34過去の確執で家を出ていた蘭子だったが、ここのところの玲子の不運続きを心配した両親から相談にのってほしいと自宅に呼び寄せられた。 二度と敷居を跨ぐまいと決めていたがふてぶてしい妹が不運と聞いて来ないわけにはいかなくなった。 妹の不幸は蜜の味……だから。 ――――花や匠吾の生きてる世界がどのようなものであるかを、 ことごとく幸せを掴もうとするたび幸せが逃げてゆく 玲子は……身近な親族で玲子の生き方を軽蔑している 姉の欄子の口からポロっと聞かされるのだった。―――――「どうして、幸せが目の前にあって掴もうとするとスルスルっと手の指の隙間からスルリと逃げていくの? 酷い、酷すぎる」 思わず結婚話が破談になり自宅に戻って来た玲子は姉の欄子がいるにも係わらず、なりふり構わず怒りに駆られて自分の感情を爆発させた。『ふふんっ』「あんたってさ、自分の損得勘定だけで生きてるピラニヤみたいな人間だから周りのことがナンも見えてないようだけど。正規雇用された会社がどれも内定を覆されて駄目になったり、プチ玉の輿に乗れそうな相手に出会って上手くいきかけてたのに途中で結婚の話がご破算になるって……どう考えても不自然よね。 どうして? とか酷すぎるっていう前に少しは頭に付いてる脳みそ使ってみればぁ~!」「何か心当たりがあるならもったいぶらないで言って。 分かるように話してよ」「あなたが最初に準社員で入社した会社は戦国時代、江戸時代から続いてる旧財閥系なのよ」「だから何? 戦後財閥なんてGHQ最高司令官マッカーサーによって解体されちゃって財産は没収され、凋落してるわよ。 旧財閥が何だっていうのよ。 ふざけんじゃないわよ」「一時的にはね。 だけど金属鉱山の創業をはじめ、金融、保険、建設業などさまざまなグループ企業を起こし、莫大な利益を上げてるのよ。 調べてみたの、掛居花という女性のことをね。 あなたはね、とんでもない相手に唾を吐いたようなものでこのままだとあなたも家族である私や両親もロクな人生が待ってないわぁ~。 憐れな末路が待つのみ」
35 「とんでもないってどういう意味? 分かるように説明してよ……ってさっきから言ってるでしょ」「この世の中はね、政治家や法律家、国家権力を持つ警察官などで全てが回っているわけじゃないの。 もちろんある一定の効力はあるし、世の中を回している側面がないわけではないけれど。 こういうことは日本だけに限らずどこの国でもあるあるじゃないかしら。 大事なことは『フィクサー』といった存在が決めるのよ。 フィクサーっていうそんな闇の権力者がいるとして、掛居花さんはそのフィクサーにあたる人物の目に入れても痛くないようなとても大事にされている孫なのよ。 あなたは蜂がいる巣穴の中に腕や手をガードもせずに無防備に突っ込んだのよ。 ただじゃすまないわよ。 あなたはフィクサーである向阪財閥のお孫さんに無礼を働いたってわけ。 花さんは泣き寝入りしたかもしれないけど、後ろに付いてるおじいさまが私たちを許しはしないでしょうね。 あなたは最後のチャンスが与えられたにも係わらず棒にふるどころかさらに火に油を注ぐような真似をしたでしょ? 最悪の悪手だよね。 普通の人間なら空気を読んで謝罪をし『私たちの間に肉体関係はありません』とちゃんと誤解を解くべきところなのに、花さんが敢えて誤解して受け取るような物言いをしたのだものね」「じゃあ、今から私はどうすればいいの?」「そりゃあ決まってるでしょ。 謝罪よ、謝罪しかないわよ。 花さんにちゃんとお詫びすることね。 畳に額擦《こす》りつけてでもね」 「分かった」 性格も頭も悪い妹はそう言って自分の部屋に引き上げた。「やっぱりアイッは馬鹿だ」 だいたい姉の恋人を寝取っておいて大事な一生に係わる相談を姉である私にしてくるところがもう痛すぎるんだってばぁ~。
