オルメタの檻~血染めのウエディング・アイル~

オルメタの檻~血染めのウエディング・アイル~

last updateHuling Na-update : 2026-05-10
By:  MisaOngoing
Language: Japanese
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借金の形にマフィア・ボナンザのボスであるロレンゾに嫁ぐ事となったリリーは、今まさに誓いの言葉を述べようとしたその時、新興武装勢力テスタ・ネーラのボス、ダンテの襲撃を受け、目の前でロレンゾを殺され、囚われの身となる。「お前の父親が俺から奪ったものを、これからお前に返してもらう」と語るダンテの本当の目的はなんなのか? 新たに引き起こされるイタリアン・マフィアたちの抗争で、リリーの家に隠された秘密が暴かれていく。

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Kabanata 1

第1話:血塗られたウエディング

葬儀の参列者を見送った頃には、すでに夜10時を回っていた。

重い足取りで家へ戻った若葉凛(わかば りん)は、玄関に置かれた一足の靴を見て足を止める。

7日間、連絡ひとつなかった夫――桐生真也(きりゅう しんや)が帰ってきていたのだ。

父が亡くなってからの3日間、凛は真也に50回近く電話をかけた。けれど、折り返しの一本もなかった。

病院から葬儀場へ、そして最後の別れの日まで。親しい人たちの助けがなければ、自分はきっと途中で倒れていたのだろう。

今も凛の体には、お葬式に漂っていた線香の香りが残っている。それは、家の中に満ちた冷たい杉の香りとは、あまりにも違っていた。

疲れ切った顔のままバッグを靴箱の上に置き、凛は静かにスリッパへ履き替える。

リビングでは、真也が窓辺に寄りかかりながら電話をしている。

廊下に立った凛は、ただ黙って彼を見つめる。

低く落ち着いた声。口元にはかすかな笑み。

その姿を見た瞬間、凛の唇に苦い笑みが浮かんだ。

――ああ、電話は繋がるんだ。

壊れたのか、失くしたのかと思っていた。

凛はもう限界まで疲れ果てていた。会話するどころか、なぜ連絡を絶ったのか尋ねる気力もない。

……もう、どうでもいいんだ。

そもそも真也と結婚した理由は、彼が持つ医療の力を頼るためだった。けれど、父を失った今となっては、それすらももう意味を持たない。

形だけのこの結婚生活も、ようやく終わりを迎える。

今の凛が望むことはただひとつ――シャワーを浴びて、何も考えずに眠りたい。

そう思って階段へ向かい、3段目に足をかけた時だった。

背後から、低い声が落ちてくる。

「今日はずいぶん遅かったな。どこに行ってた?」

責めるような響きがあった。

凛は昔から几帳面で、人付き合いも好まなかった。仕事が終われば寄り道もせず、まっすぐ家へ帰る。毎日、夫と献立のことだけを考えて過ごしてきた。

父が入院してからも、真也が仕事から戻る前にはすべてを済ませていた。

玄関にはいつも綺麗に揃えられたスリッパ。クローゼットには、丁寧にアイロンをかけられたシャツ。毎晩9時までに、書斎のテーブルには焚かれたお香とちょうどいい温度に冷ました紅茶。

