天井や壁からは、不気味な音ひとつ聞こえてこない。ということは、向こう側の彼女は眠ってしまったのだろう。そう思った瞬間、京弥はつい小さく笑って首を振った。こんな場所で眠れるなんて、肝が据わっているというべきか。でも、それも悪くない。少なくとも、さっきまでの恐怖から解放されたのだから。無事に気をそらしてやれた――そう思うと、彼もようやく胸を撫で下ろした。それから彼は、ふと過去を思い出し、口元に笑みを浮かべる。彼女との最初の出会い。あの日から長い時間が経ったけれど、今でも折に触れては思い返してしまう。紗雪本人にはその記憶がないのだが。そのことを思うと、少しだけ切なくなる。だが構わない。これから先、まだ時間はたっぷりある。ゆっくりと、一歩ずつ彼女に近づけばいいのだから。ちょうどその頃。紗雪が眠りについた間も、地上では救助隊が必死の作業を続けていた。瓦礫の下に取り残された生徒たちを、少しずつ掘り進めて救い出そうとしている。現場を見守る川島先生は、気が気でなく落ち着かない。一番大切にしている生徒を、こんなところで失うわけにはいかないのだ。まだ十代、これからの未来があるというのに――神様はなんて残酷なのか。校長はそんな川島先生の姿を見て、苛立ちを隠そうともしなかった。川島先生が祈ったり、歩き回ったりしているのが鬱陶しく見えるのだ。「いい加減にしなさい。少しは静かにできないのか」その一言に、川島先生はカッとした。「普段の私ならこんなふうにはなりません!でも、今は私の生徒が中に閉じ込められてるんですよ。心配して当然でしょう!」腰に手を当て、真正面から校長に言い返す。「私はいつも全力で仕事をしてきました。あの子は数少ない、心から大切に思える生徒なんです。素直で努力家で、しかもとても賢い。そんな子を心配するのが間違いですか?」周囲の人々が見守る中で、川島先生がここまで反発するのは珍しい。校長は面目を潰され、顔色を曇らせた。そして一歩近づき、低い声で耳元にささやく。「声が大きいぞ。そんなに騒いで、仕事を続ける気はあるのか?」露骨な脅しに、川島先生は逆に冷静になった。この期に及んでまだそんなことを言うのか。「そうですね。ええ、仕事なんて続けなくて
「いや、君は俺に会ったことはない」その答えに、若い紗雪はますます混乱した。何を言っているのか、霧の中にいるみたいでよくわからない。さらに問いかけようとした瞬間、彼はふっと笑って言った。「俺が誰かなんて気にしなくていい。時が来れば自然とわかるよ。安心して。俺は君を傷つけたりしない。ずっと君の味方でいるから」若い紗雪は彼の顔を見たこともない。けれどその言葉は、鮮烈に心の奥に刻み込まれ、決して消えることのない痕跡を残した。そうして二人は、過去から未来のことまで、取りとめもなく語り合った。怖くて不安で仕方なかった若い紗雪の心は、少しずつ和らいでいく。冷たく湿った地下に閉じ込められた孤独な二人が、この瞬間だけは心を寄せ合っていた。彼との会話に支えられて、若い紗雪の気持ちは穏やかになり、未来のことも少しだけ明るく思い描けるようになった。「お兄さん、ありがとう」小さな笑みを浮かべると、相手も柔らかく口元をゆるめた。「礼なんていらない。君の力になれて、俺も嬉しいよ」こうやって人を「お兄さん」って呼ぶのは初めてだから、ちょっと恥ずかしい。若い紗雪は頬を赤らめながら言った。「外に出たら、また会おうね」その言葉に、青年は一瞬動きを止め、呼吸が少し重くなった。瞳の奥で、複雑な光が揺れる。「......必ず会えるよ」その手がぎゅっと握りしめられ、目の奥に宿ったのは紗雪への強い執着だった。もし今の紗雪が壁をすり抜けられたなら気づいただろう。彼女が「お兄さん」と呼んだ相手の顔は、若い頃の京弥そのものだったと。高校生の頃の彼はまだあどけなさが残っていて、後年の彼のような陰の濃さはない。だが、一目見ればわかる。同じ人物だ、と。成長した京弥はより精悍で成熟するが、面影は変わらない。ずっと彼女を励まし、支えていた相手――それは若い京弥だったのだ。「前から君を知っている」という言葉は真実だった。ただ、それは京弥が一方的に紗雪に恋をした、というだけのこと。二人の会話は途切れることなく続いた。若い紗雪がどんなことを口にしても、彼は自然に受け止め、答えを返してくれる。それが彼女にとって驚きであり、嬉しかった。これまで彼女は人と話すこと自体あまり望んだことがなかった。なの
