LOGIN※毎朝7時更新※ 離婚直後、心も財布もボロボロのOL・中原ひかりは、冷徹で完璧主義な上司・御門蓮司から「形式だけの契約結婚」を持ちかけられる。 「俺と結婚してほしい。契約期間は1年、報酬は1,000万円」 蓮司の目的は会長命令で無理やり進められた政略結婚を回避するための“偽装婚”だった。 夫の借金を返すため、貯金を使い果たしたひかりは現在、無一文。 背に腹は代えられず、契約の条件に「恋愛関係は禁止」「プライベート干渉ナシ」と付け加え、冷静に“契約結婚”を受け入れる。 いざ新婚生活が始まると冷徹無表情だった彼が少しずつ“夫の顔”を見せ始める。そこに蓮司の婚約者を名乗る女や、ひかりの元夫までもが登場し、波乱が訪れて――?
View More――離婚届って、こんなに軽いんだっけ。
ペラリとした一枚の紙。緑色の淵で彩られた用紙を、私は区役所の窓口に差し出した。
記入漏れも修正印もない。事前に全てチェック済のものだから、問題は無いと思う。ふたりで出さないといけないのかと思いきや、夫――いや、正確には【元】夫は欠席だった。定職も就いていないくせに、最後の最後まで逃げて終わった。私の前に姿を見せることなく、予めサインだけ済ませた書類を郵送してきたのだ。あいつは浮気しただけじゃなく、借金までして貯金を食いつぶし、挙句、愛人を妊娠させて私の前からドロン(逃げた)した。
「……これで、終わり、か」
無意識に漏れた声が書類を受け取った窓口の職員に聞こえたらしく、軽く頷かれた。
「お疲れさまでした」
まるで区役所を出るときの「よい一日を」くらいのテンションで言われ、私は無言でその場を後にした。
これで、私、山川ひかり(30)――は、旧姓の中原ひかりに逆戻りし、おひとりさまとなった。
たった2年の結婚生活にピリオドが打たれた。
東京の空は晴れている。見上げると憎らしいくらい青かった。だけど胸の内はどんよりと曇っていた。
※
「おい、資料はもう送ったのか?」
声が飛んできたのは、社内で“氷の上司”と噂される本部長――御門蓮司(みかどれんじ)・御年35歳のデスクからだった。
シゴデキ、ルックス良し、愛想ナシの行き遅れ男。仕事は早く無駄が一切ない。この人のプライベートに関わる女性は、さぞ完璧を求められて大変だと察するに余る。
私は椅子から立ち上がり、資料の束を胸に抱えて歩み寄る。「はい。クライアントには先ほどメールで……」
言い終える前に、彼の視線が私のミスを見つける。彼は一瞥するだけで、間違いを指摘してきた。
「この数値、前回の資料とズレてる。確認したのか?」
「あ……すみません。修正して再送します」
「すみませんで済むなら営業は要らない。次はないと思え」
怒鳴らないが痛いところを静かに突く。淡々と、鋭く、冷たい。でもそれが彼のいつものスタイル。
そして部下にとって、なによりも厳しいのは――期待されていない事実だった。
御門本部長に褒められる部下を、私は見たことがない。
むしろ、彼の信頼を勝ち取った人間がいるのかすら謎だ。私は静かに席に戻り、震える指で修正作業に取りかかった。
離婚しても会社には来なきゃいけないし、仕事が終わるわけでもない。私の中ではとてつもない決断を下し、旧姓にまで戻り、戸籍が変わった記念すべき日だというのに、周りは通常運転だ。今日くらいミスしてもいいだろう、なんてことにはならない。
(……仕事くらい、ちゃんとやらなきゃ)
家庭も、愛も、お金も、全て失ったのだから。