36 ―― 聞くところによると、悪事を悪気なくなんなくできる妹は 今回の騒動に係わる全てをこと細かく最初の出来事から直近に至るまで 母親に話していた ―― 妹の玲子は交際相手のいる男性に横恋慕してデートに誘い横取り《略奪》を目論むも相手の男性は乗り替えるつもりなどなかったようで、ほんとの飲みのデートだけで終わったようなんだけども、玲子は男を奪えなかったということに焦れて、こともあろうに横恋慕した男性の婚約者に、さも自分と男性の間には身体の関係があったかのような発言をしたようで、婚約者を心が病むほど苦しめたのだ。この辺のことは独自にちょろっと調べて知ったんだけど。 匠吾さんっていったかな、うちの悪たれ女の妹なんかと係わったせいで 結局花さんっていう婚約者との結婚は破談になり、しばらくして玲子との 結婚を決めたのよね。 私はてっきり花さんから許されなかったことで自暴自棄になり 妹と結婚したのだとばかり思ってたけど……ふふっ、そりゃあそうよね、 自分たちの未来をぶっ潰した相手を許すはずなんてあるわけない。 玲子は夫になった匠吾さんやその母親、そしてフィクサーでもある総帥からもきっちりと報復されたの。 ほんとに今更、玲子は花さんに謝罪に行くつもりかしら。 バカだから許される可能性なんて少しもない謝罪に行くのだろう。 まぁ人として謝罪は当然のことだから……しておいで。 総帥はきっとこの先も妹を許しはしないだろう。 ひょっとすると玲子がこの先また爆発暴走して愚かな行為に 及ばないとも限らない。 その時は連帯責任で両親や姉である私にもとばっちりがくるかもしれない。 私は玲子が離縁されてからの顛末をじっと息を殺して傍観してきた。 逃げるが勝ち。 国内で逃げても無駄だと踏んでる。 随分前から本格的に国外への逃亡を計画している。 できれば海外で結婚相手を見付けて永住するつもり。 姉の恋人を寝取った妹を許してやれだとかしか言わなかった両親も 妹同様にいらんっ。 みんな振り捨てて心機一転、生き延びてみせるわ。 ◇ ◇ ◇ ◇ それからほどなくして島本蘭子は信州方面の民宿で仕事を見つけたと 家族に言い置き、それっきり姿を消した。
37 玲子より3才上の姉の蘭子が大学生だった頃、漠然とだが結婚も心のどこかで視野に入れていたことのある、恋人の金城信也を自宅に2度ほど招いたことがあった。 そしてそのあとのデートの帰りに「お茶でも飲んで少しゆっくりしてから帰ったら?」と誘うも、この時は「今日は止めておくよ。また今度寄せてもらうから」と彼は立ち寄らずに帰って行くというようなことがあった。『どうしたんだろう?』って少し気にはなったものの、今日はなんとなく早く帰りたい気分だったのかな、とこの時はそれがどういうことなのかよく分かっていなかった。このデート以降、彼が余所余所しくなったように感じることが多くなった。 次のデートをいつにするか決めるために今までのように「次はいつ時間空いてる?」と訊いても返事を濁すようになり『もしかして避けられてたりして』と不安に思っていたところ、ある日のこと。 * 大学の授業を終えて家に帰るとリビングダイニングに両親がいた。「あれっ? お父さん、会社は? 有給取るなんて珍しいね。お母さんとデートでもしてきた?」 両親に声を掛けたあと私が自分の部屋へ行こうとすると、父親から声を掛けられた。「蘭子、話がある……」「今すぐがいいの? ちょっと着替えてきてからでもいーい?」 2階に上がろうと部屋から出ると、玲子が私と入れ替わりにリビングダイニングに入ろうとするところで、私たちはすれ違った。『お帰りなさい』の一言もなく、どうしちゃったんだろう変な子。 そう思いながら父親から話があると言われていたので急いで着替え、リビングダイニングへと向かった。 4人掛けのテーブルセットに3人が座り、私を待っていた。 この時何か空気がおかしいって思い、私から両親に「何か改まった話なの?」と口火を切り尋ねた。 それなのに私の問い掛けに反応したのは妹の玲子だった。-「私、妊娠したかもしんない」「え~、お父さん、話って玲子の妊娠の話のことだったの?」 訊いても父親はうんともすんとも言わず、言葉を選んでいるようでなかなか言い出さない。「玲子、付き合ってた人いたんだ。 その子の父親って誰なの? 結婚するの?」
