登入十七歳で映画賞を受賞し、天才女優として頂点を極めた白峰凛花。だが二十七歳のある夜、後輩女優への暴行、不倫、違法薬物という身に覚えのない疑惑を同時に突きつけられ、事務所にも世間にも見捨てられてしまう。すべてを失った彼女が最後に頼ったのは、女優になる夢を選ぶため九年前に自ら別れた初恋の男、九鬼朔夜だった。今や巨大組織を率いる彼は、凛花を救う代わりに、自分の支配下へ入り、世間の前で「九鬼朔夜の女」として振る舞う契約を迫る。愛など残っていないと冷たく言い放つ朔夜の真意も分からぬまま、凛花は奪われた名誉と居場所を取り戻すため、華やかな芸能界と危険な裏社会を舞台に、再起を懸けた取引へ身を投じていく。
查看更多白峰凛花が十七歳で初めて主演女優賞を受賞した夜、会場にいた誰もが、彼女の未来を疑っていなかった。眩しい照明が降り注ぐ壇上へ立った凛花は、両手で金色のトロフィーを受け取った。まだ少女らしさを頬に残していたが、満場の視線を浴びても背筋は伸び、大御所俳優へ一礼する所作にも迷いはない。客席から湧き上がった拍手が天井へ反響し、人々の顔が照明の向こうで揺れていた。
候補に入ったと知らされた日から、受賞した場合の言葉は何度も考えていた。それでも用意した長い挨拶は、壇上へ着いた瞬間にすべて胸の底へ沈み、代わりに残ったのは一つだけだった。凛花は胸へ抱いたトロフィーの重みを確かめ、正面のカメラへ顔を上げた。緊張で指先は冷たくなっていたのに、不思議なほど声は震えなかった。
「この賞に恥じない女優になります」
短い言葉が終わると、それまで以上に大きな拍手が起きた。翌朝の新聞は十七歳の天才女優誕生と書き立て、テレビは微笑む少女の映像を繰り返した。その夜を境に、白峰凛花は作品の題名より先に主演の名で人を呼べる、数少ない女優の一人になった。
あれから十年が過ぎ、二十七歳になった凛花は、新作映画『白い残響』の完成披露試写会へ出席するため、都内の劇場前へ車で乗りつけた。窓越しにも、沿道を埋める数百人のファンと、隙間なく並んだ報道陣の機材が見える。車が止まり、スタッフが後部座席の扉を開いた。白いハイヒールの爪先を赤い絨毯へ下ろした瞬間、耳を圧するほどの歓声が押し寄せた。
「凛花ちゃん、こっち向いて!」
「主演女優賞から十周年、おめでとう!」
呼びかけが重なり合う中、凛花は白いドレスの裾を乱さない歩幅で進み、報道陣の前に引かれた印へ立った。正面には顎を引き、横から声が飛べば肩を開き、髪が首筋を隠さないよう指先で整える。どこから切り取られても美しく見える動きは、十年の間に身体へ染み込んでいた。無数のフラッシュに視界を白く奪われても、凛花は一度も目を細めなかった。
舞台の巨大なスクリーンには、『白い残響』の題名と雪原に佇む凛花の姿が映し出されていた。客席へ一礼した凛花の隣には、相手役を演じた人気俳優の神代蒼真が並ぶ。濃紺のスーツを着た蒼真は柔らかく微笑み、凛花が立ち位置へ着くまで半歩下がって待った。その気遣いに歓声が上がり、二人へ向けられるレンズが増えた。
「白峰さんは、十七歳で初めて主演女優賞を受賞されてから、今年でちょうど十年になります。今夜は、その節目に公開される主演作のお披露目となりましたが、どのようなお気持ちでしょうか」
司会者からマイクを向けられ、凛花は客席を見渡した。照明の向こうにいる一人一人の顔までは見えない。それでも、胸元へ凛花の写真を掲げた少女も、自分の言葉を待っていることは伝わった。凛花は両手でマイクを支え、いつもと変わらない微笑みを浮かべた。
「十年続けられたのは、作品を観てくださった皆様のおかげです。長かったというより、いただいた役を追いかけているうちに、いつの間にかここまで来ていたという気持ちの方が強いですね。これからも、一つ一つの役と誠実に向き合っていきたいと思います」