若い紗雪は、チョコを半分だけかじって、残りの半分はそっとポケットにしまった。いつ外に出られるかわからない。どれくらいここに閉じ込められるのかもわからない。すべては未知だ。生き延びるためには、少しでも体に力を蓄えておくしかない。そうしなければ、出口を探す気力すら失われてしまう。「ねえ、私たち、外に出る方法を探した方がいいんじゃない?」紗雪が口を開いた。半分のチョコで体力が少し戻ったのか、声にも先ほどより力があった。男の子はあたりを見回す。周りにあるのは崩れ落ちた天井や土ばかり。抜け道らしきものはどこにもない。しかも学校の基礎の下がどうなっているのかなんて想像もつかない。むやみに動けば、道を失い、かえって危険を招くだけだ。そう考えていることを、彼は率直に伝えた。紗雪も納得して、彼らを隔てている土壁に背を預けて座り込んだ。知らず知らずのうちに、相手も同じように壁に寄りかかっていた。まるで背中合わせに座っているみたいに。紗雪は小さく息をついた。「ねえ......私たち、ずっとここに閉じ込められたままなのかな。まだ十代なのに......この先、もう何もないの?」母のこと、父のこと、そしていつも自分を目の敵にしてきた姉・緒莉の顔が浮かんだ。もし本当にここで終わってしまったら......あまりにも惜しい人生だ。やりたいことは山ほどあった。高校すらまだ卒業していないのに。「......こんなこと考えるなんて、私、バカだよね」その言葉に、相手の男子生徒は少し黙ったあと、きっぱりと口を開いた。「そんなことない。君は絶対ここで終わったりしない」「どうして......そんなに断言できるの?」紗雪は不思議そうに問い返した。まるで未来を知っているかのような口ぶりだ。「俺は前から君を知っているから。君が簡単に負ける子じゃないってこと、わかってる。だからこそ、ここで終わるはずがない。そんなの、紗雪じゃない」その言葉に、紗雪も、そしてもう一人の紗雪も思わず息をのんだ。そうだ、時間が経ちすぎて、彼とどんな会話をしたのか忘れていた。記憶が少しずつよみがえるのは今日が初めてだ。当時の自分には、ただ「温かくて、強くて、支えてくれる人」という印象しか残っていな
どうであれ、もう自分ひとりで延々と独り言を言い続ける状況ではなくなった。相手は一瞬、言葉を失ったようで、しばらく返事がなかった。若い紗雪は首をかしげる。どうしたんだろう。まさか瓦礫が落ちてきて当たった?それとも、空腹で気を失ったとか......?でもそんな音はまったく聞こえなかった。それなのに沈黙が続くものだから、ますます不安になって声をかけた。「どうしたの?なんで黙っちゃったの。そっちは大丈夫?」紗雪の焦りを感じ取ったのか、ようやく相手が口を開いた。「大丈夫だよ。ただ、残りの三人とは......離れ離れになった」「そうなんだ......」紗雪の声には、少し残念さと悔しさが混じっていた。けれどすぐに、自分はまだ運が良かったのだと気づく。あんな高いところから落ちても無事だったし、瓦礫は全部穴の入り口の方に崩れてきて、自分の身は逆に守られたような形になっている。とはいえ、この暗闇はあまりにも心細い。それでも、こうして話し相手ができただけで、恐怖がだいぶ和らいだ。「ねえ、あなたの名前は?」思わず声をかける。誰かと会話していないと、世界にひとりきりで取り残されたみたいで耐えられなかった。「生きて外に出られたら、その時に教えるよ」少し間を置いて、そんな答えが返ってきた。「......そっか」紗雪は、自分に勇気を与えるように先に名乗った。「私は二川紗雪。この学校の二年生だよ」すると、今度は驚くほど早く返事がきた。「知ってる」「え?何を?」意味がわからず眉をひそめる。この人、なんだか会話が噛み合ってない気がする。それに、反応も少し鈍いように感じられた。だが、紗雪が「怖い」と打ち明け、「ここから生きて出られるのかな」と不安を漏らすと、思いがけない言葉が返ってきた。「大丈夫。少なくとも、俺たちは今こうして一緒にいる」そう言って、瓦礫の隙間から必死に押し出すように、小さな板チョコを差し出してきた。「これ、食べな。少しは腹の足しになるから」紗雪は一瞬、言葉を失った。暗がりに見えるチョコレートを見つめるうちに、胸の奥がじんわりと温かくなる。顔も知らない相手なのに、こんな貴重なものを分けてくれるなんて。この状況では、いつ助かるかもわからない。