そのすべては、父を救うための工夫だった。

しかし、結果はどこまでも残酷だった。

本来、父の手術のために来てくれる脳外科の名医は、真也の判断で急遽海外へ派遣された。

父の容体が急に悪化したわけではなく、ずっと危険だった。それでも真也は、凛に何ひとつ相談することなく、海外での手術を優先した。

真也の声に凛は足を止めた。けれど、振り返ることはなかった。

背後から足音が近づく。

次の瞬間、大きな影が彼女を追い越し、階段の前に立ちはだかった。

「海外での手術は無事に終わった。もうすぐ加藤教授がこっちへ戻ってくる。お義父さんの手術もすぐ手配するよ」

両脇にだらりと下げていた凛の手が、強く握り込まれる。眉間に刻まれた悲しみは、暗がりの中に溶けていた。

「手術は……もう、必要ない」

声には、何の感情も滲んでいなかった。

真也は眉をひそめる。電話に出なかったことを、まだ怒っているのだと思った。だから、少し声を和らげる。

「この数日、俺は伊織のそばにいたんだ。伊織のお父さんの手術があって、彼女もかなり不安がっていた」

伊織というのは、木下伊織(きのした いおり)のことで、桐生家と古くから付き合いのある木下家の次女だ。

随分と都合のいい理由だと凛は思った。視線を落とし、胸の奥に冷たいものが広がっていく。

もし自分がいなければ、伊織はきっと、堂々と彼の隣に立っていたのだろう。

伊織を安心させるためなら、7日間何の連絡もなく消えることすら許される。

「……そう」凛は力なく返した。そして真也の横を通り過ぎ、階段を上ろうとする。

しかし、真也はそれを許さなかった。

凛の肩をそっと抱き寄せる。「何を拗ねてるんだ?用事が片付いたら、こうしてすぐ戻ってきたんだろう?」

――すぐ戻ってきた。

その言葉だけが、妙に耳に残った。

凛は静かに問い返す。「じゃあ……私は『ありがとう』って言うべきなの?」

伊織と7日間も一緒に過ごしたあと、ようやく自分のことを思い出したように戻ってきてくれたことに感謝し、「よく帰ってきてくれた」とでも言えばいいのだろうか。

真也の眉間には苛立ちが浮かぶ。「今日は一体どうしたんだ?嫌味ばかり言って……電話に出なかった理由ならもう説明しただろ、まだ意地を張るつもりか?」

意地?

その言葉を聞いた瞬間、凛は、思わず笑いそうになった。

父が亡くなったこと。それに続く葬儀や後片付け。たくさんの出来事があったというのに――彼は何も知らなかった。

何より、父が入院していた病院は桐生グループの傘下にある。

たとえ真也との結婚は秘密だとしても、真也本人が父の死を知らなかったとしても、会社の雑務を毎日処理している彼の秘書は?