38「お姉ちゃんの知ってる人だよ」「そんな人いる?」 私は誰よぉ~と頭の中で年頃の男子を思い浮かべたけれど 自分の恋人しか出てこなかった。 従兄たちを思い浮かべてもそもそも皆遠方だし、ご近所さんを探しても 付き合うような人は見当たらない。「高校か大学の友だち?」とは口にしたものの、私は妹の女友だちの 2人くらいなら見知ってるけど、男友だちがいるのかどうかも 知らないのだから……違うでしょ。 いろいろ考えて一周して私は恐ろしいことに気が付いてしまった。 両親が纏うドヨンとした空気、結婚もしていないのにあっけらかんとして 妊娠しているかもしれないと話す妹の空気感。 「お姉ちゃん、信也さんは私のだからね。 このお腹の中の子の父親は彼だから。 お姉ちゃんがどんなに頑張っても信也さんはお姉ちゃんのものには ならないの。分かった?」 自分の言いたいことだけを話すと、妹は部屋を出て行った。 あまりのことに私は頭の中が真っ白でしばらく思考停止してしまった。 何がなにやら訳が分からない。 だって信也を自宅に招いたのは2回しかなくて、どこでどうやったらあの子が妊娠するっていうの! 「まだ蘭子も若いし、それからいくらでも出会いあるわよ。 ねぇ、あなた」「そうだな、子供ができちゃったならどうにもならんしな」 ねぇ、私の親たちは何を言ってるの? 玲子を叱ることもせず私の恋人を妹に譲るのが当たり前のように 言ったりしておかしくない? しようがない? しようがないで済ますつもりなんだ。 最近あまりデートに誘われなくなって距離が……距離感が遠くなったように感じてたんだけども、こういうことだったのね。腑に落ちた瞬間だった。「お父さん、お母さん、今の私の気持ちが分かる? って訊いても無駄だよね。 分かってるなら絶対私にそんな発言できないよね。 一言では語りつくせない言いたいことはたくさんあるけどひと言だけ……。 玲子は勿論だけど、あなたたちには失望した。 同じ血を分けた娘なのに妹には寛容で私には随分と無慈悲なことを 言うんだね。 もしかして私って橋の下で拾われた子だったりして」
39「なにバカなこと言ってるの。 ちゃんと私がお腹を痛めて産んだ子よ」 『お腹を痛めて産んだ割に私に対して母性のカケラもないような仕打ち。 一生許さないから。 いつか二人とも捨ててやる』 私は埒もないことしか話さない両親に背を向け、自室に向かった。 こんな大事なことを信也に直接問い詰めることもせず、はいそうですかと 言えるはずもない。 勿論妹からも事情聴取しないわけにはいかない。 私は2階の踊り場に佇み一呼吸置いてから玲子に声を掛け部屋に入った。 「いつそういう関係になったの? この家で2回会っただけなのにどこをどうすれば そんな展開になるっていうの。 分かるように説明して」 「2度目に信也さんが来た日にさ、お姉ちゃんがトイレに行った時に お母さんから頼まれて2人分のコーヒーを淹れて出したことがあったの 覚えてる? その時に信也さんに『姉のことでお話したいことがあるので』って メルアドと電話番号書いたメモを渡したのよ。 それが切っ掛けだよ」 「あなたから誘惑したんだ?」「う~ん、どうだろうねー。 否定はしないけど信也さんの感触見てたら、私とお姉ちゃんと どちらでも好きな方を選べるなら断然私っていう感じはあったよ。 メールで会う約束してすぐに日を置かず会ったんたけど 信也さん私にメロメロだったもん。 やだぁ~私ね、お姉ちゃんとのこと真剣なんですか? って確認したかっただけなのにね。 なんでこうなっちゃったんだろうー。 お姉ちゃん、ごめんね。 魅力的な私のせいだよね。 平凡なお姉ちゃんにやっとできた彼氏だったのにぃ~。 彼ね、私のこと好き過ぎて会うたびにエッチしてたから そりゃあ~妊娠するよね。 信也さんったらすごいんだぁ~。 精力旺盛でぇ~」
