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雪吊りの庭②

Author: 雫石しま
last update Huling Na-update: 2025-08-07 04:24:21

 赤松の雪吊りからバサバサと湿った雪が落ち、庭に鈍い音を響かせる。座敷は悲壮な空気に包まれ、まるで時間が凍りついたかのようだった。

菜月の震える手には、2人の名前が印字された新しい戸籍謄本が握られている。紙の端がわずかに折れ、彼女の指の震えに合わせて揺れる。ゆきは着物の袖で口元を覆い、涙を隠すように顔を伏せた。その瞳は、感情を押し込めたまま、畳の目をじっと見つめている。多摩さんは声を押し殺し、茶の間へと踵を返した。彼女の足音は静かだが、どこか重く、座敷の空気をさらに締め付ける。

外では雪が降り続き、赤松の枝が重そうに揺れる。戸籍謄本に記された名前が、菜月の心に鋭く突き刺さる。

誰も言葉を発しない。沈黙が、雪の落ちる音と交錯し、座敷を重い静寂で満たす。多摩さんが茶の間から戻ると、手には湯気の立つ茶碗が。だが、その温もりも、座敷の悲しみを溶かすには至らない。

「父さん、ごめん」

 郷士は座敷テーブルに身を乗り出した。

「間違いないのか!」

「間違いない」

「悪性だと医者は言ったのか、本当か!」

「胃癌のステージ3だって」

「治らないのか、手術は出来ないのか!」

 郷士の顔色は青ざめていた。

「もう拡がっている」

「どれだけ生きられるんだ」

「5年か、10年か、わからない」

 菜月は、湊の背中を握り拳で叩いた。

「どうしてもっと早くに病院に行かなかったの!」

「ただの胃炎だと思っていたんだ」

 湊の両肩を掴み、前後に振った。

「湊!如何して!」

 ゆき がその腕を引き剥がすと胸に抱き締めた。

「菜月さん、湊のパパも胃癌だったの」

「・・・・・・!」

「分かっていたのに」

 ゆき の目は後悔に苛まれていた。

「そんな事分かっていたのに!」

「母さん」

「遺伝するかもしれないとわかっていて。どうしてもっと早くに検査を!」

「母さんのせいじゃないよ」

 沈黙の中、湊が口を開いた。

「抗がん剤治療は最低限にし

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