鈴木一真(すずき かずま)と結婚して三年目、佐藤梨花(さとう りか)はようやく一真の心の中に誰がいるのかを理解した。 その人物、一真の兄の妻、小林桃子(こばやし ももこ)だった。 兄の鈴木啓介(すずき けいすけ)が亡くなった夜、一真は傍らにいる梨花の存在など少しも気にならず、容赦なく梨花に平手打ちをくらわせた。 その瞬間、梨花は全てを理解した。 一真が自分を娶ったのは彼女が「従順で言うことを聞く」からにすぎないのだ。 確かに、彼女は本当に「いい子」だった。 気を遣いすぎて、離婚さえも彼を少しも煩わせなかった。 一真はまだ気づいていなかった。 梨花はすでに離婚届を受け取っている。 彼女がもうすぐ他の人と結婚しようとしていた。 癌の特効薬を開発した日、世界中が彼女の成功を称賛した。 ただ一人、一真だけが片膝をつき、目を真っ赤にして彼女に懇願した。 「梨花、ごめん……僕が間違ってた。どうか、もう一度だけ、僕のことを見てくれないか?」 あの完璧な男が間違うはずがない。 それでも梨花は、ゆっくりと一歩後ろに下がった。 その瞬間、世間では最も高嶺の花と噂される若い男性が彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、傲然と宣言した。 「悪いけど、彼女はもうすぐ結婚するんだ。俺と」
View More「食事に行く」竜也は淡々とそう言った。梨花は苛立ちを隠さず、「車を止めて」と言い放った。黒川孝宏(くろかわ たかひろ)はミラー越しに竜也の指示を待っていたが、彼が何も言わないのを見ると、梨花ももう何も言わず、ドアの取っ手に手をかけて力任せに引いた。「あなたが私の言うことを聞かないのはわかってる。三年前に飛び降りた私が今だってやりかねないってわかってるでしょう!」孝宏は反射的に急ブレーキを踏んだ。三年前のことは、今でも彼のトラウマになっている。竜也は予期していたように身を乗り出し、梨花の手首をガシッと掴んだ。その声は氷のように冷たかった。「じゃあ、誰の言うことを聞く?一真のか?」「誰のだろうと、あなたのは聞かない!」彼女は全力でその手を振り払った。まるで刺激を受けた小さな豹のように。竜也は冷笑した。「昔は、俺に捨てないでって泣きついて、ずっと言うことを聞くって約束したくせに」「昔のことよ!」梨花の目は赤く染まり、感情のコントロールが利かなくなっていた。「竜也、私はもう二十四歳よ。七歳じゃない!あの頃、あなたが手招きしたから、何の疑いもなくついていった私じゃない!」その言葉が終わると同時に、彼の手がわずかに緩んだ。梨花はすかさずドアを開けて車を降りた。タクシーも呼ばず、ただ歩道に足を踏み出した。冷たい風が彼女の身体を貫き、過去の記憶を吹き飛ばしていく。黒川家で過ごした年月の中で、竜也のそばにいた九年間が、彼女にとって最も自由な時間だった。彼は家族だった。両親を亡くした彼女を、彼は兄として大切に育ててくれた。彼の友人たちがよく言っていた。「こんな可愛くて素直な妹をよく拾ったな」竜也は笑いながら、「拾うもんじゃないよ。うちでは横暴だからさ」と返していた。十六歳の時、彼女は人生で二度目の「捨てられた」経験をした。一度目は両親の事故死。二度目は竜也に見捨てられたことだった。その後長い間、夜ごとに同じ問いが頭を巡り続けた。「私の何が悪かったの?どうしてみんな離れていくの?」あの夜、お祖母様の屋敷に送り返された彼女は二日間跪かされた。お祖母様は笑いながらこう言った。「竜也はもともと気まぐれな子よ。彼の機嫌が良かった時は、猫や犬を飼って遊ぶのと同じような感覚