きっと秘書ですら思ったのだろう。

――凛のことなど、真也を煩わせるほどのことではない、と。

凛はゆっくりと顔を上げ、目の前にいる真也を見つめた。その瞬間、すべてが無意味に思えた。

薄い唇をわずかに開き、風に溶けるような声で告げる。「真也……私たち、離婚しましょう」

もう限界だった。

夫がいるのに、まるでひとりで生きているような結婚生活にも。

毎日、たった一人の男のために自分をすり減らしていく日々にも。

彼に愛されるため、認めてもらうために、本当の自分を押し殺してきたことにも。

真也は一瞬、言葉の意味を理解できないように目を見開いた。そして、深い湖の底のような瞳で凛を見つめる。

「……俺が電話に出なかったからか?」

凛は目を伏せる。瞳の奥に残っていた最後の光を隠すように。「そうだよ。あなたが電話に出なかったから」

本当の理由を説明しても意味がない。言い争う気力すら、もう残っていなかった。

凛は真也を押しのけ、そのまま階段を上っていく。

「凛。俺と離婚したら、この先どうやって暮らすつもりなんだ?お義父さんの高額な治療費を、お前ひとりで払えるのか?」

階段の踊り場で、凛の足が止まる。

真也は両手をポケットに入れたまま、細めた目で彼女を見ていた。「今の言葉は、聞かなかったことにする。もう休め」

辺りは薄暗くても、凛には、真也の目に浮かんだ感情がはっきり見えた。

――軽蔑だ。

上に立つ者が、下の者へ向ける冷たい軽蔑。

その時、真也のスマホが再び鳴った。画面を確認した彼は電話に出ることはなく、画面を暗くした。

そして静かに階段を下りていく。

凛は爪が掌に食い込むほど強く手を握りしめた。遠ざかっていく背中を見つめながら、喉の奥につかえたものを必死に飲み込む。

「離婚届と離婚協議書は、できるだけ早く作るよ。できたら、あなたの会社へ郵送する」

その言葉を聞いた瞬間、真也の足が、ほんの一瞬だけ止まった。けれどすぐには、何事もなかったように歩き出す。

玄関から、扉が閉まる音が響いた。

リビングが静まり返り、やがて車のエンジン音が聞こえ、それも少しずつ遠ざかっていく。

凛の身体から力が抜けた。その場に崩れるように座り込む。

床の冷たさが肌に伝わるが、胸の奥に広がる痛みに比べれば、なんともないように思えた。

その時、スマホが震えた。画面を見ると、親友の田辺明穂(たなべ あきほ)からだった。

海外にいる明穂は、父の葬儀には参列しなかったが、凛ひとりにすべてを背負わせないよう、人を手配して葬儀の準備などを手伝ってくれていた。

「凛ちゃん、手配は済ませたよ。いつ離婚を切り出すの?」

凛は震える指先を見つめ、少し間を置いて答えた。「……もう言った」

広い邸宅を見渡す。

この家にあるすべての家具や飾り物。そのひとつひとつを、3年の間何度も磨いてきた。

真也は静かな環境を好むため、凛は住み込みの使用人を辞めさせた。定期的に掃除業者が来る以外、家事はすべて自分でしてきた。

ここは自分の家だと、自分の居場所だと信じたこともあった。けれど今、ここはまるで初めて見る空間のようで、温もりなどまったく感じられなかった。

結局、自業自得なのかもしれない。自分でさえ自分を見下してるのに、他人が自分を大切にしてくれるはずもない。

「……え?もう言ったの?」スマホの向こうで、明穂の声がわずかに揺れる。「じゃあ……桐生さんは、同意してくれた?」

凛は淡々と答えた。「彼の意見は関係ない」

その言葉を聞いた明穂は、それ以上何も言わなかった。凛がこの3年間、どれほど自分を押し殺してきたか、ずっと見てきたからだ。今回、彼女の父親が亡くなったのに、真也が電話すら出なかった件は、どう考えても許されることではない。

離婚には、心から賛成だった。

ただ――

明穂には、ひとつだけ引っかかることがあった。真也が、そう簡単に凛を手放すとは思えない。彼にとって離婚は、デメリットしかない選択だから。

「離婚を切り出したのなら、まず家を出ないとね。北青山の家、鍵は凛ちゃんが持ってるよね?引っ越す日が決まったら教えて。業者を手配するから」

凛の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。なぜか、鼻の奥が少しだけ熱くなった。「ありがとう、明穂」

