぎった。ちゃんと食事はとれているのか、夜はちゃんと眠れているのか。そんなことばかりが次々と浮かんできて、どれだけ「信じてる」なんて言葉を口にしても、不安はなかなか消えてくれなかった。気がつけば、私はいつのまにかキッチンに立っていて、日向が食べられそうなもの、体力が落ちていても胃にやさしいものを思い浮かべながら、煮物を小さな仕切りに入れ、お弁当箱にそっと詰めていた。なんとなく色どりも欲しくなって、卵焼きを焼き、冷ましてから隣に添える。気がつけば、お弁当が出来上がっていて、私はそれをそっと保冷バッグに入れた。そのまま母の部屋へ向かい、扉の前で小さく声をかける。「ちょっとだけ、出てきてもいいかな」「……日向くんのところ?」母はすべてを見透かすようなまなざしで私を見つめたが、反対の言葉はひとつもなく、静かに頷いてくれた。「瑠香のことは心配しないで」「ありがとう、お母さん」私は小さく頭を下げると、バッグを手にして家を出た。夜の都心に足を踏み入れると、空気は静かで張りつめており、高級住宅街の一角にひっそりと建つ、あのスタイリッシュな低層マンションが視界に入った。そこを訪れるのは、あの夜以来のことだった。建物の入り口にたどり着いた瞬間、ふと以前のことを思い出した。このマンションは、コンシェルジュやセキュリティが非常に厳しく、たとえ宅配業者であっても、住人の許可がなければ中へ入ることはできない。誰にも会わずに玄関先に置いて帰るといったことは、この場所では通用しなかった。何をやってるんだろう、私。家に押しかけるわけにはいかず、勝手に料理を作り、勝手に来て、さらには勝手に置いて帰ろうとしている自分の行動が、思っていた以上に身勝手なものに思えてきた。「はぁ……」深いため息をつき、仕方なく踵を返そうとした、そのときだった。「……彩華?」不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返ると、マン
最近の日向――副社長の姿を見ることが、めっきり減った。本来であれば、週に何度も顔を合わせていたはずのプロジェクトの定例会議にも姿を見せなくなり、確認事項や指示もすべて、別の担当者や管理職経由で降りてくるようになった。私はそれに従って淡々と仕事をこなしていたが、心のどこかでずっと引っかかっていた。――忙しいだけ。そう言い聞かせていた。何かあったとしても、私には聞けない。日向はあの夜「すべてが片付いたら」と言った。だから、私は待つと決めたのだ。どんな形であっても、彼を信じると。だけど――。「東雲さん、これ確認お願いします」「はい、ありがとうございます」営業資料を受け取りながらも、集中しきれない自分がいた。PC画面に目を向けても、文字が頭に入ってこない。ぼんやりと、あの夜のことを思い出す。 日向の腕の中で、あたたかさに包まれて眠った夜。 夢みたいな時間だった。だからこそ、今は怖くもある。まるで、あれが現実じゃなかったような気がしてしまう。ふと耳にした同僚たちの小声が、聞こえてきてドクンと大きく心臓がはねた。「副社長、会議全部外されてるらしいよ」 「高木家との縁談、断ったって噂も……」 「なんか揉めてるみたいよ。なんか誰かわからないけど、不倫してるとかもきいたな」名前は出されていなかったけれど、その言い方に背筋がぞわりとした。まさか、私のことだろうか……。後ろめたいことなどなにもないが、噂はいろいろ尾ひれがついていく。日向が会社で何を抱えているのか、何と戦っているのかわからない。隣にいると伝えたが、何もできていない。それ以上に、やはり自分が魔をしているのではないか――。 あの時、高木さんに言われた言葉が、今も頭の中で繰り返される。「あなたのせいで、彼の未来が壊れる」資料のページをめくる手が、いつの間にか止まっていた。「東雲」名前を呼ばれて、はっと顔を上げると、神代さんがすぐそばに立っていた。「顔色、悪いぞ。大丈夫か?」「……あっ、はい。すみません、ちょっと考え事をしていて……」無理に笑ってごまかしたが、神代さんは目を細めて、じっと私を見てくる。「最近、なんか元気ないよな。何かあった?」「……いえ。なんでもないです」本当は、いろいろある。でも、それを話せるわけがない。「今日、飯でもどうだ?」その誘いに、私