数年の歳月が経ち、彼の姿はすっかり変わっていた。彫刻のようにくっきりとした顔立ち、背筋の伸びた長身、黒のオーダースーツを身にまとい、手首には木製の数珠ブレスレット。その全身からは、冷淡で近寄りがたい空気が漂っている。長年間に高位に就いてきた者の威圧感だった。もはや、昔のように「お兄ちゃん」と追いかけて呼べるような存在ではない。彼との関係は、もうすっかり変わってしまったのだ。周囲には多くの人が彼を囲んでいたが、彼の態度は一真のように丁寧でも愛想が良いわけでもなかった。愛想笑いにすら、頷きだけで応じ、視線すら適当に流すだけ。彼の漆黒の瞳が梨花の方向を一瞬かすめて、すぐに別の場所へと逸らされた。「梨花」ちょうどそのとき、和也が近づいてきた。緊張で固くなった彼女を和らげるように声をかけた。「そろそろテープカットの準備ができたよ。行こうか」「うん、行きましょう」梨花はぎこちない微笑みを浮かべて頷き、必死に平静を装って彼の視線を無視した。後ろめたいことをしたのは自分ではない。彼を怖がる理由など、どこにもなかった。研究院の扉前で、開院式のテープカットが行われている。スタッフたちは既に準備万端で、出席者の到着を待つばかりだった。梨花と和也は優真のかわりに出席しており、最も目立つ中央席のすぐ横に案内された。冷たい風が顔に吹きつける中、梨花は気持ちを落ち着け、スタッフから渡されたハサミを手にして司会者の言葉に耳を傾けた。ハサミを一度入れれば、それで役目は終わる。そう思っていたが、「まさか来ていただけるとは思っていませんでした。空港までお迎え行けばよかったのに、失礼しました!」研究院の院長はある人物を中央席に案内していた。「こちらへどうぞ」その人は竜也だった。黒川家を継いでから、彼は果敢に医療業界へ進出し、今では私立病院を複数運営し、世界最高峰の研究施設も有するようになった。彼に招待状を送った時点で、まさか実際に足を運ぶとは誰も思っていなかった。梨花はその声に反応し、反射的に顔を向けた。真横に、あの背筋の伸びた男の姿があった。彼女の指先が白くなるほどハサミの柄を強く握りしめた。本当は顔を向ける必要などなかった。その薄く漂う沈香の匂いは幼い頃からずっと嗅ぎ慣れてき
和也は社交の達人だった。宴会が始まれば、梨花はただ食事を楽しめばいい。彼はたまに梨花の好みに合いそうな料理を見つけると、さりげなく取り分けてくれた。たとえば、豆腐料理。一真は豆類全般が苦手で、鈴木家の食卓に豆腐料理が並ぶことは一度もなかった。だが、梨花は豆腐が好きだった。彼女が和也に視線を向けると、目元がふわりと弧を描いた。何も言わなかったが、彼はその意味をちゃんと読み取って、軽く彼女の頭をぽんと叩いた。「熱いうちに食べな。先生に言われてるんだ、梨花をちゃんと世話しろって」ちょうどそのとき、斜め向かいの個室の扉が開かれた。先に出てきたのは五十歳前後の外国人の男性で、数名のスーツ姿の部下を連れていた。見るからにエリート特有の雰囲気を纏っており、どこかの上場企業の重役であることを物語っていた。彼はにこやかに体を横に避けて言った。「社長、これで話はまとまりましたね。契約書は明日、ホテルにお持ちします」「うん」応じたのは若い男性。黒のオーダーメイドシャツにスラックスを身にまとい、ジャケットは肘にかけられていた。凛とした顔立ちに自然と備わる支配者のオーラだった。彼の側には適切なタイミングで声をかけるアシスタントがいた。「黒川様、朝日バイオの社長がホテルでお待ちしています」それを聞いた外国人はすぐに察して笑顔を深めた。「それでは、私がご案内いたします」ちょうどその頃、給仕が個室のドアを開けて料理を運んできた。若い男性が個室の前を通り過ぎるとき、ふと中を覗いた。ピンク色のニットにデニムを身に着けた女の子が、隣の男性に頭を軽く叩かれながら笑っていた。