明穂は小さく笑う。「お礼はいらないよ。いい?私がいる限り、凛ちゃんにはいつでも戻れる場所があるから」

そして小さく息をついて、静かに言葉を続けた。

「自分を大切にしてくれない相手に囚われちゃ駄目。誰かのために、あなたが持っている誇りや輝きを捨てる必要なんてないんだから」

温かい涙が、床へ落ちる。凛は小さく頷いた。「……うん」

「そうだ……言い忘れてた」明穂がふと思い出したように続けた。「陸さんが帰国したみたい」

その名前を聞いた瞬間、凛がスマホを強く握り締めた。瞳の奥に、言葉に表せない感情が静かに浮かぶ。

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第1話:血塗られたウエディング
シルクをふんだんに使った天使の衣のような純白のウエディング・ドレスは、私にとって死装束と同じだった。聖ロザリア大聖堂の高い天井から降り注ぐ光は、残酷なほどに美しい。だけど私の手を取る男――ロレンゾ――の指先は爬虫類の硬質な皮のようにざらつき、冷たく、どこか湿っていた。「リリー、笑え。さあ、笑えよ。お前の父親が作った借金は、この結婚で帳消しになるんだからな。くくくく……」ロレンゾが嘲笑を含んだ耳障りで汚らわしい声を、私の耳に注ぎ込んでいく。「今夜から三日間は寝かせやしないさ。俺無しじゃ生きられない身体に躾けてやる。娼婦のように悶え続ける女にな。ヒヒヒヒヒ……」「………」下卑た言葉がどんどんとつづられていく。だが、どれほど耳障りで汚らわしかろうと、私にはその汚された耳をぬぐうことが許されなかった。彼の言葉通り、この結婚で一族に科せられた莫大な借金が帳消しとなる。私は今日、家門を救うための「生贄」として、この男に売られた。彼は父を裏切り、我が家を没落させた成金のマフィアだった。騙されていたと言っても、証文もあり、借用書も存在している。まともに働いたとしても、借金の返済に何百年かかるかわからないし、当然、一族の臓器を売っても足りる金額じゃない。私は精一杯の反抗として、無表情を保とうと努めた。式を進める司祭の声が遠くから聞こえる。 「……汝、この男を夫とし、病める時も健やかなる時も――」司祭が言葉を紡げば紡ぐほど、私の魂が死んでいく音が心の中で響いていく。「――誓いますか?」私の魂を殺す、最後の言葉。この誓いが、私を永遠の檻に幽閉する契約の言葉となる……。 「……はい。誓い――」その時だった。重厚な大聖堂の扉が、凄まじい衝撃と轟音と共に吹き飛んだ。参列者の悲鳴が渦巻き、ステンドグラスの破片がダイヤモンドの雨のように降り注ぐ。薄れゆく爆煙の中、砕け散ったガラスの破片が煌めくウエディング・アイルを、一人の男がゆっくりと歩いてくるのが見えた。漆黒のオーダーメイド・スーツ。彫刻のように整った、しかし氷のように冷徹な顔立ち。その手には、男の眼差しと同じくらい冷たく黒い光を放つ細身のチェコ製自動拳銃が握られている。「き、貴様は……ダンテ!」その男が誰か分かったのだろう。ひきつった声を漏らしたロレンゾの顔から血の気
Magbasa pa
第2話:黄金の鎖と最初の晩餐
「う、うん……」意識に霞がかかったように、視界がぼやけていた。ゆっくりと意識が戻ってくると、今度は割れるような頭痛がこめかみを突き、思考の断片をかき乱す。「くっ……。ここは……」見知らぬ暗い天蓋に覆われたベッドに調度品のおかれた部屋。ゆっくりと辺りを見回すと、天蓋から滴り落ちるように垂れ下がる最高級の絹の飾りが、柔らかな陰影を描き出している。部屋の隅々には、かつてヴァレンティーノ家が没落の道を辿る前ですら目にしたことがないほど、贅の限りを尽くしたアンティークの調度品が整然と並んでいた。寝かされていたベッドのシーツも肌触りがよく、清潔さが感じられた。落ち着いた大人の部屋……と言ったらいいんだろうか?ただ、鉛のような重苦しい沈黙が部屋のすべてを支配しており、せっかくの調度品が醸し出す雰囲気のすべてを台無しにしている気がしてならない。頭痛を堪えながら上半身を起こすと、ふわりと鼻腔をくすぐったのは、高貴な白檀と古い紙が混ざり合った、静謐でいてどこか威圧的な香りだった。そうした中で一番異質なものは、私の身体から微かに漂う赤錆びた鉄の匂い。血の匂いだ……。それだけで、あの大聖堂での惨劇が現実だったと思い起こさせる。「……夢では、なかったのね」心を落ち着かせるために漏らした声は掠れていた。