会場を満たした拍手に、凛花はもう一度頭を下げた。蒼真へ感想を求められると、彼は凛花へ穏やかな視線を向ける。カメラが二人を収めやすいよう、わずかに身体を寄せたことにも凛花は気づいた。その距離が親しさではなく仕事のために測られたものだと、互いに確かめる必要はなかった。
「白峰さんは、現場でも一切妥協しませんから。今回も、僕だけでなく共演者全員が引っ張ってもらいました。十周年の作品でご一緒できて光栄です」
「神代さんにそう言っていただくと、次の現場で怠けられなくなりますね」
客席から笑いが起こり、蒼真も目元を緩めた。完璧な主演女優と人気俳優が並んだ一瞬へ、フラッシュが雨のように降り注ぐ。凛花は笑顔を崩さないまま、舞台挨拶の残り時間と、この後に挨拶すべき相手の順番を数えていた。華やかな夜ほど、間違いは許されないと知っていた。
舞台袖へ入ると、拍手は厚い扉の向こうへ遠のいた。照明の熱が残る頬へ冷房の風が触れ、凛花は長く息を吐く。控室へ続く通路を歩いていると、壁際に一人で立つ天音真白の姿が目に入った。『白い残響』で主人公の妹を演じた二十歳の女優は、華奢な両腕で身体を抱き、床へ視線を落としていた。
舞台では薄桃色だった唇から血の気が引き、呼吸も浅い。行き交うスタッフは次の仕事に追われ、立ち尽くす真白を気に留めていなかった。凛花はマネージャーへ目で合図し、真白の前まで歩み寄った。名前を呼ぶ前から、真白の細い肩がびくりと揺れた。
「真白ちゃん?」
ゆっくり顔を上げた真白の瞳は、泣いた後のように赤かった。唇はわずかに震え、呼吸のたびに細い喉が上下している。凛花と目が合っても、安堵した様子はなかった。
「白峰さん……」
「顔色が悪いわ。気分が悪いなら、座れる場所へ行きましょう」
凛花が手を差し出すと、真白はその指先を凝視した。助けを求めたいのか、逃げたいのか分からない表情で唇を開き、喉の奥から掠れた息を漏らす。何かを言おうとしているのは明らかなのに、言葉になる前に、背後から足早に近づく靴音がした。真白の担当スタッフが二人の間へ身体を滑り込ませ、凛花の手を遮るように頭を下げた。
「白峰さん、申し訳ありません。天音は少し疲れているだけですので」
「少しには見えないけれど、医務室へ連れていった方がいいんじゃない?」
「こちらで対応いたします。天音、行くよ」
スタッフは真白の背へ手を当て、答えを待たずに別室へ連れていった。凛花が呼び止めても、真白は一度も振り返らない。その背中は、自分の意志で凛花から逃げているように見えた。目が合った瞬間の怯えが胸に残り、凛花はしばらくその場から動けなかった。
試写会後のパーティーは、劇場に隣接した高級ホテルで開かれた。シャンデリアの下を映画会社の重役やスポンサーが行き交い、グラスの触れ合う音が絶えない。凛花は口をつける暇もなく、主演として挨拶を続けた。祝福へ笑顔で応じながらも、視線は何度となく会場の入口へ向かった。
真白の姿は、一度も現れなかった。凛花はスポンサーとの会話が途切れた隙に、壁際にいたマネージャーの篠宮志保へ近づいた。四十代半ばの志保は十代の頃から現場を共にし、公の場で口にする言葉や立ち位置まで管理してきた。凛花が声を潜めると、志保は端末から顔を上げないまま眉を寄せた。
「真白ちゃんを見なかった? 舞台挨拶の後、様子がおかしかったの」
「体調不良で先に休んだんでしょう」
「スタッフに連れていかれたけれど、泣いていたみたいだった。何かあったのかもしれない」
「凛花、今日は余計なことに首を突っ込まないで。あなたは主演なのよ」
志保はようやく顔を上げ、周囲に話を聞かれていないか確かめた。凛花が真白に声をかけただけでも、主演女優が若手を可愛がっているという宣伝に使われる。反対に、少し厳しい表情を切り取られれば、後輩を威圧したという記事にもできる世界だった。今夜は誰が何の目的で入り込んでいるか分からないほど、招待客も多い。