まるで子猫のように素直で愛らしい姿に、彼の足が一瞬止まった。アシスタントはその視線を辿って、彼女に気づいた瞬間に目を見張った。「黒川様、あれ?梨花さんは草嶺国にもいらっしゃったんですか?」続けて和也を見て首をかしげる。「隣の男性は......まさかもう一真とは離婚して、新しい相手に乗り換えたんですか?」そのとき、料理を運び終えた給仕が扉を閉め、視線を遮った。男はアシスタントを横目で睨み、長い指でネクタイを鬱陶しそうに緩めた。「俺が占い師にでも見えるのか?」梨花はベッドが変わると眠れないタイプで、時差ボケには無縁
梨花が搭乗口に着くと、ちょうど和也の姿が目に入った。カジュアルな服装ながら、すっきりとしていて背筋が伸び、まさに清潔感あるイケメンだ。彼も梨花を探していたようで、視線がぶつかった瞬間、ぱっと笑みが広がった。何年も知り合っているのに、すっぴんの彼女を見て、いまだに目を奪われるのだから、彼の中では梨花は特別な存在なのかもしれない。数歩近づいてリュックを受け取りながら、医師の職業病が出た。「ここ数日、病院であまり眠れてないだろ?」「ちょっとだけですね」この前、同じ病室に転院してきたおばさんがとても良い人だったけれど、いびきもすごかった。機内に入って初めて、自分の席がファーストクラスに変更されているのに気づく。和也は彼女の視線の変化にすぐ気づいた。「よく眠れるようにね。今回の出張、ただでお願いしてるんだから、せめてしっかり休んでもらわないと」そう言って、安眠効果のある香り袋まで手渡してくる。梨花は受け取りながら微笑んだ。「先生はこれ経費で落ちるんですか?」「大丈夫。これくらい自腹で十分」「じゃあ、ありがとうね」彼に対しては、気負わず礼を言えた。田中家は有名な医薬グループである。和也が漢方医院を開いたのは完全に趣味の延長。まさか、梨花と一緒に開発した漢方薬が大ヒットして、漢方医院の評判までうなぎ登りになるとは本人も思っていなかっただろう。潮見市と草嶺の時差は六時間。到着すると、こちらは快晴で暖かい日差しが迎えてくれた。研究院側が空港まで迎えに来てくれて、滞在先のホテルまで送ってくれる。ホテルの部屋前まで荷物を運んでくれた和也が、ふと梨花の左手薬指に目を留める。「珍しいね。あの結婚指輪、いつも大事にしてたのに、今回はしてないんだ?」「無くしちゃったんです」梨花は肩をすくめ、淡々と答えた。「和也さん、私、離婚することにしました」和也は一瞬きょとんとしたが、すぐに眉を上げ、笑みを浮かべた。「やっぱりね。先生が言ってたとおりだ。一真なんて、梨花には釣り合わないってな」梨花は彼の顔を見て、わざとらしく言った。「なんか、嬉しそうですね?」「違うよ。心から祝福してるんだってば」和也はそう言いながら、彼女の荷物を部屋まで運び入れる。「ゆっくり休んで。夜の会食、迎
忙しいのは、優しさを振りまくこと。忙しいのは、好きな人を守ること。数日前、綾香がアフタヌーンティーを持って病室に来たとき、部屋に入るなり、一真のことをしばらく罵っていた。理由は簡単だった。VIP病室で、一真が桃子を献身的に看病している姿を目撃したからだ。翌朝、梨花は無事に退院手続きを済ませた。和也は彼女の体調を気にしてメッセージを送ってきた。「梨花、迎えに行こうか?」「大丈夫ですよ、和也さん。綾香が空港まで送ってくれますから」梨花は返信しながら、エレベーターに乗り込んだ。地下駐車場に着いたところで、非常階段の方から聞き覚えのある声が響いてきた。一真が電話をしている声が聞こえる。「僕、やっぱりまだ彼女のこと知ってるつもりだったのかな。まさか桃子に手を出すなんて思わなかった」相手が何か言ったのか、一真は少し困ったように続けた。