さらに身体を動かそうとした瞬間、右の足首に覚えのない不快な重みと耳障りな金属音を感じた。引きずられるような違和感に、私は頭痛を忘れ、震える手で掛け布団を跳ね除けた。その刹那、視界に飛び込んできたのは、私の細い足首を無慈悲に締め付ける、鈍く光る黄金の足枷とそれをつなぐ鉄の鎖だった。昨日までの私を縛っていたのは、一族を救うための「生贄」という目に見えない契約の鎖だった。だが、今この肌を蝕んでいるのは、冷たく硬質な、物理的な支配の象徴の鉄の鎖だ。鎖の端は大理石の床を蛇のように這い、光の届かない部屋の奥深くに吸い込まれていた。ただ、どこかに繋がれて固定されていることくらい想像がつく。指先でその冷徹な金属に触れると、指から伝わる温度の低さが、これが決して覚めることのない悪夢であることを冷酷に突きつけてきた。全身から血の気が引いていくのが分かる。「そうだ……私は、ダンテに囚われたんだ……」ダンテは「お前は今日から、俺の檻の中で過ごすんだ。一生、出られない檻の中で」
Magbasa pa
第3話:血の制裁
翌日、目覚めた時から、ヴィラ・ディ・カリゴラの空気は静かな嵐の到来を予感させるような、肌を刺す緊張感に包まれていた。――いったいなにが……?そう思ったものの質問しようにもダンテは朝から姿を見せず、質問してもなにひとつ応えない人形のようなメイドしかおらず、私は訝しんだ気持ちのまま時を過ごしていた。黄昏時、私の部屋に数人の無言のメイドたちが現れ、続いてダンテが姿をみせた。彼は昨日とは趣を変え、完璧に着こなしたスリーピースのタキシードを纏っている。その佇まいは、血塗られたマフィアのボスというよりは、むしろ領地を統べる冷徹な貴公子のようだった。「着替えさせろ。そうだな……足枷を残したまま鎖は外してやれ。客人の目に触れぬよう、足枷は完璧に隠すことを忘れるな」ダンテが拒絶を許さない口調で命令を下すと、メイドたちが一斉に私を取り囲み、機械的な手つきで身支度を始めた。私の自由を奪っている鎖は外されたものの、右足首に嵌められた黄金の足枷から解放されることはなかった。それは長い絹のストッキングと、幾重にも重なるドレスの裾の暗がりに、冷たく潜まされた。これじゃ、はしたなくスカートをたくし上げでもしない限り、足枷の存在が他人に知られることはないだろう。彼が私に宛がったのは、昨日の純白とはあまりに対照的な、鮮烈な緋色のドレス――ヴェスティート・ロッソだった。鏡の中に映る私は、自らの鮮血で全身を染め上げたかのような、痛々しくも妖艶な姿をしていた。「……似合っているな」返事をする代わりに私は鏡越しにダンテを射抜くように睨んだけど、彼は気にした様子もなく、私にゆっくりと近づき、背後から私の髪を掬い上げた。そのひんやりとした指先が、剥き出しになった首筋に触れる。革手袋越しではない、彼の素肌の指先の冷たさが伝わってくる。だが、その瞬間に私の心臓を跳ねさせたのは、恐怖だけではなかった。至近距離になった彼の身体から、昨日感じた白檀の香りの奥に、微かに別の芳香を感じ取った。それは、爽やかで、けれどどこか胸を締め付けてくる懐かしさを感じる香り。そう、柑橘系の香りだ。どこかで嗅いだことのある香り……。私の記憶の奥底にある香りだった。だが、なぜそんな古い記憶とダンテがつながるのか?彼の手首についた傷痕……。そして、この微かな柑橘系の香り……。私は過去に、ダンテに会っている。
Magbasa pa
第4話:戦利品の披露会
薄暗い回廊――ヴィラ・ディ・カリゴラを貫く長い回廊は、重く冷たい沈黙に支配されていた。壁に飾られた数々の絵画の中の人々の視線が私に向けられ、地獄へ足を踏み入れたこの身を冷笑しているように思える。足首はアンクレットとは思えない太さの黄金の足枷が、歩を進めるごとにその重い存在感を伝えてきていた。ダンテの命令により鎖こそ外されてはいるものの、右足首を締め付ける黄金の足枷は、私の皮膚にその支配の証を深く刻み込んでいる。絹のストッキングと、鮮烈な緋色のドレス『ヴェスティート・ロッソ』の豊かな裾に隠されたソレは、歩くたびに私の自由を否定する魂の鎖の残響を脳裏に響かせる。「……怯えることはない、リリー」耳元にかけられた突き刺さるような低い声が、私のうなじを震わせた。ダンテは私の腰を抱き寄せて支えるようにして歩き、その体温で私を外界の空気から遮断していた。彼の掌からは、先ほどモニター越しに一人の老人の命を無慈悲に奪い去ったばかりとは思えないほどの熱が伝わってくる。