40 私は妹の言い訳という名の説明を聞きながら思った。 今まで特に仲の良い姉妹でもなかったけれど、妹の口から 罪悪感など微塵もなさげに吐き出される言葉に衝撃が走り、 薄気味悪さを感じた。 メンタルが普通じゃない。 両親も妹も、皆頭おかしい。 3人とはとてもじゃないけれど建設的な話し合いなんて望めそうもないし、したとしても徒労に終わるのが目に見えてる。 この時私の胸の中に沸き上がった感情、それは『許さない』という 強い思い。 だが『許さない』という負の感情に気持ちを持っていかれるのも癪に障る ほど取るに足らないつまらないもののように思えてきて 最後に行きついた感情は『あきれた』の4文字だった。 枯れ果てるほどの涙を流したわけでもないのに心情としては すでにその境地に入っていた。 涙も枯れ果てるほど泣いたあとの呆然自失というヤツだ。「精力旺盛ってよくも平気で人の恋人寝取っておいて下品なことが 言えるものね。 お父さんたちもあんたも考えてることがちゃんちゃらおかしいわよ」 「なんとでも……負け犬の遠吠えじゃん。ご愁傷様ぁ~」 妹の吐き出した言葉のなんと酷いこと。 私はこの今回の妹の妊娠騒動まで自分の家族は普通の家族だと思って 暮らしてきたわけだけど、異常性に気付いたのが今で良かったと思った。 あと4か月と少しで、来春には大学を卒業し、内定をもらってる企業に 就職も決まっている。 自宅から通うのか独り暮らしをするのか決めかねていたけれど、今や選択肢は1つしかない。 この時蘭子は家も家族も捨てるつもりでこの家を出て行こうと腹を括った。 そしてまた信也に最後の裏付け、すなわち玲子と本当にそんなことがあったのか確認せねばならないと思うのだった。
41◇信也と玲子 蘭子とは学生同士とはいえ真剣に交際していたつもりの信也だった。 だから蘭子の自宅に招かれ母親と妹に蘭子の恋人として紹介された時も、 きちんと臆することなく挨拶をした。 そんな信也だったから父親も加わっての次の挨拶は就職後になるだろうと 考えていた。 最初の訪問時に驚いたのは妹の玲子の美しさにだった。 毒気を纏った美しさでドキマギしてしまった。 花で例えるなら姉の蘭子は知的で物静かなスズランやカンパニュラと いったところだろうか。 反して妹の玲子は色鮮やかな赤いバラかシャクヤクか毒々しさを重ねて みると真っ赤な曼殊沙華。 玲子とのメイキングラブは期待を裏切らず随分楽しめた。 かなりの人数と行為をこなしてるみたいで体位もそうだが なかなかのテクニシャンだった。 あんなの経験したら楽しむのはいいだろうけど、まず妻にはできないな。 はっきり言って何人が出入りして使ったか分からない肉便器じゃん。 今日はどんな男をひっかけてヤッてんだろうなんて、一日中心配で 仕事なんて落ち着いてできねーよ。 玲子とは5回ほどホテルへ行った。 蘭子にバレずに済むだろうか。 運よくバレずに蘭子と結婚できたら、できるだけ早めの転勤異動願いを 出して玲子のいるところからう~んと遠くに離れないと……だ。 信也が6回めに玲子と会うことはなかった。 玲子とのアバンチュールは2か月間の5回の逢瀬で打ち切りにした。 いくらなんでもずるずる続けていたら蘭子にバレてしまうだろう。 所詮割り切った遊びなのだから。*◇信也と蘭子 島本家で玲子妊娠報告のあった翌日は金曜日でその日は蘭子も信也も 何コマか授業を取っており、いつものように食堂でふたりして 落ち合うことになっていた。 昨日まで将来を誓い合っていた信也がたった一日を隔てて 赤の他人よりも質《たち》の悪い人間と化してしまった。 玲子の話が真実ならば。