私は座を立ち、帯の前でいちど静かに手を重ねた。 袖の下で鍵のチャームが小さく触れ合う。 深呼吸してしっかりと前を見つめた。「僭越ながら——薄茶を一服、あと、私の得意なものを添えさせてください」 空気がきゅっと締まる。誰かが小さく咳払いした。けれど、お祖父様は何も言わない。目だけが「見せてみなさい」と言っていた。 帛紗をさばく。角に生まれる小さな風が手首を撫でていく。棗、茶杓、茶筅。習った順を骨に任せ、半拍だけ長く間を置く。釜の湯気が細く立ち上り、畳に溶ける。碗をお祖父様へ献上する。泡は軽く香りは高く。——手は震えない。大丈夫。 そして次。広間の袖で控えていた家人が真塗(しんぬり)の食籠(じきろう)(※食物を盛る器・茶の湯で、菓子器などに使用されるふたのある器のこと)を両手で捧げて入ってくる。蓋をすっと引くと、客席に小さな波が立った。「薄茶のあとのひと口でございます。——四季折々の多幸焼き(たこやき)と、黄金の玉子焼きでございます」 言いながら、自分でも少し可笑しくなる。たこ焼きは多くの幸せで多幸(たこ)。語呂の勝利。しかも今日は菓子仕立て、湯気に重ならない甘さで、抹茶の余韻をすっと伸ばす配合にした。 食籠の中は、小さな四つの球体と長方形の玉子焼き。器は季節を泳がせるために、輪島の黒塗り盆に薄青磁の小皿を五枚、花びらのように配した。黒が余白、青磁が息。中央に淡金の水引を一筋だけ通し、祝意を結ぶ。「春——桜の多幸でございます」 用意した食籠をお祖父様の前へ。そして皿の説明に移る。
蓮司と中に入ると、大勢の本家の人間の視線が一手私に集中した。 怖気づいたりせず、堂々と背筋を伸ばして蓮司の隣を歩く。「よくきた」 以前お会いしたお祖父様が私に挨拶をしてくれた。上座に座っていて、こちらを見下ろしている。「して、ひかりさん。契約婚と伺ったがどういうことかな?」「それは俺から説明を――…」「蓮司は黙ってろ。儂はひかりさんに聞いている」 以前、真白さんを一喝したと同じように蓮司の言葉を遮った。 この家は、というより御門家の本家はお祖父様が頂点に立っていて、彼を納得させなければならないのだと直感した。 私はもう、嘘はつかない。 正直に自分の気持ちを話そう。 「まずは皆様、私や蓮司さんの軽率な行動で、要らぬご心配をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。最初は契約婚としたのは事実です。それは、私の口から説明させていただきます」 ぐっと顎を引き、みんなの方を向いた。「私は以前まで、別に夫がいました。とてもひどい夫で、ボロボロになって捨てられました。人間不信に陥って、もう誰とも結婚したくないし男性なんか私の人生に必要ないと思っていた離婚当日、蓮司さんに偽装結婚を持ち掛けられました」 みんな私の話をじっと聞いてくれている。隣の蓮司もそうだ。「でもそれは、彼なりの優しさでした。蓮司さんは私をずっと見守っていてくれて、でも、私がこんな状態なので距離の詰め方が判らずに、偽装結婚をしようと言われたのです。しかもその時、私はお金に困っていました。前の夫が愛人を妊娠させ、貯金を全部持ち逃げしたからです。背に腹は代えられない状態でしたので、契約婚を引き受けました。それが始まりです」 一呼吸置き、落ち着いてからまた話す。「暮らし始めてすぐ、蓮司さんとの距
それから一か月足らず、修行に明け暮れた。 へとへとになりながらも、なんとかやりきった。 そして迎えた今日。 いよいよ、本家で蓮司の妻――つまり私を、全員に紹介する。 まるで最悪な決算を叩きだしてしまった会社の株主総会の矢面に立たされる経営者の如く。 歓迎されていないのは百も承知。 左手に着けたチャームを撫でた。くじけそうになった時も、これを撫でると頑張れた。 蓮司のことを思い出して。 ちょっと反則技かもしれないけれど、彼の寝室に行って、枕をぎゅっとさせてもらったりして凌いだことは内緒! 目の前には本家の大きな家が聳えている。私なんかお呼びでない。 多分、一生。 さぁて。敵陣へ乗り込むわよ! * 表門の前で一度だけ深呼吸した。玉砂利が下駄の歯にかすかに噛む。今日はおあつらえ向きに快晴! 着物は亜由美母にレンタル。そして着付けも母にしてもらった。その方が綺麗だから。 朝早くから全面協力してもらった。髪の毛もセットしてもらって、メイクは亜由美が仕上げ