私は応えず、ただ前方に見える重厚な黒檀の扉を見つめていた。唇を噛み締めると、まだそこにはあのスープの忌まわしくも安らぐような後味が微かに残っていた。扉の両脇に立つ、彫刻のように動かない守衛たちが、主の到来を察して両開きの扉を押し開いた。回廊とは打って変わって、眩しい光に包まれた華やかな世界。そこは『サラ・ディ・バンケット』――テスタ・ネーラの宴を司る広間だった。 視界に飛び込んできたのは、無数のクリスタル・シャンデリアが放つ暴力的なまでの光の礫と、それに照らし出された数十人の男たちの、こちらを値踏みし、射貫くような視線の嵐。テスタ・ネーラの有力者たちが、長く重厚な長方形のテーブルの左右に座していた。広間に充満しているのは、高価な葉巻の葉が焼ける匂いと、熟成されたワインの芳香。そして、その奥に潜む、暴力に慣れきった者たちが放つ特有の血生臭さだ。私たちが足を踏み入れた瞬間、それまで場を騒がせていた談笑は凍り付いたように静まり、ひりつく緊張感が室内を支配した。「諸君、待たせてしまって申し訳ない」ダンテの声が広間の静寂を破った。大して大きくもない声だったのに、その声は部屋の隅々まで響き渡ったのか、部屋の端々に立つ護衛の者たちは、緊張して身を引き締めた様子だった。彼は私を連れたまま、カポターヴォラと呼ば
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第5話:茨の舞踏会
喉の奥を焼くようなワインの残糖感と、それ以上に重苦しい屈辱が、私の胃の腑を冷たく満たしていた。『サラ・ディ・バンケット』に集った『テスタ・ネーラ』の男たちの視線は、もはや私を人間として扱ってはいなかった 。彼らの目に映っているのは、ボスの膝上に鎮座する美しい剥製――あるいは、かつての支配者階級であるヴァレンティーノ家の誇りを、徹底的に踏みにじった末の「戦利品」である。「……リリー。その顔を上げろ。お前は今、この街で最も力を持つ男の隣にいるのだ。それとも、まだあの無能なロレンゾの亡霊に抱かれている方が良かったか?」ダンテの低く、毒気を含んだ声が耳元で鳴った。彼の繊細だけど冷たい指先が、私の細い首筋をなぞる。先ほどまで老人の命を奪う合図を送っていたその指先は、今はまるで愛おしい宝物に触れるかのような繊細さを含んでいる。その不気味なほどの二面性が、私の中に消えない悪寒を走らせる。広間に流れる音楽が、重厚な弦楽器の旋律へと変化した。それは、死を悼むためのレクイエムのようでもあり、これから始まる残酷な儀式への序曲のようでもあった。ダンテは、私を膝から下ろし、ゆっくりと立ち上がった。漆黒のタキシードに身を包んだ優雅な立ち姿は、この血生臭いヴィラの支配者として完璧な威厳を放っている。彼は私に向かって、静かに、しかし拒絶を許さない所作で手を差し伸べた。「さあ、踊るぞ」「……この姿で? あなたに繋がれたまま?」私が緋色のドレスの裾を震える指で掴むと、その隙間から黄金の足枷が微かに輝いた。鎖は外されているとはいえ、足首を締め付けるその冷たい輪の重みは、私が彼の所有物であることを一刻たりとも忘れさせてはくれない。「そうだ。その鎖の重みこそが、お前の新しいアイデンティティだ。テスタ・ネーラの女王として、その重みを誇らしく引きずりながら歩け」抗う余地など微塵もなかった。私は彼の手を取り、広間の中央へと引き出された。数十人の手下たちの視線が、私たちの所作のひとつひとつを射抜くように追ってくる。彼らにとって、このダンスは単なる余興ではない。ボスの権力がいかに盤石であり、かつての敵対者の娘がいかに無力であるかを確認するための検分なのだ。ダンテの右手が私の腰に回り、強く引き寄せられた。密着した彼の身体からは、洗練された白檀の香りと共に、再びあの記憶を揺さぶる柑橘の香りが漂
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第6話:禁断の扉