119 「こんばんは」「あぁ、掛居さん、ちゃんと来てくれて良かったわ」「……」 「いやぁあのね、週初めに遠野さんから掛居さんに代わって夜間保育を やらせてほしいってお願いされてたのね。 それで何気にまたなんでそういう気持ちになったのか訊いてみたの。 そしたら夜間保育には必ず相原さんのお子さんがいるっていうことを 掛居さんから聞いたのでって彼女が言ったの。 その時は私も全然遠野さんの意図が読めなくて何も考えず 『凛ちゃんのファンなの?』って訊いたの。 後々考えてみたらピンとこない私もアレなんだけど 『いえ、いや、そうなんです。凛ちゃんも可愛いし、でも私は 凛ちゃんのお父さんとも親しくなれたらと思っています』 って遠野さんに言われちゃって。 気が回らないというか、私としたことか迂闊だったわぁ~。 掛居さんは一連の遠野さんの言動っていうか、ふるまいというか、気持ち知ってたのかしら?」 「はい、一応。夜間保育したくて立候補するけどいいか、ということは 話してもらってました。 でもその後の結果というか報告は聞いてなかったので 今日いつものようにこちらへ来ました。 あの……遠野さんの要望はどうなったのでしょうか?」 「私ね、遠野さんから話を聞いて、ここは彼女のために応援するべきかどうか 悩んだのだけど、なんかねぇ、彼女のことをよく知らないっていうのも あって応援する気になれなかったの。 それでお断りしたわ。 私は掛居さんのガツガツしていないところが好き。 相原くんのお相手が掛居さんだったなら応援する」 きゃあ~、芦田さんったら何を言い出すんですかぁ~、私は反応に困った。
118 遠野さんだったら私のように匠吾や島本玲子から逃げ出したりせず、各々と向き合い対決して怒りをぶつけたり、折り合いをつけたりと、自分でちゃんと決着つけられるのかもしれない、とふとそんなことを思った。 当時の私は無防備で、相手に依存し安心しきっていた上に完璧を求め過ぎ、そして何より弱すぎた。 ある日突然終わってしまった私の悲しい恋と恋心。 あの日から私の時間は止まってしまった。 私はちゃんと生きているのかな? 時々戸惑いを覚える。 あんなに好きだった人《匠吾》にあの日から会いたいと思ったことは一度もない。 遠野からの意外な告白を聞いた日からちょうど1週間が過ぎ、夜間保育の金曜になったけれど芦田から遠野の話は出ていないし、また遠野本人から夜間保育の担当になれたという報告も受けていない。 わざわざ自分から遠野に訊くのも違うような気がして、花はいつものように自分の担当部署の仕事を片付けると夜間保育の仕事場へと向かった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 遠野はというと、花に夜間保育の件を話した後週明けすぐに芦田に直談判していた。 芦田からは、派遣社員は雇用形態がこちらの社員とは違うので副業で夜間だけ働いてもらうことは難しいとバッサリ断られていたのだった。 それは確かに芦田が断る1つの理由でもあったのだが、実はもうひとつの理由があった。 遠野の言動から夜間保育を志望する理由というのが、凛をはじめ、子どもたちのことを可愛く思ってのことではなく凛の父親狙いというのが透けて見えたためだった。