亜由美に家まで送ってもらい、マンション前で降車し、通り慣れてきたロビーを抜け、エレベーターに乗り込み部屋に入る。ドアが静かに閉まった瞬間、世界の音量が一段下がった。ヒールを脱いで指をほぐす。冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、ひと口。喉を滑る水の冷たさが、背骨の一番下まで降りていく。 私が来たばかりの頃は、冷蔵庫には水しか入っていなかったっけ。 ロクなものが入ってなかった。 週末、たこ焼きパーティーをしようと約束したのに、できなくなったから…。 たこ焼きの材料を少しだけ買ってしまったから、冷凍しておこう。 粉は持つからいいとして…って、なに考えてんだろ。もうこうなった以上、そんな約束を果たせる日はきっと来ない。 ソファに腰を下ろしてしまうと、もう立てなくなるのはわかっている。だから、まずは帰宅の儀。髪をゆるくまとめ直し、メイクを軽く落とし、膝に冷却シートを貼る。鏡の前に立ち、稽古で教わったとおり、肩甲骨を寄せて、顎の角度を一度だけ正す。たったそれだけなのに、胸のあたりが空いて、呼吸がまっすぐ出ていった。 でも、自分でも思う。頑張ってもせいぜい綺麗に姿勢を正して歩くのが関の山だろう。 正座にも不慣れで、やるからには頑張りたいけれど、この期間じゃ短すぎる。 だったらもっと別角度で切り込むしかないんじゃないかな。 正攻法で行っても、多分、真白さんには勝てないし、無様な姿を見せて終わりだ。
稽古場を出ると、玄関の戸の向こうに夜の匂いが溜まっていた。水気を含んだ土。知らない間に少し雨が降っていたみたい。最近雨が多いな。 ふう、とため息をついた瞬間、膝が遅れて震える。そこでようやく、私は自分の体重がちゃんと戻ってきたことを知った。体バキバキ、背中超痛い。ついでに足が死んだ。暫く動けなくて10分くらい余分に時間もらって隅でじっとしていたのよね。さっきまで。 門を出ると、亜由美がポストにもたれて待っていた。街灯に照らされて、彼女の目尻がきらりと笑う。「よく頑張ったね。正直言うと、あの母親の厳しさについていけなくて、音を上げて帰ると思ってた」「やるって決めた以上は頑張るしかないよ。できていないんだし、時間もないからそれでいいよ。できない私が悪いんだから」「あの人に初回から付いていけるなんて、やっぱひかりは根性あるわ。だから好き」 やんちゃな亜由美らしいな。まあでも、だからこそ気が合う。「諦めたくないんだけど、どうにも向いてないよね。どうしたらいいかな」「どうしようもないね。で、向いてないのわかる」「だよね…」
心の中でゴッと炎が燃え上がる。現実が追いかけてきた。(……でも、私、茶道ぜんっぜんやってこなかったからなぁ…) 茶碗に茶筅(ちゃせん)くらいはわかる。 この前お点前をお母さまに教えていただいて、なんとなくはわかる。 でも、着物着て披露するなんて…しかも1か月もないのにできるのかな…いやいや弱気になっちゃだめ! ゴゴっと燃え上がったまま、勢いでなんでもやりこなす勢いでやろう! ヨーチュブーにアップされている動画でも見ながら練習しようと思っていた時、亜由美から連絡があった。《今日のざまぁ、最高だったね。おつかれさま》(亜由美)(……そうだ!) 私は早速亜由美に連絡を取った。「ねえ亜由美、お母さまって確か茶道——」『ああうん。茶道の師範。言っとくけど超厳格だよ。私がグレた原因の八割があの人のせい』 超厳格…! しかも亜由美がグレた原因って…。 でもそれくらいじゃないと、間に合わない
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