「新人にはよくあることよ。注目される席に慣れなくて、緊張が切れただけかもしれない。明日の取材も早いんだから、あなたは自分の仕事をしなさい」
「でも、あの怯え方は普通じゃなかった」
「あなたが助けなければならない子は、今夜ここにはいないわ」
冷たい言い方だが、凛花を守るための忠告だとは分かっていた。長く仕事を続けるほど、善意だけで近づいてはいけない事情は増えていく。それでも、差し出した手を見た真白の目が忘れられない。凛花は反論を飲み込み、志保から渡された部屋番号を確認した。
「日下部監督が上の階にいるわ。パーティーへ下りられないそうだから、挨拶だけしてきて。長居はしないで、終わったら私に連絡してちょうだい」
凛花は手土産を受け取り、一人でエレベーターへ乗った。扉が閉じると宴会場の喧騒は消え、鏡の中には白いドレスを着た自分だけが残る。階数表示を見つめながら、凛花は口紅と髪の乱れを確かめた。そこに映る女は今夜も完璧で、真白を案じる胸の内など、どこにも見せていなかった。
監督の部屋がある階は人の気配がなく、厚い絨毯が凛花の靴音を吸い込んだ。等間隔に並ぶ扉は、どれも閉じている。指定された部屋の呼び鈴へ指を伸ばした時、廊下の向こうで何かがぶつかる音がした。続いて現れた人影を見て、凛花は手土産を抱え直した。
真白だった。ほどけた髪を頬へ張りつかせ、危うい足取りで走ってくる。衣装の上へ羽織った上着は乱れ、頬には指で打たれたような赤い跡が浮かんでいた。凛花の姿を認めた瞬間、真白の顔が恐怖に歪む。その表情を見た凛花は、考えるより先に駆け寄った。
「真白ちゃん、どうしたの?」
すれ違いかけた細い腕を掴むと、真白は全身を震わせた。凛花は力を込めていなかったが、真白は痛みに触れられたように顔を歪める。次の瞬間、その手を激しく振り払った。
「触らないで!」
鋭い声が、静かな廊下へ反響した。同時に、遠く離れた曲がり角の辺りで、白い光が一度だけ瞬く。凛花がそちらへ顔を向けた時には、壁の陰に黒い端末の端が消えていた。誰かがスマートフォンを向けていると理解した瞬間、目の前で真白が膝から崩れ落ちた。
「真白ちゃん?」
「もうやめてください……」
真白は床へ片手をつき、涙に濡れた顔で凛花を見上げた。腕を掴んだ痕がつくほど力を込めた覚えはない。それでも真白は痛みに耐えるように自分の手首を押さえ、撮影している何者かへ見せつけるように身体を小さくした。その仕草に不自然なものを感じながら、凛花は何が起きているのか理解できず、床へ落としかけた手土産を抱いたまま立ち尽くした。
「私、何も取っていません」
「何を言っているの?」
「役も、蒼真さんも、白峰さんから取ろうなんて思っていません。だから、もう許してください」
意味の分からない言葉に、凛花の背中を冷たいものが走った。真白は凛花ではなく、廊下の奥に潜むレンズへ語りかけているように見える。再び白い光が瞬き、今度は撮られているという確信が生まれた。凛花は手土産を床へ置き、撮影者を捕まえるために走り出そうとした。
その瞬間、廊下の照明が一斉に落ちた。足元さえ見えない闇の中で、真白が息を呑む音と、誰かが駆け去る足音が重なる。凛花は壁へ手をついて進みかけたが、床にいる真白を踏む恐怖に足を止めた。誰がどこにいるのかも、背後へ近づく者がいないかも分からなかった。
「真白ちゃん、そこにいる? 動かないで」
返事はなかった。遠ざかる足音に続き、重い扉が閉じる音が一度だけ響く。凛花がもう一度名前を呼んだ時、掌の中でスマートフォンが震えた。着信画面から漏れたわずかな光に照らされた廊下には、真白の姿も、床へ置いたはずの手土産も見当たらなかった。
数分後、照明が復旧しても、真白は戻らなかった。凛花は廊下の端にある待合室へ入り、志保へ連絡しようとした。だが先に、その名前が着信画面へ表示される。通話へ出ると、十年近く共にいる凛花でさえ聞いたことのない切迫した声が響いた。