彼女は永遠に彼女であり、いつだって自分らしく生き、自分に忠実であり続ける。警察は、川島先生の熱意と必死さを見て、思わず心を動かされた。こんなにも真剣に思われる生徒とは、一体どんな子なのだろう。ここまでさせるのなら、きっと相当優秀に違いない。親にとっての一生の願いも、結局はそういう子を育てることだろう。だが今は、それよりまず救出が先だ。それ以外のことは、すべて後回しだ。紗雪は上の状況を、まるで手に取るように見ていた。特に大きな異変は起きていない。記憶によれば、あの年も救助隊は長い時間をかけてやっと彼女を見つけ出してくれた。ただ、不思議なのは......最後までそばにいて励ましてくれたあの「お兄さん」が、その後ぱったり姿を消してしまったことだ。紗雪は建物の残骸に沿って、ゆっくりと下へ降りていった。瓦礫も壁も、すべてすり抜けることができる。彼女にとっては、まるで遊びのように障害にならなかった。やがて地下に戻った紗雪の目に飛び込んできたのは、両腕を抱えて何度も擦り合わせながら縮こまっている若い紗雪の姿だった。地下は真っ暗で、表情などはまったく見えない。これまでなら、どこにいてもはっきりと見通せたはずなのに。この身体になってからは、不自由など感じたことがなかった。ところが今は、闇のせいか、目が効かない。若い自分がどこにいるのかも、はっきりとわからない。仕方なく、感覚だけを頼りに動くしかなかった。若い紗雪は周囲を観察していた。あたり一面つるりとした泥ばかりで、道具らしいものは何一つない。自力でどうこうできる環境ではなかった。ただ、目の前には「壁」のようなものが立ちはだかっていた。おかしい。さっきまで確かにびっしり塞がれていたはずの壁が、今見ると少し隙間ができているように見えた。いや、それどころか、その隙間から何かが見えそうな気がする。若い紗雪は思わず壁を叩いた。「誰かいますか?聞こえるなら返事してください。そうすれば、向こうで何をしているのか私にもわかります」しかし返事はなかった。若い紗雪の表情には落胆が浮かぶ。やっぱり、思い違いだったのかな?彼女に今いちばん必要なのは、ただ「誰かがそばにいる」ということだった。どれだけ独立心が強くても
そう考えた校長は、思わず声を上げて専門家に問いかけた。「先生、一体これはどういう原因なんですか?」地質の専門家は首を振り、答えを見いだせずにいた。「これは......すぐに結論を出せるようなことではありませんね」彼自身も挫折をにじませる。「長いことこの仕事をしてきましたが、こんな現象を見るのは初めてです」その言葉に、周囲はますます口を閉ざしてしまった。この地質専門家はK国でも名の知れた人物だ。その彼ですら説明できない出来事が、小さな鳴り城で起きている――科学ではとても説明できないほど奇怪な現象だった。だが今は理由を詮索している場合ではない。とにかく全力を尽くして、中にいる子どもたちを救い出すしかない。救援隊が動き出そうとしたそのとき、慌ただしい声が響いた。「すみません、通してください!」校長や専門家たちが振り返ると、息を切らせた男がこちらへ駆けてくる。校長は眉をひそめ、不機嫌そうに声を荒げた。「川島先生、こんなときに何をしに来た。これから救助を始めるところなんだ、邪魔をしないでくれ」川島先生は胸を押さえて呼吸を整え、やっと言葉を絞り出した。「校長......一つお聞きします。今日の午後、ホールにいた五人の生徒の名前は?」「そんなことを聞いてどうする」救援の最中に横から口を挟まれ、校長は苛立ちを隠さなかった。「用がないなら下がっていなさい」だが川島先生はさらに声を張り上げた。「校長!もし中に二川紗雪という子がいるなら、必ず無事に救い出してください!」その一言に校長の目が鋭く光る。「どうして君が二川の名前を?」「な、何ですって!?」川島先生の声は震えていた。彼は校長の腕をつかみ、わなわなと問いただす。「校長、本当に......本当に冗談じゃないんですね?」校長の表情が険しくなる。彼は川島先生の手を振り払った。「こんなに人が見ている前で、私が冗談を言うとでも思うか?」その態度で、川島先生も事の重大さを悟った。これは本当なのだ。次の瞬間、川島先生は泣き崩れ、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら校長の足にすがりついた。「この子がどれほど優秀か、校長先生はご存じないんですか!学校にどれだけの栄誉をもたらしたか......あんな頭脳