ヴィラ・ディ・カリゴラの夜は、深い海の底のように静まり返っていた。窓から差し込む青白い月光が、部屋の隅々に鋭い陰影を落としている。緋色のドレスを脱ぎ捨て、用意されていた薄手の寝衣を纏った私は、ベッドの上で膝を抱えて座り込んでいた。右足首を締め付ける黄金の足枷は、ダンテが手当てを施してくれたおかげで、皮肉にも今は私の肌を優しく保護するように、熱を持った脚を冷やしていた。――いったい……なんなの?ダンテのあの優しさと表情を思い出すたびに、私の心が掻き乱されていく……。パーティでは大勢の前で私を『所有物』として扱い、私の家門を嘲笑い、そして監獄では慈悲を乞う老人の命を無残に奪っていた。その同じ男が、なぜ私の小さな傷に、あのような痛ましい表情を浮かべたのか……。様々な思いが脳裏をよぎり、どんどん頭が冴えていく。こんな状態で、眠りに就けるはずもない。思考が迷宮の中を彷徨い、閉塞感に耐えきれず、私はベッドを抜け出した。動くたびに鉄の鎖が、大理石の床の上でジャラジャラと耳障りな音を立て、重い抵抗を脚に感じさせる。その音は、私がどれほど足掻こうとも、この檻から逃げ出すことはできないという現実を、一音ごとに突きつけてくる。その時、壁の奥から、低く掠れた声が聞こえてきた。 それは、言葉というよりは、苦痛に耐える獣の呻きに近いものだった。――隣の部屋……。バルコニーから覗けないかな?私は息を潜めてバルコニーの掃き出し窓を開け、音のする隣の部屋へと足を進めた。もちろん、鎖が音をたてぬよう、慎重に……。鎖は十分に長く、隣の部屋との境界近くまで辿り着くことができた。その部屋のバルコニーに続く掃き出し窓は、夜の冷えた空気を入れるためなのか、薄く開けられていた。思い切り身体を伸ばして、その窓から室内を覗き込む。そこは、ダンテの私室、あるいは書斎のようだった。室内は明かりこそ灯いていなかったが、窓から差し込む月明かりが、暗い部屋を青白い光で照らしだしていた。隙間から覗いた光景に、私は呼吸を忘れた。そこには、漆黒のシルクシャツのボタンを外したダンテが、古びたソファに身を沈めて横たわっていた。休んでいるのだろうが、その姿はいつものダンテとは違っていた。彼は、冷酷な「死神」の仮面を被っていなかった。額には大粒の汗が浮かび、その美しい顔は、逃れられない悪夢に苛まれて
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第7話:檻と呪いと……
肌を刺すような硬質な冷たさが、うなじから脳へと突き抜けていく。ヴィラ・ディ・カリゴラの夜は、深い海の底のように静まり返っていた。バルコニーから吹き込む風が、薄い夜着を冷たく揺らす。私は窓際の石柱に顔を押し付けられるようにして固定され、背後から放たれるダンテの圧倒的な威圧感に、指先ひとつ動かすことができずにいた。私のうなじに無慈悲に押しつけられているの物は、漆黒の自動拳銃Cz75の銃口。微かな火薬と機械油の匂いが、死の予感をより鮮明なものに変えていく。背後でカチャリと撃鉄を上げる、死を呼ぶ乾いた金属の摩擦音が私の鼓膜を打ってきた。「……お前は、何を見た?」ダンテの声は、深淵の底から響く葬送の鐘のようだった。バルコニーから差し込む青白い月光が、私たちの不気味な影を床に長く伸ばしていく。私の背中に、彼の強靭な肉体の熱が押し当てられ、同時にうなじに突きつけられた銃口が、一瞬の容赦もなく私の生存本能を凍りつかせていた。彼の瞳の奥に揺らめくのは、数えきれないほどの命を奪い、血の海を渡ってきた者だけが宿す、底なしの虚無と狂気だった。――答えなければ殺される……。私は震える唇を必死に動かし、掠れた声を絞り出した。「み……見たわ……。あの銀のトレイの上にあったもの。私の母の形見のペンダントよ!」一度声が出てしまえば、あとは留まることなく言葉がこぼれ出た。「なぜ、あなたがあのペンダントを持っているの!? あれは、あの雨の日に奪われたものなのに!」その瞬間、うなじに押し当てられていた銃口がの圧が緩んだのを私は感じ取った。背後にいるダンテの呼吸が一瞬だけ止まり、自らが聖域のように守り抜いてきた過去を侵されたことへの怒りと、決して暴かれてはならない秘密を晒されたことへの恐怖で、その強靭な精神がほころびを生じさせているようだった。「……お前は……それを……」「ええ、憶えているわ! 忘れることはなかった! あの雨の記憶を……」私は彼の右手首に刻まれた、あの三日月形の傷痕を思い浮かべながら言葉を続けた。その傷痕は、かつて名も知らぬ少年を救おうとした私の未熟な善意が刻みつけた消えない刻印だった。「あなたが……あの時の少年なの? 私が父に内緒で助け、温かなスープを飲ませたあの子なら、なぜ私にこんな仕打ちをするの!?」背後から、ダンテの激しい動揺が伝わってくる。彼
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