117 遠野さんの分かってます発言はほんとに分かっていての発言なのか、 非常に怪しい。 最後の含み笑いは私を困惑させるのに十分な威力を備えていた。 周囲には隠して付き合っている、というストーリーが彼女の頭の中で 展開されている節がある。 何故なら相原さんと付き合っているのか、という問いかけはなかったからだ。 まぁあれだ、彼女は小説を書く人だから、一般人よりは妄想たくましい 可能性はあるよね。 相原さんとデートしたことなんて絶対知られないようにしなきゃ、だわ。 何気にこういうの疲れるぅ~。「掛居さん、私、夜間保育をして少しずつ相原さんとお近づきに なりたいんです。 それで芦田さんに夜間保育をやりたいってお願いしてみようかと 思ってるんですけど、立候補したら迷惑でしょうか……迷惑になります? ご迷惑ならこの方法は止めなきゃ駄目ですよね」 私は先ほどから遠野さんの言動に驚かされてばかりなんだけど、 今の話を聞いて更に『目玉ドコー』な感覚に陥った。 なんて言うんだろう、彼女のお伺いって控えめさを装った強引な お願いにしか聞こえなくて、少し嫌な感じがする。 元々こういうキャラの女性《ひと》だったのか、はたまた片思いが 高じた所以のものなのか。 よく考えてみたら私が持っていた遠野さんのイメージなんてたまに 社食で昼食を一緒に摂るだけの間柄で何を知っているというのだ。 恋する乙女は貪欲で猪突猛進で私は恋する乙女? の力強さにある意味 感服するところもあるけれど、自分に置き換えてみるに、とてもそんなふう な形での力強さは一生掛かっても持てそうにないや。
116「皆《みんな》モチモチしていて可愛かったぁ~、大満足ぅ~。 掛居さんが抱っこしてた子って凛ちゃんですよね」「あぁ、うん。でもどうして……」 遠野さん、どうして凛ちゃんのこと知ってるのだろう。 「実は2回ほどひとりで昼休みに子供たち、見に行ったことがあって 芦田さんから聞いてたんです。 夜間保育のことか休日のサポート保育のこととか。 私、ちょっと後悔してるんですよー」「えっ?」「その理由が姑息過ぎて余り大きな声では言えないんですけど……」「なになに?」 「小説書くのに忙しいのは本当で、昼休憩の時間も惜しいくらい小説に時間 を割きたいというのも本当ですけど、あのカッコいい相原さんの娘さんが あの保育所にいるということなら話は別です。 こんな大事を知らなかったとは、迂闊でしたぁ~。 今までの時間が悔やまれます。 私なんて掛居さんより先に入社していたというのに。 掛居さん、私の言わんとするところ、分かります?」 「ええ、まぁなんとなくは。 相原さん本人に興味があるってことかな?」「え~いっ、掛居さんだから思い切って話しちゃいますね」 いやっ、話さなくてもいいかな。 だって話を聞いてしまうとなんとなぁ~くだけど後々ややこしいことに 巻き込まれそうな気がするのは取り越し苦労というものかしらん。 「相馬さんも素敵だけど今までの経緯を見ていると、とても並みの人間には 太刀打ちできない感じがして、遠い星っていう感じだから恋のターゲットに ならないでしょ? それに今や掛居さんといい感じみたいだし。 私略奪系は駄目なんですよね」 はぁ~、遠野さんの話を聞いていて私は頭が痛くなってきた。大体、今まで誰それに好意があるなんていう話を出してきたことなんて なかったというのに、いきなりの想い人発言。 しかも相原さんてぇ~、どんな反応すればいいのか困る。「あの、相原さんのことは何も反応できないけども、相馬さんとのことに 関しては、私たち付き合ってないから……」 「分かってますってぇ。むふふ」