「凛花、今すぐ部屋から出ないで」
「どうしたの? 真白ちゃんが――」
「インターネットを見ないで。誰から連絡が来ても、絶対に何も答えないで」
通話中にも、スマートフォンが何度も震えた。ニュース速報、知人のメッセージ、事務所からの着信が、画面へ休みなく現れては消える。動画配信サービスやSNSからも、同じ言葉を含む通知が押し寄せていた。自分と真白の名前を見つけた凛花は、志保の制止を聞きながら、一つを開いた。
表示されたのは、数分前まで自分が立っていたホテルの廊下だった。凛花が真白の腕を掴み、次の瞬間には真白が床へ崩れ落ちる。遠くから拡大された映像は滲んでいたが、白いドレスも横顔も、本人だと断定するには十分だった。そこへ、凛花によく似た声が重ねられていた。
『あなたみたいな子が、私の役を取れると思っているの?』
背中から血の気が引き、指先が冷えていく。偽物の音声なのに、映像と重なると、自分が本当に言ったようにしか聞こえない。真白が許しを求める場面だけが残され、凛花が事情を尋ねた声も、撮影者へ向かおうとした動きも削られている。見出しには、目を逸らせない文字が並んでいた。
――国民的女優・白峰凛花、後輩女優への暴行映像流出。
「凛花、何を見ているの。閉じなさい、すぐに!」
耳元から志保の声が響いても、指は動かなかった。再生回数は、画面を更新するたびに跳ね上がっていく。一万を越え、五万へ届き、十万を示しても勢いは落ちない。投稿から十分も経たないうちに、動画の下には数え切れない言葉が連なっていた。
『性格悪そうだと思っていた』
『天音真白がかわいそう』
『十七歳から持ち上げられて勘違いしたんだろ』
『白峰凛花を芸能界から追放しろ』
知らない人間の言葉が、十年分の仕事へ火を放っていく。受賞作も、取材で語った言葉も、現場で積み重ねた時間も、一つの動画の前では何の証明にもならなかった。十七歳の夜に浴びた拍手と同じほど多くの人間が、今度は凛花の名を憎悪と共に叫んでいる。画面に照らされた白いドレスは、祝福の中心にいた女優のものとは思えないほど、冷たく色を失って見えた。
再生回数が二十万を越えた頃、契約見直しを知らせる最初の連絡が事務所へ届いた。志保が電話の向こうで指示を飛ばし、部屋の外では慌ただしい足音が近づいてくる。それでも凛花は助けを呼ぶことも、偽物だと訴えることもできず、増え続ける数字を見つめていた。完璧な角度も選び抜いた言葉も届かない場所で、白峰凛花という名前だけが炎に包まれていく夜を、ただ立ち尽くしたまま見届けるしかなかった。
『灰の鳥』の撮影開始から、一週間が過ぎた。 早朝の撮影現場には、まだすべての出演者が揃っていなかった。 スタッフたちは機材を運び、前日に撮影した場面から変更された小道具を並べている。 凛花は共用の控室で衣装へ着替え、台本を持って撮影場所へ向かっていた。 建物へ入る前に、怒鳴り声が聞こえた。「今さら主演を替えろという話を、受け入れられるわけがないだろう!」 日下部の声だった。 普段から言葉は厳しい。 だが、ここまで感情を露わにする姿は珍しかった。 凛花は足を止めた。 撮影に使う古い建物の一角で、日下部と制作責任者が向かい合っている。 扉は開いたままだった。 周囲にスタッフがいるにもかかわらず、二人とも声を抑えようとしていない。「こちらも、簡単に主演を替えたいと言っているわけではありません」 制作責任者が書類を持ったまま答える。「ですが、新しい出資者候補が見つかったんです。この条件を逃せば、撮影を最後まで続けられる保証がありません」「金なら九鬼の会社が出した」「不足しています」 制作責任者の声も強くなる。「当初の予算なら足りました。ですが、撮影所の変更、警備費用、情報管理、新しいロケ地の使用料。白峰さんへの攻撃に備えるたび、予定になかった費用が増えています」 撮影場所を非公開にしたことで、移動や宿泊の手配も複雑になった。 