「別に一方的に我慢させたかったわけじゃないし、離婚なんて考えたこともない」電話の向こうの声が急に高くなる。「は?梨花が桃子をぶん殴ったのに、離婚しないって?お前まさか、梨花のこと......好きになったんじゃないだろうな?」「バカ言うなよ」一真は一瞬ためらいながらも、慎重に言葉を選んだ。「今このタイミングで離婚したら、噂で桃子が潰される。つい最近もスキャンダルがあったばかりで、家族が彼女を放っておくわけがない」我慢して守る、回りくどい言い方。梨花はそれを耳にして、思わず笑ってしまった。理由なんて、最初から分かっていた。でも、本人の口から聞くと、やっぱり少しだけ気分が沈む。「僕、約束したから。彼女のことを一生守るって」「あのガキの頃のクソみたいな約束?」電話の相手は呆れたように笑った。「当時ほんの一回会っただけだろう。記憶違いかもしれねーじゃん?まぁいいや、今夜もいつもの店?」「いや、今夜は行かない」「桃子と誕生日を過ごすのか?」「梨花とだよ」一真の声には、確かに優しさが込められていた。「医者にも確認したけど、今日退院したいって申し出たみたい。たぶん、僕の誕生日を祝うためだと思う。あとで迎えに行くんだ。プレゼントまで用意してくれててさ、今夜」彼の言葉が終わる前に、エレベーターの前に綾香の車が止まった。梨花はもうそれ以
桃子の額を直撃した。血はあの朝に階段から落ちたときよりも、はるかに速く吹き出した。一真は呆然としながらも、反射的に動いた。彼は怒りを込めて梨花を突き飛ばし、冷たくて失望を滲ませた声で言った。「何してるんだ、梨花!あの優しくて素直な姿は全部嘘だったのか?」梨花は予想外のことに倒れ込み、呆然としたまま彼の言葉をただ見つめていた。そうだよ。全部、演技だった。でも今回はもう演じたくない。一真は彼女がこんなに傷ついているとは思っていなかった。あの程度の力で倒れるとは予想外だったのか、しばし言葉を失った。桃子は額を押さえて、涙声で訴えた。「一真......痛いよ、血が止まらない......」彼はもう何もかも気にせず、桃子を抱きかかえて病室を出ていった。部屋を出る直前、彼はふと不安げに振り返った。その一瞬で、一真の心臓がぎゅっと掴まれたように痛んだ。あの頃、「一真のお嫁さんになる」と願った少女、梨花だった。今の彼女は無表情に一真を見つめていた。まるで赤の他人に対するような、冷たい瞳だった。点滴瓶が投げられたと同時に、針が皮膚から無理やり引き抜かれた。真っ白な手から鮮やかな赤い血がぽたぽたと滴り落ちていた。けれど、梨花は何事もなかったかのように、ベッドの端を掴み、ぐらつく身体で必死に立ち上がろうとした。その姿は見る者の心を締め付けるようだった。ちょうどそのとき綾香が駆けつけ、彼女の様子を見て思わず声を上げた。「何してんの?こんなに血が出てるのに、なんで看護師を呼ばなかったのよ、何考えてんの?」何を考えてたんだろう。梨花はうっすらと唇を引き、答えずに笑った。たぶん、考えていたのは「価値」だった。この三年間、自分が注いできた全ての気持ちは、いったいどれほどの価値があったのだろうか。綾香は眉をひそめ、梨花をベッドに戻しながら言った。「結局どういうこと?恵さんから連絡もらって来たんだけど、階段から突き落とされたって?」梨花は思考を切り替え、少し唇を引き結びながら、静かに言った。「うん。でももう仕返しは済ませたよ」「は?」「桃子の頭、割ってやった」指で床に落ちた点滴瓶を示して、あっさりと告白する。「これが、あの凶器よ」綾香は何も聞かなかったかのように、血
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