115 「じゃあここで。 すみません、送っていただいて。 今日はいろいろとありがとうございました」「いや、これしきのこと。 しかし……ひゃあ~、まじまじとこんな間近で見るのは初めてだけどすごいね、35階建てのマンション。 今度さ、凛も連れて行くからお部屋見学してみたいなぁ~」「いいですよ。片付けないといけないので少し先になりますけどご招待しますね」「ありがたや。一生住めない物件だから楽しみにしてるよ。じゃあ」「はい、また明日」 いやぁ~、なんか相原さんのペースに乗せられて自宅の公開まで……。 私たちの距離が一遍に縮まりそ。 自分でも吃驚。 こういうのもありなの? ありでいいの? 答えはいくら考えても出ないけど、いたずらに拒絶するのもどうなのとも思うし。 それにちゃんと相原さん私の思ったこと分かってくれてるみたいだったし 取り敢えずこの夜、私は自分の胸に訊いてみた。 私は相原さんに恋してる? 恋に落ちた? NOだと思……う。 私は匠吾に向けていた……向かっていた強い恋心を元に考え、答えを導き出した。 素敵な男性《ひと》だな、とは思うけど、知らないことが多すぎる。 恋に落ちてないと昨夜、自分に向けて確認したけれど昨夜に引き続き、翌日になっても自分の気持ちが何気にルンルンしていることに気付いて、やっぱり異性とのデートは知らず知らず心が弾むものなのだなと悟った。 ただこれ以上深く考えようとするのは止めておくことにした。 そして今の自分の気持ちを大事にしようと思うのだった。 それから仕事終わりの金曜日……遠野さん、小暮さんと一緒にランチをしたあとのこと。 小暮さんはいつものようにいそいそと浮かんだアイディアを図にするべくデスクへと戻って行った。 いつもなら2人してデスクに戻るはずの遠野さんから『久しぶりにチビっ子たちを見に行きませんか』と誘われ、私たちは社内保育所へと足を運んだ。 遠野さんはいろいろな子たちと触れ合い、子供たちとの時間を楽しんでいるようだった。 私はというと、私を見付けた凛ちゃんが真っ先に飛んで来たので私はずっと凛ちゃんを抱いたまま他の子たちと触れ合い、昼休み終了の時間まで保育所で過ごした。 そんな私たちの様子をにこやかに見守っている芦田さんの姿が見えた。 子供たちと
114「えーと、私と一緒に食事して怒ってくる恋人的存在の女性がいたりってことはないですね? あとでトラブルに巻き込まれるのは困るのでここは厳しくチェックさせていただきます」「掛居さん、子持ちなんて俺がどんだけ素敵オーラを纏《まと》っていても誰も本気で相手になんてしないから。そういう心配はないよ」「えーっ、そういうものなのかなぁ~。 私は凛ちゃんみたいな可愛い子、いても気にしませんけど……。 あっ、私ったら余計な一言でした。 恋人になりたいとかっていう意味じゃなくてですねその……」 私はやってしまったかも。 微妙にこの辺のことは発言を控えた方がいいレベルだったと気付いたが時すでに遅し。 本心から別に今、相原さんLoveで恋人になれたらいいのに、なんていう恋心から言ったのではなく、常々凛ちゃん好き好き病でつい、口から零れ落ちてしまったというか、零れ落としてしまったのだけれど、なんか変な誤解を招く一言だったよね。 嫌な冷や汗が流れそうになった。 きゃあ~、絶対勘違いさせちゃったよね。『お願い~相原さん、変に受け取らないでぇ~』「いやぁ~、恋愛抜きでも凛のことそんなふうに思ってもらえるなんてうれしいよ。じゃあ子持ち30代、希望あるかな」 「はい、相原さんならばっちり」「そんなふうに言ってもらってうれしいけど……」「けど?」「なかなか出会いの場がないからねー」「ほんとに。仕事ばかりで出会いないですよねー。 世の男女はどうやって結婚するのかしら? そうだ、一度結婚したことのある先輩、どうやって出会ったんですか?」「あー、うー、その話はまた今度ってことで」「楽しみぃー!」 なんだかんだ2人で話しているうちに私たちはいつの間にかマンションの前に着いていた。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。