ロケ地の管理者には、通常以上の警備と秘密保持を求めなければならない。 盗撮を防ぐための人員。 出演者たちを別々に運ぶ車。 撮影データを管理する設備。 凛花を守り、作品を外へ流出させないために、予算は膨らみ続けていた。「九鬼側へ追加出資を求めればいい」「すでに相当額を負担しています。制作費を一社へ依存すれば、今度は九鬼会長が作品へ介入しているという報道を否定できなくなる」「今のところ、あの男は何も口を出していない」「今後もそうだという保証はありません」「それで、新しい出資者の条件は何だ」 日下部の問いに、制作責任者は一度周囲を見た。 凛花と目が合う。 明らかに言いにくそうな表情になった。「続けてください」 凛花は自分から近づいた。「私に関係する話でしょう」 制作責任者は書類を握り直した。「出資の条件は、主演の変更です」 周囲のスタッフの動きが止まる。「白峰さんを降板させ、
『灰の鳥』の撮影が始まってから、凛花はほとんど眠れていなかった。 身体は疲れている。 早朝から現場へ入り、一つの場面を何度も撮り直し、夜には翌日の台本を確認する。 ベッドへ入る頃には、目を開けていることさえ辛い。 それでも、眠りへ落ちることができなかった。 目を閉じると、黒い車へ押し込まれた時の感覚が蘇る。 後ろから口元を塞がれた。 腕を捻り上げられた。 車の座席へ頭から押し込まれ、扉が閉まった。 逃げ道を失った瞬間の音まで、鮮明に聞こえる。 顔へ液体を浴びせられた時の冷たさ。 酸かもしれないと考え、身体が動かなくなった恐怖。 黒い染料に汚された自分の顔。 自宅マンションの壁に書かれていた言葉。 ――人殺し。 ――消えろ。 ――二度と演じるな。 そして、ホテルの廊下で泣いていた天音真白。 凛花から暴力を受けたと訴えた顔。 何もしていない。 そう言い聞かせても、真白の泣き声だけが耳から離れなかった。 誰かが意図的に演じさせたのか。 真白自身が嘘をついているのか。 それとも、凛花の知らないところで本当に何かが起きていたのか。 眠りに落ちても、数十分で目が覚める。 時計を見る。 一時十二分。 一時四十七分。 二時三分。 目覚ましを設定しているにもかかわらず、翌日の撮影へ遅れることが怖かった。 凛花が寝坊すれば、現場へ入る時間が遅れる。 撮影が止まる。 また、白峰凛花が全員へ迷惑をかけたと書かれる。 時計を確認する。 まだ二時を過ぎたばかりだった。 九鬼邸の客室は、静かすぎた。 都心から離れた広大な敷地。 外部の音を遮る厚い壁と窓。 高い塀の外を走る車の音さえ聞こえない。 廊下を歩く使用人も、夜間は足音を立てない。 安全なはずの場所だった。 屋敷の周囲には警備員が配置され、監視カメラがすべての出入口を見張っている。 凛花を拉致した男たちも、色水を浴びせた女も、ここへは近づけない。 それでも凛花には、逃げ道のない箱のように感じられた。 何かが起きても、塀を越えて逃げることはできない。 警備員が守る門は、凛花を外へ出さないための門でもある。 目を閉じようとした時、廊下から小さな物音が聞こえた。 凛花は息を止めた。 布が擦れるような音。 続いて、足音。 近づいてくる。 隣の部
『灰の鳥』の撮影二日目。 撮影場所は、郊外にある古い民家だった。 長く空き家になっており、撮影終了後には取り壊されることが決まっている。 塗装の剥げた木製の門。 雑草に覆われた庭。 雨風で色の変わった外壁。 玄関の引き戸には細かな傷が残り、開けるたびに鈍い音がする。 九年間、誰にも手入れされなかった佐伯梓の実家として、そのまま使われることになっていた。 撮影場所は、出演者と主要スタッフにしか知らされていない。 移動経路も当日の朝まで伏せられていた。 九鬼側の警備員たちは、民家の周囲だけでなく、近くの道路や空き地にも配置されている。 撮影区域の外からカメラを向けている者がいないか、何度も確認が行われた。 それでも、凛花は落ち着かなかった。 昨日、駅で撮影された盗撮映像。 何度も歩き直す姿だけが切り取られ、失敗を繰り返して現場を止める女優として拡散された。 最終的に採用された一回は、世間へ届いていない。 失敗だけが、白峰凛花の現在として見られている。「準備できたか」 日下部の声が飛ぶ。「はい」 凛花は梓の衣装をまとい、玄関前へ立った。 この日、最初に撮影するのは、梓が亡くなった母親の家へ入る場面だった。 九年ぶりに戻った実家。 母親の葬儀には間に合わなかった。 家の中には、遺品を整理する者もいない。 梓は一人で玄関を開け、自分を最後まで信じなかった母親の残したものと向き合う。 撮影前に、日下部から動きを指定されている。 引き戸を開ける。 家の中を見る。 一歩入り、靴を脱ぐ。 廊下へ上がり、台所の手前で止まる。 床には、俳優の立ち位置を示す小さな目印が貼られていた。 カメラの画角と照明、焦点を合わせるために必要な印だった。 一度で成功させなければならない。 凛花はそう考えていた。 また撮り直しが増えれば、誰かに映像を盗まれるかもしれない。 撮影場所を隠しても、スタッフの中に情報を流している人間がいないとは限らない。 失敗する姿を見せなければ、切り取られることもない。「本番!」 助監督の声が響く。 カメラが回り始めた。 凛花は引き戸へ手をかける。 建てつけの悪い戸を、指定された速度で開ける。 家の中へ視線を向ける。 一歩入る。 靴を脱ぐ。 廊下へ上がる。 床の小さな目印を踏み、
映画『灰の鳥』の撮影初日。 凛花が九鬼邸を出た時、空はまだ暗かった。 正門の前には、複数の黒い車が並んでいる。 先日の襲撃を受け、警備は倍に増やされていた。凛花の乗る車を前後から挟むように警護車両が走り、撮影機材を運搬する車とは別の経路で現場へ向かう。 目的地は、都心から離れた郊外の町だった。 古い木造住宅や個人商店が残り、中心部から外れた場所には小さな駅がある。 改装を重ねながら使われてきた駅舎には、何十年も前の面影が残っていた。 錆びた鉄柱。 塗装の剥がれた木製ベンチ。 低いホーム。 地方の小さな町を舞台とする『灰の鳥』には、よく似合う場所だった。 凛花が車を降りると、先に到着していたスタッフたちが一斉に振り返った。 車から次々と警備員が降りてくる。 黒いスーツを着た男たちは、駅の入口、ホームへ続く通路、撮影区域の外側へ分かれた。 スタッフの会話が小さくなる。「こんなに必要なんですか」 制作進行が蓮司へ尋ねた。「先日の件を受けて、警備体制を変更しました」「撮影中、一般の利用者も通ります。あまり目立つと、かえって混乱するかもしれません」「一般の方への対応は、こちらで行います」「でも……」「カメラの視界に入らなければ、何人連れてきても構わない」 日下部が会話を遮った。 現場用の上着を着て、すでにホームの状態を確認している。「照明と機材の邪魔だけはするな。画面に黒服が一人でも映ったら撮り直しだ」「承知しています」 蓮司は警備責任者へ短く指示を出した。 男たちはさらに距離を取り、目立たない位置へ移動する。「白峰、衣装へ着替えろ」「はい」 駅舎の一室が、女性出演者用の共用控室として用意されていた。 凛花は梓の衣装へ着替える。 色褪せたシャツ。 使い込まれた上着。 黒いパンツ。 九年間の生活が染み込んだように加工された旅行鞄。 化粧はカメラテストの時と同じく、ほとんど施されない。 腕に残る痣も隠さなかった。「顔に残っていた染料は、もう分かりませんね」 メイク担当者が生え際を確認する。「耳の後ろには、まだ少し残っています」「この角度なら映らないと思います。日下部監督へ確認しますか」「そのままでいい」 背後から日下部の声が飛ぶ。「今日は正面と横顔が中心だ。見えたなら見えたで使う」 日下